Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「タンホイザー」雑感

2021年02月26日 | 音楽
 オペラ「タンホイザー」はヴァルトブルク城(第2幕)、ヴェーヌスベルクという洞窟(第1幕の前半)そして両者の力がせめぎあう中間領域の谷間(第1幕の後半と第3幕)で進行する。ヴァルトブルク城はキリスト教が支配する清純な場所であり、一方、ヴェーヌスベルクは異教の神ヴェーヌス(ギリシャ神話のヴィーナス)が支配する穢れた場所だと、ヴァルトブルク城の住民は考えている。その偏狭さが引き起こすドラマがこのオペラだ。

 今から20年ほど前のことだが、実際のヴァルトブルク城に行ってみた。ドイツ中部のアイゼナッハ駅から路線バスで30分ほどだったろうか。緑豊かな山道を登っていくと、あっけなく着いた。古色蒼然とした城だった。入場券を買おうとすると、基本的にはガイドツアーに参加する形になっていた。日本語ツアーはなかったので、英語ツアーに参加した。英語の説明がわかるかどうか、自信がなかったが、ガイドがわたしの顔を見て「日本人か」と聞くので、「そうだ」と答えると、日本語の説明シートの束を貸してくれた。そのお陰でよくわかった。

 マルティン・ルターがかくまわれた部屋があった。ルターはその部屋で聖書をドイツ語に訳した。小さい部屋だった。ガイドツアーのフィナーレは歌合戦が催された大広間だった。わたしのお目当てはそこだったが、暗くてよく見えなかった。「タンホイザー」の歌合戦の光景は思い浮かばなかった。

 ガイドツアーが終わって出口に案内されたときだった。ガイドが谷間を挟んだ向かいの小山を指さして、「あそこがヘルゼルベルクです」といった。わたしは「えっ」と思った。ヘルゼルベルクとは、中腹にヴェーヌスベルクがある山の名前だ。「そうか、こんなに近いのか」と思った。

 今もその小山が目に浮かぶ。ヴェルトブルク城は山頂にたっているが、ヘルゼルベルクはその足元に見下ろすような位置にある。そこの中腹の洞窟にヴェーヌスを閉じ込めてしまうとは、いくら異教の神ではあっても、ワーグナーさん、あなたは少し失礼ではないかという気がする。むしろヴェーヌスをおとしめる意図を感じる。

 ワーグナーがおもしろいのはそこだろう。偏見を隠さない(現代の言葉でいえば差別的・分断的な要素のある)台本だが、それを現代の目でどう解決するか。その問いを突き付け、わたしたちを挑発する。思い返すと、わたしは今まで「タンホイザー」を、東京、バイロイト、ベルリン(リンデン・オーパー)、ミュンヘン、ケルン、その他数か所で観たが、台本通りタンホイザーがエリーザベトの自死によって救済される演出はあったろうか。なかったと断言する勇気はないが、記憶に残っていない。
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東京二期会「タンホイザー」

2021年02月22日 | 音楽
 当初予定されていた指揮者が来日中止になったため、来日中のセバスティアン・ヴァイグレが代役を引き受けた東京二期会の「タンホイザー」。そのヴァイグレ指揮の読響はニュアンス豊かで、けっして一本調子にならない演奏を繰り広げた。柔和な音が続くが、ここぞというときには鋭角的な音を出す。海外に向けても個性を主張できる演奏だった。

 歌手ではエリーザベトを歌った竹多倫子(たけだ・みちこ)という歌手が掘り出しものだ。イタリアでイタリア・オペラを歌う機会が多いらしいが、ワーグナーも歌える豊かな声の持ち主だ。またタンホイザーを歌った芹澤佳通(せりざわ・よしみち)もよかった。他の方の感想をネットで拝見すると、不評も散見されるが、わたしが観た二日目(最終日)は他の方がいうような問題は感じなかった。

 ヴォルフラムの清水勇磨(しみず・ゆうま)も立派な声だった。ヴェーヌスの池田香織がよかったことはいうまでもない。テューリンゲン方伯ヘルマンの長谷川顯にはベテランの落ち着きがあった。

 1階前方の左寄りのわたしの席からは、ヴァイグレの指揮がよく見えたが、それを見ていると、ヴァイグレが歌手に合わせて歌いながら指揮していることがわかった。それは歌手に細かくニュアンス付けしているようだった。すでに二日目に入っているが、手綱を緩めずに、歌手が走り出すのを抑えているようだった。

