Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

旅行予定

2016年07月28日 | 身辺雑記
7月29日から8月4日まで旅に出ます。行先はミュンヘンとザルツブルクです。帰ってきたらまた報告します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラン・ギルバート/都響

2016年07月26日 | 音楽
 アラン・ギルバートの都響への3度目の客演.。今回は、遂にというべきか、プログラムにマーラーが組まれた。過去2度の客演で手応えをつかんだので、さらにもう一歩踏み込んだ関係に進もうとする意欲の表れではないだろうか。

 1曲目はモーツアルトの交響曲第25番(「小ト短調」)。ノン・ヴィブラートでフレーズを短く切る演奏(いわゆるピリオド奏法に近い)。わたしは、思えばとくに根拠はなかったのだが、普通のモダンなスタイルの演奏を予期していたので、意外な感じがした。激しいアタックで、気合が入った演奏。

 2曲目はマーラーの交響曲第5番。昨今、演奏頻度が過剰なくらいに多い曲だが、アラン・ギルバートのこの演奏は並みの演奏とは一味も二味も違った。音が軋み、突き刺さり、炸裂する。初演当時のこの曲の衝撃力を髣髴とさせる演奏だ。先日、別の指揮者と別のオーケストラで同じくマーラーの第6番を聴いたが、あのときの明るく、スマートで、ストレスがない演奏とは対極の演奏。

 第2楽章が怒涛のような演奏だった。荒波が岩にぶち当たり、砕け散る。恐ろしいほどの激しさ。一方、第4楽章は、甘美というよりも、孤独に浸る演奏。ハープがじつに音楽性豊かな演奏をしているので、だれだろうと思ったら、吉野直子さんだった。

 全般的に音の陰影、ニュアンスがいつもと違う感じがした。アラン・ギルバートの個性かと思ったが、帰路、プログラムを読むと「今回の演奏では、アラン・ギルバートとニューヨーク・フィルのボウイングを使用します。」と書いてあった。そうか、そのせいか‥と納得した。

 マーラー演奏では長い伝統を誇る都響だが、ベルティーニ、そしてインバルと続いた指揮者の後を継ぐ人材が現れたと思った(そう思った人は、わたしだけではないだろうと感じる)。

 終演後は盛大な拍手とブラヴォー。ソロ・カーテンコールで舞台に登場したアラン・ギルバートは、トランペットの高橋敦とホルンの西條貴人を連れていた。2人とも大活躍だったので、満場の拍手を受けさせたわけだが、指揮者とオーケストラとの仲間意識が感じられ、会場に温かい空気が流れた。都響のホームページによると、同じプログラムが演奏された前日には、ヴァイオリンの矢部達哉と四方恭子を連れて出てきたそうだ。

 アランと都響とはコミュニケーションが良好にとれているようだ。
(2016.7.25.サントリーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰ってきたヒトラー

2016年07月25日 | 音楽
 話題の映画「帰ってきたヒトラー」を観た。もう皆さん見終わった頃なのだろう。館内はガラガラだった。

 すでに多くのことが語られていると思うので、今さら屋上屋を重ねるまでもないが、わたしの感想を一言でいうと、本作はヒトラーその人もさることながら、ヒトラーを祭り上げた普通の人々をうまく描いていると思った。

 やはり印象的だったのは、ヒトラーに扮した俳優(オリヴァー・マスッチ)が、ベルリンのブランデンブルク門をはじめとして、ドイツ各地に出没する場面でのドイツ市民や観光客の反応だ(一種のドッキリ・カメラ)。多くの人々が笑い、記念写真を撮る。まるで人気者だ。不快感を示す人々もいるが、少数派のようだ。中には本物のヒトラーを相手にしているかのように、移民・難民問題への不満を口にする人がいる。ヒトラー待望論のように見える。

 ‘帰ってきた’ヒトラーが最後にいう台詞、「私を殺したって無駄だ。第2、第3の私が現れる」、「私が人々を導いたのではない。人々が私を求めたのだ」(いずれも大意)にはゾッとするリアリティがあった。ヒトラーは人々の心の中にいる。本物のヒトラーはその現れにすぎない。

