Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

東京都美術館「印象派 モネからアメリカへ」展

2024年02月29日 | 美術
 東京都美術館で開催中の「印象派 モネからアメリカへ」展は、印象派の絵画がヨーロッパ各地、アメリカそして日本にどのように伝わったかを辿る展覧会だ。展示作品のほとんどはアメリカのウスター美術館の所蔵品。ウスターはマサチューセッツ州の(ボストンに次ぐ)第二の都市だ。

 コロー、ピサロ、モネの上質の作品が来ている。それぞれの画家のエッセンスが凝縮されたような作品だ。どれもウスター美術館の所蔵品。本展のHP(↓)に画像が掲載されている。

 だがもっとも感銘を受けたのは、アメリカ印象派の作品だ。初めて名前を知る画家たちの作品が新鮮だ。なかでもメトカーフ(1858‐1925)の「プレリュード」とグリーンウッド(1857‐1927)の「雪どけ」は、本展の白眉だった。「プレリュード」は早春の山野を描く。木々の芽吹きと若草が目にやさしい。鹿が2頭いる(少し離れたところにもう1頭いるようだ)。一方、「雪どけ」はたっぷり積もった雪に明るい陽光が射す。小川の流れが清冽だ。「プレリュード」も「雪どけ」も手つかずの自然を描く。画像が本展のHPに載っていないのが残念だ。

 アメリカ印象派の画家では、ハッサム(1859‐1935)にも注目した。幸い本展のHPに画像が載っている。「コロンバス通り、雨の日」は雨に濡れた道が美しい。その道を走る馬車にピントを合わせる。一方、傘をさして歩く人々や遠景の教会は雨でかすむ。ボストンの雨の一日を永遠に留める作品だ。もう一作、「シルフズ・ロック、アップルドア島」は大海原に突き出た巨岩を描く。実際に見ると(画像で見るよりも)巨岩の量感が圧倒的だ。

 アメリカ印象派から派生したと思われるトーナリズム(Tonalism=色調主義)の作品にも惹かれた。たとえばクレイン(1857‐1937)の「11月の風景」は秋の山野を描く。霞がかかり、しっとりしている。少し寂しい。トライオン(1849‐1925)の「秋の入り日」は、なだらかな丘陵のむこうから弱々しい入り日が射す。どちらの作品も調和のとれた落ち着いた色調だ。

 会場の解説にこうあった。「南北戦争の影響を引きずった国民にとって、トーナリズムの画家が描く、陰影に富んだ情緒深い情景は、困難な近代生活に精神的な安らぎを与えてくれるものでした」と。わたしもトーナリズムの作品に惹かれたが、それは現代生活にも困難が多く、神経が疲れているからかもしれない。あまり幸せなことではないだろう。トーナリズムの作品には「癒し」の効果がある。それはどこか作り物めいたところもあるが、現代生活はそれを求めている。
(2024.2.6.東京都美術館)

(※)本展のHP
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インバル/都響

2024年02月24日 | 音楽
 インバル指揮都響のマーラーの交響曲第10番(デリック・クック補筆版)。わたしが聴いたのは2日目だ。SNSを見ると、1日目の演奏には辛口の意見が散見される。だが少なくとも2日目の演奏は、伝説的な演奏の誕生と思われた。

 冒頭のヴィオラの音がクリアーで、かつ潤いがある。首席の店村さんの、これが最後のステージだと思うからかもしれないが、いつまでも記憶に残りそうな音だ。その音が端的に示すように、第1楽章を通して、弦楽器の各パートの、明瞭に分離し、かつしっとりした音色が続いた。例の不協和音のところも、絶叫調にならずに(音が濁らずに)、けれども衝撃力をもって鳴った。その直後のトランペットのA音の持続は悲痛でさえあった。

 わたしはコロナ禍以前には長年都響の定期会員だった。コロナ禍以後は継続しなかったが、単発的に聴いてきた。その経験からいうと、都響は粗い演奏をすることがなくはない。だが今回のインバルとの共演は一皮むけていた。インバルも都響もよほど好調だったにちがいない。

 多くのかたがSNSで語っているように、第5楽章序奏でのフルート独奏がすばらしかった。インバルと呼吸がぴったり合い、水も漏らさぬ演奏だった。だれだろう、見たことのない人だが、と思った。松木さんという人らしい。寺本さんが退団したので、その後任のようだ。

