Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

トークセッション「現代オペラの挑戦」

2013年05月28日 | 音楽
 今年11月に上演されるアリベルト・ライマン(1936‐)のオペラ「リア」に先立って、細川俊夫、長木誠司の両氏によるトークセッションが開催された。標題は「現代オペラの挑戦~シェイクスピア戯曲『リア王』のオペラ化をめぐって~」。司会は高島勲。

 去年はライマンのオペラ「メデア」が上演された。そのときもシンポジウムが開かれた。長木誠司、下野竜也、片山杜秀、高橋宣也、野平一郎、高島勲という賑やかな顔ぶれだった。なにが飛び出すかわからない面白さがあった。今回はきちんと下準備がされていたので、その意味ではスリルがなかった。

 約2時間にわたるトークセッションの全貌を伝える力はないが、印象に残った点をメモしておきたい(ただし、わたしが理解した範囲で表現を置き換えている場合がある。文責はすべてわたしに。)。

1)「リア王」のオペラ化は、20世紀ではライマン、細川俊夫(鈴木忠志の脚色による)以外に、アレクサンダー・ゲール(1932‐)とアウリス・サリネン(1935‐)がやっている。

2)ヴェルディも「リア王」のオペラ化を念願していたが、果たせなかった(草稿がどこかに眠っているはずだ。)。女声3人の登場(ゴネリル、リーガン、コーディリア)が異例だったからでもあるが、もう一つは、嵐の場面を書けなかったからでもあるだろう。ヴェルディにとって自然は外にあった。一方、自分(細川俊夫)の場合は能の伝統があり、内面の世界が外在化することは普通だ。また、ライマンの場合は、自然の心理的な表現ができる時代になっていた。

3)キース・ウォーナーがフランクフルト歌劇場でこの作品を演出したとき、プログラムにこう書いていた、「『リア王』は演劇史上初めて神が出てこない作品だ」と。

4)ライマンの「リア」ではオーケストラの間奏曲に重要な役割がある。それはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」~ベルクの「ヴォツェック」につながるものだ。

5)今回エドガーを歌うのは藤木大地という有望なカウンターテナーだ。カストラートの最後の一人が20世紀初めまで生きていたが、その後途絶えた。1950年代からカウンターテナーが出てきた。

 なお、会場では、本年4月にこの作品がスェーデンのマルメで上演された際に、ヨーロッパにいた下野竜也がライマンを訪れて、助言を受けている様子が放映された。演奏家の努力はすごい。
(2013.5.25.日生劇場大会議室)
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バートウィスルの音楽

2013年05月25日 | 音楽
 ハリソン・バートウィスルHarrison Birtwistle(1934-)。名前は聞いたことがあるが音楽は知らない、というのが正直なところだ。そのバートウィスルが武満徹作曲賞の審査員として来日し、恒例の演奏会が開かれた。どんな音楽か、興味津々だった。

 1曲目は「ある想像の風景An Imaginary Landscape」(1971)。金管楽器、打楽器とコントラバスのための曲。バートウィスル初期の作品だ。金管楽器(ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、チューバ1)が曲の途中で移動する点がユニークだ。場所が変わると響きも変わる。CDだとこういう面白さは出てこないだろう。音の鮮度がよさそうだ。

 2曲目はヴァイオリン協奏曲(2009-2010)。単一楽章で書かれている30分ほどの曲。ボストン交響楽団の委嘱作。ヴァイオリンの超絶技巧が聴きものだが、オーケストラも面白かった。オペラ的な雄弁さがあった。後述するが、バートウィスルにはオペラ作品が多い。なるほど、こういう音楽なら、オペラも面白いだろうなと思った。最後は静寂な部分で終わる。意味深長な終わり方だった。

 3曲目は「エクソディExody‘23:59:59’」(1997)。30分ほどのオーケストラ曲。シカゴ交響楽団の委嘱作。前曲のオーケストラパートと同様、この曲もオーケストラが雄弁だ。がっちり構築されているとか、頂点に向かって突き進むとかいうよりも、刻々と変わっていく音楽。どこに行くかわからない。ヴァイオリン協奏曲のときは面白かったが、この曲ではついていけなかった。

