Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高橋悠治ピアノ・リサイタル

2014年02月28日 | 音楽
 高橋悠治のピアノ・リサイタル。音楽的に関連のある作曲家を2人1組にして、それを3組並べたプログラム。こういう発想は美術にはあるが――展覧会で関連のある画家の作品を隣り合わせて並べることがある――、音楽では珍しい。

 まずガルッピ(1706‐1785)のソナタイ短調作品1の3。ガルッピというと、往年の名ピアニスト、ミケランジェリが愛奏したソナタを想い出すが、それとは別の曲だった。だが、この曲も愛らしい曲だ。

 この曲との組み合せはモーツァルトのロンドイ短調KV.511。吉田秀和が好きだった曲だ。高橋悠治の演奏は、ガルッピもそうだが、雄弁ではなく訥弁――滑らかではなく、あえていえばたどたどしい感じがする――演奏。もちろん意図してのことだ。

 次はマノス・ハジダキス(1925‐1994)の「小さい白い貝殻に」。なんともロマンティックな題名が付けられた曲だ。その題名どおりの曲。歌と踊りの組み合わせの、その5組からなる曲だ。この曲を知ることができたことが最大の収穫。ハジダキスはギリシャの作曲家。映画「日曜はダメよ」の主題曲を作曲した。高橋悠治はクセナキスの演奏で共演したことがあるそうだ。

 この曲と組み合わされたのはサティの「ゴシック舞曲」と「グノシエンヌ7番」。「ゴシック舞曲」は初めて聴く曲だ。サティのなかでも変わった曲だ。実感としてはモートン・フェルドマンのようだと思ったが、見当違いだろうか。

 この曲にまつわるエピソードが興味深かった。サティは画家のシュザンヌ・ヴァラドンに恋をし、その恋の苦しみからこの曲を作曲したそうだ。ヴァラドンには奔放なところがあり、当時は眉をひそめる人もいた。その息子がモーリス・ユトリロだ(父親はわかっていない)。そのヴァラドンにサティが恋したとは知らなかった。「サティの生涯ただ一つの恋愛」(高橋悠治)だそうだ。

 ハジダキスとサティの演奏は、これはもう、高橋悠治の世界というか、まさに曲と演奏とのあいだに寸分の齟齬もないものだった。

 最後の組み合わせは高橋悠治の自作「アフロ・アジア風バッハ」とバッハの「パルティータ6番」。バッハのこの曲はさすがに大曲だ。演奏は(失礼ながら)意外に面白くなかった。冒頭のトッカータはともかく、それに続く舞曲がどれも同じように聴こえた。最後のジーグはこの曲本来の雄渾さにあと一歩で達しなかった観がある。
(2014.2.27.浜離宮朝日ホール)
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家族の灯り

2014年02月24日 | 映画
 ポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラの「家族の灯り」が公開中だ。オリヴェイラは1908年生まれ。今は105歳だが、現役の映画監督だ。「家族の灯り」は2012年の作品。当時104歳の映画監督がどういう映画を作ったか。

 日本的な感覚では、だれでも高齢になると、枯れてくると思わないだろうか。枯淡の境地とか――。だが、この作品はちがっていた。最後にある事件が起きる。そのインパクトは強かった。息詰まるような緊張感があった。日本なら事件が起きるようで起きないとか、なにか起きても、淡々と描かれ、人々はそれを受け入れて、変わらない日常を送るとかで収束しないだろうか。

 これはやはり西洋人と日本人のちがいだろうかと思った。精神的・肉体的なちがいがあるのではないだろうか。

 もう一つ、この映画の見所だった点は、俳優たちのキャスティングだ。主人公の老人にはマイケル・ロンズデール(1931‐)、その妻にはクラウディア・カルディナーレ(1938‐)、近所の老婦人にはジャンヌ・モロー(1928‐)。皆さん、すごい存在感だ。いずれ劣らぬ名優たちの、70代、80代になった今の、怖いものなしのパワーが圧倒的だ。皆さん、演技を楽しんでいるのではないか。それがスクリーンから感じられた。

 場所はフランスの港町。貧しい人々が住む一画。老人と妻と嫁の3人暮らし。息子は8年前に失踪した。ところが、ある日突然、息子が戻ってくる。息子は貧しい生活に忍従する父(老人)をなじる。そして息子はある事件を起こす。

