Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

旅行予定

2017年09月25日 | 身辺雑記
 9月25日(月)から旅行に行きます。帰国は10月1日(日)です。
 今回の行き先はハワイです。ハワイは20年以上前に仕事で行ったことがありますが、プライベートでは初めて。高校時代のブラスバンドの友人がご主人と住んでいるので、そこを訪ねてきます。
 今回は演奏会もオペラも聴く予定はありません。ハワイにはハワイ交響楽団(旧ホノルル交響楽団)があり(都響に客演したことのあるジョアン・ファレッタがミュージック・アドヴァイザーを務めています)、10月から翌年6月まで定期演奏会を開いていますが、残念ながら今回の日程からは外れています。またオペラ劇場があり、今シーズンは4演目を上演しますが、これも今回の日程から外れています。
 演奏会やオペラに行くと、観光客には分からない現地の日常社会に触れることができるのですが、今回それは望めません。
 今回の日程はわたしが計画したものではなく、ひょんな成り行きから、そうなったものです。
 一人で女性の友人の家を訪ねるのもどうかと思いますので、家人は海外旅行嫌いですが、同行をお願いしました。
 行く以上は楽しんできたいと思います。
 帰国したら、旅の日記を書きます。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2017年09月24日 | 音楽
 パーヴォ/N響のCプロは、グリンカの「幻想的ワルツ」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第4番、スクリャービンの交響曲第2番というプログラム。グリンカの「幻想的ワルツ」はどこかで聴いたことがあるが、ラフマニノフとスクリャービンの2曲は聴いた記憶がない。ありきたりの曲目ではないところが好ましい。

 まずグリンカでは、淡々とした表情の中に、短調のワルツ特有の抒情が漂う。パーヴォ/N響のいつもの緊張感のある音とは異なる、しなやかな、心地よい弾みのある音。曲に応じて多彩な音を使い分けるパーヴォのパレットの豊かさ。

 2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第4番。ピアノ独奏は1986年ロシア生まれのデニス・コジュヒン。わたしはこのピアニストを知らなかったので、事前にナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗くと、いくつかのCDがあったので、ラフマニノフのピアノ三重奏曲第2番「悲しみの三重奏曲」を聴いてみた。たいへんな名手だと思ったので、期待していた。

 だが、よく分からなかった。事前に得たイメージが髣髴とする瞬間もなくはなかったが、たぶんわたしがラフマニノフのこの曲をつかむことができず、ギクシャクした感じを持ってしまったからだろう、このピアニストのこともよくつかめなかった。

 アンコールにロシア情緒を湛えた小曲が演奏された。だれの曲だろう‥。じつは演奏前にコジュヒンがメガホンのように両手を口に当てて曲を言ってくれたのだが、聞き取れなかった。休憩中にロビーの掲示を見たら、スクリャービンの「3つの小品」作品2から第1番「練習曲」。プログラム後半へのつなぎを意識した選曲。

 スクリャービンの交響曲第2番は名演。この曲は全5楽章からなるが、第1楽章と第2楽章は連続していて、緩徐楽章の第3楽章は独立し、第4楽章と第5楽章は連続している。中間楽章(第3楽章)を中心としたアーチ型の構成。各楽章は異なる音楽的性格を持つが、それらを的確に描き分け、しかも全体をクリアーに造形した演奏。わたしは音の道筋を終始追うことができた。

 この曲の決定的な名演だと思った。時々ある演奏を聴いて、その曲の何たるかが分かったと思うことがあるが、今回はそのような稀有の経験の一つだった。

 それにしても、第3楽章の鳥の声を交えた音楽は印象的だ。不安な夜の音楽か。「トリスタンとイゾルデ」の第2幕とは異なるスクリャービンの夜。
(2017.9.23.NHKホール)
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三島由紀夫「仮面の告白」