 以上3曲すべて日本初演。バートウィスルの音楽は日本ではあまり馴染みがない。演奏はステファン・アズベリーStefan Asbury指揮の東京交響楽団。アズベリーは1965年生まれ。ひじょうに優秀な指揮者だ。東京交響楽団も立派。ヴァイオリン独奏のダニエル・ホープも凄かった。

 バートウィスルのオペラだが、今年のザルツブルグ音楽祭で「ガーウェインGawain」が上演される。メッツマッハーの指揮。行ってみたいが今年は無理だ。

 もう一つ、ベルリン国立歌劇場(リンデンオーパー)の公演予定で「パンチとジュディPunch and Judy」を見つけた。バートウィスル最初期の作品。シラー劇場付属のヴェルクシュテットで、来年5月。残念ながら時期的に難しい。
(2013.5.23.東京オペラシティ)
コメント (2)
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ナブッコ

2013年05月23日 | 音楽
 新国立劇場の「ナブッコ」。今までこの劇場が制作した公演のなかではトップクラスのひとつだと思う。その理由はいくつかあるが、一番大きな点は、諸要因が絡み合って、この劇場ではまれに見る熱気が舞台に生じたことだ。オペラはこうでなくちゃいけない、と思った次第。

 話題性としてはグラハム・ヴィックの演出が一番だろう。事前に、どのような演出になるかは、緘口令が敷かれたらしい。ヴィック自身が語る最低限のコンセプトは報じられたが、基本的には、劇場に来て、ショックを楽しんでほしいという趣向だ。なるほど、それもいいと思った。わたしが行ったのは二日目なので、初日を観た人のブログなどが出始めたが、あえて読まないでいた。

 開演の45分前に開場したが、そのときはロビーまで。30分前になってドアが開いた。舞台を見てアッと驚いた。高級デパートの売り場が出現していた。着飾った人々が談笑している。そうか、神を忘れたユダヤの民は、ブランド品を買いあさる現代人というわけか――と楽しくなった。そこにナブッコの軍団が乱入する。買い物客を人質にとったテロリスト集団のように見えた。アビガイッレがナブッコを陥れる経過は、テロリスト内部の主導権争いのようだった。

 もっとも、わたしが感心したのは、このような読み替えの一貫性よりも、むしろ読み替えを通して、歌手、合唱、オーケストラ、その他この公演に関わるすべての人々を活性化させたことだ。これがこの公演をこの劇場のいつものレベルを超えるものにした最大の要因だったと思う。

 もう一つの大きな要因は指揮のパオロ・カリニャーニだ。センシティヴかつアグレッシヴな指揮といったらいいか、本気になった指揮というか。こういう指揮を聴いていると、今までこの劇場で聴いてきた指揮者はいかにも安全運転だったように思われた。

 そしてもちろん合唱。序曲が終わって冒頭の合唱で、観客すべての心をつかんだ。その効果は絶大だった。観客の気持ちは一気に舞台に集中した。以降、合唱が大きな役割を果たすこのオペラで、もう一つの主役を演じ続けた。

 最後になったが、歌手。ナブッコ役のルチオ・ガッロは、たぶんこの劇場で出演したすべての役を観ているが、歌、演技ともに今までで一番深みがあった。アビガイッレ役のマリアンネ・コルネッティは、先日の「アイーダ」アムネリスでは不発に終わった観があるが、今回はパワー全開だった。
(2013.5.22.新国立劇場)
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フェドセーエフ/N響、テミルカーノフ/読響

2013年05月20日 | 音楽
 まったくの偶然だが、N響と読響がショスタコーヴィチの交響曲第1番を取り上げた。N響はフェドセーエフ(1932‐)の指揮で、読響はテミルカーノフ(1938‐)の指揮で。ともにロシアのベテラン指揮者なので、演奏の比較に興味が向くのは避けられないところだ。

