Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ヴァイグレ/読響

2021年06月30日 | 音楽
 フランツ・シュミット(1874‐1939)に焦点を当てたセバスティアン・ヴァイグレ指揮読響の定期。チラシには「次はシュミットを照らせ!」という文言が踊る。何の次か? それは書いてないが、以前やったハンス・ロット(1858‐84)の次ではないかと想像する。

 1曲目はグルック(1714‐87)の歌劇「オーリードのイフィジェニー」序曲のワーグナー編曲版。今でこそ原典版で演奏されるが、一昔前はワーグナーの編曲版が一般的だった。クレンペラーとかフルトヴェングラーとか、往年の巨匠の重々しい演奏で聴いたものだ。

 ヴァイグレ指揮読響の演奏は、出だしは重厚な響きがしたが、テンポの速い部分に入ると、往年の巨匠とは一味ちがって、快速テンポで進む。それが全体を引き締め、現代感覚の演奏になった。弦楽器は14型だった(2曲目以降も14型だった)。その弦楽器がよく鳴った。

 2曲目はフランツ・シュミットの歌劇「ノートル・ダム」から間奏曲と謝肉祭の音楽。この間奏曲は懐かしい。一時期カラヤンの指揮でよく聴かれた。わたしもそうだが、多くの人はこの曲でフランツ・シュミットという名前を知ったのではないか。その後しばらくしてから、若き日のメータが指揮する交響曲第4番が聴かれるようになった。

 「間奏曲と謝肉祭の音楽」は3部からなり、第2部が間奏曲だ。前後は謝肉祭の音楽だが、第1部よりも第3部のほうが豊かに発展する。わたしは謝肉祭の音楽を聴くのは初めてなので、おもしろく聴いたが、なんといっても間奏曲が感銘深かった。上記のとおり14型の弦楽器が張りのある音でよく鳴った。サントリーホールに鳴り響いた、というのが実感だ。ヴァイグレの指揮は自信に満ち、積極的で、スケールが大きかった。この曲にかぎらず、当夜のヴァイグレは気力も体力も絶好調のように見えた。

 3曲目は交響曲第4番。フランツ・シュミットの代表作のひとつだ。CDはもちろん、実演でも何度か聴いたが、それらのすべてと比べても、この演奏は確固たる解釈と共感の深さで優れていた。冒頭でふれたハンス・ロットの交響曲第1番のときも、揺るぎない解釈と共感の深さで感銘を受けたが、今回もそれと似た感銘を覚えた。

 全4部からなる曲だが、とくに第2部アダージョが、この曲が書かれたきっかけとされる娘エンマの逝去を超えて、ある時代の終わりへの哀歌のように聴こえた。作曲時期は1932~33年なので、ヒトラーが政権を取る時期と重なる。フランツ・シュミットが住むウィーンも緊張していたことだろう。フランツ・シュミットはこの曲を書いた後、新約聖書の「ヨハネの黙示録」をテキストにオラトリオ「七つの封印の書」を書いた。なんたる題材だろう。その心情は想像に余りある。
(2021.6.29.サントリーホール)
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「コロナ禍の一年」のオーケストラ

2021年06月27日 | 音楽
 昨年2月に突如演奏活動の休止を余儀なくされた各オーケストラは、同年6~7月から徐々に演奏活動を再開した。それから一年。N響は今年6月の演奏会のプログラム冊子に西川彰一演奏制作部長の「2020‐21シーズンを振り返って」というコラムを掲載した。

 そこでは「振り返ればこの1年は、刻々と変わる状況に合わせながら、感染症対策と代替公演の企画締め切りに追われる毎日でした」と述べている。実感のこもった述懐だ。そして「予期せぬ収穫」として「若手音楽家との共演の場を多数持てたこと」と「小編成の作品を演奏することが、アンサンブルを見つめ直すきっかけになった」ことをあげている。

 それらの2点は他のオーケストラも同様だろう。今後コロナ禍が(いつ、どんな形であれ)収束して、演奏活動が復旧したとき(たとえ元通りにはならないにしても)、この1年間で蒔いたそれらの種が実を結ぶことを期待したい。

