Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マーラー交響曲第7番

2010年02月26日 | 音楽
 読売日響がマーラーの記念年(2010年は生誕150年、2011年は没後100年)にちなんで「マーラー・イヤー・プログラム」をスタートさせている。第1回は1月定期の交響曲第1番で、指揮者はマリン・オルソップだった。第2回は2月定期の交響曲第7番で、指揮者はレイフ・セゲルスタム。

 第7番はマーラーの交響曲の中では今もなお未開拓の領域を残す作品だ。その理由は第5楽章(最終楽章)の解釈が難しいから。第2楽章と第4楽章はマーラーがみずから「夜曲(Nachtmusik)」と名づけたように、夜の親密さに覆われていてわかりやすい。その中間の第3楽章は怪奇な幻影が跳躍する悪夢の世界になっていて、これも夜というキーワードで理解できる。ところが第5楽章になると突然、明るい昼の世界になり、躁状態のお祭り騒ぎになる。これはなんだろうと戸惑ってしまう――。

 そこで古今の学者や評論家が、さまざまな解釈を唱えてきた。その概要は、私のようなたんなる愛好家でも、Wikipediaで簡単に知ることができる。思えば、便利な時代になったものだ。

 で、当日の演奏では、この楽章はどうきこえたか。
 私にはこれが、Wikipediaで紹介されているような、苦悩をへて歓喜にいたる伝統的な図式の否定だとか、あるいはメタ・ミュージック(音楽についての音楽)だとかというききかたはできなかった。そういうききかたは高踏的すぎるように感じた。

 もっともここにはなにか隠された意図があることも確かだった。それはなんだろうと考えていたら、前作の交響曲第6番の第4楽章が頭に浮かんだ。巨大な木製のハンマーまで持ち出して、闘争の末の敗北(=死)を描いたあの楽章を、これはひっくり返そうとしたのではないかと感じた。そうすることによって、あの楽章を相対化しようとしたのではないか。そうする必要がマーラーにはあったのではないか――。

 当日の演奏では、第1楽章冒頭のテノール・ホルンが明瞭な輪郭線をもって吹かれ、その後もことさら夜の雰囲気にこだわらずに、明快なリズムが続いた。第3楽章では柔軟なリズムが見事だった。第5楽章ではいたずらに狂騒的な演奏に陥ることを避けて、ある一定の音楽的なのりを越えないように努めていた。

 今までに何度もきいた曲ではあるが、この日の演奏は過剰なものを排して、スコアを真正面からあるがままに鳴らした演奏だった。その結果、私にはなにか確かなものが残った実感があった。
(2010.2.19.サントリーホール)
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ジークフリート

2010年02月22日 | 音楽
 新国立劇場が昨年から続けているワーグナーの「ニーベルングの指輪」4部作の再演シリーズ。今回は「ジークフリート」で、これは2003年の初演だが、私はみていなかった。仕事がいちばん忙しいころだったので、余裕を失っていたのだと思う。今回、晴れてその舞台に接することができた。

 結論から言うと、この舞台は――少し大げさな言い方かもしれないが――世界の五指に入るものだと思った。少なくとも歌手と演出、その他舞台美術はそうだ。ジークフリート、ミーメ、さすらい人、アルベリヒを歌った4人の男声陣は最高レベルだし、演出のキース・ウォーナーを中心とした明るく楽しい舞台も比類がない。ここまで全体が高水準だと、オーケストラにはもう一段高い水準を求めたくなる。相対的な線の細さを感じたし、森のささやきの場面での細かなミスも気になった。

 評論的なことはともかくとして、私がこの舞台から得た収穫は2つ。ひとつはヴォータン(さすらい人)が備える威厳だ。ヴォータンはこの楽劇ではその名前を失って、さすらい人としてうろつきまわるだけだが、まだ威厳を失っていないばかりか、権力の維持に汲々としていた前2作よりも威厳を増したように感じられた。権力を失ってはじめて得られる威厳――そのドラマトゥルギーはさすがだ。音楽的には荘重なコラール風の音楽でこれを支えている。