 本物のヒトラーは当時の人々の反ユダヤ感情に注目した。ユダヤ人への反感や嫌悪、憎悪を煽った。それが権力への道だった。現代の‘帰ってきた’ヒトラーは移民・難民への反感に注目する。そして思う、「これならいける」と。

 わたしは三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」の中に出てくる「政治とは人々の憎悪を組織化することだ」(大意)という言葉を思い出した。帰ってきたヒトラーは、それと同じ思想に立っている。おそらく古今東西、権力を志向する人が抱く共通の思想なのだろう。そして恐ろしいことに、今はその思想が有効な社会になっている。

 おりしもドイツでは、ミュンヘンをはじめ各地で、テロ(あるいはテロもどき)が頻発している。今後、人々の反移民・反難民の感情はますます高まるだろう。またアメリカでは声高に移民排斥を唱える人が支持を集めている。世界最強の国なので心配だ。翻って日本では反韓・反中の空気が広がっている。他人ごとではない。

 本作の中でも触れられる映画「ヒトラー最期の一二日間」は、悲劇的なトーンの重厚な作品だったが、本作は今の世相への風刺をこめた警告の映画だ。虚実をないまぜにした展開に才気が感じられる。
(2016.7.22.渋谷シネパレス)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月・こうこう、風・そうそう

2016年07月22日 | 音楽
 別役実の新作「月・こうこう、風・そうそう」。異説「竹取物語」という趣向の芝居だ。かぐや姫は「姫」。竹取の翁とその妻は「老爺」と「老婆」。帝は「ミカド」。5人の求婚者は「風馬の三郎」と「男」に集約され、その人物像は変更されている。その他「竹取物語」には登場しない「盲目の女」と「女」が登場する。

 別役実というと不条理劇となるが、本作は少なくともベケット流の不条理劇ではない。では、なにかというと、一言でいうのは難しい、というのが正直なところだ。あえていえば「童話」だろうか。不条理なところも残酷なところもある「童話」‥

 あらすじを紹介しても仕方がないと思うので、いきなり感想から入るが、まず「姫」を演じた和音美桜(かずね・みおう)の透明感が印象的だ。また「老爺」の花王おさむと「老婆」の松金よね子のコンビには味がある。「ミカド」の瑳川哲朗と「盲目の女」の竹下景子には「童話」らしい象徴性がある。

 「風馬の三郎」の橋本淳は、役作りが漫画チックに感じられ(演出のせいか役者のせいかは分からないが)、わたしには違和感があった。せっかくの透明感ある「童話」が、その部分だけ漫画っぽくなり、トーンにムラが生じたように思う。

 本作には引用が散りばめられているようだ。わたしが気付いた点はわずかだが、プログラムに掲載された宮田慶子芸術監督(本作の演出者)の巻頭言には、「古事記やうつほ伝説、梁塵秘抄、ヒヒ伝説、更には折口信夫、萩原朔太郎から「オイディプス」まで、あらゆる故事・伝承・考察を自在に行き来しながら書かれたこの作品」となっている。

 音楽の例をひくと、ショスタコーヴィチの交響曲第15番には自作・他作の引用が散りばめられているが、本作もそれと似た印象があった。精巧に作られたメタ・ミュージックとメタ・ドラマ。両者とも大家の晩年の作品だ。

 本作はそういう作品だと思うので、今後繰り返し上演されるなかで、また違った味わいが引き出されるように思う。

 もう一つ興味深く思った点は、本作と6月に上演されたジョン・フォード作の「あわれ彼女は娼婦」とはテーマが共通していることだ。これはあらかじめ仕組んだことだろうか。片や出来たてホヤホヤの新作、片やエリザベス朝演劇、そんな2作のテーマが共通するように仕組むことは不可能だとすれば(普通は不可能だと思う)、これは偶然の産物だろうか。
(2016.7.21.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

