Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

川瀬賢太郎/日本フィル

2020年11月29日 | 音楽
 日本フィルの11月の横浜定期は、当初はインキネンが振る予定だったが、来日できなかったので、川瀬賢太郎が代役に立った。プログラムも一部変更になり、オール・ベートーヴェン・プロになった。その選曲がわたし好みの曲ばかりで、ひじょうに楽しみなプログラムになった。

 1曲目は序曲「レオノーレ」第3番。冒頭の和音の一撃からして、川瀬賢太郎の思いのこもった重々しい強烈な音が響いた。続く部分のどこをとっても川瀬の意思が徹底されていた。だが、残念ながらオーケストラが硬かった。もっとほぐれた余裕のある演奏がほしかった。少なくともこの曲にかんしては、川瀬の意図をくむだけで精一杯だったようだ。

 2曲目は交響曲第8番。オーケストラには1曲目のこわばった表情がとれて、みずみずしい音色がよみがえった。川瀬の意図はこの曲でも明瞭で、バネのようにしなやかな腕と膝から、目の覚めるようなヴィヴィッドな音楽が生まれた。1曲目で不安定だったホルンも、この曲では安定した。

 以上がプログラム前半で、後半はヴァイオリン協奏曲。ソリストは、当初はピンカス・ズーカーマンが予定されていたが、竹澤恭子に変わった。その竹澤恭子が、いまでは大家というにふさわしい、どっしりとした、集中力の途切れない演奏を聴かせた。とくに第2楽章の後半は、テンポをかなり落として、集中力のぎりぎりのところまでいったが、そこでも緊張の糸が切れなかった。

 川瀬賢太郎もその竹澤にぴったりつけた。川瀬は1曲目と2曲目では鋭角的なリズムで尖った演奏を繰り広げたが、この曲では竹澤の滑らか演奏に合わせて、リズムの角をとり、ゆったりと穏やかな演奏で竹澤を支えた。

 プログラムはこれで終わりだが、竹澤恭子のアンコールがあった。バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番からサラバンド。これもすばらしい演奏だった。清潔で正確なバッハだ。わたしはヨーロッパのどこかで(たとえば古城の一室で)聴いているような感覚になった。

 全体を通して、川瀬賢太郎が自分の音楽をやっていることが強く印象づけられた。自分の感性に正直な音楽だ。川瀬は1984年生まれ。山田和樹(1979‐)、鈴木優人(1981‐)、原田慶太楼(1985‐)と同世代だ。下野竜也(1969‐)からはひとつ下の世代にあたるこれらの才能が、今後思う存分自分の音楽を展開するよう願ってやまない。コロナ禍がこれらの才能にスポットライトを浴びせたなら、それは思いがけない僥倖だ。
(2020.11.28.横浜みなとみらいホール)
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藤倉大「アルマゲドンの夢」(2)

2020年11月24日 | 音楽
 オペラ「アルマゲドンの夢」は初日を観て、その感想を書いたが、最終日も観たので、いくつか補足的な感想を書いておきたい。このオペラが世界に通用するオペラであることは、初日に感じたとおりだが、もうひとつ感じたことは、歌手、オーケストラ、演出その他の制作面で、今回の公演は、かりに世界のどこかで初演されたとしても、これ以上の公演は期待できないと思われる水準だったことだ。

 まず歌手だが、ポピュリズムの席巻にたいして、なにも行動を起こさないクーパー(それはわたしたち自身の似姿だ)を歌ったピーター・タンジッツは、初日同様、最終日でも役柄を深く掘り下げて歌っていた。そのクーパーに行動を呼びかける妻のベラを歌ったジェシカ・アゾーディと、人々を扇動するポピュリズム政治家のジョンソンを歌ったセス・カリコは、初日よりも自信をもって歌い演じていた。

 ジョンソンの宣伝相ともいうべきインスペクターを歌った加納悦子と、ダンスホールの歌手と冷笑者の二役(本公演では同一人物と解釈されている)を歌った望月哲也は、初日同様しっかりした歌唱だった。またジョンソンに扇動される人々などを歌う合唱は、音楽的にはもちろんのこと、演技の面でも見事に統制がとれていた。