2017年09月23日 | 読書
 大学時代の友人S君と読書会を始めた。60歳代の半ばになって、大学生のように読書会ができることが嬉しい。読書会といっても、もう若い頃のような真面目な読書会はできない。飲むための口実のようなもの。3ヶ月に1回のペースでやることになり、先日その第1回をやった。テーマは三島由紀夫の「仮面の告白」。S君からの提案だった。

 三島由紀夫の作品は、小説と戯曲のいくつかを読んだことがあるが、「仮面の告白」は初めて。面白かった。実感からいうと、小説では、今まで読んだ「金閣寺」や「午後の曳航」よりも数倍面白かった。

 何が面白かったかというと、文体だ。文体の濃さが群を抜いている。思うに、これを書いた頃の三島は時間があった。念入りに時間をかけて文体に凝ることができた。本作を発表して一躍注目を集めた三島は、売れっ子作家となり、小説と戯曲を次々に書いた。文体からは迷いが消えた。

 三島が三島になる生成過程が刻印された作品。それが「仮面の告白」。その生々しさがマグマのように沸騰している。三島としても一回限りの作品。一種の通過点だった。

 わたしは大江健三郎の「飼育」を思い出した。短編小説をいくつか書いた後に、その総仕上げのように書いた「飼育」には、文体との格闘が生々しい。そこを通過した大江健三郎は、やがて「個人的な体験」と「万延元年のフットボール」に行き着くが、その軌跡の中での「飼育」と、三島由紀夫の「仮面の告白」とは、同じような位置にある。

 ‘仮面’の‘告白’とはどういう意味か。仮面を着けて真実を告白するという意味か。そうとるのが素直だが、必ずしもそれだけではない気がする。この場合の真実とは、端的にいえば他人とは異なる性的傾向だが、その告白にとどまらず、生そのものの他人とのズレの意識を、どのような仮面の下に隠しているか、その仮面の告白でもあるようだ。

 ズレの意識の苦しみが、本作には渦巻いている。わたしはそこに惹かれた。わたしが共感をもって読んだ初めての三島作品だ。

 三島が自決した日、わたしは神田の古本屋にいた。何気なく入ったその店の古本が山積みになった片隅で、店主と数人の客がテレビを見ていた。異様な雰囲気だった。わたしが尋ねると、だれかが「三島由紀夫が自決した」といった。わたしも異様な緊張に襲われた。それから47年たった今、三島が起こしたあの事件は、妙にリアリティを増してはいないだろうか。
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「ベルギー奇想の系譜」展

2017年09月20日 | 美術
 見たい映画と展覧会がたまってきた。演奏会や演劇はチケットを買ってあるので、その日が来たら行かざるを得ないが、映画や展覧会はいつでも行けると思っているので、つい億劫になる。

 昨日は仕事の帰りに「ベルギー奇想の系譜」展を見てきた。まず先にこの展覧会に行ったのは、会期末が迫っているから。9月24日で終了なので、もう後がない。幸い午後6時まで開館しているので間に合った。

 16世紀の初期フランドル派から、ブリューゲルの版画、クノップフやアンソールなどの象徴派、マグリットやデルヴォーなどのシュルレアリスム、そして21世紀の現代美術までを辿ったベルギー美術の通史のような展覧会。国内外の所蔵先から丹念に作品を集めている。

 そのような展覧会の場合、たとえばベルギー美術の特徴といった大命題へのアプローチもよいが(本展ではフランドル地方が常に戦場だった歴史的事実に由来する「死」の影という観点が示されている)、もっと気楽に日ごろ好きな画家との再会を楽しんだり、未知の画家の発見を楽しんだりするのもよい。

 わたしは3人の未知の画家の作品に惹かれた。一つ目はジャン・デルヴィルJean Delville(1867‐1953)の「レテ河の水を飲むダンテ」(1919年)。ダンテの「神曲」に題材をとった作品。全体に淡青色の柔らかい色調の中、向かって右にダンテが淡いオレンジ色で、左にベアトリーチェが白色で描かれている。忘却の河(レテ河)と生い茂る植物との描写が繊細だ。

