Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2024年の音楽回顧

2024年12月31日 | 音楽
 2024年の大晦日になった。今年は気が付いたら年末になっていた感じがする。多くの人がいうように、今年は秋らしい秋が短かったからだろうか。

 2024年はどんな年だったろう。音楽にかぎって、しかもわたしの経験の範囲内で振り返ってみると、まず思い出すのは「サントリーホール サマーフェスティバル」だ。同フェスティバルは毎年わたしの一番の楽しみだが、今年はとくに充実していた。同フェスティバルは「ザ・プロデューサー・シリーズ」、「テーマ作曲家」、「芥川也寸志サントリー作曲賞」の3本柱で構成されるが、今年はその中の「ザ・プロデューサー・シリーズ」と「テーマ作曲家」が連動していた。

 今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティだった。アルディッティは20世紀後半の現代音楽のレジェンドだ。一方、テーマ作曲家はフランスのフィリップ・マヌリだ。二人の協働関係は長い。マヌリの新曲をアルディッティ弦楽四重奏団が初演したケースが何度かある。今年の同フェスティバルではアルディッティがプロデュースするオーケストラ・プログラムにマヌリの曲を取り上げた。またマヌリの室内楽コンサートにアルディッティ弦楽四重奏団が初演した曲を取り上げた。

 新国立劇場はベッリーニの「夢遊病の女」とロッシーニの「ウィリアム・テル」を新制作した。両作品の連続上演により、ベルカントオペラに焦点が当たった。とくにベッリーニのオペラの上演は新国立劇場では初めてだった。大きな穴がやっと埋まった。またロッシーニのオペラの中では特異な存在の「ウィリアム・テル」の上演は意欲的な企画だった。

 今年も多くの音楽家が亡くなった。感慨深いのは、ドイツの作曲家ヴォルフガング・リームの逝去だ。リームは20世紀後半の音楽界で存在感が際立った。わたしはザルツブルクやチューリヒで見かけたことがある。大柄な人物だったが、以前から健康不安が伝えられた。ついに亡くなった。戦後の現代音楽の一時代が終わった感がある。

 最後に私事をひとつ。わたしは今年、日本フィルの定期会員になって50年がたった。わたしは1974年の春季から定期会員になった。それ以来50年間、日本フィルの浮き沈みを見てきた。今は好調だが、低迷したときもある。オーケストラとは生き物だ。

 わたしは日本フィルを今の若い楽員が生まれる前から聴いてきたわけだが、N響などの他のオーケストラにも、わたし以上に古株の聴衆がいるだろう。そのような古株の聴衆がオーケストラを支える時代になった。そのような聴衆の層が育ったのは、日本が戦争をしなかったからかもしれない。平和の副産物だ。平和の副産物は、オーケストラの聴衆にかぎらず、社会の隅々にあるのではないだろうか。
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モーム生誕150年(2):「雨」・「赤毛」

2024年12月29日 | 読書
 サマセット・モームの「雨」と「赤毛」は南洋の島を舞台にした作品だ。モームは第一次世界大戦中にイギリスの諜報員だったが、神経を使う激務だったのか、健康を害した。静養のために1916年にアメリカに渡り、その足で南洋を旅した。そのときの見聞が反映されている。

 「雨」と「赤毛」はいずれも衝撃的な結末を迎える。短編小説の名手といわれるモームの真骨頂だ。それらの結末には人生の苦さがにじむ。興味深い点は、旧約聖書および新約聖書との関連だ。「雨」も「赤毛」も長年にわたり読み継がれている作品だ。当ブログでは旧約聖書・新約聖書との関連にしぼって書いてみたい。

 「雨」の主要な登場人物は、医師のマクフェイル博士とその妻、伝道師のデイヴィッドソンとその妻、そして売春婦のミス・トムソンの5人だ。南洋の旅行中に疫病発生のため、ある島に閉じ込められる。時あたかも雨季の真最中だ。雨に閉じ込められた5人のあいだに事件が起きる。

 ストーリーの詳細は省くが、伝道師のデイヴィッドソンは厳格すぎるほど厳格な伝道師だ。売春婦のミス・トムソンの放埓な振る舞いが許せない。ミス・トムソンが水夫を相手に開いたパーティーに怒鳴りこむ。そんなデイヴィッドソンが聖書を読む場面がある。ヨハネ福音書の「姦淫の女」の一節だ。

