Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

乳頭温泉から盛岡への旅

2018年02月27日 | 身辺雑記
 週末に乳頭温泉に行った。秋田新幹線の田沢湖駅で降りると、雪が降っていた。乳頭温泉に行く前に、バスで田沢湖を一周した。上掲の写真は湖畔に建つ「たつこ像」。写真だと小さく見えるが、高さは2.3メートルあるので、実際はかなり大きい。わたしの好きな彫刻家、舟越保武(1912‐2002)の作品で、前から一度見たいと思っていたもの。

 その日は乳頭温泉に泊まり、翌日は盛岡に移動した。盛岡は仕事で何度か来たことがあるが、プライベートでは初めて。岩手県立美術館が今回の目的だ。初めて訪れる同館では、岩手県ゆかりの美術家、萬鐵五郎(1885‐1927)、松本竣介(1912‐1948)そして舟越保武の作品が常設展示されていた。

 わたしの好きな画家の一人、松本竣介と、上述の舟越保武とは、それぞれの展覧会に出かけたこともあり、今回はその折に見かけた作品が多くて、思いがけない再会になった。

 今回の発見は、松本竣介と舟越保武が県立盛岡中学(現・盛岡一高)の同期生だったこと。二人はともに1925年(大正14年)に同校に入学した。二人は在学中はとくに親しかったわけではないが、上京してからは親しく付き合い、それは松本竣介が亡くなるまで続いた(同館の解説パネルによる)。

 そのような二人の結びつきに、わたしは驚いた。一見したところ、二人の作風には影響関係があまり感じられないが、太平洋戦争をはさんだ困難な時期に、二人が大いに語り合った姿が想像され、わたしは熱いものを感じた。

 その夜は盛岡市内に一泊し、翌日は午前中、市内を散策した。盛岡は石川啄木(1886‐1912)と宮澤賢治(1896‐1933)のゆかりの地。啄木は1898年に盛岡中学に入学し(学制変更に伴い校名が何度か変わっているが、ここでは“盛岡中学”で統一する)、賢治は1909年に同校に入学した。二人は約10年を隔てた先輩後輩の関係になり、その先では松本竣介と舟越保武がつながっている。

 わたしは20代の頃、啄木の短歌と賢治の童話をずいぶん読んだが、30代に入った頃からは仕事が忙しくなり、文学から離れた。今回、市内の「啄木・賢治青春館」を訪れたときには、昔の記憶が蘇った。

 同館に向かう途中で「賢治の井戸」を見つけた。賢治が弟と下宿していたときに使っていた共同井戸。今は駐車場になっている片隅にそれが保存されていた。手持ちのガイドブックには載っていない賢治の痕跡だった。
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佐多稲子「夏の栞-中野重治をおくる-」

2018年02月24日 | 読書
 昨年の秋に長崎県美術館を訪れ、池野清(1914‐1960)の遺作2点に感銘を受けたことがきっかけになって、わたしはそれらの遺作が生まれるドラマを書いた佐多稲子(1904‐1998)の「色のない画」(1961)を、そして「樹影」(1972)を読んだ。また、それとの関連で「私の長崎地図」(1948)を読んだ。

 次第に池野清の遺作から離れて、佐多稲子の文学に惹かれていったわたしは、次に「時に佇つ」(1976)を読み始めた。半ばまで読んで、その結晶のように透徹した美しさに打たれると同時に、まだこれを読む準備ができていない自分を感じた。わたしは読むのを中断して、代わりに「私の東京地図」(1949)を読んだ。

 これで準備ができたと思ったので、再び「時に佇つ」を読み始めた。今度は鮮明に分かった。それは特別な読書体験になった。そしてもう一作、「夏の栞-中野重治をおくる-」(1983)を手に取った。じつは友人と続けている読書会が近づいてきたので、その準備をしなければならないのだが、その前に本作を読んでおきたかった。

 わたしは驚いた。1979年に中野重治が倒れてから、亡くなるまでの1か月ほどの出来事と、葬儀が終わってから、中野重治の想い出と、それに重なる佐多稲子自身の過去とを振り返るのが本作だが、その回想はきれいごとに終わるのではなく、自らの傷口に触れる苦渋に満ちたものだったから。

