Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

井上道義/読響

2021年09月30日 | 音楽
 井上道義指揮の読響の定期。プログラムは、ゴリホフ(1960‐)のチェロ協奏曲「アズール」、ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲、ショスタコーヴィチの交響曲第9番。通り一辺倒ではなく、尖がったプログラムだ。じつはこれは、当初はイスラエルの指揮者イラン・ヴォルコフのために組まれたものだ。ヴォルコフが来日中止になったため、井上道義が引き継いだ(曲順はストラヴィンスキーとゴリホフを入れ替えた)。経緯はともかく、いかにも井上道義らしいプログラムだ。

 ゴリホフは2014年に日生劇場で、スペインの詩人ガルシア・ロルカをテーマにしたオペラ「アイナダマール」が上演されたので、わたしにも馴染みの作曲家になった。当時ゴリホフの他の作品も聴いてみた。その中では「マルコ受難曲」に仰天した。2000年のバッハ没後250年を記念して国際バッハ・アカデミーが4人の作曲家(ゴリホフ、グバイドゥーリナ、リーム、タン・ドゥン)に委嘱した受難曲のひとつだが、ゴリホフのその曲は、他の作曲家とはちがって、現代音楽の文脈から離れた、ラテン音楽だ。わたしは生気にあふれたその音楽に魅了された。

 「アズール」は仕掛けが満載の曲だと、実演を聴いて(実演を見て)わかった。まず独奏楽器だが、チェロ協奏曲なので、チェロが独奏楽器だが(演奏は宮田大)、それ以外にアコーディオンとパーカッション2人も独奏楽器に準じる。これらの4人が指揮者の前に並ぶ。

 次にオーケストラだが、弦楽器が2群に分かれ、指揮者の左右に並ぶ。しかも注目すべきことには、手前から奥に、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、チェロの順だ。たしかに各楽器の動きを追うと、ヴィオラがもっとも積極的なようだ。コントラバスは中央の奥に並ぶ。木管楽器と金管楽器は左手の奥。打楽器、ハープ、チェレスタとソロ・ホルンは右手の奥。以上、想像してみてほしい。きわめて独創的な配置だ。

 大編成のオーケストラなので、独奏チェロなどにはPAが使われる。多少人工的だが、音像が大きく浮き上がる。音楽は色彩的で、甘く、親しみやすい。衝撃的なのは、たぶん第3楽章「推移」の部分だと思うが、独奏楽器群の4人がジャム・セッションを繰り広げることだ。のりにのった演奏だった。この部分はプログラム・ノートには「独奏チェロのアルペッジョが延々と続く」(柴辻純子氏)とあるが……。

 ストラヴィンスキーの管楽器のための交響曲とショスタコーヴィチの交響曲第9番は、一言でいって、洗練された演奏だった。井上道義は独りよがりに走りださず、客観性を保ち、読響の高度なアンサンブルがそれを支えた。
(2021.9.29.サントリーホール)
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沼尻竜典/N響

2021年09月27日 | 音楽
 沼尻竜典指揮のN響の定期。1曲目はモーツァルトのクラリネット協奏曲。クラリネット独奏は来日中止になったアンドレアス・オッテンザマーの代役に立ったN響首席の伊藤圭。代役ではあるが、バセット・クラリネットを使用するというおまけがついた。

 昔(調べてみたら、1985年4月だ)、日本フィルの定期にザビーネ・マイヤーが出演してこの曲を吹いたとき、バセット・クラリネットを使用した記憶がある(指揮はイヴァン・フィッシャーだった)。そのときの演奏風景は覚えているのだが、肝心の音色はどうだったろう。ドスのきいた中低音が耳の底に残っている(ような気がする)。

 伊藤圭の演奏では、中低音云々というよりも、全体にくすんだ音色が印象的だった。オーケストラは弦楽器が8‐8‐6‐4‐2と小ぶりだったこともあり、クラリネットとオーケストラが一体となり、穏やかで丸みのある、調和した世界を形作った。