 二つ目はヴァレリウス・ド・サードレールValerius de Saedeleer(1867‐1941)の「フランドルの雪」(1928年)。見渡すかぎりの雪原。村落が点在している。地平線に夕日が落ちる。弱々しい光。今にも闇に飲み込まれそう。人っ子一人いない。寂しい雪景色。

 三つ目はウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクWilliam Degouve de Nuncques(1867‐1935)の「運河」(1894年)。運河が横たわっている。小舟が一艘。人影はない。運河の向こうに古い工場(または倉庫)。窓ガラスが全部割れている。忘れられたような風景。運河の手前に枯れ木が数本並んでいる。枯れ木と工場とが構成する縦の線と、運河が形作る横の線とが交叉する。

 以上3人は象徴派に分類される。偶然だろうが、3人とも生年は1867年。
(2017.9.19.Bunkamuraザ・ミュージアム)

(※)本展のHP
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2017年09月18日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィが2015年9月にN響の首席指揮者に就任してから、今月で3シーズン目を迎えると、プログラムのプロフィール欄に書いてあった。まだそれくらいしかたっていないのかと思った。多彩な曲目を取り上げ、それぞれ見事な成果をあげているので、もっとたっているような気がした。

 今回Aプロで取り上げた曲は、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」1曲。なるほど、終わってみれば、これ1曲で十分だと思った。それほど充実した、気合十分の演奏だった。

 劇的で英雄的な‘大きな’音楽の両端楽章よりも、比較的地味で‘小ぶりな’音楽の中間楽章(第2、第3楽章)のほうが面白かった。普段は2人の巨人のように聳える両端楽章に挟まれて、目立たない存在だが‥。今回それら中間楽章が意味深く演奏されたことに、パーヴォ/N響コンビの成熟を感じた。

 第2楽章では、誤解を恐れずにいえば、映画音楽のような哀愁を感じた。映画音楽という言葉が問題なら、ひっこめてもいいが、ショスタコーヴィチがふっと覗かせたセンチメンタルな心情、あるいはショスタコーヴィチの孤独な散歩姿‥そういうものを感じた。

 第2楽章の末尾の弱音は、息をのむほどだった。この日、弦は18型だったのだが(18‐16‐14‐12‐10)、その大編成の弦が、ほんとうに聴こえるか聴こえないかというくらいまでの弱音になり、囁くような音で演奏した。その緊張感のすごさ!

 第3楽章の冒頭での主題は、その大編成の弦が物を言ったのはいうまでもないが、もう一つ、この日ゲスト・コンサートマスターに入ったヘルシュコヴァ(ミュンヘン・フィルのコンサートマスター)の効果も見逃せない。巨体を揺り動かして情熱的に演奏する姿が、ヴィオラ首席の川本嘉子やチェロ首席の藤森亮一に伝播し、そして弦全体に広がった。今後のN響に必要な人材は、このようなタイプのコンサートマスターかもしれない。

 第3楽章のこの主題は、レチタティーヴォ風の大きな身振りの音型。ショスタコーヴィチには珍しい。わたしはフランツ・シュミット(オラトリオ「7つの封印の書」や交響曲第4番が時々演奏される)のオペラ「ノートルダム」の間奏曲の冒頭音型に似ていると思うのだが、どうだろうか。

 そのオペラはヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」を原作にしているらしい。
(2017.9.17.NHKホール)
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レコードの処分

2017年09月17日 | 身辺雑記
 LPレコードが約300枚(一部は組)あった。納戸に入れていたが、手狭になったので、処分することにした。中古レコード店に持って行って、タダ同然で引き取られるのも嫌なので、少しずつゴミで出そうと思っていた。

 そんなある日、家人が新聞で中古レコード店の広告を見つけた。「電話してみてもいいか」と言うので、了解した。電話したら、「料金着払いの宅急便で送ってくれれば、すぐに値段を出す」とのことだったそうだ。梱包するのが面倒だと思っていたら、家人が手際よくやってくれた。