 ともにベテラン指揮者ではあるが、6歳の開きがある。6歳の開きは意外に大きい、というのが正直なところだった。一般的にいって、この年齢になると個人差が大きいわけだが、それにしても、かつての精悍なイメージが強いフェドセーエフは、少し年をとったかなという印象を否めなかった。一方、テミルカーノフは現役バリバリだ。

 フェドセーエフとN響の相性はよさそうだった。でも、80歳になったフェドセーエフのN響初登場は、あまりに遅すぎたと悔やまれる。もう少し早い時期だったら、今後の展開が期待されただろうに。

 といっても、老け込んだ演奏だったという意味ではないので、念のために付言しておきたい。全然老け込んではいなかった。それはたいしたものだ。だが、かつての精悍な演奏からいうと、どこかに古木のような年月の堆積が感じられるようになった。

 なので、ショスタコーヴィチよりも、プログラム後半のチャイコフスキーの弦楽セレナードのほうにいい味があった。なお、最後にボロディンの「イーゴリ公」から序曲とダッタン人の踊りが演奏されたが、これはなんということもなかった。

 一方、テミルカーノフはオーケストラのコントロールが‘現役’だった。後半のドヴォルザークの交響曲第8番ともども、バランスがよく、透明感があり、しかもニュアンス豊かな演奏だった。まさに一流の指揮者と一流のオーケストラによる演奏だった。

 このときのショスタコーヴィチの交響曲第1番では、第4楽章の結尾で驚くべきことが起こった。畳み掛けるように同じリズムを繰り返すその最後のリズムが、大きくテンポを落として、まるで音価が2倍になったように演奏された。しかもそのリズムが、わたしの勘違いでなければ、少し変更されているように感じられた。

 その根拠がどこにあるのかはわからない。でも、このようなショックは基本的に歓迎だ。面白いではないか――。たんなる思い付きならいざ知らず、それまでの格調高い正統的な解釈に照らすと、この処理には独自のインパクトがあった。
(2013.5.18.NHKホール&5.19.横浜みなとみらいホール)
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林光「現代作曲家探訪記」

2013年05月19日 | 音楽
 林光が亡くなってからもう1年――、2012年1月に亡くなった。同年5月には吉田秀和も亡くなった。お二人は同時期に朝日新聞で演奏会評を担当していた。当時は同紙を購読していたので、演奏会評は欠かさず読んだ。吉田秀和はいうまでもなく名文だが、林光も個性的な名文だった。一筆書きでさっと書いたような文章。肝心なことをピンポイントで書く面白さがあった。

 没後一年になって、林光の本が出た。「現代作曲家探訪記~楽譜からのぞく世界~」(ヤマハミュージックメディア刊)。400ページを超える本だが一気に読める。朝日新聞でなじみの文体が懐かしい。

 1988年から2007年まで同社発行の「楽譜音楽書展望」に連載されたエッセイをまとめたもの。作曲家論あり(ヘンツェ、ノーノ、ヤナーチェク、ユン・イサン、アイスラー、ワイルetc.)、一つのテーマで横断的に論じたものあり(海賊版とコピイのある風景、ポーランド派のスコア、手書き譜の美、〈異端〉の作曲家群像etc.)、どれも面白い。

 わたしのような素人の音楽好きには格好のガイドだ。基本的には20世紀音楽のガイドだが、話はモーツァルトやマーラーにも及び、また宮澤賢治や「少年の魔法の角笛」にも及ぶ。広く音楽の世界を見渡すだけではなく、文学も視野に入れた自由な精神の活動にふれる趣がある。

 たとえばヘンツェを論じたエッセイを読むと(ヘンツェでなくてもだれでもいいが)、そこに出てくる曲をかたっぱしから聴きたくなる。今まで聴いたことのある曲もあるが、聴いたことのない曲もある。それらをひっくるめてすべて聴きたくなる。そうすることによって、今まで自己流に聴いてきた音楽(とくに20世紀音楽)が自分のなかで少しは系統だってくるのではないか、という期待が生まれる。

 もう一つ感じたことは、本書がすぐれて林光の自分史になっていることだ。林光がどのように西洋音楽を受容してきたか、それが語られている。ということは、少し遅れて、日本の大衆が、ということでもある。

