Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

能登半島の想い出

2024年01月05日 | 身辺雑記
 能登半島を旅したことがある。旧家の時国家を見学したり、曽々木海岸にしずむ夕日を眺めたり、珠洲の揚げ浜塩田を見学したりと、のんびりした旅だった。2011年10月のことだ。

 わたしは車を運転しないので、移動は路線バスとタクシーだった。珠洲で路線バスを待つあいだに食堂に入った。うどんの昼食をとっていると、小柄な老人に話しかけられた。とりとめのない話をするうちに、老人はこんな話をした。

 「珠洲でも原発を作る話があったんさ。おれは反対した。そしたら村八分さ。だれも口をきいてくれなかった。それで福島の原発事故だろ。みんな手のひら返したように『爺さんのおかげだ』といってくる。」

 正月早々の大地震は、珠洲が震源地だ。あの老人はどうしているのだろう。2011年の時点ですでにそうとう高齢だったが‥。珠洲の通りを行き交っていた人々はどうしたか。揚げ浜塩田は海岸に面している。残念ながら悲観的にならざるを得ない。曽々木海岸も同様だ。わたしの泊まった旅館は海岸の近くだった。無事だろうか。
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わたしの故郷

2023年11月04日 | 身辺雑記
 わたしの故郷は多摩川の河口の街だ。家の周囲には小さな町工場がひしめいていた。日本が高度経済成長期にあったころは、工場の廃液が溝に流れ、異臭を放った。普段羽振りの良かった工場主が夜逃げしたこともある。喧嘩もあった。ガラの悪い街だった。だがそんな街でも、子ども心には楽しい街だった。遊び場は多摩川の土手だった。今でこそ河川敷にはグランドなどが整備されているが、当時は草が生い茂る荒れ地だった。その中で野球をやったり、カニを取ったりした。

 私は結婚後家を出て、川崎に移り、今では目黒にいる。時々多摩川のその街が懐かしくなる。一年に一度くらいは訪れる。先日も行った。JR蒲田駅からバスに乗り、糀谷(こうじや)で下車。商店街を歩く。チェーン店が多数進出している。安っぽい商店街になった。だが、よく見ると、昔の店が奇跡のように残っている。たとえば本屋さん。わたしが中学生のころまで通った本屋さんだ。当時の店主がまだ店番をしている。すっかり老いたが、まだ店にいる。

 わたしの家があったあたりは、小さな町工場が姿を消して、大規模なマンションが林立している。様変わりだ。でも近所の和菓子屋さんがまだある。薄汚れた小さな店だ。世間から忘れられたような風情だ。でもまだ営業している。入ってみた。だれもいない。しばらく待つと、昔の面影を残す老人が出てきた。ドラヤキを買った。老人は「よく出るんですよ」と。お客が来る気配はないが‥。ふと「人生の最後はこのあたりのマンションに住んで、昔の記憶に浸るのもいいな」と思った。

 土手を歩いた。土手の上の道は、昔は舗装されていず、道幅も狭かった。今は広い遊歩道兼サイクリングロードになっている。川沿いに大師橋まで下った。昔は2本ある塔の1本が壊れた古い橋だった。今では近代的な橋に付け替えられている。橋から下をのぞくと干潟が見える。なんという鳥なのか、数種類の鳥がいる。全国各地に干潟を守る運動があることを思い出す。

 大師橋を渡って神奈川県側に出た。川沿いに上ると、東南アジアの寺院のような巨大な塔が見えた。なんだろう。土手を降りて見にいった。川崎大師の自動車交通安全祈祷殿とのこと。2006年建立。広い駐車場を備えている。川崎大師の資金力を思う。

 川崎大師に行ってみた(写真↑)。折しも七五三の季節なので、両親につれられた小さな子が何人かいる。わたしも幼いころ来たのかどうか。七五三の記憶はないが、初詣の記憶はある。人混みに埋もれて、うんざりした。今も仲見世通りは変わらない。くず餅や千歳飴が並ぶ。レトロな風景だ。喫茶のできる店に入った。明るい日差しが入り暖かい。くず餅を注文した。
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被爆二世

2023年08月10日 | 身辺雑記
 わたしの亡父は太平洋戦争中、呉の海軍工廠で働いた。東京の羽田に生まれ育った亡父がなぜ呉の海軍工廠に行ったのかは、残念ながら聞き逃した。亡父は生前、「小学校を出て歯医者の書生になり、夜間の中学校に通ったが、続かなかった。良い働き口がなくて、仕事を転々とした。そのうち伝手があって、岡山県の総社に行った」といっていたので、総社で働いていたときに、呉の海軍工廠に職を見つけたのではないかと想像する。

 亡父は呉の海軍工廠で働くことができたために戦死せずに済み、戦後結婚してわたしが生まれたわけだが、それはさておき、亡父が生前話していたことのひとつに、「原爆のキノコ雲を見た」というのがあった。「ラジオでは新型爆弾といっていたが、工員仲間に原爆だと分かっていた者がいた」と。