 日本フィルも6月の演奏会のプログラム冊子に平井俊邦理事長の「「コロナ禍の一年」を支えてくださった皆様に、心より御礼申し上げます」と題する一文を掲載した。そこでは、国、自治体、民間財団および金融機関から受けた支援への感謝を述べている。

 そのうえで、こう書いている、「何より大きな力となりましたのが、全国の皆様から頂戴したご寄付です。その額は一億円を超えるものとなり、「何としても存続してほしい」という強いメッセージとともに日本フィルを力強く支えてくださいました。涙が出るほどにありがたく、改めて衷心より御礼申し上げます」と。その言葉には並々ならぬ実感がこもっていると感じる。

 聴衆の立場からいうと、この1年でいくつかの変化が生まれた。まずオーケストラの入場時に拍手が起こるようになった。オーケストラも全員が揃うまで立ったままで拍手を受けるようになった(読響は例外だが)。また演奏会の終了時には、指揮者のソロ・カーテンコールが頻繁に起きるようになった。それは外人指揮者にかぎらず日本人指揮者にたいしても、だ。聴衆とオーケストラおよび指揮者との結びつきが強くなっているように感じる。

 またどのオーケストラもオンライン配信を行うようになった。オンライン配信は、遠隔地の人々、高齢者、障害をもつ人々にはとくに有効なので、今後どう発展するか。わたしとしては、当日行けなかった定期会員へのアーカイブの提供があるとありがたいが。

 最近、ある音楽ライターが「シニア層の聴衆が戻ってきた」と書いた。だが、わたしの周囲を見ると、まだ楽観できない。結局戻らない人もいるだろうし、戻るにしても、回数を減らす人もいると思う。オーケストラは「選ばれるオーケストラ」にならなければならない。
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杉山洋一/N響「MUSIC TOMORROW 2021」

2021年06月23日 | 音楽
 N響の毎年恒例の「MUSIC TOMORROW」は、昨年はコロナ禍のため中止になったが、今年は昨年のプログラムを一部変更して開催された。「MUSIC TOMORROW」の主な目的は、毎年選考される「尾高賞」の受賞作品の演奏にあるが、今回演奏されたのは2020年の受賞作品。本来は今年1月に2021年の選考会が開催されるはずだったが、昨年来のコロナ禍にかんがみ、開催は見送られた。

 1曲目は西村朗(1953‐)の「華開世界」(かかいせかい)(2020)。N響の委嘱作品で世界初演だ。5人の打楽器(主にヴィブラフォーン、テューブラーベル、グロッケンシュピールなどの金属打楽器)とチェレスタ、ピアノ、ハープが「ガムラン」のような音響を織りなす中で、オーケストラが生き物のように流動する。アジア的という言葉が思い浮かぶ。むせかえるような芳香。極彩色の音色。すさまじいテンションの高さ。N響の演奏の密度の濃さに圧倒される。指揮は杉山洋一。

 弦楽器が頻繁に分割される。何本もの線がたゆたうように浮動する。それはこの作曲家に特有の「ヘテロフォニー」を思い出させた。ヘテロフォニーとは「多くの線が一束になって少しずつ滲みながら前進を続ける、雅楽などにもみられる民俗音楽的な音の様式」(沼野雄司氏の「一元的な多元性 作曲家・西村朗の世界」より~新国立劇場の「紫苑物語」のプログラム所収)だが、西村朗はそれを1980~90年代に完成させた後、今は使わなくなったのではなかろうか。会場に沼野雄司氏の姿を見かけたので、ご教示いただければ幸いだ。

 2曲目は間宮芳生(1929‐)のピアノ協奏曲第2番(1970)。力作であることはまちがいないが、あえていえば、西村作品とは時代の差を感じた。けっして貶める意味ではなく、むしろポジティブな意味でいいたいのだが、「昭和」の時代を感じた。昭和の時代に熟成され、自らの力で生まれ出た作品と感じた。

 ピアノ独奏は吉川隆弘。大型のピアニストだ。ピアノをパワフルに鳴らす。その一方で繊細さも持ち合わせている。プロフィールによると、主にイタリアで活動している人のようだ。