 それでいいのだ、それ以外にはないのだ、自分を離れて一般的に(あるいは抽象的に)真実があるのではない、自分にこだわったところにしか真実はない――ということを学んだ。そういう文章でなければ面白くないのだ。

 ついでながら、「林光の部屋」というホームページがあって、「光・通信」という連載エッセイが載っている。いつかこれも本にならないだろうか。
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アジア温泉

2013年05月16日 | 演劇
 鄭義信(チョン・ウィシン)の新作「アジア温泉」。新国立劇場の演劇部門が立ち上げた新シリーズ「With―つながる演劇―」の第2弾だ。

 アジアのある島で起きるひと騒動の話。温泉が出るということで、リゾート開発をもくろむ兄弟が訪れる。祖父の代にこの島を離れたその子孫だ。一方、この島の長老は先祖代々受け継いできたこの島の自然と風習を守ろうとする。その対立を軸に島のいろいろな人々の利害・感情が絡んで進行する。

 明るい笑いと人情の芝居。人情といっても、ジメッとせずに、乾いている。まあ、いろいろあるけれど、前に向かって生きていくしかない、という庶民のパワーが全開だ。

 というと、鄭義信がこの劇場で上演した「焼肉ドラゴン」、「たとえば野に咲く花のように」、「パーマ屋スミレ」の三部作を思い出す。作品の底に流れるものは共通するが、この作品に特徴的なこともまたある。

 それはこの作品が「祝祭劇」であることだ。「祝祭劇」という言葉は鄭義信のインタビュー記事のなかに出てくるが(「ジ・アトレ」本年2月号)、その定義ははっきりとはわからないものの、でも、たしかにこれは「祝祭劇」だと感じられる。前述の三部作には物語性――それも骨太な物語性――があったが、この作品では後退し、代わって歌と演劇による祝祭の「場」という性格が前面に出ている。

 またもう一つの特徴は、――これも「祝祭劇」と関連するだろうが――この作品が広場を囲むように上演されたことだ。舞台の両サイドにベンチが並べられ、出番が終わった役者は、舞台裏に引っ込まずに、ベンチに座って芝居を眺めている。前述のインタビュー記事のなかに「マダン劇」という言葉があり、それがこれに該当するのかもしれないが、ともかくこれも面白かった。

 三度インタビュー記事に戻るが、この作品には悲恋があって、「ロミオとジュリエット」みたいだけれど(笑)、というくだりがある。そのロミオ(「アユム」)を演じた成河(ソンハ)とジュリエット(「ひばり」)を演じたイ・ボンリョンの感性豊かな初々しい演技に注目した。ラストシーンで二人が戻ってくる場面では感動がこみ上げてきた。

 なお、「アユム」や「ひばり」もそうだが、この作品の登場人物の名前には象徴性が込められている。たとえば島の長老は「大地」というぐあいに。そのこともこの作品が「祝祭劇」たるゆえんだろう。
(2013.5.15.新国立劇場中劇場)
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カルテット!人生のオペラハウス

2013年05月14日 | 映画
 映画「カルテット!人生のオペラハウス」を観た。イギリスの引退した音楽家のための老人ホームでの話。ヴェルディが私財を投じてミラノに建てた「音楽家のための憩いの家」がモデルだ。

 ヴェルディの憩いの家は何年か前にNHKテレビで報道された。普段はテレビを見ない生活だが、このときはたまたま旅先で見た。ヴェルディはこんなことをしていたのか、いかにもヴェルディらしいな、と思った。功成り名遂げたヴェルディが、引退して困窮している音楽家のために、自分にできることとして、老人ホームを建てた。すべてを救うことはできないが、せめてできる範囲で、と。

 憩いの家は今も健在だが、この映画では、経営に行き詰まり、その打開のために入居者の老人たちが演奏会を計画する。開催にこぎつけるまでの紆余曲折がユーモアたっぷりに描かれる。