 大野和士指揮の東京フィルは、新国立劇場では珍しいほどに熱気のこもった、しなやかで、多彩な演奏を繰り広げた。そのオーケストラ演奏は、歌手や合唱と同様に、世界のどこに出しても引けを取らないものだった。

 演出のリディア・シュタイアー率いる制作スタッフは、曖昧さのない徹底した解釈と、巨大な鏡と映像を駆使した(深層心理や外部社会の出来事などを映す)表現、さらにはスピーディな場面転換など、数え上げればきりがない美点を備え、舞台全体を生気に満ちた美しさで彩った。

 わたしは初日の感想で、冷笑者が「柳の歌」(ヴェルディの「オテロ」と同じ古謡)を歌いながらベラとクーパーに絡む場面で「冗長さ」を感じたと書いたが、あれはわたしの聴き方がまちがっていた。あの場面では、冷笑者がベラに届けたベラの「母」からの手紙(それは反体制組織からの手紙だ)をめぐるベラとクーパーのやりとりを聴くべきであり、冷笑者の「柳の歌」は背景に流れるBGMのようなものだということがわかった。

 今回つくづく感じたことは、ジョンソンの演説が、陰謀論に満ちていることだ。人々はそれに熱狂する。H.G.ウェルズの原作は近未来の危機を描いているが、このオペラはいま起きている危機を描く。これはオペラの歴史上稀有な例ではないだろうか。
(2020.11.23.新国立劇場)
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鈴木優人/読響

2020年11月20日 | 音楽
 バロックからコンテンポラリーまで自在に往き来する鈴木優人の面目躍如たるプログラム。1曲目はシャリーノ(1947‐)の「夜の自画像」(1982)。いかにもシャリーノらしい濃密な夜の曲だ。打楽器奏者がスチールプレート(文字通りスチール製の大きな板)を2本の大太鼓のばちで(聴こえるか聴こえないかという最弱音で)ロール打ちを続ける。その微かな音が夜の気配を醸し出す。たまにロール打ちが止まると、無音の世界が生まれる。またロール打ちが始まる。無音の緊張から解放される。――そのような曲を鈴木優人指揮の読響は繊細に演奏した。

 2曲目はシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」。堂々と構築され、弛緩したところのない立派な演奏だったと思うが、あえていえば、肩に力が入っていた。それがわたしを疲れさせた。言い換えれば、もう少し余裕というか、遊びがほしかった。そのなかにあって、第4楽章のダイナミックな演奏には好感をもった。総体的にいえば、指揮者にもオーケストラにも高度な力量が感じられたので、繰り返しになるが、もう一歩その先を求めたかった。

 3曲目はベリオ(1925‐2003)の「レンダリング」(1989‐90)。これは2曲目で感じた不満を解消する名演だった。みずみずしい感性が漲っていた。ベリオが補筆した音型が丁寧に演奏されていた。「レンダリング」はベリオの作品のなかでも人気作のひとつなので、演奏機会も少なくないが、今回の演奏はわたしが聴いたなかではベストだった。

 この作品はシューベルトの未完の交響曲の草稿をベリオが補筆したものだが、わたしはいつも、その草稿がシューベルトの亡くなる年(1828年)に書かれたものという説明に違和感をもっていた。ほんとうにそうだろうか? 1828年というと3曲のピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)や弦楽五重奏曲(D958)が書かれた年だが、それらの作品の深みと、この草稿の一種の気楽さとは、併存したのだろうかと。

 わたしがとくに違和感をもつのは、第1楽章のコーダだ。あのコーダはイタリア・オペラの序曲風ではないだろうか。シューベルトが「イタリア風序曲第1番」と「同第2番」を書いたのは1817年だが、それと似たところがないだろうか。そのような音楽をシューベルトが1828年に書いたとは、ちょっと信じられない気がする。多くの研究者がいうのだから、それはまちがいのない事実だろうが、アイデアはもっと前に生まれていたとか、なにか合理的な説明がつかないだろうかと。

