Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

宮城県美術館

2021年11月29日 | 美術
 親戚の家に不幸があったので、弔問のために宮城県大崎市に行った。お線香をあげて丸一日話しこんだ。故人の話はもちろんだが、何年ぶりかの訪問なので、話が尽きなかった。日が短い季節なので、夕刻になると、外はすぐに暗くなった。車で最寄りの無人駅まで送ってもらった。漆黒といってもよい農村地帯の夜。遠くにポツン、ポツンと人家の明かりが見えるだけだ。あたり一面の暗さに不思議な安らぎをおぼえた。

 仙台に着くと、街の明るさに戸惑った。道行く人々の足が速い。圧倒される思いだ。仙台は都会だ。東京と変わりない。わたしは丸一日農村にいただけで、体内時計の進み方が遅くなり、都会の速さに追いつけなくなったようだ。

 翌日は宮城県美術館(↑)(手前の大きな彫刻はヘンリー・ムーアの「スピンドル・ピース」)に行った。同美術館に行くのは3度目だ。過去の2度は駆け足で覗いただけだったので、今回はゆっくり鑑賞した。ちょうど特別展が終了した後で、常設展のみの展示だった。それはむしろ歓迎すべきことだった。

 宮城県美術館の特色のひとつは、カンディンスキーやクレーなどのドイツ表現主義の作品を何点か所蔵していることだ。作品数はかならずしも多くはないが、すぐれた作品がふくまれている。目玉はカンディンスキーの「商人たちの到着」だろう(同館のホームページに画像が掲載されている。リンク(※)を参照↓)。まだ抽象画に進んでいない時期の作品。ロシアの風俗を描いたメルヘンチックな作品だ。油彩ではなく、テンペラ画だ。黒地に点描されたテンペラの、赤、青、緑、その他の多彩な斑点が、イルミネーションのように見える。カンディンスキーは当時メルヘンチックな作品をいくつか描いた。本作は力作のひとつだろう。

 クレーの「橋の傍らの三軒の家」も以前見たことがある。黒地にオレンジ色の単純化された家が三つ並ぶ。そこに淡い青の幾何学的な文様が重なる。全体は(手ぶれした写真のように)二重の像になっている。透明で美しい水彩画だ。

 クレーの作品ではもう一点、「力学値のつりあい」に惹かれた。これは以前見たことがあるかどうか……。暗い赤や青と、その隙間を埋める白とのまだら模様のうえに、黒の太い線が踊る。「橋の傍らの三軒の家」が壮年期の作品であるのにたいして、「力学値のつりあい」は晩年の作品だ。ナチスの弾圧を受けたクレーの絶望感が滲む。

 初見だが、マックス・ペヒシュタインの「パイプ煙草を吸う漁師」は嬉しい発見だった。ドイツ表現主義の画家らしい鋭敏な感性が伝わる。
(2021.11.17.宮城県美術館)

(※)カンディンスキー「商人たちの到着」
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新国立劇場「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

2021年11月22日 | 音楽
 新国立劇場の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が開幕した。思えば長い道のりだった。新型コロナ・ウイルスと東京オリンピックに翻弄された公演だった。

 当プロダクションは、新国立劇場、東京文化会館、ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場(ドレスデン)の共同制作だ。まず2019年4月にザルツブルク・イースター音楽祭で初演され、次いで2020年1月にザクセン州立歌劇場で上演された。そして2020年6月に東京オリンピックに向けて東京文化会館と新国立劇場で上演される予定だったが、新型コロナ・ウイルスのために延期された。2021年8月には東京オリンピックに合わせて東京文化会館で上演する予定が組まれたが、それも中止。そしてやっと今回の上演となった。

 とにもかくにも上演されたことを祝いたいが、心なしか今回の上演では、このオペラに特有の祝祭性が欠けていた。

 前奏曲が始まると、大野和士指揮都響という万全の体制が組まれたにもかかわらず、その演奏は音が混濁していた。わたしは都響の定期会員だが、定期演奏会では聴いたことがない音だ。その後も、少なくとも第1幕は平板な演奏が続いた。目を見張ったのは第2幕に入ってすぐのハンス・ザックスの「ニワトコのモノローグ」だ。そこではみずみずしい抒情性が浮き上がった。それ以降も抒情的な部分では美しい音が鳴った。