 内容を要約すると、姦淫をはたらいた女(マグダラのマリアと同一視されることがある)が人々に取り囲まれる。モーゼの律法では、姦淫は石打ちの刑に相当する。人々はイエスに問う。「あなたはどうするか」と。イエスはいう。「あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げなさい」と。人々は立ち去る。イエスは女を許す。

 伝道師のデイヴィッドソンはイエスに、ミス・トムソンは姦淫の女になぞらえられる。デイヴィッドソンの導きにより、ミス・トムソンは悔悛の情をしめす。だが最後にどんでん返しが起きる。ミス・トムソンのせいではない。デイヴィッドソンのせいだ。デイヴィッドソンはイエスではなかったのだ。途中に伏線が一か所ある。それは――デイヴィッドソンはネブラスカの山々の夢を見ると、マクフェイル博士(=モーム自身)に告げる。マクフェイル博士はネブラスカの山々を思い出す。あの山々は女の乳房に似ていると。

 「赤毛」は失楽園の南洋版だ。南洋の島で繰り広げられるアダムとイブの物語。それは絵のように美しい。だが楽園追放の事件が起きる。その事件は痛ましい。その後何十年もたって、オチがつく。「雨」の結末と同様に衝撃的だ。わたしたちの実人生にもありそうな話だ。なお「赤毛」の場合は「雨」とは異なり、伏線が周到に張られる。
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モーム生誕150年(1):「英国諜報員アシェンデン」

2024年12月28日 | 読書
 2024年はサマセット・モーム(1874‐1965)の生誕150年だ。モームの作品は大学受験のときに英文読解で読んだ記憶が災いして、大学に入ってからは見向きもしなかった。それから数十年たち、生誕150年なら読んでみようかと思った。手に取ったのは「英国諜報員アシェンデン」。周知のようにモームは、第一次世界大戦中はイギリスの諜報員(スパイ)だった。その経験が書かれているのかと。

 諜報員の仕事は頭が良くなければ務まらないだろう。加えて、目立つ人物ではまずいだろう。頭が良くて、社会に溶け込み、人から警戒されない人物であることが必要だろう。もっと踏み込んでいえば、人の心をつかむ術にたけていなければならないだろう。そうでなければ、人の信頼を得ることはできない。モームの作品を読むとわかるが、モームは人間観察型の作家だ。安易に感情に流されない。だれかに肩入れすることもない。いつも冷静中立だ。おまけに紳士だ。教養の高さは一級品だ。そういう人物はたしかに諜報員に向いているのかもしれない。

 モームは諜報員の仕事について本作でこう書く。「複雑で巨大な機械の小さなネジにすぎない自分には、全体の動きなど知りようがない。関わることができるのは序盤か終盤、中盤に関われることも多少はあるかもしれないが、自分の行ったことがどういう影響をおよぼしたかを知るチャンスはほとんどない。」(第2章「警察の捜査」。新潮文庫より引用)。なるほど、そうだろうなと思う。

 「英国諜報員アシェンデン」はジェームズ・ボンドの007シリーズとは異なり、派手なアクションや金髪美人は出てこない。その代わりに、味のある人物が多数出てくる。モームは本作でも人間観察型の作家なのだ。

 本作は16章からなる。実質的には16篇の短編小説の連作だ。各々の章は独立しているが、同一人物が2~3の章に連続して出てくる場合もある。その場合はそれらの章がまとまって中編小説のようになる。

 印象深い人物の一例をあげると――第10章「裏切り者」に出てくるグラントリー・ケイパーはしみじみした余韻を残す。ケイパーはイギリス人だが、妻はドイツ人だ。イギリスとドイツは戦争中だ。ケイパーはドイツのスパイだが、イギリスの罠に引っかかり、悲劇的な結末を迎える。妻の嘆きは痛々しい。モームはそんなケイパーを非難しない。

 なお「英国諜報員アシェンデン」以外にアシェンデン(=モームの分身)が出てくる作品がある。「サナトリウム」だ(新潮文庫「ジゴロとジゴレット」に所収)。本作はモームには珍しくハッピーエンドを迎える。
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下野竜也/日本フィル

2024年12月22日 | 音楽
 日本フィルの12月の横浜定期は恒例の「第九」。今年の指揮者は下野竜也。前プロにオットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲が演奏された。なんとも懐かしい。昭和レトロの曲といったら言い過ぎだろうか。何十年ぶりかに聴いた。活力ある音楽と演奏に元気が出た。