 その疑問は今回も解消されなかった。だからといって、それが「レンダリング」の評価に影響するわけでもないけれど。
(2020.11.19.サントリーホール)
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目黒区美術館「LIFE展」:古茂田守介の作品

2020年11月19日 | 美術
 目黒区美術館で「LIFE コロナ禍を生きる私たちの命と暮らし」展が開かれている。同館の所蔵作品を「コロナ禍を生きる‥」の視点で構成したもの。そこに古茂田守介(こもだ もりすけ)(1918‐1960)の作品が5点展示されている。たいへん感銘を受けたので、二度見にいった。

 同展の特設ページ(※1)に「母子」(1946)の画像が掲載されている。縦91.5㎝×横117.0㎝の横長の画面に若い母親が生まれたばかりの子どもを抱いて寝ている。満ち足りた幸福感が漂う作品だ。敗戦後間もない時期なので、社会は混乱していただろうが、作品にその影はない。そこだけポカッと空いた陽だまりのような空間だ。

 古茂田守介は1944年に涌井美津子と結婚して、1946年に長女の杏子(きょうこ)が生まれた。本作はそのときの作品だ。(※2)

 前述のとおり、同展には古茂田の作品が5点展示されているが、「母子」と同時期の作品に「踊り子達」(1946)がある。バレエ教室の生徒たちを描いたものだ。茶褐色のモノトーン、はっきりした輪郭線、新時代の到来を思わせる明るい空気といった点で、「母子」と共通する作風だ。もっとも、「母子」が水平方向の安定した構図であるのにたいして、「踊り子達」は右下から左上への斜めの構図で、しかも複合視点的な構成をもっている。それは「母子」の静的なモチーフと「踊り子達」の動的なモチーフとのちがいによるのだろう。

 興味深い点は、同展に展示されている「工房」(1949)と「母子」(1953)が前記2点とはかなり異なる作風であることだ。色調は「工房」が緑褐色、「母子」が茶褐色で、いずれも黒ずんでいる。また前記2点が滑らかな絵肌であるのにたいして、「工房」も「母子」もザラッとしている。さらに(これが本質的な点だと思うが)前記2点が明確な輪郭線で描かれているのにたいして、「工房」と「母子」は彫刻のような存在感のある描き方だ。

 古茂田はその後も、持病の喘息で亡くなる1960年まで、裸婦や静物を描きながら、具象画を通した。それは抽象画が全盛の時代にあって、孤高の道だったかもしれないが、いま見ると不思議なほどの生気を感じさせる。

 もうひとつ古茂田作品で驚くべき点は、上記4点がいずれも修復された作品であることだ。古茂田が亡くなって2年後の1962年に、アトリエのストーブが過熱して火災になり、それらの4点をふくむ多数の作品が被災した。それらの作品を目黒区美術館が1990年に収蔵して、1994年にかけて修復作業をした。被災当時の各作品の状態が写真に記録されているので、今回二度目はその写真を見ながら鑑賞したが、わたしには修復の跡はわからなかった。
(2020.11.10&18.目黒区美術館)

(※1)同展の特設ページ

(※2)偶然だが、わたしの妻は子どものころ、近所の教会で杏子様と同じピアノの先生についていた。妻は杏子様より2歳下だが、妻から見ると、杏子様はずいぶんお姉さんに見えたそうだ。妻はお母様の美津子様(守介の奥様)のことも覚えていて、「ベレー帽をかぶっていた」といっている。
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藤倉大「アルマゲドンの夢」

2020年11月16日 | 音楽
 藤倉大の新作オペラ「アルマゲドンの夢」。現代社会の問題(当オペラの場合はポピュリズムの政治家とその政党の台頭)をテーマにするオペラが東京で初めて誕生したという思いが強い。細川俊夫が東日本大震災をテーマにしたオペラ(そのテーマは原発事故ではなく、津波のほうかもしれないが、わたしは未見)をドイツで新作上演したが、日本発という意味では初めてのケースではないだろうか。

