Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ピーター・クラッツオゥのマリンバ作品

2011年09月30日 | 音楽
 南アフリカの作曲家ピーター・クラッツオゥPeter Klatzowのマリンバ作品を集めた演奏会。これは欧米各地で活動を続けるマリンバ奏者、小森邦彦のリサイタル。

 クラッツオゥは1945年生まれ。ヨハネスブルグで学んだ後、ロンドンの王立音楽院に留学。卒業後はパリでナディア・ブーランジェにも師事。1966年に南アフリカに帰国。以後、ケープタウン大学で作曲を教えながら、国際的に活躍している――という経歴の人だ。

 今回の演奏会は日経のコラムで知った。実は同日同時刻に、場所も同じ上野でもう一つ聴きたい演奏会があったので困った。そちらのほうは日本人の作曲家だったので、また聴く機会があるだろうと思って見送った。

 南アフリカ、しかもマリンバというと、2008年に来日した南アフリカの「魔笛」公演を思い出す。モーツァルトの「魔笛」を黒人社会に移して、楽しく、感動的な物語にしてくれた。あのときのオーケストラ(?)が各種のマリンバだった。

 もっともあのときのマリンバはもっと素朴な楽器だった。今回のマリンバは現代の楽器。プログラムは5曲で構成され、マリンバ・ソロから始まって、最後はマリンバとパイプオルガンと2セットの混声合唱のための曲に至る。曲を追うにしたがって、だんだんと編成が大きくなる構成だ。

 2曲目の「ヴァイオリンとマリンバのためのソナタ」が気に入った。3楽章のヴァイオリン・ソナタだが、マリンバだとピアノとはちがった透明感が出る。曲のイメージはラヴェルのような洗練された感じ、といったらよいだろうか。本作は小森邦彦とネタ・ハダーリの委嘱によって作曲され、2002年の東京オペラシティ“B→C小森邦彦マリンバリサイタル”で初演されたそうだ。今回のヴァイオリンはアンサンブル・ノマドなどで活動している花田和加子。すばらしかった。

 4曲目の「6声合唱とマリンバのためのReturn of the moon」はイギリスのキングズシンガーズとエヴェリン・グレーニーの委嘱。カウンターテナー2、テノール2、バリトン1、バス1の各声部があるので、前述のソナタよりも複雑なテクスチュアが楽しめた。合唱はセンセイションズというグループ。しっかりしていたが、カウンターテナーが苦しかった。

 ロビーでは南アフリカのお茶、ルイボスティーが供された。紅茶に似ているが、ノンカフェインだそうだ。穏やかで丸みのある味だった。
(2011.9.29.石橋メモリアルホール)
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ミケランジェロの暗号

2011年09月29日 | 映画
 普段は、観たい映画はいくつもあるのに、大体は見逃してしまう。「ミケランジェロの暗号」もその可能性が大きかった。たまたまvodkaさんのブログ(左欄のブックマークに登録)で推薦されていたので、頑張って観に行った。

 本作は2010年のオーストリア映画。1938年のウィーンが舞台だ。ユダヤ人の画商とその息子、息子の幼なじみでナチスになった親友が繰り広げる、虚々実々の、生死をかけた駆け引きの物語だ。

 といっても、これはシリアスな映画ではない。むしろ軽くて、ユーモアのセンスがある映画だ。現実にこんなこと――つまりユダヤ人がナチス相手に駆け引きをする――が可能だったかどうかはわからない。けれどもプログラムに掲載されたプロダクション・ノートの一節を読んで納得した。

 それによると、本作のヴォルフガング・ムルンベルガー監督は、脚本を書いたポール・ヘンゲと初めて会ったとき、「『シンドラーのリスト』はユダヤ人の好きな映画だとずっと思っていたけれど、そんな見方は間違いだったと気づかされたよ」と語っている。なるほど、これにはわたしも目から鱗だった。

 ヘンゲは1930年ウィーン生まれのユダヤ人。あのホロコーストに身を置いた人はそうなのかと、わたしも気づかされた。それがわかると、本作の見え方が変わってきた。戦後半世紀余りたった今、ホロコーストの当事者だった人は、ナチスと闘う、勇気あるユダヤ人の物語を欲しているのだ。

