Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

MUSIC TOMORROW 2023

2023年06月28日 | 音楽
 N響恒例のMUSIC TOMORROW 2023。今年の指揮者はイギリスの作曲家・指揮者のライアン・ウィグルスワースが予定されていたが、直前にキャンセルされた。急遽代役に立ったのはミラノ在住の杉山洋一。演奏曲目のスコアは事前に杉山洋一にデータで送ったのだろうが、たとえば後述する世界初演のスルンカ作曲「スーパーオーガニズム」は4管編成の巨大な曲だ。スコアは何十段にもなる。それを杉山洋一はデータで受け取り、短時間で読み込み、帰国してリハーサルをして、本番に臨む。プロの仕事だ。

 さて、今年のプログラムだが、尾高賞の受賞作品は2曲あった。藤倉大(1977‐)の「尺八協奏曲」(2021)と一柳慧(1933‐2022)の「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」(2022)だ。まず藤倉大の「尺八協奏曲」から。尺八独奏は藤原道山。演奏時間は30分弱あったのではないか(体感的には)。その持続時間を、しかも単一楽章なのだが、飽きさせずに聴かせるのは、藤倉大の力量だ。延々と続く尺八のモノローグをオーケストラのシャープな音型が支える。

 この曲はフランスのブリュターニュ管弦楽団からの委嘱作品だ。武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」のころの和楽器と西洋オーケストラとの対峙というコンセプトから遠く離れて、和楽器が西洋オーケストラと自然体で交感する。両者は親和性を見出す。時代は、そして世界は、大きく変わったようだ。

 2曲目は一柳慧の「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」。ヴァイオリン独奏は金川真弓、三味線独奏は本條秀慈郎。昨年亡くなった一柳慧の、生前完成された最後の作品だ。わたしはカンブルラン指揮読響の初演を聴いた。そのときと今回とでは、とくにオーケストラ演奏の印象がだいぶ違った。カンブルランの冷徹な演奏と今回の熱い演奏と。わたしは、こういってはなんだが、この曲のオーケストラの動的な部分はステレオタイプに聴こえるのだが、その点は今回のほうが聴きやすかった。

 3曲目はミロスラフ・スルンカMiroslav Srnka(1975‐)の「スーパーオーガニズム」。スルンカはチェコ出身でドイツ在住の作曲家だ。「スーパーオーガニズム」はN響、ベルリン・フィル、ロサンゼルス・フィル、パリ管、チェコ・フィルの共同委嘱作品。スーパーオーガニズムとは生物学で「同種の生物が高度に分業しながら組織との相乗効果を発揮し、全体が部分の総和以上になった生命形態を指す」(白石美雪氏のプログラムノーツ)。たとえば蜂や蟻のコロニーがそれに当たるようだ。曲は全4楽章からなる。第1楽章の重心の高い澄んだ音響に斬新さを感じる。第4楽章は音が密集する。松村禎三の「交響曲第1番」の第3楽章(最終楽章)を思い出す。その楽章はイナゴの大群にたとえられることがある。松村禎三の場合は最後に静まる。一方、スルンカの場合は最後に爆発する。
(2023.6.27.東京オペラシティ)
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マリオッティ/東響

2023年06月25日 | 音楽
 ローマ歌劇場の音楽監督を務めるミケーレ・マリオッティが東京交響楽団を振った。曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番(ピアノ独奏は萩原麻未)とシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」。ハ長調プログラムだ。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第21番では、オーケストラの出だしの、人の足音のようなリズムが、ピタッと揃って軽やかに刻まれる。それに続く弦楽器の歌も、羽毛が舞うように軽い。そう感じるのは、細かくて敏捷な抑揚がつけられているからだろう。そこまでの導入部でマリオッティの音楽性が感じられるようだった。

 萩原麻未のピアノは、ややくすんだ音色で(とくに第2楽章までは)譜面の内側を見つめるような演奏だった。ハ長調という調性からは、晴れやかな音楽を読み取りがちだが、それよりもむしろ澄んだ空の悲しみを感じさせるような演奏だった。

 第3楽章は活力にあふれた演奏だったが、その第3楽章をふくめて、全体はピアノとオーケストラの双方が完璧にコントロールされ、加えて楽々と息づく演奏だった。第2楽章に過度な甘さがなかった点も納得できた。