 もうひとつはジークフリートとブリュンヒルデの愛の成就の意味。長い眠りから覚めたブリュンヒルデに、ジークフリートはその神性(=処女性)を捨てて、自分のものになるよう求める。長い問答の末にブリュンヒルデはこれに同意する。その経緯が私にはタンホイザーとエリーザベトの姿と重なって見えた。直前に「トリスタン」と「マイスタージンガー」を書き上げたワーグナーが、この場面で若いころの「タンホイザー」では未解決に終わった問題に決着をつけたのではないだろうか。

 あとは演出上の細かい点のメモ書きを。第3幕冒頭でヴォータンが地下に眠るエルダを訪ねるときの、エルダのいる場所。そこをどう描くかは演出によって異なるが、今回は乱雑に封鎖された映像フィルムの地下保管庫になっていた。これは「指輪」全体を<没落したヴォータンが過去の映像フィルムを無気力に見ている>というコンセプトで構成したキース・ウォーナーが、そのコンセプトを一貫させるためのもの。

 もうひとつは、ジークフリートとブリュンヒルデが愛を歌い上げるラストシーンで、照明に陰影をつけたこと。これは愛に酔いしれる絶唱とは裏腹に、その行き先には影がさしていることを暗示していた。
(2010.2.20.新国立劇場)
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旅日記:ペンテジレ―ア

2010年02月19日 | 音楽
 ドレスデンは雪。雪の舞う中を現地の人たちと同じように傘をささずに歌劇場へ。途中はまだあちこちで工事をしているが、中央駅から続く通りはだいぶ明るくきれいになった。
 歌劇場に着くと、いつものように奥のロビーのグルックとモーツァルトの石像へ。これらの像は、第2次世界大戦末期のドレスデン大空襲で歌劇場が焼け崩れたときに、人々が必死の思いで救い出したもの。グルックの像は顔がつぶれ、モーツァルトの像は黒く焦げている。当時の人々の思いはいかばかりであったろう。

 当日の演目はスイスの作曲家オトマール・シェックのオペラ「ペンテジレーア」。1927年にこの歌劇場で初演されたオペラなので、いわばご当地ものだ。今のプロダクションは2008年に初演されたもの。

 私の席は1階最前列中央だったので、ピットの中をのぞいてみた。弦はヴァイオリン8(おそらく第1ヴァイオリン4、第2ヴァイオリン4)、ヴィオラ6、チェロ8、コントラバス4。木管はフルート3、オーボエ1、クラリネット10(これにはびっくり!)、コントラファゴット1。金管はホルン4、トランペット4、トロンボーン4、チューバ1。打楽器5。ピアノ2。かなり異例の編成だ。
 オペラがはじまると、ピアノが通奏低音のような形でひじょうに効果的に出てくる。またヴァイオリンの代わりにクラリネットがある種の音の層を作り出していて、独特な音色がする(あえていえば、遠くでなにかが咆哮しているような感じだ)。

 音楽は異常にテンションが高い。その意味ではリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」を連想するが、ちがう点もある。まずここにはシュトラウス節とでもいうべき一種の甘味料がない。第二にこのオペラでは、歌われる部分と語られる部分が行ったり来たりする。もちろんシュトラウスも「無口な女」などでやっているが、こちらはもっと徹底している。その結果これは音楽と演劇の混交のような感じがする。この二つをつなぐのはドイツ語の力。このオペラの主役はドイツ語だという感じがしてくる。

 原作はハインリヒ・フォン・クライストの戯曲。私は事前に読んでみたが、異様な興奮が渦巻いている。題材は古代のトロイ戦争。ギリシャ軍とトロイ軍が戦っている中へ、トロイ軍に味方して女人族のアマゾン軍が参戦してくる。その女王がペンテジレーア。ペンテジレーアとギリシャ軍のアキレスとのあいだに狂気のような愛が生まれる。

 ペンテジレーアを歌ったのはイリス・フェルミリオンIris Vermillion。強靭な声と体当たりの演技。その全身でいわば根源的な人間性を体現し、崇高でさえあった。
 指揮はゲルト・アルブレヒト。わずかな動きしかしないが、オーケストラの演奏には気合が入っている。ここぞというときに軽く腰を浮かせると、音がぐっと深まる。読売日響の常任指揮者時代に比べて少し年を召されたようだった。
 演出はギュンター・クレーマー。長くなるので、具体的な描写は控えるが、強い精神力でドラマの本質をとらえた骨太の演出。

 これで予定はすべて終わり。ホテルに戻ってバーでビールを飲んでいたら、なんだかホッとした。
(2010.2.10.ゼンパー・オーパー)
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旅日記:ペレアスとメリザンド

2010年02月18日 | 音楽
 シュツットガルト歌劇場は、クラウス・ツェーエライン前総監督の時代に、急進的なオペラ上演で評判になった。私はそのころ何度か足を運んだが、その後体制が変わって、しばらくご無沙汰していた。今回は久しぶりだ。演目はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」で、演出はこの歌劇場の看板コンビであるヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビト。これはもともと2003年にハノーファー州立歌劇場のために制作されたもので、シュツットガルト初演は2007年とのこと。

 台本では最初は深い森の中の泉のほとりの場面だが、幕が開くとそこは真っ白い室内の廊下。奥の方から薄汚れた不良少女が忍び込んでくる。おどおどした様子で机の上のペットボトルを飲んだり、引き出しの中を物色したりしている。それをゴローが見つける。顔を見ると美しいので、キスはおろか、犯そうとさえする。これが物語のはじまり。

 真っ白い室内は高級サナトリウムらしい。ゴローとペレアス(二人は異母兄弟)の父が重病なので、これはもっともな設定。この家族はそこに住むお金持ちというわけだ。

 ゴローの妻におさまったメリザンドは赤いスーツ姿。そこに海岸から戻ったペレアスが現れる。能天気なお坊ちゃん風だ。二人はお互いに惹かれあう。

 ペレアスの母のジュヌヴィエーヴと祖父のアルケル(つまりジュヌヴィエーヴの義父)は、ただならぬ関係にあるらしい。二人はその親密さを隠さない。ゴローもペレアスもそれを平気で見ている。どうやらこの家族では公認のことらしい。二人はだんだん親密になっていくペレアスとメリザンドをみて微笑する。

 ゴローの息子のイニョルドは腕白坊主。終始舞台に出ていて、おもちゃをひっくり返したり、ドアにペンキで落書きしたり、壁を蹴っ飛ばしたりして騒々しい。

 こういった設定でオペラは展開する。その流れの詳細を描写しても煩雑になるだろうから、これ以上は控えるが、ともかくアッと驚いたり、なるほどと納得したりすることが多く、飽きることがなかった。

 この舞台から浮かび上がってくることは、このオペラが時も場所も定かではない幻想的な物語ではなく、現代のどこにでもありそうな話だということ。考えてみると、ヴィーラーとモラビトの演出はいつもそうだった。オペラを現代にひきつけて視覚化し、わかりやすく提示すること。それがこの二人の基本路線だった。

 歌手はおおむね平均点。日本人の私としては、イニョルド役の角田祐子さんに目を見張った。小柄な体で元気一杯。壁の蹴りにも迫力があった。
 指揮はペーター・シュロットナー。ここぞというところではオーケストラを朗々と鳴らしていた。こういうドビュッシーはよい。音を抑えた演奏はこの音楽にふさわしくない。
(2010.2.9.シュツットガルト歌劇場)
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旅日記:ピンチャー&バーデン州立歌劇場管

2010年02月17日 | 音楽
 旅の日程を組むに当たって、この日だけはめぼしいオペラが見つからなかったので、オーケストラや室内楽の演奏会を探していたら、マティアス・ピンチャーMathias Pintscher指揮バーデン州立歌劇場管弦楽団の演奏会を見つけた。プログラムは次のとおりだった。
(1)ベルント・アロイス・ツィンマーマン:静止と反転Stille und Umkehr
(2)マティアス・ピンチャー:五つの管弦楽曲
(3)ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(全曲版)

 この中のツィンマーマンの「静止と反転」に注目した。オペラ「軍人たち」の作曲家ツィンマーマンは1970年に自殺しているが、これはその最後の作品の一つ。いったいどういう音楽なのだろうと思った。

 指揮者のピンチャーについて調べてみると、1971年生まれのドイツの作曲家とのこと(これは偶然だが、オペラ「テンペスト」の作曲家トーマス・アデスと同い年だ)。CDがいくつか出ている。私がきいた中では、エッシェンバッハ指揮北ドイツ放送交響楽団によるオペラ「トーマス・チャタートン」からの音楽が面白かった。この人には劇的な音楽をかく才能があると感じた。オペラは1998年にドレスデンのゼンパー・オーパーで初演されたとのこと。

 まず1曲目。オーケストラが出てきて驚いた。弦はヴァイオリン1、ヴィオラ1、チェロ3、コントラバス3という特殊編成。木管と金管は3管編成程度。異色なのはアコーディオン1と深さ50センチくらいの胴長の小太鼓1。この編成で重低音を鳴らすのかと思いきや、透明感にあふれた、ほとんど動きのない、静かな曲だった。大音響によって世の中の不正を訴えたオペラ「軍人たち」から5年後の作品。その間になにがあったのだろうか。

 2曲目の自作曲は、1997年のザルツブルク音楽祭でケント・ナガノ指揮フィルハーモニア管弦楽団によって初演されたとのこと。現代音楽でよくきかれる激しい音楽や、この作曲家特有の点描的な音楽などが組み合わさった曲だ。最後にイングリッシュ・ホルンによるエキゾティックなフレーズが2度出てくるのが印象的。シェーンベルクの同名の曲(作品16)との関連があるようだった。

 3曲目の「火の鳥」は全曲版。そのため場面と場面とのつなぎの部分があちこちに出てくる。そういう部分まで面白くきかせる芸は、まだないようだった。

 この演奏会は2回公演の二日目。一日目は日曜のマチネー公演で、午前11時開演とのこと。これは元旦のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートと同じだ。私の行ったのは月曜の夜の公演。聴衆はよく入っていて、拍手も暖かかった。
(2010.2.8.バーデン州立歌劇場)
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旅日記:オーウェン・ウィングレイヴ

2010年02月16日 | 音楽
 ベンジャミン・ブリテンのオペラ「オーウェン・ウィングレイヴ」は、この作曲家のオペラの中では比較的上演機会に恵まれないものの一つ。そのオペラがフランクフルト歌劇場で上演されるのを知ったことが、今回の旅に出るきっかけになった。

 原作はヘンリー・ジェイムズの短編小説。イギリスの旧家を舞台とした幽霊譚で、周囲とは異質の部分をもつ青年が破滅する物語。その点では同じくヘンリー・ジェイムズの原作による「ねじの回転」と似ている。ちがう点は、異質な部分が、「ねじの回転」ではある性的傾向であるのにたいして、こちらでは反戦思想である点。この二つはブリテンの生涯では同じように切実な問題だった。

 このオペラはブリテンのオペラの中では最後から二番目。そのためか、音楽的にはブリテンの手馴れた語法がきかれる。特徴的なのは、主人公が反戦思想を表明する場面でガムラン音楽の模倣音型が鳴ること。それは主人公のいちばんナイーヴな部分を表現しているように感じられた。

 歌手では主人公を歌ったミヒャエル・ナギイMichael Nagyが圧倒的。強い声と(ドイツ語圏で活動している歌手のようだが)完璧と思われる英語の発音で、主人公の苦悩を十全に表現していた。外見も白面のエリート青年そのものだった。
 一方、主人公に軍人としての生き方を押し付ける二人の女性、恋人のケイト・ジュリアンと叔母のミス・ウィングレイヴを歌った歌手は、声は出ていたが、外見と演技が健康的すぎた。これらの役柄にはもっと病的な偏執性がほしかった。
 指揮はユーヴァル・ツォルンYuval Zorn。ブリテンの音楽を十分に味あわせてくれた。
 前日の「テンペスト」もそうだったが、このオペラも新制作の最終公演。歌手もオーケストラも作品をすっかりこなしていて、惰性に陥らず、共感にあふれた演奏だった。

 演出はウォルター・サットクリフWalter Sutcliffe。一言でいうなら、オーソドックスな演出。装置、衣装、照明ともあいまって古色蒼然とした雰囲気を醸し出していた。これは原作の路線にのったものだが、別な方法による現代的な舞台づくりも可能かもしれない。
 興味をひかれたのは、第2幕冒頭の吟遊詩人の場面で吟遊詩人を執事に置き換えていた点。たしかにここは吟遊詩人のままでは唐突で、なにらかの工夫が必要なところだ。

 この公演は、いつもの歌劇場ではなく、中央駅から地下鉄で2駅目のところにあるボッケンハイマー・デポBockenheimer Depotという場所でおこなわれた。そこはレンガ造りの古い倉庫。天井には木の梁がむき出しになっていて、平土間に仮設の舞台と階段状の客席を設けていた。独特の雰囲気があり、音も問題なかった。
(2009.2.7.フランクフルト歌劇場Bockenheimer Depot)
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旅日記:テンペスト

2010年02月15日 | 音楽
 1971年生まれのイギリスの作曲家トーマス・アデスのオペラ「テンペスト」をみた。2004年にロンドンのロイヤル・オペラで初演された作品。原作はいうまでもなくシェイクスピアの戯曲だ。
 私はこの戯曲を何度か読んだことがある。不思議な音にみちた幻想的な作品。あれをオペラにするとは、そうとうな野心家だ。

 アデスの音楽は初めてきいたが、常套的な音の動きを拒むところがある。不協和音で刺激するとか、大音響で驚かせる音楽ではないが、安易にその流れに身を任せることのできる音楽ではない。その意味ではベンジャミン・ブリテンの末裔なのかもしれない。
 そういえば、妖精エアリエルが魔法の食卓を出現させる場面では、ガムラン音楽のようなエキゾチックな音楽が鳴っていたが、これもブリテンとの関連を感じさせる。
 ファーディナントとミランダの愛の二重唱は、現代的な甘い音楽だ。オペラが大衆的なジャンルである以上、作曲家としては当然計算するところ。

 興味深かったのは妖精エアリエルの音楽。高音域が連続する超絶技巧で、これはジェルジ・リゲティのオペラ「ル・グラン・マカーブル」(昨年東京でも東京室内歌劇場によって上演された)の登場人物ゲポポを参照しているのではないかと思われた。

 台本はメレディス・オークスという人。原作を切り貼りするのではなく、いったんばらばらに解体して、再構築するもの。その過程で重要な改変があった。原作では魔法使いのプロスペローがすべてを支配しているが、台本ではファーディナントとミランダの愛は、プロスペローの魔法をこえて生まれるようになっている。茫然自失するプロスペロー。
 これが第1幕で起きる。結果として、プロスペローは第1幕で愛娘ミランダを失い、最終幕の第3幕では魔法を放棄して、妖精エアリエルを失うので、オペラ全篇にわたって喪失感が漂う。これはシェイクスピアの原作と共振している。

 演出はトーキョー・リングの演出家キース・ウォーナー。たとえば冒頭の嵐の場面では登場人物たちがワイヤーで逆さ吊りにされて天井から降りてくるなど、奇抜で楽しいものだった。装置、衣装、照明をふくめてポップで明るい舞台。

 指揮はヨハネス・デブス。昨年東京で細川俊夫のオペラ「班女」を振っていて、私はそのときも感心したが、今回も見事なもの。こういう若い才能が出てきているのだ。
 歌手はみな、歌、演技ともに文句なし。一人だけ名前をあげておくなら、妖精エアリエルを歌ったシンディア・ジーデンCyndia Siedenというソプラノ歌手。普段は夜の女王やルル、ツェルビネッタなどを得意にしている歌手のようだ。
(2010.2.6.フランクフルト歌劇場)
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無事帰国