 フルート独奏から続く第5楽章全体は、インバルと都響が一体となった、水際立った演奏になった。わたしの感じたままをいえば、神がかった演奏だと思った。すべての音にインバルと都響の眼差しが降り注ぎ、それらを慈しむ。マーラーが直面した悲劇と絶望をマーラー自身が乗り越えようとする。その過程をインバルと都響が愛おしむような演奏だ。

 わたしはいままでマーラーの交響曲第10番を、完成された第1楽章のみで聴くか、補筆版(デリック・クック版)で聴くかで、揺れていた。だが今回、演奏が良ければという前提付きだが、補筆版で聴くべきだと思った。それはドラマトゥルギーからくる結論だ。第1楽章の不協和音とトランペットのA音の持続が第5楽章で再来する。それを乗り越え、音楽が高まり、輝かしい音に到達する(インバルはそこで弦楽器のボウイングを自由にして、圧倒的な音圧を生んだ)。そのドラマがマーラーの意図したものだからだ。加えて、第4楽章末尾から第5楽章冒頭にかけて鳴り響く大太鼓は、交響曲第6番のハンマーを思い出させるが、第10番の大太鼓は第6番のハンマーの否定性がない。否定も肯定もしない。その茫洋とした中立性がマーラーの立ち直る余地を生む。
(2024.2.23.東京芸術劇場)
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PERFECT DAYS

2024年02月20日 | 映画
 映画「PERFECT DAYS」を観た。映画を観るのは久しぶりだ。昨年は映画を観なかった。観たい映画はいくつかあったが、結局行かなかった。「PERFECT DAYS」は昨年12月に封切になったので、もう1か月以上続いている。今でもかなりの入りだ。

 話題作なのでプロットを紹介するまでもないだろう。一言でいえば、ドロップアウトした人の話だ。名前は平山という。恵まれた家に生まれたようだが、父親と対立して家を出た(詳しくは描かれない)。その後どういう経緯をたどったかはわからない。ともかく今は下町の老朽化したアパートに住み、公衆トイレの清掃員をしている。貧しいが、自由だ。自由の代償は貧しさと孤独だ。平山は自由を選んだ。

 親ガチャとは正反対の生き方だ。そんな生き方を描く映画を多くの人が観る。なぜだろう。みんな心の底ではそんな生き方に憧れているのだろうか。

 平山の生活は毎日、判で押したように同じことの繰り返しだ。朝まだ暗いうちに起きる。布団をたたむ。外に出て自販機で缶コーヒーを買う。ワゴン車に乗る。古いカセットテープを聞きながら、仕事に向かう。公衆トイレをピカピカに磨く。仕事から帰ると、銭湯に行く。夕飯を定食屋で食べる。アパートに帰る。寝床に入って、古本屋で買った文庫本を読む(上掲のスチール写真↑)。そのうち眠る。わたしは観ているうちに、それらの日常が愛おしくなった。

 そんな生活の中にもいろいろ小さな出来事が起きる。たとえば平山が公衆トイレの清掃をしていると、個室で声がする。平山はドアを開ける。すると子どもがしゃがんでいる。どうやら迷子になったらしい。平山はその子の手を引き、親を探す。すぐに母親が飛んでくる。「どこに行っていたの!」と。母親は平山に礼もいわずに、子どもの手をウエットティッシュで拭き、そそくさと立ち去る。平山を怪しい男だと思ったのかもしれない。だが子どもはそっと振り返り、平山に手を振る。

 また、こんなこともある。平山が公衆トイレを清掃していると、棚に小さな紙がはさまっている。井桁に〇(あるいは×だったか)が書いてある。〇×ゲームだ。平山は×(あるいは〇だったか)を書いて元に戻す。翌日、そこに〇(あるいは×)が書いてある。2~3日それが続く。そしてゲーム終了。余白にThank youと書いてある。孤独な人が(大人だろうか、子どもだろうか)だれかとつながっていたかったのだろうか。
 
 ストーリーの展開上、重要な出来事は他にあるのだが、上記のような比較的小さなエピソードが意外にいつまでも記憶に残る。
(2024.2.12.TOHOシネマズシャンテ)
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カサド/N響