 その話を思い出したのは、参議院議員の吉良よし子氏のツイッターを見たからだ。吉良氏はこう書いている。「1945年8月6日8時15分/私の祖父は、当時、江田島の海軍兵学校で、ピカの光と爆風を受け、ヒロシマ上空に広がるキノコ雲を見たそうです。/爆風で木々が次々となぎ倒される様、禍々しいキノコ雲の色はいまだに忘れられないと。(以下略)」(2023年8月6日)

 江田島は呉の沖にある。吉良氏の祖父とわたしの亡父は同世代ではないかと思うが、二人の話は符合する。亡父の話には「爆風」は出てこなかったが、呉ではどうだったのだろう。江田島では閃光が走り、大音響が鳴り、爆風が吹いたという手記が存在する。

 亡父は原爆投下後、広島市の惨状が伝わると、工員仲間と「広島に行ってみるか」と話していたそうだ。結果的には行かなかったが、もし行っていたら、亡父は被爆し、わたしは被爆二世になった可能性がある。

 被爆二世になった可能性は、もうひとつある。それは黒い雨だ。原爆投下後、広範囲に放射性物質をふくむ黒い雨が降ったことは周知の通りだ。黒い雨は住民をはじめ河川、土壌などに放射能汚染をもたらした。戦後ずっとたってから、黒い雨訴訟が提起され、原告の勝利に終わったのは2021年のことだ。現在は第2次訴訟が提起されている。

 黒い雨は1945年8月6日午前9時ころから降り始め、10時ころにもっとも広範囲に降り、午後3時ころに降り止んだと推定されている。降った地域は広島市の北西部に広がっている(局地的ではなく、ひじょうに広い地域だ)。もし風向きが違って広島市の南東部に降ったとしたら、江田島や呉にも降っただろう。その場合は吉良氏の祖父もわたしの亡父も黒い雨に当たった可能性がある。わたしは被爆二世になったかもしれない。わたしが被爆二世になるかならないかは紙一重だったようだ。
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第五福竜丸

2023年05月29日 | 身辺雑記
 東京都江東区の夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」を訪れた。第五福竜丸を保存・展示する施設だ。第五福竜丸を見るのは初めて。なんでもそうだが、現地を訪れ、または現物を見ると、感じることが必ずある。第五福竜丸の意外に大きな船体を見ると、この船がたどった数奇な運命が実感される。

 今の世の中では、第五福竜丸といわれても、わからない人も多いかもしれない。わたしは1951年生まれなので、第五福竜丸のことを知っている世代だが、その第五福竜丸が都内に保存されているらしいとは知っていても、それがどこなのかは知らなかった。ただ、ずっと気になっていたので、先日、場所を調べたら、夢の島公園だとわかったので、重い腰を上げて行ってみた次第だ。

 第五福竜丸はマグロ漁船だった。1954年3月1日にマーシャル諸島で漁をしているときに、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇し、大量の死の灰をかぶった。焼津港に戻ったのは2週間後の3月14日。乗組員23人全員に高度の放射能反応があり、「急性放射能症」で入院した。9月23日には無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。「原水爆の犠牲者は私を最後にしてほしい」と言い残した。

 第五福竜丸事件は当時の社会に大きなショックを与えた。反核運動が盛り上がった。日米両政府は躍起になって抑えようとした。久保山愛吉さんの死についても、放射能との関連を否定する言説を流布した(それは今も続いている)。

 第五福竜丸はその後除染され、改造されて、東京水産大学の練習船として使われた。そして老朽化の末、夢の島のゴミの中に放置された。やがて埋め立てに使われる運命にあった。ところが1968年3月10日の朝日新聞に当時26歳の会社員の投書が掲載され、第五福竜丸の運命を変えた。

 「第五福竜丸。それは私たち日本人にとって忘れることのできない船。決して忘れてはいけないあかし。知らない人には、心から告げよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう。いまから14年前の3月1日。太平洋のビキニ環礁。そこで何が起きたのかを。そして沈痛な気持ちで告げよう。/いま、このあかしがどこにあるかを。/東京湾にあるゴミ捨て場。人呼んで「夢の島」に、このあかしはある。それは白一色に塗りつぶされ船名も変えられ、廃船としての運命にたえている。(以下略)」

 投書は大きな反響を呼び、保存運動が起こった。紆余曲折があったが(それ自体がひとつのドラマだ)、保存が決まり、保存施設の建設にむけて動き出した。施設は1976年6月10日にオープンした。それが現在の展示館だ。もし今だったら保存できただろうか。
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坂本龍一、大江健三郎の逝去に思う