 休憩後は「第九」。第1主題がパンチのきいた音で鳴る。下野竜也の「第九」を象徴するかのような音だ。以後明確なリズムで音楽が進行する。幽玄さを気取るところは皆無だ。音楽の流れが明晰だ。だが不満も感じた。音楽の熱が次第に上がることがないのだ。言い換えれば、音楽があるところで急に深まるような感覚がない。

 第2楽章は歯切れの良いリズムが一貫する。それはそれで面白い。そのような演奏で聴くと、リズムだけで音楽を書いたベートーヴェンという作曲家に驚嘆する。他のだれもやったことがないような音楽だ。

 第3楽章は意外に印象に残らなかった。音楽の流れは良く、音も美しいのだが、第1楽章と同じように、熱が高まらないことが気になった。わたしの主観かもしれないが、演奏はあっという間に終わった。ストレスの残らない演奏だった。

 第4楽章が始まる。バリトン独唱(宮本益光)の後に合唱(東京音楽大学)が入ると、その声のフレッシュさに身震いした。透明で、しかも張りのある声だ。若い人でなければ持ちえない純粋さに溢れている。人生の入り口に立ち、希望だけではなく、迷いも恐れもあるだろうが、でも今そのときでなければ持ちえない新鮮さがある。ベテランのプロ合唱団からは失われたものがある。

 合唱の声に耳を澄ましていると、第4楽章の主役は合唱だと痛感する。独唱者4人でもなく、またオーケストラでもなく、合唱が主役だ。ベートーヴェンが書いた音楽はそういう音楽だと。じつは前述のように日本フィルの横浜定期は、毎年12月は「第九」で、しかも合唱は毎年東京音楽大学なのだが、今年はとくにその歌声に感動した。トレーナーの準備が良かったからかもしれないが、下野竜也の明確なアクセントも効果的だったのだろう。

 下野竜也の指揮で驚いたのは、終結直前のマエストーソの部分のテンポだ。周知のようにベートーヴェンの指示は四分音符=60だが、普通は八分音符=60で演奏する。だがそれをベートーヴェンの指示通りにやったのではないだろうか。そうやると音価が2分の1になるので、終結直前にグッとためるのではなく、一気呵成に終結するような演奏になる。帰宅後調べてみると、下野竜也はN響でも読響でも四分音符=60でやったようだ。
(2024.12.21.横浜みなとみらいホール)
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B→C 葵トリオ

2024年12月18日 | 音楽
 葵トリオがB→Cに出演した。1曲目はシュニトケのピアノ三重奏曲。原曲は弦楽三重奏曲だったそうだ。シュニトケ自身がピアノ三重奏曲に編曲した。原曲は1985年の作曲、ピアノ三重奏曲は1992年の編曲。シュニトケ最晩年の作品だ。

 2楽章構成で、2楽章とも緩徐楽章だ。武満徹のピアノ曲「2つのレント」を思い出す。シュニトケのこの曲は沈鬱な楽想が基調だが、時々激情的なパッセージが駆け抜ける。同じような楽章を2つ続けて聴くと、最後はすべてが語り尽くされた感が残る。シュニトケはなぜこの曲を書いたのだろう。シュニトケのペシミスティックな心境の表れだろうか。

 2曲目は細川俊夫の「メモリー ――尹伊桑の追憶に」。同じ沈鬱な音楽でも、細川俊夫の音楽はシュニトケの音楽とはなんと違うのだろう。薄く張った透明な音。時間が止まったような感覚だ。大事な人が亡くなったときの喪失感はそういうものかもしれない。

 3曲目は山本裕之の「彼方と此方」。シュニトケの音楽とも細川俊夫の音楽ともまるで違う。いや、当夜演奏されたどの音楽とも違う。比喩的にいえば、ランダムに動く3つの運動体があり、それがやがてひとつの有機体に収斂し、エネルギーを失うという音楽だ。音の新鮮さが目をみはるようだ。

 4曲目と5曲目は藤倉大の「nui(縫い)」と「nui2(縫い2)」。「nui(縫い)」は短い曲なので印象が残らなかった。「nui2(縫い2)」はリズミカルなピアノの動きの続く部分が印象的だが、その動きにはどこか既視感もあった。

 休憩をはさんで後半。6曲目はバッハのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調BWV1021。バッハの名曲のひとつだが、演奏は一風変わっていた。ヴァイオリンと通奏低音の音楽ではなく、チェロとピアノがヴァイオリンと対等に渡り合うピアノ三重奏のような音響体だ。わたしにはちょっと経験がない音響体だった。

 最後の7曲目はヴァインベルクのピアノ三重奏曲。これは目の覚めるようなパワフルな演奏だった。葵トリオが海外で認められる所以だろう。日本人の演奏家がかつて(そして今も)いわれる「箱庭的」な演奏とは一線を画す。それだけのパワーがあって初めて聴く者の肺腑をつく演奏になるのだろう。

 それにしてもこの曲は面白い。全4楽章の大曲で、どの楽章も面白いが、第4楽章の最後が静かに終わる。激しい闘争のような音楽が続いた後での静かな終わり方。それはなんだろう。作曲は1945年だ。戦争終結後の、喜びもなにもない、空白の時間の訪れだろうか。
(2024.12.17.東京オペラシティ小ホール)
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ルイージ/N響

2024年12月15日 | 音楽
 ルイージ指揮N響の定期演奏会Cプロ。曲目はリストの交響詩「タッソー」と「ファウスト交響曲」。リストの管弦楽曲を再認識する良い機会だ。

 1曲目の交響詩「タッソー」は弦楽器の暗い音色から始まる。やがてバス・クラリネットがテーマを吹く。鬱屈したテーマだ。それにしてもテーマを提示するのがバス・クラリネットであることにハッとする。ちょっと珍しい。演奏が情感豊かだ。曲はその後、明るさを増し、最後は交響詩「プレリュード」を思わせる勝利の音楽になる。N響の金管楽器が輝かしい。

 広瀬大介氏のプログラムノーツによると、リストには交響詩が13曲あるそうだ(その他に交響曲が2曲ある)。その全部は聴いていないが、「タッソー」や「プレリュード」から類推すると、リストの管弦楽曲にはひとつの“色”がありそうだ。それは暗い色だが、どこかに暖色系の色が紛れこむ。渋いようで甘い色だ。リストの交響詩を継承した作曲家はリヒャルト・シュトラウスだろうが、シュトラウスの“色”はもっと華やかだ。そのちがいは半音の使い方からくるだろうが、それ以外にリズムのちがいもありそうだ。リストの管弦楽曲のリズムはストレートだ。

 2曲目の「ファウスト交響曲」はもっと面白かった。ルイージ指揮N響の演奏はこの大曲を隅々まで味わい尽くすものだった。細部のニュアンスを表出し、しかも細部に拘泥するあまり全体が崩れるということがない。細部と全体のバランスがとれた名演だ。

 第3楽章(最終楽章)ではメフィストフェレスがファウストを翻弄する。にっちもさっちもいかなくなったとき、オーケストラが止まり、オルガンが鳴る。教会のオルガンを想起させる。そして静かに男声合唱が始まる。ゲーテの戯曲「ファウスト」第2部の最後の「神秘の合唱」だ。やがてテノール独唱が入り、「女性的なるもの」によるファウストの救済が歌われる。男声合唱は東京オペラシンガーズ。テノール独唱は名歌手のクリストファー・ヴェントリスだった。

 わたしは以前から、最後はなぜ男声合唱なのだろうと思っていた。「女性的なるもの」を歌うのに女声が入らないのはなぜか‥と。だが今回腑に落ちた。ファウストは徹頭徹尾“男”の物語なのだ。そう思った理由は次の通りだ。――第3楽章の途中で第2楽章のグレートヒェンのテーマが回想される。ファウストが不幸に陥れたグレートヒェンだ。ファウストはメフィストフェレスに翻弄されるなかでグレートヒェンを想い出す。そして最後にファウストはグレートヒェンの聖母マリアへのとりなしで救済される。そんな都合の良い話は“男”のエゴのなかにしかないから男声合唱なのではないだろうか。
(2024.12.14.NHKホール)
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METライブビューイング「グラウンデッド 翼を折られたパイロット」

2024年12月14日 | 音楽
 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の新制作「グラウンデッド 翼を折られたパイロット」。イラク戦争に従軍する女性パイロット・ジェスは、休暇でワイオミングに帰ったときに、牧場主のエリックと出会い、一夜を共にする。ジェスは妊娠する。ジェスはエリックと結婚し、休職する。子育てが終わり、復職すると、司令官からドローンの操縦への転属を命じられる。ラスヴェガスの近郊でモニターを見ながらドローンを操縦する。ジェスは敵の大物を見つける。攻撃しようとしたそのときに‥。