2024年02月15日 | 音楽
 パブロ・エラス・カサド指揮N響の定期Bプロ。スペイン・プログラムだ。1曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。冒頭のヴィオラを主体にした弦楽器の音が美しい。音の層が透けて見えるようだ。

 2曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏はアウグスティン・ハーデリヒ。1984年生まれ。両親はドイツ人だがイタリアで生まれたと、プロフィールにある。わたしは初めて聴くヴァイオリニストだ。並みの才能ではないようだ。一時のスター演奏家のような人一倍大きく張りのある音で弾くタイプではない。繊細な音が目まぐるしく動く。自由闊達に音楽の中で動きまわる。天性の音楽性を備えているようだ。

 カサド指揮のN響もそのヴァイオリンによく付けていた。抑制され、しかも俊敏な音だ。ヴァイオリン独奏のスタイルと齟齬がない。プロコフィエフの一般的なイメージ(ハッタリを利かせた奇抜な音楽と言ったらいいか)とは異なる演奏だ。とても面白かった。この曲はこういう曲なのかもしれない。

 ハーデリヒのアンコールがあった。だれの何という曲かは見当がつかなかったが、ラテン的なテイストの、甘く楽しい曲だ。驚異的なのは、1本のヴァイオリンで旋律と伴奏を弾き分けることだ。パガニーニの曲かなと思った。カルロス・ガルデル作曲の「ポル・ウナ・カベーサ(音の差で)」という曲のハーデリヒ自身の編曲だそうだ。

 3曲目はファリャの「三角帽子」(全曲)。1曲目のラヴェルも2曲目のプロコフィエフもスペイン風味を利かせた曲だが、「三角帽子」は本物のスペインだ。なにがちがうかというと、音に影の部分があることだろう。俗にいう光と影だが、影の部分が濃ければ濃いほど、光の部分が輝く。それはその通りだと思った。

 それをスコアに書いたファリャは天才だ。簡潔な音楽とオーケストレーションでスペインのなんたるかを表現する。またそのスコアを的確に音にしたカサドの指揮も賞賛すべきだ。わたしはこの曲をアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団のLPで刷り込まれた。リズムもピッチも完璧な演奏だったと思う。そのLPを愛聴したがゆえに、逆に実演ではあまり感動したことがない。だが今回のカサド指揮N響の演奏は、アンセルメのLPにはない音の荒々しさがあった。弦楽器の激しく叩きつけるようなアタック、オーボエの太くて粗野な音、ファゴットのおどけた表現、ピッコロの鋭い音、等々。

 ソプラノ独唱は吉田珠代。ただ独唱は通常メゾソプラノではなかったろうか。P席後方で歌われた冒頭(中間部ではオフステージ)では声質がイメージよりも高く感じた。
(2024.2.14.サントリーホール)
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追悼 小澤征爾

2024年02月11日 | 音楽
 小澤征爾が亡くなった。1951年生まれのわたしは、中学生のころからクラシック音楽に夢中になったが、小澤征爾は当時のわたしのアイドルだった。音楽雑誌に載った小澤征爾の写真を切り抜き、大切にしていた。

 小澤征爾の演奏は何度か聴いた。不思議と記憶に残るのは、分裂前の日本フィルを振ったシューベルトの「未完成」交響曲とバーンスタインの「ウエストサイド物語」からのシンフォニック・ダンスの演奏だ。「未完成」交響曲の、集中力のある、しなやかな演奏に魅了された。

 異様な体験だったのは、日本フィルの分裂直前のマーラーの「復活」交響曲の演奏だ。テンションが極限状態に高まり、音楽が崩壊する瀬戸際の演奏だった。日本フィルの分裂という異常事態を前にして、音楽以外の要素が諸々入りこんだ演奏だっただろう。しかしそれも人の営みとしての音楽のあり方のひとつだ。後にも先にも二度とない演奏だった。