 原作はポルトガルの作家ラウル・ブランダン(1867‐1930)の戯曲だ。プログラムを読んで、なるほど、そうかと思った。たしかに、台詞主体の会話劇なので、映画というよりも、演劇に近い。しかも、興味深いことに、原作は4幕構成だが、最終幕をカットして、3幕までで終わりにしたそうだ。唐突な、断ち切られるような終わり方は、そのせいかと思った。

 そのラストシーンにあるクラシック音楽が使われている。絶妙な選択だ。奇妙な、しかし不思議な余韻を残すその音楽は、このシーンにぴったりだった。

 だが、冒頭に使われている音楽は、いただけなかった。クラシック音楽好きなら多くの人が知っているその音楽は、雄弁で、それ自体のストーリーをもっているので、映画と溶け合わず、ぶつかり合っている感じがした。
(2014.2.20.岩波ホール)
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シャヴァンヌ展

2014年02月20日 | 美術
 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824‐1898)。上野の国立西洋美術館に「貧しき漁夫」(↓)があり、昔から好きな絵だった。高校生の頃だと思うが、初めてその絵を見て、惹きつけられた。そのときは常設展の名画の数々を見たはずだが、不思議とその絵に惹かれた。でも、怠け者のわたしは、シャヴァンヌがどういう画家か、調べないままだった。

 「貧しき漁夫」はオルセー美術館にある作品の別ヴァージョンだ。そのオルセー美術館の作品が先年、日本に来た。もちろん見に行った。でも、国立西洋美術館のヴァージョンが身にしみついているせいか、しっくりこなかった。

 そんな記憶のあるシャヴァンヌだが、今回その展覧会が開かれることを知ったときは、ひじょうに新鮮な感じがした。シャヴァンヌを知るよい機会だと思った。これはぜひ行かなければならない――。

 会場の入り口にシャヴァンヌの生涯を解説するパネルがあった。1824年リヨン生まれ。1846年にイタリア旅行をし、その2年後に再びイタリアを訪れた。そのときジョットとピエロ・デラ・フランチェスカに感銘を受けた。

 これを読んで、あゝ、そうかと思った。ジョット、とりわけピエロ・デラ・フランチェスカは、わたしもミラノとウルビーノで見て、震える思いがした。あの、透明な、清々しい空気感が、シャヴァンヌに受け継がれているのかと思った。

 もう一つ、これは展覧会に行く前に仕入れた知識だが、シャヴァンヌは基本的には壁画家だった。そのことが、会場に多数展示されている壁画の縮小作品(それはシャヴァンヌ自身が描いたものだ)によって、よく理解できた。

 これがわかると、たとえば「貧しき漁夫」にしても、それが壁画の一部であってもおかしくないと思われてきた。これもシャヴァンヌの絵の要諦ではないだろうか。シャヴァンヌは紛れもなく(近代的な自我が確立した)19世紀の画家だが、その絵の登場人物は個性を主張していない。一種の‘類型’として存在している。これは発想の根源に壁画があるからではないだろうか。

 「貧しき漁夫」は本展には出品されなかった。せっかくこれだけのシャヴァンヌ展が企画されたのに、残念なことだ。その代り、ニューヨークのメトロポリタン美術館から「羊飼いの歌」(↓↓)が来ていた。フレスコ画の風合いを取り入れたシャヴァンヌの、これは最良の作品の一つではないかと思う。
(2014.2.17.Bunkamuraザ・ミュージアム)

↓「貧しき漁夫」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0175.html

↓↓「羊飼いの歌」
http://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/437344?rpp=20&pg=1&ao=on&ft=chavanne&pos=5
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ミラノフ/東京シティ・フィル

2014年02月17日 | 音楽
 14日(金)は大雪の予報のなか(すでに雪が降り始めていた)東京シティ・フィルの定期へ。ロッセン・ミラノフという指揮者は初めてだ。すでに日本のオーケストラをいくつか振っているそうだ。ブルガリア人。年齢はわからない。

 1曲目はモーツァルトの歌劇「イドメネオ」のためのバレエ音楽。と、いわれても、ピンとこないが、聴いてみると、モーツァルトらしくていい曲だ。「イドメネオ」そのものが若き日のモーツァルトの力作だが、それにふさわしい曲だ。この日は「シャコンヌ」と「パ・スール」が演奏された。ほかにどんな曲があるのか――。

 ミラノフの指揮は、溌剌とした、歯切れのいいもの。選曲といい、演奏といい、一気に注目した。

 2曲目はパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番。独奏は成田達輝(なりた・たつき)。1992年生まれの若者だ。2010年ロン=ティボー国際コンクール第2位、2012年エリザベート国際コンクール第2位。今、話題の人かもしれない。ともかくすごい才能だ。アグレッシヴにぐいぐい弾く。テクニックはもちろん、音楽性もものすごい。