 歌手ではハンス・ザックスを歌ったトーマス・ヨハネス・マイヤーがよかった。わたしはこの歌手が新国立劇場で歌ったすべての役を聴いているが、今回が一番よかった。声と歌唱の深みで共感できた。ベックメッサーを歌ったアドリアン・エレートは、ノーブルな声と正確な歌唱で高度な出来だが、妙に淡々としていた。ヴァルターを歌ったシュテファン・フィンケは満足すべき歌唱だったが、華には欠けた。

 イェンス=ダニエル・ヘルツォークの演出は、舞台を劇場内部にとり、ザックスは劇場支配人、ベックメッサーをはじめとするマイスタージンガーたちは同劇場の歌手、ヴァルターはオーディションを受けにきた新人、ダーヴィッドは舞台監督、ポーグナーは大金持ちのパトロンという設定だ。舞台上には化粧部屋、小道具置き場、リハーサル室などがあり、その中でさまざまな動きが起きる。

 いうまでもなくこのオペラの問題点は、ポーグナーの家父長制と、ザックスの排外主義(ナショナリズムの扇動)にあるが、それらの問題点を、最後にエーファとヴァルターが「こんなオペラ、やっていられるか!」と舞台を去ることで解決する。ヘルツォークはそれがやりたくてこのような劇場内部を舞台にした演出をしたのだろう。
(2021.11.21.新国立劇場)
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インキネン/日本フィル

2021年11月19日 | 音楽
 インキネンが来日した。わたしがインキネンを聴くのは2019年10月の日本フィルの東京定期以来だ。およそ2年ぶりの来日。その2年間にはいろいろなことがあった。インキネンは2020年のバイロイト音楽祭で「リング」の新演出を指揮する予定だったが、新型コロナの感染拡大のため、2022年に延期された。日本フィルとの関係では、首席指揮者の任期満了にあたり、ベートーヴェンの交響曲チクルスを開始したが、道半ばで中断を余儀なくされた。その後、首席指揮者の契約が2年延長され、チクルスの完遂を目指している。

 そんな多事多難な2年間のブランクをへた横浜定期。どんなに感動的なシーンが繰り広げられるかと、期待しないでもなかったが、そこはインキネン(といっていいかどうかわからないが)、平常心を失わない再会だった。内面では熱いものを持ちながら、表面上はクールなインキネンだからか。それとも音楽界が(コロナは収まってはいないが)日常を取り戻しつつあるからか。

 1曲目はブラームスの「悲劇的序曲」。インキネンがこの2年間でどう変わっているか。それが興味の的だ。まず気が付いたことは、上半身の動きが大きくなったことだ。その動きでオーケストラに熱いものを注ぎこむ。以前のインキネンなら曲の半ばから熱くなる傾向があったが、いまのインキネンは曲の頭から熱くなる。クリアーな音像と端正な造形は変わらない。内部の熱量が上がっている。

 2曲目はヴィエニャフスキの「歌劇《ファウスト》の主題による華麗なる幻想曲」。ヴァイオリン独奏とオーケストラのための曲だ。ヴァイオリン独奏は日本フィルのソロ・コンサートマスターの扇谷泰朋。ヴィエニャフスキの曲は、ヴァイオリン協奏曲第2番がよく演奏されるが、この曲は珍しい。扇谷泰朋はベルギー王立音楽院に留学した。ヴィエニャフスキは同音楽院で教鞭をとった歴史があるので、その縁での選曲かもしれない。

 扇谷泰朋のヴァイオリンは艶のある音でよく鳴った。一方、インキネンも、場面ごとの描き方がうまかった。オペラ指揮者の才能の一端にふれた思いがする。もっとも、この曲は途中まではおもしろいのだが、最後の盛り上がりに欠けるのではないか。

 3曲目はブラームスの交響曲第1番。「悲劇的序曲」で感じたインキネンのこの2年間での変化(それはむしろ成長といったほうがいい)を確認する思いだ。弦楽器を中心とした分厚い音は、過去のインキネンにはなかったものだ。また集中力がまったく途切れないことも驚嘆すべきレベルだ。インキネンはいま確実に大物指揮者への階段を上りつつある。アンコールに弦楽合奏でバッハの「G線上のアリア」が演奏された。ゆったり波打つような起伏にとむ演奏だった。
(2021.11.18.神奈川県民ホール)
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沼尻竜典/N響

2021年11月15日 | 音楽
 N響の11月定期Aプロは、元々はファビオ・ルイージが振る予定だったが、入国後の待機期間を満たせないため、沼尻竜典に代わった。プログラムとソリストはそのまま。後述するが、プログラムにはめったに演奏されない曲がふくまれている。それを急遽振る沼尻竜典はたいしたものだ。話がそれるが、2000年9月の日本フィルの定期ではマルチェロ・ヴィオッティが来日中止になり、沼尻竜典に代わった。プログラムにプッチーニの「グロリア・ミサ」という珍しい曲がふくまれていた。沼尻竜典はそのまま振った。演奏会後にわたしが話した日本フィルの団員は、沼尻竜典の能力に感心していた。

 さてN響のAプロだが、1曲目はウェーバーの「魔弾の射手」序曲。この演奏にはなんの感想もわかなかった。というより、正直に白状すると、10月定期で聴いたブロムシュテット指揮の、とくにニルセンの交響曲第5番とグリーグの「ペール・ギュント」組曲第1番が浮かんできて、頭から離れなかった。あの透徹した音は特別なものだった。

 2曲目はリストのピアノ協奏曲第2番。ソリストは1983年、イタリアのヴェネチア生まれというアレッサンドロ・タヴェルナ。じつに鮮明な音をもつピアニストだ。プロフィールによると、イギリスの音楽評論家から「ミケランジェリの後継者」と評されたそうだ(どのような文脈かは不明)。たしかに独特な音色がある。

 アンコールに、だれのなんという曲かわからないが、ジャズ的な要素のある、おそろしくスリリングな曲が演奏された。N響のツイッターによると、フリードリヒ・グルダの「弾け、ピアノよ、弾け 練習曲―第6番」という曲らしい。グルダはこういう曲を書いていたのか。グルダを見直さなければならない。

 3曲目はフランツ・シュミット(1874‐1939)の交響曲第2番(1911‐1913)。ステージ上には大編成のオーケストラが並ぶ。たとえばホルンは9本(8本プラス補助1本)だ。その大オーケストラが豊麗な音を鳴らす。一種の過剰さがある。マーラーあたりから始まった過剰な響きが行きつくところまで行った感がある。

 全3楽章からなるその第2楽章は変奏曲だ。中間部に長大なワルツが出てくる。人工甘味料的な甘さのあるワルツだ。それが、これでもか、これでもかと繰り返される。わたしはその響きにフランツ・シュレーカー(1878‐1934)のオペラ「烙印を押された人々」(1915)を思い出した。ともに豊麗な響きのなかに耽溺する音楽だ。心地よくなくはないが(妙な言い方だが)、そこから出られないような、閉塞的な気分になる。シュミットもシュレーカーも同時代人だ。交響曲第2番も「烙印を押された人々」も一種の時代相だろう。そんな交響曲第2番の実演を聴けてよかった。
(2021.11.14.東京芸術劇場)
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B→C 嘉目真木子ソプラノ・リサイタル

2021年11月10日 | 音楽
 東京オペラシティのB→Cシリーズで嘉目真木子(よしめ・まきこ)のソプラノ・リサイタル。プログラムはドイツ歌曲のアラカルトだが、シューベルトやシューマンが入っていない点に、たんなるアラカルトではなく、一本筋の通ったものを感じる。

 まずバッハのカンタータからアリアを2曲。カンタータ第64番から「この世にあるものは」とカンタータ第149番から「神の御使いは離れない」。清澄な声と自然な歌いまわしが心地よい。次にベートーヴェンの「希望に寄せて」作品94。バッハの2曲よりさらに自然な歌いまわしで、肩の力を抜いて、曲の襞にふれようとする歌い方だ。陰影は濃やかだが、それは曲に寄り添った結果生まれる陰影だ。

 次に哲学者で音楽思想家でもあったアドルノ(1903‐69)の「ブレヒトによる2つのプロパガンダ」(1943)。初めて聴く曲で、どんな曲かと楽しみにしていた。性格の異なる2曲が並んでいる。2曲目は行進曲風だ。石川亮子氏のプログラム・ノーツによると、2曲目はブレヒトの詩、ハンス・アイスラーの作曲によるプロテスト・ソングの「パロディ」ではないかと推察されているそうだ。作曲当時の背景が想起される。

 次にリーム(1952‐)の「メーリケの詩による2つの小さな歌曲」(2009)と「3つのヘルダーリンの詩」(2004)。前者は比較的簡素な曲だが、後者は聴き応えがありそうだ。そのわりには嘉目真木子の歌唱はおとなしかった。リームの歌曲は「張り詰めた響きとともに、強い表出力を持って」いるが(リームの音楽全般についての石川亮子氏のプログラム・ノーツより)、その張り詰め方と表出力が薄味だった。

 休憩後はまずワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」から。プログラム前半でも感じたことだが、嘉目真木子のドイツ語が自然で、それが大きな美点だ。一方、歌い方は穏やかで、耳に心地よいのだが、物足りなくもある。高田恵子のピアノ伴奏は雄弁だ。ワーグナーが書いたピアノ・パートが雄弁だからでもあるだろうが。

 ヒンデミットの「陽が沈む」とアレクサンダー・リッターの「おやすみ」は、ワーグナーの後で聴くとシンプルで、こういう曲のほうが安心して聴けた。

 最後はライマン(1936‐)の「私を破滅に導いた眼差し」(2014)。まるで現代オペラの一場面のような曲だ。嘉目真木子は渾身の歌唱だった。曲への接し方がそれまでとは一線を画し、見違えるような没入ぶりだった。嘉目真木子の本領はどこにあるのか、即断は禁物だ。アンコールにリヒャルト・シュトラウスの「明日」が歌われた。
(2021.11.9.東京オペラシティ)
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角田鋼亮/日本フィル

2021年11月06日 | 音楽
 若手指揮者ながら着々と足場を固めている角田鋼亮(つのだ・こうすけ)の日本フィル定期への初登場。プログラムは後述するようにウィーン・プロだが、たんなる観光用のウィーンではなく、プロイセンとの戦いに敗れ、またナチス・ドイツに併合された負の歴史をもつウィーンだ。小宮正安氏のプログラム・ノーツにより、演奏曲目の時代背景が説かれ、演奏会全体から没落のウィーンの最後の後光が射すようだった。

 1曲目はヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「ウィーンの森の物語」。当時、オーストリアはプロイセンとの戦いに敗れ、人々は意気消沈していた。そのときヨハン・シュトラウスⅡ世は「美しく青きドナウ」など一連のワルツを書き、人々を励ました。そのひとつが「ウィーンの森の物語」だと、小宮正安氏は説く。

 周知のように、この曲には民族楽器のツィターが使われるが、河野直人の弾くツィターの鄙びた音色と、なんともいえない、崩れた、のどかな歌いまわしが、会場をウィーンの世界に変えた。それにくらべると、オーケストラの演奏は生真面目だったが、その対照がかえってツィターを引き立たせたともいえる。

 2曲目はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。ユダヤ系だったコルンゴルトは、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、アメリカに逃れた。アメリカでは映画音楽で成功したが、その合間に精魂傾けて作曲したのがヴァイオリン協奏曲だ。

 ヴァイオリン独奏は郷古廉(ごうこ・すなお)。かぎりなく甘く美しいこの曲を、甘さ控えめに、むしろストレートに演奏した。アンコールにハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」から第2楽章をクライスラー編曲で弾いた。ウィーン・プロにふさわしい選曲で、なるほどな、と思った。

 3曲目はフランツ・シュミットの交響曲第4番。出産後に急死した娘を追悼する曲といわれるが(そして、それはそうなのだろうが)、1932年から翌33年にかけて作曲されたその時期は、ヒトラーがドイツで政権を取る時期に重なる。ヨーロッパ中が緊張していたが、とりわけオーストリアの緊張は他国の比ではなかったろう。この曲にはその緊張が投影されている。一作曲家をこえた時代相が投影された曲だ。

 演奏はアンサンブルがよく練られ、うねるような表現をもつものだった。オーケストラと指揮者のこの曲にかける思いと準備が伝わった。わたしには端正な造形を聴かせるイメージがあった角田鋼亮の、思いがけない本領にふれる思いがした。トランペット、ホルン、チェロ、イングリッシュホルンなどのソロもよかった。
(2021.11.5.サントリーホール)
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イスラエル博物館所蔵「印象派・光の系譜」展

2021年11月03日 | 美術
 10月はいろいろあって疲れがたまった。美しいものが見たくなって、三菱一号館美術館で開催中の「印象派・光の系譜」展に行った。会場に入るなり、コローの作品が並んでいて、癒される思いがした。

 本展はエルサレムのイスラエル博物館から印象派の作品を借りてきたものだ。コロー、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、お馴染みの画家の作品が並ぶ。もっとも作品それぞれは初来日のものが多いので、新鮮さがある。

 本展で異彩を放つのは、レッサー・ユリィLesser Ury(1861‐1931)という画家の作品だ。ユリィの作品は4点来ているが、その中の「夜のポツダム広場」は本展のホームページ(※)に画像が載っているので、まずその作品に触れると、それはベルリンの繁華街のポツダム広場の夜の情景を描いている。雨が降っている。道行く人々は傘をさしている。ネオンサインが雨に煙る。レストランの明るい光が路面に映る。画面全体からポツダム広場の夜の賑わいが伝わる。

 「夜のポツダム広場」の隣に「冬のベルリン」という作品が展示されている。こちらは午前または午後のベルリンの大通りだ。ベルリンでは雪が降ることもあるが、この日は雨が降ったのだろう。雨上がりの歩道を人々が行く。人々の影が濡れた路面に映る。雨上がりのさわやかな空気が伝わる。

 あとの2点にも触れたいのだが、画像を紹介できないので省略する。ともかくわたしはレッサー・ユリィという画家に興味をもった。調べてみると、ユリィはドイツ印象派の画家のひとりだ。ドイツ印象派というと、マックス・リーバーマン、ロヴィス・コリント、マックス・スレーフォークトの3人が有名だが、ユリィはその同時代人だ。リーバーマンと同様に、ユリィもユダヤ系だったようだ。リーバーマンは晩年にナチスの迫害にあったが、ユリィはどうだったのだろう。

 ユリィについてはこのくらいにして、他の画家の作品にも触れておきたい。本展のホームページに画像が載っている作品でいうと、ゴーガンの「犬のいる風景」とボナールの「食堂」に惹かれた。まずゴーガンの「犬のいる風景」は、遠目からその作品を見たとき、異様な迫力を感じた。赤紫色の土地と緑色の林が描かれている。それらの色に艶がない。犬と鶏の闘いが小さく描かれている。本作はゴーガンが亡くなった年に描かれた作品だ。死を前にしたゴーガンの心象風景が感じられる。一方、ボナールの「食堂」は、テーブルについた女性の黄色い服と、卓上のレモンとバナナとが、黄色のハーモニーを織りなす。ゴーガンとは対照的に、穏やかで、どこかメランコリックな作品だ。
(2021.11.2.三菱一号館美術館)

(※)本展のホームページ
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