DIC川村記念美術館のロスコ・ルーム

2016年07月18日 | 美術
 3連休なので、この機会に‥とDIC川村記念美術館に行った。JR佐倉駅・京成佐倉駅から無料のシャトルバスが出ている。わたしが行くのは2度目。前回は2006年。クレー展を見に行った。そのときの感動は今でも覚えている。今回の目的はロスコ・ルーム。常設展なので前回もあったわけだが、前回はクレー展でお腹がいっぱいになり、そのまま帰った。

 ロスコ・ルームはマーク・ロスコ(1903‐1970)の「シーグラム壁画」7点の展示室。ロスコ・ファンの聖地だ。わたしは昨年、ドイツのエッセンのフォルクバンク美術館でロスコの作品と出会って、魂が震える想いがしたので、ようやくロスコ・ルームを訪れる機が熟したと思った。

 ロスコ・ルームは不均等な七角形の部屋。各々の壁面に「シーグラム壁画」が1点ずつ架かっている。部屋に入ると、最初は照明が暗いと思った(その照度はロスコの意図を踏まえたものだ)。だんだん目が慣れてくると、作品が見えてきた。

 最初は拒絶されている感じがした。スフィンクスのようだと思った。だが、じっと見ているうちに(5分か10分たった頃か)、急に作品が動き始めたような、あるいは(もっと実感に即していうと)何かをしゃべりだしたような気がした。そうすると、あとはもう興奮の渦中にいた。

 「シーグラム壁画」がどんなものか、言葉で説明することは難しいが、あえて概略を述べると、サイズは縦167.6~266.7㎝×横152.4~455.9㎝と大きく、暗褐色の地の上に黒色や橙色や紫色の窓や扉(のように見える図形)が描かれている。(※)

 図形といっても、それはけっして定規で測ったような直線ではなく、太くなったり細くなったり、かすれて消えそうになったり、曲がったり、要するに人間の手が描いた痕跡を残すもの、いや、人間の手が描いたことを主張するものだ。

 それらの図形が何かをしゃべり、わたしに問いかけ、部屋全体がそんなおしゃべりに満たされているのに、同時に静謐で(これ以上はないくらい静謐で)瞑想的だ。

 わたしは想像した――もしこれらの壁画が当初の予定通りニューヨークの高級レストランに飾られていたら、お客さんたちは食事と談笑に夢中で、壁画など眼中になかったろう。でも、談笑の途中で、だれかがフッと壁画に気が付いて、何だかこっちを見ているような気がしたら、落着かない気分になったかもしれない‥と。
(2016.7.16.DIC川村記念美術館)

(※)「シーグラム壁画」の動画Youtube
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイスター/読響

2016年07月15日 | 音楽
 コルネリウス・マイスターは1980年生まれのドイツ人。スリムで爽やかな印象の指揮者だ。来年4月に読響の首席客演指揮者に就任する。

 1曲目はハイドンの交響曲第6番「朝」。後続の第7番「昼」、第8番「晩」と三部作を構成し、人目を引きやすいからか、ハイドンの初期作品の中では比較的演奏される機会が多い曲だ。全4楽章のいたるところに、フルート、ファゴット、ヴァイオリン、チェロ、その他の各パート(コントラバスまで!)のソロが顔を出す。こういう曲は実演でこそ楽しさを実感できる。

 マイスターの指揮は、明るく、淀みなく、(外見のとおり)爽やかだ。弦は10‐8‐4‐3‐2の編成。高音の比重が高いことがマイスターの意図を物語る。

 2曲目はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」。第1楽章の冒頭、低弦のリズムの刻みが少しも物々しくなく、あっさりしている。直後のトゥッティでは金管の音が明るい。‘アルマのテーマ’といわれる弦の第2主題が、大きく、空に羽ばたくように歌われる。どのフレーズも一本調子にはならず、柔軟に伸縮している。しかもくっきりした輪郭を備えている。

 ストレスがかからない演奏だと思っているうちに、少し退屈してきた。マーラーの焦燥感とか、憧れとか、そんな‘澱’のようなものが感じられない。きれいな河の流れのようだ。それがずっと続く。緩徐楽章(今回の演奏では第2楽章)の冒頭のテーマは甘さが抑えられ、また同楽章の最後に現れる堰を切ったような悲しみも、とくになんということもなく過ぎた。