2023年04月11日 | 身辺雑記
 坂本龍一が3月28日に亡くなった。多くの方が追悼の声をあげている。わたしも意外なほどダメージを受けた。なぜだろう。たぶん同学年だからだ。坂本龍一はわたしよりも1歳年下だが、早生まれなので、学年は同じだ。坂本龍一は都立新宿高校、わたしは都立小山台高校。わたしたちの学年は都立高校に学校群制度が導入された第1期生だ。もし学区が同じなら、同じ高校に学んだ可能性もある。当時は大学紛争が高校にも飛び火して、多くの高校紛争が起きた。坂本龍一も参加したようだ。わたしの高校でも生徒総会でストライキが提起されたが、不発に終わった。

 わたしはいままで坂本龍一の音楽とは縁がなかったが、2010年4月に佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏で「箏とオーケストラのための協奏曲」を聴いたことがある(箏独奏は沢井一惠)。そのときは、なんだか軽い音楽だと、肩透かしを食った気になった。その演奏会では、同じ編成のグバイドゥーリナの「樹影にて」が演奏され、激烈なその音楽に圧倒されたせいもあったかもしれない。

 坂本龍一の存在は、むしろ社会運動の面で意識していた。世界的に成功した音楽家が反原発をふくめて声をあげる姿は、社会のある部分を支えた。それが失われた。

 また3月3日には大江健三郎が亡くなった。わたしの文学的な青春のアイドルだった。「死者の奢り」、「飼育」から「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」までほとんどすべての小説を読んだ。だが、「万延元年のフットボール」には感動したのに、その後の作品で躓いた。文体が変わったと思ったからだ。それ以降、わたしの文学的な関心は別の作家に移った。20歳のころだったと思う。

 なので、もう50年くらい大江作品は読んでいない。何度か挑戦したのだが、読めなかった。とはいえ9条の会その他で、大江健三郎の動向はいつも視界に入っていた。大江健三郎の存在が多くの社会運動を支えたことは、もういまさらいうまでもない。

 さらに付け加えると、岩波ホールが2022年7月に閉館されたことと、雑誌「レコード芸術」が2023年7月号をもって休刊されることとが合わさり、最近では、わたしの生きてきた時代が終わろうとしていると、感慨に浸りたくなるのを抑えられない。

 その一方で、先日、村田紗耶香の「コンビニ人間」を読み、はたしてこれは喜劇か悲劇かと、あれこれ考えたことが新鮮な経験だ。村田紗耶香はわたしの子どもの世代だ。「今」という時をともに生きながら、わたしとはまるで違う時代を生きている。かりに時の流れを「今」という断面で切るなら、そこにはわたしの時代、村田紗耶香の時代、その他無数の時代が流れているのだろう。
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新潟県柏崎市訪問

2022年06月30日 | 身辺雑記
 6月初めに新潟県柏崎市に行った。従兄の連れ合いが亡くなったから。20代のころから難病と闘ってきたが、ついに力尽きた。それでも69歳まで生きた。本人は生前に「こんなに生きられるとは思わなかった」と言ったことがある。実感だったろう。

 お通夜は夕方からなので、ゆっくり東京を発てばよかったのだが、何年ぶりかの柏崎訪問なので、早めに行って市内を歩くことにした。といっても、行くあてもないので、柏崎市立博物館に行った。そこに行くのは初めてだ。駅前からタクシーで行くと、美しく整備された赤坂山公園の奥にあった。

 思いがけず、木喰上人の仏像が何体か(8体だったか9体だったか)展示されていた。木喰上人は柏崎に1年ほど滞在したらしい。柏崎で88歳の米寿を迎えた。そのときの作だ。微笑を浮かべた人間味のある木喰仏が完成した感がある。上掲(↑)の写真は館内で購入した絵ハガキだ。木喰仏の特徴がよく出ている。

 夕方からお通夜に参列した。数年ぶりに従兄に会った。従兄とは頻繁に電話で連絡を取り合っていたが、実際に会うと、声のイメージとは異なり、ずいぶん老けたように見えた。わたしと同様に子どもがなく、夫婦二人だけの生活だった。片方が亡くなると、そうとうこたえる様子だ。

 翌日は告別式。その後、火葬場まで行った。田んぼの一角を切り開いたモダンな火葬場だった。こういってはなんだが、その贅沢な造りに驚いた。不意に原発マネーという言葉が浮かんだ。その火葬場が該当するかどうかは、わたしは知るよしもないが、一般論としては、原発が立地する自治体には交付金が出て、自治体はその資金で公民館とか学校とかを整備するという話を聞いたことがある。

 そういえば、前日見た赤坂山公園や博物館も立派だったと思い出した。駅前の商店街のさびれた様子とは対照的だった。火葬場の贅沢な造りと照らし合わせて、なにか腑に落ちる思いがした。

 本来なら国は地方に税金を潤沢かつ公平に配分して、地方の自立を促すべきだが、そうはせずに、地方への配分を抑え、原発などの誘致に頼らざるを得ない状況に追い込む。そんな財政の仕組みとはいったいなんだろう。おりしもわたしが柏崎を訪れる直前に新潟県知事選があった。結果は、原発再稼働の賛否を明らかにしない(選挙の争点にしない)現職が圧勝し、再稼働に反対する候補者は敗れた。県民の中には「現職はいずれ再稼働を認めるのではないか」と危惧する人もいただろう。だが、それには目をつむって、経済優先で現職に投票した人もいるかもしれない。県民も追い込まれているのだ。
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平和祈念展示資料館「戦争のおはなし」展