 元プリマドンナのソプラノ歌手ジーン、認知症が始まったアルト歌手シシー、過去に9時間だけジーンと結婚していたテノール歌手レジー、老いてなお色気たっぷりのバリトン歌手ウィルフ。この4人がヴェルディの「リゴレット」からの四重唱(カルテット)を歌うまでの紆余曲折。

 ジーンは過去の栄光にとらわれて、入居者たちとは打ち解けない。昔別れたレジーとのわだかまりもある。そんなジーンが次第に自分の「今」を受け入れる物語でもある。

 演奏会の日、いよいよ出番というその時、シシーの認知症が始まる。「お母さんに呼ばれたから帰る」というのだ。途方に暮れる男性2人。そのときジーンがシシーの肩を抱いて優しくいう、「そうね、帰りましょう」
シシー「バッグも持って行っていいの?」
ジーン「もちろんよ」
シシー「あの大きいのよ」
ジーン「そうよ。でも、帰るのは2週間後なのよ」
シシーは笑顔になってステージに向かう。

 ジーンは成長したのだ。人間いくつになっても成長するのだ。実はこれは小さなエピソードで、本筋ではもう一つのストーリーが進行しているが、それは観てのお楽しみ。

 4人の前に歌う元ソプラノ歌手がいる。ジーンがライバル意識をむき出しにするその歌手は、歌い始めると、すばらしい声。ジーンは思わず息をのむ。往年の名歌手ギネス・ジョーンズだ。1936年生まれだから制作時点で76歳くらいだが、すごい声だ。これがギネス・ジョーンズの「今」なのだろうか。感動的だ。これだけでも感動ものだ。
(2013.5.13.Bunkamuraル・シネマ)
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「貴婦人と一角獣」展

2013年05月10日 | 美術
 パリの国立中世美術館(クリュニー美術館)所蔵のタピスリー「貴婦人と一角獣」が日本に来ると知ったのは、去年のいつ頃だったか。ともかく信じられなかった。あの作品が日本に来てしまったら、クリュニー美術館はどうするのだろう、それとも6点ある内の1点だけ来るのか(まさかそんなことは‥)とあれこれ考えた。

 実情としては、クリュニー美術館が「貴婦人と一角獣」の展示室を改修するので、その期間を利用しての来日だった。なるほど、そんなことでもなければ、日本に来るわけがない(日本といわず、同美術館から離れるわけがない)と納得した。

 昔話になるが、大学を出て働き始めた頃、全20巻の美術全集を購入した。毎月1巻ずつ配本されるのが楽しみだった。そのなかの1巻が「染織」で、その表紙に「貴婦人と一角獣」の1点が使われていた。でも、それがどこにあるかは考えなかった。パリにあると知ったのはずっと後のことだ。

 パリに行く機会は何度かあったが、いつもルーブルやオルセーで手一杯になり、クリュニー美術館まではたどり着けなかった。なので、いつも気になっていた。宿題のようなものだった。

 今回、初めてその現物を観て、なるほど、これはすばらしいと思った。オーラを放っている。1500年頃に制作されたので、500年も前の作品だが、時間の隔たりを感じさせなかった。現代に息づいていた。これはすごいことだ。

 今まで迂闊にも6点全部同じ大きさだと思っていた。でも、実際には少しずつちがっていた。一番大きなもので縦377cm×横473cm、一番小さなもので縦369cm×横290cm、6点それぞれちがっていた。工業製品ではなく、職人の手仕事のゆえだろうか。

 ちがっているのは、大きさだけではない。たとえば貴婦人に従う一角獣と獅子(ライオン)は、紋章の入った盾またはケープを付けているのが3点、付けていないのが3点。そこにはなにか意味があるのか。また、6点全部を通したストーリーはあるのか、等々。

 ひょっとすると――と思った、大きさがちがうのは、それらを飾る部屋の関係か。一角獣が貴婦人の膝に前足を乗せている(盾もケープも付けていない)作品(「視覚」)は、ひじょうに親密そうなので、夫妻の居室用か。また、一角獣と獅子が後足で立ち上っている(紋章入りのケープを付けている)作品(「味覚」)は、いかにも誇らしげなので、応接室用か――。そういう想像も楽しかった。
(2013.5.9.国立新美術館)
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ラ・フォル・ジュルネ(2)

