Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ブロムシュテット/N響

2024年10月27日 | 音楽
 ブロムシュテットが指揮するN響の定期演奏会Cプロ。先週のAプロ(オネゲルとブラームス)はSNSで多くの方に絶賛されたが、わたしはブロムシュテットのオーケストラのコントロールに危惧をおぼえた。今回は気が重かった。だが杞憂だった。今回は気力があふれてオーケストラとがっぷり四つに組んだ。

 1曲目はシューベルトの交響曲第7番「未完成」。冒頭の低弦楽器の序奏が、暗い音色でそっと呟くように演奏された。思わず身を乗り出した(もちろん比喩的な意味だが)。続く弦楽器の細かい刻みが快適なテンポで進む。その刻みに乗ってオーボエが第1主題を吹く。抑えた音量の中に豊かな抑揚がある。音楽が停滞せずに進む。彫りが深い。緊張した静かなドラマが続いた。

 第2楽章も第1楽章のペースを引き継いで演奏された。第1ヴァイオリンが奏でる第1主題は過度に甘美ではなく、むしろ厳しさがある。中間部の激しさは第1楽章の展開部を彷彿とさせる。第1楽章と第2楽章がまとまって一つの世界を提示する。

 終わった後はため息が出た。オーケストラのピッチが厳格に合い、硬い鉛筆の先で細い線を描くような演奏だ。迷いはまったくない。厳しい線描だ。その線の中に濃やかなニュアンスがある。めったに聴けない「未完成」の演奏だ。わたしが今まで聴いた数多くの「未完成」の中で忘れられない演奏になるのはまちがいないだろう。

 2曲目はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。冒頭のホルンの序奏が、朗々と吹くのではなく、鼻歌のように吹いたのがおもしろい。もちろんブロムシュテットの指示だろう。主部に入ると、骨格のしっかりした堂々たる演奏が続く。弦楽器は16型だ。「未完成」は14型だった。わたしは14型くらいのほうがシューベルトには良いと思うが、そこはブロムシュテットの好みだろう。

 第2楽章は一貫してオーボエの吉村結実さんが名演を聴かせた。ほとんどオーボエ協奏曲のようだったというと語弊があるが、そのくらいの存在感があった。

 第3楽章、第4楽章と気力が横溢したスケールの大きい演奏が続いた。ブロムシュテットのスタミナを気遣ったが、その心配は無用だった。第4楽章の最後に出てくるトゥッティの、ドー、ドー、ドー、ドーの4連発の充実した音に身震いがした。あの音が当日のクライマックスだった。一夜明けた今もわたしの頭の中で鳴っている。ブロムシュテットとN響がしっかり嚙み合ったから生まれた音だろう。ブロムシュテットは97歳というが、そんな年齢を超越した音だった。
(2024.10.26.NHKホール)
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樋田毅「旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録」

2024年10月25日 | 読書
 樋田毅氏の「旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録」(以下「懺悔録」)を読んだ。大江益夫氏は1993年~1999年に旧統一教会(以下「統一教会」)の広報部長を務めた。その前後も統一教会と関連団体の要職を歴任した。その大江氏へのインタビュー本だ。

 インタビュアーの樋田毅氏は元朝日新聞記者。樋田氏はすでに「記者襲撃――赤報隊事件30年目の真実」(岩波書店)、「最後の社主――朝日新聞が封印した「御影の令嬢」へのレクイエム」(講談社)そして「彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋社)の著書がある。わたしはすべて読んだ。どれもひじょうに惹かれた。そこで「懺悔録」も読んだ次第だ。

 統一教会の幹部だった人物の回顧録。自身が行い、また見聞きした事柄を率直に語っている。樋田氏とは思想信条が異なるはずだが、それにもかかわらず、二人のあいだに信頼関係が成立していることが窺われる。

 大江氏は広報部長時代に「事実を認め、社会がそれに対してどう思うかも認めるが、同時に信教の自由も認めるようにマスコミに求める」(わたしの言葉による要約だ)という姿勢を基本にしたそうだ。その姿勢が身についているのだろう。本書でも事実を認め、その事実が社会からどう見えるかも理解する。だが、信教の自由も認めてほしい、という姿勢が一貫する。結果、教団の存続を図る。それが大江氏の防衛ラインだろう。

 大江氏が認める事実には興味深い点が多々ある。たとえば統一教会に武装組織があった(今もある?)こと。前記の樋田氏の著作「記者襲撃」でも触れられた点だ。それが裏付けられた格好だ。大江氏の推定では400人ほどいたという。相当な数だ。武装組織(大江氏は「武闘派」と呼ぶ)はソ連(当時)、中国、北朝鮮の日本への武力侵攻に備えたものというが、武装組織である以上、いつ暴走しないともかぎらない。

 また自民党との関係では、自民党と深い関係があったことを前提に、いま解散命令請求が出されていることについて、「自民党は自らに対して解散命令請求を出すべし、と言いたいです。そして自ら解党していただきたい、と思っています。」と憤る。さんざん世話になったくせに、今になって切り捨てるのか、という怒りだ。それは本音だろう。だが一方では、自民党への牽制の意図があるかもしれない。

 余談だが、樋田氏と大江氏のあいだに信頼関係が成立したのは、二人が同時期に早稲田大学の学生だった(学部は違う)ことがあるかもしれない。その時期の早稲田は革マル派が起こした川口大三郎君の殺害事件で大揺れだった。わたしも同時期に早稲田大学の学生だった。わたしたちは同じ時代の空気を吸った。
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ブロムシュテット/N響

2024年10月21日 | 音楽
 97歳になったブロムシュテットが振るN響の定期演奏会Aプロ。1曲目はオネゲルの交響曲第3番「典礼風」。第1楽章「怒りの日」が始まる。激しい音楽だが、その音に濁りがある。どうしたのだろう。N響らしくない。また(激しさとは別の)力任せなところがある。音に緊張感がなく、緩さがある。ブロムシュテットらしくない。

 ブロムシュテットらしさが現れたのは、最後の第3楽章「われらに安らぎを与えたまえ」の後半になってからだ。前半の闘争的な音楽が終わり、ふっと平穏な音楽に転じると、やっと音に艶が出て、演奏に集中力が感じられた。

 会場は拍手喝采だった(言い遅れたが、ブロムシュテットがコンサートマスターの川崎洋介の腕につかまって登場したときから拍手喝采だった)。だが、演奏としては、どうだったのだろう。もちろんそういうわたしだって、97歳の指揮者がオーケストラの前で指揮する姿に感動しないわけではなかったが。

 2曲目はブラームスの交響曲第4番。第1楽章が始まる。意外にテンポが速い。その後もメリハリのある造形だ。ブロムシュテットの型ができあがっていて、その型が微動だにしないことが感じられる。それは立派なことだが、それを踏まえていえば、型にしたがって流れていくところがある。

 第2楽章も同様だ。メリハリはあるのだが、音楽が深まらない。意外に良かったのは第3楽章だ。明るい音色に爽快感があり、快適なテンポで進む。第4楽章はそれまでの疑問を帳消しにするような見事な演奏になった。彫りが深く、ゆったり呼吸して、味わい深い演奏が続いた。もちろん会場は大喝采だった。

 だが全般的にいえば、さすがに97歳ともなり、オーケストラのコントロールは弱まったようだ。それは仕方のないことかもしれない。考えてみれば、最晩年のカール・ベームがウィーン・フィルの来日公演で聴かせ、また最晩年のアンドレ・プレヴィンがN響を振って聴かせたような、テンポが極端に遅くなり、自分の中にこもったような演奏ではなかったことが、それ自体驚嘆すべきことかもしれない。

 コンサートマスターは川崎洋介が務めた。大きな身振りで、ときには立ち上がらんばかりに演奏した。必要最小限の動きしかしないブロムシュテットに代わってN響を牽引しているように見えた。むしろN響を煽るように見えたこともある。でもそれはほんとうにブロムシュテットの意を汲んだものだったのだろうか。わたしには一種の過剰さが感じられた。結果、ブロムシュテットの心象風景に触れられないもどかしさが残った。
(2024.10.20.NHKホール)
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森岡実穂「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」

2024年10月19日 | 音楽
 新国立劇場の「夢遊病の女」の公演プログラムに森岡実穂氏の「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」というエッセイが載った。森岡氏が「夢遊病の女」の諸映像を参照しつつ、演出上のポイントを紹介したものだ。

 わたしが注目したのは、ヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトの演出(2011年、シュトゥットガルト歌劇場)とヨハネス・エラートの演出(2023年、ライン・ドイツ・オペラ)だ。ともにロドルフォ伯爵の前史を設定する。久しく故郷を離れていたロドルフォ伯爵が、父伯爵が亡くなったために、新領主として故郷に戻ってくるわけだが、そのロドルフォ伯爵が故郷を離れていたわけは、村の娘を妊娠させたからだという設定だ。

 ロマーニの台本にはそこまで書いてはいない。だがロドルフォ伯爵の登場の場面で、ロドルフォ伯爵は過去の過ちを悔悟し、不幸な村娘がいたと歌う。さらに村人たちに祝福されるアミーナを見て、その村娘に似ていると驚く。ならば当然ヴィーラー&モラビトやエラートが設定したような前史が想像される。両演出は前史をその後のストーリー展開に反映させた(もちろん展開の仕方は各々異なる)。「夢遊病の女」は牧歌的といわれるが、両演出では男性側(ロドルフォ伯爵とエルヴィーノ)の加害性が浮き彫りになる。

 森岡氏のエッセイでは他にも多くの演出が紹介される。その中で一つだけわたしの観た演出があった。メアリー・ジマーマンの演出(2009年、メトロポリタン歌劇場)だ。観たといっても実際の舞台ではなく、METライブビューイングで観たのだが、そのときの衝撃は大きかった。

 ジマーマンの演出では、アミーナ役の女性歌手とエルヴィーノ役の男性歌手が実際に恋人同士という設定だ。幕が開くと、舞台は稽古場になっている。そこでは「夢遊病の女」の稽古が進行中だ。やがてアミーナ役の歌手がロドルフォ伯爵のベッドで寝ているのが見つかる。エルヴィーノ役の歌手は嫉妬に狂う。オペラと実生活が重なる。言い換えれば、虚実の境目が混乱する。「作者をさがす6人の登場人物」などで知られるイタリアの劇作家・作家のピランデッロの作劇術にならった演出だ。

 以上の演出にくらべると、新国立劇場のバルバラ・リュックの演出は、むしろ大人しいほうだろう。だからその分、新国立劇場向けだったかもしれない。

 そのバルバラ・リュック演出は、アミーナの不安を繊細に表現し、最後の不安からの脱却(バルバラ・リュックはそのように演出した)を説得力のあるものにした。ベッリーニのオペラの中では(最初期の作品を除いて)台本が弱い「夢遊病の女」を救い、現代に生きるオペラにした。ベッリーニ好きなわたしはとても嬉しい。
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新国立劇場「夢遊病の女」

2024年10月15日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「夢遊病の女」。マドリッドのテアトロ・レアル、バルセロナのリセウ大劇場、パレルモのパレルモ・マッシモ劇場との共同制作だ。幕が開く。舞台中央に高い木が一本立つ。そこに一対の若い男女の人形が吊り下がっている。結婚を控えたアミーナとエルヴィーノだろう。幸せなはずの二人だが、その人形はあまり幸せそうには見えない。周囲は切り株だらけ。荒涼とした森の中だ。背景はオレンジ色の空。夕日だろうか。幻想的な弱々しい光だ。

 霧が立ち込める。霧にまかれてアミーナが立つ。ふらふらしている。夢遊病の中にいるアミーナだ。何人もの不気味なダンサーが登場する。アミーナを威嚇するように、また時にはアミーナを支えるように踊る。アミーナが見る夢だ。アミーナは結婚を控えて何か不安があるのだろうか。エルヴィーノにたいする疑問だろうか。

 以上の黙劇が終わると音楽が始まる。アミーナとエルヴィーノの結婚を祝う村人たちの合唱だ。だが黙劇を見た後なので、村人たちの祝福を受けるアミーナの胸の内にひそむ(本人も気が付かない)不安を想像する。その不安が、オペラ全体を通して、要所にダンサーが登場して表現される。それがこのオペラを牧歌的なオペラから救う。最後にアミーナは不安を克服する。アミーナはエルヴィーノと結婚するのか。それとも村を去るのか。それは幕が降りた後のアミーナに任せられる。

 演出はスペインのバルバラ・リュックという女性演出家。一本筋が通り、その筋に沿ってアミーナの内面を繊細に表現した。結末の処理も納得できる。台本通りにやると学芸会的になりかねないこのオペラを、現代に生きるオペラへと変貌させた。

 アミーナ役はクラウディア・ムスキオ。すばらしいベルカントだ。7月にシュトゥットガルト歌劇場でこの役を歌ったそうだ。それに加えて、マウリツィオ・ベニーニの指揮で歌った今回の公演の、その最終日だったこともあり、ベニーニの薫陶の成果が表れたのではないだろうか。旋律線の細かい部分のニュアンスに惚れ惚れした。

 エルヴィーノ役はアントニーノ・シラグーザ。言わずと知れた名歌手だ。今回も高度な歌唱を披露した。だが、さすがに年齢を重ねたためか、声の伸びと軽さにかげりが出始めたかもしれない。ロドルフォ伯爵役は妻屋秀和。堂々とした声と押し出しは健在だ。

 ベニーニの指揮はすばらしい。オーケストラの細い音で歌手の声を支え、しかもその細い音がけっして貧弱にはならずに生気がこもる。ドラマティックな面にも事欠かない。ベルカント・オペラのすべてが表現された感がある。
(2024.10.14.新国立劇場)
コメント (6)
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ウルバンスキ/東響

2024年10月13日 | 音楽
 ウルバンスキが指揮する東響の定期演奏会。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はデヤン・ラツィック。わたしは初めて聴くピアニストだ。濃厚なロマンティックな表現も、また聴衆を熱狂させるダイナミックな表現もある。加えて、生き生きしたリズム感がある。そのリズム感はたとえば第1楽章の展開部に現れた。何でもない淡々とした流れがそのリズム感で生き生きした音楽になった。全般的にオーケストラのバックも雄弁だった。濃厚なロマンティシズムはラツィックに劣らなかった。

 ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思わなかった。曲が変わっているのか、それとも演奏が変わっているのか。

 ラツィックは大変な才能だ。クロアチアのザグレブ出身とのこと。プロフィールには年齢が書いてないが、指揮者のウルバンスキと同世代だとすれば(見た目にはそう見えた)40歳前後か。特徴のあるピアニストだ。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第6番。実演ではめったに聴く機会のない曲だが、そんなレアな曲の、これは名演だった。わたしの今までの経験では、ラザレフ指揮日本フィルの演奏が記憶に鮮明だが、それに次ぐ名演(性格は異なるが)に接した思いがする。

 いうまでもなく本作は3楽章からなり、緩―急―急の変則的な構成だが、その第1楽章の濃密な音の世界(音楽の進行につれて濃密さが増す)、一転して第2楽章、第3楽章と諧謔性を増し、最後は躁状態のバカふざけに至る流れが、じつにスマートに、しかも鮮烈に表現された。東響も個々の奏者の妙技が光った。とくに第1楽章後半のフルート・ソロが存在感のある演奏だった(竹山愛さんだったろうか)。

 久しぶりに聴くこの曲はおもしろかった。英雄的な交響曲第5番の次に来る曲だが、英雄的な要素は皆無で、悲劇的な要素(第1楽章)とおどけた要素(第2楽章・第3楽章)からなるこの曲は、大方の期待を裏切り、戸惑わせただろう。それをどう考えたらよいか。形式的には緩―急―急の構成は直前の弦楽四重奏曲第1番を踏襲する(弦楽四重奏曲第1番の場合は緩―緩―急―急)。また内容的には、おどけた要素は交響曲第9番に通じる。そんな微妙な位置にある曲だ。

 ウルバンスキはますます脂がのっている。2024/25年のシーズンからは母国ポーランドのワルシャワ・フィルとスイスのベルン響の音楽監督に就任したそうだ。
(2024.10.12.サントリーホール)
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ヴァイグレ/読響

2024年10月10日 | 音楽
 読響がヴァイグレの指揮で10月13日~24日までドイツとイギリスへ演奏旅行に行く。昨夜の定期演奏会ではそのプログラムのひとつが披露された。

 1曲目は伊福部昭の舞踊曲「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。中近東風のエキゾチックな音楽と伊福部昭流の土俗的なリズムが交互に現れる曲だ。ドイツやイギリスの聴衆には未知の日本人版の「7つのヴェールの踊り」として話題になるかもしれない。演奏はヴァイグレ/読響らしくがっしり構築したもの。最後の熱狂的な盛り上がりはさすがに迫力があった。

 2曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はクリスティアン・テツラフ。もう何百回も(?)弾いているだろうこの曲を、テツラフはまるで名優の語りのように雄弁に演奏した。音楽の中に入り込み、その音楽を生きるような演奏だ。リズムの正確さとか拍節感とか、そんなレベルを超えたテツラフ流の演奏だ。音は細いが、その細い音に異様なまでの熱がこもる。

 それに対するヴァイグレ/読響の演奏は、(悪い意味ではなく)ごつごつと角張った、最近では珍しいくらいにドイツ的な演奏だ。テツラフの自由なヴァイオリン独奏と、一言半句もゆるがせにしないヴァイグレ/読響の演奏と、そのコントラストが際立った。

 テツラフはアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番から「ラルゴ」を演奏した。澄みきった音のバッハだ。ブラームスのヴァイオリン協奏曲でヴァイオリン独奏に渦巻いた熱を冷ますような演奏だった。

 3曲目はラフマニノフの交響曲第2番。これも大変な熱量の演奏だった。甘美な音から重厚な音まで駆使して、歌うべきところはたっぷり歌い、盛り上げるところは劇的に盛り上げる。けっして流麗な演奏ではない。むしろ粗削りな部分を残す。言い換えれば、仕上げの良さよりも音楽の熱量の解放を重視した演奏だ。ヴァイグレが感じているこの曲は途方もなく大きいのではなかろうかと思う。

 正直にいうと、わたしはヴァイグレのことがいまひとつ掴めない。たとえば2021年1月に演奏したヒンデミットの「画家マティス」は、角を取った丸みのある音で滑らかに流れる演奏だった。わたしはそのとき、ヴァイグレはドイツの指揮者だが、かつてのドイツの指揮者とはタイプが違うのかと思った(当時ある音楽ライターは「オーガニック」と評した)。だが今回の演奏を聴くと、現代のドイツの指揮者のだれよりも、かつてのドイツ流の演奏スタイルを保持している。ヴァイグレはそこに落ち着くのだろうか。
(2024.10.9.サントリーホール)
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出口大地/日本フィル

2024年10月06日 | 音楽
 最近、出口大地(でぐち・だいち)という指揮者の名前をよく見かける。どんな指揮者だろうと思っていた。日本フィルの横浜定期に登場するので、楽しみにしていた。結論から先にいえば、とても良い指揮者だと思った。

 1曲目はハチャトゥリアンの「スパルタクス」より「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」。出口大地は2021年のハチャトゥリアン国際指揮者コンクールで優勝したので、ハチャトゥリアンを演奏する機会が多いのかもしれない。それもキャリアの形成期には名刺代わりになるだろう。当夜の「アダージョ」では冒頭の弦楽器の音の繊細さに惹かれた。以後もその印象は損なわれなかった。

 2曲目はカバレフスキーの組曲「道化師」。ギャロップが圧倒的に有名だが、組曲全体を聴くのは初めてかもしれない。プロローグは聴いたことがあると思った。その他の曲は(組曲は全部で10曲からなる)記憶がないが、どれも面白かった。演奏はリズムが軽くてチャーミングだった。

 3曲目はチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(フィッツェンハーゲン版)。チェロ独奏は鳥羽咲音(とば・さくら)。プロフィールによると2005年生まれなので、今年19歳だ。いまはベルリン芸術大学に在学中。テクニックがしっかりしていて、楽器も鳴る。もっと大きな曲でも良さそうだ。アンコールにプロコフィエフの「マーチ」が演奏された。

 休憩後、4曲目はムソルグスキーの「展覧会の絵」(ラヴェル編曲版)。冒頭のトランペットの柔らかくて伸びのある音に惹かれた。ソロ・トランペット奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリは降り番で、日本人の奏者が吹いていた。以後、その奏者に注目した。「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」の中間部も安定感がある。優秀な奏者だ。だれだろうと、帰宅後調べてみた。犬飼伸紀という人だったようだ。

 演奏全体は音がきれいなことが特徴だった。出口大地の指揮は、力まず、変に音楽をいじらずに、音色のイメージが明確なようなので(加えて、フレーズの入りを合わせやすい指揮のようだ)、オーケストラは演奏しやすいのではないだろうか。それが音の美しさにつながったと思う。しかもそれだけではなくて「バーバヤガー(鶏の足の上に立つ魔女の小屋)」の出だしではダイナミックで鋭角的な演奏をした。出口大地はオーケストラにとって合わせやすいだけではなく、踏み込んだ表現もする指揮者だ。

 書き落としたが、出口大地は指揮棒を左手で持つ。加えて、右手の動きも雄弁だ。ユニークな両手の動きから、新鮮な音楽が流れる。
(2024.10.5.横浜みなとみらいホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2024年10月04日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目は今年生誕200年のスメタナの「わが祖国」。高関健は常任指揮者就任披露の2015年4月の定期演奏会でもこの曲を取り上げた。ただし今回はチェコ・フィルの「現実演奏版」を使用する。

 「現実演奏版」とは何か。高関健がプログラムに寄せたエッセイによると、「今晩の演奏では、1985年頃当時の音楽企業スプラフォンが出版したチェコ・フィルの伝統的なパート譜に基づく「現実演奏版」を使う。この楽譜はターリヒからアンチェルに続く伝統的な演奏をほぼそのまま楽譜に起こしたもの(以下略)」とのこと。

 ターリヒからアンチェルのころは、スメタナのこの曲にかぎらず、またターリヒやアンチェルにかぎらず、巨匠たちは多少なりとも譜面に手を入れて演奏することがあった。だがそれが出版譜の形で残っているのは珍しい。それを演奏してみよう(聴衆の側からいえば、それを聴いてみよう)というわけだ。

 具体的には、スメタナのスコアの中の「そのままでは厚過ぎる和声に旋律が消されてしまうと思われる個所、テンポが速すぎて演奏困難と思われる部分」などについて、主要声部を補強したり、伴奏形を弾きやすい形に変更したりしているらしい。

 結論からいえば、わたしの耳では、どの箇所で主要声部が補強され、どの部分で伴奏形が変更されているか、聴き分けることはできなかった。だが普段よりも意識して各パートの動きを追ったことは事実だ。高関健の意図からいって、それでいいのだろう。

 一番ショックだったのは、「モルダウ」の最後だったか、音が短く切られる箇所があったことだ。今まで聴いたことのない演奏だった。また「現実演奏版」と関係があるのかどうかは分からないが、ホルンとトランペットが倍管になっていた(ホルンは4本→8本、トランペットは2本→4本)。「ボヘミアの森と草原から」の冒頭のトランペットの豊かな響きと、「ブラニーク」の最後のホルンとトランペットの朗々とした響きにその効果が表れた。

 全体的にはひじょうにテンションが高く熱い演奏だった。むしろ、高関健としては、思いきり派手にやった演奏だったかもしれない。その分、ボヘミア的な情緒は後退した。それを求めるのは、ないものねだりだろう。個別の奏者では、客演コンサートマスターに入った荒井英治が積極的にオーケストラをリードした。その果たした役割は大きい。また「シャールカ」の冒頭で首席クラリネット奏者の山口真由が情感のこもったソロを聴かせた。終演後に高関健のソロ・カーテンコールになったとき、高関健は山口真由をともなって現れ、盛んな拍手を浴びた。
(2024.10.3.東京オペラシティ)
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ケストナー没後50年(2):「動物会議」

2024年10月01日 | 読書
 ケストナーの「動物会議」は絵本だ。だが「飛ぶ教室」などの児童文学と同程度の内容がある。ケストナーの力作のひとつだ。絵は児童文学の第一作「エーミールと探偵たち」以来の盟友ヴァルター・トリアーが描いた。トリアーは「動物会議」刊行の2年後に亡くなった。「動物会議」がケストナーとの最後の仕事になった。

 「動物会議」は1949年に刊行された。まだ第二次世界大戦の傷跡が生々しいころだ。世界には難民があふれ、大量の孤児がいた。都市は荒廃していた。そんな時期なのに世界の首脳たちはまた戦争の準備をしている。その状況に憤ったケストナーが書いた作品が「動物会議」だ。

 どんな話か。世界の首脳たちがケープタウンで会議を開く。87回目だ。延々と会議をしている。結論は出ない。そんな状況に怒った動物の代表たちが動物ビルに集まる。代表たちは世界の首脳たちと対峙する。そして要求を突きつける。だが首脳たちは要求を拒否する。拒否することだけは一致する。他のことは一致しないのに。

 代表たちは実力行使に出る。だが人間のほうが利口だ。あっさり覆される。代表たちは弱気になる。でも諦めずに知恵を絞る。もう一度実力行使に出る。だがうまくいかない。代表たちは何をやってもダメかと思う。そのとき名案が浮かぶ。最後の実力行使に出る。今度は首脳たちも参ってしまう。首脳たちは要求をのむ。首脳たちは代表たちと条約を結ぶ。条約は次の5か条からなる(大意)。

 (1)地球上から国境をなくすこと。(2)もう戦争はしないこと。(3)人を殺すための研究はしないこと。(4)役所は縮小すること。(5)教員が一番高い給料をもらうこと(なぜなら教員は子どもを真の大人に育てるという大事な仕事をしているから)。

 以上が「動物会議」のプロットだ。繰り返すが、「動物会議」の刊行は1949年だ。75年前の作品だが、今の世界にも当てはまる。少しも古びていない。ということは、世界は75年前から変わっていないのだろうか。

 「動物会議」はプロットもおもしろいが、ディテールもおもしろい。たとえば代表たちが動物ビルにチェックインする場面。イルカの部屋は部屋全体に水を張ったプールだ。イルカは「水を40立方メートルもへらしてくれ」という。そのくらいのゆとりがないとジャンプできないからだ。キリンは上下2部屋を取ったが、「下の部屋のてんじょうに、大きな穴をあけてほしい」という。そうしないと首が伸ばせないからだ。ネズミは「部屋はいらないから、ネズミ穴がほしい」という。ケストナーは動物たちを一律に描かずに個性豊かに描く。それが「動物会議」に一貫する描き方だ。
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