 興味深い点は、戦闘機に乗っていたときのジェスと、ドローンを操縦するようになってからのジェスとの対比だ。戦闘機に乗っていたときのジェスは、敵の攻撃にさらされ、死と隣り合わせだった。一方、ドローンを操縦するようになったジェスは、死の危険がなくなり、勤務が終わると、家族のもとに帰る。だがモニターには自分が攻撃する敵の顔が見える。ばらばらの死体が見える。戦闘機に乗っていたときには見えなかったものだ。ドローンを操縦するようになってから、戦争がリアルになった。リアルな戦争が日常生活と隣り合わせだ。ジェスの精神は失調する。

 常に戦争をする国・アメリカの現実を描いたオペラだ。オペラが今もアクチュアルな問題を扱い得るジャンルであることを示す。

 台本はジョージ・ブラント。幕間のインタビューによると、当初は女性一人の芝居だったそうだ。それをMETの依頼でオペラにする際に、エリックなどの登場人物を加えたという。なるほど、そういわれると頷けるが、ジェスの襞の多い人物像にくらべると、脇役の造形が浅い。とくにエリックがステレオタイプだ。METからの依頼なので仕方ないが、いっそのことモノオペラにしたほうが良かったかもしれない。

 作曲はジャニーン・テソーリ。ベテランの女性作曲家だ。幕開きのジェスのアリアなど感銘深い。幕間のインタビューによると、ジェスを歌うエミリー・ダンジェロのヴォイス・トレーニングに立ち合い、その声質と可能性を見極めたうえで書いたそうだ。本作は2023年にワシントンで初演された。今回のMET上演にあたり、指揮のヤニック・ネゼ=セガンとも合意のうえ、一部カットしたようだ。

 ジェスを歌うエミリー・ダンジェロは感動的だ。しっかりと安定した硬質な声で、ジェスの軍人の喜びから、戦争のリアルに目覚めて苦悩する姿までを表現した。ヤニック・ネゼ=セガンの指揮はいつものように熱い。そしてもう一つ、現代の問題を扱うオペラを制作し、それを(観客の入りが悪いのを承知のうえで)ライブビューイングで提供し続けるMETに賛辞を贈りたい。
(2024.12.13.109シネマズ二子玉川)
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ノット/東響

2024年12月08日 | 音楽
 ノット指揮東響の定期演奏会。曲目はシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲とベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。

 シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲は、今年がシェーンベルクの生誕150年なので、その記念でもあるだろう。ヴァイオリン独奏はアヴァ・バハリ。スウェーデン出身の若い女性奏者だ。難曲といわれるこの曲を顔色ひとつ変えないで弾く。昔だったら顔をひきつらせて弾くところだ。時代は変わったと痛感する。

 そのように弾かれたこの曲は、精妙な音の連なりに聴こえた。かつての苦渋に満ちた音楽ではなく、むしろ透明な音楽。この曲はそういう曲だったのかと目をみはる。この曲で今も記憶が鮮明なのは、2019年1月に聴いたコパチンスカヤの独奏、大野和士指揮都響の演奏だ。あのときのコパチンスカヤの独奏は驚きの連続だった。この曲がこんなに面白くてよいのかと思ったくらいだ。あの演奏はだれにも真似ができない。いわばコパチンスカヤ節のようなものだ。それにくらべると、バハリの演奏は、涼しい顔をして正確無比に弾く。もちろん難曲なのだろうが、聴衆にはそれを感じさせない。多少語弊はあるが、クールな演奏といえる。

 だがわたしが面白かったのは、じつはバハリの独奏よりも、ノット指揮東響の演奏のほうだった。明るい音色で敏捷に動く。バハリの独奏と同様に、なんの苦渋も感じさせない。わたしはこの曲に開眼する思いだった。

 わたしはこの曲が苦手だった。コパチンスカヤのときを除いて、この曲が腑に落ちたことはなかった。だが今度こそ、この曲が全体としてどんな音像か、つかめた気がする。意外に明るく、なにかが吹っ切れた曲なのだ。そこからどこへ行くかはまだ分からないが。