2022年04月16日 | 身辺雑記
 新宿の高層ビル群の一角にある住友ビル。その33階の「平和祈念展示資料館」は、太平洋戦争後のシベリア抑留をテーマにした施設だ。常設展のほかに年に数度の企画展が開かれる。いまは「戦争のおはなし」展が開催中だ。

 過去にはシベリア抑留の記憶を描いた油彩画の展覧会が催されたこともある。今回はマンガ、絵本、紙芝居、カルタの展覧会だ。どれも親しみやすい。チラシ(↑)に「コトバだけでは伝わらない。絵にするとわかってくれた」とある。そうだろうな、と……。

 右上の緑の絵は、川崎忠昭(1932‐79)の「アカシア並木」だ。絵本「おとうさんの絵本 大連のうた」の所収作品。川崎忠昭は大連に生まれ育った。大連はアカシアが美しかった。だが、わが子にそれを語っても、理解してもらえない。そこで絵本にした、と。

 その左隣の白と青の絵は、ちばてつや(1939‐)の「トモちゃんのおへそ」。有名漫画家の作品だけあって、繊細な美しさは別格だ。収容所のお墓の前で、毎日トモちゃんは自分のおへそを見ていた。「おかあさんが死ぬ前にいったの。おかあさんに会いたかったら、おへそを見なさい。きっとおかあさんの顔が見えるでしょうって」。厳冬期のシベリア。窓ガラスが割れ、氷柱がさがった収容所。そっとおへそを見るトモちゃん。

 ちばてつやは敗戦直後、父親の仕事仲間だった中国人にかくまわれ、父親と母親と4人の子どもたちで屋根裏部屋に隠れて暮らした。ちばてつやは長男だった。むずかる弟妹を慰めるためにマンガを描いた。それが漫画家になる原点だった。

 その下の青と白と赤い点々の絵は、斎藤邦雄(1920‐2013)の「シベリアの霊魂よ 故国日本に還れ」。透き通るような紺色の夜空。真っ白い雪原。その上をシベリアで斃れた多くの人々の魂が日本に還る。ひとりだけ方向をまちがえている。仲間が「日本はそっちじゃないよ」と声をかける。

 その下の絵にもふれておこう。岩田シヅ江(1926‐2009)の「引き揚げ船の中で幼児二人を置き去りにしたと語る母親」。引き揚げ船の中でひとりの母親が泣き泣き語る。「子どもに菓子を与えて、ここに座っていなさい。用事をしたら、お母さんが迎えに来るから、と言って置き去りにした」と……。

 チラシの裏面(※)に斎藤邦雄の「シベリア抑留 いろはかるた」が掲載されている。「そ」は「ソ連を恨むウクライナの娘」。強制労働に従事させられているウクライナ娘がスターリンの写真をふみつける。
(2022.4.10.平和祈念展示資料館)

(※)チラシ
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友人がいたアパート

2021年09月09日 | 身辺雑記
 用事があって大田区立蒲田図書館に行った。蒲田図書館はJR蒲田駅から徒歩で15分ほどだ。駅前の繁華街を抜けて、昭和の雰囲気が残る街並みを行く。わたしの中学時代の友人がその一角の木造アパートに住んでいた。わたしが生まれ育った家は多摩川沿いにあり、友人が家族と住むそのアパートまでは徒歩で30分くらいかかったが、中学から高校のころはよく遊びに行った。

 蒲田図書館に着くと、場所が少し移っていた。かつては区立体育館に隣接していたが、いまはその近くに建て替えられていた。体育館も建て替えられていた。体育館も図書館も友人がいたアパートから徒歩で1~2分だ。かつては壊れかけた柵をくぐって行くのが近道だったが、いまでは広い道になっていた。

 図書館を出た後、友人がいたアパートに行ってみた。友人は1985年に34歳で亡くなった。癌だった。友人のアパートはなくなっていた。友人が住んでいたころから古びた時代遅れのアパートだったので、なくなったのは当然だが、跡地と思われるあたりにたった民家が(こういっては申し訳ないが)いまにも崩れそうな外見なので、時間の経過を呑み込めずに当惑した。

 友人の家族は、友人と両親と弟の4人だった。その4人がたぶん4畳半と6畳だったと思うが、二間に住んでいた。小さな台所が廊下にあった。トイレは共同だった。昭和の時代にはそのようなアパートに住む家族は当たり前のようにいた。お父様は共産党員だった。佐世保でパージにあい、東京に出てきたそうだ。小柄で温厚なお父様だった。お母様も優しかった。わたしは自分の家にいるよりも友人の家族といるほうが心地よかった。

 そのアパートは想い出がいっぱいつまったアパートだった。それがなくなり、跡地を見ても、アパートがたっていたあたりに家が乱雑にたっているので、昔の記憶がよみがえらず、それがショックというよりも、諦めに似た気持ちを感じた。

 近所の酒屋に見覚えがあった。当時もあったような気がする。ある日、友人とわたしで、お互いに金がなかったので、ジンを買った。その店はこの店ではなかったか。友人のアパートでジンを飲んだ。葉っぱ臭かった記憶がある。

 蒲田駅への帰り道は吞川沿いに歩いた。ドブ川の匂いがした。浚渫工事をしているので、そのせいかもしれないが、ともかく匂う。昔の記憶がよみがえった。友人のアパートへ行くには呑川を渡るのだが、そのときも匂った。蒲田の繁華街に戻った。友人とよく行ったパブも喫茶店もいまはないが、雑然とした繁華街には、昔の雰囲気が残っていた。
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Choose Life Project「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」

2020年08月16日 | 身辺雑記
 8月15日にはネット番組「Choose Life Project」(以下「CLP」)の「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」を視聴した。出演者は憲法学者で東大教授の石川健治氏、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏、若い哲学研究者の田代伶奈氏と永井玲衣氏。進行役は田代氏が務めた。田代氏はいまミュンヘンにいるそうだ。地球上のどこにいても対話に参加できるのがZOOMのよさだ。

 わたしは今年5月の検察庁法改正案のときにCLPの取り組みに注目した。それ以来ほとんど漏れなく視聴している。どれもテーマの設定がタイムリーで、しかも当事者が集まって対話をするので、大変参考になる。問題を掘り下げて、しかも身近に捉えることができる。

 今回のテーマでは「“わたし”にとっての」という問題の立て方に共鳴した。わたしはいままでそのように一人称で戦争責任を考えたことがなかった。そんな自分の迂闊さをつかれた思いがした。

 石川氏は、責任という言葉にはresponsibility、accountability、liabilityなどのいくかの意味がある。それぞれ意味が異なる。responsibilityには問いにたいする答えという意味がある。戦争責任については、問いはすでに立てられているが、答えが出されていない、と語った。

 山崎氏は、戦争責任には5つの種類がある。(1)戦争を遂行した政府の責任、(2)その政府を支持した一般人の責任、(3)戦争行為をした軍人の責任、(4)過去になにがあったかを知る責任、(5)未来に向けて同じことを繰り返さない責任。このうち(1)~(3)と(4)~(5)とは性格が異なる。(1)~(3)は戦争当時の人々の責任だが、(4)~(5)は戦後のわたしたちの責任だ、と語った。

 以上の要約は、わたしが聴きとったものなので、もしかすると正確性を欠くかもしれない。ともかくどちらも「“わたし”にとっての戦争責任」を考えるうえで重要な視点だと思う。それらを入り口にして対話は進んだ。興味のあるかたはYoutubeでアーカイブを視聴願いたい。

 番組の最初に当日(8月15日)の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞の一部が流された。また番組の最後には1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送が流された。わたしはそれらの録画・録音が奇妙に似ているように感じた。どちらも甘い自己憐憫に満ちている。アジアの人々への加害性には盲目だ。それは戦後の精神構造に深く根を下ろしている。つねに自らを被害者の立場におく。加害者としての立場を引き受けない。その精神構造はすこし幼くはないだろうか。
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わたしの「コロナの日常」

2020年06月20日 | 身辺雑記
 まだリハビリ中ながら、元の日常生活がジワリと再開しそうな気配だ。この先どうなるか。だれもが新型コロナの第2波、第3波が来るとはいうが、それと元の日常生活の再開と、どういう関係になるか、いまひとつはっきりしない。

 緊急事態宣言とか何とか、そんなお上のいうことは別にして、わたしたちの日常生活はその前から緊急体制に入っていた。ちなみに、緊急事態宣言が発令されたのは、7都府県に対しては4月7日、全都道府県に対しては4月16日だったが、わたしの実感からいうと、2月下旬から緊急体制の日々だった。それがいま解除されたとはいっても、解除されたのは緊急事態宣言だけで、緊張した気持ちはまだ解除されていない。でも、それはともかく、緊急体制が続いたこの4か月間を振り返り、そこで起きたことを記憶することは、けっして無駄ではないと思う。むしろそこで感じた棘のような違和感が大事だという気がする。

 「棘のような違和感」は、大から小までいろいろあった。例のアベノマスクや動画はいわずもがなだが、自粛警察というのもあった。それもいわずもがなとして、では、もっと個人的なレベルではどうだったろう。

 6月9日の日経新聞のコラム「春秋」は、次のように書いている。『「愛してる 家族のために 距離をあけ」。地下鉄の駅で「コロナ対策東京かるた」なるポスターを見かけた。「でかけない 密にならない 作らない」「のんびりと おうち時間を 楽しもう」。万事こんな具合で、つまり「新しい生活様式」の念入りな呼びかけだ。いささかお節介な東京都のキャンペーンなのだが、(以下略)』

 「いささかお節介」だが、「かるた」を作っている当人には、その認識がない。世のため人のためと思っている。ステイホームでストレスのたまっている人を元気づけようという善意からきている。だが、掛け声をかける人はいいが、掛け声をかけられる人は疲れる。それは東日本大震災のときに学習済みのはずだが、もうすっかり忘れて、同じことを繰り返している。

 某オーケストラはツイッターで連日、手洗いを呼びかけた。それはいまも続いている。たとえば6月18日のツイートでは「引き続きにこにこ30秒手洗い&うがい&換気をお忘れなく!」と書いている。このようなツイートが3月以降ずっと続いている。書いている当人はよかれと思ってやっているのだろうが、それが連日続くと辟易する。

 新型コロナは、ホームレスの人々、風俗で働くシングルマザーなど、社会の隅々の問題を浮き彫りにした。それらの問題が今後のGo Toキャンペーンで忘れ去られはしないかという懸念がある。そうならないためにも、小さな違和感も忘れないほうがいい。
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財務省職員の遺書と手記を読んで(4)

2020年04月12日 | 身辺雑記
 新型コロナで鬱陶しい毎日が続いている。演奏会は軒並み中止になり、展覧会も中止または開催延期になったが、それらの文化活動に止まらず、多くの国が事実上の鎖国状態になり、さらには都市封鎖まで起きている。我が国では外出自粛に止まっているが、現役世代はそれでも通勤を続けざるを得ず、リタイア組は(わたしもその一員だが)家にこもっている(それもストレスがたまる)。

 そんな抑うつ状態にあって、「いま起きていることは何だろう」と考えることがある。今まで享受してきたビジネスモデルや生活様式への根本的な問いかけが含まれているように感じるが、その実体がつかめない。

 そんなことを考えている矢先に、妻の友人から妻にメールが来た。福島県在住のその人は「こもっていますか? 大震災のときに似ていると、福島の人たちは言っています」と書いてきた。わたしは目から鱗が落ちる思いだった。目に見えない放射性廃棄物に脅かされた状況といまの状況と、たしかに似ているかもしれない。福島の人たちがあのとき経験したことを、いま日本中で、いや世界中で経験しているのかもしれない。

 そういう状況にあっては、一人の男の死など押し流されてしまいかねないが、それはよくないという気持ちがある。一人の男の死はいまの大きな状況と等価だ。そう思いながら週刊文春の今週号を読んだ。

 今週号では2018年10月28日に亡き赤木俊夫さんの奥さまのもとを訪れた財務省秘書課長と近畿財務局人事課長の会話記録が載っている(奥さまは会話を録音していた)。前後の文脈は同誌を読んでほしいが、核心部分を抜き出すと、財務省秘書課長はこう言った。「安倍さんがああやって『関知してたら辞めてやる』っておっしゃったのが2月17日なんですけれど、あれでまぁ炎上してしまって。で、理財局に『あれ出せ、これ出せ』っていうのもワーっと増えているので、そういう意味では関係があったとは思います。」と。わかりにくいかもしれないが、「関係があった」とは安倍首相の例の答弁と文書の改ざんとが、だ。

 本省の課長が地方財務局の職員の遺族を訪れるのは異例なことだ。それだけその職員の自死を重大視していたわけだが、おそらく真の目的は、奥さまの出方を探ることだったのではないか。現にそのとき赤木さんの遺した「手記」が話題にのぼり、訪問した二人は奥さまが「手記」を公表する考えはないという感触を得た。二人の訪問の目的は果たせたのだ。

 それはともかく、上記の秘書課長の発言は、わたしたちの認識と一致する。一致しないのは安倍首相の認識だ。それが国民の間に亀裂を生んでいる。
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財務省職員の遺書と手記を読んで(3)

2020年04月05日 | 身辺雑記
 週刊文春の今週号に自死した財務省職員・赤木俊夫さん関係の第3報が載った。今回は赤木さんの人となりを伝えるもので、一言でいえば、生真面目で明るく、奥さまと幸せな家庭を築いていた人のようだ。だが、こんな要約ではなく、できれば記事を読んでほしい。ディテールから伝わるものが大事だ。それを読むと、赤木さんが身近に感じられる。

 同時に、赤木さんだけではなく、奥さまの人柄もわかる。既報を読んだときに感じた「この奥さまはどういうかただろう」という疑問が氷解する。今回の記事で印象に残ったエピソードは、提訴と手記の公開を翌日に控えた今年3月17日に、奥さまと本件のスクープ記者・相澤冬樹氏が、佐川元理財局長の自宅の前を訪れたときのこと。自宅の前で奥さまは、インターホンを押すでもなく、じっと建物を見つめた後で、こう言ったそうだ。「佐川さんもこの家に住むご家族も、もう幸せではないんでしょうね。何だか佐川さんもかわいそう……」