 第1楽章が終わったところで拍手が起きた。最初は控えめに、そして徐々に広がった。皆さん、まちがえたのではない。演奏がすばらしいので、おずおずとではあるが、拍手をしたのだ。こういうことが自然発生的に起きるのがいい。わたしも加わった。指揮者もタクトで譜面台を叩いていた。

 成田達輝は、将来、大家になるかもしれない。でも、今この場での演奏には、今にしかないものがあるはずだ。それは若さとか、並外れた素質とか、なにかそういったもの、前途洋々たる未来が待っているだろうが、それに向かって一歩を踏み出すご本人には一抹の緊張感がある、そんな今を共有する喜びが、わたしたち聴衆にはあった。

 3曲目はシューマンの交響曲第2番。ロッセン・ミラノフは東京シティ・フィルを振るのは初めてだと思うが(少なくとも定期は初めてだ)、デビューにこの曲を選んだことに、指揮者としての姿勢を感じた。もっと派手な曲、成功する確率が高い曲は、ほかにいくつもあるが、このように地味な、だが音楽的な内実のつまった曲を選んだことに、この指揮者の歩む道が感じられた。

 演奏は第3楽章の熱い表現にひきこまれた。そこにはオーケストラの指揮者にたいする共感も込められていたと思う。
(2014.2.14.東京オペラシティ)
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旅行日記4:幽霊ソナタ

2014年02月16日 | 音楽
 アリベルト・ライマンの「幽霊ソナタ」。これが今回の最大の目的だった。

 原作はストリンドベリの戯曲。翻訳が出ているので事前に読んだ。ものすごく面白かった。けれども「作者はなにをいいたいか」式の設問があったら、答えに詰まる性質のものだった。なにが面白かったのか確かめる意味で、もう一度読んでみた。病的な世界、死の匂い、静かなリズム、そういったものが面白いのだと思った。

 それにしても「幽霊ソナタ」という題名はどこから来たものか。英語版のWikipediaによると、ストリンドベリはベートーヴェンが好きで、ピアノ三重奏曲「幽霊」そしてピアノ・ソナタ第17番(普通は「テンペスト」と呼ばれているが、ストリンドベリは「幽霊ソナタ」と呼んでいたそうだ)から来ているとのことだった。

 これには驚いた。わたしの読後感は「静かなリズム」というものだったが、ベートーヴェンのあのソナタは、波打つような、激動の音楽ではないか。では、わたしがまちがっていたのか。

 そんな想いを抱きながらオペラを観た。ライマンの音楽は「リア」や「メデア」と同様に、激しい不協和音をちりばめたものだが、不思議なことに、静けさを感じさせた。それはこのオペラが室内オペラだからではなく――オーケストラはわずか12人――、もっと本質的なもののように感じられた。棘のように突き刺す不協和音やピアノの激しい打鍵はあるのだが、全体としては緊密に張り巡らされた静寂感があった。

 そう感じたのは、演奏がよかったからでもある。指揮はKarsten Januschke。フランクフルト歌劇場の3人いるカペルマイスターの一人だ。よくこなれた演奏だった。

 じつはこれは、わたしには啓示だった。振り返ると、日本で観た「リア」と「メデア」は肩に力が入っていたのではないか。いや、その前にハンブルクで観た「リア」はもっと肩に力が入っていた。でも、ほんとうは、この公演のように、もっと聴きやすい音楽かもしれない。今後、ライマンの演奏はもっと進化するのではないか――。

 歌手ではミイラ役に伝説的な存在のアニア・シリアが出ていた。

 演出のウォルター・サットクリフと装置・衣装のカスパー・グラナーは2010年のブリテンの「オーウェン・ウィングレイヴ」と同じだ。あのときは具象的な装置だったが、今回は抽象的な装置で、凝縮したドラマを展開していた。
(2014.2.8.ボッケンハイマー・デポ)
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旅行日記3:テンペスト

2014年02月15日 | 音楽
 トマス・アデス(1971‐)の「テンペスト」。キース・ウォーナー演出のこのプロダクションは2010年のプレミエのときも観たので、これで2度目だ。でも、全体の印象は鮮明に残っているが、個々の場面は意外に忘れていた。なぜだろう。

