デニス・ラッセル・デイヴィスが客演指揮した読響の定期。現代音楽に強いこの指揮者ならではのプログラムが組まれた。1曲目はスクロヴァチェフスキの「ミュージック・アット・ナイト」。昨年2月に93歳で逝去した前常任指揮者スクロヴァチェフスキを偲ぶという意味合いは、特段標榜されてはいなかったが、定期会員としては、どうしてもそういう想いが湧いてくる。
だが、その演奏からは、スクロヴァチェフスキの姿は思い浮かばなかった。端的にいって、音が重いのだ。スクロヴァチェフスキの演奏は、もっとリズムが軽く、音の動きが活発で、粒立ちがよかった。それに対して当夜の演奏は、あえていえば表現主義的というか、物々しい雰囲気に覆われていた。
スクロヴァチェフスキはもう戻ってこないのだと思った。高齢になっても音楽が衰えず、活発な音楽的思考を続けていた賢人の姿は、稀有なものだった。本人亡きあと、その作品の演奏は変わっていくのか。
2曲目はモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」。フルートはエマニュエル・パユ、ハープはマリー=ピエール・ラングラメ、ともにベルリン・フィルの首席奏者同士の組み合わせ。当夜のチケットは完売だったが、それはパユの人気に負うところが大きかったにちがいない。
そのパユの演奏は、もうこれ以上はないという演奏。音の柔らかさ、起伏の豊かさ、息のコントロールの自在さ、そのどれをとっても世界最高峰と思われた。対するハープも流麗で、控えめながらも、完璧に整えられたテクスチュアでフルートを支えた。
アンコールが演奏された。エキゾチックで、たいへん魅力的な小品だった。だれの曲かと思って、休憩中にロビーの掲示を見にいったら、イベールの「フルートとハープのための間奏曲」という曲だった。
3曲目はジョン・アダムズの「シティ・ノワール」。これは一級品の演奏だった。1曲目での音の重さが消え、シャープで底光りのする音になった。全3楽章からなる曲だが、その第3楽章は「春の祭典」の最後の部分「生贄の踊り」のラテン音楽版といったらよいか、最高にノリのよい音楽で、ステージ上に熱狂が渦巻いた。
もしこれが欧米だったら、スタンディング・オベーションはまちがいないだろうと、演奏の見事さのわりに冷静なように感じられる会場風景を見て思った。
(2018.11.28.サントリーホール)
だが、その演奏からは、スクロヴァチェフスキの姿は思い浮かばなかった。端的にいって、音が重いのだ。スクロヴァチェフスキの演奏は、もっとリズムが軽く、音の動きが活発で、粒立ちがよかった。それに対して当夜の演奏は、あえていえば表現主義的というか、物々しい雰囲気に覆われていた。
スクロヴァチェフスキはもう戻ってこないのだと思った。高齢になっても音楽が衰えず、活発な音楽的思考を続けていた賢人の姿は、稀有なものだった。本人亡きあと、その作品の演奏は変わっていくのか。
2曲目はモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」。フルートはエマニュエル・パユ、ハープはマリー=ピエール・ラングラメ、ともにベルリン・フィルの首席奏者同士の組み合わせ。当夜のチケットは完売だったが、それはパユの人気に負うところが大きかったにちがいない。
そのパユの演奏は、もうこれ以上はないという演奏。音の柔らかさ、起伏の豊かさ、息のコントロールの自在さ、そのどれをとっても世界最高峰と思われた。対するハープも流麗で、控えめながらも、完璧に整えられたテクスチュアでフルートを支えた。
アンコールが演奏された。エキゾチックで、たいへん魅力的な小品だった。だれの曲かと思って、休憩中にロビーの掲示を見にいったら、イベールの「フルートとハープのための間奏曲」という曲だった。
3曲目はジョン・アダムズの「シティ・ノワール」。これは一級品の演奏だった。1曲目での音の重さが消え、シャープで底光りのする音になった。全3楽章からなる曲だが、その第3楽章は「春の祭典」の最後の部分「生贄の踊り」のラテン音楽版といったらよいか、最高にノリのよい音楽で、ステージ上に熱狂が渦巻いた。
もしこれが欧米だったら、スタンディング・オベーションはまちがいないだろうと、演奏の見事さのわりに冷静なように感じられる会場風景を見て思った。
(2018.11.28.サントリーホール)