2013年05月08日 | 音楽
 カニサレス六重奏団が終わって会場を出たら、知人とばったり会った。この知人はスペインものばかり聴いているそうだ。「次はトゥリーナ」と嬉しそう。このように自分なりのプログラムを組めるのがラ・フォル・ジュルネのいいところだ。

 遅い昼食をとってから、16:45のジャン=クロード・ペヌティエJean-Claude Pennetierへ。曲目はモーリス・オアナMaurice Ohana(プログラムには1914-1992と書かれていたが、Wikipediaでは生年1913となっている。没年は同じ1992)の「24の前奏曲」。会場では某ピアニストの姿を見かけた。シューマンを中心に独墺系のレパートリーでやっているこのピアニストが――と思ったが、オアナにたいする興味よりも、ペヌティエにたいする興味だったのかもしれない。

 で、肝心の演奏だが、これがまったく面白くなかった。演奏がどうのこうのというよりも、会場が狭すぎて(ホールG409)、響きが生まれず、音がドッカンドッカンと鳴るだけ。ピアノ以外の楽器ならいざ知らず、ピアノには窮屈すぎる。以前もこの会場でピアノを聴いて閉口したことがあるが、それを思い出した。

 18:45からは再びスザンナ・マルッキ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン。今度はホールB7。ホールCのような音楽的な音響はないが、聴けないことはない、というくらいの音響はある。

 作曲家の藤倉大とスザンナ・マルッキのプレトークがあった。これが面白かった。藤倉大によれば、アンサンブル・アンテルコンタンポランは、ただうまいだけではなく、生物学的にこんなこともできるのかと思うほどのことができる、とのこと。その演奏能力を絶賛していた。一方、スザンナ・マルッキは、作曲家がそれぞれ新しい音を試みるので、それを実際の音にするには相応の練習が必要だといっていた。作曲家と演奏家の立場のちがいではないだろうか、と思われて面白かった。

 1曲目はブーレーズの「デリーヴ1」。より長大で編成の大きい「デリーヴ2」ならともかく、「デリーヴ1」だけでは物足りなかった。
 2曲目はドビュッシーの「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」。ラヴェルの「序奏とアレグロ」同様、超高性能といった感じの演奏。面白かったのは、最終楽章に今まで聴いたことのない音色が聴こえたことだ。ドビュッシーが仕掛けた新しさだろうか。
 3曲目はトリスタン・ミュライユの「セレンディヴ」。スペクトル楽派の雄ミュライユのこの曲、ホールB7で聴くと、どのような書き方をされているか、赤裸々になった観がある。
(2013.5.5.東京国際フォーラムホールG409・B7)
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ラ・フォル・ジュルネ(1)

2013年05月07日 | 音楽
 今年のラ・フォル・ジュルネは5月5日に出かけた。まず11:00からのトリオ・ヴァンダラーTrio Wandererから。1曲目はショーソンのピアノ三重奏曲。ショーソンのよさがたっぷり味わえる演奏だった。ショーソンのよさとは、高貴な情熱とでもいったらいいか。フランクに連なる作曲家(フランキスト)としてのショーソンの、その音楽史上の位置というか、フランクに触発された高潔な精神性が、この若い時期の作品にもすでに十分に発揮されていることが感じられた。

 と、なんだか力の入った書き方になったが、それはこの時期の音楽が好きだから。若いころにフランクの音楽が好きになり、その流れで一連のフランキストと呼ばれる作曲家も聴くようになった。それ以来これらの作曲家は、心のふるさとのようなものになった。いつも聴く音楽ではないが、たまに聴くと自分を取り戻すような感覚になる、そんな意味での心のふるさと。

 2曲目はラヴェルのピアノ三重奏曲。同じくフランス近代の作品といっても、この曲になると、ラヴェルの個人様式が極まった観がある。時代的な文脈を通り越して、むしろ20世紀の音楽と地続きの地平に立っているような曲だ。名曲中の名曲で、昔から聴いている作品だが、今回ショーソンと並べて聴いたので、余計そう感じたのだろう。もっとも演奏には、さらに洗練されたものがほしかった。