 3曲目は細川俊夫(1955‐)のオーケストラのための「渦」(2019)。2020年の尾高賞受賞作品だ。オーケストラは、舞台左右に2群のオーケストラ(弦楽器と打楽器)が配置され、中央には木管楽器と金管楽器が配置される。さらに2組のバンダが客席に配置される(今回は2階レフト席と3階ライト席)。それらのバンダが舞台の音を増幅する。西村朗の「華開世界」がアジア的なら、こちらは北国の暗い海を彷彿とさせる。わたしは2019年11月に杉山洋一指揮都響による初演を聴いたが、今回のほうが見通しよく演奏されたように感じる。
(2021.6.22.東京オペラシティ)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2021年06月18日 | 音楽
 パーヴォが戻ってきたN響はやっぱり違うと思った。音がシャープになり、持てる力を十二分に発揮する。N響ほどの基礎的なアンサンブル能力があるオーケストラでも、やはりこうなのだ。わたしは4月にラザレフが戻ってきた日本フィルを思い出した。コロナ禍に喘いだこの1年間、どのオーケストラも日本人指揮者を次々に起用し、極力多彩なプログラムを組むよう努めてきたが、やはりそれには限界があるのだ。

 1曲目のアルヴォ・ペルト(1935‐)の「スンマ」(1977/91)は、コロナ禍に苦しんだ指揮者とオーケストラ、そして聴衆にとって(その三者の再会にとって)、なんとふさわしい曲かと思った。演奏時間5分ほどの短い曲だ。静謐な音が胸にしみる。原曲は無伴奏合唱曲(1977年)だが、それを弦楽合奏用に編曲した(1991年)。スンマという語句の意味はプログラムノートには記載されていなかったが、無伴奏合唱曲のときの歌詞はミサ典礼文のクレドからとられているそうだ。

 2曲目はシベリウスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は青木尚佳(あおき・なおか)。若いヴァイオリン奏者だ。2021年1月からミュンヘン・フィルのコンサートマスターに就任している。N響との共演は3度目だそうだ。

 音がつねにクリアに聴こえる。たしかに優秀なヴァイオリン奏者だが、わたしには欲求不満が残った。どこか突き抜けるものがないのだ。言い換えるなら、ドラマの凄みの点でオーケストラに負けていた。オーケストラのほうが音楽のダイナミズムでヴァイオリンを凌駕していた。アンコールにイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番から第3楽章が演奏された。これも美しかったが、淡々とした印象は否めなかった。

 3曲目はニルセンの交響曲第4番「不滅」。コロナ禍を耐え忍んだこの1年間を締めくくるに当たりなんとふさわしい曲か、といいたいところだが、そんな感傷は排して、きわめて近代的な感覚の演奏をするのが、パーヴォのパーヴォたる所以かもしれない。鮮やかな音色、ソリスティックな動き、曲想の変化の俊敏性など、パーヴォの捉えたニルセンの特徴が明確に示された。N響の反応のよさも特筆ものだ。目覚めたN響といったら失礼だが、そんな感じがした。

 周知のように、この曲には2人のティンパニ奏者が起用され、曲の最後でティンパニの連打の応酬が展開される。わたしは打楽器をやっていたので、垂涎の曲なのだが、今回のティンパニ奏者はN響の植松さんと、なんと元読響の菅原さんが登場した。植松さんは現役では最高峰のティンパニ奏者だと思うし、菅原さんはわたしの長年の憧れだった。そのお二人が同じ舞台に立つ光景は、わたしの目に焼きつき、けっして忘れることはないだろう。
(2021.6.17.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2021年06月17日 | 音楽
 高関健指揮の東京シティ・フィルの定期。プログラムはブルックナーの交響曲第5番。この演奏会は、50%規制の下ではあるが、チケット完売になったそうだ。最近の東京シティ・フィルへの評価の高まりの反映だろう。それも高関健という優れた指導者を得たおかげだ。

 高関健と東京シティ・フィルは昨年8月12日に、コロナ禍以来はじめて聴衆を会場に迎えた演奏会を開いたとき、ブルックナーの交響曲第8番を演奏した。まだどのオーケストラも傷口が癒えない状態の中で、ブルックナーを演奏するので注目された。わたしもその演奏会を聴いた。真に感動的な演奏だった。

