Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン常任指揮者就任

2010年04月27日 | 音楽
 読売日響の4月定期は、常任指揮者に就任したシルヴァン・カンブルランの就任披露演奏会だった。プログラムは次のとおり。
(1)ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
(2)マーラー:交響曲第10番よりアダージョ
(3)シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」

 私は、このプログラムをみたとき、思わず唸ってしまった。なんて渋い‥。ほんらい華やかなはずの就任披露にシェーンベルクをもってくるなんて、なかなかできないことだ。

 序曲「コリオラン」は、例の悲壮感あふれる第1主題を細分化して、明確に区切りながらの演奏。おそらく根拠があるのだろうが、どのような根拠だろう。それにしてもやはりカンブルラン、ただの演奏ではない。

 マーラーのアダージョは、流れできかせるのではなく、個々の音を吟味する演奏。たとえていうなら、一枚の絵画をその細部にわたって克明にたどり、絵の具の重ね具合や、筆触の使い分けを吟味するような感じ。そのためアンチ・クライマックスの演奏になるのは当然かもしれない。いいかえるなら、文学的なききかたはできない演奏。

 シェーンベルクになって、演奏はみちがえるような流動性を帯び、各パートが細かく絡み合って、肌理のこまかいテクスチュアを織り上げた。けっして流れに任せて弾いてしまうことのない演奏。巨大で複雑なスコアのすべての音の意味を、どの楽員も理解しているように感じられる演奏。

 驚いたことは、器楽的に発想されている演奏なのに、劇のどの部分をやっているかが、目にみえるようにわかる気がしたこと。それはなぜだろう。まれに道に迷ったように感じる箇所があったが、それはおそらく私が、ドビュッシーのオペラを無意識のうちに思い浮かべていたからだろう。オペラは原作をほぼそのままなぞっているが、カットされた小さい場面もあるので、多分そこをやっていたのだろう――そう思える演奏だった。

 カンブルランがこの曲を選んだのは、オーケストラがあまりやり馴れていない曲から始めたかったからではないか。その意味では、今シーズンの企画の「3つの〈ペレアスとメリザンド〉」というコンセプトは、後付かもしれないと思った。

 終演後、カンブルランは聴衆に向かって、「私はオーケストラのためにベストを尽くすことをお約束します」と語ってくれた。
(2010.4.26.サントリーホール)
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愛の妙薬

2010年04月26日 | 音楽
 新国立劇場の「愛の妙薬」の新制作。客席に入ると、パッチワークのようなカラフルな緞帳がさがっていて、もうこれだけで、どのような舞台になるか想像できるというもの。パッチワークにはアルファベットがランダムに入っていて、それはなんだろうと思っていたら、オペラが始まって合点がいった。

 舞台の左右には、天井まで届きそうな巨大な本が3冊ずつ立っている。背表紙にはそれぞれ「トリスタンとイゾルデ」と書いてある(日、伊、独の3ヶ国語)。これは第1幕でアディーナが歌う「トリスタンとイゾルデ」のエピソードから来ているわけで、つまりこの舞台は本(=文字)というコンセプトで組み立てられている、というわけ。

 このコンセプトは、お金も地位もなく字も読めないネモリーノが、お金もあって字も読めるアディーナの愛をえる、という筋立てと符合している。

 舞台では一貫してこれらの本が移動しながら場面を作り、加えてElisir(妙薬)というアルファベットが、照明によって色彩を変えながら移動する。その結果、終始「トリスタンとイゾルデ」の存在が感じられる。私などはこれがワーグナーのパロディであるような気になってきた。ワーグナーより先にできてしまったパロディ。

 このようなコンセプト以外でも、チェーザレ・リエヴィの演出は、各場面を明快に作りこんでいて、見事なものだった。たとえば、地味な場面だが、第2幕で村の娘たちがネモリーノに遺産が転がり込んできたと噂する場面。こういう場面をなんとなくワヤワヤやってしまうのではなく、きちんと作り込んでいく。場面の終わりで娘たちが「シッ」、「シッ」、「シッ」と言い合う箇所など、最初は3~4人まとまって小節単位で口に指を当て、最後は1人ずつ音符単位で指を当てていく。それがなんともコミカルだった。