 宅急便で送ったその晩、家人と「いくらくらいになるだろう?」と推測しあった。ロックやジャズの希少盤ならともかく、わたしのレコードは全部クラシックで、しかもほとんどの音源はCD化されている。たぶん無価値だろう。しかも中古レコード店は6箱分の宅急便代を負担している。では、いくらか。

 中古品は、買う場合はともかく、売る場合は‘一山いくら’だろう。わたしは2,000円~3,000円かと思った。たとえ1,000円だとしても送ってもらおうと思った。家人は「そんなの辞退しなさいよ」と言った。わたしが「800円とかだったら辞退するけど、1,000円だったら送ってもらう」と言うと、「あんたはケチね」と言われた。

 翌日、中古レコード店から電話が入った。「先ほど着きました。さっそく見せてもらいました。きれいなんですけど、全部、帯がないんです。帯がないと、当店での売値は1枚300円くらいです。なので、全部で17,000円になりますが、いかがでしょうか。」

 17,000円! わたしは驚いて「分かりました」と答えた。電話を切ってから、家人に「17,000円だって!」と言うと、家人は「ふうーん。もう少し出たかもね」と言った。ハッとした。交渉下手はわたしの持って生まれた性質。もう直らない。

 17,000円は翌日振り込まれた。さて、この17,000円をどうするか。家人からは「CDを買うんじゃないでしょうね」と言われた。CDもたまってきたので、顰蹙を買っているのだ。わたしは2,000円~3,000円だったらワインでも買おうと思っていたが、17,000円では見当もつかない。

 なお、レコードは、1枚だけよけておいた。わたしが中学生のとき、亡き父から買ってもらったベートーヴェンの「第九」のレコード(アンセルメ指揮スイス・ロマンド管)。秋葉原の中古レコード店の店頭にあったもの。今回それだけは処分できなかった。
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大野和士/都響

2017年09月12日 | 音楽
 合唱にスウェーデン放送合唱団を迎えたハイドンのオラトリオ「天地創造」は、別格という言葉が相応しい演奏だった。透明なハーモニー、粒立ちのよい音、羽毛のクッションのような柔らかい手応え。同合唱団は2015年10月にも都響と共演したが、今回の方が感銘深かった。

 都響の演奏もそれに相応しかった。全3部からなるこの作品の第1部と第2部で頻出する自然描写の、克明かつ繊細な演奏はもちろんだが、(細かい点で申し訳ないが)第3部冒頭の、そこだけ起用される第3フルートを含む3本のフルートが、それぞれ明瞭に聴こえ、第3フルートの存在が不可欠であることが、今回ほど納得できたことはない。

 大野和士の指揮もよく練れた、細大漏らさぬものだった。柔軟さと強靭さとが同居し、しかも自由な呼吸感を持った第一級のもの。わたしが今まで聴いた大野和士の指揮の中でも、今回はとくに感銘を受けたものの一つだ。

 ソリストは多少ムラがあった。ソプラノの林正子は、慣れるまでは、そのオペラティックな歌い方が気になった。バリトンのディートリヒ・ヘンシェルは、さすがに深みのある歌い方だが、少々癖があった。結局テノールの吉田浩之が一番素直に聴けた。

 終曲の合唱の途中で挿入されるソリストたちの重唱では、そこだけ起用されるアルトはカットされた。カットされるのが普通だが、9月8日に高関健/東京シティ・フィルが同曲を演奏したときはアルトを入れていた。地味ながらも、アルトが入ったほうがまとまりがよくなると、そのとき感じた。

 ショックだったのは、第2部の途中、創造の第5日が終わったところで休憩を入れたことだ。ドラマの展開でいうと、人間(アダムとイヴ)登場の前後で分けたことになるが、音楽的には中途半端だった。高関健/東京シティ・フィルは第1部が終わったところで休憩を入れた。音楽様式の面からいうと、第2部が終わったところが適当だと思うが、それでは時間のバランスが悪くなる。どうしたものか。