 ミケランジェロのデッサンを秘匿しているユダヤ人の画商。画商その人は強制収容所で絶命する。デッサンを追うナチスと画商の息子との攻防が始まる。息子もデッサンの隠し場所は知らない。手掛かりは画商が残した謎の遺言だ。

 もっとも、その謎はすぐに察しがついた。だれよりも鈍いわたしでさえ察しがついたのだから、おそらくみんな察しがついたろう。デッサンはあそこにある、と思いながら映画を観ていたはずだ。そしてそのとおりのところにあった。実はこれには拍子抜けした。たとえば、そこにはなかったとか、デッサンそのものがフィクションだったとか、なにかそのような落ちがほしかった、というのが観客の一人たるわたしの勝手な思いだ。

 息子(ユダヤ人)とその親友(ナチス)の双方から想われる女性レナの造形がよい。本作に人間的な温かさをもたらしたのはレナの存在だ。
(2011.9.28.TOHOシネマズシャンテ)
コメント (2)
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横須賀美術館

2011年09月26日 | 身辺雑記
 2週連続の3連休。1週目は暑くてのびていました。2週目は涼しかったので、丹沢を歩いてきました。そして最終日の昨日は、観音崎灯台を見る必要があったので出かけました。

 京浜急行の浦賀駅からバスで15分くらい。バスを降りると磯の香りがしました。小高い丘の上に灯台が立っていました。白い八角形の灯台。絵になる風景です。上に登ってみました。眼下には大小さまざまな船が行き来しています。対岸は房総半島。この辺りは浦賀水道といって、東京湾では一番狭いところだそうです。

 見学の後、昼食をとるために、近くのホテルに向かいました。途中、横須賀美術館があったので寄ってみました。明るくてきれいな美術館です。2007年オープン。まだ新しい美術館です。

 特別展として「トリック&ユーモア展」をやっていました。チラシ(↑)にも使われているM.C.エッシャーの「滝」は、どこかで見たことがあります。水路の先から流れ落ちる水。その水は水路を伝って、また上から流れ落ちます。終わりのない流れ。

 会場には子どもが沢山来ていました。なるほど、子どもが楽しめる展覧会です。なにかを発見して、一生懸命親に説明している子どもの姿がありました。美術館側もクイズシートを用意しているそうです(これは後で知りました)。

 常設展では山中雪人(やまなか・ゆきと)という日本画家の「古」が気に入りました。どこかの石窟の壁画のような感触です。向かって左には火を起こしている女性が、右には武器を削っている(ように見える)男性が、向かい合って座っています。原始時代の夫婦でしょうか。赤茶けたレンガ色の色調が暖かくて心地よい作品です。

 「谷内六郎館」という別館がありました。長年にわたって週刊新潮の表紙を描いた谷内六郎は、横須賀にアトリエを構えていたそうです。その原画が50点余り展示されていました。原画以外では、「子どものまつり」という大きな水彩画(96.0×185.0)が展示されていました。秋の野原の空気感がただよう好作品です。

 美術館ですっかり時間をくったので、お腹が空きました。ホテルに向ったら休館でした。従業員が外に出て説明していました。なんでも前日に火災が発生したそうです。美術館のレストランに戻ればよかったのですが、ちょうどバスが来たので、乗ってしまいました。お昼はバスを降りたところのパン屋さんで済ませました。
(2011.9.25.横須賀美術館)
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朱雀家の滅亡

2011年09月21日 | 演劇
 三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」。自決の3年前、1967年(昭和42年)の作品だ。この頃になると、三島の天皇にたいする想いが研ぎ澄まされてきたことがわかる。それはわたしのような凡人には思いも及ばないものだ。

 三島の想いは、端的にいうと、虚構としての天皇、そしてそれに殉じる生き方だ。三島自身、天皇にたいする想いが虚構であることを明確に意識していた、それでもなお、その虚構に殉じることを潔く思っていた――本作はそういう作品だ。

 三島は、自己の想いに批判があることを十分にわかっていた。なので、登場人物たちによる、朱雀家当主、朱雀経隆(すざく・つねたか)への批判の舌鋒は容赦ない。経隆はその批判に身を晒して、抵抗するすべもない。けれども生き方は変わらないのだ。

 三島はこの頃から、自衛隊への決起の呼びかけ、その失敗、自決と続く道のりを思い描いていたのだろうか。まだ具体的ではなかったにしても、なにかぼんやりした終末のイメージがあったのではないかと感じられる。

 そして3年後、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから決起を呼びかけたとき、隊員たちに嘲笑され、野次を浴びた。おそらくそれも三島の演出に入っていたのだ。それがなければ、悲劇の自決は成立しない。三島の演出どおりにことは運んだ。

 今回、舞台を観ているわたしの耳には、遠い潮騒のように、「ナンセンス!」という怒号がきこえていた。あの頃の世相が蘇ってきたのだ。当時のわたしなら、本作を拒んだことだろう。けれども今は、自分自身もその一員である日本人の問題として、本作を捉えていることに気付いた。

 朱雀経隆を演じたのは國村隼(くにむら・じゅん)。圧倒的な存在感だった。あとの4人の役者も素晴らしかったが、他の役者が演じたら、また別の味が出たかもしれない。けれども朱雀経隆だけは國村隼でなければならないと感じた。

 演出は宮田慶子。昨シーズンの「ヘッダ・ガーブレル」や「わが町」同様、丁寧な作りだ。大きな構えが浮き上がってくる点も好ましい。昨日は初日だったが、アンサンブルが練れてくるにつれて、今後さらに滑らかになるだろう。

 美術は池田ともゆき。前方のA列(3列)~B列(3列)の座席を外して、その真ん中に舞台をせり出し、巨大なテーブルを置いた装置。このテーブルに存在感があった。客席はそれを囲んで「コ」の字型に配置されていた。
(2011.9.20.新国立劇場小劇場)
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ゴーゴリのハナ

2011年09月16日 | 音楽
 オペラシアターこんにゃく座の「ゴーゴリのハナ」。原作はゴーゴリ、台本・演出は加藤直、作曲は萩京子。こんにゃく座は今年創立40周年で、これはその記念公演の第3弾。

 2009年に観た「変身」(原作はカフカ、台本・演出は山元清多、作曲は林光)もそうだったけれども、日本語がはっきり聴き取れることが驚きだ。日本語の抑揚とリズムを音楽に乗せるとこうなるのか、という発見があった思いだ。

 話が大きくなるようだが、リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」を思い出した。劇場支配人ラ・ロッシュの言葉「アリアを聴きたいのに、レチタティーヴォばかりだ!」は、シュトラウス一流の自虐ネタだが、つまりシュトラウスがやったことを日本語でやるとこうなる、というのが本作だと思った。

 先走ったことを言うと、「カプリッチョ」の場合は最後に「月光の音楽」が来るように、本作では合唱曲が来るが、その部分はちょっと興ざめだった。歌詞も作風もそれまでの音楽とは関連がなかったからだ。

 さて、話を元に戻すと、本作の独唱、重唱、合唱はシュトラウスばりのレチタティーヴォ(ただし日本語の)だが、オーケストラ(ヴァイオリン、サクソフォン、パーカッション、ピアノの4人編成)にはメロディーの断片がちりばめられている。なので、本作の情感は主にオーケストラから漂ってくる。

 全体は休憩をはさんで2部に分かれるが、前半の最後にはロシア民謡風の音楽が出てくる。これはゴーゴリにたいするオマージュか。同じ音楽が後半の冒頭にも出てきて、前半と後半をつなぐ。後半の途中で、逃亡するハナの追跡劇がある。オーケストラのみで演奏されるその音楽は、ショスタコーヴィチのパロディのようだ。

 直後に出てくる女声合唱「ヒミツの牧場」は、本作の肝の部分だ。歌詞はこうなっている。「都市(まち)の牧場で、ハナのない人を、大量に飼育している、という話は秘密である。」(これはプログラムに譜面付きで掲載されている)。ゴーゴリの原作ではコワリョーフの鼻がなくなるが、本作ではコワリョーフを取り巻く街の人々も鼻がない。では、鼻がないとはどういうこと?というのが本作だ。

 歌手はコワリョーフ(本作では八等官ハナ)の大石哲史ほか、皆さん声楽的にも演技でも達者なものだった。オーケストラではヴァイオリンがクァルテット・エクセルシオの山田百子だった。
(2011.9.15.俳優座劇場)
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カンブルラン&読響

2011年09月13日 | 音楽
 カンブルラン指揮の読響でベルリオーズの劇的交響曲「ロミオとジュリエット」を聴いた。この演奏会のことはいつかきっと懐かしく思い出すだろう――そんな気のする演奏会だった。

 この曲を初めて聴いたのはいつだったろう。もう何十年も前だ。在京のどこかのオーケストラで聴いた。わけがわからなくて面食らったけれども、ロミオとジュリエットの物語に触れたという確かな手ごたえがあって、不思議だった。

 で、今回はどうだったのか。

 カンブルランはこの異形の大作を、これ以上ないほど冷徹に描きだした。ロマン主義的な熱狂とは無縁の演奏だった。多少大げさな言い方になるが、これによって初めて、本作の全貌が明らかになったと感じられた。そこに浮かび上がったものは、カンブルランの言葉を借りるなら、本作の「現代的」な側面だ(山野雄大さんのプログラムノートより)。

 20世紀後半のポスト・モダンを経験したわたしたちは、「多様式」という便利な言葉を手に入れた。なので、本作を多様式、あるいはそれに類する言葉で捉えるのが、今では一般的だ。これはわかりやすい捉え方だが、そこにヴィヴィッドな現代性を感じたのは、今回が初めてだ。カンブルランの、それこそ「現代的」な音楽性のたまものだ。

 第1部は文字どおり序奏。第2部から第4部までは交響曲の第1楽章、第2楽章(緩徐楽章)、第3楽章(スケルツォ)に相当する。緩徐楽章の「愛の情景」がロマン主義的に甘くならなかったのは、上述のとおりだ。次の第5部から第7部にかけては、拡大された終楽章、あるいはオペラへの移行と感じられた。

 見事だったのは、オーケストラのみで演奏される第6部だ。ロミオの祈り(服毒)、ジュリエットの目覚め、喜び合う二人、ロミオの死、ジュリエットの絶望と死、と続く一連のドラマが、硬質な音で簡潔に展開された。続く第7部は、かつてはオラトリオ的だと思っていたが、今回はオペラ的に感じられた。それはカンブルランの語り口の巧みさとともに、バス独唱のローラン・ナウリの上手さのゆえだ。

 合唱は新国立劇場合唱団。これも見事の一言に尽きる。左欄のブックマークに登録している合唱指揮者、三澤洋史さんのブログ「三澤洋史の今日この頃」を読むと、公演に向けたプロの世界の厳しさがよくわかった(9月12日の「劇場人」)。それにくらべると、素人のわたしなど気楽なものだ。
(2011.9.12.サントリーホール)
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セビリャの理髪師

2011年09月10日 | 音楽
 アルベルト・ゼッダが振るロッシーニのオペラなら、これはもう一も二もなく聴いてみたいのが、ゼッダ・ファンたる所以だ。日本オペラ振興会(藤原歌劇団)の公演で「セビリャの理髪師」。席は奮発して最前列をとった。

 序曲が始まる。編成を最小限に絞っているのだろう、弦の音が細くて、ヨーロッパの小劇場のようだ。ニュアンスは思いのほか細かい。わたしの席からはゼッダの顔がよく見えた。実に表情豊かだ。序曲のなかに一篇のドラマが潜んでいる、そう言いたそうな演奏だった。

 第1幕に入ってからは、すべての曲が、しかもそのすべての部分が、正しく位置づけられた演奏が続く。ゼッダがそこにいるだけで、様式的な真正さが保証されたような演奏。オーケストラと声とのバランスも完璧だ。

 歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵のアントニーノ・シラグーザがなんと言っても素晴らしい。第2幕の小フィナーレの直前のアリア「もう逆らうのをやめろ」では、会場の拍手がやまなかった。シラグーザも嬉しそうに応えていた。第1幕では「どうして?」とか「ちょっと待って」とかの日本語を交えて笑いを誘っていた。

 ロジーナはソプラノの高橋薫子。この役はロッシーニの生前からソプラノで歌われることもあったわけだが、メゾとくらべると、だいぶ印象がちがった。メゾだと肉感的な声質になるが、ソプラノだと硬質な感じがした。ロッシーニがソプラノ用に書いた追加のアリア「ああ、もし本当なら」も歌われた。この曲を聴くのは初めてだ。今回は日本初演(小畑恒夫の解説による)。オペラ全体の乾いた様式とは異質な感じがした。挿入された位置は、第2幕のベルタのアリアと嵐の音楽の間だった。

 バルトロの三浦克次とドン・バジーリオの彭康亮(Kang-Liang Peng)は、ともに聴かせどころのコミカルなアリアで、言葉がはっきりしなかった。最前列でさえそうなのだから、どこでもそうだったのではないか。

 演出は松本重孝。とくになにかをするものではなかったが、音楽に寄り添った演技をつけていた。たとえば第2幕のロジーナの歌の練習の場面。「無駄な用心」というオペラ(架空のオペラ)のアリアという設定で、ロッシーニは意図的に凡庸な音楽を書いているが、そこでの演技が丁寧につけられていた。なるほど、こういう面白さは舞台でないとわからないと思った。
(2011.9.9.新国立劇場)
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ミニョン

2011年09月05日 | 音楽
 首都オペラによるアンブロワーズ・トマの「ミニョン」。首都オペラは昨年ザンドナーイの「フランチェスカ・ダ・リミニ」を日本初演した。今年の「ミニョン」は日本初演ではないが、めったに観られない珍しいオペラだ。

 原作はゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」。作中のミニョンのエピソードをオペラにしている。原作は悲劇で終わるそうだが、オペラではハッピーエンド。いかにも19世紀フランス社会の趣味を反映した改変だ。

 演出は三浦安浩さん。オペラが始まる前から、舞台には人々がうろうろしている。場所は日本のどこかの潰れた映画館。演出家が台本を配る。これからゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を上演しようとするところ。やがて序曲が始まる。

 劇は順調に進む。ところが〈フィリーヌを演じる女優〉の求婚者フレデリクの闖入によって混乱する。劇中劇に現実が割り込む展開、言い換えるなら虚実の交錯。ピランデルロの「作者を探す六人の登場人物」のようなテイストだ。

 〈ミニョンを演じる女優〉は徐々に〈ヴィルヘルムを演じる男優〉への愛に気づき、同時に〈フィリーヌを演じる女優〉への嫉妬に苦しむ。最後に劇は放棄され、〈ヴィルヘルムを演じる男優〉は〈ミニョンを演じる女優〉の愛を受け容れる。

 三浦安浩さんのこの演出は、甘いロマンティックオペラを現代に引き寄せることに成功するとともに、原作の改変をうまく処理するものでもあった。今後どこかでこのオペラを観る機会があるとしても、これ以上面白い上演に出会うことはできないだろうと思った。

 歌手は皆さん大健闘。ミニョン役の背戸裕子さんはミニョンの苦しみを十分に表現し、そこから真の美しさが表れていた。フィリーヌ役の山口佳子さんは恵まれた容姿を生かして、華やかで浮気っぽいフィリーヌで魅了した。ヴィルヘルム役の土師雅人さん、ロターリオ役の飯田裕之さんも文句なし。

 指揮はドイツ在住の渡辺麻里さん。歯切れのよい音楽づくりを楽しませてくれた。ドイツでは主にミュージカルやオペレッタを振っているそうだ。おそらく劇場の隅々まで知っているかただろう。オーケストラは神奈川フィル。これも文句なし。

 全体がここまでレベルアップすると、音楽面では合唱が、スタッフ面では照明が、相対的に物足りなくなる。今後さらに努力してもらえるとありがたい。
(2011.9.3.神奈川県民ホール)
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インキネン&日本フィル

2011年09月03日 | 音楽
 ピエタリ・インキネンはフィンランド出身の若手指揮者。現在はニュージーランド交響楽団の音楽監督を務めている。ドイツ各地のオーケストラへの客演も多い。日本フィルの首席客演指揮者を務めていて、目下「マーラー撰集」を継続中だ。9月定期はその交響曲第3番。メゾ・ソプラノはアンネリー・ペーボAnnely PEEBOというエストニア人。合唱は栗友会合唱団と杉並児童合唱団。

 結論からいえば、これは淀みなく流れる清流のようなマーラーだった。デフォルメされたところがなく、思い入れたっぷりに演出されたところもなく、すべてにバランスがとれた演奏。こういう演奏を聴いて、物足りないと感じる向きもあるかもしれないが、音楽的な質は高く、賢明さが感じられる演奏だ。

 同曲の演奏ではインバル指揮・都響のものが記憶に新しいが、例えばそれが一部の隙もなく塗られた油彩画だとしたら、インキネン指揮・日本フィルの演奏は余白を残した淡い水彩画だ。

 日本フィルは整ったアンサンブルでインキネンに応えていた。同オーケストラのアンサンブルを立て直したのは怪力ラザレフだが(ラザレフにはいくら感謝しても足りないくらいだ)、インキネンが振ったときも整っている。

 当夜のコンサートマスター(ミストレス)は江口有香さん。美しく柔軟性に富むソロを聴かせてくれた。大健闘だったのはトロンボーンの藤原巧次郎さん。カーテンコールではひときわ大きいブラヴォーを浴びていた。もう一人、見事なポストホルンを聴かせてくれたオッタビアーノ・クリストーフォリさんも特筆ものだ。わたしが今まで聴いたこの演奏のなかで、これが一番だった。

 アンネリー・ペーボのソロはあまり印象に残っていない。どういう歌を歌おうとしているのか、よくわからなかった。思い返してみると、横に譜面台を置いていたような気がする。この曲で譜面を見る歌手はいないわけではないが……。

 栗友会合唱団と杉並児童合唱団は美しかった。第1楽章冒頭から席に着いていたので(Pブロック)、子どもたちは大丈夫かなと心配したが、気分が悪くなる子もいず(都響のときはいた)、第5楽章の出番をきちんと努めてくれた。続く第6楽章も立ったままで通した。

 わたしはあの第5楽章では、いつも涙が出てしまう。ペテロの否認を扱ったこの音楽は、「マタイ受難曲」のアリアと双壁だ。
(2011.9.2.サントリーホール)
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ジュリアン・ユーの室内楽

2011年09月01日 | 音楽
 サントリー芸術財団の「サマーフェスティヴァル2011」の最終日。今年のテーマ作曲家ジュリアン・ユーの室内楽の演奏会。曲目はオリジナル曲4曲とムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の室内オーケストラのための編曲版。

 1曲目はヴァイオリン独奏のための「ビーバーによるパッサカリア」。ビーバーは「ロザリオのソナタ」で知られる17世紀ザルツブルクの作曲家だ。本作は古風な音型で始まり、さまざまに展開されるが、あまりピンとこなかったというのが正直なところ。

 2曲目はピアノ、2台のヴィブラフォンとグロッケンシュピールのための「閃光2」。楽器編成からも想像できるように、透明な美しさをもった曲だ。肩を張らずに楽しめる曲。オリジナル曲のなかでは、これが一番気に入った。

 3曲目は4人の打楽器奏者とピアノのための「チャコンニッシマ」。音のひびきは前の曲の路線上にあるが、もっとリズムが強くなっている。バルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」を連想した。

 4曲目は室内オーケストラのための「フィロペンタトニア」。アンサンブル・アンテルコンタンポランのためにIRCAMから委嘱された曲。なので――といってよいかどうかわからないが――、一番ゲンダイオンガクっぽい曲だった。

 そして5曲目「展覧会の絵」。冒頭のプロムナードはヴィオラで始まり、すぐに管楽器の点描的な音型に引き継がれ、途中に中国的な断片も紛れこむ。要するに意外性に富み、透明感のある編曲だ。中国的な断片は、ちょっとしたいたずらというか、作曲者の署名のようなものだろう。

 その後の各曲も面白い。たとえば「サミュエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の金持ちサミュエル・ゴールデンベルクは、コントラバスとティンパニで演奏されて、威圧的な感じがよく出ている。次のプロムナード(ラヴェルが省略した箇所だ)をはさんで、「リモージュ」は、点描的な音型で駆け抜ける、スリル満点の編曲。

 本作は2002年の作品だが、2007年に「キエフの大門」が改訂され、「これまでの楽章の主題がフラッシュバックのように対位法的に重ねられていく」(マリオン・グレイのプログラム・ノート)音型が付加された。演奏がそこに来たときには、アッと息をのんだ。

 演奏は板倉康明指揮の東京シンフォニエッタ、ヴァイオリン独奏は山本千鶴。皆さん大健闘だった。
(2011.8.30.サントリーホール小ホール)
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