 それはシェーンベルクの生涯と関係があるのだろうか。シェーンベルクは1933年のヒトラーの政権奪取の直後にベルリンを逃れ、まずパリに入った。そして同年、ニューヨークに渡った。ニューヨークでの生活はうまくいかなかったが、1934年にロサンジェルスに移り、やがて生活が安定した。ヴァイオリン協奏曲が作曲されたのはその頃だ(1936年)。

 2曲目はベートーヴェンの「運命」交響曲。弦楽器の編成は12‐12‐8‐6‐5だった。その編成からも分かるように、ずっしりした音ではなく、運動性の高い音が疾駆する演奏だった。細かいところにクレッシェンドが頻出する。それが運動性を倍加する。ノットの演奏の特徴を一言でいえば、今その場で生まれるライブ感といえるのではないだろうか。そのライブ感は比類ない。
(2024.12.7.サントリーホール)
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鈴木優人/読響

2024年12月04日 | 音楽
 鈴木優人指揮読響の定期演奏会。プログラムはベリオの「シンフォニア」とモーツァルトの「レクイエム」。まずベリオから。ベリオは1925年生まれ、2003年没だ。来年は生誕100年のアニヴァーサリーイヤーに当たる。今回の「シンフォニア」はそのプレ企画かもしれない。シャープで色彩豊かな演奏だった。鈴木優人の現代音楽への適性をあらためて感じた。

 「シンフォニア」の第3楽章はマーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章(「子供の魔法の角笛」の中の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」による)をベースにする。今回の演奏は、マーラーの音楽が横方向に流れ、そこにさまざまな引用がコラージュ的に浮き沈みする演奏ではなく、それらのコラージュが縦方向に切断され、その切断面が見えるような演奏だった。結果、整然とした流れではなく、収拾のつかない混乱した音楽が生まれた。その生々しさはユニークだが、この曲にはふさわしいかもしれない。

 「シンフォニア」は1968年に作曲された。1968年は、チェコではプラハの春が起き、パリでは5月革命が起きた。ニューヨークではコロンビア大学の紛争が起き、また公民権運動のキング牧師の暗殺事件が起きた。東京では東大闘争と日大闘争が起きた。今では伝説的に語られる1968年に「シンフォニア」は生まれた。1968年を象徴する作品だ。

 今その作品を聴くと、どう感じるかと、わたしは自分に問いながら聴いた。演奏が良かったからだろう、古びた感じはしなかった。むしろ時代と向き合う熱量が眩しかった。ひるがえって、今の時代に生きるわたしたちは、時代と向き合う熱量をもっているだろうかと考えた。それを避けるうちに、取り返しのつかない事態が進行しているのではないかと。

 「シンフォニア」の第3楽章は前述のようにマーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章をベースにするが、今では普通に聴かれるマーラーも、1968年当時はそれほど一般的ではなかった。今では想像が難しいが、ベリオがこの曲にマーラーを使ったこと自体が、インパクトがあったかもしれない。また作曲を委嘱したニューヨーク・フィルの当時の音楽監督はバーンスタインだったので、マーラーを使うことはバーンスタインへの敬意の表明だったかもしれない。

 今回の演奏では、第3楽章から第4楽章へアタッカで入った。狂騒の第3楽章から時間が静止したような第4楽章への切れ目ない移行は、見事に効果的だった。なお、プログラム後半は、前述したようにモーツァルトの「レクイエム」だった。フルート、オーボエ、ホルンを欠くオーケストレーションは、「シンフォニア」とは対照的なモノクロの世界だった。
(2024.12.3.サントリーホール)
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ルイージ/N響

2024年12月02日 | 音楽
 ファビオ・ルイージ指揮N響のAプロ。1曲目はワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。ルイージのワーグナーなので期待したが、オペラ的な盛り上がりに欠けた。当日のメインの曲目(後述するが、シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」)に重点が置かれ、1曲目は十分に力が入らなかったのだろうか。

 2曲目はリヒャルト・シュトラウスの歌曲を5曲。ソプラノのクリスティアーネ・カルクの独唱。私事だが、カルクは以前聴いたことがある。2016年10月にベルリン・フィルの定期演奏会に行ったとき、モーツァルトのオペラ・アリアとコンサート・アリアを各1曲歌った。とくにコンサート・アリアがドラマティックな歌唱だった。指揮はイヴァン・フィッシャーだった。

 今回もそのときの印象と変わらないが、カルクは声量の豊かさで聴かせる歌手ではなく、むしろ硬質な声の持ち主だが、音楽の中身の濃さで聴かせる。今回は「バラの花輪」と「なつかしいおもかげ」から入り、ともに温和なそれらの2曲に続いて、「森の喜び」で濃密な音楽に移行し、「心安らかに」で一挙にドラマティックな音楽を展開する。そして最後に名曲「あすの朝」で締めくくる構成だった。

 その構成といい、カルクの歌唱といい、手ごたえ十分の内容だった。できればアンコールを期待したが、アンコールはやらなかった。そういえば、ベルリン・フィルのときもアンコールはなかった。アンコールをやらないのは、カルクの流儀か、それともたまたまか。

 3曲目は前述のシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」。ルイージ特有の熱い指揮とN響の分厚い音で克明に描く「ペレアスとメリザンド」だった。実質的に4つの部分からなる曲で、いうまでもないが、(1)ゴロー、メリザンドそしてペレアスの出会い、(2)ペレアスとメリザンドの戯れ、(3)ペレアスとメリザンドの愛の場面とペレアスの死、(4)ゴローの苦悩とメリザンドの死が描かれる。演奏はそれらのドラマを克明に追った。オペラ指揮者としてのルイージの力量だろう。

 ドビュッシーのオペラもそうだが、シェーンベルクのこの交響詩も、聴衆に重くのしかかるのは最後のゴローの苦悩だ。死の床にあるメリザンドを前にしても、ゴローはなお嫉妬に苦しむ。その業の深さは人間の悲しみだ。ルイージとN響の演奏でもその部分が大きく浮かび上がった。

 最近思うのだが、ルイージの熱い音はN響に新時代をもたらすのだろうか。そうだとしたら、日本のオーケストラの転機になるかもしれない。
(2024.11.30.NHKホール)
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カプワ/日本フィル

2024年12月01日 | 音楽
 日本フィルの東京定期。当初は沖澤のどかが指揮する予定だったが、出産予定のため、パヴェウ・カプワに代わった。カプワの生年はプロフィールに記載がないが、まだ30代前半くらいの若い指揮者だ。出身はポーランド。クラクフ音楽院で指揮を学んだ。コンクールの優勝歴はとくに記載されていない。ワルシャワ・フィルをはじめ、ヨーロッパ内のオーケストラを振っている。日本ではまったく無名だ。

 で、どんな指揮者だったか。結論からいうと、意外に逸材かもしれない。インキネンを発掘したときと似たような感覚がある。日本フィルのカプワの起用は成功したと思う。

 プログラムは沖澤のどかのプログラムを引き継いだ。1曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はセドリック・ティベルギアン。しみじみした内向的な演奏だ。ばりばり弾くヴィルトゥオーゾ・タイプではない。晩秋のいま聴くにふさわしいブラームスといえる。ティベルギアンは背が高くスマートで、スーツ姿がよく似合う。一見すると、ビジネスマンだ。その外見としっとりしたブラームスの演奏とはイメージが異なる。

 カプワ指揮の日本フィルはそのようなティベルギアンの演奏スタイルによく付けていた。内向的なピアノ独奏をしっかり支えた。ただ、だからだろうか、少し几帳面な感じがしたのも事実だ。

 ティベルギアンはアンコールにバッハのオルガン協奏曲ニ短調BWV596を弾いた(原曲はヴィヴァルディらしい)。これも秋の夜にひとり想うといった趣の演奏だった。

 2曲目はシューマンの交響曲第2番。1曲目のブラームスのオーケストラ伴奏とはうって変わって、演奏は見違えるような積極性を帯びた。第1楽章の序奏はきわめて遅いテンポで緊張感のただよう演奏。ところが主部に入ると、テンポが速めで開放的な演奏になる。そのコントラストの強さがこの演奏の特徴だ。

 第2楽章のスピード感も見事だ。弦楽器が一糸乱れず疾走する。それを縁取る木管楽器もぴたりと決まる。第3楽章アダージョがどうなるか注目した。どちらかといえば寒色系の音色でクリアな音像が積み重なる。透明感のあるテクスチュアだ。第4楽章は音楽の段落がきわめて明快な演奏だ。もやもやしたところは皆無だ。

 演奏全体をまとめていうなら、クリアな音と明快な造形感が特徴だ。言い換えると、音が混濁したり、音楽の造形があいまいになったりしない。カプワは今後スター指揮者になるかどうかは分からないが、日本フィルは大事に育ててほしい。
(2024.11.30.サントリーホール)
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