Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ポーラ美術館「シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート」展

2019年09月30日 | 美術
 ポーラ美術館で同館初めての現代美術展が開かれている。「シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート」展。その題名通り、モネ、セザンヌ、ピカソなどの絵画と現代アートとを対置する企画。

 全体は12のセクションに分かれている。1番目のセクションではモネの「睡蓮」とフランスのアーティスト、セレスト・ブルシエ=ムジュノ(1961‐)の「クリナメンv.7」が対置されている。チラシ(↑)に写っている緑色の四角形がモネの「睡蓮」、その下の水色の円形がブルシエの「クリナメン」(チラシの作品は「v.4」で2017年リヨン・ビエンナーレのヴァージョン)。

 「クリナメン」は浅いプールを作り、そこに水を張って、白い大小さまざまな器を浮かべたもの。水が循環し、器が触れ合う。大小、高低さまざまな音が鳴る。エコーのようにいくつかの音が続けて鳴る場合もあれば、しばらく無音の状態が続いた後、思いがけないタイミングで一音が鳴る場合もある。偶然性そのもの。

 本作を見た(聴いた)後でモネの「睡蓮」を見ると、池に浮かぶ睡蓮が、偶然そこに位置したものであり、意図した構成ではない(あるいは、意識的に中心点を消している)と強く感じる。また逆に、ブルシエ作品に戻ると、そこに浮かぶ白い器は、モネの睡蓮のように見えてくる。

 シンコペーションとは音楽用語で強拍、弱拍の拍節感をずらすリズム処理のことだが、なるほど、本展のコンセプトを表す的確なネーミングだと思う。モネとブルシエと、それぞれの作品が、少しずつ異なる位相から、お互いを批評し、鑑賞者に新鮮な目を与える。

 以下のセクションでは、わたしは横溝静(1966年生まれ)の「永遠に、そしてふたたび」という2チャンネルのヴィデオ・インスタレーションとボナールの「ミモザのある階段」の組み合わせに惹かれた。横溝の作品は、年老いた女性がショパンのワルツを弾くシンプルなものだが、それをボナールの絵画と組み合わせることによって、「だれにでも、庭とか書斎とか、大切な場所がある」と語りかける。では、わたしの大切な場所はどこだろう?と自問した。

 異色だったのは、スーザン・フィリップス(1965年イギリス生まれ)の「ウインド・ウッド」という11チャンネルのサウンド・インスタレーション。ラヴェルのオーケストラ伴奏つき歌曲集「シェヘラザード」の中の第2曲「魔法の笛」からフルートのパートを取り出し、それを断片化して、森の中の木々に取り付けた11個のスピーカーから流すもの。森のあちこちから音が聴こえる。人間の知らない森の音楽のようだ。
(2019.8.22.ポーラ美術館)
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タル・ベーラ監督「サタンタンゴ」

2019年09月26日 | 映画
 タル・ベーラ監督の映画「サタンタンゴ」は上映時間7時間18分なので(実際の上映では途中に休憩が2度入る)、観るには相当の覚悟がいる。でも、実際に観ると、その長さは苦にならない。一定のリズムというか、ゆったりしたペースがあるので、そのペースに乗れば、スクリーンに展開するドラマに身を委ねることができる。

 場所はハンガリーの寒村、時は社会主義時代の末期。だが、そんな場所も時も超えた神話性が本作にはある。それはどんな神話か。行き詰まった世界の神話。今の時代の暗喩のようでもある。本作は1994年の完成だが(今回は日本初公開)、わたしは25年前の作品とは感じなかった。今の日本の危うさの寓話のように感じた。

 全体は2部に分かれる。第1部では寒村に住む人々が描かれる。疲れ切って、貧しく、酒や性など一時的な享楽にふける。第1部は(そして第2部もそうだが)6章に分かれている。おもしろいのは、第1部では各章の視点が異なる点。たとえば人々が酒場で酔い、ダンスに興じる場面がある。外は雨。少女が雨に濡れながら、酒場の中を覗いている。そこにアル中の老医師が通りかかる。少女は「先生!」と声をかけて飛び出す。老医師は転び、悪態をつく。少女は逃げる。