 本作は「新潮」の1982年1月号から12月号まで連載された(単行本の刊行は1983年)。連載当時、佐多稲子は78歳。一般的には高齢の部類に入ると思うが、その佐多稲子が、7年前の「時に佇つ」で静的な人生の観照に至ったにもかかわらず、本作でもう一度過去を掘り返している。

 繰り返すが、「時に佇つ」できれいに切り取った過去を、本作では、もう一度、あのときはどうだったかと、自分に都合の悪いことも抉り出すことに、わたしは作家の“業”のようなものを感じた。作家とは因果なものだ、と。

 本作で特徴的な点は、登場人物(実在の人物)が「時に佇つ」や「私の東京地図」では偽名で出てくるのに対して、本作では実名で出てくること。その観点からは、昭和史の一断面を見る思いがしたが、それは皮相な読み方であって、むしろ、佐多稲子はなぜ実名で書いたのか、という問いを(自分に向けて)発するほうが大事なように思った。その答えは本作の本質に触れるかもしれないから。
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テミルカーノフ/読響

2018年02月21日 | 音楽
 今月の読響は、定期の日には用事があったので、名曲コンサートに振り替えた。指揮は定期と同様テミルカーノフ。1曲目はグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲。猛然と始まったその演奏は、弦の音に濁りがあるのが気になった。テンポを落とした副主題では気にならなかったが、再び猛スピードのテーマに戻ると、弦の濁りにひっかかった。しかも、全体的に、アンサンブルに余裕が欠けた。大向こう受けはするだろうが、荒っぽさが否めない演奏だった。

 2曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏はスペイン生まれの若手奏者、レティシア・モレノ。わたしは初めて聴くが、その攻めの演奏に目を見張った。鋭角的に切り込む演奏。音は細く、朗々と鳴らすタイプではない。だが、けっしてオーケストラに埋もれない。たしかな才能を持つ証しだろう。

 テミルカーノフも丁寧にバックをつけていた。読響も余裕を取り戻した。結果、これは名演となり、わたしは安堵した。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番からアダージョが演奏された。これも細い音。それはこのヴァイオリニストの、他のヴァイオリニストとは一線を画す個性の一部だと得心した。その音で、まるで水面を滑るように、淀みなく演奏した。余分な思い入れのないバッハ。こういうバッハもいいと思った。

 3曲目はドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」。第1楽章、第2楽章ではとくに変わったことはなかったが、第3楽章に入ると、テミルカーノフ持ち前の、前へ、前へと進む演奏が現れた。前のめりのその演奏は、ライヴならではの躍動感を生むものだが‥。第4楽章もその流れで進んだ。

 アンコールがあった。ブラームスのハンガリー舞曲第1番。これは1曲目の「ルスランとリュドミラ」序曲に立ち返るような、轟々と鳴り、猛然と突き進む演奏。大波が打ち寄せるようだが、その一方で音の濁りが増した。

 テミルカーノフは今年80歳になる。残念ながら、往年のテミルカーノフ(たとえば10年前のテミルカーノフ)とは違っているようだ。端的にいって、音のコントロールが緩くなっている。それは年齢からくるものか。それとも今回は名曲コンサートだったからで、定期では違ったのだろうか。

 わたしはなんだか納得できない思いで会場を後にした。
(2018.2.20.サントリーホール)
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松風

2018年02月19日 | 音楽
 2013年2月のことだが、ベルリン州立歌劇場で細川俊夫のオペラ「松風」が再演されたので観に行った。早めに劇場に着いたので、外で開場を待っていたら、細川ご夫妻の姿をお見かけした。

 ほとんど予備知識もなく、原作の謡曲を読んだだけで臨んだその公演は、現代的な激しい身体表現のダンス中心だったので、“オペラ”を予想していたわたしは面喰った。どこをどう捉えたらよいのか、うまくつかめないまま終わった。

 だが、2度目になる今回は、ベルリン州立歌劇場での経験が生きているのだろう、なんの戸惑いもなく、ダンスと、オペラと、舞台美術とが一体となったそのプロダクションを受け入れることができた。