 原作はH.G.ウェルズの「世界最終戦争の夢」(原題はA Dream of Armageddon)。それを藤倉大の長年の友人のハリー・ロスが台本化した。藤倉大が「オペラとは原作の翻案なのであって、原作をそのまま舞台化することに僕は興味はありません。それなら本を読めばよいのですから。」と語っているように(プログラムに掲載された「オペラ『アルマゲドンの夢』、無限の可能性を信じて」より)、大胆な脚色が施されている。

 H.G.ウェルズの同作は1901年の作品でありながら、第一次世界大戦および第二次世界大戦の大規模爆撃や、それこそヒトラーの登場を予言しているような作品だが、あえていえば、それらはすでに起こったことだ。では、現時点では同作になにを読むか。ハリー・ロスが読んだのはポピュリズムの台頭だ。その危険性を台本にこめた。芸術作品が現実世界を先取りする例があることは、たとえば岡田暁生の新著「音楽の危機」の第2章でも述べられているが、当オペラがその一例にならないとはかぎらない。

 藤倉大の音楽はいつものように、ソリッドで、シャープで、ガラスのように繊細だ。しかもオペラというジャンルの大衆性を反映してか、平易で娯楽性に富む。約1時間40分の長丁場を飽きさせない。とはいえ(これがオペラ好きの悪い癖だと、自分でも思うが)あえて注文を付けるなら、冷笑者がヒロインのベラに絡む場面で、わたしは冗長さを感じた。ここは心理的に複雑な駆け引きがおこなわれる場面のようだから、わたしがその駆け引きを追えなかったせいかもしれないが。

 ベラは大野和士によれば「ドラマの中心人物となる」(同上)のだが、オペラ全体を通して徹底的に描かれるのは、ベラの恋人のクーパーだ。クーパーは状況にたいして逃避的で無気力だ。一方、ベラは状況の悪化を食い止めようとする。それはベラの出自に深く関係していることが徐々に明らかになる。そんなベラのヒロイズムにたいして、クーパーはいかにも情けない。そこにわたしたち観客は自己を投影する。

 演出のリディア・シュタイアー以下の制作チームは、巨大な鏡と映像とカラフルな色彩を使って、目も覚めるような斬新な舞台をつくった。コロナ禍で弱りきった現代にあって、その舞台は信じられないような体験だった。
(2020.11.15.新国立劇場)
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高関健/東京シティ・フィル

2020年11月14日 | 音楽
 東京シティ・フィルはコロナ禍以前に組んだプログラムを着実にこなしている。その姿が頼もしい。10月定期は高関健の指揮でウィーン・プログラム。ウィーンといっても観光地のウィーンではなく、そこに住んだ作曲家たちの濃い人生が展開されたウィーンだ。

 オーケストラが登場すると、弦楽器奏者だけなので、奇異に感じた。高関健がマイクを持って登場し、去る10月に急逝した楽団員を偲んでバッハの「アリア」を演奏する旨を告げた。演奏が始まると、第1ヴァイオリンのある奏者が演奏できなくなり、じっとなにかに耐えていた。演奏終了後、一度ステージから離れ、すぐに戻ってきた。体調が悪いわけではなく、悲しみをこらえていたようだ。

 1曲目はマーラーの交響曲第10番の第1楽章アダージョ。ヴィオラの導入の後、第1ヴァイオリンで奏される第1主題が、艶やかな音色で、わたしは一瞬にしてマーラーの世界に引きこまれた。その後の長丁場も筋道だった演奏だった。例の後半のすさまじい不協和音の間隙にトランペットで持続されるA音が、ことさら強調されるわけではなく、なにかの反響のように保持された。そうか、これでいいのだ、と思った。

 2曲目はベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。ソプラノ独唱は半田美和子。オペラ「ヴォツェック」と「ルル」のあいだに書かれた曲だが、どちらかというと「ルル」の音楽に近いと思う。軽妙なリズムと、そこから漏れだす濃厚な情緒を、半田美和子はすっかり掌中に収めて歌った。オーケストラも健闘したが、欲をいえば、さらなる自在さと透明感がほしかった。

 当初の予定では「ヴォツェックからの3つの断章」が組まれていたが、高関健のプレトークによれば、同曲はあまりにもオーケストラ編成が巨大なので、密を避けるために、半田美和子とも相談して「ぶどう酒」に替えたとのこと。わたしはたぶん「ぶどう酒」を実演で聴くのは初めてだと思うので、これは歓迎すべき変更だったが、その一方で、半田美和子のマリー(マリーはオペラ「ヴォツェック」の登場人物。「ヴォツェックからの3つの断章」はマリーの独唱部分を中心に編まれている)を聴いてみたかった気がする。半田美和子は演技力もあるので、マリーは当たり役になるのではないかと思う。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第2番。一言でいって、モチベーションの高い快演だった。別の言い方をすれば、コロナ禍にあっても、東京シティ・フィルはモチベーションを下げずにいることが感じられた。その功績は高関健にも帰すだろう。スコアを厳密に読み、その忠実な再現を第一とする姿勢が、オーケストラを支えているのだろう。
(2020.11.13.東京オペラシティ)
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岡田暁生「音楽の危機」

2020年11月10日 | 読書
 本年2月以降のコロナ禍の推移で特徴的なことは、カミュの小説「ペスト」が象徴するように、文学、美術、歴史、その他のさまざまな分野の知見が動員され、いま起きていることの意味が論じられたことだ。わたしはそれらの知見にふれながら、では音楽はどうなのかと思っていた。なぜか音楽の分野からの発信はなかった。そんな折、待望の書というべきか、音楽学者の岡田暁生の新著「音楽の危機」が出た。

 本書は(後述するが、終章をのぞいて)いわゆる緊急事態宣言下にあった4月から5月にかけて執筆された(終章は6月後半に執筆された)。コロナ禍で先行きどうなるかまったく見通しのつかない状態のなかで、心に浮かんだことをそのまま書き留めたものだ。著者はいう、「だが、状況がある程度落ち着いてきたのを見極めてから、それを「客観的に」論じるということを、わたしはやりたくなかった。「後出しジャンケン」はしないでおこうと決めたのである。」(「まえがき」より)と。

 本書は大きく分けて、第1章から第3章までの第1部と、第4章から第6章までの第2部の二部で構成されている。第1部と第2部の間に《間奏》と題された章があり、最後に終章がある(終章は第2部の一部かもしれない)。

 第1部で主に語られることは、生音の消えた世界のこと。生音とはなんだったのか、という点から始めて、生音が消えた意味を考える。そしてトフラーの「第三の波」を参照しつつ、現在地点を考察する。農業革命、産業革命に次いで、いまわたしたちは(トフラーが予言した)第三の波のなかにいる。それをいまの言葉でいえば、高度情報化社会かもしれず、今後のその進展は、音楽にとってなにを意味するか、と。

 間奏では、コロナ禍のもとでの音楽を考える場合に、第一次世界大戦時の音楽が参考になると論じる。具体的な事例を引きながら、音楽がなくなると悲観する必要はないが、一方、音楽の有用性の主張のため、音楽の体制への迎合が懸念される、と。

 第2部で主に語られることは、各時代の時間モデルとしての音楽だ。音楽の終わり方はその時代の時間モデルを体現する、と。バッハは「帰依型」、ハイドンやモーツァルトは「定型型」、ベートーヴェンは「勝利宣言型」、シューベルトやマーラーは「諦念型」、ラヴェルは「サドンデス型」、ミニマル・ミュージックは「ループ型」。そして直近の時間モデル(むしろ社会モデルの観を呈する)として20世紀後半の5つの作品にふれる。

 全体を通して言及されるのはベートーヴェンの「第九」だ。「第九」が有無をいわせぬ傑作であることは十分に認めつつ、「第九」が体現する社会を解明し、いまの社会を体現する音楽を求める。それはとても示唆的だ。
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茂木大輔「交響録~N響で出会った名指揮者たち」

2020年11月07日 | 読書
 N響の元首席オーボエ奏者、茂木大輔の「交響録 N響で出会った名指揮者たち」(音楽之友社)。著者が1990年にN響に入団し、2019年に定年退職するまでに出会った名指揮者たちの思い出を書いたもの。サヴァリッシュ、シュタイン、ブロムシュテット、デユトワ、アシュケナージ、プレヴィン、P.ヤルヴィ等々、そうそうたる顔ぶれが登場する。

 オーケストラの楽員と話をしていると、たいていの場合、指揮者のことをよくいわない。聴衆のほうでは指揮者の話が一番おもしろいので、水を向けるわけだが、最初はいいにくそうに、だが、なにかの拍子にうちとけると、指揮者の悪口が出てくる。それだけ日常的には指揮者からのトレスが大きいのだろうと推察する。

 じつは本書にもそのたぐいの話を期待したのだが、案に相違して、指揮者を敬い、上品な書きぶりで、悪口などは(ごく例外的なケースを除いて)ほとんど出ない。その点では期待外れだったのだが(もちろんそれは聴衆の勝手な言い分だが‥)、その点を飲みこんで、著者の指揮者にたいする敬意をそのまま受け止め、たまに微妙な表現があると、その裏にある著者の指揮者との距離感を想像するとおもしろい。

 例外的なケースだが、ギョッとする話もあった。アダム・フィッシャーがN響を振ったときに、練習中から「色々と楽員と衝突して現場は不穏な雰囲気」になっていて、テレビ放送がない定期2日目に、楽員が示し合わせて、《新世界》の第1楽章のリピートを「すっ飛ばした」そうだ。アダム・フィッシャーは「一瞬ぎょっ!」とした、と。著者はその先では「岩城先生が指揮しているときにN響が意地悪して《運命》を別の調で始めたという伝説が残っている」とも書いている。

 繰り返すが、こういう裏話は例外的で、大半は無難な話だ。それでも本書がおもしろいのは、楽員でなければ書けない話が出てくるから。たとえば今年10月29日に新型コロナウイルスに感染して亡くなったロシアの指揮者アレクサンドル・ヴェデルニコフ(享年56歳)についてはこう書いている。

 「演奏するチャイコフスキーの交響曲第4番が難しいのは、まず、第1楽章の、ホルンの咆哮で開始されるあの恫喝的な序奏の後に来る憂鬱な9/8拍子の部分(Moderato con anima, in movimento di Valse)が、同時に二つのワルツが響くような、どうしようもないほど不安定なリズム、表情を持っていることである。」。デユトワ、アシュケナージをふくめて、「本当に納得のいく解釈には、実は出会っていなかった。」。だが、「ヴェデルニコフはまずこの部分の表情をかなりの時間をかけて厳しく練習し、今まで聴いたことのない、まさにロシア的な憂鬱の音楽を作りだした。初めて、やっと、この曲が分かった気がした。」と。本書執筆の時点ではヴェデルニコフは健在だったわけだが、急逝したいま読むと、追悼文のように読める。
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上原彩子のオール・シューマン・プログラム

2020年11月04日 | 音楽
 上原彩子のオール・シューマン・プログラムを聴きに行った。曲目は「パピヨン」、「クライスレリアーナ」、「謝肉祭」の3曲。上原彩子というとチャイコフスキーをはじめとするロシア物のイメージが強いが、そんな上原がシューマンをどう弾くかと興味がつのった。

 「パピヨン」はあまり印象に残らなかったが、それにしては、一夜明けたいま、その音像がはっきり思い出される。もしかすると昨日は、「さあ、聴くぞ」というわたしの意気込みと、シューマン最初期の(比較的あっさりした)この曲とのミスマッチが起きたのかもしれない。

 2曲目の「クライスレリアーナ」も(わたしには)空転した。音の粒立ちに欠け、ベタッとした音塊に聴こえた。もっとも、それは上原彩子にかぎらず、この曲の実演を聴くといつもそう感じるので、これは演奏の問題というよりも、わたしの問題かもしれない。正直いうと、わたしはこの曲がホロヴィッツの演奏で刷り込まれているので、その印象から逃れられないのかも‥と思う(愚かな聴き手というしかないが)。わたしの憶測だが、ホロヴィッツのあの演奏はレコード制作の過程でお化粧が施されているかもしれず、それを考慮に入れないで聴いていたわたしのナイーヴさの報いかもしれない。