 わたしはこの指揮者を以前聴いたことがあるが、それを想い出した。2012年2月のことだが、ドレスデン国立歌劇場で「ルル」を観たときに、この指揮者が振っていた。シュテファン・ヘアハイムの演出とエバーハルト・クロケの第3幕の補筆版が目当てだったが(そしてどちらも面白かったが)、当時は未知だったこの若い指揮者が振るオーケストラの、明るく、軽く、均質なテクスチュアにも感心した。

 そのときは感心したのに、今回は少し退屈したのはなぜだろう。歌手や演出も絡むオペラとオーケストラ・コンサートとの違いだろうか。それとも後期ロマン派の音楽と12音の音楽との違いか。結論を急がずに、マイスターが明確な個性と上質な音楽性を持つ指揮者であることは疑いないので、今後その適性や可能性を見極めることを楽しみたい。
(2016.7.14.サントリーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シアター・プノンペン

2016年07月11日 | 映画
 映画にはもう何年も行っていなかった。観たい映画がなかったわけではないが、夜は出不精になってしまったし、週末はできれば家にいたいので、結局、映画からは足が遠のいていた。

 先日、時間調整の必要があったので、久しぶりに映画に行こうと思った。さて、何を観ようかと思案した。観たい映画が2本あったが、カンボジアで起きたポル・ポト派の大虐殺の後遺症を描いた「シアター・プノンペン」を選んだ。

 ポル・ポト派(党派の名はクメール・ルージュ)が首都プノンペンを制圧したのは1975年。それから3年8ヶ月あまり、ポル・ポト派は狂信的な政策をとり、その中で知識人、一般大衆、その他多くの人々を殺害した。犠牲者は300万人とも言われるが、120万人、140万人、170万人という説もある。本作のプログラムの解説では「カンボジア国民の4分の1の人々が命を失い」とされている。

 4分の1とはすごい割合だ。仮にその半分の8分の1であったとしても、そのすごさに変わりはない。そんな時代がわずか40年前にあったのだが、生き残っている人々は、その出来事を語ろうとしないそうだ。家族を失い、友人を失い、みんな何らかの心の傷を抱えているはずだが、それを語ろうとはしない。

 今の若者は40年前の出来事をあまり知らないそうだ。何かがあったらしいとは感じているが、きちんとは知らない。そんなモヤモヤした状況の中で、社会全体としてはむしろ過去のことは忘れようという風潮があるようだ。

 以上、前置きが長くなったが、「シアター・プノンペン」はそんな今の若者の、自国の歴史、家族の過去、ひいては‘自分探し’を描いた映画だ。過去にどんな出来事があったのか、糸を手繰るように少しずつ明らかになる。

 本作はカンボジアのタブーとなっているテーマを扱う映画だ。なので、公開前には人々に受け入れられるかどうか、不安があったそうだが、公開したら大ヒットした。やっと過去の出来事を語ることができる社会になりつつあるのかもしれない。

 監督はソト・クォーリーカー。1973年生まれの女性だ。本作は監督自身の‘自分探し’の映画でもあるようだ。主演はマー・リネット。遊び呆けていた娘が少しずつ成長する姿を瑞々しく演じている。荒廃した映画館シアター・プノンペンの元映写技師を演じるソク・ソトゥンが、過去の出来事への苦悩を表現して味がある。
(2016.7.8.岩波ホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラザレフ/日本フィル

2016年07月09日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィルの東京定期。1曲目はグラズノフのバレエ音楽「四季」。秋のバッカナールが有名だが、ラザレフの指揮だと、秋に至るまでの冬~春~夏も面白い。各場を切らずに演奏したので、どこからどこまでが冬で、どこからは春で、ということは分からなかったが、音楽の流れと変化が適度にあり、バレエ音楽の楽しさを十分に味わうことができた。

 ラザレフはバレエ音楽がうまいと思う。2012年5月には横浜定期でグラズノフのバレエ音楽「ライモンダ」の抜粋を演奏したが、これもよかった。バレエが専門の職人的指揮者だとそうはいかないが、ラザレフくらいの大指揮者だと、演奏会でもバレエ音楽を面白く聴かせることができるようだ。

