Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「尺には尺を」&「終わりよければすべてよし」

2023年10月29日 | 演劇
 新国立劇場で開催中の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演は大成功のように見える。2009年の「ヘンリー六世」三部作から始まったシェイクスピアの史劇シリーズが完結して、それで終わりかと思ったら、意表を突く“問題作”への転進。その意外性と史劇シリーズのスタッフ・キャストの再結集に惹かれた。

 わたしは両作品とも以前戯曲を読んだことがある。そのときは奇妙な作品だと思った。なるほど喜劇とも悲劇ともつかない“問題作”だといわれるゆえんだと。だが舞台上演を観て、印象はだいぶ変わった。「尺には尺を」は創作力が高まった時期のシェイクスピアにふさわしい力作だと思った。一方、「終わりよければすべてよし」も同時期の作品だが、これはパワハラあり、セクハラあり、ストーカー行為ありのまるで現代劇だと思った。

 交互上演なのでことさらに両作品を対比するのだろうが、「尺には尺を」(以下「尺」)の登場人物たちは劇の進行とともに変化する。たとえば厳格・高潔だったはずの登場人物が自分の弱さ・醜さに気付き、うろたえる。一方、「終わりよければすべてよし」(以下「終わり」)の登場人物たちは変化しない。たとえば軽薄だった登場人物は、そのために罰せられても、まだ軽薄だ。

 結論的には、両作品とも“問題作”と力んで観る必要はないのではないかと思った。まっさらな状態で観て十分に楽しめる作品だ。戯曲を読んだときには強引に思えた両作品の幕切れだが、舞台で観ると感動した。案外、戯曲のリアリズムと舞台のリアリズムは違うのかもしれない。

 小川絵梨子芸術監督は、両作品はシェイクスピアには珍しい「その物語を牽引する中心的人物として女性が描かれている」作品だという(プログラムに掲載された言葉より)。目から鱗が落ちる思いがした。シェイクスピアには印象的な女性が多々登場するので、あまり意識しなかったが、たしかに女性が主人公の作品は他にないかもしれない。「終わり」のヘレナはひたすら自分の意志を貫徹する。「尺」のイザベラは変装した公爵に操られる面がある。描き方は多様だ。

 ヘレナを演じた中嶋朋子は名演だ。みずみずしい透明感がある。癖のある役柄なので、別の役者が演じればヘレナ像も変わるだろう。そのときは作品の印象も変わるかもしれない。イザベラを演じたソニンは、厳格・高潔だったはずのアンジェロを動揺させ、ひいてはドラマを操る公爵まで動揺させる魅力的な女性として説得力がある。アンジェロを演じた岡本健一は、持ち前の男の色気を発揮した。ヘレナが追いかけるバートラムを演じた浦井健治は、軽薄な役柄だが、憎めないものを感じさせた。「ヘンリー六世」以来の立川三貴、吉村直、木下浩之、那須佐代子、勝部演之、小長谷勝彦らのベテラン勢はさすがに味がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場「尺には尺を」

2023年10月27日 | 演劇
 新国立劇場の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演。先日の「終わりよければすべてよし」に引き続き「尺には尺を」を観た。「尺には尺を」は以前戯曲を読んだことがあるが、観劇前に再読した。戯曲もおもしろいが、実演だとおもしろさが増す。

 一番印象に残ったことは、大詰めの場面でマリアナが公爵代理のアンジェロをかばい、イザベラに「あなたも公爵様にアンジェロの助命を願って」と頼む場面の演出だ。イザベラにとってアンジェロは仇敵だ。イザベラは躊躇する。一瞬の沈黙。その劇的効果に息をのむ。緊張の頂点でイザベラはひざまずき、公爵にアンジェロの助命を願う。本作品のテーマは赦しなのかと思った。

 それ以外にも、たとえばクローディオが獄中にあって死を覚悟するときのモノローグは、まるでハムレットのような深みがあった。そのモノローグをふくめて、作品全体からうねるようなダイナミズムを感じた。本作品はこんなに傑作だったのかと。

 ダイナミズムは登場人物それぞれがドラマの進行とともに成長することから生まれるのだろう。主人公のイザベラは、神に仕えることを願う純粋無垢な娘だったが、前述したように大詰めでは、兄のクローディオを殺し(その時点ではそう思っている)、かつ自分の体を求めたアンジェロの助命を公爵に願うに至る。アンジェロは冷徹なまでに自他に厳しいはずだったのに、イザベラの魅力に負けて、クローディオの助命と引き換えにイザベラの体を求める。そんな自分の弱さと醜さに気付く。また公爵はすべての出来事を仕切る「テンペスト」のプロスペローの前身のような役柄だが、その公爵さえ幕切れではイザベラに「妻になれ」と命じるオチが付く。

 場所はウィーン。当節風紀が乱れている。公爵流の寛容な統治が良いのか。それとも公爵代理のアンジェロ流の厳格な統治が良いのか。またアンジェロがイザベラの兄・クローディオの助命と引き換えにイザベラの体を求めたとき、イザベラは兄のためにアンジェロに体を許すべきなのか。また兄は妹・イザベラの体を守るために死を受け入れるべきなのか。そんな二項対立の波間に揺れるドラマだ。

 残念だった点が二つある。第一に音響が煩わしかったことだ。古いジャズや効果音がひっきりなしに使われる。しかも困ったことに、登場人物の重要なモノローグになると、きまって何かの音響が入る。第二にならず者のバーナーダインの獄中の場でショッキング・ピンクや黄色のけばけばしい照明が使われたことだ。なお、余談だが、その獄中の場に登場した死刑執行人のアブホーソンが、新国立劇場のシェイクスピア・シリーズの出発点となった「ヘンリー六世」のリチャード三世を彷彿とさせたのがお愛嬌だ。
(2023.10.26.新国立劇場中劇場)

(配役)
イザベラ:ソニン
アンジェロ:岡本健一
クローディオ:浦井健治
マリアナ:中嶋朋子
侯爵:木下浩之
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場「終わりよければすべてよし」

2023年10月25日 | 演劇
 新国立劇場でシェイクスピアの「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演が始まった。2009年の「ヘンリー六世」三部作の一挙上演以来続いたシェイクスピアの史劇シリーズが終了し、次の展開として、問題作といわれる「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」が取り上げられたわけだ。

 問題作とは悲劇とも喜劇ともつかない(それらの範疇からはみ出す)作品をいう。19世紀末にイギリスのある評論家が「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」と「トロイラスとクレシダ」と、それらに加えて「ハムレット」の4作をそう分類した。わたしには「ハムレット」を他の3作と同列に論じることはピンとこないが、「ハムレット」以外の3作が同じように奇妙な作品であることは同感だ。

 なぜ奇妙かというと(それは本来は個々の作品に即して語らなければならないが、あえて一言でいえば)登場人物の考えることがてんでんばらばらな点だ。比喩的にいえば、各人のベクトルが別々な方向に向いている。だが、結論を先にいうようだが、それが現実ではないか。結果的に作品は、腹の底から笑う喜劇にもならなければ、カタストロフィをおぼえる悲劇にもならずに、奇妙に現代的だ。

 まず「終わりよければすべてよし」を観た。青年貴族のバートラムはハンサムだ。当家で養育されている孤児のヘレナは、ひそかにバートラムに思いを寄せる。ヘレナは医師であった亡父の処方箋により、フランス国王の難病を治す。フランス国王は褒美にヘレナとバートラムの結婚を許す。だが、身分の低いヘレナを嫌うバートラムは逃げ出す。ヘレナはバートラムを獲得できるか‥という芝居。

 フランス国王がバートラムにヘレナとの結婚を強要するのはパワハラといえる。バートラムにつきまとうヘレナはストーカーに近い。バートラムが逃亡先でダイアナという娘に言い寄るのはセクハラだ。そんな諸点が現代的だ。一方、ヘレナを他の女性たち(バートラムの母親とダイアナとダイアナの母親)が助ける。シスターフッドだ。本作品はフェミニズム演劇としても鑑賞できる。

 ヘレナを演じた中嶋朋子がみずみずしい名演だ。バートラムの浦井健治は軽薄な青年貴族を演じ、フランス国王の岡本健一は癖のある国王を演じて、それぞれ適役だ。ダイアナを演じたソニンは最終場面を引き締めた。バートラムの従者・ペーローレスを演じた亀田佳明は喜劇的な可笑しさは物足りなかったが(亀田佳明にかぎらずどの役者も喜劇的な演技は大げさで、わざとらしかった)、化けの皮がはがれたときの「人間だれでも、生きる場所、暮らす手だてはあるのだ」という台詞は会場をしんみりさせた。
(2023.10.24.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場「楽園」

2023年06月21日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門は、今シーズン、シリーズ企画「未来につなぐもの」の公演を続けている。中堅世代の劇作家が新作を書き、同世代の演出家が演出をする企画だ。あるきっかけで第一作「私の一ヵ月」を観た。せっかくだからと、第二作「夜明けの寄り鯨」も観た。そこまで観たのだからと、シリーズ最後となる第三作「楽園」も観た。回を追うごとにおもしろい作品になっていった印象だ。

 「楽園」は登場人物7人全員が女性だ。作者の山田佳奈も女性。そこにスタッフ・キャスト中唯一の男性として演出の眞鍋卓嗣が加わる。眞鍋卓嗣はインタビューに答えていう。「俳優が女性だけの作品を演出するのは初めてです。こうなると、山田さんが演出したほうが良いのでは、と投げかけたことがあるのですが、その時、「敢えて男性である眞鍋さんが良いと思う」とおっしゃっていて(笑)」と(「ジ・アトレ」4月号)。なかなか興味深い。たしかに、たとえば男性作家が書いた男性だけの作品があったとして(どこかにありそうだ)、それを男性が演出するよりも、女性が演出したほうがおもしろいかもしれない。