 キース・ウォーナーの演出は、元々はフランスのラン歌劇場のためのものらしいが、よく考えられていておもしろかった。一番ギョッとしたのは、第3幕で罪を許された巡礼たちが帰ってくる場面で(エリーザベトはタンホイザーの姿を探すが、見つからない)、その巡礼たちが敗残兵のように見えたことだ。服がボロボロで、なかには頭に包帯を巻いている人もいる。どう見ても、神に救われた人々には見えない。そこから幕切れまでキース・ウォーナーの描くドラマが展開した。

 幕切れではタンホイザーが、天井から下がってくる螺旋状の筒を登り始め、そこに縊死したエリーザベトの無残な遺体が下りてくる。タンホイザーは手を伸ばして遺体に触れようとするが、手が届かないまま幕が下りる。救いは訪れない。筒の下部には緑色の照明が当てられている。それは緑の芽吹いた杖を象徴するが、でも、無力だ。一方、ヴェーヌスは敗北感に打ちのめされる。勝者は(エリーザベトをふくめて)だれもいない。

 床には無数の紙屑が散らかっている。それはタンホイザーをはじめとする騎士=詩人たちの作った歌の象徴だろう。歌も無駄に費やされたのだ、と。
(2021.2.21.東京文化会館)
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下野竜也/N響

2021年02月19日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィが来日中止になり、下野竜也が引き継いだプログラム。シューマンの序曲「メッシーナの花嫁」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」そしてシューマンの交響曲第3番「ライン」。若い頃にウィーンでシューマンをみっちり仕込まれた(と、どこかで読んだ記憶がある)下野竜也のために用意されたプログラムのようにも思える。

 「メッシーナの花嫁」は珍しい曲だ。3曲目の「ライン」と同時期の作品で、シューマンがデュッセルドルフに移ったその時期には、作曲が集中している。「メッシーナの花嫁」を聴くのは初めてだが、シューマンらしい悲劇性が感じられる曲だ。演奏はがっしりした骨格をもつ演奏だった。

 ベートーヴェンの「皇帝」は、来日中止になった外国人ピアニストの代演に清水和音が立った。いつもながらの美音で流麗な演奏だ。それが一層磨き上げられ、ひとつの完成されたスタイルを感じさせる。見事というしかないが、その一方で光り輝くネオンサインを見るような感覚を(わたしは)覚えたことも事実だ。それは好き嫌いの問題だが。

 オーケストラはこの曲でも、がっしりした、骨太の演奏をした。拍節がはっきりして、前へ前へと進む演奏が、清水和音の流麗な演奏とはスタイルが異なり、そのコントラストがおもしろかったともいえる。

 「ライン」は驚くほど高解像度の演奏だった。すべてが明晰で、透けて見えるような演奏だった。淀みがなく、かつ力みのない演奏。N響の力量はいうまでもないが、それを最大限発揮させた下野竜也も瞠目に値する。コロナ禍に入って以来、多くの日本人指揮者を聴いたが、下野竜也は一頭地を抜く実力派だ。

 「ライン」に限らず、シューマンのオーケストラ曲では、当夜のように抜けるような青空を思わせる演奏がある一方で、(よくいわれるように)モヤモヤした灰色の空を思わせる演奏があるのは、どうしたわけだろう。音程の正確さ・不正確さでは説明のつかない事情があるような気がするが。そこにはなにかの企業秘密があるのか。それとも、まさかわたしの耳の悪さのせいでもあるまいと思いたいが。

 ついでにいうと、当夜の演奏では、この曲特有の妙なアクセントが、強調されもせず、無視されもせず、適度な強さで添えられていた。結果、ギクシャクしたところがなく、全体のバランスがとれた、すっきりした造形になっていた。そこからシューマンの晴れ晴れとした幸福感が立ち上がった。その幸福感はシューマンの生涯でも、また同時期の作品と比べても、ほんとうに例外的なものだと思った。
(2021.2.18.サントリーホール)
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B→C 藤井玲南 ソプラノ・リサイタル

2021年02月17日 | 音楽
 ソプラノ歌手の藤井玲南(ふじい・れな)のB→Cコンサートに出かけた。最初プログラムを見たときは、多彩なプログラムだとは思ったが、全体の流れがつかめなかった。なので、逆に興味をもったのだが、実際に聴いてみると、なるほど、個々の曲のつながりがよく考えられているのだとわかった。