 ラザレフは来シーズンからグラズノフを取り上げる。期待大だ。ラザレフがまだ読響を振っていた頃に、グラズノフの交響曲第5番を演奏したことがある。その印象は今でも鮮明に残っている。大河の流れのように雄大な演奏だった。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第15番。ピアノ、ピアニッシモの部分を徹底的にコントロールし、フォルテ、フォルテッシモの炸裂と明確に対比させた。こういう演奏が平気で(日常的に)できるところまでラザレフ/日本フィルは来たようだ。

 トロンボーン、チェロをはじめとする各楽器のソロがはっきり浮き上がった。オーケストラのための協奏曲というと言い過ぎだが、そこに接近した音楽のように聴こえた。ソリスティックな遊びがこの曲にはあると思った。そんな演奏が新鮮だった。いうまでもないが、ラザレフの解釈によるのだろう。

 ラザレフはショスタコーヴィチ解釈では世界でも第一人者だと思う。ショスタコーヴィチが抱いていた自曲の演奏のイメージ(ムラヴィンスキーなどのイメージ)を今に伝える指揮者ではないだろうか。正統的な解釈という言葉が今でも意味を持つなら、ショスタコーヴィチに関してはその最後の指揮者だろう。

 今回の定期はラザレフの首席指揮者としての最後の定期だった。ソロ・カーテンコールとか花束贈呈とか、なにかその類のことがあるだろうと思っていたが、特別のことはなかった。それはそれでいいのかもしれない。ラザレフとの関係は今後も続くのだから。

 ラザレフは日本フィルの聴衆からほんとうに愛されている。スクロヴァチェフスキが読響の聴衆から愛されているのと似ている感じがする。
(2016.7.8.サントリーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯守泰次郎/東京シティ・フィル

2016年07月06日 | 音楽
 飯守泰次郎と東京シティ・フィルが続けているブルックナー交響曲ツィクルスの最終回。曲目は「テ・デウム」と交響曲第9番。演奏もこの順序。これは大賛成だ。ブルックナーがどう言ったかは別として、第9番の消え入るようなアダージョの後に「テ・デウム」が始まると、急に明るい世界に引き出される気がして戸惑うからだ。

 もう一つは、先に「テ・デウム」が演奏されると、曲の最後に出てくる交響曲第7番の第2楽章の音型が印象に残り(両曲は同時期に作曲された)、次の交響曲第9番の最後に引用される第7番の第1楽章の第1主題と呼応して、一つの円環が閉じるような感覚になるから。順序が逆だと‘閉じる’感覚にはならない。

 さて、その「テ・デウム」の演奏は意外に淡々と始まった。壮麗な始まり方ではなかった。以下も、ブルックナーの中でも特別な曲というよりは、ブルックナーの数ある宗教曲の中の一つというような平常心が感じられた。

 4人の独唱者の中ではテノールの福井敬の存在感が際立っていた。こんなにテノール主導の曲だったかと思う程だ。東京シティ・フィル・コーアの合唱は男声の厚みが欠けていた。

 次の交響曲第9番は、第1楽章の冒頭から、じっくり腰を据えた、構えの大きい演奏であることが感じ取れた。木管、金管の応答に奥行きがある。日常のレベルを超えた超絶的な演奏になる予感がした。

 徐々に各楽器が入ってきて、弦に細かい動きが出ると、最初のトゥッティに到達するが、そのトゥッティが金管を主体にしてホールを圧した。目の覚めるような充実した音。たんなる音響を超えた精神の高揚感が漲っていた。

 第2楽章は飯守泰次郎らしいアグレッシヴな演奏。率直にいうと、けっして老け込んでいないことが嬉しかった。第3楽章では途中で音が薄くなる箇所があったが、コーダに入ると持ち直し、最後の音が消えるまで緊張感が持続した。