 ダンスの側からオペラを再解釈・再構成する試みは、最近のオペラ上演の一つの潮流だと思うが、本作がその成功例であることは間違いなく、さらにいえば、ダンスとオペラとの一体感の点では、傑出した成功作だろう。創作当初から細川俊夫とサシャ・ヴァルツとが協働した成果が出た。これはオペラなのか、ダンスなのか、という思いはあるが、それはむしろ、このような方向性が目指すものを表す言葉が、わたしたちにはまだないということかもしれない。

 今回感じたことは3点あった。まずオーケストラの表現力。それは細川俊夫の音楽のことでもあるが、今回はベルリンのときより格段に豊かなニュアンスが感じられた。指揮者は同じデヴィッド・ロバート・コールマンだが、今回の東京交響楽団からは“わび・さび”という言葉がふさわしい寂寥感が漂った。

 2点目はタイトルロールを歌ったイルゼ・エーレンスに好感を持ったこと。ベルリンではバーバラ・ハンニガンが歌ったが、ハンニガンの強烈な個性に対して、エーレンスの場合は、妹の村雨役のシャルロッテ・ヘッレカント(ベルリンでも同じ歌手)との2重唱が美しく響いた。そうか、細川俊夫はこういう音楽を書いたのか、と思った。

 3点目は新国立劇場の舞台の大きさ。ベルリンのシラー劇場に比べて、間口、高さそして奥行きが一回り大きいため、蜘蛛の巣のような塩田千春のインスタレーションが一層映え、また須磨の汐汲み小屋を模した舞台装置も存在感を増した。

 加えて、新国立劇場の大空間を、細川俊夫のオーケストレーションが(1管編成が基本の比較的小規模なものにもかかわらず)地鳴りのように揺るがすことが壮観だった。
(2018.2.18.新国立劇場)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2018年02月17日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のフランス音楽プログラム。フランス音楽のよさが楽しめそうなプログラムだ。

 1曲目はデュルフレ(1902‐1986)の「3つの舞曲」。デュルフレというと「レクイエム」や「アランの名による前奏曲とフーガ」が思い浮かぶが(そして両曲とも名曲だが)、この「3つの舞曲」という曲は知らなかった。これもよい曲だ。牧歌的な情緒を漂わせた楽しい曲といったらよいか。アルト・サクソフォンやタンブーラン(打楽器)の使用が、ビゼーの「アルルの女」を思わせる。演奏も、音色への配慮、立体的な音像、正確なリズムなど、パーヴォ/N響らしさが出ていた。

 2曲目はサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番。ヴァイオリン独奏は樫本大進。過度に甘くならず、じっくり音楽を味わう演奏。さすがに名曲だ、まったく無駄がないと思った。樫本大進のソロは、オーケストラを引っ張っていく推進力を持つもの。日頃は(ベルリン・フィルということは別にして)オーケストラのコンサートマスターとして活動している人の枠を超えるものだった。

 休憩後の3曲目はフォーレの「レクイエム」。オーケストラが登場する前に、N響の常務理事(と名乗ったように思う)が登場して、バリトン独唱に予定していたアンドレ・シュエンが体調不良のため、甲斐栄次郎に代わる旨のアナウンスがあった。プログラムには出演者交代の紙が挟んでなかったので、それも間に合わないくらい急な交代だったのかもしれない。合唱とソプラノ独唱は暗譜だったが、甲斐栄次郎だけ譜面を持っていたことも、舞台裏の慌ただしさを物語っていた。

 演奏はすばらしかった。東京混声合唱団がハーモニーを崩さず、時にはアカペラになるこの曲を、破綻なく歌い切った。甲斐栄次郎もさすがの美声だった。ソプラノ独唱は市原愛。オーケストラは精細な神経が行き届き、全体を統率するパーヴォの指揮には力みがなかった。

 わたしは何十年ぶりかでこの曲の実演を聴いたが、(今頃こんなことに気が付いて恥ずかしいが)弦の編成が1st Vn.12、2nd Vn.8、Vla.12、Vc.8、Cb.8とかなり特殊だ。ヴァイオリンを欠く第1曲と第2曲で、ヴィオラが豊かに鳴ったので、それに気付いた。その特殊なバランスが効果的だった。

 今年も3月11日が近づくこの時期にこの曲を聴くと、東日本大震災の被災者のことが胸に浮かんだ。
(2018.2.16.NHKホール)
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佐多稲子「時に佇つ」

2018年02月14日 | 読書
 佐多稲子(1904‐1998)の「私の東京地図」(1949)を読み終えたわたしは、あらためて「時に佇つ」(1976)を読み始めた。すでに「時に佇つ」の半分ほどを読んでいたので、その部分は再読になった。今度は「私の東京地図」を読んだ後なので、そこに書かれている出来事が鮮明に分かった。

 「時に佇つ」は12章からなる短編集。1975年1月号から12月号までの「文芸」に連載され、翌年、単行本として刊行された。各章は独立しているが、いずれも佐多稲子が過去の出来事を振り返り、その意味を噛みしめるもの。想い出というよりも、人生の省察というほうがふさわしい作品。

 全12章の内「その十一」は同年の川端康成文学賞を受賞した。かつての結婚相手、窪川鶴次郎の逝去に当たっての想いを書いた作品。陰影の濃やかさの点では、たしかにこの作品は優れている。別の言い方をすれば、全12章が結晶のように透徹した美しさを基調とする中で、「その十一」はもっとも小説的だ。

 だが、今回わたしは「その四」に強い印象を受けた。佐多稲子が戦時中に前線の兵隊への慰問に出かけたときの出来事を書いたもの。その書き出しはこうなっている。

 「その操作にどれほどの意味があるのか、しかしある日ふいに過去が結びついてくれば、私はやはりそれを探らねばならない。ふいに戻ってきた過去は、それなりの推移をもって、その推移のゆえに新たな貌をしている。また、そこに在るのが私だけでもない。それらのことが私を引込む。過ぎた年月というものは、ある情況にとっては、本当に過ぎたのであろうか。」

 そして、戦地への慰問のことが回想され、それが戦争責任の問題とも絡んで、佐多稲子の苦い自責の念となる。年月の厚みから蒸留されたその出来事と、今も生々しい自責の念とが、それを読むわたしの胸に沁みる。

 「その四」からもう一箇所引用してみよう。

 「身体の衰えについての実感とは別のところで年月の感覚は希薄になる。深く浸透した思いがそのまま持続されるのも、老年の固執ではなくて、時間の短絡にもよっている。そしてまた、三十数年前がふいに今日に結びついてくるということが一方にあるのも、私の年齢になって出会うことでもある。過ぎたことは案外に近い。」

 書き出しと似た内容だが、このくだりは「時に佇つ」全体の性格を言い表しているように思う。その不均一な時間感覚が、わたしも分かる年齢になってきた‥。
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堀越保二展

2018年02月12日 | 美術
 3連休の初日。北陸や東北の方には申し訳ないが、東京は穏やかな天気だった。わたしは大田区立郷土博物館に出かけた。わたしの家は目黒区にあるが、目黒区と大田区と品川区の境にあって、同館にはバスで行ける。だが、バスを降りてから道に迷い、ずいぶん遠回りをした。

 同館に出かけたのは、堀越保二展を見るため。購読している新聞に紹介記事が載ったので、興味を持った。その記事によると、同氏は東京芸大で日本画を学び、1963年に卒業制作のため、生まれ育った大森海岸を訪れたとき、「埋め立てでゴミの山と化した姿に衝撃を受けた。/その後、埋め立て地に通って鳥や植物、水辺の風景をスケッチするようになる。」(東京新聞2018年1月24日)

 一方、わたしは多摩川の河口の、京浜工業地帯の一角で生まれた。町工場がひしめく地域。大森海岸のすぐ近くなので、海の埋め立て工事が進む高度成長期は、肌で感じていた。そのときショックを受けた先輩世代が、何を感じ、それをどう表現しているかを、見てみたいと思った。

 わたしは堀越保二氏の名前を知らなかった。ネットで検索すると、驚いたことに、わたしの母校の先輩だった。同氏は都立小山台高校の卒業生。わたしもそうだ。入学年次は同氏が12年先輩。同氏は東京芸大に進学し、その後、同大学で教鞭をとった。今は名誉教授。

 年齢は同氏が一回り上だが、母校の先輩というだけで、急に親しみを覚えたことが、我ながら可笑しかった。これはどうしても見に行かなければならない、と。

 わたしは、そそっかしいことに、「埋め立てでゴミの山と化した」海岸が描かれた作品が並んでいるのかと思っていた。だが、そうではなかった。野鳥を描いた作品が大半を占めるが、それらは「ゴミの山」にいるわけではなかった。でも、よく見ると、ゴミこそ描かれてはいないが、埋め立て地がイメージされる作品があった。

 その作品は、茫漠とした土地に、1羽のカラスの死骸が横たわっている絵。明るいオレンジ色の地面には白い草花が咲き乱れ、空には大きな虹が掛かっている。その風景は死んだカラスが天国で見ている風景のように感じられた。作品名は「此岸にて」(1967年)。

 名前を書き留めてくるのを忘れたが、会場には本展の開催に当たって、東京芸大の同僚教授2名の寄せた祝辞が掲示されていた。いずれも温かい交流を窺わせるものだった。
(2018.2.10.大田区立郷土博物館)

(※)東京新聞の紹介記事(「此岸にて」の画像が掲載されている)
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熊谷守一展

2018年02月09日 | 美術
 熊谷守一(1880‐1977)の絵は前から好きだった。たまに何かの展覧会で見かけると、いい絵だな、と思っていた。いったいどこからこういう絵が生まれてくるのだろう、と。そんな疑問に答えてくれるのが、没後40年の「熊谷守一 生きるよろこび」展。

 熊谷守一は、東京美術学校(現東京藝術大学)で学んだ直後は、暗い絵を描いていた。“暗い”というのは比喩ではなく、本当に暗い夜の絵。それは光と闇の研究のため、という解説が掲示されていたが、それはそうだとして、わたしはどうしても、心の闇を抱えていたのでは、と勘ぐりたくなる。そう考えたほうが、後年の、明るく、影のない絵との対比が鮮やかになるから。

 余談だが、同校の同級生に青木繁(1882‐1911)がいた。また、「海ゆかば」の作曲家、信時潔(1887‐1965)は親友だった(本展には一枚の葉書に二人で半分ずつ書いたものが展示されている)。熊谷守一がどんな時代を生きていたか、想像がつく気がする。

 さて、熊谷守一の後年の画風は、いつ頃、どのように生まれてきたのか。その点についても、本展は丁寧にたどっている。それは、熊谷守一の特徴の一つ、赤い輪郭線の誕生と発展をたどるかたちで。誕生の時期だけを記すと、1936年の「夜の裸」に最初期の作例が見られるそうだ。

 では、形態の単純化はどうか。その点については、明確な指摘はなかったが、1940‐41年の「船津」にはその萌芽が見られる。正確を期すためには、研究者の論文を俟たなければならないが、一応、赤い輪郭線と同時期だった、と考えてよいのではないか。

 熊谷守一の(お馴染みの)後年の画風は、戦後になって一気に開花した。解説を読むと、戦後もさまざまな工夫を重ねていたようだが、それは様式が確立した上でのこと。肝心の様式には一切の迷いがないように見える。その結果、明るく、力まず、脱俗的で、ユーモアのある絵が生まれた。

 だが、意外なことに、熊谷守一は西洋の絵画を参照していた可能性があるそうだ。たとえば代表作の一つ、「稚魚」(1958年)はアンリ・マティスの代表作の一つ「ダンス」(1909‐10)を参照している可能性があるとのこと。いわれてみると、たしかにそうかもしれない、と頷けるところがある。

 その面からの熊谷守一の研究は、これからなのだろうか。興味深いテーマだと思う。
(2018.2.7.東京国立近代美術館)

(※)本展のHP
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佐多稲子「私の東京地図」

2018年02月06日 | 読書
 昨年11月に長崎県美術館を訪れ、池野清の遺作2点に感銘を受けたことがきっかけとなって、それらの遺作をテーマにした佐多稲子の短編小説「色のない画」と長編小説「樹影」を読み、またその関連で「私の長崎地図」を読む中で、わたしは佐多稲子にすっかり惹きこまれた。

 引き続き、ほとんど予備知識もなく、「時に佇つ」を読み始めた。しばらく読むうちに、畏れに似た思いを抱いた。これは生半可な気持ちで読むべき作品ではないと思った。全12章からなるその作品のうち、半分ほどを読んだところで、わたしはいったん本を閉じた。わたしにはまだこの作品を読む準備ができていないと感じた。