 そして、踏ん切りをつけたかのように、こう言ったそうだ。「うん、来てよかった。もういいです」と。心に沁みるエピソードだ。奥さまの豊かな人間性が感じられる。

 たしかに佐川氏も被害者だろう。では、だれが加害者なのか。それは十分明らかになっている。本人が認めないだけだ。でも、佐川氏も、何のためらいもなくやってしまったことで加害者となった。その被害者が赤木さんだ。

 今週号では5人のメディアの人々がコメントを寄せている。共同通信社の元政治部長で現客員論説委員の後藤健次氏は、「国会で追及を受けると、安倍総理はよく、「行政府の長として責任を痛感している」と答弁します。要は、部下の不始末を詫びているだけで、自分には落ち度はないと言っているのです。政治家および安倍晋三個人の責任には言及せず、責任の所在をすり替えている。」と言っている。まさに我が意を得たりだ。

 ジャーナリストの森健氏は、「赤木さんは国民のために奉仕すべき、そして法に忠実であるべきだと考えていた自らの存在意義を、捻じ曲げられてしまったことに苦悩したのでしょう。誰のために自分たちは働いているのかと、罪の意識を抱えてしまった。ただ、最後まで不正を許すことが出来ず、手記を遺したのでしょう。」と言っている。

 その手記をもう一度読み返してみた。以前にも増して赤木さんの無念さが身に沁みた。書き出しは生真面目な官僚そのもので、手記というよりも公文書に近いが、後半では自死を前にして動揺したのか、文章が乱れている。その乱れが痛々しい。ともかく最後まで書き終えて、赤木さんは死にむかった。
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財務省職員の遺書と手記を読んで(2)

2020年03月28日 | 身辺雑記
 自死した財務省職員・赤木俊夫氏の手記と遺書への6人の方々のコメントが、今週の週刊文春に載っている。それらのコメントから、人それぞれの温度差が窺える。取材に答えた各人の発言がどの程度記事になったのか、そしてそれは正確に切り取られたものか――そういったことはわからないが、ともかく記事になったコメントは、各人のスタンスをある程度浮き彫りにする。

 一番おもしろかったのは、衆院議員の石破茂氏のコメントだ。まず印象的なことは、筋が通っていること。どんなときにも筋が通ったことを言うのは(今の政界では)貴重な資質だと思う。改憲論者である石破氏は、わたしとは意見を異にするが、それでも石破氏は自分の意見を正々堂々と述べる点で信頼できる。

 石破氏は、3月23日の参院予算委員会で安倍首相と麻生財務大臣が「再調査はしない」と答弁したことについて、こう言っている。「(引用者注:赤木氏の手記には財務省の報告書にはなかった点が含まれているが)にもかかわらず「再調査はしない」としてしまえば、「手記には価値がない」と言っているように受け止められても仕方ない。こうした態度が、亡くなった職員の奥さまを始めとするご遺族にどう思われるのか。安倍首相や麻生大臣には、もう少し、部下の死に寄り添うお気持ちを示していただければと思います。」。このような心の機微にふれる部分が、安倍首相や麻生大臣の答弁には欠けていた。

 石破氏は、「総理から改ざんについて指示があったとは考えられません。では佐川氏はどんな理由で改ざんを指示したのか、その胸の裡は、亡くなった職員のかたも知り得なかったでしょうが、佐川氏は未だにその説明をしないままです。」と言っている。たしかに首相は、指示はしていないだろうが、だれがどう動くか(=財務省に圧力をかける)はわかっていたはずだ。石破氏も、だれがどう動いたか、わかっているのだろう。

 元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎氏はこう言っている。「おそらく佐川さんは、直接ここをこう改ざんしろと指示したり、自ら手を下したりはしていません。原則論を唱えただけ。(引用者注:財務省の)調査にもそう弁解したのでしょう。原則論を示して、実行行為は部下におしつける。」と。役人の世界を少しでも知っている者なら、想像に難くない事柄だ。

 ひと味違う観点からは、英「エコノミスト」誌の東京特派員、デイビッド・マクニール氏がこう言っている。「「忖度」という言葉に代表されるように、日本語には、言葉によらないコミュニケーションが存在します。同時に、社会の摩擦を和らげるため、事実を明らかにしないという手法を取るのも日本人の特徴です。」と。外から見た日本人の特性が鮮明に言い表されている。
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財務省職員の遺書と手記を読んで

2020年03月22日 | 身辺雑記
 自死した財務省職員・赤木俊夫氏の遺書と手記が載った週刊文春を買ってきた。ささやかながら、供養のつもりだった。一読して、言葉もなかった。人が死を前にして残した言葉は重い。新たな材料があったのかどうか、今までの国会説明と食い違う点があったのかどうか、それはわたしには判断がつかないが、これらの遺書と手記の重みを受け止めることは、それを読んだ一人ひとりに課せられた宿題だと思った。