 アダムとイヴの歌詞は問題なしとしない。アダムがイヴを導き、イヴはそれに従うことが二人の喜びだという男性優位の歌詞‥。

 この歌詞はフリーメーソンの思想から来ているのだろう。そう思うと、アダムは「魔笛」のタミーノ、イヴはパミーナに見えてきた。第3部は「魔笛」の後日談か。終曲の合唱の前半はザラストロの神殿の合唱に似ている。
(2017.9.11.サントリーホール)
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“戦中日本のリアリズム”―アジア主義・日本主義・機械主義―

2017年09月11日 | 音楽
 サントリー芸術財団サマーフェスティヴァルの今年のプロデューサー片山杜秀が戦前~戦中~戦後の日本人作曲家の歩みを辿る演奏会シリーズの‘戦中’編。

 1曲目は尾高尚忠(1911‐51)の「交響的幻想曲《草原》」(1943)。蒙古(モンゴル)の大草原を舞台とする幻想曲。本作における蒙古とは、‘満州国’を建国した日本が唱える‘五族協和’(和(日)、韓、満、蒙、漢(支)の5民族)の文脈での蒙古。一種の占領政策だが、その政策への批判的(ないしは客観的)な眼差しを望むのは無理だとしても、本作には緊張感があり、また清冽な叙情があった。

 そう感じたのは、下野竜也指揮東京フィルの演奏が、目が覚めるほど見事だったからでもある。シャープな輪郭と強靭な構成力を持ち、透徹した作品把握を感じさせる演奏。作品への献身をこれほど感じさせる演奏はめったにない。先回りして言うと、以下の3曲も同様の演奏。感動的だった。

 2曲目は戦後の大指揮者、山田一雄(1912‐91)の「おほむたから(大みたから)」(1944)。マーラーの交響曲第5番第1楽章を下敷きにした曲。同楽章は葬送行進曲。戦地で亡くなった多くの同胞を悼む曲とも、大日本帝国の滅亡を予感した曲とも取れる。本作を1945年の元旦に(葬送行進曲という側面を説明せずに)全国放送したというから驚く。

 当時マーラーはまだ一般的ではなかったので、官憲側にはそれが葬送行進曲であることは分からなかったかもしれないが、音楽関係者の中には分かった人もいるだろう。通報されれば特高警察に引っ張られたかもしれない。

 3曲目は伊福部昭(1914‐2006)の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」(1941)。詳細は省くが、戦後書かれた「シンフォニア・タプカーラ」と「リトミカ・オスティナータ」の原曲に当たる曲だそうだ。それらの2曲よりも若い意欲が充満している。

 ピアノ独奏は小山実稚恵。下野竜也/東京フィルに負けず劣らず献身的な演奏だった。アンコールに同じ作曲者の「ピアノ組曲」から「七夕」が演奏された。わたしの胸にはこみ上げるものがあった。

 4曲目は諸井三郎(1903‐77)の「交響曲第3番」(1944)。本作は作曲当時は演奏されず、1950年になって初演された。作曲者は、演奏の目処もなく、戦時色に塗り固められた日本で本作を書いていた‥。
(2017.9.10.サントリーホール)
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山田和樹/日本フィル

2017年09月10日 | 音楽
 日本フィルはこの数年来、新作委嘱シリーズ‘日本フィル・シリーズ’の再演に取り組んでいる。指揮は主に山田和樹と下野竜也が担っている。今回は山田和樹が指揮して石井真木の「遭遇Ⅱ番―雅楽とオーケストラのための」(日本フィル・シリーズ第23作、1971年初演)が再演された。雅楽演奏は東京楽所(とうきょうがくそ)。

 1971年といえば、日本フィルが文化放送とフジテレビの援助を打ち切られ、自主運営の苦難の時代に入る1年前。当時の常任指揮者は小澤征爾だった。この曲の初演も小澤征爾。大学生だったわたしは、その初演を聴くことはできなかったが、当時前衛の熱気の中で初演されたことを記憶している。