2010年02月13日 | 身辺雑記
 無事帰国しました。寒いと思っていたヨーロッパですが、最初の訪問地のフランクフルトは東京と変わりませんでした。
 フランクフルトではオペラを3本みる予定でしたが、そのうちの1本が「ストライキのために」演奏会形式になるというハプニング! 窓口では「別の公演日に振り替えることもできます」といわれましたが、旅行者なのでそれは無理。まあ、取り止めになるよりもよいと思い直しました。
 シュテーデル美術館では「ボッティチェッリ展」をやっていました。さすがに有力な美術館だけあって、フィレンツェ、ヴェネチア、パリ、ロンドン、エジンバラなどのヨーロッパ中の美術館から、さらにはアメリカ各地からも作品を集めていました。これだけの充実度は日本では難しいかも・・・。

 次の訪問地はカールスルーエです。ここにも美術館があって、なんの予備知識もなしに出かけましたが、ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルト(ヒンデミットのオペラ「画家マティス」の題材になった画家です)のイエスの磔刑画がありました。磔になったイエスの全身には無数の血痕が滲み出し、向かって右には悲痛な顔でイエスを見上げる洗礼者ヨハネ、左には顔を伏せて悲しみにくれる聖母マリア。これはこの画家の代表作「イーゼンハイムの祭壇画」と同じテーマ。こういう作品があったのかと驚きました。

 次の訪問地はシュツットガルト。オペラが終わって外に出たら雪が舞っていました。この雪は一晩中降り続いたようで、翌朝は一面の銀世界。荷造りが早く終わったので、ちょっと早めでしたが空港に向かったら、「悪天候のため、あなたの便は飛ぶかどうかわからない。別の便でフランクフルトまで行って、そこでドレスデンへの乗り継ぎのチェックインをするように」とのこと。その便は10分後に搭乗開始! 慌てて搭乗口へ向かいました。

 ドレスデンに着いて、予約しておいたホテルに行ったら、玄関が閉まっていて貼り紙があります。どうやら閉鎖中のよう・・・。途方にくれました。もういちど貼り紙をよくみると、別のホテルの名前が書いてあります。そうか、そこに行けということかと思って、そこに行ったら、無事チェックインできました。

 ドレスデンで1泊して、翌朝は帰国。空港に行ったら、「あなたの便はキャンセルになった。別の便でフランクフルトに行くように」とのこと。渡された搭乗券をみると、塔乗時間はとっくに過ぎています。わけがわからずにともかく搭乗口まで行くと、その便は遅延していて、まだそこにいました。
 フランクフルトに着いて、日本までの乗り継ぎのチェックインをしようとしたら、人であふれかえっています。30分くらい並んでいましたが、時間が迫ってきたので、いったん外に出てチェックインをし直しました。こうして無事搭乗できました。

 以上のドタバタ、お笑いいただけたら幸いです。各地できいてきたオペラ(演奏会形式になったものは除いて)とコンサートについては、順次報告させていただきます。
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ドイツ旅行

2010年02月03日 | 身辺雑記
 東京でも一昨日の夜に雪が降りました。路面が白くなる程度ですが、それでも2年ぶりの積雪だそうです。翌朝の通勤電車はやっぱり乱れました。

 今年はヨーロッパも寒いようですね。そのヨーロッパに明日から行ってきます。フランクフルト、シュツットガルト、ドレスデンの各都市でオペラをみてきます。約1週間の旅で、12日(金)に帰国します。

 今はもう昔ですが、オペラをみるためにヨーロッパに行くようになりました。
 当時はまだ新国立劇場のような常打ち小屋(古い言葉ですね・・・)がなかったので、二期会や藤原歌劇団の単発的な公演で我慢するしかありませんでした。またDVDのような便利なソフトもありませんでした。みたいオペラをみるためには、ヨーロッパに行くのがいちばん効率的でした。