 記事がよく書けているので、赤木氏の人となりがわかる。一言でいうと、きちんと仕事をする実直なノンキャリアの人だろう。いうまでもないが、官僚組織はこのような人が実務を支え、そこにキャリアの人が来ては去っていく。

 赤木氏は2018年3月7日に縊死した。享年54歳だった。定年まであと数年のベテラン職員だった。直属の上司は赤木氏より年下だったが、その上司を「尊敬していて本当に好きでした。」(未亡人の話)というから、赤木氏の人柄がしのばれる。

 なぜ自死したかといえば、それは文書の改ざんをやらされたからだが、もう一歩踏み込んでいうと、過労によるのではなく、「虚偽」(手記の中の言葉)を強いられたことにより、精神のバランスを崩したからのようだ。手記の一部を引用すると――

 「平成30年(引用者注:2018年)1月28日から始まった通常国会では、太田(現)理財局長が、前任の佐川理財局長の答弁を踏襲することに終始し、国民の誰もが納得できないような詭弁を通り越した虚偽答弁が続けられているのです。(引用者注:アンダーラインは原文のまま) 現在、近畿財務局内で本件事案に携わる職員の誰もが虚偽答弁を承知し、違和感を持ち続けています。」。

 その少し先にはこうある。「本省からの出向組の小西次長は、「元の調書が書き過ぎているんだよ。」と調書の修正を悪いこととも思わず、本省杉田補佐の指示に従い、あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行ったのです。」と。リアルな描写だ。

 2017年7月の人事異動では、同じ部署の他の職員は全員異動したのに、赤木氏は残された。ショックだったようだ。最後に責任を負わされるのは自分だと思った。それはたぶん当たっていただろう。

 走り書きの遺書が残されている。「佐川理財局長(パワハラ官僚)の強硬な国会対応がこれほど社会問題を招き、それにNО.を誰れもいわない理財局の体質はコンプライアンスなど全くない」「最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ、手がふるえる、(引用者注:アンダーラインは原文のまま) 恐い 命 大切な命 終止府(引用者注:「府」は原文のまま)」。この遺書は縊死の直前に書かれたようだ。
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マスクの品切れ騒動

2020年02月28日 | 身辺雑記
 遅まきながら、わたしもマスクの品切れ騒動を経験した。昨日のことだが、マスクの手持ちがなくなったので、4~5件のドラッグストアをまわったが、どこも品切れで「入荷未定」とのこと。道行く人の多くはマスクをつけているので、皆さんは早手回しにマスクを確保したのだろうが、わたしはいつものとおり要領が悪かった。

 マスクの品切れ騒動を2月27日の東京新聞のコラム「筆洗」が書いている(※)。おもしろおかしく、実感を込めて。その中に「非常時に付け込んで、大量購入し、法外な値段で売っている人間もいるそうだが、(以下略)」というくだりがある。それを読んで、最近読んだ津村記久子の短編小説「小規模なパンデミック」が頭に浮かんだ。

 同作はまさにマスクの品切れ騒動の話。語り手が勤める会社でインフルエンザが流行する。最初は少しずつ広がっていくが、やがて全社的に流行し、ついに臨時休業に追い込まれる。その過程でマスク不足に陥る。ドラッグストアに行っても売り切れだ。社員の中には手作りのマスクをみんなに分ける人もいるが、中には「おれの友達でマスクを調達できる奴がいるから安く売ろうか?」とだれかれ構わず持ち掛ける人もいる。まさに「筆洗」が書いている状況だ。

 同作は短編小説集「職場の作法」に収められている4篇の中の一つ。「職場の作法」は文庫本の「とにかくうちに帰ります」に併録されている。今は文庫本で出ているが、初出は2012年2月の単行本だった。「職場の作法」の4篇はどれもおもしろいが、その中の「小規模なパンデミック」は今の状況を先取りしているので驚く。作家の想像力の凄さだろうか、それとも人間はいつも同じようなことをしている、ということだろうか。

 「小規模なパンデミック」に描かれているように、今のマスク不足も早晩収束するだろうが、問題は今だ。今の世の中では、マスクをつけないで咳をすると、殺気立った視線にさらされる。先日(2月22日)あるオーケストラの演奏会に行ったが、開演前に聴衆の一人が咳きこんだ。そのとき、わたしの席から少し離れた席の人が、キッとした目つきで咳のした方向を睨んだ。それが今の状況だ。

 その演奏会では聴衆の大半がマスクをしていた。わたしの席は2階だったので、それがよく見えた。なんだか病院で聴いているみたいだった。ブラックジョークのような光景だと思った。演奏者から見た客席を想像するとゾッとする。

 昨日は在京オーケストラの公演中止の発表が相次いだ。どこも苦渋の決断だったろう。そうかと思えば、来日を取りやめた外人指揮者もいる。東日本大震災の直後の状況と(事情は異なるが)似てきた。

(※)2月27日の東京新聞の「筆洗」https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2020022702000159.html
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