 2010年にこのオペラを観るに当たって、CDを聴いた。そのとき、引っかかることがあった。「愛はプロスペローの魔法を超える」という筋立てになっている点だ。シェイクスピアの原作ではそうはなっていない。プロスペローの魔法はすべてを支配する。けれども、このオペラでは、プロスペローの娘ミランダとナポリ王子ファーディナンドの愛は、プロスペローの魔法を乗り越える。なんて甘いのだろう、と。

 でも、その後、METライブビューイングを観たり、CDを聴き直したりして納得した。シェイクスピアの現代的な‘受容’として許容範囲だと思った。それに大体このくらいの改変はおとなしいほうだ。たとえばヤナーチェクの「マクロプロス事件」などは結末を変えてしまっている。

 今回、ファーディナンドとミランダの愛は、全体のディテールの一つにすぎないと気が付いた。その占める割合はそんなに大きくない。本筋はあくまでもプロスペローの心理だ。怒り、復讐、喪失、諦念といった複雑な心理がテーマだ。これはシェイクスピアの原作から外れていない。この台本は原作の本筋を外さず、しかも原作のなかの大事な場面をきちんと取り入れた、よくできた台本だと思った。

 音楽の様式もつかめ、その流れに乗れるようになった。今回わかったことは、――シェイクスピアの原作は不思議な音に満たされているが――その音の部分が、調性感のある音楽で書かれていることだ。たとえば怪物カリバンが歌う「この島は音でいっぱいだ」がそうだ。この部分はじつに美しい。

 このオペラは現代オペラの成功作だ、上質なエンタテイメント性を備えている、と確信できた。

 歌手はプロスペロー役が変わった。前回のアドリアン・エレートは飄々としたプロスペローだったが、今回のブライアン・マリガンは苦渋に満ちていた。アリエル役のシンディア・ジーデン(ソプラノ)とトリンキュロ役のクリストファー・ロブソン(カウンターテナー)は変わっていないが、声がだいぶ苦しくなった。

 指揮はサイアン・エドワーズという女性指揮者。各場面を克明に描出していた。実力派の指揮者か。
(2014.2.7.フランクフルト歌劇場)
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旅行日記2:カーチャ・カバノヴァー

2014年02月14日 | 音楽
 ベルリン国立歌劇場の「カーチャ・カバノヴァー」。指揮はサイモン・ラトル。ラトルがヤナーチェクのこのオペラをどう振るかが最大の興味だった。

 結果的には、極彩色の後期ロマン派の延長線上にあるヤナーチェクだった。激しく起伏し、えぐるような、うねるような、熱い演奏。これは意外だった。じつはもっとクールな演奏を予想していた。なぜこうなるのか。これが今のラトルなのか。でも、そうとも思えないが――。

 これは一つの推測だが、今やラトルの‘楽器’となったベルリン・フィルと、バレンボイムの‘楽器’であるシュターツカペレ・ベルリンとの個性のちがいに起因するのではないだろうか。オーケストラとの駆け引きにたけたラトルのことだ、バレンボイムの個性に染まったこのオーケストラに反応してみせて、さらにその先を行こうとしたのではないだろうか。

 ともかく、こうやって演奏されたヤナーチェクだった。そこにはヤナーチェク特有の透明さ、あるいは自由な息遣いはなかった。あくまでもドイツ的にがっしり構築された、寸分の隙もないヤナーチェクだった。

 歌手もそれに見合うものだった。カーチャにエヴァ=マリア・ウェストブロック、姑のカバニハにデボラ・ポラスキという布陣。これはどう見てもワーグナーだ。その歌唱力は強力だった。声が分厚いオーケストラに対峙している。オーケストラの演奏ともども、これはワーグナー、シュトラウスをくぐり抜けたところのヤナーチェクだった。

 もしヤナーチェクがこれを聴いたらどう思うだろうと想像した。ドビュッシーの「海」に感嘆したヤナーチェク、あるいはプッチーニの「蝶々夫人」を愛したヤナーチェク。「蝶々夫人」はプッチーニの音楽のなかでもその繊細さで際立っている。そのヤナーチェクがこの演奏を聴いたら――。

 演出はアンドレア・ブレート。舞台は荒れ果てた倉庫のような建物のなか。ヴォルガ川は床に転がっている古いバスタブ。このオペラで重要な役割を果たすヴォルガ川は、バスタブに矮小化されているわけだ。幕切れでカーチャはバスタブのなかで手首を切って自殺する。これでは実も蓋もない。カーチャの魂は救われない。

 カーチャの閉塞感を現代に置き換えた演出だ、とはいえるだろう。それはラトルの指揮とも、ウェストブロック、ポラスキの歌唱とも呼応して、ドイツ表現主義的な世界を表出していた。でも、ぐったり疲れた。
(2014.2.6.シラー劇場)
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旅行日記1:ストリート・シーン

2014年02月13日 | 音楽
 クルト・ワイルの「ストリート・シーン」。このオペラはナチスを逃れてアメリカに渡ったワイルが、「アメリカのオペラを作る」といって書いたオペラだ。

 もっとも、アメリカのオペラというなら、すでにガーシュインの「ポーギーとベス」があるわけで、なにもこれが初めてではない。でも、こういうことはいえると思う、「アメリカのオペラは『ポーギーとベス』だけではない。もう一つ、『ストリート・シーン』がある」と。

 もっとも、これがワイルによって書かれたことには戸惑いを感じる。ジャズやブルースを取り入れたこのオペラと、ベルリン時代の「三文オペラ」や「マハゴニー市の興亡」とは、どのようにつながるのだろう。

 でも、ベルリン時代のワイルは――少なくともわたしのイメージは――ブレヒトの‘色’で塗り固められているのかもしれない。一旦その‘色’を脱色すれば、そこには高度に職人的なワイル――その場に合わせてどんな語法でも書けるワイル――という‘実像’が浮かんでくるのかもしれない。

 そういうことを考えながら、このオペラを観た。これは「ポーギーとベス」よりは薄味かもしれないが、感動的で、かつ楽しいオペラだ。場所はニューヨークの貧民街。といってもハーレムではない。ドイツ人やイタリア人やスウェーデン人がいる人種の坩堝だ。もっとも、黒人はいなかった。ひょっとすると「ポーギーとベス」を意識してその向こうを張ったのかもしれない。

 そんな街の安アパートの住民たちが登場人物だ。物語はすべて路上で起きる。「ストリート・シーン」という題名のゆえんだ。

 今回の演出では場所を体育館のなかに置き換えていた。体育館で寝起きする人々。その情景は、我われ日本人の目から見ると、どうしても東日本大震災後の避難所生活を連想してしまう。でも、ドイツ人にはその心配は無用だ。

 舞台がシャボン玉でいっぱいになるシーンや、バスケットボールのチアリーダーが舞台を飛び回るシーンなど、楽しいシーンが続出する演出だった。

 演出はBernd Mottl。オペラだけでなく、オペレッタやミュージカルも演出する人のようだ。指揮はBenjamin Reiners。この劇場の第1カペルマイスター。歌手は専属歌手が主体だが、一部はゲスト歌手、そしてまた歌って踊れるミュージカル歌手も招いて、この珍しいオペラを元気いっぱいに上演した。
(2014.2.5.ハノーファー歌劇場)
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旅の前後に起きたこと

2014年02月11日 | 音楽
 今回の旅は現地5泊の旅だったが、その前後に(わたしとしてはショッキングな)二つの出来事があった。

 まず出発直前に読響の元常任指揮者ゲルト・アルブレヒトが亡くなった。亨年78歳。まだ若い。わたしは昔、読響の定期会員だったが、長らく退会していた。でも、アルブレヒトの時代になって、プログラムの変化に注目した。ためしに聴きにいったら、昔の読響とは思えないほど変わっていた。驚いて定期会員に復帰した。ツェムリンスキーの「夢見るゲルゲ」やヤナーチェクの「運命」などは一生忘れそうもない貴重な経験になった。

 もう一つ、ドレスデンで観たオトマール・シェックの「ペンテジレーア」は、わたしがもっとも衝撃を受けたオペラの一つだ。ハインリヒ・フォン・クライストの戯曲も傑作だが、シェックの音楽にも異形の相貌があった。タイトルロールのイリス・フェルミリオンに感動し、またアルブレヒトの指揮にも圧倒された。

 そのアルブレヒトの訃報に接し、とりとめのない想いを巡らしながら、翌朝、旅に出た。

 旅行中はテレビ(NHKワールド)で関東地方の大雪のニュースを見ながら、帰国便が飛ぶかどうか心配した。幸い、出発時間は11:30→17:00へ大幅に遅れたが、無事飛んでくれた。昨日、帰宅して、久しぶりにパソコンを開いたら、ゴーストライター事件が起きていた。事情がよくわからないので、今日、週刊文春を読んでみた。