 わたしは東京シティ・フィルの定期会員なので、飯守泰次郎をずっと聴いてきたが、その演奏はマルケヴィチ版のベートーヴェンの交響曲ツィクルスの頃に絶頂期を迎え、余勢を駆ったブルックナーの交響曲第4番と新国立劇場でのワーグナーの「パルジファル」で金字塔を打ち立てたと思う。その後、2015年の交響曲第8番と「ラインの黄金」では精彩に欠けたが、今回の交響曲第9番は、飯守泰次郎の新たな展開の可能性を示すものとして注目した。
(2016.7.5.東京オペラシティ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラザレフ/日本フィル

2016年07月04日 | 音楽
 日本フィル首席指揮者としてのラザレフの最後の演奏会が始まった。先日は横浜定期があり、今週は東京定期がある。以下、横浜定期の感想を。

 1曲目はドヴォルジャークのチェロ協奏曲。チェロ独奏は日本フィルのソロ・チェロ奏者の辻本玲。辻本玲は活発な演奏活動を続けているので、ご存知の方も多いだろうが、太い音を持つチェロ奏者で、その音から想像されるとおり、雄渾な音楽性を持つ若手だ。

 そういう有望な人だが、今回は所属オーケストラの首席指揮者の指揮なので(しかもその指揮者が、いってよければ、ラザレフ将軍なので)、自由奔放にのびのびと、という具合にはいかなかったようだ。さらなる可能性を予感させる演奏といったらよいか。

 ただ、だからといって、萎縮しているとか何とか、そんなレベルではない。辻本玲が持っている熱い音楽性、端的にいって音楽の内なる情熱が、その演奏から滲み出ていた。クールな演奏ではなく熱い演奏、しかもその熱さは表面的なものではなく、音楽の内側から滲み出るもの。これがこの人の持ち味ではないかと思う。

 アンコールに「鳥の歌」が演奏された。フラジオレットで模倣される鳥の鳴き声、そしてメロディーの淡々と、飾らず、しかも勁い(あえて‘勁い’と書きたい)演奏は、大袈裟な表現で申し訳ないが、わたしにはカザルスの演奏を想い出させた。

 2曲目はドヴォルジャークの交響曲第8番。これも興味津々の演奏だった。第1楽章の第1主題の明るいメロディーをフルートが吹き、弦が短く応答するとき、背後でフルートに代わってピッコロがロングトーンを吹いていることに、わたしは始めて気が付いた。ピッコロの音が一本の糸のように明瞭に聴こえた。

 この箇所に限らず、全曲にわたって木管、金管の思いがけない動きが浮き出ることがあり、その都度新鮮な気持ちで聴いた。

 第2楽章は、今まではのどかな田園風景を描いた音楽だと思っていたが、今回の演奏では、時折射し込むあの暗い影は‘死’ではないだろうかと思った。そう思うと、音楽に鮮やかな明暗のコントラストが感じられた。ラザレフの深いスコアリーディングの賜物ではないかと思う。

 第3楽章は勢い込んで始まる振り幅の大きい演奏、第4楽章は豪快な演奏だった。最近これだけ豪快な演奏をする指揮者は少なくなった。絶滅危惧種‥かもしれない。
(2016.7.2.横浜みなとみらいホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕鶴

2016年07月02日 | 音楽
 まず幕開き直後の子供たちと与ひょうとの掛け合いで、与ひょう(小原啓楼)の日本語がはっきり聴き取れることに感嘆した。やがてつう(澤畑恵美)が登場。日本語が与ひょうほどは聴き取れない。運ず(谷友博)と惣ど(峰茂樹)が登場。与ひょうと同じくらい日本語が聴き取れる。

 日本語の聴き取りやすさという点では、最後までこうだった。男声3人の日本語が客席にまっすぐ届いてくるのにたいして、つうの日本語は舞台にこもっていた。神経を集中して言葉を聴き取らないと、意味がつかめない負荷がかかった。

 発声のゆえだろうか。そうかもしれないが、團伊玖磨が書いた男声3人とつうとの音楽の違いもありそうだと思った。男声3人はレチタティーヴォ様式で書かれているが、つうは‘西洋オペラ’のアリア様式で書かれている。その違いが日本語の聴き取りやすさ(聴き取りにくさ)の一因だったかもしれない。