 ネモリーノはジョセフ・カレヤ。リリコにはちがいないのだろうが、やや暗めで、骨太な声質。パワーがあるので、リリコの役以外でも可能性がありそうだ。
 アディーナはタチアナ・リスニック。視覚的には十分だが(マリリン・モンロー風のメイクが面白い。西洋人はマリリンが好き‥)、第2幕の大アリアは精一杯といったところ。
 ドゥルカマーラはブルーノ・デ・シモーネ。例によって芸達者で感心してしまう。こういうバッソ・ブッフォは、なかなか日本人では難しい。
 ベルコーレは与那城敬(よなしろ・けい)。舞台映えする容姿。外国勢に伍して立派にやっていた。

 指揮はパオロ・オルミ。第1幕では、歌手をかばったのか、安全運転気味かと思ったが、第2幕は快調なテンポでリードしていた。
(2010.4.25.新国立劇場)
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西埠頭

2010年04月23日 | 演劇
 新国立劇場が「演劇研修所修了生のためのサポートステージ」と銘うった公演の「西埠頭」。作者はベルナール=マリ・コルテス。私はその名前を知らなかったので、例によってWikipediaで調べてみたが、のっていなかった。そこであれこれ検索していると、今回の出演者の北川響さん(演劇研修所一期生2008年修了)のブログに行き当たり、有益な情報をえた。

 それによると、コルテスは1948年フランス生まれ(生地はメッス)。16歳のときに、ランボー、デカルト、クローデル、ドストエフスキー、ゴーリキー、ツルゲーネフ、トルストイなどを読む。1968年ニューヨークへ旅。1970年ストラスブール演劇学校に入学。1973年ソ連(当時)へ旅。その後、ニカラグア、メキシコ、ナイジェリア、マリ、コートジボワール、セネガルへ旅。ニューヨークにも2回。1989年エイズにより没。

 これをみると、読書の傾向と生涯にわたる辺境への旅(そう言ってよければ‥)が特徴的だ。そこからこの劇作家のプロフィールが浮かび上がる感じがする。

 「西埠頭」は1986年の作品。場所はニューヨークを思わせる港湾都市。ネズミやゴキブリに占拠された倉庫に住みつく移民の一家。ある夜、場違いなブルジョワの男女が車で乗りつける。男は横領行為の発覚を恐れている。その男を襲って金目のものを巻き上げようとする一家。(公演プログラムより抜粋)

 事前に、これは中劇場に特設舞台を設けた公演、と告知されていたが、それがどんなものかは、イメージできなかった。中劇場に入ると、メインステージに階段状の客席が仮設され、その客席は奥舞台に向いていた。そこはパイプがむき出しの暗い空間。装置は一切なく、ガランとしている。芝居がはじまると、役者がそこを走り回る。照明は主に下手奥から横方向に照射される。その結果、多くの場面がシルエットになる。

 この芝居は、物語の論理的な展開よりも、登場人物たちの激しく、そして無意味な、憎悪のぶつかり合いの情景。おそらく原作では、暴力や性も大きな要素になっているのではないかと想像される。今回は、演出家のモイーズ・トーレと鵜山仁によって再構成され、ピナ・バウシュ・カンパニーのダンサーだったというフランシス・ヴィエットによる「ムーブメント」が振付けられていて、暴力や性は「ムーブメント」のなかに収斂している。

 演劇研修所の修了公演というのは、今回がはじめてらしい(オペラ研修所ではすでにいくつかの優れた成果をあげている)。修了生3名と中堅・ベテラン4名が同じ舞台にたち、台詞はもちろん、「ムーブメント」の身体表現でもしのぎを削る姿は、爽快だった。
(2010.4.22.新国立劇場中劇場)
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ピンチヒッター

2010年04月22日 | 音楽
 アイスランドの火山噴火でヨーロッパ発着の空の便が大混乱になったが、今日現在ではほとんどの航空会社が運行再開になった模様。ただヨーロッパ各地あるいは日本やアメリカ全土に足止めを食った各国の人々をさばくには数日を要するだろう。火山活動がふたたび活発化する可能性もあるかもしれないし――。

 この騒動が起きたときに考えたことは、もし旅行中だったらどうしただろう、ということ。以下、笑い話だが、まず、陸路でローマに行って、そこから帰るという方法を考えたが、これは現実的ではない。おそらくほとんどの人がそう考えるだろうから、航空券が買えるとは思えない。次に、航路でアメリカに渡って、そこから帰るという方法を考えたが、そういう船の便があるかどうかは不明。ならば、シベリア鉄道で???

 それはともかく、今はインターネットの時代なので、騒動に巻き込まれた方々が、リアルタイムでブログに書き込んでいる。なかでも面白かったのは(というと、苦労されたご本人には申し訳ないが)、17日にポーランドのクラクフにいて、当日ミュンヘン経由で帰国する予定だった茂木健一郎さんのブログ。その奮闘ぶりが「茂木健一郎 クオリア日記」の4月17日付け「さようなら、チェコおじさん。」に書かれている。
 http://kenmogi.cocolog-nifty.com/

 これは音楽界にも影響を及ぼすだろうと思って、インターネットをみていたら、東京シティ・フィルの定期演奏会の指揮者が来日できなくなり、ピンチヒッターの登場が告知されていた。その名はマイケル・フランシス。これにはびっくりした。アンネ=ゾフィー・ムターの来日公演に同行している若い指揮者で、24日にグバイドゥーリナのヴァイオリン協奏曲(新しいほう)を指揮する予定の人。がぜん興味がわいてきた。

 その演奏会が昨日あった。プログラムはそのまま引き継がれていて、次のとおり。
(1)スメタナ:歌劇「売られた花嫁」序曲
(2)チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:有希・マヌエラ・ヤンケ)
(3)ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

 最初のスメタナからして、猛スピードで、よく鳴り、汗の吹き出るような演奏。2曲目のチャイコフスキーは、独奏者はまだ学生さんとのことで、今の時点で云々すべきレベルではないが、オーケストラは骨太な演奏。ドヴォルザークは、ルーティンになりがちなこの曲の、真剣勝負の演奏。オーケストラをここまで本気にさせるのは、指揮者の有能さのあらわれだ。最近はこういう演奏を爆演と揶揄するむきもあるかもしれないが、けっしてそれだけの演奏ではなかった。
(2010.4.21.東京オペラシティ・コンサートホール)
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マネ展

2010年04月19日 | 美術
 丸の内にオープンした三菱一号館美術館の開館記念展「マネとモダン・パリ」展。モネやルノワール、あるいはゴッホではなく、マネをもってきたところに、同館の心意気が感じられる。もちろんこれは同館の館長、高橋明也氏あってのこと。

 内容の充実度は驚くべき程だ。今まで画集でみていた作品の実物が何点もきている。やはり実物だとちがうと感じた。たとえば「扇を持つ女」。ボードレールの愛人ジャンヌ・デュヴァルを描いたものだが、この絵がこんなに凄みのあるものだとは思っていなかった。目元の黒いくまが異様。その黒は髪の黒と呼応し、ドレスの白はカーテンの白と呼応し、扇の暗緑色はソファーの暗緑色と呼応している。限られた色による閉塞感。

 同じように画集でみていた「死せる闘牛士」。画集でみていたときには気がつかなかったが、男の左手小指には指輪があり、また胸元には小さな血痕がついている。これらのディテールが、男の死に現実味をおびさせる。

 「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」は2007年のオルセー美術館展にも来ていたが、今回こうしてマネという一本の文脈のなかに置かれると、味わいが深まる。モデルをその個性の先端でとらえた瑞々しさ、といったこと以外に、背景となったカーテンから入る薄い光が、なんともいえない柔らかさで画面をみたす。

 「ビールジョッキを持つ女」は、舞台をみつめる観客のなかで立ち働く給仕女――そこだけポッカリあいた異空間――を描いたもの。私のもっている画集にはロンドンのナショナル・ギャラリー収蔵の作品が載っているが、こちらはオルセー美術館のもの。こちらのほうが給仕女にはっきり焦点が合っていて、数年後のマネ畢生の傑作「フォリー・ベルジェールのバー」に一歩近づいている。

 一点一点は比較的地味かもしれないが、これだけの内容を誇るマネ展は、今後は難しいだろう。お陰で、マネとはなんだったのかを考える、よいきっかけになった。

 三菱一号館美術館は昨年完成した建物。もともとは1894年(明治27年)に建てられたオフィスビルだったそうだ。やがて1968年(昭和43年)に取り壊し。そのビルを、建設当時の設計図や解体時の実測図、写真などにもとづいて復元したもの。昨秋、プレオープンとして、その復元の過程が展示されたが、途方もない労力だと感心した(おそらくは資金も‥)。
 復元された建物には、古い事務室の名残がよみがえっている。そこでみる展覧会には、従来の美術館の抽象的な空間には感じられないないぬくもりがあった。
(2010.4.16.三菱一号館美術館)
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グバイドゥーリナ&坂本龍一

2010年04月14日 | 音楽
 佐渡裕(さどゆたか)指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の東京公演。地元の神戸での定期演奏会は3日公演で、ほとんど満席状態らしい。すごい人気だ。一度きいてみたいと思っていたが、その機会が訪れた。プログラムも意欲的。
(1)グバイドゥーリナ:樹影にて(箏:沢井一恵)
(2)プロコフィエフ:バレエ組曲「ロミオとジュリエット」より抜粋
(3)坂本龍一:箏とオーケストラのための協奏曲(箏:沢井一恵)

 グバイドゥーリナの曲は1998年のN響委嘱作品とのこと。翌年、沢井一恵の箏独奏、デュトワ指揮N響によって初演され、アメリカ・ツァーにも持って行かれたそうだ。箏は、十三絃箏、十七絃箏、ツェン(中国箏で二十一絃)の三面を使う。
 独奏は、激しく、攻撃的でさえある。後半に出てくるコントラバスの持続音に乗ったツェンや十七絃箏のカデンツァなど、息を呑むようだ。
 オーケストラの弦楽器群は二分され、一方は通常のピッチだが、他方は4分の1音低く調弦されているとのこと。その結果、独特の浮遊感が生まれる。またグリッサンドが、まるで電子音楽のように、長い弧線を描いたりする。
 総体的に、いかにも最近のグバイドゥーリナらしく、曲の潜在的な可能性を描き尽くそうとする気迫のこもった音楽。

 次のプロコフィエフをきいて、私はこのコンビの人気のわけが分かる気がした。冒頭の「騎士たちの踊り」からして熱い音が噴出してくる。ダイナミックな音楽作りと奔放なドライブ感はこの指揮者の持ち味だが、それに加えて、在京のオーケストラを振ったときには感じられない、人間性むき出しの本音の音楽がある。それが地元の人々をひきつけるのだろう。
 このオーケストラは世界各地でオーディションをおこなって若い人材を集めているというが、たしかに外国人が多い。それがよいのかもしれない。日本人にはない体温の高さが伝播しているように感じた。

 坂本龍一の曲は新作。4部に分かれていて、それぞれ冬、春、夏、秋を表している。
 冬は、弦楽器群の最弱音のハーモニーに乗って、ティンパニィの皮をブラシでこする音とゴングの両面を柔らかいマレットで打つ音がリズムをきざみ、ヴィブラフォーンのトレモロがかぶさる。その静寂の世界を背景に、箏の点描的な音形が続く。
 春と夏は、耳に快い音楽。ネイチャー映像のBGMのような感じ。秋は、詠嘆調のコラールが繰り返される。これはいかにもアルヴォ・ペルト風の音楽。
 坂本龍一は私と同世代なので、問題意識を共有する音楽を期待したが、ひらりとかわされてしまった。
(2010.4.13.東京オペラシティ)
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マーラー交響曲第9番

2010年04月12日 | 音楽
 N響の4月定期は名誉指揮者ブロムシュテットの指揮。Aプロはマーラーの交響曲第9番だった。ブロムシュテットは昔からよくブルックナーを振っているが、マーラーは珍しい。どういう演奏になるかと興味を抱いた。

 マーラーのなかでも第9番は特別な曲。キャリアのなかであまりマーラーを振っていない指揮者でも、巨匠クラスになってから第9番を取り上げることがある。あの透徹した、冷たい美の世界が、マーラーには感情移入できない指揮者も惹きつけるようだ。

 第1楽章の断片的なモチーフの積み重ねは、ブロムシュテットならもっと面白く演奏できそうな気がしたが、意外に砂をかむような演奏だった。ただ、コーダの緊張感はさすが。個々の奏者では、ホルンの松崎さんとフルートの神田さんが見事だった。
 第2楽章のレントラー、第3楽章のロンド・ブルレスケは――失礼な言い方になって申し訳ないが――私にはあまり収穫がなかった。第3楽章の終盤の第4楽章のテーマを先取りした部分では、関山さんのトランペットが美しかった。

 ここまではブロムシュテットの音楽性とマーラーとの距離感を感じたが、第4楽章アダージョになって、やっと共振した。冒頭の分厚い弦の響きから最後の消え入るような一音まで、指揮者とオーケストラ、そして曲が一体になった演奏が繰り広げられた。

 このアダージョをききながら、これは交響曲第3番の終楽章のアダージョとはまったく性格を異にする音楽だと思った。第3番の場合は、愛を求める音楽、その憧れと苦しみと成就の音楽だったが、こちらは人生のすべてを諦める音楽。その諦めをチャイコフスキーの「悲愴」交響曲のように嘆き悲しむのではなく、受容する音楽。

 その音楽が崇高なのは、マーラーが生涯を通じて自己劇化の音楽を書き続けたからではないだろうか。自己憐憫を隠そうともせず、苦しみ、のたうちまわり、闘争し、野心をみなぎらせた音楽、その果てに辿りついた音楽が――自己を捨てた――このアダージョだったので、私たちは感動するのではないか。

 再びブロムシュテットに戻ると――
 巷間、ブルックナー指揮者という言い方がある。マーラー指揮者という言い方も。その意味では、ブロムシュテットはブルックナー指揮者ということになるだろう。でも、そういう二分法にどれだけの意味があるのだろう、という気がした。
(2010.4.11.NHKホール)
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夢の裂け目

2010年04月09日 | 演劇
 井上ひさしの東京裁判三部作の第1作「夢の裂け目」が初日を開けた。2001年初演だったそうだが、私は今回がはじめて。来月、再来月と三部作が連続上演される。

 貧しくも明るい昭和の時代。私は敗戦直後のころは知らないが、30年代の高度成長の時代に育っているので、記憶に生々しい。あのころの明るく、活気があって、人と人との距離が今よりも近い空気が伝わってくる。まだ社会のシステムが整っていなくて、それだからこそ、人と人とがぶつかり合っていた温かい時代。この芝居はその時代の空気をたっぷり吸っている。

 紙芝居「満月狸ばやし」と東京裁判とのアナロジーに気づく場面は、少し説明的かもしれない。また、気づいた後も、対応関係や図式をすべてあからさまにはせずに、余韻を残して観客にゆだねる手もあったかもしれない。でも、作者はそれを百も承知で、すべてを語ることを選んだ。

 天皇の戦争責任ということが――国立の劇場の主催公演で――あからさまに言及されるのは、見方によっては、まだ日本社会が健全さを失っていない証左かもしれない。願わくは、いつの日か「あのころはまだよかった」と回想することのないように。

 誤解を避けるためにいうと、この芝居は天皇の戦争責任だけを扱っているのではない。むしろ、私たち庶民の責任はどうかという点に、比重がかかっている。往々にして天皇やA級戦犯の陰に隠れて、被害者意識に逃げ込みがちな私たちの――。