 小澤征爾は若いころ、よく「日本人が西洋音楽をやれるかどうかの実験だ」と口にしていた。実験?わたしはその言葉が嫌いだった。インタビューや対談でその言葉を目にするとスルーした。だが今では、その言葉は正直な思いだったのだろうと納得する。戦時中に満州で生まれ、日本の戦後社会を生き、初めて海外に出たときには貨物船でマルセイユに渡り、そこからスクーターでパリを目指した。そんなガムシャラな生き方は「実験」という言葉につながった。言い換えれば、実験という言葉にはリアリティがあったのだ。

 実験は成功した。トロント→サンフランシスコ→ボストンと階段を駆け上るように出世した。だがわたしが感心するのは、ボストンでじっくり腰を据えたことだ。メジャーオーケストラの音楽監督を29年間も続けることは、神経をすり減らす仕事だっただろう。楽員との葛藤が本に書かれた。盟友との対立も伝えられた。それらを乗り越えたのは、強靭な神経を持っていたからだろう。

 小澤征爾と村上春樹の対談本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)を読むとわかるが、小澤征爾は世界のトップクラスの演奏家と付き合った。スター演奏家のセレブともいえる人脈の一員になった。また若い人たちの教育にも熱心だった。年齢をこえ国籍をこえたコミュニケーション能力は抜群だった。またマネジャーにも恵まれた。

 あらゆることをやり尽くした感のある小澤征爾だが、やり残したことがあるとすれば、それはドイツ音楽だったかもしれない。蒸留水のように流れの良い演奏だったが、あえていえば、えぐみがなかった。それはズービン・メータのドイツ音楽にも感じる。小澤征爾もズービン・メータもクラシック音楽界の東洋人の第一世代だった。
コメント (2)
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山田和樹/読響:小澤征爾追悼演奏「ノヴェンバー・ステップス」

2024年02月10日 | 音楽
 山田和樹指揮読響の定期演奏会は、忘れられない演奏会になった。プログラムは3曲あった。2曲目に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」があった。それが始まる前に山田和樹がマイクをもって登場した。どうやら小澤征爾が亡くなったらしい。「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は小澤征爾に捧げるとのことだった(マイクを通した声がホールに反響して、細部はよく聴こえなかったが)。

 「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は一種特別なものだった。オーケストラが完璧なピッチで鮮明に鳴った。この曲のオーケストラ部分は断片的な音楽だが、その音楽に今までこの曲では聴いたことがないような色彩感があった。そしてオーケストラが独奏楽器の尺八と琵琶に耳を傾け、沈黙し、ついには圧倒されるドラマが浮き上がった。

 尺八は藤原道山、琵琶は友吉鶴心。この曲の第一世代である尺八の横山勝也、琵琶の鶴田錦史にくらべると、求心的な(むしろ求道的な)激しさは後退し、澄みきった平常心で曲に向き合う姿勢が感じられた。結果、簡潔ではあるが、西洋音楽の時間感覚とはまったく異なる日本独特の静止したような時間感覚が表れた(その時間感覚はむしろ空間的な感覚に近かった)。

 冒頭書いたように、わたしには忘れられない演奏になった。小澤征爾への追悼演奏ということにとどまらず、「ノヴェンバー・ステップス」の意義ある第二世代の演奏と思われた。天国に行った小澤征爾も喜んでいるのではないだろうか。

 小澤征爾が1967年にニューヨーク・フィルでこの曲を初演したとき、プログラムには他にベートーヴェンの交響曲第2番とヒンデミットの「画家マティス」が組まれていた(澤谷夏樹氏のプログラムノーツより)。なんという偶然か、当夜の3曲目はまさにそのベートーヴェンの交響曲第2番だった。

 当夜の1曲目はバルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」だった。バルトークのその曲も武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」もオーケストラを2群に分けた曲だ。その関連の試みだろう、当夜はベートーヴェンの交響曲第2番もオーケストラを2群に分けた。具体的には16型の弦楽器を左右2群に分け、管楽器は倍管だ。結果、弦楽器が舞台上に面として広がって聴こえた。ただ第3楽章スケルツォの前半の主部だけは、左右交互に弾いた(後半の主部は左右一緒だ)。それはたぶん山田和樹の悪戯(=ジョーク)だろう。

 山田和樹は読響の首席客演指揮者を6年間務めた。3月末で退任する。定期演奏会はこれが最後だ。今後、小澤征爾に次ぐロールモデルになってほしい。
(2024.2.9.サントリーホール)
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METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