 萩原麻未のアンコールがあった。バッハ=グノーの「アヴェ・マリア」だ。モーツァルトのとくに第2楽章までのくすんだ音色とは異なり、バッハの音型がクリスタルガラスのような輝きを放った。その音型に乗るアヴェ・マリアの旋律が滋味豊かだった。

 シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」も生気のある演奏だった。第1楽章と第2楽章はシューベルトのグムンデン~バート・ガスタインの、おそらく人生でもっとも楽しかった大旅行の気分が横溢する演奏だった。それは曲の成立過程からいって当然といわれるかもしれないが、なかなかそうはいかなくて、聴いていて疲れる演奏も多いのだ。

 第3楽章は堂々たるスケルツォだが、昨日の演奏を聴いて、ブラームスのスケルツォはこれをモデルにしたのではないかと思った。マリオッティの指揮が、生気のある音はそのままに、どっしりとした安定感があったからだろう。第4楽章は再びグムンデン~バート・ガスタインの旅行の気分に戻った。「第九」の鼻歌も、そこだけ浮き上がらずに、シューベルトの高揚した気分の中に収まった。

 マリオッティの東京交響楽団初登場は大成功に終わった。大向こう受けをねらわずに、地味な選曲だったが、それをしっかりした手応えで聴かせた。聴衆は大喝采だった。マリオッティのソロ・カーテンコールになった。わたしも拍手に加わった。
(2023.6.24.サントリーホール)
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新国立劇場「楽園」

2023年06月21日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門は、今シーズン、シリーズ企画「未来につなぐもの」の公演を続けている。中堅世代の劇作家が新作を書き、同世代の演出家が演出をする企画だ。あるきっかけで第一作「私の一ヵ月」を観た。せっかくだからと、第二作「夜明けの寄り鯨」も観た。そこまで観たのだからと、シリーズ最後となる第三作「楽園」も観た。回を追うごとにおもしろい作品になっていった印象だ。

 「楽園」は登場人物7人全員が女性だ。作者の山田佳奈も女性。そこにスタッフ・キャスト中唯一の男性として演出の眞鍋卓嗣が加わる。眞鍋卓嗣はインタビューに答えていう。「俳優が女性だけの作品を演出するのは初めてです。こうなると、山田さんが演出したほうが良いのでは、と投げかけたことがあるのですが、その時、「敢えて男性である眞鍋さんが良いと思う」とおっしゃっていて(笑)」と(「ジ・アトレ」4月号)。なかなか興味深い。たしかに、たとえば男性作家が書いた男性だけの作品があったとして(どこかにありそうだ)、それを男性が演出するよりも、女性が演出したほうがおもしろいかもしれない。

 登場人物全員が女性という設定は、新国立劇場が以前上演した「まほろば」を思い出させる。「まほろば」は、作:蓬莱竜太、演出:栗山民也だった。男性作家が女性だけの作品を書いて、それを男性が演出した。わたしは公演を観ることはできなかったが、後日、台本を読んだ。女性同士の本音のぶつかり合いだと思った。「楽園」は「まほろば」にくらべると、女性の抱える問題が語られはするけれども、それほど濃密ではなく、さらっとしている。

 ストーリーをざっというと、場所は日本のどこかの島だ(沖縄の離島のような気配だ)。そこで一年に一度、神事が行われる。神事は女性だけで行われる。男性は参加できない。島の女性たちが集まる。東京から取材に来た女性も加わる。そこに起きるてんやわんやが本作だ。

 前述したように、登場人物は7人だが、神事を取り仕切る「司さま」を除く6人は、2人ずつの3組にグルーピングできそうだ。東京から取材に来た「東京の人」と島の男と結婚した「若い人」は、他所から来た人という点で共通する。「村長の娘」と「区長の嫁」は、村長と区長が選挙でたたかう間柄なので、「村長の娘」は「区長の嫁」をいじめる。神事が行われる家の「おばさん」と出戻りの「娘」は親子だ。

 全体は室内オペラのような精妙なアンサンブルでできている。時折デュエットのような二人だけの会話の部分が挟まれる。最後は「司さま」の舞いになる。その舞いが美しい。舞いに合わせて、戦争で死んだ若者たちの霊が降りてくる。
(2023.6.20.新国立劇場小劇場)
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METライブビューイング「チャンピオン」

2023年06月17日 | 音楽
 METライブビューイングでオペラ「チャンピオン」。作曲はジャズのトランペット奏者でもあるテレンス・ブランチャード。台本はミッチェル・クリストファー。セントルイス歌劇場とジャズ・セントルイスの共同委嘱作品。2013年にセントルイス歌劇場で初演された。

 実在のプロボクサー、エミール・グリフィス(1938‐2013)の栄光と苦悩を描く。ボクシングのチャンピオンまで昇りつめた裏側でゲイであることに悩むエミール。ブランチャードは開幕前のインタビューに答えて、「ゲイであるために差別される。そんな差別をいつまで続けるんだ、という気持ちで作曲した」(大意)という。折しもわたしが観た6月16日は、日本の国会で多くの問題を抱えるLGBPQ法案が成立した。保守派の圧力で骨抜きにされ、捻じ曲げられた法案。差別はアメリカだけではなく、日本にも現存する。

 エミールは黒人であり、(先述したように)ゲイでもある。2重のマイノリティだ。あるとき、試合前の計量で、相手はエミールを「ゲイ野郎」とののしった。試合でエミールは相手に7秒間で17発のパンチを打ち込んだ。相手は意識を失って倒れ、そのまま病院で亡くなった。エミールにはその出来事がトラウマになった。あのパンチは相手にたいするパンチではなく、自分の内なるゲイの性向にたいするパンチではなかったかと。

 年老いて体が不自由になり、認知症の兆候が始まるエミールは、亡くなった相手の息子と会うことを切望する。やっと対面がかなう。エミールは許しを請うが‥。

 幕間に(あるいは開幕前に)だれかがいっていた。「モーツァルトもプッチーニもいい。だが、どちらもヨーロッパの白人のオペラだ。世界には多様な人々がいる。多様な人々が自分の問題だと感じられるオペラを作りたい」と(大意)。「チャンピオン」はそういうオペラだ。

 舞台にはボクシングのリングが設置される。オペラ歌手がボクシングをする。演技だが真に迫っている。肉体もボクシング選手並みに引き締まっている。青年時代のエミールを演じ、かつ歌うのは、ライアン・スピード・グリーン。スター誕生だ。老年時代のエミールはお馴染みのエリック・オーウェンズ。じつに味がある。その他に少年時代のエミールをボーイソプラノ歌手が歌う。清純な声がひときわ異彩を放つ。

 演出はジェイムズ・ロビンソン。エミールの少年時代、青年時代、老年時代が重なるストーリーをわかりやすく見せる。指揮はヤニック・ネゼ=セガン。ボクシングのガウンを着ての指揮だ。カミール・A・ブラウン振付のダンスも見ものだ。現代の猥雑な息吹をいやがうえにも舞台に発散する。
(2023.6.16.109シネマズ二子玉川)
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鈴木優人/読響

2023年06月14日 | 音楽
 鈴木優人指揮読響の定期演奏会。1曲目はアタイールのチェロ協奏曲「アル・イシャー」。チェロ独奏はジャン=ギアン・ケラス。

 アタイールってだれ?と思う。バンジャマン・アタイールBenjamin Attahir。1989年生まれのフランスの作曲家だ(澤谷夏樹氏のプログラムノーツより)。レバノンの首都ベイルートにルーツを持つそうだが、どんなルーツかは、記載がない。「アル・イシャー」Al Ichaはケラスの独奏で2021年にパリで初演された。それ以来、ヨーロッパ各地で演奏されている。

 演奏時間約30分の単一楽章の曲だ。重心の高い音で鮮やかな色彩感がある。疾走する部分と静まる部分とが何度も出てくる。異なる風景が次々に現れるような感覚だ。部分的にはいかにも中東的な音調も聴かれる。全体の構成の把握は、一聴しただけでは難しい。むしろ移り変わる音の風景の生きのよさが楽しめる曲だ。

 アル・イシャーとはイスラム教の一日5回の礼拝の最後の礼拝(=夜の礼拝)を意味するそうだ。夜の音楽というとバルトークを思い出すが、バルトーク流の、静謐な中にもさまざまな物の気配が聴こえる音楽とはちがって、動きがあり、活気があり、すべての音に明瞭な輪郭がある音楽だ。中東の夜はそうなのか。

 ケラスのチェロ独奏はもとより、鈴木優人指揮する読響も、難易度のきわめて高そうなこの曲を鮮やかに演奏した。音の照度が高くて、光り輝くネオンサインの街を車で疾走するような爽快感があった。

 ケラスのアンコールがあった。これも中東的な音調があった。会場の掲示によると、アフメト・アドナン・サイグンAhmet Adnan Saygunの「ソロ・チェロのためのパルティータ」からアレグレットとのこと。サイグンって? 帰宅後調べてみると、1907年生まれのトルコの作曲家だ(1991年没)。パリのスコラ・カントルムでダンディに学んだ。興味をひかれたのは、1936年にバルトークがトルコの民謡採集をした際に、サイグンが助手を務め、バルトークから多くを学び、親交を結んだ点だ。サイグンには交響曲が5曲ある。CPOレーベルから全集が出ているので、今度聴いてみよう。

 プログラム後半はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。鈴木優人らしくインテンポで硬く締まった演奏だ。“巨匠”風の指揮者に接する機会が多いオーケストラには、鈴木優人のようなスタイルに触れることも有意義だろう。ただ、いつもそうだが、鈴木優人は現代曲の色彩豊かな演奏に比べて、古典派の演奏では音色がモノクロになる‥。
(2023.6.13.サントリーホール)
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ノセダ/N響

2023年06月12日 | 音楽
 ジャナンドレア・ノセダが指揮するN響を聴くのは4度目だ。前回2015年1月から8年たっている。ずいぶんいい指揮者になったと思う。前3回も鮮烈な印象を残したが、今回はそれに増して、粗さが消え、アンサンブルがしなやかにまとまっている。照度の高い色彩感と鋭角的なリズム感は変わらない。むしろ一層研ぎ澄まされている。

 1曲目はプロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」。前述のようなカラフルな音色とシャープなリズムはこの曲にうってつけだ。奇想天外、諧謔性に富む音楽が十全に描かれた。それにしてもこの音楽は、プロコフィエフでなければ書けない音楽だ。プロコフィエフ以外のだれがこんな音楽を思いつくだろうかと‥。

 私事だが、2002年5月にベルリンのコーミシェオーパーでこのオペラを観た。それはわたしのオペラ体験の中でも忘れられない体験のひとつだ。こんなに洒落たオペラがあったのかと思った。序幕で芝居見物人たちが現れ、それぞれ勝手な希望をいう。やがて芝居(オペラ)が始まる。芝居見物人たちはヤジを飛ばしたり、批評したり、笑い転げたりする。今でもその舞台がうっすらと記憶に残っている。演出はアンドレアス・ホモキだった。指揮はミハイル・ユロフスキー(現バイエルン州立歌劇場の音楽監督ウラディミール・ユロフスキーの父親だ)。

 2曲目はプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフBehzod Abduraimov。当初はアレクサンドル・トラーゼが予定されていたが、昨年亡くなったので、アブドゥライモフに代わった。

 プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番は前日に、阪田知樹のピアノ独奏、大植英次指揮の日本フィルで聴いたばかりなので、どうしても比較してしまう。結論的にいえば、アブドゥライモフのほうが、第4楽章(最終楽章)のパッチワークのように錯綜する楽想を、余裕をもって丁寧に描き分けていた。阪田知樹は肩に力が入っていた。

 アブドゥライモフのアンコールがあった。バレエ「白鳥の湖」のナポリの踊りをピアノ独奏用に編曲したものだ。軽やかなリズムが楽しかった。チャイコフスキーの「こどものアルバム」作品39に入っているという。

 3曲目はカゼッラの歌劇「蛇女」からの交響的断章。第1組曲と第2組曲からなり、第2→第1の順に演奏された。ド派手な部分もある賑やかな音楽だ。カゼッラはレスピーギと同様に、ムッソリーニの率いるファシスト党を支持した。レスピーギは途中から政権とは距離を置いたが、カゼッラは支持し続けた。
(2023.6.11.NHKホール)
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高関健・山上紘生/東京シティ・フィル

2023年06月10日 | 音楽
 気が付いてみたら、吉松隆ブームが来ている。吉松隆の長年の伴走者・藤岡幸夫の一貫した努力に加えて、若手の指揮者・原田慶太楼の参入も大きい。さらにいうなら、藤岡幸夫の見出した菅野祐悟の人気により、吉松隆がその先駆者のように見え、現代のひとつの潮流のように感じられることも要因だろう。

 東京シティ・フィルの6月の定期演奏会は、藤岡幸夫が吉松隆の交響曲第3番をふるので期待の演奏会だった。だが、直前になって、藤岡幸夫が体調を崩した。肺炎を起こして、1週間程度の入院加療という。さて、どうする。吉松隆の交響曲第3番をレパートリーにする指揮者は、藤岡幸夫以外には、原田慶太楼くらいしかいない。原田慶太楼のスケジュールが空いていればいいが、そうでなかったら‥。

 で、結局、東京シティ・フィルの指揮研究員・山上紘生(やまがみ・こうき)がふることになった。山上紘生は体調不良の藤岡幸夫に代わって、リハーサル初日をふった。二日目もふった。リハーサルには常任指揮者の高関健が立ち会った。作曲者の吉松隆も駆け付けた。高関健と吉松隆と東京シティ・フィルの楽員が話し合い、山上紘生がふれそうだという結論に達した。さあ、山上くん、がんばれと、藤岡幸夫も応援した。

 演奏会本番。聴衆をふくめて、関係者全員が見守る中で、山上紘生は演奏時間約45分の大作をふりきった。全4楽章からなるが、最後の第4楽章がもっとも見事だった。オーケストラの音が引き締まり、とくにコーダが熱狂的に盛り上がった。演奏終了後、オーケストラが笑顔で山上紘生を称えた。

 山上紘生は東京藝大で指揮を高関健と山下一史に師事した。高関健は山上紘生の指導教官だ。その高関健の見守る中での大舞台。高関健から見たら、指摘すべき事項はいくつもあるだろう。大喝采に包まれた演奏だが、山上紘生は後日、高関健の厳しい指摘を受けて、さらに成長してほしい。オーケストラも聴衆も応援している。

 プログラム前半は高関健がふった。1曲目はシベリウスの「悲しきワルツ」。弦楽器のほの暗い音色が印象的だ。2曲目はグリーグのピアノ協奏曲。ピアノ独奏は務川慧悟。明暗のコントラストがはっきりした演奏で、けっして弾き流さない。第2楽章のピアノのモノローグが陰影深く演奏された。またオーケストラの音に張りがあった。さすがに高関健と東京シティ・フィルのコンビだ。産休明けの谷あかねさんのホルンも懐かしかった。

 務川慧悟のアンコールがあった。「カルメン幻想曲」(ホロヴィッツ編)。テクニック全開の編曲だ。会場の掲示でホロヴィッツの編曲と知って納得。
(2023.6.9.東京オペラシティ)
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世田谷美術館「麻生三郎展」

2023年06月06日 | 美術
 世田谷美術館で「麻生三郎展」が開かれている。麻生三郎(1913‐2000)は1948年から1972年まで世田谷区の三軒茶屋に住んだ。ちょうど日本の高度成長期に重なる。その時期の作品を集めた展示だ。作品からは騒然とした時代が伝わる。

 本展のHP(↓)にいくつかの作品の画像が載っている。「母子」(1949年、個人蔵)は全体的に暗い色調の作品だ。憂い顔でうつむく母親と、まっすぐこちらを見据える娘とが対照的に描かれる。そのような作例は、麻生三郎にかぎらず、当時の他の画家の作品にも見られる。時代を反映した心情の表れだろうか。

 HPには画像がないが、「赤い空」(1956年、東京国立近代美術館)は画面全体が燃えるような赤に染まる。赤はこの時期の麻生三郎の特徴だ。本作品はその典型といえる。夕焼けの反映と思えば思えるが、それ以上に空襲の残像のように見える。背景には黒い煙突や工場のような建物が見える。1956年といえば高度経済成長に入った時期だ。空襲の残像が残る街に復興の槌音がひびく。

 「人」(1958年、神奈川県立近代美術館)はHPに画像が載っている。赤一色ではなく、赤と黒と灰とこげ茶が使われ、画面全体にザラッとした手触りがある。復興の喧騒と埃っぽさが感じられる。背景にはクレーンのようなものや工場、家屋が見える。手前には二人の人物が立つ。母子だろうか。二人ともまっすぐ正面を向く。娘はもちろんだが、母親ももううつむいてはいない。二人の後ろを歩く人物がいる。だれだろう。通行人か。画家自身か。

 上記の「赤い空」と「人」と、そのあいだに描かれた「赤い空と人」(1957年、横須賀美術館)のころが、麻生三郎の頂点だったのではないだろうか。多くの社会問題をふくむすさまじい時代のエネルギーを一身に受け止め、作品に表現する気迫がみなぎる。

 作品はその後、人体が次第に解体され、一見抽象画のような作風に進むが、抽象画とは根本的に発想がちがうようだ。「ある群像」(1967年、神奈川県立美術館)、「ある群像2」(1968年、同)、「ある群像3」(1970年、同)の3点は、抽象画のように見えるが、いずれも目のようなものがはっきり見える。解説パネルによると、これら3点は「激化し泥沼化の様相を呈するベトナム戦争に対する思い」を込めて描かれたという。

 油彩画とは異なり、デッサンは子どもの落書きのように見える。たとえばチラシ(↑)に使われた「三軒茶屋」(1959年、神奈川県立近代美術館)は、家々が立ち並ぶ中を母親が乳母車を押し、その横を男が歩く。麻生三郎の家族の風景だろうか。ほのぼのとした味がある。これが上記の1950年代後半の油彩画と並行して描かれた。
(2023.5.24.世田谷美術館)

(※)本展のHP
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新国立劇場「リゴレット」

2023年06月01日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「リゴレット」。歌手も指揮者も良く、満足度の高い公演だった。タイトルロールのロベルト・フロンターリは重厚で深々とした人間性を感じさせ、リゴレットの造形として説得力があった。ジルダのハスミック・トロシャンは、今が旬の若々しく伸びのある声をもち、高音もよくきまった。

 マントヴァ公爵のイヴァン・アヨン・リヴァスは、張りのある高度な歌唱を聴かせ、本公演の最大の発見だった。リヴァスという名前を覚えておこう。今後世界中の歌劇場でその名を見かけるようになるかもしれない。1993年ペルー生まれ。ペルー出身の歌手というと、ファン・ディエゴ・フローレスがいる。リヴァスはフローレスの指導を受けたこともあるそうだが、フローレスとはタイプが異なる。今後同じように活躍してほしい。

 指揮はマウリツィオ・ベニーニ。音楽をけっして弛緩させず、緊密にドラマを構成し、かつ歌にもオーケストラにも豊かなニュアンスを付与した。劇場たたき上げの指揮者の凄みを感じさせた。現代には希少なタイプのひとりかもしれない。オーケストラは東京フィルで、音の薄いところもあったが、ベニーニによくついていった。

 演出はエミリオ・サージ。とくになにをやっているわけでもなかったが、ドラマを整理して提示したとはいえる。最後の最後で、兄妹のスパラフチーレとマッダレーナが、兄妹の関係をこえて、近親相姦の関係があるように描かれた。本作品は宮廷社会の退廃を描いたオペラだが、退廃は庶民のあいだにも及んでいるというわけか。その後のスパラフチーレのジルダ殺害の場面では、マッダレーナも殺害に加わった。

 新国立劇場は本公演を「新制作」と謳っているが、スペインのビルバオ歌劇場が2013年に制作したもののようだ(プログラムのところどころから読み取れる)。それならそうと、「新制作」と謳うだけではなく、はっきり明記してほしい。

 「リゴレット」は、ドラマトゥルギー上は苦しい点がなくもないが、それでも宮廷の道化のリゴレットが、普段は君主・マントヴァ公爵の権力を笠に着て、廷臣たちを侮辱する一方で、家庭では一人娘のジルダを溺愛する(ただし、教会以外は外出を禁じるなど、グロテスクな面がある)という具合に、2重3重の深みがある。またジルダは、最初は世間知らずの純な娘だが、ドラマの展開とともに成長する。

 一方、マントヴァ公爵は、最初から最後まで変わらず、平面的だといわれる。だが、本当にそうだろうか。マントヴァ公爵は、自分がなにをやっても罰せられないことを知っている権力者として、今の社会から見ると一番興味深い。
(2023.5.31.新国立劇場)
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