 実は、この芝居は音楽劇ということで、多少の危惧をもっていたが、いざはじまると、まったく違和感がなかった。音楽が明るさを支え、活気を生んでいた。役者さんの歌も、よい意味で素人らしくてよかった。
 個々の場面では、元芸者仲間の君子と妙子の再会の場面での「柳橋ソング」のデュエットが心にしみた。また、国際検事局に勤務するミドリの登場の歌「伝道士の娘のワルツ」では、この人物の屈折のある境遇を感じさせた。これらの2曲は台詞よりも効果的だった。いずれもクルト・ヴァイルの「三文オペラ」のなかのソングの転用。

 刑務所に入れられた紙芝居屋を助け出すために、「満月狸ばやし」を放棄するよう迫るミドリ。放棄すべきか、それとも、真実を守るために放棄せざるべきか――。この芝居の最後のヤマ場の結末は、ここでは控えることにする。
 後日談では、ミドリは紙芝居屋と所帯をもつ。一連のミドリの行動の意味を考えていて、その背景にはミドリが戦時中にこうむった苦労があることに思い至った。
(2010.4.8.新国立劇場小劇場)
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佐村河内守:交響曲第1番

2010年04月05日 | 音楽
 HMVのサイトに許光俊さんがエッセイを載せていて、私はときどき読んでいるが、最近のエッセイに佐村河内守(さむらごうち・まもる)という人の交響曲第1番の演奏会が紹介されていた。そこにはリンクが張られていて、佐村河内さんの半生をつづった自叙伝「交響曲第1番」(2007年、講談社刊)の紹介記事に飛んでいた。その内容は驚くべきものだった。私は一気にひきつけられ、演奏会をきいてみたいと思った。

 事前に自叙伝を読んでみた。なんという内容だろう。私は何度となく呆然として本を閉じ、嗚咽をこらえた。
 佐村河内さんは1963年生まれ。両親は広島で被爆しているので、被爆2世になる。それが影響しているのかどうか、若いころから偏頭痛や聴覚障害に悩まされ、その他の症状も加わって、今では両耳とも全聾、さらには精神的な苦しみも抱えているとのこと。
 音楽の勉強は4歳のときから母親に習っていたピアノが主体で、作曲は独学。高校を出た後は、音楽大学に行くのを拒み、アルバイト生活を続けて、一時期はホームレスになったこともあるらしい。縁あって映画やゲームの音楽を担当して注目されたとのこと。

 そういう人の書いた音楽がこの交響曲第1番。ピアノに頼ることができないので、自らの絶対音感によって書かれた曲だ。フル編成の大交響曲。全3楽章から成るが、第2楽章は省略された。指揮は大友直人、オーケストラは東京交響楽団。同オーケストラの「東京芸術劇場シリーズ」の一環だった。

 第1楽章は悲しみをたたえた息の長い旋律が延々と続く。第3楽章は暴力的かつ破壊的な音響がいやというほど続くが、最後に思いがけなく晴れ間が広がるように、救済的なテーマが出てくる。そのテーマは幾分通俗的かもしれないが、私は感動した。
 あえていうなら、この音楽はマーラー、ベルク、ショスタコーヴィチの延長線上にあると感じた。これらの3人の高度なプロフェショナリズムには及ばないが、自分の思いを込めようという、ひじょうに強い思い入れがある。その思い入れは今の私たちの尺度には納まりきらない面があるが、それだからこそ、なにかひじょうに気になるものがある。

 第1楽章と第3楽章だけで約40分。全曲通すと約70分だそうだ。第2楽章は約30分かかる計算になるが、どんな楽章なのだろう。おそらく、全曲通してきくと、ガラッと変わった印象になるのではないだろうか。

 演奏が終わって、場内には盛んな拍手とブラボーが飛び交った。しかし佐村河内さんにはその音は届いていない。それどころか、ボイラー室にいるような轟音が、常に頭のなかに鳴り渡っているのだという。
(2010.4.4.東京芸術劇場)
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