2024年02月07日 | 音楽
 METライブビューイングでダニエル・カタン(1949‐2011)のオペラ「アマゾンのフロレンシア」を観た。1996年にヒューストンで初演されたオペラ。甘く酔わせるメロディーがふんだんに出る。アリアあり二重唱ありアンサンブルあり。アリアの後には(観客が拍手できるように)ちゃんと間がある。今でもこのようなオペラが作られているのだ‥。

 前回のMETライブビューイングはアンソニー・デイヴィス(1951‐)の「マルコムX」だった。「マルコムX」は1986年にニューヨーク・シティ・オペラで初演された。前々回はジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」。2000年にサンフランシスコで初演された。今回の「アマゾンのフロレンシア」と合わせて、現代は多様なオペラが作られている。そのオペラの沃野を感じる。

 「デッドマン・ウォーキング」と「マルコムX」はシリアスなオペラだったが、「アマゾンのフロレンシア」はロマンチックなオペラだ。オペラ歌手のフロレンシアが、アマゾンの奥地のマナウスの劇場で歌うために、アマゾン川を下る船に乗る。フロレンシアはアマゾンで消息を絶った恋人を探している。船には、いさかいの絶えない中年夫婦、恋に臆病な若い二人、船長、そして現実世界と超常世界との仲介者のアルバロがいる。

 中年夫婦、若い二人そして消息不明の恋人を想うフロレンシアの三者三様のドラマが「愛とは何か」を問う。そこにアルバロが仲介するアマゾンの魔法的な世界が入りこむ。ドラマは幻想的になる。フロレンシアは恋人に再会できるだろうか。詳述は控えるが、その結末は(台本作者のマルセラ・フエンテス=ベラインがノーベル賞作家のガルシア・マルケスの教え子だからだろう)たしかにガルシア・マルケス的だ。

 演出のメアリー・ジマーマンはアマゾン川流域を舞台に再現した。目の覚めるようなピンク、青、緑などの原色が入り乱れる。ピラニアなどの魚をダンサーが踊り、イグアナや猿をパペット(人形)使いが操る。楽しい舞台だ。

 フロレンシアを歌うアイリーン・ペレスをはじめ、歌手はすべて高水準だ。上述したように、とにかく甘く歌うオペラなので、歌手が非力だと冗長になりかねないだろう。その点、さすがはMETだ。どの歌手も切れが良く、陰影が濃やかで、声が伸びる。わたしはこのオペラに感銘を受けたが、その最大の功労者は歌手たちだ。ヤニック・ネゼ=セガンの熱い指揮が歌手たちを支えたことはいうまでもない。

 このオペラはスペイン語だ。巻き舌のような独特の語感がある。METでスペイン語のオペラが上演されるのは約100年ぶりだそうだ。
(2024.2.5.109シネマズ二子玉川)
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井上道義/N響

2024年02月05日 | 音楽
 井上道義の2024年12月での引退がカウントダウンに入ってきた。N響の定期演奏会を振るのはこれが最後だ。そう思うと、やはり感慨深い。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」。ショスタコーヴィチ最大の曲だ。余力を残して引退する井上道義にふさわしい曲目だ。

 「バビ・ヤール」の前に2曲演奏されたので、以下順に。1曲目はヨハン・シュトラウス二世のポルカ「クラップフェンの森で」。シュトラウスがロシアで作曲した曲だそうだ。カッコウの鳴き声の笛が入る。「ああ、この曲か」と。その笛がのんびりと、ちょっとテンポが遅れて入る。それがユーモラスだ。途中で演奏者が笛を落とした。それも演出かと思ったが、そうではなかったようだ。

 2曲目はショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番から「行進曲」、「リリック・ワルツ」、「小さなポルカ」、「ワルツ第2番」の4曲。「ワルツ第2番」はどこかで聴いたことがある曲だ。どれもショスタコーヴィチの娯楽音楽。当局から求められて書いたわけだ。それがソ連社会の一面だった。ショスタコーヴィチは模範解答を書いた。だから生き残れた。井上道義はそんな曲を小粋に演奏した。井上道義は小品がうまい。