 このオペラはそう書かれていると気付いたことが、今回の収穫だった。そして忘れずに記しておくが、前記の男声3人の日本語の聴き取りやすさも感動的だった。あえてもう一つ挙げるなら、布を2枚織り上げた後のつうの、憔悴しきった姿がリアルだった澤畑恵美の演技か。

 こんなことを言っては申し訳ないが、大友直人の指揮には興味を覚えなかった。「つうのテーマ」と言ってよいのかどうか、あの何度も登場する甘美なテーマはそれらしく、また緊張する場面ではそれなりにと、部分、部分はとりたてて文句を言う筋合いではないのだが、全体を貫くドラマが欠けていた。前回2011年に指揮をした高関健のほうが新鮮な音楽を奏でていたと思う。

 演出、美術、衣装、照明、振付は申し分ない。一級品だ。わたしは2度目なので新たな発見はなかったが、唯一、幕切れで子供たちが舞台の奥を向いて、鶴が飛び去るのを見送る場面で、子供たちの姿が右側の壁面にシルエットで映し出される点は、前回は見逃していた。

 今回は1階正面の前方の席で観たのだが、周囲には何人か、舞台に集中しない人たちがいた。体をゆすったり、時々あたりを見回したり、そのうち、後ろの席の人は飴を取りだしたようで、袋を延々と(いつまでたっても)クチャクチャさせていた。劇場側としては、チケットを買ってくれるなら、ありがたい存在だろうが、この劇場にはオペラ・ファンが育っていないことも感じた。
(2016.7.1.新国立劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金洪才/光州市立交響楽団

2016年07月01日 | 音楽
 日本オーケストラ連盟から招待券をいただいて、光州市立交響楽団の日本公演に行った。指揮は金洪才(キム・ホンジュ)。同交響楽団のホームページを見ても金洪才の名前は見当たらないので、日本での知名度の高さを買われたのかもしれない。

 わたしのところに招待券が来たのは、過去に何度かアジア・オーケストラ・ウィークのチケットを買ったことがあるからだろう。そんな程度の者にも招待券が回ってきたということは、強力なスポンサーが付いているからだろう。主催は韓国光州広域市と光州市立交響楽団、後援は駐日韓国大使館および韓国文化院なので、公的な助成を受けた公演のようだ。

 1曲目はチェ・ソンファンの「アリラン幻想曲」。弦がアリランのメロディを奏し始めたとき、その美しさが胸に沁みた。韓国にはとくに縁のないわたしがそうなのだから、会場に多くいるはずの在日の方々は、なおさらだったろう。メロディ自体の美しさもさることながら、演奏者の‘血’からくるものもあったと思う。

 2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はムン・ジヨン。プロフィールによると、2014年のジュネーヴ国際コンクール第1位、2015年のブゾーニ国際コンクール第1位と、華麗な経歴だ。1995年生まれなので今年21歳の女性。

 そのコンクール歴からいっても、どんなにスター然とした人かと思ったら、意外に純朴でまだ世慣れない若者のように見えた。演奏はさすがにスケールが大きいが、華麗というよりも、真面目に曲に向き合っている感じだ。

 アンコールにシューマンの歌曲「献呈」をリストがピアノ用に編曲したものが演奏された。音楽の流れがよく、膨らみにも欠けなかったが、この曲でもリストの甘さより、シューマンの夢見るような優しさが前面に出る演奏だった。

 3曲目はチャイコフスキーの交響曲第4番。第1楽章の展開部など熱く燃える箇所があったが、全体としては生真面目な演奏だった。日本のオーケストラがヨーロッパに行ったときも、現地の人は同じように感じるかもしれないと思うと、東洋人としての共通の感性・問題点を感じた。演奏レベルは日本の一部の地方オーケストラ(これはけっして蔑称ではないので誤解のないように‥)位か。

 アンコールに「イムジン河」が演奏された。これもまた胸に沁みた。昨今の世相にあって一服の清涼剤のように感じられた。
(2016.6.30.東京芸術劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする