Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

MUSIC TOMORROW 2018

2018年06月27日 | 音楽
 その年の尾高賞受賞作品を演奏するN響のMUSIC TOMORROW。2018年の受賞作品は坂田直樹(1981‐)の「組み合わされた風景」(2016)。今年から審査員に片山杜秀が加わったので、片山ファンのわたしは期待大だ。外山雄三、尾高忠明と合わせて3人体制。

 候補作品は19作。審査員3人が選評であげている作品が興味深い。上記の受賞作は3人ともあげているが、その他に(作曲者名だけ記すと)外山雄三が藤倉大と北爪道夫、尾高忠明が岸野末利加、藤倉大と坂東祐太、片山杜秀が岸野末利加、坂東祐太と石島正博。複数の審査員があげた作曲者が3人いる。意外に票は割れないものだ。

 坂田直樹の受賞作は、わたしは初めて聴いたが(受賞作に限らず、坂田直樹の名も、その作品も、わたしには初めてだったが)、たいへん思い切ったオーケストラの鳴らし方をする人だ。通常の楽器以外に、ビニール袋、アルミホイル、気泡緩衝材(プチプチ)が使われる。それが話題になる可能性もあるが、その使い方は控えめで、全体の音響の流れの中で必然性がある。

 演奏はステファン・アズベリー指揮のN響。大胆で、かつ説得力のある演奏。日本のトップ・オーケストラが、一般にはまだ無名の作曲家の作品を、そのように共感をこめて演奏する時代になった。

 当夜は1曲目に鈴木純明(1970‐)の「リューベックのためのインヴェンションⅢ「夏」」(2018)が演奏された。ブクステフーデやバッハの曲がコラージュのように織り込まれたロマンティックな作品だが、わたしには物足りなかった。

 2曲目が坂田直樹の受賞作で、3曲目はジェームズ・マクミラン(1959‐)の「オーボエ協奏曲」(2010)。オーボエ独奏はフランソワ・ルルー。曲もいいし、演奏も最高!と叫びたくなった。末永く残るだろう曲の、とびきりの名演。定期演奏会に組み込まれてもおかしくない曲だ。

 ルルーのソロ・アンコールがあった。シルヴェストリーニという人の無伴奏オーボエのための6つの練習曲から第3曲「キャピュシーヌ通り」。技巧的な曲だ。

 4曲目はコリン・マシューズ(1946‐)の「ターニング・ポイント」(2006)。前半(第1部~第2部)の「すばやい動き」(白石美雪氏のプログラム・ノーツ)に対して、後半(第3部)の「時間の感覚が麻痺しそうな」(同)遅い動きが鮮烈な印象を残した。
(2018.6.26.東京オペラシティ)
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石川淳「焼跡のイエス」「マルスの歌」

2018年06月24日 | 読書
 大学時代の友人との読書会のテーマ、石川淳の「焼跡のイエス」を読んだ。本作は1946年(昭和21年)10月の発表。敗戦直後の闇市の空気を内包している。時は1946年7月31日と8月1日、所は上野の闇市と上野の山と明確に規定されている。その時とその所とが重要なのだ。上野の闇市は7月31日をもって閉鎖された。闇市の最後の日の出来事を描いた作品。

 当時の上野には(上野に限らず、各地には)戦争孤児があふれていた。わたしは、たまたま昨年、田沼武能の写真集「東京わが残像1948‐1964」(2017年、クレヴィス刊)を読んだ。そこに写っている戦争孤児たちは衝撃的だった。かれらはボロボロの服をまとい、土埃に汚れて、路上生活をしていた。生きていくためには、盗みや追剥だってしたかもしれない。

 本作では、そんな戦争孤児の一人が、上野の闇市に現れる。戦争孤児の中でもとびきり汚く、頭から顔にかけてはデキモノとウミだらけの少年。闇市の喧騒を行き交う大人たちでさえ気味悪がる。その少年が闇市で起こす事件と、その後の上野の山での出来事に、作者は思いもよらない聖なるあかしを見る。