 まずバッハの2つのカンタータから数曲。藤井玲南を聴くのは初めてだが、ヴィブラートを抑えて、澄んだ、よく通る声の持ち主だ。次に二コラ・バクリ(1961‐)というフランスの作曲家の「3つのロマンティックな愛の歌」から「ズライカ」。ゲーテの詩で、ドイツ語だ。ピアノの激しい伴奏音型は西風を模しているのだろう。

 次にシューマン夫妻の曲が3曲、クララ、ロベルト、クララの順に続くのだが、その最初の曲、クララの「3つの歌」から「あの人はやってきます」のピアノの伴奏音型がバクリの前曲とよく似ている。バクリの前曲とクララのその曲とは、拍手を入れずに、続けて歌われたが、それは両曲のつながりを考慮してのことだろう。シューマン夫妻のこの3曲では、藤井玲南の歌唱は、しっとりと、情感豊かだった。

 次にアルマ・マーラーの曲が2曲とグスタフ・マーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌」から「真夜中に」が歌われた。それらのマーラー夫妻の曲の間に、リームの「3つのヘルダーリンの詩」から「生のなかば」が歌われた。聴く前は、なぜリームの曲がはさまれるのだろうと思ったが、聴いてみると、よくわかった。リームのその曲の終わり方が深い静寂に包まれ、その静寂が「真夜中に」につながるのだ。

 それにしてもクララとアルマと、二人の女性作曲家の個性のちがいが際立った。クララの慎ましいなかにも情熱を秘めた感性と、アルマのパワーと。二人ともジェンダー問題の犠牲者だったかもしれないことに(メンデルスゾーンの姉のファニーもそうだ)思いを馳せた。

 プログラム後半は、まず前出のバクリの「愛の歌」。郷愁を誘う歌曲集だ。次に藤井玲南自身の作詞、山中千佳子の作曲によるモノオペラ「巫~KANNAGI~」。天岩戸に閉じこもった天照大神を誘い出すためにアメノウズメが踊る物語だ。それはアメノウズメが自らを巫として自覚する成長物語のようにも思える。女性による作詞、女性による作曲そして女性の成長物語は、現代からクララやアルマへの答礼のように感じられた。

 最後はメシアンの「天と地の歌」から3曲。メシアン最初期の曲だが、ピアノの音型がすでにメシアンだ。本山乃弘(もとやま・のりひろ)のピアノが美しかった。「復活」では藤井玲南の声が教会の鐘のように鳴り響いた。
(2021.2.16.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2021年02月14日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの2月の定期は、全席完売になった。ほかのオーケストラで(同じく50パーセント規制の配席ながら)空席が目立ち、寂しい会場風景だったのとは対照的だ。

 1曲目はウォルトンの「スピットファイア」前奏曲とフーガ。わたしは初めての曲だ。スピットファイアとは第二次世界大戦のときのイギリスの戦闘機の名前。子どもの頃に無邪気にプラモデルを作って遊んだ記憶がある。同曲はその名前をとった映画音楽から演奏会用に編まれた曲。映画は1942年公開とあるので、戦意高揚のための映画だったのだろうか。いかにもそれらしく活気のある場面が目に浮かぶ音楽だ。演奏もテンションが高くて、単純に楽しんだ。

 2曲目は菅野祐悟(かんの・ゆうご)(1977‐)の新作「サクソフォン協奏曲」。サクソフォン独奏は須川展也。菅野祐悟はわたしには未知の作曲家だったが、映画やテレビドラマの音楽では有名な人らしい。テレビを見ないので知らなかったが、2014年のNHK大河ドラマ「軍師官平衛」の音楽や、2018年の連続テレビ小説「半分、青い」の音楽を担当したそうだ。

 今回の新作「サクソフォン協奏曲」は全3楽章からなる堂々とした曲だが、通常のクラシックの協奏曲とは趣向が異なる。一言でいうと、エンタメ系の音楽(けっして悪い意味ではない)とシリアスな音楽とのハイブリッドな作品。映画音楽を思わせる甘美な音楽と、魂の底から吹き上げる叫びとをパッチワークのように混合した音楽だ。わたしは第2楽章の後半と第3楽章の後半に現れる、一定のリズムパターンを繰り返すなかで高揚する音楽にとくに惹かれた。

 須川展也の独奏は、さすがにサクソフォンの第一人者というべきか、この新作を掌中に収めていることはもちろん、聴衆を喜ばせるエンタテインメント性と、オーケストラを鼓舞するパワーとを兼ね備えていた。

 3曲目はホルストの組曲「惑星」。なんだか久しぶりに聴いた気がする。第1曲「火星」が激烈な演奏だった。わたしにはコロナ禍で苦しむ人類の怒りの爆発のように感じられた。一転して第2曲「金星」では、オーケストラの音が平板にならずに、微妙な息づかいをもって推移するのが好ましかった。以下、各曲のコメントは省くが、どの曲もけっして雑にならずに、ていねいに性格づけられていた。

 藤岡幸夫が東京シティ・フィルの首席客演指揮者に就任してから2シーズンが経過するが、オーケストラとしっかりかみあっているように感じられた。
(2021.2.13.サントリーホール)
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熊倉優/N響

2021年02月13日 | 音楽
 イザベル・ファウストがシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番を弾くので、聴きにいった。オーケストラは熊倉優指揮のN響。東京芸術劇場3階席のわたしには、ときにヴァイオリンの音がオーケストラに埋もれることがあったが、そのなかから繊細で集中力のあるヴァイオリンの音が聴こえた。演奏時間約23分(プログラム表記による)の単一楽章の曲で、全体の構成をとらえにくいが、最後まで注意をそらさずに聴いた。

 アンコールが弾かれた。なんという曲だろう。センスのある性格的な曲だ。その曲のなんと音楽的な(言い換えると、自由な音楽を感じさせる)演奏だったろう。イザベル・ファウストを聴いたという満足感があった。N響のツイッターを見ると、ニコラス・マタイスという作曲家の「ヴァイオリンのためのエアー集」から「前奏曲/パッサージオ・ロット/アンダメント・ヴェローチェ」とのこと。いつの時代のどんな作曲家かまったくわからないが、ともかく楽しんだ。

 イザベル・ファウストは来日中止になった別の演奏家の代役だった。たまたま来日していたので、滞在を延長して、代役を引き受けた。わたしたち聴衆にはラッキーだった。

 演奏会そのものも、本来はパーヴォ・ヤルヴィが振るはずだったが、プログラムはそのままに(イザベル・ファウストがいなかったら、協奏曲は変更になったかもしれない)若手指揮者の熊倉優が代役をつとめた演奏会だ。コロナ禍で登場機会の多くなった熊倉優も、わたしには興味の的だった。

 1曲目はスメタナの「売られた花嫁」から3つの舞曲、そしてシマノフスキの協奏曲をはさんで、3曲目にドヴォルザークの交響曲第6番が演奏された。そのどれもが鮮やかな演奏だった。1曲目のスメタナが始まった途端に、弾力性のあるリズムと、明るく鮮明な音色とがわたしの耳を奪った。ポジティブな音楽性にあふれた演奏だ。ボヘミアの民俗舞曲特有の躍動感もスリリングだった。

 3曲目のドヴォルザークの演奏も基本は同じだった。この曲は隠れた名曲だと思うが、どこか冗長さも否めないと、わたしは思うのだが、それにしても途中で弛緩することなく、よく最後までもっていった。1曲目のスメタナと合わせて、開放的な音楽性を感じた。縦の線をピシッと合わせる(小澤征爾以来の)タイプではなく、もう少し別の個性をもった指揮者の登場のようだ。

 熊倉優は2021年春以降にはヨーロッパに拠点を移す予定らしい。たしかに日本にいるよりも、外国にいたほうが自由に個性を伸ばせるかもしれない。
(2021.2.12.東京芸術劇場)
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尾高忠明/N響

2021年02月08日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィが振る予定だったN響の2月のA定期だが、指揮者が尾高忠明に変わり、プログラムがガラッと変わった。1曲目は武満徹の「3つの映画音楽」。武満徹の最晩年の作品だ。過去に作曲した映画音楽から3曲を選び、弦楽合奏用に編曲したもの。スイスの高級リゾート地グシュタードで開かれたシネマミュージック・フェスティバルのテーマ作曲家になり、その訪問のために書いた曲。武満徹は翌年亡くなった。

 第1曲は映画「ホゼー・トレス」のための音楽、第2曲は映画「黒い雨」のための音楽、第3曲は映画「他人の顔」のための音楽。今回久しぶりに聴いたが、第2曲がことのほか感銘深かった。よくいわれるように、第2曲は「弦楽のためのレクイエム」にそっくりだ。茫漠と広がる拍節感の希薄な音楽。その音楽の的確な演奏だった。外国人の指揮者だったらこうはいかない。もっと拍節感が強くでる。日本人に特有の拍節感(の希薄さ)だと思う。なお映画「黒い雨」は1989年の作品。「弦楽のためのレクイエム」は1957年の作品なので、30年あまりの歳月を隔てて、最晩年になって、もう一度キャリアのスタート時点に戻ったとすると、それはどういうことだったのだろう。