 わたしの場合は、いつだったかK氏のエッセイで佐村河内氏を知り、自叙伝「交響曲第一番」(講談社)を読んだ。2010年4月にはO氏指揮/東響による東京初演(第1楽章と第3楽章のみ)を聴きにいった。第2楽章も聴いてみたくなって、同年8月のA氏指揮/京響による全曲演奏も聴きにいった。最近になってテレビでも取り上げられ、全国ツアーも組まれるようになって、興味が薄れてきた。

 そんななかでのこの事件、わたし自身は「見事にだまされた!」と笑って済ませたい気分になった。べつにだれかを傷つけたわけでもないし、たいした事件ではないのではないか、と思った。ネット上では熱い意見が飛び交っている。わたしが共感したのは、吉松隆氏の一連のご意見だった(↓)。

 昨日はCDで「ソナチネ」を聴き直した。フィギュアスケートの高橋大輔氏が使う予定の曲だ。いい曲だと思った。この事件を知った今でもそう思った。以前、初めて聴いたときもそう思った。変わらない感想をもてたことが嬉しかった。

↓吉松隆氏のブログ
http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2014/02/index.html
コメント (2)
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帰国報告

2014年02月10日 | 身辺雑記
旅から帰ってきました。今回観たオペラは次のとおりです。
2月5日 クルト・ワイル「ストリート・シーン」(ハノーファー)
2月6日 ヤナーチェク「カーチャ・カバノヴァー」(ベルリン)
2月7日 トマス・アデス「テンペスト」(フランクフルト)
2月8日 アリベルト・ライマン「幽霊ソナタ」(フランクフルト)
オペラの感想は後日また報告します。
旅は順調に進んだのですが、帰国便が大幅に遅れました。東京の大雪の影響です。でも、まあ、飛んでくれただけでもありがたいかなと。今日は出勤するつもりでしたが、現地から電話を入れて、休ませてもらいました。
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旅行予定

2014年02月04日 | 身辺雑記
2月4日から旅に出ます。ハノーファー2泊、ベルリン1泊、フランクフルト2泊で、2月10日に帰ってきます。帰ったらまた報告します。
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蝶々夫人

2014年02月03日 | 音楽
 新国立劇場の「蝶々夫人」。これも2度目だが、「カルメン」とちがって、もう一度観てもよいと思った。なにがちがうかというと、やはり演出だ。あの演出はよかったという記憶がある。

 2度目だが、これはいいと思った。余分なものをそぎ落として、究極のドラマを浮き上がらせた演出。「カルメン」の場合は群衆の一人ひとりにさまざまな動きを付与した遠心的な演出だったが、こちらはヒロインの心理に焦点を絞った求心的な演出だ。

 これは演出家の資質のちがいに由来すると思う。ともに演劇畑の人だが、「カルメン」の場合の鵜山仁はシェイクスピアの「ヘンリー八世」3部作で成功したように、叙事的な資質の持ち主ではないだろうか。一方、「蝶々夫人」の栗山民也はユージン・オニールの「喪服の似合うエレクトラ」で成功したように、ドラマを掘り下げて表現するタイプのような気がする。

 個々の場面でも、なるほどと感心する場面があった。たとえば「ある晴れた日に」。蝶々さんは桜の花びらの吹き溜まりにひざまずいて歌い始める。大方の予想を――いい意味で――裏切る演出だ。またピンカートンの上陸を待つハミング・コーラスの場面では、障子に穴をあけて外を見るのではなく、蝶々さんは丘に登って港を見つめる。この演出のもっとも印象的な場面だ。

 これらの場面はすでに見ているわけだが、2度目になると、「そうだ、そうだった」と思いだすとともに、2度目にもかかわらず、新鮮さを失っていないことに感心した。

 また、演出もさることながら、この公演で一番感心したのは、じつは指揮者だ。ケリー=リン・ウィルソンKeri-Lynn Wilsonという指揮者は、ニュアンス豊かな息遣いをもった指揮者だ。これは天性のものだと思う。率直にいって、「カルメン」のときの指揮者とは‘筋のよさ’で数段上だ。カナダ生まれの女性指揮者。オペラにたいする適性はそうとうなものだ。

 蝶々さんはアレクシア・ヴルガリドゥAlexia Voulgaridou。初日を降板したせいか、登場の場面では緊張しているように感じたが、音楽が進むにつれて緊張が解け、第2幕では迫真の歌唱と演技だった。ピンカートンのミハイル・アガフォノフもすばらしく、またシャープレスの甲斐栄次郎も前回(2011年)よりさらによかった。

 一言でいって、わたしは「蝶々夫人」の完璧な上演を観たのではないかと思った。
(2014.2.2.新国立劇場)
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