 仕事があるので、行ける時期は5月の連休、8月のお盆の前後、そして年末年始に限られていました。航空券の高い時期ですが、それは仕方がないと割り切っていました。

 そうやって何度も行くようになって、ずいぶんいろいろなオペラをみることができました。ただ、職場の一部では、冗談なのか本気なのかわかりませんが、「ヨーロッパに好い人でもいるのではないか」と囁かれていたようです。その挙句、「青い眼の子どもがいるのではないか」という尾ひれまでついて!(笑い)。

 去年は、事情があって、行けませんでした。一昨年の秋には仕事で行きましたが、個人旅行としては約2年ぶりになります。

 事情というのは、6月に早期退職したことです。担当していた仕事をまっとうできなかったことは心残りですが、関連の子会社に入れてもらったので、今のご時世文句をいえません。

 子会社に移ったので、このような時期に行けるようになりました。この時期は通常公演のハイシーズンなので、いろいろ珍しい演目をやっています。

 昨日は仕事が終わってから、職場の有志が、壮行会と称して、残りものの缶ビール、ワイン、日本酒で飲み会を催してくれました。ありがたいことで、楽しく過ごしました。

 では、行ってきます。帰ったら、オペラの報告などをかかせてもらいます。またよろしくお願いします。
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日本フィル・シリーズ再演企画第4弾

2010年02月01日 | 音楽
 日本フィルの1月定期は、飯守泰次郎を指揮者に迎えて次のプログラム。
(1)小山清茂:管弦楽のための「鄙歌」第2番
(2)湯浅譲二:交響組曲「奥の細道」
(3)ブラームス:交響曲第4番

 1曲目の「鄙歌」第2番は、このオーケストラが続けている「日本フィル・シリーズ再演企画」の第4弾。日本フィル・シリーズとは、1956年創立の同オーケストラが1958年以来続けている日本人作曲家への委嘱シリーズ。これまでに39作品が生み出されていて、その中には若き日の武満徹や細川俊夫によるものも含まれている。これらの作品群は同オーケストラの誇るべき財産。

 同オーケストラは1972年から1984年まで争議を続けたが、このシリーズは途切れなかった。争議に入って間もない1974年に、林光の「ウィンズ」によってシリーズが再開されたとき、私は客席にいて応援した。
 「鄙歌」第2番の初演は1978年。そのときのことも覚えている。代表作「管弦楽のための木挽歌」の路線をいく作品で、よい曲が生まれたものだと思った。
 今回あらためてきいてみて、「木挽歌」よりも簡潔な書法になっていることを感じた。

 2曲目の交響組曲「奥の細道」は芭蕉の同名作から4句を選んで音楽化したもの。純化された音の世界とはこういうものではないか――と思った。余計なものを一切そぎ落とした透徹した世界。たとえていうなら、静まりかえった水面に一滴の水が落ちて、その波紋が広がるときの光の揺らぎ、とでもいうような印象だ。

 湯浅譲二には芭蕉の俳句にちなんだ曲が多くある。ざっくりいうと、芭蕉の俳句には自然あるいは宇宙と自己との合一点から生まれた作品があり、それは湯浅自身の作曲態度と重なり合う、ということのようだ。
 ここで思い出すのがオペラ「沈黙」の作曲家、松村禎三。松村禎三も、自ら句作をするほか、三橋鷹女の俳句にちなんだ曲をかいている。
 俳句は、説明的なところがなく、直感を単刀直入に表現する。そこに音楽と通じるものがあるのだろうか。

 3曲目のブラームスでは、第1楽章から第2楽章までが交響組曲「奥の細道」と違和感なくつながるので驚いた。若いころの気負いを捨てた晩年の境地は、どこかで共通しているのか。
 なお第4楽章ではティンパニの音がときどき強くて、その都度びっくりした。もう少し軽いアクセントにしてほしい。
(2010.1.29.サントリーホール)
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