 闇市の猥雑さと喧騒、一言でいってカオスが、イエスが布教活動を行ったガリラヤの状況に重ねられる。イエスが出現したのは、まさにこのような状況下だったろう。闇市はその状況の再現だ、と。その指摘が鮮烈だ。

 わたしが読んだのは講談社文芸文庫だが、同書には他に「山桜」、「マルスの歌」、「かよい小町」、「処女懐胎」そして「善財」が収められている。それらの中では「マルスの歌」に惹かれた。

 「マルスの歌」は1938年(昭和13年)1月に発表されたが、反軍国調だとして発禁処分を受けた。だから、といってもよいと思うが、戦時中の重苦しい空気が濃厚に漂っている。その結論部分を引用してみよう。

 「『マルスの歌』の季節(引用者注:戦時中)に置かれては、ひとびとの影はその在るべき位置からずれてうごくのであろうか。この幻灯では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう。ひとびとを清澄にし、明確にし、強烈にし、美しくさせるために、今何が欠けているのか。」

 本来は結論部分ではなく、ディテールが大事なのだろうが、ともかく、世の中すべてが歪んで、息苦しい時代の空気が捉えられた作品。その時代感覚というか、皮膚感覚が、今の社会情勢にあって、妙に生々しく感じられる。
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マイスター/読響

2018年06月20日 | 音楽
 コルネリウス・マイスターが振る読響の定期だが、その前に6月16日に亡くなったゲンナジー・ロジェストヴェンスキーの追悼演奏が行われた。曲はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「情景/冬の松林」。なんて洒落た選曲だろう。少女クララが王子に連れられてお菓子の国に向かう途中の幻想的な場面。ロジェストヴェンスキーを送るにふさわしい曲だ。(写真↑はホワイエに展示されたロ翁のスコアと指揮棒)

 さて、定期はオール・リヒャルト・シュトラウス・プロ。1曲目は交響詩「ドン・キホーテ」。チェロ独奏は石坂団十郎、ヴィオラ独奏は読響のソロ・ヴィオラ奏者、柳瀬省太。二人とも艶のある音色で技術も十分。しかもオーケストラと溶け合って、全体がしっくりまとまった演奏になった。

 マイスターの指揮は、オペラ指揮者だけあって、細かいドラマ作りがおもしろかった。たとえば第2変奏での羊の群れを表す金管のフラッター奏法では、各楽器をてんでんばらばらに鳴らして、普段耳慣れない音が前面に飛び出し、無秩序な情景を描いた。

 2曲目は歌劇「カプリッチョ」から前奏曲と月光の音楽。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各2本で演奏される前奏曲は、さすが読響というべきか、しっとりした情感があり、危なげなく、安心して聴くことができた。月光の音楽もホルンが安定して、これも危なげなかった。

 前奏曲と月光の音楽とを続けて演奏すると、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と愛の死のような効果を生んだ。入り口と出口だけの演奏だが、ワーグナーの場合と同様、シュトラウスの場合も、このオペラの、たゆたうような、繊細で気品のあるエッセンスが伝わった。

 3曲目は歌劇「影のない女」による交響的幻想曲。オペラからの抜粋曲だが、シュトラウス自身が1946年に作成した版があり、それは実用版というか、オーケストラ編成を縮小した版なので、ペーター・ルジツカが2009年に本来の編成に近いものに編作したそうだ。その編作版での演奏。

 演奏は、明るく、艶のある音色で、柔軟なアンサンブルを展開した。マイスターと読響とがよくかみ合った演奏。わたしが今まで聴いたこのコンビは、少なくともマーラーの交響曲第6番や第3番では、どこかぎくしゃくしていたが、今回は息が合っていた。

 マイスターの本領発揮だろうか。その美質がよく表れた演奏会だった。
(2018.6.19.サントリーホール)
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アシュケナージ/N響

2018年06月17日 | 音楽
 アシュケナージ/N響のCプロ。1曲目はメンデルスゾーンの「ヴァイオリンとピアノのための協奏曲」。メンデルスゾーン14歳の時の作品。演奏時間35分ほどの堂々たる曲だ。メンデルスゾーンはモーツァルト並みの早熟ぶりだったと証明するような、その足跡を印した作品。

 ヴァイオリン独奏は庄司沙矢香、ピアノ独奏はヴィキンガー・オラフソン。庄司沙矢香は隠れもない名手だが、わたしは初めてその名を聞くヴィキンガー・オラフソンも、そうとうの名手のようだ。1984年アイスランド生まれ。ジュリアード音楽院卒業。

 ヴァイオリンとピアノを独奏楽器に持つ協奏曲は、他に何があったろうと考えて、すぐに思い出すのは、ショーソンの「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」だが、さてヴァイオリンとピアノだけとなると‥。

 メンデルスゾーンの本作では、緩徐楽章に当たる第2楽章が、オーケストラが必要最小限にしか使われていないこともあり、ヴァイオリン・ソナタの緩徐楽章のような趣があった。しんみりとした両者の対話。二人の独奏者には存在感があった。一転して第3楽章は手に汗握るような圧巻の演奏。ヴァイオリンよりもピアノのほうに比重がかかった書き方をされているので、オラフソンのリードの仕方が息をのむようだった。

 アンコールにパラディースの「シチリアーノ」が演奏された。よく聴く曲だが、それがだれの何という曲かは意識していなかった。メンデルスゾーンの協奏曲と違って、こちらは一貫してヴァイオリンが主導し、ピアノは最小限の和音をつけるだけ。そのしみじみとした情感が、メンデルスゾーンの第3楽章で火照った気持ちをクールダウンした。

 プログラム後半はまずヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」から。久しぶりに聴いたが、その久しぶりが功を奏したのか、ヤナーチェクの独特な書法が、面白くて、面白くて、目を見張った。断片的で、断定的で、しかも唐突に変わる音楽。大編成のオーケストラだが、それがトゥッティで鳴ることはほとんどない。

 アシュケナージの指揮は、思い入れたっぷり。音楽の断片と断片、そしてその断層とを見つめるような演奏だった。

 最後はコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」。オーケストラ編成は「タラス・ブーリバ」と同程度だが、鳴らし方はうまい。第3曲「歌」を中心にN響各奏者のニュアンス豊かな名人芸を楽しんだ。
(2018.6.16.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2018年06月16日 | 音楽
 インキネン指揮日本フィルの東京定期は、仕事の関係で、1曲目は間に合わなかったが、2曲目から聴けた。事前には、前半は無理で、後半だけでも聴ければ、と思っていたので、幸いだった。

 聴けなかったが、曲名だけでも書いておくと、1曲目はシューベルトの「イタリア風序曲第2番」だった。珍しい曲で、わたしは聴いた記憶がないので、聴いてみたかった。インキネンの音とシューベルトとは相性がよさそうに思われたが。

 2曲目はメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はサリーム・アシュカール。名前からいって、中東系の人だろうか(※)。ザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭などヨーロッパ各地で活躍し、CDも大手レーベルから出ているそうだ。今や注目のピアニストなのかもしれないが、残念ながら、わたしのほうに気持ちの余裕がなく(仕事の余韻が残っていたため)、演奏に集中できなかった。

 アンコールは「トロイメライ」だった。わたしは、無言歌の中から一曲かな、と思っていたので、これは意外で、演奏に乗り切れなかったというか、自分の気持ちと演奏との間にちぐはぐなものが残った。これもわたしの側の問題だが。

 3曲目はメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。これは名演だった。明るく、澄んだ、軽い音で、浮き立つような演奏。インキネンの美質がよく表れていた。第4楽章では思いがけなくがっしりした音で、彫りが深く、激しい表現を展開した。全体を通して、聴き応えのある、プログラムの最後を飾るにふさわしい演奏だった。

 インキネンの演奏は、とくに何かユニークなことをするわけではなく、自然体というか、てらいのない、素直な演奏なのだが、それでいて、音楽を聴いたという確かな手応えが残る点が、ユニークといえばユニークだ。新奇なものを求める向きには、物足りないと感じるかもしれないが、そこを踏み止まって、聴く側もじっくり構えると、音楽の確かな実体が聴こえてくる。

 インキネンは日本フィルの首席指揮者としての契約を、2019年9月から2年間延長することが発表された。繰り返しになるが、インキネンは、自分の音と、自分の演奏スタイルとを持った、現代には稀な指揮者の一人かもしれないので、その延長期間を含めて、日本フィルが学び、身に着けるべき要素は多いと思う。

 日本フィルはベートーヴェンの生誕250年をインキネンとともに迎える。
(2018.6.15.サントリーホール)

(※)追記:他の方のブログによると、アシュカールはイスラエル出身とのこと。
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カエターニ/都響

2018年06月12日 | 音楽
 オレグ・カエターニが都響を振るのは2009年以来これで4度目だそうだ。わたしは今までに2度聴いている。いずれもショスタコーヴィチがメインだった。今回はなんといっても矢代秋雄のチェロ協奏曲が注目の的だが、それ以外にもシューベルトとベートーヴェンでどのような演奏を聴かせるかが楽しみだった。

 1曲目はシューベルトの交響曲第3番。第2番とともにわたしの好きな曲だ。カエターニの演奏は、がっしりした骨格を持つ、いささか古風なもの。だが、大急ぎでいわなければならないが、古風という言葉は、けっして貶める意図ではなく、十分な敬意を込めた好感の表現だ。

 裏返していうと、ピリオド・スタイルとは対極にある演奏。わたしはピリオド・スタイルにも驚きと共感とをもって接しているが、同時にこのような古風なスタイルもあっていいと思った。わたしは1951年生まれだが、中学生や高校生の頃によくLPレコードで聴いた演奏を想い出して、懐かしく、心がほっこりした。

 2曲目は矢代秋雄のチェロ協奏曲。チェロ独奏は宮田大。いうまでもなく、大変な才能をもった、優秀な奏者だが、その宮田大が、この曲の演奏に使命感をもっているような、入魂の演奏を聴かせた。初演者の堤剛を引き継いで、この曲の伝道者たらんと志しているような気迫を感じた。

 話は脇道にそれるが、矢代秋雄の管弦楽を使った3作品、チェロ協奏曲とピアノ協奏曲と交響曲は、いずれも傑作だ。そのうちピアノ協奏曲は中村紘子の十八番だった。その演奏には鬼気迫るものがあった。それと同じように、宮田大がチェロ協奏曲を折に触れて演奏するようになるなら、これほど嬉しいことはない。

 カエターニもこの曲を高く評価しているとのこと。終演後はスコアを高く掲げて聴衆に示していた。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。これも1曲目のシューベルトと同様に、がっしりした骨格を持つ、現代では幾分古風に感じられる演奏だったが、わたしはそこに今の世相では死語のようになっている、ヒロイズムとか、正義の勝利のヴィジョンとかを感じた。

 カエターニの音楽観にはわたしがLPレコードで培った音楽観に通じるものがありそうだと思った。カエターニはいったい幾つなのだろうと、インターネットを検索してみたら、1956年生まれだった。わたしより若い。もっと年長だと思っていた。
(2018.6.11.東京文化会館) 
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アシュケナージ/N響

2018年06月11日 | 音楽
 ドビュッシー没後100年プログラム。だが、1曲目にイベールの「祝典序曲」が組まれていることが、何か意味深に感じられる。「祝典序曲」は皇紀2600年(西暦1940年)奉祝のために日本政府からの委嘱で書かれた作品の一つ。作品としてはよく書けていると思うが、いわくつきの機会音楽であることは事実。それを取り上げることに(ことに現下の世相にあっては)一種の緊張を覚える。

 もっとも、アシュケナージ/N響の演奏は、そんな文脈とは無関係に、作品としての出来のよさを証明するもののように聴こえた。でも、だからといって、即この曲の復権とか、そんな単純な議論に与するわけにはいかないが。

 2曲目はドビュッシーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」。ドビュッシーの若書きの作品。後のドビュッシーの作風の萌芽が見られるという意味で、久しぶりに聴くこの曲が楽しみだったが、期待が大きすぎたのか、実際に聴くと、何ともまだるっこしくて欲求不満に陥った。

 なぜだろう。演奏に問題があったわけではないので、やはり作品のせいかと、そんな思いを抱いていたら、ピアノ独奏者のジャン・エフラム・バウゼのアンコールがあった。ドビュッシーの「喜びの島」。これはすばらしかった。ピアノ1台なのに、音楽がステージから渦を巻いて流れだし、NHKホールの巨大な空間を満たした。

 振り返ってみると、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」のときは、音楽がステージ上に止まり、客席に届かないもどかしさがあったと、今更ながら気付かされた。

 3曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。弦は12型の比較的小編成の演奏だったが、その演奏のニュアンス豊かだったことといったら! 冒頭のフルートのテーマの抑揚、それを引き継いだホルンの音色、そして木管各楽器、弦、最後のアンティーク・シンバルの繊細さ(2人の奏者が音色を使い分けていた)まで、一瞬たりとも気を抜けない演奏が続いた。

 さすがN響と思ったが、それと同時に、それらの微妙なニュアンスをアシュケナージが細かく指示していたことも印象深かった。

 4曲目の「海」も同様の演奏。それを聴いていて分かったのだが、アシュケナージはピアノでやっていたことを、オーケストラでもやろうとしている。それがアシュケナージの指揮だ。その意味ではユニークな指揮者だと思った。
(2018.6.10.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2018年06月10日 | 音楽
 メンデルスゾーン・プログラム。インキネンは東京定期でもメンデルスゾーンをプログラムに組んでいるが、当日は仕事の関係で行けないかもしれないので、この横浜定期でしっかりインキネンのメンデルスゾーンを聴いておこうと思った。

 1曲目は「フィンガルの洞窟」。予想にたがわず、冒頭の弦のテーマが、澄んだ音色で、軽く、浮き立つように演奏された。その後も、穏やかで、素直な演奏が続く。先日の下野竜也指揮都響の交響曲第3番「スコットランド」のアグレッシヴな演奏とは対照的だ。

 2曲目はヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は川久保賜紀。チャーミングなステージマナーの人だ。技巧的にも十分なものを感じさせる。だが、どこか、引っ掛かるところがあった。それは何だろう。あえていえば、細かな音が恣意的に流れる部分があるのではないか、と思うが。

 オーケストラはよかった。インキネンのドイツ音楽の演奏の型がよく表れていた。最初は淡々と進むが、徐々に彫りが深くなり、最後は思いがけないところに到達する。ドイツ音楽の往年の巨匠のような型だが、インキネンはそれを身に着けているとともに、前述のような、軽くて、澄んだ、浮き立つような音を持っている。その両面がインキネンを個性的な指揮者にしている。

 川久保賜紀がアンコールを演奏した。バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番からサラバンド。演奏もよかったが、それ以上に、バッハの音楽が、若い演奏家も(川久保賜紀の場合は中堅の域にさしかかっているのかもしれないが)、老年の演奏家も、すべてを受け入れ、各人のその時々の音楽観を映し出す鏡のような存在であることを、あらためて感じた。

 3曲目は「真夏の夜の夢」の抜粋。序曲の冒頭では、弦の細かい動きが一糸乱れずとはいかなかったが、全体的にはインキネンらしい演奏。結婚行進曲は、テンポを抑え気味で、ことさら華やかではなく、メンデルスゾーンの本旨に立ち返った演奏。そのおかげで、演奏会全体がいわゆる名曲コンサートにならずに済んだ。

 横浜定期ではアンコールが恒例だが、さて、このメンデルスゾーン・プログラムでアンコールは何だろうと思っていたら、ノスタルジックで、映画音楽のような雰囲気のある曲が演奏された。帰りがけに、出口の掲示を見ると、「無言歌」から「舟歌」を編曲したものとのこと。珍しい曲を聴けた。
(2018.6.8.横浜みなとみらいホール)
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夢の裂け目

2018年06月08日 | 演劇
 井上ひさしの東京裁判三部作の第1作「夢の裂け目」は、2001年に初演された。第2作「夢の泪(なみだ)」は2003年、第3作「夢の痂(かさぶた)」は2006年。そして2010年には三部作の連続上演が挙行された。今回は「夢の裂け目」の3度目の上演。

 わたしは初演のときは観ることができなかったが、2010年の三部作連続上演を観た。密度の濃さ、問いの重さ、逃げ場のなさ、そういった息詰まるような内容に圧倒された。そして第3作「夢の痂」で訪れる思いがけないカタストロフィに浄化される想いがした。それが忘れられない。

 今回は連続上演のときと比べると、9人の登場人物のうち、長老格の「清風」を演じる木場勝己を除いて、役者が一新した。本作を今後も上演し続けるための措置とのこと。とくに主人公の紙芝居屋「天声」を演じる役者が、角野卓造から段田安則に変わったことは大きい。「天声」という役が、シャープな感覚で捉え直され、現代に引き寄せられたように感じる。

 端的にいって、今回わたしは、本作が少しも古びていず、むしろリアルさが増しているように感じたことが驚きだった。今、多少控えめに「驚き」といったが、実感からいうと、「衝撃」とか「ショック」とかいう感じだった。演出の栗山民也は変わっていないので、あとは役者が変わったことと、社会が変わったことがその要因だろう。

 2010年と比べると、わずか8年しかたっていないのに、社会は随分変わったと思う。戦後の価値観が、今やガラガラと崩れ去っているように見える。今起きていることは何なのか。戦後とは何だったのか。それを「戦後」の出発点である東京裁判から考え直しているのが本作だと、今回はそう思った。

 東京裁判では東条英機などのA級戦犯が処罰され、昭和天皇は不起訴になった。それは同時に、庶民(本作では「普通人」=我々)も責任を問われない、ということを意味すると、庶民は考えた。庶民は戦後の歩みを始めた。明るく逞しく、したたかに。庶民、万歳!と、本作はいっているように見える。

 だが、本当にそうだろうか。幕切れで登場人物たち(=庶民)が輪になって、しかしその輪がだんだん小さくなって、周囲が暗くなっていく、その演出にわたしは「危機が迫っている」というメッセージを感じた。

 その危機とは、戦前回帰の危機ではないだろうか。何かのツケが回ってきた、と。
(2018.6.7.新国立劇場小劇場)
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上高地から徳本峠へ

2018年06月06日 | 身辺雑記
 上高地から徳本峠(とくごうとうげ)を越えて島々に下る道は、わたしの定番ルート。毎年、春と秋に出かけている。今年は6月2日(土)に上高地に泊まり、翌3日(日)に歩いた。3日は上高地でウェストン祭があるので、前日の2日は宿が一杯ではないかと懸念したが、直前にもかかわらず、取れたのが幸いだった。

 新宿から松本へのJR「あずさ」は、臨時列車の座席が取れた。出発時点では満席になっていたので、ギリギリのタイミングだったかもしれない。

 上高地に着くと、観光客で賑わういつもの上高地だったが、夕食後、まだ明るいうちに河童橋に出ると、昼間の賑わいが嘘のように、ひっそりした、静かな河童橋になっていた。

 翌日は、朝早く出発するため、朝食は弁当にしてもらった。5時起床。弁当を食べて6時出発。まだ人影もまばらな道を明神へ。明神から右に折れて、徳本峠への登り道へ。前述のように、毎年この時期に歩いているが、花の様子は毎年違う。今年はサンカヨウが多かった(写真↑)。白い花が清楚なので、好きな花だ。ニリンソウとショウジョウバカマは例年通りの咲き具合。

 徳本峠から下りてくるグループと何度かすれ違った。皆さん、前日は徳本峠の小屋に泊まり、今日はウェストン祭に参加するのだろう。感心したのは、上り優先が徹底されていること。昔、わたしが山登りを始めた頃は、先輩からも、山小屋でも、上り優先とよくいわれたものだ。ところが、最近では、あまりいわれなくなった。そのためだろうか、だれか上ってきても、道を譲らないどころか、スピードを緩めずに下りてくる人がいる(中高年の人に多いような気がする)。でも、今回はさすがにそういう人はいなかった。

 初老の単独行の男性が、わたしを追い抜いていった。ピッケルとビニール袋を持って、飄々と歩いていく。小屋を手伝っている人かと思った。徳本峠に着くと、その人が休んでいたので、言葉を交わした。71歳。前々日に横尾にテントを張り、前日は奥穂までピストン(!)。健脚だ。今日は明神に荷物を置き、徳本峠までピストン。「仕事を止めたので、これからは好きな時に、好きな山に行ける。幸せだなあ(笑い)」と。

 徳本峠からの下山路は、緑、緑、緑で、緑に埋もれるとか、緑に染まりそうだとか、そんな形容がふさわしかった。

 その晩は浅間温泉の定宿で一泊。温泉で汗を流して、ビールを飲み、ついでに地酒も少々(?)。
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石川淳「佳人」「普賢」

2018年06月04日 | 読書
 大学時代の友人と続けている読書会が、今月は開催月に当たっている。今回はわたしがテーマを選ぶ番だったので、例によって日本文学、西洋文学、文学以外の書物から各1点を候補に考えたが、まず日本文学で石川淳を挙げたところ、友人はすぐに「それでいい」といった。作品は、わたしは「普賢」を想定していたが、友人は「既に読んだことがある」といって「焼跡のイエス」になった。

 石川淳を候補に考えたのは、いうまでもないが、新国立劇場で来シーズンに西村朗作曲の新作オペラ「紫苑物語」が予定されているから。石川淳の小説が原作に選ばれたことは、わたしには少し意外だった。と同時に、石川淳の作品を読んだことがなかったので、全体像を把握しておきたいと思った。

 読書会のテーマは「焼跡のイエス」だが、その前に「普賢」を読んでみた。講談社文芸文庫で読んだので、収録順に「佳人」、「貧窮問答」、「葦手」、「普賢」の順で読んだ。

 まず「佳人」を読んで、わたしは面喰った。人を喰った小説だ。それをどう捉えたらよいか、一読しただけでは、つかみかねた。その書き出しはこうなっている。「わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、(後略)」。実はこのセンテンスは、引用した部分の7倍くらい、延々と続く。迷路を歩むような感覚だ。

 しかも、笑ってしまうのだが、小説の最後まで「老女」は出てこない。先ほど、人を喰った、といった所以はそこだ。おまけに自虐的なユーモアがある。私小説的な書き方だが、とんでもない、フィクションであることはすぐにわかる。

 一筋縄ではいかない作家だと思った。癖のある、手強い作家。その作品の中に何があるかは、そう簡単にはわからない。読み手であるこちら側も、それなりの覚悟をもって臨まないと、その核心には触れられない。率直な作家ではなく、ひねくれた作家。もちろん、ひねくれた、という言葉は賞賛の謂いだ。

 「普賢」はさらにおもしろかった。基調は「佳人」と似ているが、「佳人」とは比べ物にならないくらい重層化している。「佳人」の次元を超えて一段上の次元に抜け出ている。というのは、作者の分身と思われる人物を登場させ、その人物の自死を通して、自己の内面史を描いているからだ。

 分身の設定(=作者の二重性)、それによる内面史の叙述、という方法は、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を連想させる。本作には教養小説的な一面がある。それが発見だった。
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