 ついでながら、第1曲は物憂いブルース風のリズムをもち、第3曲は冷たい短調のワルツになっているが、今回の演奏ではそのリズムと曲想がていねいに捉えられていた。

 2曲目はショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番。チェロ独奏は横坂源。そのチェロ独奏は渾身のものだったが、3階席のわたしには音が届いてこなかった。端的にいって、視覚的な印象とは裏腹に、おとなしい演奏のように感じられた。

 アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第2番のサラバンドが弾かれたが、深々と豊かに鳴るチェロの音にもかかわらず、なぜかバッハのようには聴こえなかった。もっと平坦な横に流れる音楽のように聴こえた。

 なおショスタコーヴィチのその協奏曲では(ちょうどピアノ協奏曲第1番でのトランペットのように)ホルンが大活躍するが、ホルンを吹いた福川さんはもちろんのこと、オーケストラ全体も引き締まった筋肉質のショスタコーヴィチらしい音をだしていた。

 3曲目はシベリウスの交響曲第1番。1曲目と2曲目では自己抑制的だった尾高忠明が、精一杯自己を解放しようとしているようだった。オーケストラもよく鳴った。だが強音にシャープさが欠け、先の丸い鉛筆のような音に感じられた。第4楽章の序奏、主部に入ってからの第2主題、そしてフィナーレの同主題を演奏する弦楽器(14型)が広々と鳴りわたり、N響の弦セクションの威力を示した。
(2021.2.7.NHKホール)
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沼野雄司「現代音楽史」

2021年02月04日 | 読書
 桐朋学園大学教授の沼野雄司の新著「現代音楽史」(中公新書)が出た。20世紀初頭から今現在までの音楽を通観した著作だ。2度にわたる世界大戦の勃発や東西冷戦の緊張と崩壊など、激動の世紀とそこで生起したさまざまな音楽を、新書というコンパクトな形にまとめている。

 本書の特徴をいくつかあげると、まずヨーロッパはもちろん、アメリカの動向にも目が行き届いている点がある。たとえば第1章「現代音楽の誕生」で取り上げられる「三つの騒動」は、1908年のウィーンでのシェーンベルクの「弦楽四重奏曲第2番」の初演、1913年のパリでのストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演、そして1923年のニューヨークでのヴァレーズの「ハイパープリズム」の初演だ。前2者はともかく、ヴァレーズのそれは知る人ぞ知る出来事だろう。

 もう一つの特徴は、音楽のさまざまな動向が、前記のような社会の激動のなかに位置付けられている点だ。その端的な例は第6章「1968年という切断」だろう。1968年にはプラハの春が起き、パリの五月革命が起きた。国内では東大闘争が起き、ベトナム反戦運動が盛り上がった。その1968年は音楽でも「進歩そのものが疑われ、直線的な歴史観が歪むなかで、創作も明確な行先を見失い、さまざまな方向に拡散・乱反射する。この時代の切断は、おそらく二つの大戦にもまして大きなもののように見える。」(「はじめに」)。その「拡散・乱反射」の音楽が取り上げられる。

 全体を通して音楽作品が、作品名だけではなく、簡潔だが的確なコメントをそえて取り上げられる点も特徴の一つだ。無味乾燥な作品名の羅列になっていない。聴いたことのない作品でも、そのイメージをつかみながら読むことができる。その点に感心した。「あとがき」には次のように書いてある。「(略)本文中で名前を挙げる楽曲については、一部のオペラ等を除けばできる限り――「春の祭典」のような名曲であっても――あらためて最初から最後まで通して聴くというルールを自分に課した。」と。そのためだろう、コメントの生きがいい。

 本書は現代音楽史の時系列にそった縦軸の見取り図はもちろんのこと、前記の1968年が典型的な例だが、ある時点を切断して、そこでなにが起きたかをみる横軸の見取り図も提示する。その縦軸と横軸のバランスが絶妙だ。

 第8章「二十一世紀の音楽状況」では今現在起きている「過去の作品の編曲、改作、補筆、注釈」、「現代オペラの隆盛」、「現代音楽のポップ化」などが取り上げられる。現在進行形の事象は書き手にとってはリスクがあるだろうが、手探りで進んでいる素人のわたしには、現在地をたしかめるヒントになった。
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