 オーケストラにアルト・サックス2本、テナー・サックス2本、ギター1本、アコーディオン1台が入る。ギターはよく聴こえなかったが、サックスとアコーディオンはよく聴こえた。若干チープな(それも良い!)娯楽の雰囲気を盛り上げた。

 そして3曲目が交響曲第13番「バビ・ヤール」。井上道義はこの大曲を隅々まで克明に演奏した。スコアを味わい尽くすような演奏だ。テンポは(とくに第3楽章「商店で」と第4楽章「恐怖」では)遅めだったかもしれない。だがテンポよりも、あらゆる声部を執拗に追う井上道義の集中力を感じた。大演奏というにふさわしい演奏だ。

 音は(たとえばテミルカーノフのように)冷徹ではなく、湿り気がある。そこが日本人的だと思う。井上道義には外国人の血が混じっているそうだが、それでもやはり身のすくむような冷徹な音にはならない。音には切れがある。スリリングなドライブ感もある。音色は明るく鮮やかだ。そして音楽の形は崩れない。そんな立派な演奏だが、音にはどこか湿り気がある。井上道義はそこに着地したらしい。なぜか感慨深い。

 バス独唱はロシアのアレクセイ・ティホミーロフ。声も発音も文句なしだ。合唱はスウェーデンのオルフェイ・ドレンガル男声合唱団。見事に統一された合唱だ。それらの声楽陣が井上道義の集大成というべき演奏に華を添えた。
(2024.2.4.NHKホール)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2024年02月03日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。1曲目はロッシーニの「チェネレントラ」序曲。「チェネレントラ」は好きなオペラだが、序曲を演奏会で聴いたことがあったろうかと。そもそもロッシーニの序曲を演奏会の冒頭に組むことが(最近では)珍しくなった。昭和の時代を思い出すといったら、語弊があるか。

 演奏は堂々としたシンフォニックなもの。それも昔懐かしい。序奏でのファゴットが軽妙な味を出した。藤岡幸夫の指示なのか。首席奏者・皆神陽太の創意なのか。舞台でのコミカルな演技を彷彿とさせた。

 2曲目は菅野祐悟の新作「ヴァイオリン協奏曲」。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。菅野祐悟の作品を聴くのは3度目だ。サクソフォン協奏曲を2度(東京シティ・フィルと日本フィルで)と交響曲第2番を1度(東京交響楽団で)聴いた。どれも透明な美しい音響が記憶に鮮明だ。

 菅野祐悟の作品は良い意味で予想を裏切るところがあると、わたしは思うのだが、今度の「ヴァイオリン協奏曲」にもそういうところがある。全3楽章で演奏時間約30分の立派な曲だが、第1楽章はゆっくりした緩徐楽章だ。実感としては、いきなり第2楽章から始まった感がする(なお菅野祐悟は「楽章」という言葉を使わずに「Symbolic」という言葉を使っている。第1楽章は「Symbolic Ⅰ」だ)。

 全3楽章なので、「Symbolic Ⅱは速い楽章か」と思いきや、これもゆっくりした楽章だ。「そうか、緩―緩―急の楽章構成か」と思いきや、Symbolic Ⅲが始まると、これも緩徐楽章。意外だ。「すべての楽章が緩徐楽章か」と思いきや、Symbolic Ⅲの後半で速い音楽になり、リズムが躍動する中で曲を終えた。

 ゆっくりした部分では甘いメロディーが歌われる。神尾真由子の濃い演奏が音楽を支える。神尾真由子の独壇場だ。神尾真由子を想定して書かれた曲。たしかに生半可な演奏では音楽がもたないかもしれない。他方、Symbolic ⅠとSymbolic Ⅱには気持ちが昂るような速い動きになる部分があり、それらの部分と前述のSymbolic Ⅲの後半の速い音楽は、わたしにはピアソラの音楽のようなテイストが感じられた。

 3曲目はサン=サーンスの交響曲第3番。藤岡幸夫の演奏スタイルの一面だと思うが、フォルテになると、いつもの東京シティ・フィルの2割増しくらいの音量になる。それは豪快で大向こう受けするかもしれないが、絶叫調に聴こえる部分がある。東京シティ・フィルを振るときの藤岡幸夫には影を潜めていた面だが、今回はそれが現れた。
(2024.2.2.東京オペラシティ)
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