 登場人物全員が女性という設定は、新国立劇場が以前上演した「まほろば」を思い出させる。「まほろば」は、作:蓬莱竜太、演出:栗山民也だった。男性作家が女性だけの作品を書いて、それを男性が演出した。わたしは公演を観ることはできなかったが、後日、台本を読んだ。女性同士の本音のぶつかり合いだと思った。「楽園」は「まほろば」にくらべると、女性の抱える問題が語られはするけれども、それほど濃密ではなく、さらっとしている。

 ストーリーをざっというと、場所は日本のどこかの島だ(沖縄の離島のような気配だ)。そこで一年に一度、神事が行われる。神事は女性だけで行われる。男性は参加できない。島の女性たちが集まる。東京から取材に来た女性も加わる。そこに起きるてんやわんやが本作だ。

 前述したように、登場人物は7人だが、神事を取り仕切る「司さま」を除く6人は、2人ずつの3組にグルーピングできそうだ。東京から取材に来た「東京の人」と島の男と結婚した「若い人」は、他所から来た人という点で共通する。「村長の娘」と「区長の嫁」は、村長と区長が選挙でたたかう間柄なので、「村長の娘」は「区長の嫁」をいじめる。神事が行われる家の「おばさん」と出戻りの「娘」は親子だ。

 全体は室内オペラのような精妙なアンサンブルでできている。時折デュエットのような二人だけの会話の部分が挟まれる。最後は「司さま」の舞いになる。その舞いが美しい。舞いに合わせて、戦争で死んだ若者たちの霊が降りてくる。
(2023.6.20.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場「夜明けの寄り鯨」

2022年12月18日 | 演劇
 演劇「夜明けの寄り鯨」を観た。作は横山拓也、演出は大澤遊。ともに40代の方のようだ。新国立劇場の演劇部門が今シーズン立ち上げた【未来につなぐもの】というタイトル=コンセプトの企画の第二作に当たる。第一作は去る11月に上演した「私の一ヶ月」(作は須貝英、演出は稲葉賀恵)。わたしはそれを観たので、第二作の「夜明けの寄り鯨」も観てみようと思った。

 主人公は40代の女性の三桑真知子。三桑はある海辺の町を訪れる。その町は三桑がまだ大学生のころに(25年前だ)友人たちと訪れた町だ。楽しいはずの旅行だったが、ある出来事が起こり、友人たちのひとりのヤマモトヒロシが姿を消す。その後ヤマモトは行方不明になった。生きているのか、死んでいるのか。三桑はヤマモトが姿を消したのは自分が発した言葉のためではないかと思い悩んでいる。それが気になるので、40代になったいま、再びその町を訪れたのだ。

 三桑が発した言葉とはLGBTQにかんする言葉だ。三桑が大学生のころはLGBTQにたいする一般の理解は低かった。LGBTQという言葉すらなかった。そのような時代的制約のもとではあったが、三桑がヤマモトにある言葉を発し、その言葉が原因でヤマモトが姿を消したのかもしれない。三桑はヤマモトに会って、もしそうなら謝りたいと思うのだが。

 本作品の場合はLGBTQにかんする言葉が契機だが、もっと広げて考えれば、だれしもだれかを何かで傷付けた記憶があるのではないか。取り返しのつかないことをした苦い記憶は、だれでも胸の奥に秘めているのでは。そんな苦い記憶から目をそらさずに、向き合って生きる生き方の象徴として、本作品は観ることができる。

 一方、三桑が訪れる海辺の町は、かつては捕鯨でにぎわった町だ。だが、捕鯨反対運動が盛んになって以来、町は寂れた。本作品では捕鯨の是非にかんする議論が起きる。だが、残念ながら、その場面の言葉は類型的だ。もっと独自の言葉がほしい。

 三桑を演じたのは小島聖だ。抑制された繊細な演技だった。また演技とは別のことだが、まっすぐな立ち姿が美しかった。さすがは役者だ。

 ストーリーは三桑が町を再訪する「現在」と、三桑が大学生のときに訪れた「過去」とのあいだを行き来する。その転換がスムーズだ。大澤遊の演出が成功しているのだろう。また場所が海辺の町なので、舞台には海が、そして(ストーリーの展開にしたがって)雨が描写される。海も雨も水だ。水の描き方が美しい。池田ともゆきの美術、鷲崎淳一郎の照明、鈴木大介の映像の総合力だろう。
(2022.12.11.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場「私の一ヶ月」

2022年11月03日 | 演劇
 わたしは演劇も好きだが、コロナ禍もあって(それ以上に、出不精になっているからだが)しばらくご無沙汰していた。そんなわたしだが、昨晩は久しぶりに新国立劇場の「私の一ヶ月」に出かけた。演劇の空間が懐かしかった。

 須貝英の作、稲葉賀恵の演出。プログラムに載ったプロフィールにはお二人の年齢は書かれていないが、経歴を見ると、中堅の働き盛りの方たちのようだ。

 本作は凝った作り方をしている。3つの時空間が同時に進行するのだ。一つは2005年11月に「泉」がある地方都市の家で日記を書いている。もう一つは2005年9月にその地方都市で「拓馬」が両親の経営するコンビニを毎日訪れ、買い物をする。三つ目は2021年9月に都内の大学の閉架書庫で「明結」(あゆ)がアルバイトをする。当初はバラバラに見えるこれらの3つの時空間が、劇の進行とともに次第につながる。

 ネタバレ厳禁なので、ストーリーの展開には触れないが、最後に明らかになる全体像は、須貝英がいう「喪失と再構築」(プログラム所収のインタビューより)で胸を打つ。喪失だけにとどまらずに、再生へ向けて一歩を踏み出す作品だ。若い明結は一ヶ月で多くのことを経験し、大きく成長する。わたしはそんな明結が眩しかった。一方、一ヶ月で人生が崩壊する人もいる。その対比が本作だ。

 問題点もなくはない。2005年9月の「拓馬」の場面と2021年9月の「明結」の場面が同時に進行するので、その間の16年の隔たりが意識化されず、拓馬が明結の兄のように見えることだ。劇の後半で、そうではないことが明らかになるのだが、ヴィジュアル的にしっくりこない。併せて、拓馬が毎日コンビニに買い物に来るときの「両親」の拓馬への言葉が、拓馬を明結の兄のように見せている点も否めない。

 もうひとつの問題点は、「ある地方都市」の方言がわたしには難しかったことだ。もちろん方言は本作には必須の要件なので、仕方ないといえば仕方ないのだが。そしてまた、これは演出上の意図があるのだろうが、発声が日常会話に近く、演劇としては小声に属する(と思える)ことだ。そのためわたしは、台詞の中の重要な言葉を聞き取れていないのではないかという危惧につきまとわれた。

 役者の中では、明結を演じた藤野涼子の初々しさが印象的だった。また両親のうちの父を演じた久保酎吉もさすがに味があった。舞台装置は、最初は3つの時空間を明瞭に分けているが、最後はその境界線が崩れてひとつになる。加えて、最初は具象的な舞台装置だが、最後は抽象的になる。いつでもなく、どこでもないシンプルな物語に収斂する。
(2022.11.2.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シェイクスピア「リチャード二世」

2020年10月14日 | 演劇
 新国立劇場で「リチャード二世」が上演中だ。2009年の「ヘンリー六世」に始まるシェイクスピアの歴史劇シリーズの最終演目。上演順は「ヘンリー六世」三部作、「リチャード三世」(2012年)、「ヘンリー四世」二部作(2016年)、「ヘンリー五世」(2018年)と続いた。今回の「リチャード二世」は全8部の歴史劇の端緒となる出来事を描いている。その作品が最後に上演されたことで、2009年以来続いた歴史劇のすべてがスタート地点から照射されるような感覚になった。

 そしてもう一つ、最終演目がこの作品でよかったと思う点は、この作品が終幕に向かうにつれてどんどん内省的になるからだ。リチャード二世は愚かな王だったかもしれないが(プログラムに掲載された神奈川大学名誉教授の石井実樹子氏のエッセイ「愚王リチャード二世はエリザベス一世?――なまなましい政治劇」によると、「リチャード二世の失策のなかで、何よりも国民の怒りをかったのは「お友だち内閣」である。」とのこと)、そのリチャード二世が退位を余儀なくされるにおよんで、「王」ではない自分の無力さ、人間としての無内容さ、そして人々の非情さに目覚める。その過程が歴史劇全8部の白眉のように感じられた。

 上記の石井実樹子氏のエッセイで論じられているように、本作は「なまなましい政治劇」だ。寵臣を厚遇して高官に引き上げる「お友だち内閣」。フェイクニュース。側近による忖度。内政の混乱から国民の目を背けるための戦争の開始(本作では十字軍の遠征)。いずれもいまの日本の(あるいは世界の)寓意のようだ。それがいまから400年余りも前に書かれたことをどう考えたらいいのだろう。

 そんなリアルな問題と、権力者の没落――没落によってはじめて人間性に目覚める――その敗北のドラマの内面性、それらの二重の要素が本作を特別なものにする。

 リチャード二世を演じたのは岡本健一、リチャード二世に退位を迫る(面と向かって退位を迫るのではなく、自分の財産と地位の回復を求めるだけなのだが、それがリチャード二世の退位につながることを十分に心得ている)ボリングブルック役に浦井健治、リチャード二世の王妃役に中嶋朋子。これらの人々は「ヘンリー六世」以来の顔ぶれだ。その他、脇を固める役者たちも常連の方々。最終シーンですべての役者が舞台に現れたとき、それは「リチャード二世」の閉幕というよりも、11年間にわたるシェイクスピアの歴史劇シリーズの閉幕のように見えた。

 当シリーズをけん引したのは演出の鵜山仁だ。本作でも個々の役者の持ち味をよく引き出し、全体の流れを生んでいた。
(2020.10.13.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スカイライト

2018年12月18日 | 演劇
 イギリスの劇作家デイヴィッド・ヘア(1947‐)の「スカイライト」(1995年初演)を観た。場所はロンドンの場末のアパート。キラの住む部屋にトムが訪れる。キラとトムは3年前まで不倫関係にあったが、それをトムの妻に知られ、キラは姿を消した。その後、トムの妻は病気で亡くなった。キラを忘れられないトムはキラの部屋を訪れた――。

 本作は初演当時ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作演劇賞を受賞。2015年にはトニー賞のベスト・リバイバル賞を受賞した。英米で高く評価されている作品。日本では1997年にパルコ劇場で上演された。

 とにかく台詞の量が膨大だ。第1幕80分、第2幕65分の間、山のような台詞が語られる。それは音楽のようでもある。ある一つの音が鳴ると、あっという間に無数の音が後に続き、巨大な波のように高まる。それが静まると、別の音が生まれて、それがまた巨大な波のように高まる。それが何度も繰り返される。

 それらの台詞を聴くうちに、キラとトムの間にあったことが「ジクソーパズルを一片ずつ埋めていく」ように(プログラムに掲載された原田規梭子氏のエッセイより引用)明らかになっていく。キラとトム(=女と男)の容赦ない戦い。そこには一種の普遍性がある。

 だが、一方では、その戦いの背景に当時のロンドンの社会状況や地域性がひそんでいる面もある。その反映が色濃い分だけ、今の日本で本作を観るわたしには、その面に十分には触れ得ないもどかしさが残った。

 思えば、先月上演されたハロルド・ピンター(1930‐2008)の「誰もいない国」(1975年初演)にも、ロンドンの社会を反映した面があった。どちらも鋭い社会批評であり、当時のロンドンの状況と正面から向き合った作品だが、では、日本はどうなのか。今の日本と真っ向から切り結んだ作品を観たいと思った。

 キラを演じた蒼井優が好演。滑舌の良さとか、体のキレとか、繊細さとか、そのどれをとってもすばらしく、またそれ以上にキラという(人生を全力で生きているような)人物になりきっていた。わたしにとっては永遠のキラだ。一方、トムを演じた浅野雅博は、わたしには善人すぎるように思われた。もう一人、トムの息子のエドワードが出てくるが、それを演じた葉山奨之はこれからの人。

 膨大な台本を読みこんだ小川絵梨子の演出は見事だと思った。
(2018.12.17.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無名塾の公演記録「プア―・マーダラー」

2018年11月21日 | 演劇
 無名塾の公演は、今まで気にはなっていたが、観たことはなかった。仲代達矢も高齢になってきたので、一度は観てみたいと思っていたが、そんな折、友人から過去の公演の記録映像の上映会「映像で観る 無名塾 劇世界2018」の誘いを受けた。よい機会なので行ってきた。

 演目は「プアー・マーダラー(哀しき殺人者)」。作者はチェコの作家パヴェル・コホウトPavel Kohout(1928‐)。コホウトは「存在の耐えられない軽さ」の作者ミラン・クンデラ(1929‐)と同世代で、日本でも小説の邦訳が数点出ているが、本作は出ていないようだ。

 まずプロットを紹介すると、所はロシアの精神病院。患者アントン・ケルジェンツェフ(仲代達矢が演じている)は、精神科医のドルジェムビツキー教授(同、松野健一)の治療を受けている。教授は患者の過去の体験をドラマとして演じさせることで、病気を治療しようとする。

 ケルジェンツェフは元俳優。ハムレットを演じているとき、ポローニアスを刺し殺す場面で、ポローニアスを演じる役者(その役者は実生活ではケルジェンツェフの恋人を奪った男)(同、益岡徹)を本当に殺したと思っている。そして、その場面になる――。

 精神病院という現実とそこで行われるドラマ(虚構)との二重性、患者の意識の中での現実と虚構の混乱、劇中で狂気を装うハムレットの現実と虚構の交錯など、本作では多層的な虚実が仕掛けられている。しかも舞台を観ているわたしたちは、舞台で起きている出来事が虚構であることを知っている。

 これはじつに現代的な作品だと思った。無名塾の公演は1986年に行なわれたものだが、今観ても少しも古くない。ちょうどCDで過去の名演奏を聴くときのように、その公演が今まさに演じられているように生き生きと体験できる。

 そして仲代達矢のなんと華のある演技だろう。稀代の名優というにふさわしい。2時間を超える上演時間のほとんど出ずっぱり。その名演技にため息が出た。

 インターネットで調べてみると、本作の初演は1976年、ブロードウェイで。たぶん英語での上演だったろう。無名塾の公演は倉橋健と甲斐萬里恵の翻訳で。原作はロシアの作家レオ二ド・アンドレーエフLeonid Andreyev(1871‐1919)の短編小説らしい。できれば読んでみたいが、邦訳が見つからない。
(2018.11.20.仲代劇堂)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰もいない国

2018年11月15日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門は、本年9月から小川絵梨子体制がスタートしたが、その第2弾はハロルド・ピンター(1930‐2008)の「誰もいない国」(1974)。不条理劇といわれる作品だが、そういえば、第1弾のアルベール・カミュ(1913‐1960)の「誤解」(1944)もそうだった。不条理劇が2作続いた。

 でも、同じ不条理劇といっても、その2作はずいぶん違う。不条理劇という概念の広さのせいかもしれないが、わたしのような不勉強者には、概念そのものの輪郭がぼやけて、よくわからなくなる。

 では、その2作のどこが違うのかというと、端的にいって、「誤解」にはカタストロフィがあったが、「誰もいない国」にはカタストロフィがないことが大きく違う。どちらがよいとか、悪いとか、そういう問題ではなくて、カタストロフィがあるか、ないかで、作品の性格が異なってくる。

 「誤解」の場合には、ある悲劇が起きた。登場人物たちの生活はそれですっかり変わり、もう逆戻りできないだろう。一方、「誰もいない国」では、そのような事件は起きない。登場人物たちの生活は大して変わらずに、ゆるゆる続くだろう。どちらがわたしたちの実生活に近いかは一概にはいえない。

 不条理劇という概念でいうと、仮にサミュエル・ベケット(1906‐1989)の「ゴドーを待ちながら」(1952)を座標軸に据えるなら、「誤解」よりも「誰もいない国」のほうが座標軸に近いといえる。

 「誰もいない国」のあらすじは、時は現代(初演当時)、所はロンドン。初老の作家ハーストが、散歩中に出会った同年輩の男スプーナーを連れて屋敷に戻る。ホームバーからそれぞれ好きな酒を取り出して飲む。スプーナーは金持ちのハーストに取り入ろうとしている。そのうちハーストの同居人、中年男のブリグズと青年のフォスターが現れる。4人の会話が続く。その会話はどれが事実で、どれが嘘か、見分けがつかない。

 そう書くと、いかにも不条理劇だが、舞台を観ると、今の日本の高齢化社会が重なって見えてきて、認知症が始まった独居老人と、それに群がる男たちの話のように思える。それはピンターの本意ではないだろう、と思いながら‥。

 ハースト役の柄本明はさすがの存在感。フォスター役の平埜生成はゲイ(正確にはバイセクシュアル)の妖しい魅力を漂わせた。
(2018.10.14.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カミュ「誤解」

2018年10月18日 | 演劇
 アルベール・カミュの演劇「誤解」を観た。戯曲は読んだことがあるが、舞台を観たのは初めて。戯曲に関しては地味な印象が残っていたが(同じ文庫本に入っていた「カリギュラ」を読んで衝撃を受けた後だったからかもしれない)、舞台は驚くほどおもしろかった。

 まずストーリーを紹介すると、場所はヨーロッパのどこかの田舎町。母と娘が経営する小さなホテルに、ある男が泊まりに来る。その男は20年前に失踪した息子だった。息子は経済的に成功し、母と妹を幸せにするために戻ってきたのだが、名前を明かさない。母と妹もその男が息子(兄)だとはわからずに応接する。

 母と娘には秘密があった。宿泊客を殺害して、金品を盗むこと。母はそのような生活に疲れているが、娘は田舎町から脱出し、海と太陽の地に行くことを夢見て、その男を殺そうとする――。

 今回、舞台がおもしろかったのは、名前を明かさない男と、見知らぬ男として(=その晩殺害するつもりの男として)応接する母と娘との、思惑のすれ違いが、綿密に描かれていたからだ。表情の変化や、気まずい、ちぐはぐな空気感が、丁寧に描出され、ドラマにふくらみがあった。

 もう一つ特筆すべき点は、娘のキャラクターの悲劇性が、崇高なまでに表現されていたことだ。もちろん、感心できるキャラクターではなく、まして共感などとんでもないが、その「石」のような心が、ギリシャ悲劇のような悲劇性を帯びる場合があり得ることが表現された。

 娘(マルタという)を演じたのは小島聖(こじま・ひじり)。わたしは何度かその舞台を観たことがあるが、今回ほど感銘を受けたことはない。

 演出は稲葉賀恵(いなば・かえ)。以前日生劇場のピロティで上演された「マリアナ・ピネーダ」(ガルシア・ロルカ作)を観たことがあり、今でも鮮やかな記憶が残っているが、そのときの演出家だったようだ。今回その実力を認識した。

 本作は1944年6月にナチス・ドイツ占領下のパリで初演された。舞台を観ていると、当時の暗い閉塞感が伝わってくる。同時期にサルトルの「出口なし」やアヌイの「アンチゴーヌ」も初演された。占領下といえども活発に演劇活動が続いていたわけだ(むしろ占領下なので演劇活動が活発化した、といえるかもしれない)。ナチスも文化統制までは手が回らなかったようだ。
(2018.10.17.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消えていくなら朝

2018年07月25日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門の新作「消えていくなら朝」。作者は蓬莱竜太、演出は宮田慶子。本作は宮田慶子の芸術監督としての8年間を締めくくる作品。8年前の芸術監督交代に当たってはゴタゴタがあったようだが、宮田体制がスタートすると、安定した8年間だったように見える。わたしもほとんどの上演を観た。バランスのとれた作品構成だった。

 本作はある家族の話。作家として成功している次男は、何年ぶりかで実家に帰る。そして家族に切り出す、「……今度の新作は、この家族をありのままに描いてみようと思うんだ」。そのとき波紋が起きる。各人が抱えているわだかまりが、堰を切ったように吹き出し、本音をぶつけ合う。

 と、そう説明すると、ホームドラマのように思われるかもしれないが(実はわたしも観る前はそれを危惧していた)、実際はそうではなかった。ある家族の話を通して、人間の普遍的なものに触れていた。わたしは壮麗な物語を感じた。先に結論めいたことをいうようだが、これは傑作かもしれないと思った。

 本作は作者の家族をモデルにしている。なので、作者自身も登場する。作者が次男で、兄と妹がいて、父と母がいる。5人家族。加えて作者が連れてきた若い女性(恋人なのかどうかは分からない)が登場する。登場人物は計6名。軋轢は家族5人の間で起きる。若い女性は一歩離れたところから関わる。

 ホームドラマにならなかったのは、作者が自分自身を痛めつけているから。けっして容赦しない。だが、同時に、家族の一人ひとりに対しても容赦しない。それぞれの内面に潜り込んで、その言い分を描き切る。たとえそれが客観的に見て少しへんでも。

 5人それぞれの本音がぶつかり合えば、家族は崩壊せざるを得ないだろう。そして実際に崩壊する。断片となった本音が瓦礫のように転がる。荒涼とした心象風景。けっして予定調和的なハッピーエンドにはならない。そこがよいと思った。

 作家とは因果な商売だ。自分自身に対して手加減したら、とたんに読者(観客)に見破られる。自分をかばってはいけない。わたしがそれを感じたのは、唐突なようだが、森鴎外の「舞姫」だった。露悪的な素質がなければ、作家にはなれないと思った。本作には作家の素質が感じられる。

 次男を演じた鈴木浩介をはじめ、見事に決まったキャスティングで、水際立った演技が繰り広げられた。
(2018.7.23.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢の裂け目

2018年06月08日 | 演劇
 井上ひさしの東京裁判三部作の第1作「夢の裂け目」は、2001年に初演された。第2作「夢の泪(なみだ)」は2003年、第3作「夢の痂(かさぶた)」は2006年。そして2010年には三部作の連続上演が挙行された。今回は「夢の裂け目」の3度目の上演。

 わたしは初演のときは観ることができなかったが、2010年の三部作連続上演を観た。密度の濃さ、問いの重さ、逃げ場のなさ、そういった息詰まるような内容に圧倒された。そして第3作「夢の痂」で訪れる思いがけないカタストロフィに浄化される想いがした。それが忘れられない。

 今回は連続上演のときと比べると、9人の登場人物のうち、長老格の「清風」を演じる木場勝己を除いて、役者が一新した。本作を今後も上演し続けるための措置とのこと。とくに主人公の紙芝居屋「天声」を演じる役者が、角野卓造から段田安則に変わったことは大きい。「天声」という役が、シャープな感覚で捉え直され、現代に引き寄せられたように感じる。

 端的にいって、今回わたしは、本作が少しも古びていず、むしろリアルさが増しているように感じたことが驚きだった。今、多少控えめに「驚き」といったが、実感からいうと、「衝撃」とか「ショック」とかいう感じだった。演出の栗山民也は変わっていないので、あとは役者が変わったことと、社会が変わったことがその要因だろう。

 2010年と比べると、わずか8年しかたっていないのに、社会は随分変わったと思う。戦後の価値観が、今やガラガラと崩れ去っているように見える。今起きていることは何なのか。戦後とは何だったのか。それを「戦後」の出発点である東京裁判から考え直しているのが本作だと、今回はそう思った。

 東京裁判では東条英機などのA級戦犯が処罰され、昭和天皇は不起訴になった。それは同時に、庶民(本作では「普通人」=我々)も責任を問われない、ということを意味すると、庶民は考えた。庶民は戦後の歩みを始めた。明るく逞しく、したたかに。庶民、万歳!と、本作はいっているように見える。

 だが、本当にそうだろうか。幕切れで登場人物たち(=庶民)が輪になって、しかしその輪がだんだん小さくなって、周囲が暗くなっていく、その演出にわたしは「危機が迫っている」というメッセージを感じた。

 その危機とは、戦前回帰の危機ではないだろうか。何かのツケが回ってきた、と。
(2018.6.7.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘンリー五世

2018年05月28日 | 演劇
 新国立劇場で「ヘンリー五世」が上演されている。2009年の「ヘンリー六世」3部作から始まり、2012年の「リチャード三世」、2016年の「ヘンリー四世」2部作と続いたシェイクスピアの歴史劇シリーズは、今回の「ヘンリー五世」でひとまず完結だろうか。イングランドの大きな歴史物語が、「ヘンリー五世」の上演で(ジグソーパズルの欠けていた一片が埋まるような形で)完成した。

 シェイクスピアの歴史劇は面白い、というのがわたしの第一印象だが、では、何がどう面白いのかと自問すると、その答えに窮する。何か一つに絞りきれないのだ。シェイクスピアの歴史観とか、権力闘争の昔と今との類似性とか、その権力闘争に振り回される庶民の苦難としたたかさかとか。

 全体的には、それらの要素が盛られた器のようなもの、という感じがする。どこを押しても、ゴムボールのような復元力があり、元の形に戻る。バランスが崩れそうで崩れない。そんな柔構造を感じる。それは鵜山仁の演出によるものか、それともシェイクスピアの歴史劇がそもそもそうなのか、そこは判断できないが。

 ともかく、面白かった。生きいきとした面白さに溢れていた。新国立劇場のこれらの上演がなかったら、わたしはシェイクスピアの歴史劇の面白さを知らないままだったろう。

 浦井健治、岡本健一、中嶋朋子といった主要キャストが一貫していたことは、シリーズ上演のその全体に統一感を生むうえで大きかった。とくに王子・王様役の浦井健治の凛々しさと、ヒール役の岡本健一の男の色気とが、全体のけん引力となった。その二人に中嶋朋子を加えた3人を、ベテラン役者たちの安定した演技が支えた。

 先ほど、ジグソーパズル云々といったが、それについて補足すると、歴史的にはヘンリー四世→ヘンリー五世→ヘンリー六世→リチャード三世と続くわけだが、上演順はそれとは異なっていたので、途中の空白部分(ヘンリー五世の部分)が埋まったことを意味する。

 結局上演順はシェイクスピアが書いた順だったわけだが、そのためもあってか、シェイクスピアが最後に書いた「ヘンリー五世」で、フランスに攻め込む大義名分とか、イングランド、ウェールズ、スコットランド間の対立・融和とか、戦場の兵士たちの厭世観とかのディテールが書き込まれたことが興味深かった。

 それらのディテールには落穂拾い的な面白さがあった。
(2018.5.23.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョージ・オーウェル「1984」

2018年04月19日 | 演劇
 高校2年か3年のときに、英語の副読本でジョージ・オーウェル(1903‐1950)の「アニマル・ファーム」を読んだ。最後までは行かなかったが、半分くらいは読んだ。おもしろくない本だと思った。だれかが「あれは革命後のソ連社会を風刺しているんだってね」といったが、そういわれても、ピンとこなかった。

 そのオーウェルのディストピア(反ユートピア)小説「1984年」が演劇化され、まずロンドンで上演された後、ニューヨークでも上演されたとき、観客の中に失神する人が出て騒動になったという記事を(たしか昨年)見かけた。その演劇版「1984」が今、新国立劇場で上演されている。

 原作は1948年の執筆(出版は翌年)。近未来の1984年の全体主義国家を描いた長編小説で、巻末に数ページの「附録」が付いている。「附録」では全体主義国家が言葉の管理をいかに徹底的に行ったか、それが一種学術的な文体で書かれている。それは今の我が国を想起させるようで恐ろしい。

 演劇は「2050年以降のいつか」(2050年とは言葉の管理が完了する予定だった年)に人々が原作の主人公ウィンストンが書き残した日記(=オーウェルの原作)を読む場面から始まる。1984年にはそんなことがあったのか、と。人々から離れたところに、ウィンストン本人がいる。人々の今=“2050年以降”とウィンストンの今=“1984年”とが同時に存在する。そしていつしか1984年に移行する。

 1984年に起きたことは何だったか。オーウェルが1948年に(今から70年前に)想像したディストピアは何だったか。それを2018年に生きるわたしたちはどう捉えるか、それが本作。

 わたしは、オーウェルの想像が杞憂だったのか、それとも現実はオーウェルの想像を(部分的にせよ)超えてしまったのか、それが一番気になる点だったが、今回の上演では、残念ながら、その点に関する明確な視点は見出せなかった。

 それは演出の小川絵梨子のためなのか、それとも国立の劇場でやる場合の限界なのか。もし後者なら、それこそ「1984」のメタシアターのようだ。

 登場人物たちの造形は、抽象的で、ソフトフォーカスというか、確かな実体に突き当たらないもどかしさがあった。その中にあって、ウィンストンを演じた井上芳雄が、おそらく持ち前の素質だろうが、みずみずしい感性を感じさせた。
(2018.4.17.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする