読売日響の4月定期は、常任指揮者に就任したシルヴァン・カンブルランの就任披露演奏会だった。プログラムは次のとおり。
(1)ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
(2)マーラー:交響曲第10番よりアダージョ
(3)シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」
私は、このプログラムをみたとき、思わず唸ってしまった。なんて渋い‥。ほんらい華やかなはずの就任披露にシェーンベルクをもってくるなんて、なかなかできないことだ。
序曲「コリオラン」は、例の悲壮感あふれる第1主題を細分化して、明確に区切りながらの演奏。おそらく根拠があるのだろうが、どのような根拠だろう。それにしてもやはりカンブルラン、ただの演奏ではない。
マーラーのアダージョは、流れできかせるのではなく、個々の音を吟味する演奏。たとえていうなら、一枚の絵画をその細部にわたって克明にたどり、絵の具の重ね具合や、筆触の使い分けを吟味するような感じ。そのためアンチ・クライマックスの演奏になるのは当然かもしれない。いいかえるなら、文学的なききかたはできない演奏。
シェーンベルクになって、演奏はみちがえるような流動性を帯び、各パートが細かく絡み合って、肌理のこまかいテクスチュアを織り上げた。けっして流れに任せて弾いてしまうことのない演奏。巨大で複雑なスコアのすべての音の意味を、どの楽員も理解しているように感じられる演奏。
驚いたことは、器楽的に発想されている演奏なのに、劇のどの部分をやっているかが、目にみえるようにわかる気がしたこと。それはなぜだろう。まれに道に迷ったように感じる箇所があったが、それはおそらく私が、ドビュッシーのオペラを無意識のうちに思い浮かべていたからだろう。オペラは原作をほぼそのままなぞっているが、カットされた小さい場面もあるので、多分そこをやっていたのだろう――そう思える演奏だった。
カンブルランがこの曲を選んだのは、オーケストラがあまりやり馴れていない曲から始めたかったからではないか。その意味では、今シーズンの企画の「3つの〈ペレアスとメリザンド〉」というコンセプトは、後付かもしれないと思った。
終演後、カンブルランは聴衆に向かって、「私はオーケストラのためにベストを尽くすことをお約束します」と語ってくれた。
(2010.4.26.サントリーホール)
(1)ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
(2)マーラー:交響曲第10番よりアダージョ
(3)シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」
私は、このプログラムをみたとき、思わず唸ってしまった。なんて渋い‥。ほんらい華やかなはずの就任披露にシェーンベルクをもってくるなんて、なかなかできないことだ。
序曲「コリオラン」は、例の悲壮感あふれる第1主題を細分化して、明確に区切りながらの演奏。おそらく根拠があるのだろうが、どのような根拠だろう。それにしてもやはりカンブルラン、ただの演奏ではない。
マーラーのアダージョは、流れできかせるのではなく、個々の音を吟味する演奏。たとえていうなら、一枚の絵画をその細部にわたって克明にたどり、絵の具の重ね具合や、筆触の使い分けを吟味するような感じ。そのためアンチ・クライマックスの演奏になるのは当然かもしれない。いいかえるなら、文学的なききかたはできない演奏。
シェーンベルクになって、演奏はみちがえるような流動性を帯び、各パートが細かく絡み合って、肌理のこまかいテクスチュアを織り上げた。けっして流れに任せて弾いてしまうことのない演奏。巨大で複雑なスコアのすべての音の意味を、どの楽員も理解しているように感じられる演奏。
驚いたことは、器楽的に発想されている演奏なのに、劇のどの部分をやっているかが、目にみえるようにわかる気がしたこと。それはなぜだろう。まれに道に迷ったように感じる箇所があったが、それはおそらく私が、ドビュッシーのオペラを無意識のうちに思い浮かべていたからだろう。オペラは原作をほぼそのままなぞっているが、カットされた小さい場面もあるので、多分そこをやっていたのだろう――そう思える演奏だった。
カンブルランがこの曲を選んだのは、オーケストラがあまりやり馴れていない曲から始めたかったからではないか。その意味では、今シーズンの企画の「3つの〈ペレアスとメリザンド〉」というコンセプトは、後付かもしれないと思った。
終演後、カンブルランは聴衆に向かって、「私はオーケストラのためにベストを尽くすことをお約束します」と語ってくれた。
(2010.4.26.サントリーホール)