 さて、今回は第5番。いつものことながら、高関健がツイッターで譜面の検討結果をつぶやいている。今回はとくに多いようだ。わたしは譜面を見ながらそのツイッターを追ったわけではないので、あまり理解できていないが、それでもこれだけ入念に譜面を洗い直すなら、演奏はマンネリ化せず、新鮮なものになるだろうと想像された。

 はたしてその通りの演奏だった。音に張りがあり、音楽の展開には確信があった。高関健の意図がオーケストラに徹底され、指揮者とオーケストラとが一体になっていた。東京シティ・フィルはすっかり高関健のオーケストラになったと感じた。

 第1楽章では導入部の後の「ビオラとチェロが出す流麗な第1主題、ピッツィカートに始まる第2主題、木管楽器が出す伸びやかな第3主題」(柴田克彦氏のプログラムノートより)が、各主題の性格を反映した細かなニュアンスをつけて演奏された。そのニュアンスが考え抜かれたものであることが感じられた。また途中でクラリネットとオーボエが交互にベルアップして吹く箇所があった。あのベルアップは他の指揮者やオーケストラの演奏では見た記憶がないので、おそらく高関健の指示だったろう。おかげで、それぞれのパートがなにをやっているのか、注意が向いた。

 第2楽章では「弦5部による深々とした主題」(同)が共感をこめて、多少比喩的にいえば、魂の底から絞りだすように演奏された。その感動的な歌い方は、一夜明けたいまも胸の奥に残っている。第3楽章はブルックナー特有のスケルツォ楽章だが、「ソナタ形式のような構成」(同)と指摘されるだけあり、意外に複雑だと思った。第4楽章は二重フーガが堂々と展開する異例な構成だが、それがギクシャクせずに、明快に流れた。なお第4楽章でもクラリネットがベルアップする箇所があった。

 終演後、高関健のソロ・カーテンコールが2度もあった。演奏も熱かったが、聴衆も熱かった。
(2021.6.16.東京オペラシティ)
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ヴァイグレ/読響

2021年06月16日 | 音楽
 プログラムに惹かれてヴァイグレ指揮読響の名曲コンサートに行った。まずプログラムをいうと、ヴェルディの「運命の力」序曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏はアラベラ・美歩・シュタインバッハー)そしてブラームスの交響曲第1番。どの曲も指揮者とオーケストラがどう料理するか、注目される曲だ。

 客席はほぼ満席だった。実際には緊急事態宣言を受けて、チケットの販売を途中で取りやめたようなので、満席ではなかったろうが、見た目にはコロナ禍以前の演奏会と変わらなかった。集客しやすいプログラムだったせいもあるだろうが、昨年11月から今年2月まで日本に長期滞在して読響を支えたヴァイグレへの支持が集まっているからでもあるだろう。

 ヴェルディの「運命の力」序曲は目の覚めるような名演だった。ピッチがぴたっと合っていて解像度が高かった。曲の細部までニュアンスが突き詰められ、しかも全体の彫りが深かった。指揮者とオーケストラが気合を入れて準備した演奏だ。

 冒頭のトランペットの音が明るくて印象的だった。それが一気にわたしたち聴衆をヴェルディの世界に誘った。続く弦の音型もシャープだった。弦は14型の編成で、重くもなく、軽くもなく、快い緊張感があった。中間部に出てくるクラリネットのソロも表情豊かだった(クラリネットは金子さんではなかったかと思う。最後のブラームスの交響曲第1番でも目立っていた)。

 メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲では、アラベラ・美歩・シュタインバッハーの演奏に注目した。名前も写真もよく見かける演奏家だが、実演を聴くのは、わたしは初めてではないかと思う。たいへん優秀なヴァイオリン奏者だ。どんなパッセージでももたつかず、音程もピシッと決まる。技術的には見事というしかない。

 だが、そのうえでいうと、わたしは感情移入が難しかった。なぜだろう。音が細くて、中に入りこめないからだろうか。それとも、それ以外の要因があるのだろうか。たとえば演奏家のメンタリティとか。それはわからなかったが。

 ブラームスの交響曲第1番は、骨格の太い演奏だった。低音がよく鳴り、スケールが大きく、ドイツ的といえばドイツ的な、日本人の指揮者ではなかなかこうはいかない演奏だった。コロナ禍で、特別な例を除いて、外人指揮者の来日が難しくなっているが、それでもやはり外人指揮者を招く意味はあると思った。ただ、わたしには1曲目の「運命の力」序曲の音が鮮明に残っているからだろうか、ピッチのゆるさが気になった。どこかに粗い面のある演奏だった。
(2021.6.15.サントリーホール)
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広上淳一/日本フィル

2021年06月12日 | 音楽
 広上淳一が指揮する日本フィルの6月の定期は、ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏は小林美樹)とブルックナーの交響曲第6番という(派手さはないが)充実したプログラムだった。

 多くの方がSNSで発信しているが、広上淳一と小林美樹は今年3月の東京シティ・フィルの「ティアラこうとう定期」でドヴォルジャークのこの曲を協演した。わたしも行こうと思っていたが、チケットが完売だった。その演奏はたいへん好評だったので、今回も期待した。

 小林美樹の演奏は、一言でいって、熱量の高いものだった。演奏時間30分超の大曲だが、熱量の高さは一貫していた。今年3月の演奏が好評だったのも頷けた。一方、日本フィルの演奏は、第1楽章の出だしが硬かったが、徐々にアンサンブルがこなれて、第3楽章では小林美樹の独奏ヴァイオリン共々スリリングな演奏を展開した。

 小林美樹のアンコールがあった。曲目はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番からのラルゴ。ドヴォルジャークの熱気をクールダウンするような澄みきった音だった。小林美樹は、演奏スタイルも音も、多様な抽斗をもっている演奏家のようだ。

 ブルックナーの交響曲第6番は名演だった。名演という一言では語りつくせない面のある演奏だった。まず目についたのは弦楽器の編成だ。第1ヴァイオリン10名、第2ヴァイオリン8名、ヴィオラ6名、チェロ6名、コントラバス5名という小編成で、これはドヴォルジャークの前曲と同じだった。そこに広上淳一の意思を感じた。ブルックナーは分厚い弦に支えられたサウンドが一般的だが(少なくともコロナ以前は)、ブルックナーの時代のサウンドはどうだったのだろうと、わたしは思った。

 第1楽章の冒頭は、弦の付点リズムが繊細に刻まれ、そこに金管の明るい音色が鳴った。木管の思いがけない動きが浮き上がることもあった。結尾では“ため”がつけられたが、ティンパニがずれたようだ。第2楽章の冒頭は弦のハーモニーが美しかった。その鳴り方に不足はなかった。第3楽章は充実の極みだった。ホールがよく鳴った。トリオのホルンもしっかりしていた。第4楽章はそれらのすべての要素が集約され、堂々たる演奏だった。

 全体を通して集中力が途切れなかった。滑らかな流れが基調にあり、細かいアクセントが音楽を前に進めた。要所々々で打ち込まれる鋭角的な響きも見事だった。わたしは日本フィルの古い定期会員なので、広上淳一のやんちゃ坊主のような正指揮者時代から聴いているが、いまやすっかりマエストロの風格を身につけた姿が感慨深かった。
(2021.6.11.サントリーホール)
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サーリアホ「Only the Sound Remains ‐余韻‐」

2021年06月07日 | 音楽
 カイヤ・サーリアホ(1952‐)のオペラ「Only the Sound Remains ‐余韻‐」が日本初演された。世界初演は2016年にアムステルダムで行われた。今回のプロダクションはそれとは別の新制作だ。現代の創作の息吹にふれる思いがすると同時に、このようなオペラが(後述するが、本作は能を原作にしている)日本でも創作される可能性を感じた。集客などの問題はあるにせよ、だが。

 原作となった能は「経正」(つねまさ)と「羽衣」だ。本作は2本のオペラのダブルビルだ。各オペラは45分程度なので、上演時間は休憩を入れて2時間程度。これなら上演しやすいだろう。手慣れたプロの仕事という感じがする。

 2本立ての場合、2本のオペラの対比をどうつけるかが興味の的だ。わたしは事前に原作を読み、わたしなりに想像していたが、それとは異なる点がいくつかあった。わたしが想像していたことは、今となっては無意味なので省略し、本作が2本のオペラをどう対比したかを述べると、「経正」は静謐な音楽が続き、そこに濃密な情念がこもる。わたしが「遥かなる愛」(2000)を通じて抱いているサーリアホのイメージに近い。一方「羽衣」は、天女と漁師との対話が(日本を超えて)西欧的な議論のようであり、また幕切れが喜びにみちたダンスの音楽になるなど、一般的なオペラの作劇術を感じさせる作品になっている。

 おもしろかったのだが、あえていえば、「遥かなる愛」のような今までだれも描いたことのない(人間感情の)領域を描いた作品ではないように感じた。

 歌手は、シテ(「経正」の表題役、「羽衣」の天女)がカウンターテナーのミハウ・スワヴェツキ、ワキ(「経正」の行慶、「羽衣」の漁師・白龍)がバス・バリトンのブライアン・マリー。どちらも未知の歌手だったが、しっかり歌っていた。ほかにソプラノ、アルト、テノール、バス各1名のコーラスが入る(地謡のイメージだろう)。新国立劇場合唱団のメンバーが歌った。

 本作は室内オペラだ。オーケストラは弦楽四重奏と(フィンランドの民族楽器の)カンテレ、フルート(ピッコロからバスフルートまで持ち替え)そして打楽器の編成。個々の奏者の名前は省くが、繊細で見事な演奏だった。指揮はクレマン・マオ・タカス。未知の指揮者だったが、ひじょうに優秀な人ではないかと思った。今後注目だ。

 演出はアレクシ・バリエール。サーリアホの実子らしい。その演出が良かったのかどうか、決め手に欠ける。森山開次のダンスが入ったが、あまり邪魔には感じなかった。
(2021.6.6.東京文化会館)
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モンドリアン展

2021年06月03日 | 美術
 緊急事態宣言の発令にともない休止された「モンドリアン展」が、緊急事態宣言は継続中だが、一部規制緩和されたので、6月1日から再開された。会期は6月6日まで。ぎりぎりで間に合った。本展は今後、豊田市美術館に巡回する。

 本展はモンドリアン(1872‐1944)の作風の変遷をコンパクトに辿っている。スタートは「ハーグ派」と呼ばれる穏やかな作風の風景画家たちの一員として。SOMPO美術館では2014年に「オランダ・ハーグ派展」を開催した。そこではモンドリアンの作品も何点か展示された。わたしは同展を見て「モンドリアンはここから出発したのか」と感慨を覚えた。今回それを思い出した。

 その時期の作品から一点挙げるとすれば、「ダイフェンドレヒトの農家」(1905頃)が印象的だった。農家が数軒建っている。何本もの枯木がそれらの農家を囲んでいる。手前には小川が流れている。背後には平野が広がっている。空にはどんよりとした雲が浮かんでいる。雲間から弱い日差しがもれている。その日差しの描写が美しい――と、そういう絵だ。画像は本展のHP(※)に掲載されている。

 本展でもっとも衝撃的な作品は、「ドンブルグの教会塔」(1911)だった(※画像は本展のHPで)。教会塔がピンク色に染まっている。夕日を浴びているのだろう。だが、リアルな夕日というよりも、夕日をイメージした抽象的なピンク色だ。窓は灰色で空虚だ。夕日が反射しているのだろう。教会塔の下部には青い影が忍び寄る。教会塔の前の広場にはポールが立っている。そのポールも青い影の中だ。

 空は真っ青だ。だが、その空には網目のような緑色の文様が張り巡らされている。それはなんだろう。なにか緊張を強いる。夕日を背にして空を眺めるとき、空はどのように見えるだろう。にわかには思い出せない。教会塔の突端には青い物体が浮かんでいる。樹木の(幹は見えないが)枝葉だろう。緑色の文様とは異なる。

 全体的に、抽象化された線、平面性そして極端な色彩の対比が特徴だ。本作はモンドリアンが変化し、ある一線を超えようとする緊張感が刻印された作品のように感じる。

 チラシ(↑)の作品は、「大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション」(1921)だ。黒の正方形を4倍すると赤の正方形になる。その黒の正方形は(チラシではわからないが)、4つの正方形からなる。それが最小単位だ。最小単位が全体の構成を反映する。本展のキャプションはそれを「遊び心」と書いている。本展には来ていないが、晩年の「ブロードウェイ・ブギウギ」などは、その「遊び心」の発露だったのかもしれない。
(2021.6.2.SOMPO美術館)

(※)本展のHP
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