 そこで、代わりに「私の東京地図」を手に取った。少しページを繰ってみると、それが「私の長崎地図」の姉妹作であり、「私の長崎地図」のその後の、佐多稲子が11歳で東京に出てから、すぐに働き始めた人生を書いたものであることが分かった――それは予想通りでもあったが――。それと同時に、そこで書かれていることの中には、晩年の「時に佇つ」で凝縮され、結晶化する素材が含まれていることを直覚した。

 「私の東京地図」を読み終えたわたしは、ますます佐多稲子に魅せられた。佐多稲子のなにに魅せられたのかと自問すると、それはまず文体だ。簡潔で、抑制的で、けっして読者の感情を煽らない文体。本来はどこかの一節を引用するとよいのだが、まとまった量を引用する必要がありそうで、そうなると長くなので、今は諦めるが。

 そのような文体が生まれるのは、佐多稲子の感性がそうであるからだろう。大事なことをポツンという。説明をしないで、ポツンという。そこに佐多稲子の感じていることのすべてが込められている。その底にあるものが分かるかどうかは、読者の側の問題、という厳しさがある。

 本作の中で忘れられない場面が三つあった。人それぞれ感じ方が違うから、具体的にどの場面と指すことは控えるが、それらの場面はわたしに傷口のようになって残った。ひりひり痛む佐多稲子の感性がそこにあった。

 わたしは講談社文芸文庫で読んだが、その巻末に佐多稲子(当時は田島イネ)の尋常小学校3年の頃の写真が載っていた。弟と叔父と佐多稲子との3人が並んだ写真。そこに写っている佐多稲子は聡明そうだ。まっすぐなにかを見据えている。羽毛が震えるような感性が表れているように感じた。

 わたしは「時に佇つ」を読む準備ができたように思った。
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METライブビューイング「皆殺しの天使」

2018年02月02日 | 音楽
 トーマス・アデス(1971‐)の3作目のオペラ「皆殺しの天使」は、ザルツブルク音楽祭、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、コペンハーゲンのデンマーク王立歌劇場の共同委嘱作品。2016年のザルツブルク音楽祭で世界初演され、わたしはそれを観に行った。

 そのときは事前に、原作の映画、ルイス・ブニュエル監督(1900‐1983)の同名作(1962)を観ておいたので、オペラのストーリーを追うのは困難ではなかった。音楽も、前作「テンペスト」(2004)をフランクフルト歌劇場で2度、METライブビューイングで1度観たことがあるせいか、自分なりに追うことができた。

 今回、METライブビューイングで本作を観て、さすがに2度目なので、気持ちに余裕があった。やはり、なんといっても、初めて観たときは、その全体像を把握することに追われていたようだ。

 興味深い点が2点あった。一つは音楽が、前作の「テンペスト」とまっすぐにつながっているように感じられたこと。第1作の「パウダー・ハー・フェイス」(1995)は少し異質だが、次の「テンペスト」でアデスのオペラ語法が確立し、本作ではその延長線上に、新たな挑戦を試みているように思われた。

 新たな挑戦とは、多声部のアンサンブル。本作では主要な登場人物が15人もいて、その数だけでも異例だが、さらに類例のない点は、それらの登場人物が常に全員(!)舞台にいること。誇張していえば、いつでも好きなときに、多声部のアンサンブルを書くことができる。そのとき、アデスの念頭には、ベルクのオペラ「ルル」の第3幕第1場(パリの場)での大アンサンブルがあったのでは‥と感じられてならない。

 もう1点は、題材の選択。本作が、多声部のアンサンブルを任意に書くことができる稀有な題材であることは、今述べたとおりだが、一方、「テンペスト」も、シェイクスピアの全作品中、不思議な音楽に満ちている稀有な作品なので、それを実際の音にする“野心”が刺激されたのではないか。

 このようにアデスは、一作ごとに明確な目的意識を持って、高いハードルを設定し、それを乗り越えることを自分に課しているように見える。そのような挑戦が、エンタテイメント性と同居している点が、アデスの強みかもしれない。

 では、次のオペラはどうなるのだろうと、期待が高まった。
(2018.2.1.新宿ピカデリー)
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