 そんな個人的な事情はさておき、上原彩子の演奏は真摯そのものだったと思う。先ほど「ベタッとした音塊」と書いたが、その表現からくるネガティブな語感はわたしの責任にほかならず、上原彩子の演奏の真実は、シューマンの書いた音の絡み合いから、抑えようもなく外に吹きだそうとする情熱の高まりを表現したものかもしれない。とくに第7曲「非常に速く」はその速度表示どおりの猛烈な速さで弾かれ、わたしは瞠目した。

 3曲目の「謝肉祭」は文句なしの名演に聴こえた。リズムに弾みがあり、ハーモニーに透明感があった。みずみずしい感性が行きわたっていた。「クライスレリアーナ」よりも外向的で演奏効果のあがる曲だが、曲のそのような性格に加えて、上原彩子の演奏の完成度の高さが際立った。最後の第20曲「ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」の勢いには息をのんだ。

 アンコールにシューマンの「献呈」(リスト編曲)と「トロイメライ」が弾かれた。「献呈」はわたしの最愛の曲だが、リスト編曲のこの版は、あまりにもリスト色が出すぎて好きになれない。一方、「トロイメライ」は微妙な緩急の綾からシューマンの(そして上原彩子の)やさしさが立ち昇るような演奏だった。

 当コンサートは休日午後の気楽なコンサートだったが、上原彩子の演奏には手抜きがなく、演奏家としての真摯さが感じられた。
(2020.11.3.ミューザ川崎)
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「スパイの妻」

2020年11月01日 | 映画
 「スパイの妻」は、昭和15年(1940年)、戦火の迫る神戸が舞台だ。福原聡子は貿易商を営む福原優作と幸せな毎日を送っている。優作は満州に出張する。そこで関東軍の機密にふれる。優作はその機密が人道上許せず、(国内は軍国主義一色なので)アメリカで公表しようとする。聡子は幸せな生活を守るために、夫の企てを止めるが、その機密を具体的に知ると、夫への愛を貫くために、夫とともに行動する。

 聡子の印象的な台詞がある。「私は狂ってなんかいません。でも、狂ってないことは、狂ってることなんでしょうね、この国では。」。みんなが狂っているときに、自分も狂っていれば楽だが、自分だけ狂っていないと、孤独に耐えなければならない。非難され、白眼視される。それでも自分の道を歩む人は、その結果起きるすべてのこと(迫害、あるいはそれ以上のこと)を受け入れなければならない。本作はそのような人の物語だ。

 もっとも、本作はヒーローを描いた映画ではない。人物像に人間味がある。また夫婦愛を描いた映画というのも憚られる。優作と聡子は(お互いを守るためだが)トリック合戦をする。そのどんでん返しが本作の骨格だからだ。本作の基本的な性格はサスペンス映画だろう。でも、それにしては時代状況の描き方に迫真性がある。

 聡子の台詞を通して、いくつかの問題提起がある。まず、幸せな生活をとるか、人道上の正義をとるかという問題。その二者択一、あるいは両立をめぐって、優作と聡子の対立があり、それが観客に、自分ならどうすると考えさせる。また、機密を公表することは、日本のファシズムを止めるために、アメリカに参戦を促すことにつながるが、そうなれば多くの日本人が命を失う。目的の正しさと犠牲の大きさとのバランスをどう考えるか、と。だが、考えている暇はない。決断し、行動しなければならない。結果がどうあれ、その責任を引き受けなければならない――本作はそんな状況を描いている。

 本作はベネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した。受賞の背景には(あるいは審査の背景には)、本作の描く状況が、日本はもとより諸外国でもリアリティをもって感じられるからではないか――いまは多くの国がそんな状況だ――と思う。

 監督は黒沢清。二転三転するストーリー(ある破局に突き当たったと思うと、その裏に別のたくらみが隠されている、という展開が連続する)が緊迫感をもって進行する。それは最後の最後まで(なんと映像が終わってからも!)続く。主人公の聡子を演じるのは蒼井優。夫への一途な愛に説得力がある。
(2020.10.27.109シネマズ二子玉川)
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