 この場面が3度出る。最初は老医師の生活を描く中で(第3章)、次に少女の生活を描く中で(第5章)、3度目はダンスに興じる人々を描く中で(第6章)。それぞれのコンテクストで同じ場面が登場する。寒村を多層的に描く手法だろう。

 第2部では、1年ほど前に姿を消して、「死んだ」といわれている男イリミアーシュが戻ってくる。弁舌巧みに人々に、貧困から抜け出すために、荘園経営を持ちかける。人々はイリミアーシュを信用して、ありったけの金を拠出し、荘園(=約束の地)に向かうが‥。

 本作のメッセージは「救済者(=扇動者)には気をつけろ」だろう。そのメッセージが今の日本にも当てはまる。だれが扇動者か。なにが狙いか。

 本作は「長回し」のカットが特徴だ。一つのカットが延々と続く。冒頭では、廃墟と化した農場から、牛が何頭も出てくる。交尾する牛もいる。そんな牛の群れが、あてどなく右往左往する場面が延々と続く。その情景が目に焼き付く。また、全編にわたって、雨と泥道が映し出される。本作の主役は雨と泥道だ。冷たい雨が人々の顔を打つ。泥道が人々の足をすくう。雨と泥道の質感が圧倒的だ。

 本作は多くの謎を残したまま終わる。だが、物語は終わっていない。ずっと続く。
(2019.9.19.イメージフォーラム)

(※)本作のHP
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年09月22日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のCプロは、1曲目がリヒャルト・シュトラウスのオペラ「カプリッチョ」から最終場面。伯爵令嬢マドレーヌはルーマニアのソプラノ歌手ヴァレンティーナ・ファルカシュ。若くてチャーミングな舞台姿はマドレーヌにふさわしいが、細かいヴィブラートが気になった。NHKホールのような大空間だからいいが、小さな劇場だったらもっと気になるだろう。

 オーケストラは美しかったが、この最終場面ではあまりやることがないような気もする。福川さんが吹いたホルンには安定感があり、オーケストラのテクスチュアには透明感があったが、それ以上のことはなかったというか、そもそもこの場面は、一日の喧騒が静まり、マドレーヌがやっと一人になって物思いに沈む、その静寂に意味がある。背景には喧騒の余韻がある。だが、この場面だけを取り出すと(演奏会では時々あるが)、喧騒の余韻がないので、物足りなく感じる。

 2曲目はマーラーの交響曲第5番。第1楽章「葬送行進曲」は、あまり意気込まずに、丁寧に音を積み重ねた風通しのいい演奏。物々しくないのがいい。第2楽章も過度に力まずに、弱音、最弱音に神経を通わせた演奏。パーヴォ/N響の新境地というか、パーヴォがN響に新たな可能性を見出し、それを試しているような演奏だった。

 パーヴォのN響首席指揮者就任直後は、たとえば第2番「復活」や第8番「千人の交響曲」で、強靭な、張り詰めた演奏をしていたが(それはそれで鮮烈な印象を残したが)、今回はもっと柔軟な演奏に変わっている。それはパーヴォのいくつもある抽斗の一つだろうが、それを試す余裕に、パーヴォとN響との関係の成熟を感じた。

 第3楽章では福川さんのオブリガート・ホルンが圧倒的だった。完璧な息のコントロール、絶対にはずさない音、変幻自在の音色、唖然とするほどの名演奏だ。わたしは日本フィルの定期会員でもあるので、福川さんは入団当時から聴いているが(マーラーのこの曲でも名演奏を繰り広げた)、今の福川さんはほんとうに成長したと思う。

 一転して、第4楽章アダージェットは、聴こえるか、聴こえないかというくらいの弱音で始まり、繊細で、透明な演奏が続いた。第5楽章では、騒々しさとは無縁の、多彩な表現を展開し、最後は壮麗な音で締めくくった。

 ゲスト・コンサートマスターにチューリヒ・トーンハレ管の第1コンサートマスター、アンドレアス・ヤンケが入った。キュッヒルやエシュケナージのような、団員をぐいぐい引っ張るタイプではなく、アンサンブルを共にするタイプのように見えた。
(2019.9.21.NHKホール)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年09月16日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のAプロはオール・ポーランド・プロ。1曲目はバツェヴィチBacewicz(1909‐1969)の「弦楽オーケストラのための協奏曲」(1948年)。バツェヴィチはルトスワフスキ(1913‐1994)と同世代の女性作曲家。ワルシャワ音楽院で作曲とヴァイオリンを学んだ後、パリでナディア・ブーランジェに師事した。本作は弦楽合奏曲だが、ヴァイオリンとチェロのソロが頻出し、またヴィオラのソロも印象深い。演奏は分厚い弦(14型)に威力があったが、粗さもあった。

 2曲目はヴィエニャフスキ(1835‐1880)の「ヴァイオリン協奏曲第2番」(1856‐62年)。ヴァイオリン独奏はジョシュア・ベル。ヴィエニャフスキの代表作であり、演奏機会も多いが、今回ほど見事な演奏はめったにない。ジョシュア・ベルのヴィルトゥオーソぶりに目をみはった。

 張りのある音、スリリングな音楽の運び、それでいて崩れない骨格、どれをとっても当代一流のヴァイオリニストだ。そのソロにぴったりつけるオーケストラも見事で、リスクを取りながら、それをリスクと感じさせないソリスト、指揮者とオーケストラの技術の高さに惹き込まれた。

 後半2曲はルトスワフスキの作品。まず「小組曲」(室内オーケストラ版1950年/オーケストラ編曲版1951年。今回の演奏はオーケストラ編曲版)。「自国のフォークロアを用いた軽音楽的な作品を、という放送局からの依頼を受けて作曲された」(重川真紀氏のプログラム・ノーツ)が、重川氏も指摘するように、それだけでは終わらない質の高さが感じられる。

 たぶん普通のオーケストラと指揮者だったら、もう少し素朴な演奏をするのではないかと思うが、パーヴォとN響だと、切れのいい、鮮やかな演奏になる点がおもしろい。「軽音楽的な」要素が損なわれるわけではないが、その娯楽性は、たとえば定規で計ってみたら、寸分の狂いもないような、そんな緊密さを誇っている。

 最後は「管弦楽のための協奏曲」(1954年)。これはもうパーヴォとN響だったら、名演が約束されているような、そんなうってつけの選曲で、実際に名演になったのだが、その名演を前にして、想定内という感想が浮かんでしまうのが、我ながら恐ろしい。それでも、これは名演だった。音の輝き、ニュアンスの豊かさ、微細な音の明瞭さ、その他どこをとっても超一流の演奏が展開された。

 想定内と感じてしまう一番の理由は、本作が保守性を備えているためだろう。同じルトスワフスキでも、もっと前衛的な作品だったら、演奏に対する驚きも変わったろう。
(2019.9.15.NHKホール)
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石田泰尚ヴァイオリン・リサイタル

2019年09月15日 | 音楽
 神奈川フィルの首席ソロ・コンサートマスター、石田泰尚(いしだやすなお)の今の姿を見たくて、リサイタルに行った。石田は国立音楽大学を卒業後、新星日本交響楽団に副コンサートマスターで入団し、まもなくコンサートマスターに就任した。わたしは同団の定期会員だったので、当時の石田をよく覚えている。どことなくお洒落な若者が、ひたむきに演奏している印象だった。

 同団は2001年に東京フィルと合併し、大半の楽員は東京フィルに移ったが、石田は神奈川フィルのコンサートマスターに就任した。わたし自身は東京フィルの定期会員に移行したが、新星日本交響楽団の音が失われたことを悟り、定期会員をやめた。

 石田はその後ずっと神奈川フィルのコンサートマスターを続けている。最近では独自の演奏会のチラシも見かけるようになった。髪を短く刈り上げ、サングラスをかけ、黒ずくめのラフな服を着た姿は、男っぽくて、突っ張ったような雰囲気があり、インパクト大だ。そういうキャラクターで売れる奏者になったのかと感慨深い。

 その石田のリサイタルがあるので、行ってみた次第だ。プログラムは、前半がドヴォルザークのソナチネとフランクのヴァイオリン・ソナタ、後半がクライスラー3曲とピアソラ5曲というもの。

 ドヴォルザークのソナチネが始まると、音の細さに戸惑った。針金のような、神経質な、といって悪ければ、尖った音。だが、演奏自体は穏健だ。続くフランクのヴァイオリン・ソナタでは、第2楽章アレグロが嵐のような演奏だったが(ここで会場からは大きな拍手が起きた)、第3楽章以下は平板だった。

 コンサートの盛り上がりは後半にあった。クライスラーは「プニャーニの様式によるテンポ・ディ・メヌエット」、「シンコペーション」、「ウィーンの小さな行進曲」の3曲が演奏されたが、キャラクターピースのそれら3曲の、各々のキャラクターを際立たせて、聴衆を巻き込んでいった。

 ピアソラ5曲の曲名は、煩瑣になるので省略するが、聴衆からは口笛が吹かれ、盛大な拍手が起きた。聴衆と石田が一体となったコンサートだった。アンコールはなんと6曲!「あのー、あのー、めちゃ疲れてます」といいながら、細身の体をふり絞るように演奏されたその熱演に、聴衆は乗りに乗った。

 ピアノ伴奏は中島剛(なかじまごう)。反応のいいピアノ伴奏で、コンサートの成功に貢献した。
(2019.9.14.ミューザ川崎)
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ヴァイグレ/読響

2019年09月11日 | 音楽
 9月に入って在京の各オーケストラが一斉にスタートを切った。わたしが聴いた都響、日本フィル、東京シティ・フィルは、いずれも意欲的なプログラムを組んで、エンジンフル回転のスタートだったが、読響も負けてはいない。セバスティアン・ヴァイグレの指揮でプフィッツナー(1869‐1949)とハンス・ロット(1858‐84)というこれまた意欲的なプログラムを組んだ。

 1曲目はプフィッツナーのチェロ協奏曲イ短調(遺作)。遺作とあるので、作曲者の死後発見された最晩年の作品かと思ったが、死後に発見されたものの、作曲は20歳前の1888年だそうだ。作曲者若書きの作品だが、若書きという感じはまったくしない。全2楽章からなるが、どこをとっても詠嘆的な歌が連綿と続く。季節でいえば晩秋という感じの曲だった。

 後述するハンス・ロットの交響曲ホ長調が、やはり若書きの作品で、作曲者の死後発見されたという点で両者は一致する。クラシック・ファンの間で話題になったが、本年2月にN響と神奈川フィルが同じ日にロットのこの曲を演奏するという出来事があった。そのときN響が組んだ前プロはリヒャルト・シュトラウスの若書きのヴァイオリン協奏曲だった。若書きの作品を2曲並べるという発想は、N響と読響で共通する(ちなみに神奈川フィルはマーラーの歌曲と組み合わせた。ロットとマーラーの組み合わせ!)。

 プフィッツナーのチェロ協奏曲では、アルバン・ゲルハルトがソリストを務めた。のびやかなラインを描く歌は、どこまでがプフィッツナーの作品に由来し、どこからがゲルハルトの演奏から来るのか、その境目は判別できないが、ともかく線の細い、あえていえば、どこかにひ弱さの感じられる歌が続いた。

 アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第6番からプレリュードが弾かれた。上体を左右に揺すりながら演奏される(視覚面だけでなく、音楽的にも)動的な演奏は、プフィッツナーの静的な演奏とは対照的だった。

 ハンス・ロットの交響曲は、オーケストラを無理なく鳴らし、しかも滔々とした流れを生み出す名演だった。パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響が、習作かもしれないこの曲を、力業でおもしろく聴かせる演奏だったのに対して、ヴァイグレ指揮の読響は、スコアから自然な流れを読み取り、習作と感じさせなかった。

 全4楽章にわたって鳴らされるトライアングルは、表に出すぎず、細心の注意を払って演奏された。その繊細さに脱帽した。奏者は野本氏だったと思う。
(2019.9.10.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2019年09月08日 | 音楽
 高関健指揮の東京シティ・フィルも意欲的なプログラムを組んでいる。1曲目はバッハの「フーガの技法」を野平一郎が室内オーケストラ用に編曲したもの。全部で7曲あるそうだが、今回はその内の3曲が演奏された。第1曲(コントラプンクトゥス1)、第4曲(コントラプンクトゥス6)そして第6曲(3つの主題によるフーガ)。第6曲はバッハの絶筆とされる未完の作品だ。

 演奏は「おとなしい演奏」としか感じなかったが、一つ気になる点は、柴田克彦氏のプログラム・ノートに「なお今回は、野平氏了承のもと、弦の編成を一部拡大して演奏される」とあったこと。弦は6型くらいだったか(よく覚えていないので残念だが)、ともかく各パートが複数いた。では、オリジナルはどういう編成なのだろう。たとえばシェーンベルクの「室内交響曲第1番」のように、弦の各パートが1名だったら、響きも相当変わるだろうが‥。

 余談だが、野平一郎には「ゴールドベルク変奏曲」をフル編成のオーケストラ用に編曲したものがある。わたしは2012年3月に齋藤一郎指揮セントラル愛知響の演奏で聴いたが、大変おもしろかった。今回の「フーガの技法」を縁に(?)東京シティ・フィルも演奏してみたらどうだろう。

 2曲目はシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」。去年の秋、新シーズンのプログラムが発表され、その中にこの曲を見つけたときには、「これは大変な挑戦だ」と思った。正直にいって、聴く前は多少の危惧があったが、実際には、緊張感のある、正確で、流暢な、堂々たる演奏だった。それは嬉しい驚きだった。

 3曲目はマーラーの交響曲第1番「巨人」。今まで何度聴いたかわからない曲だが、これほど新鮮に聴こえたことはめったにない。熱演は何度も聴いているし、その中のいくつかには感動もした。だが、今回は、初心に帰ったような、新鮮な気持ちで聴くことができた。

 細かいニュアンスが豊かで、音楽に流れがあり、アンサンブルがきっちりしているからだろうか。音楽を勢いで演奏するのではなく、一音一音を正確にとり、バランスに細心の注意を払い、粗い音を出さない。その姿勢がわたしの耳の垢を洗い落としたのか。

 シェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」とマーラーの「巨人」と、その2曲の演奏は、高関健と東京シティ・フィルが積み重ねてきた努力の、今現在の成果を表すものだ。着実に成果を挙げている。東京シティ・フィルの歴史の中でも、地味だが、画期的な演奏ではなかったか。
(2019.9.7.東京オペラシティ)
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山田和樹/日本フィル

2019年09月07日 | 音楽
 山田和樹と日本フィルの「フランスもの+和もの」プログラム。1曲目はサン=サーンスの「サムソンとデリラ」から「バッカナール」。前プロとか前座とか、そんなノリを超えたパワー炸裂の演奏だった。最後のダイナミックな展開には、今の山田和樹がさらにスケールアップしていることが感じられた。

 2曲目は間宮芳生(1929‐)の「ヴァイオリン協奏曲第1番」(1959年)。本作は日本フィル・シリーズの第2作として作曲された(第1作は矢代秋雄の「交響曲」)。作曲当時、間宮芳生は30歳。今回の演奏会には90歳になった本人も姿を見せた。ステージに立ったその姿に、会場からは大きな拍手が贈られた。

 本作は全4楽章、演奏時間約35分の大作だが、今聴いても密度が濃い。バルトークの影響はあるかもしれないが、それを咀嚼して、作曲者自身の音になっている。第3楽章には日本の音楽が浸透してくる。

 ヴァイオリン独奏は今年9月から日本フィルのコンサートマスターに就任した田野倉雅秋。何度か客演コンサートマスターとして出演しているので、すでにお馴染みだ。頼もしい存在になりそう。

 3曲目は大島ミチルの「Beyond the point of no return」。日本フィル・シリーズの最新作(第42作)。今回が世界初演。演奏時間は「10分予定」とプログラムに表記されていたが、実際にはどうだったか。ゆったりした導入部(弦の音がきれいだ)の後、8分の5拍子(山田和樹のプレトークによる)の切迫した音楽になる。それが収まると、チェロのソロにハープが絡む静かな音楽になる。再度切迫した音楽と静かな音楽が繰り返され、導入部が回想された後、終結部を迎える。

 リズムが明確で、あいまいな部分がなく、驚くほど鮮明な音楽だ。わたしは大島ミチルという人を知らなかったが、映画やテレビドラマなどの映像音楽では著名な人らしい。純音楽も数多く手がけている。本作を他の作曲家になぞらえるなら、ショスタコーヴィチの弟子で管弦楽曲「吹雪」で知られるゲオルギー・スヴィリードフ(1915‐1998)あたりはどうだろう。スヴィリードフと同質の鮮明さを感じたが。

 4曲目はルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」の第1組曲と第2組曲。1曲目の「バッカナール」を彷彿とさせるダイナミックな演奏が、これでもかといわんばかりに続いた。情けないことに、わたしの耳は飽和状態になったが、壮年期に入った山田和樹の勢いは、今やだれにも止められない。
(2019.9.6.サントリーホール)
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大野和士/都響

2019年09月05日 | 音楽
 都響の9月定期は、かつて都響の音楽監督を務めた渡邉暁雄(在籍1972‐78年)の生誕100年と若杉弘(在籍1986‐95年)の没後10年を記念するプログラムを組んだ。A定期とB定期は若杉弘で、プログラムはベルクとブルックナー。C定期は渡邉暁雄で、プログラムはシベリウスとラフマニノフ。指揮はいずれも現音楽監督の大野和士。

 B定期の1曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の想い出のために」。ヴァイオリン独奏はヴェロニカ・エーベルレ。第1楽章は、ヴァイオリンの瑞々しく、しかも芯のある音が、しっとりと語り続ける演奏。オーケストラは淡彩色の背景を織った。第2楽章の前半ではオーケストラが前面に出たが、音は濁らず、むしろ冷静だった。後半もオーケストラの雄弁さが目立った。ヴァイオリンは終始マイペースのモノローグを続けた。全体的には、一編の抒情詩を感じさせた。

 エーベルレのアンコールは、ベルクのヴァイオリン協奏曲の最後で天に召された少女が、野原で遊んでいるような、無垢な、のびのびした曲だった。だれの曲だろうと、休憩時間にロビーの掲示を見に行ったら、プロコフィエフの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」の第2楽章だった。

 2曲目はブルックナーの交響曲第9番(ノヴァーク版)。深々とした響きで始まった演奏は、第1楽章が進むにつれて、異様なまでにテンションが高まった。これは尋常な演奏ではないと思った。第1楽章のコーダでは凄まじい音圧が押し寄せた。わたしは圧倒され、こんな音が出るのなら、途中はもっと抑えて、コーダで一気に爆発させればよかったのにと、(そのときは)思った。

 第2楽章は重量感のある音で荒れ狂う演奏。驚いたことに、第3楽章でもそのテンションが維持された。全体を通して、マグマが煮えたぎっているような演奏だった。一般的にイメージされる、浄化された世界とか、白鳥の歌とか、そんな予定調和的な演奏とは真逆の演奏だった。

 今までこんな演奏をした人はいるだろうか。少なくとも日本人の指揮者では思い浮かばない。外国の指揮者なら、あるいはいるかもしれないが。もしかすると、何年も前に聴いたアーノンクール指揮ウィーン・フィルの同曲の未完の第4楽章の断片を音にしたCDがそうだったか‥と思ったが、残念ながら、そのCDは手元にないので、確かめられない。

 ともかくこの演奏は、大野和士の、オーケストラにたいする、そして聴衆にたいする挑発にちがいない。その攻めの姿勢が頼もしい。
(2019.9.4.サントリーホール)
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サントリーホール サマーフェスティバル:ミカエル・ジャレルの管弦楽

2019年09月02日 | 音楽
 細川俊夫が監修するサントリーホール国際作曲委嘱シリーズの今年のテーマ作曲家はミカエル・ジャレル(1958‐)。ジャレルと細川俊夫はドイツのフライブルク音楽大学でクラウス・フーバーの作曲クラスの同級生だった。ともに20歳代後半の頃。今では60歳を過ぎて、二人とも確固たる地位を築いている。

 今回、ジャレルの室内楽の演奏会には行けなかったが、管弦楽の演奏会には行くことができた。場所はサントリーホールだが、ある事情で1階2列目の席で聴いた。わたしはいつも2階席で聴くので、1階席の、しかもこんなに前で聴くのは初めてだ。リサイタルや室内楽ならともかく、オーケストラがどんなふうに聴こえるか、興味津々というよりも、不安が先に立った。

 いつもの通り、ジャレル自身の作品と併せて、ジャレルが影響を受けた作曲家の作品と、ジャレルが将来を嘱望する若手作曲家の作品が演奏された。

 1曲目は若手作曲家の横井佑未子(1980‐)の「メモリウムⅢ」。横井佑未子はジュネーヴ音楽院でジャレルに師事した。横井自身のプログラム・ノートによると、「これは聴いたことがある。あの曲に似ている。知っている曲だったけれど、アレンジが違って気づかなかった……など、そのとき耳に入ってきているものと、記憶とを常に照合しているのではないか」として、「『記憶に関する実験・経験ができる場』として本作品の構想を得た」そうだ。残念ながら、わたしには構想と作品とが結びつかなかったが。

 2曲目はジャレルの新作で「4つの印象」。4楽章からなるヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリン独奏はルノー・カプソン(言い遅れたが、オーケストラはパスカル・ロフェ指揮の東京交響楽団)。第1楽章は「緩やかな導入をもった急速な楽章」(ジャレル自身のプログラム・ノート)。多彩な音が聴こえる。こういってはなんだが、1曲目との力量の差を感じた。第2楽章は独奏ヴァイオリンがピチカートに終始する「カプリッチョ」楽章。第3楽章は深遠な夜の音楽、第4楽章は第1楽章のさらなる展開だろうか。

 前述の通り2列目で聴いたので、目の前のルノー・カプソンの超絶技巧に息をのんだ。スリル満点のその演奏とともに、新たな名曲の誕生を感じた。

 3曲目はジャレルの旧作だったが、なにも感じなかった。4曲目はベルクの「管弦楽のための3つの小品」。第3曲「行進曲」がマーラーの交響曲第6番の第4楽章をモデルにしていることは周知の通りだが、それを聴きながら、1曲目の横井佑未子のプログラム・ノートを思い出した。
(2019.8.30.サントリーホール)
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