 今回はそれから46年後の再演。さて、どう聴こえるか。渡辺和氏が執筆したプログラム・ノートが事前に公開され、また同氏がゲネプロを取材してブログにアップしてくれたので、ひじょうに役立った。

 開演前に山田和樹のプレトークがあった。わたしが聴いたのは土曜日の方だったが、金曜日の定期ではまずオーケストラから始め、次に雅楽が入ってくる(遭遇する)順番で演奏したが、今日は先に雅楽、次にオーケストラの順番でやってみるとのこと。その選択は指揮者に任せられているわけだ。

 舞台上手に緋毛氈が敷かれ、古式ゆかしい装束の東京楽所の奏者10名が登場する。雅楽が始まる。石井真木が書いた「紫響」(しきょう)という曲。やがてそれが静まると、オーケストラがそっと入ってくる。次第に音量を増し、多数の打楽器が炸裂する大音響の音楽になる。同じく石井真木が書いた「ディポール」という曲。

 オーケストラが一段落するとまた雅楽になり、さらにまたオーケストラが入ってきて、最後はオーケストラと雅楽とが同時に演奏する。最後の部分では雅楽はオーケストラに埋もれがちだった。

 そういう曲だったが、わたしが感じたのは、オーケストラの音楽に魅力が欠けることだった。多数の打楽器を叩きまくる音楽は、いかにも石井真木だが、今聴くと、それが不思議と現代感覚に乏しく、当時の熱気の記録写真のように感じられた。

 この曲は2曲目に演奏された。1曲目は石井真木の師ボリス・ブラッハーの「パガニーニの主題による変奏曲」、3曲目はイベールの「寄港地」、4曲目はドビュッシーの「海」。山田和樹の丸みのあるサウンドがよくもあり、また物足りなくもあった。
(2017.9.9.サントリーホール)
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ゲオルク・フリードリヒ・ハースの管弦楽

2017年09月08日 | 音楽
 細川俊夫が監修するサントリーホール国際作曲委嘱シリーズの今年のテーマ作曲家はゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)。開演前のプレトークに登場したハースは、写真よりも太っていた。今は亡き指揮者カール・ベームに(少し)似ている。ハースもベームもオーストリアのグラーツ生まれ。同郷人だ。

 プレトークの内容は省くが、細川俊夫の質問が的確かつ簡潔でよかった。お陰でハースの話が十分に聞けた。通訳の方も優秀だった。

 さて1曲目はハースの師フリードリヒ・ツェルハ(1926‐)の「夜」(2013)。演奏時間はおよそ20分の曲だが、その中間あたりでいかにもベルクのような濃密な音楽が出てきた。それ以外の部分での現代的な感覚とは明らかに異質。未完のオペラ「ルル」の第3幕を補筆・完成させたツェルハがベルクに捧げたオマージュか。

 演奏はイラン・ヴォルコフ指揮東京交響楽団。以下の曲でも同様だが、ヴォルコフのモチベーションの高さと、オーケストラにたいする強いリーダーシップが印象的だった。東京交響楽団もよくついていった。

 2曲目は今年の委嘱作品、ハースの「ヴァイオリン協奏曲第2番」(2017)。全体は9つの部分からなり、それらが切れ目なく続く。演奏時間はおよそ32分。各部分には名称がついているが、その8番目の「純正音程」の美しさに思わず身を乗り出した。沼野雄司氏のプログラムノーツによれば、「「ソより四分音高い音」の上に構成される倍音を全楽器が奏する」響き。その澄んだ美しさは、別世界を垣間見るようだった。

 ヴァイオリン独奏はミランダ・クックソン。新作のこの曲をすっかり掌中に収めた演奏。少しも硬さがなく、しなやかな感じさえした。オーストラリア生まれの女性奏者。大変な実力の持ち主かもしれない。

 3曲目はハースの現在の弟子キャサリン・ボールチ(1991‐)の「リーフ・ファブリック」(2017)。ツェルハ~ハース~ボールチと3代続く血脈がありそうだ。

 4曲目はハースの「夏の夜に於ける夢」(2009)。曲が始まってしばらくすると、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」序曲の冒頭の4つの和音が出てくる。しみじみと心に沁みるが、そのうち、どことなくワーグナーのような音響が現れる。反ユダヤ主義者のワーグナーはメンデルスゾーンを攻撃した。そんな事実の示唆か。
(2017.9.7.サントリーホール)
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カスプシク/読響

2017年09月07日 | 音楽
 ヤツェク・カスプシクの名前はずいぶん昔から(たぶん何十年も前から)聞いているが、その指揮に接するのは初めて。ヴェテラン指揮者だと思っていたが、長身痩躯で颯爽と登場した。後でプロフィールを見たら1952年生まれ。今は指揮者として脂の乗り切った時期だろう。現在はワルシャワ・フィルの音楽監督を務めている。

 1曲目はヴァインベルク(1919‐96)のヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はギドン・クレーメル。「近年クレーメルが蘇演しにわかに脚光を浴びるようになった」曲(マリーナ・チュルチェワ氏のプログラム・ノーツ)。ヴァインベルク・ルネサンスが起きている。その一環だと思われる。

 全4楽章からなるこの曲の第3楽章アダージョでの、沈潜した、集中力のある演奏が凄かった。クレーメルの独奏はもちろんだが、カスプシクの指揮も同様。息をするのも憚られるような緊張感があった。ライヴならではの緊張感。

 アンコールが演奏された。短い曲が2曲。その2曲目にショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番の冒頭テーマが出てきた。思わずニヤリとした。次のショスタコーヴィチの交響曲第4番への橋渡しを考慮した選曲だろう。クレーメルの選曲の妙に感心した。演奏会が終わってから、出口で掲示を見た。ヴァインベルクの「24のプレリュード」から第4番と第21番だった。

 プログラム後半はショスタコーヴィチの交響曲第4番。前曲でのオーケストラの演奏に引き締まった造形感があり、焦点がよく合った演奏だったので、期待が高まった。

 第1楽章は、曲の各部分が強調され、引き裂かれ、あるいは唐突に移行した。サイケデリックというと言い過ぎだが、現代音楽のような感覚があった。わたしは先年ラザレフが日本フィルを振った名演を想い出した。あのときは整然とした時間の流れの中にあったこの曲が、今はいびつな時間の荒波に翻弄されているようだった。

 第2楽章はストレートな表現だったが、緩徐楽章とフィナーレとが合体された第3楽章の、そのフィナーレの部分で、わたしは幾つもの表象が浮き上がるような、そういう表象からなる音楽を感じた。交響曲第15番でそう感じることがあるが、この曲でそう感じたことは初めて。興味深かった。

 コンサートマスターの荻原尚子をはじめ、ファゴット、イングリッシュホルン、トロンボーンその他のソロの名技を堪能した。
(2017.9.6.東京芸術劇場)
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“戦前日本のモダニズム”―忘れられた作曲家、大澤壽人―

2017年09月04日 | 音楽
 改修工事が終わって、7ヶ月ぶりに訪れたサントリーホール。内装はできるかぎり改修前の雰囲気を残したというだけあって、内部の雰囲気が変わっていないことがいい。2階のトイレは男女のエリアがはっきり分かれ、しかもそれぞれ拡張された。また2階に上がるエレベータが新設された。

 ともかく7ヶ月ぶりのサントリーホールは懐かしく、古巣に戻ったという感慨があったことは、我ながら可笑しかった。

 毎年恒例のサントリー芸術財団のサマーフェスティヴァル。今年のプロデューサーは片山杜秀。言われてみれば、なるほどと思うが、片山杜秀が組んだプログラムは、太平洋戦争をはさんだ戦前、戦中、戦後の日本人作曲家の歩みを辿るもの。片山杜秀の頭の中では、作曲家の歩みと近代日本の歩みとの密接な絡み合いが俯瞰されているのではないだろうか。いずれ大部の著作に結びつく期待を抱かせる。

 全4回シリーズの初回は“戦前日本のモダニズム”―忘れられた作曲家、大澤壽人―。大澤壽人(おおざわ・ひさと、1906‐53)は神戸生まれ。関西学院を卒業した後、30年に渡米(ボストン)。さらに34年に渡仏(パリ)。36年帰国。

 当時の日本人作曲家の中では最先端を走っていた一人だと思うが、帰国後は、日中戦争に突入した日本にあって、必ずしも順調にはいかなかった。今回演奏されたピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」は、38年の発表当時、「愛国的」ではないと批判された(なお、神風とは特攻隊の「神風」ではなく、朝日新聞社が所有していた飛行機の名称)。

 没後、急速に忘れられ、2000年に片山杜秀と神戸新聞の藤本賢市記者が神戸の旧宅の蔵開けをするまで、長い眠りについた。

 今回演奏された曲は、コントラバス協奏曲(1934年)、上記のピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」(1938年)そして交響曲第1番(1934年)。コントラバス協奏曲と交響曲第1番とは世界初演。作曲されてからなんと83年ぶりに音になった。軽い音と淡い色彩の前者に対して、大編成のオーケストラによる濃厚な色彩の後者と対照的。また「神風協奏曲」は聴きどころ満載の傑作だ。

 演奏は山田和樹指揮日本フィル。3曲それぞれの個性を描き分けた好演。大澤壽人「再発見」の役割を十分果たした。コントラバス独奏の佐野央子は慎重な演奏だったか。ピアノ独奏の福間洸太朗はスリリングな名演。
(2017.9.3.サントリーホール)
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静かなる情熱 エミリ・ディキンスン

2017年09月02日 | 映画
 映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」を観た。じつは、観ようか、観まいか、ずっと考えていたのだが、観ないで後悔するよりも、観てから考えようと思って出かけた。

 エミリ・ディキンスン(1830‐1886)はアメリカの詩人。生前に発表した詩はわずか10篇ほど。エミリが亡くなってから、妹のラヴィニアがエミリの1,800篇ほどの詩篇を発見した。ラヴィニアは出版を始めた。その後、紆余曲折を経て、最初の全集が出たのは1955年。エミリの詩作の全貌が明らかになった。

 今ではエミリは、ホイットマン(1819‐1892)と並んで、アメリカの代表的詩人とされている。上記の伝説的な生涯は、ロマンティックな感傷をそそるし、またその詩は、その生涯にふさわしい慎ましさと感性の鋭さとを備えている。

 わたしもエミリの生涯については、ある一定のイメージを持っているので、それが映画を観ることによって、どうなるか。映画の効果は強烈なので、わたしのイメージに外から枠をはめることにならないか、と‥。

 でも、観てよかった。詩人が詩人であるためには、どれだけの代償を払わなければならないかを、よく理解することができた。詩人であることは、奇麗事ではない。世間と妥協できない自分を見つめ、自分を裏切らないことが求められる。それによってどれだけ孤立しても、孤立に甘んじなくてはならない。周囲の人々の(妥協を勧める)助言からも自分を守らなければならない。それがどんなに辛くても。

 半面、この映画のどこまでが真実で、どこからが脚色か、その境目が気になった。というのは、わたしの知っている史実とこの映画とで、微妙に異なる点が複数あったから。それが気になってくると、そもそもこの映画の基調となっているエミリとその家族との間の会話(時には激しいぶつかり合いを含む)には、どの程度の脚色が織り込まれているかが気になった。

 エミリの評伝は、少なくとも日本語で読めるものは、まだ出ていないのではないか。やがて評伝が出たら、そのような点を確かめたいと思う。

 エミリは、わたしのような音楽好きには、武満徹の室内楽「そして、それが風であることを知った」でお馴染みだ(その題名はエミリの詩の一節から採られている)。武満の最晩年の平明な音楽。エミリの詩の韻律よりも、武満の最後の心象風景が反映された曲のように感じる。
(2017.8.31.岩波ホール)

(※)本作のHP
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