 12:30からはスザンナ・マルッキ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン。1曲目はラヴェルの「序奏とアレグロ」(この曲は指揮者なし)。前のピアノ三重奏曲で感じた不満がすっかり解消された。いや、解消されたどころではない、想像もできない優秀さだ。たとえていえば、超高級車の乗り心地のようなもの。どこにも引っかからずにスムースに運行され、快いことこの上ない。驚いた。

 2曲目はブーレーズの「シュル・アンシーズ」。3台のピアノと3台のハープ、3人の打楽器奏者のための曲。演奏時間は40分くらいの大曲だ。ピアノ1台は永野英樹。我が同胞、頼もしい。この演奏もすばらしかった。触れると壊れてしまいそうな繊細さと光沢のある音色は、高級なガラス細工のようだ。ブーレーズの作品はその仕上げの精妙さにおいてラヴェルの延長上にあると感じた。

 13:40からはカニサレス六重奏団。カニサレスはフラメンコ・ギターの第一人者のようだ。サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルと「アランフェス協奏曲」を協演したりしている。今回演奏された曲はすべて自作曲。フラメンコの泥臭さよりも、明るいポップな感覚があった。これはこれでいい気分転換になった。
(2013.5.5.東京国際フォーラムホールB5・ホールC、よみうりホール)
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マクベス

2013年05月02日 | 音楽
 東京二期会の「マクベス」を観た。昨日が初日で、これからまだ公演があるから、具体的なことは書かずに感想のみを。

 ペーター・コンヴィチュニーの演出。東京二期会がコンヴィチュニーと組むのはこれで4度目だ。今度こそコンヴィチュニーの舞台になっている、という感慨をもった。以前の未消化な感触や、なんだか照れているような感触を払しょくして、今回はこの舞台を楽しんでいる雰囲気があった。

 タイトルロールの小森輝彦の存在が大きかったのだろうと思う。さすがにドイツの歌劇場で鍛えられているだけある。コンヴィチュニーの演出に臆することなく、むしろ当たり前のようにやっていた。そのことが周囲に与えた影響(=効果)は大きかったろうと想像する。もちろん歌唱もすばらしかった。声も、その安定感も。

 このように核になる人がいたおかげで、コンヴィチュニーの舞台として、一応そういえる水準にまで、今回は達していた。実感をいうと、新国立劇場の舞台よりも面白かった、というのが正直なところ。

 そう思ったもう一つの理由は、オーケストラだ。ピットに入ったのは東京交響楽団で、新国立劇場でもピットに入っているが、新国立劇場では聴いたことがない歯切れのよい演奏をしていた。なぜだろう。指揮者のためか。今回の指揮者アレクサンドル・ヴェデルニコフは、積極的にリスクをとって、ドラマに踏み込んでいたから。

 もう一度演出に戻るが、コンヴィチュニーの演出に既視感が漂うといわれるようになって久しい(気がする)。たしかに細部のアイディアにはそういう面がある。でも、それは表層的なことだ。コンヴィチュニーの本質はそんなところにはない、そしてその本質は健在だ、と思った。

 その本質とは、今回の場合、魔女の扱いだ。魔女とはなにか。シェイクスピアの原作にも登場し、それがそのままヴェルディに引き継がれている魔女とは――。たぶんコンヴィチュニーはこれを徹底的に考えたはずだ。そして出した答えがこの舞台だ。魔女を魔女としてなんとなく(なにも考えないで)舞台にのせるのではなく、よく考えるとちょっとひっかかる魔女というものを、徹底的に考えて、自分なりの答えを出すのがコンヴィチュニーの流儀だ。

 その答えは「演出ノート」に書かれているが、「演出ノート」を読まなくても、コンヴィチュニーの意図は伝わってきた。面白い。コンヴィチュニー好調だ。
(2013.5.1.東京文化会館)
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