 ただ、あまりにも抵抗がなく、なにも起こらない世界に、わたしは物足りなさを覚えた。予定されていたオッテンザマーが来たらどうなっていたか、というよりも、オッテンザマーでなくてもよいのだが、およそ演奏には、なにかが生起し、波風が立つ、揺らぎの瞬間が必要ではないか。すべてが予定調和的に進行する演奏は、なにかを取りこぼしているような気がする。

 2曲目はマーラーの交響曲第1番「巨人」。沼尻竜典はこの曲が得意なのだろうか。2018年12月に日本フィルの定期でもこの曲を振り、名演を聴かせた。今回もそれを思い出させる演奏だった。流れがよく、淀みのない演奏だ。それは沼尻竜典のデビューのころからの特徴だが、近年はそれに加えて、自然な呼吸感が備わった。そのため、聴いていて疲れない。第1楽章のコーダや第2楽章の(三部形式の両端部分の)コーダなどは、テンポを巻き上げ、目の覚めるようなスリルがあったが、その部分でさえ爽快感がある。

 だが、それ以外の、あるいはそれ以上の、なにがあったろうか。流れのよさと呼吸感があればそれでよいではないかと、わたし自身の声が聞こえるが、でも足りないものがあるとすれば、それは滓(おり)のようなものかもしれない。滓のようなものとは抽象的な言い方だが、具体的に言えば、呼吸感の先にある声楽的な掘り下げといったらよいか。沼尻竜典のような才能の持ち主にはもっと先に行ってもらいたいと思うからだ。

 個別の楽員では、モーツァルトのクラリネット協奏曲を吹いた伊藤圭がマーラーの「巨人」でも一番奏者に入った。驚いて、その音を追った。見事なものだ。ヴィオラの首席には元首席奏者の川本嘉子が入った。懐かしい。また「巨人」のティンパニの二番奏者には日本フィルの元ティンパニ奏者の三橋敦が入った。久しぶりなので、わが目を疑った。
(2021.9.26.東京芸術劇場)
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B→C 東条慧ヴィオラ・リサイタル

2021年09月22日 | 音楽
 東京オペラシティのB→Cコンサートに東条慧(とうじょう・けい)というヴィオラ奏者が登場した。東条慧はパリとベルリンで学び、今年からデンマークのコペンハーゲンで王立歌劇場の第一首席ヴィオラ奏者として試用期間を開始したそうだ。わたしには未知の演奏家だが、プログラムに惹かれて、聴きに行った。

 プログラムの前半は、バッハの「無伴奏チェロ組曲第5番」(ヴィオラ版)とリゲティの「無伴奏ヴィオラ・ソナタ」を交互に弾くもの。バッハの第1曲「プレリュード」では演奏に硬さが感じられたが、徐々にほぐれて、第5曲の「ガヴォット」と第6曲の「ジグ」ではよくこなれた自由闊達な演奏になった。

 リゲティの曲も、バッハと同様に全6曲からなるが、こちらは第1曲から自信に満ちた演奏が繰り広げられた。楽器もよく鳴った。そのペースは最後まで続いた。

 おもしろかったのは、バッハの第4曲「サラバンド」だ。この曲は重音が使われず、単音で「分散和音の主題が朗々と歌われる」(東川愛氏のプログラム・ノーツより)が、普段聴いても奇妙に抽象的に感じられるこの曲が、リゲティと交互に演奏される中で聴くと、これはバッハかリゲティかと戸惑うような感覚になった。

 プログラム後半は、まず藤倉大の2人のヴィオラ奏者のための「Dolphins」。もう一人のヴィオラ奏者はイギリスのマンチェスターにあるBBCフィルハーモニックの副首席奏者・牧野葵美(まきの・きみ)。「膨らんではすぼむ起伏に富んだフレージングが襞のように織り成され、音楽全体にリリックな情緒が際立っています」という曲(同上)。2人のヴィオラ奏者がお互いのフレーズを引き取りながら、水面を跳躍する2頭のイルカのように、どこまでも飛んでいく。東条慧はいうまでもないが、牧野葵美も優秀なヴィオラ奏者のようだ。

 次はプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」から数曲をヴィオラとピアノ用に編曲したもの。編曲者はショスタコーヴィチと深い親交を結んだベートーヴェン弦楽四重奏団のヴィオラ奏者・ボリソフスキー。第1曲「前奏曲」が始まると、バッハ、リゲティ、藤倉大と続いた緊張感のある音楽から一気に解放され、甘いエンタメ性のある音楽に気持ちが緩んだ。ピアノは草冬香(くさ・ふゆか)。

 最後はジョージ・ベンジャミンの「ヴィオラ・ヴィオラ」。この曲も藤倉大の「Dolphins」と同様に2人のヴィオラ奏者のための曲だ。藤倉大の曲も音が美しいが、藤倉大のその曲が明るい美しさだったとすれば、ベンジャミンのこの曲は透明な美しさだ。曲想は藤倉大よりシリアスかもしれない。わたしは気持ちが緩んでいたので、立て直しに苦労した。
(2021.9.21.東京オペラシティ・コンサートホール)
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桐野夏生「東京島」

2021年09月18日 | 読書
 桐野夏生の「日没」(2020年)と「バラカ」(2016年)を読んだ後、桐野夏生からいったん離れる前にもう一作と思い、「東京島」(2008年)を読んだ。

 「東京島」を選んだ理由は、谷崎潤一郎賞受賞作品だからだ。「日没」と「バラカ」はエンタメ小説的な性格があったので、そのような作風と純文学のイメージが強い谷崎潤一郎賞とがどう結びつくのか、戸惑った。

 読んでみると、「東京島」の作風は「日没」や「バラカ」と変わらなかった。「東京島」には喜劇的な面があり、「日没」と「バラカ」はシリアスな作品なので、その点は対照的だが、ストーリーの奔放さと文体の明確さは共通する。谷崎潤一郎賞の趣旨をあらためてチェックすると、「時代を代表する優れた小説・戯曲」とあり、純文学とかエンタメ小説とかの区別はなかったので、「東京島」は「時代を代表する」小説と認められたのだろう。

 「東京島」はどんな小説かというと……、隆と清子という夫婦がクルーザー船で航海中に嵐に遭い、南海の孤島に漂着する。そこは無人島だった。バナナやタロイモなどが豊富に採れる。食べ物には困らなかった。3か月後に日本人の若者23人が漂着した。与那国島のバイトから逃げ出したが、航海中に台風に遭い、流れ着いたようだ。さらに3年後には11人の中国人が何者かによってこの島に追放された。結果、30数名になった男たちの中で、女性は清子一人だった。

 そのような状況にあって、清子はどう生きるか。清子はサバイバルをかけて、打算と裏切り、その他なんでもありの行動をとる。けっして品の良い行動ではない。品の良さなど、文明のかけらさえないこの孤島では、腹の足しにもならない、といわんばかりだ。正直にいって、わたしの中には辟易する気持ちもなかったわけではないが、結局は清子の生き残りをかけたパワーに圧倒されて読んだ。

 「東京島」を読んでいて気付くのは、本作は(執筆当時の)平成の社会のパロディだということだ。だから谷崎潤一郎賞を受賞したのかもしれない。だが、意外にも、読後感は神話に近かった。荒ぶる神々の奔放な冒険譚を読んだような読後感が残った。

 ハッとしたのは最後の場面だ。ネタバレ厳禁なので、具体的な記述は避けるが、最後の場面では生き残った人々が子どもたちに孤島での体験を語る。ところが、奇妙なことに、その体験談はリアルな出来事の毒が薄められ、人畜無害な物語になっている。それが正史になるのだろう。一方、正史の誕生にともない、リアルな体験は神話になる。わたしは石川淳の「修羅」を思い出した。「修羅」は戦国時代の下剋上を描いた作品だが、リアルな出来事と正史との断層を問いかける。その点で「東京島」は「修羅」に似ている。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2021年09月12日 | 音楽
 リニューアルされたN響Cプロ。その第一回となる9月定期はパーヴォ・ヤルヴィの指揮でバルトークの組曲「中国の不思議な役人」と「管弦楽のための協奏曲」が演奏された。

 NHKホールが改修中なので、東京芸術劇場で開催されたが、音が飽和状態になりやすい同劇場が、N響の音の粒子で満たされ、その一粒々々が目に見えるようだった。それは壮観といってもいいほどだ。とくに音がぎっしり詰まった「中国の不思議な役人」は、まるで精密機械が超高速で安定稼働を続ける光景を見るような演奏だった。

 一方、「管弦楽のための協奏曲」は「中国の不思議な役人」とくらべると音の数が少ないので、音と音との間が透けて見えるような感覚だったが、それぞれの音が拮抗し、たしかな輪郭を備えた音たちがバランスをとって存在するような演奏だった。

 パーヴォ・ヤルヴィがN響で成し遂げた成果は、驚くべき水準だ。首席指揮者としての最後のシーズンを迎えたパーヴォは、読響でのカンブルランがそうであったように、最高の状態で任期を終えようとしている。今回の演奏は末永く記憶に残りそうだ。

 さて、リニューアルされたCプロだが、初めてそれを体験した感想はどうだったか。まずリニューアルの内容をおさらいすると、(1)休憩なしの60~80分の公演、(2)1日目(金曜夜の公演)の開演時間の夜7時半への繰り下げ、(3)開演前の約15分のミニコンサートの開催の三本柱となっている。

 「休憩なしの60~80分の公演」だが、これは意外に疲れるものだと思った。今回は「中国の不思議な役人」(組曲版)が約20分、「管弦楽のための協奏曲」が約40分なので、演奏時間は約60分だ。それをじっと息を詰めて聴くと、終演後は思いがけず疲労感が残った。演奏会には休憩が必要な要素らしい。

 次に「開演前の約15分のミニコンサート」だが、今回はブラームスのクラリネット五重奏曲から第2楽章が演奏された。秋の気配にふさわしい選曲だが(そして演奏もよかったが)、抜粋演奏ではやはり物足りない。また、たとえ抜粋演奏でなくても、ミニコンサートがショート・プログラムの本公演の補てんになるとは思えなかった。

 「1日目(金曜夜の公演)の開演時間の夜7時半への繰り下げ」は、たしかに一定のニーズがあるだろう。それをふくめて、リニューアル全般への評判はどうなのだろう。たぶんN響事務局には多くの声が届いていると思う。多様な意見があるだろう。それらに丹念に耳を傾けてほしい。
(2021.9.11.東京芸術劇場)
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山田和樹/日本フィル

2021年09月11日 | 音楽
 山田和樹指揮日本フィルの定期。プログラムはショーソン(1855‐1899)の「交響曲変ロ長調」と水野修孝(1934‐)の「交響曲第4番」。

 ショーソンの「交響曲変ロ長調」は亡きジャン・フルネの十八番だった。わたしは都響と日本フィルで聴いたことがある。どちらも淡い色彩がたゆたう名演だった。ジャン・フルネの演奏が静謐の演奏だったとすれば、山田和樹の演奏は、オーケストラをよく鳴らす、ダイナミックな演奏だった。

 水野修孝の交響曲第4番は驚きの曲と演奏だった。わたしが大学生のころ、知人が所属していた千葉大のオーケストラを何度か聴きに行ったことがあり、そのとき指揮していたのが水野修孝だ。そんな想い出がある作曲家なので、未知のこの曲を楽しみにしていた。演奏会の前々日、日本フィルのツイッターでこの曲のCDが出ていることを知った。図書館の資料を検索すると、わたしの区にはなかったが、隣の区にはあったので、借りてみた。

 正直にいって、あまりおもしろいとは思わなかった。でも、諦めるのは早いと気を取り直した。これが実演でどう聴こえるかに興味の向きを変えた。そんな状態で聴いた演奏だが、案に相違して、驚くほどおもしろかった。ライブでなければおもしろさが伝わらない曲だと思った。

 全4楽章からなるが、第1楽章は「「緩、急、緩」のアーチ構造をとる」(相場ひろ氏のプログラム・ノート)その冒頭の緩の部分が、まるで武満徹のように聴こえた。それはCDでも感じていたことだが、それを確信し、さらに武満徹へのオマージュのように聴こえることに打たれた。作曲当時、武満徹はすでに亡くなっていたが、同世代の武満徹への想いがあったのかどうか。

 第2楽章の末尾は、武満徹がいつの間にかアルバン・ベルクになるような不思議な感覚があった。武満徹とベルクは親和性が高いと思うが、それを思い出させる音だった。

 第3楽章と第4楽章こそは、CDとはまったくちがう、ライブでなければわからないおもしろさがあった。第3楽章は、途中で突然、昭和の時代の映画音楽のような、ノスタルジックな甘い音楽が展開する。それがライブでは肯定的に聴こえた。第4楽章は「ドラムが管弦楽からディスコ・ミュージックやヒップホップを引き出」すが(同上)、そのノリの良さとゴージャスなサウンドはライブの魅力だ。それらの楽章での山田和樹と日本フィルの演奏は、クリアな音で、解像度の高い、見事なものだった。会場には作曲者の水野修孝も来ていた。自身の曲のリフレッシュされた演奏に喜んだのではないかと思う。
(2021.9.10.サントリーホール)
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友人がいたアパート

2021年09月09日 | 身辺雑記
 用事があって大田区立蒲田図書館に行った。蒲田図書館はJR蒲田駅から徒歩で15分ほどだ。駅前の繁華街を抜けて、昭和の雰囲気が残る街並みを行く。わたしの中学時代の友人がその一角の木造アパートに住んでいた。わたしが生まれ育った家は多摩川沿いにあり、友人が家族と住むそのアパートまでは徒歩で30分くらいかかったが、中学から高校のころはよく遊びに行った。

 蒲田図書館に着くと、場所が少し移っていた。かつては区立体育館に隣接していたが、いまはその近くに建て替えられていた。体育館も建て替えられていた。体育館も図書館も友人がいたアパートから徒歩で1~2分だ。かつては壊れかけた柵をくぐって行くのが近道だったが、いまでは広い道になっていた。

 図書館を出た後、友人がいたアパートに行ってみた。友人は1985年に34歳で亡くなった。癌だった。友人のアパートはなくなっていた。友人が住んでいたころから古びた時代遅れのアパートだったので、なくなったのは当然だが、跡地と思われるあたりにたった民家が(こういっては申し訳ないが)いまにも崩れそうな外見なので、時間の経過を呑み込めずに当惑した。

 友人の家族は、友人と両親と弟の4人だった。その4人がたぶん4畳半と6畳だったと思うが、二間に住んでいた。小さな台所が廊下にあった。トイレは共同だった。昭和の時代にはそのようなアパートに住む家族は当たり前のようにいた。お父様は共産党員だった。佐世保でパージにあい、東京に出てきたそうだ。小柄で温厚なお父様だった。お母様も優しかった。わたしは自分の家にいるよりも友人の家族といるほうが心地よかった。

 そのアパートは想い出がいっぱいつまったアパートだった。それがなくなり、跡地を見ても、アパートがたっていたあたりに家が乱雑にたっているので、昔の記憶がよみがえらず、それがショックというよりも、諦めに似た気持ちを感じた。

 近所の酒屋に見覚えがあった。当時もあったような気がする。ある日、友人とわたしで、お互いに金がなかったので、ジンを買った。その店はこの店ではなかったか。友人のアパートでジンを飲んだ。葉っぱ臭かった記憶がある。

 蒲田駅への帰り道は吞川沿いに歩いた。ドブ川の匂いがした。浚渫工事をしているので、そのせいかもしれないが、ともかく匂う。昔の記憶がよみがえった。友人のアパートへ行くには呑川を渡るのだが、そのときも匂った。蒲田の繁華街に戻った。友人とよく行ったパブも喫茶店もいまはないが、雑然とした繁華街には、昔の雰囲気が残っていた。
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2021年09月04日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期。プログラムは前半が千住明(1960‐)の「月光-尺八、十三弦とオーケストラの為の-」と大島ミチル(1961‐)の「箏と尺八のための協奏曲-無限の扉-」、後半がショスタコーヴィチの交響曲第5番。

 あらためていうまでもないが、藤岡幸夫は東京シティ・フィルの首席客演指揮者に就任して以来、日本人の作品とイギリス音楽とをプログラムの柱にしている。今回は日本人作品が2曲プログラムに組まれた。しかも邦楽器を使った作品である点が今回のプログラムの特徴だ。

 また作曲者の千住明と大島ミチルは、クラシック音楽だけではなく、テレビ番組、映画、アニメ、CMなどで幅広く作曲活動を続ける人である点も特徴だ。そんな二人の作品なので、今回演奏された2曲は難解な現代音楽ではなく、耳に馴染みやすく、すっと入っていける曲だ。なんの予備知識もいらず、初めて聴いた人でも親しめる。そういう音楽を定期演奏会で取り上げるのも藤岡幸夫のカラーのひとつだろう。

 千住明の「月光」は文字通り月夜をイメージさせる曲だ。約8分の音画だと思って楽しめばよいのだが、発展性がないので、わたしは物足りなかった。もうひとつ、オーケストラがモヤモヤしていたことも、楽しめなかった一因だろう。

 大島ミチルの「無限の扉」は楽しめた。オーケストラのモヤモヤ感がなく、フランス近代の音楽のような明るい透明感があった。全3楽章、演奏時間約20分の堂々たる曲だが、少しももたれず、サラッとした爽快感があった。なお、言い遅れたが、以上2曲の独奏者は、尺八が藤原道山、十三弦/箏が遠藤千晶だった。

 ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、音量が通常の1~2割増しの、大声でまくしたてるような演奏だった。もちろん第3楽章などは抑えに抑えた音量なので、一概にはいえないのだが、指揮者がクライマックスと捉えた箇所では、大音量の激烈な演奏になった。東京シティ・フィルは高関健に鍛えられたアンサンブルで応えたが、今回のような指揮者の要求が続くなら、アンサンブルが荒れる懸念がある。

 藤岡幸夫はプレトークで、第4楽章のコーダについて「金管のファンファーレがフォルテ2つなのにたいして、弦の刻みがフォルテ3つなので、今回はその通りにやる」といっていた。たしかにそうやったが、そうすると異様な効果が生まれた。それは強制された歓喜(=金管のファンファーレ)を民衆が必死になって担う、その苦しさ、あるいは抵抗を表しているように感じられた。
(2021.9.3.東京オペラシティ)
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東京二期会「ルル」

2021年09月01日 | 音楽
 東京二期会の「ルル」。カロリーネ・グルーバー演出の当プロダクションのポイントは、中村蓉のダンスだろう。ダンスの起用は最近のオペラ上演の流行だが、多くの場合はダンスが前面に出すぎて、煩わしく感じることもあるのだが、当プロダクションの場合は、第1幕と第2幕ではひじょうに控えめだった。第2幕の後に「ルル組曲」から「間奏曲」と「アダージョ・ソステヌート」が演奏されたが、そこで初めてダンスが前面に出た。そしてダンスの終了とともに上演は終わった。

 ダンサーはルルと同じ衣装をつけている。ルルの分身だ。ルルが男たちの欲望を浴びながら、明るく陽気にふるまうとき、ダンサーは舞台の隅にうずくまり、じっと耐えている。その姿はルルの内面的な怯えと傷を表すようだ。見方によっては、孤児だったころの幼いルルがいまのルルを見ているようでもある。どちらにしても同じだろう。

 第2幕が終わり、切れ目なく「ルル組曲」に移行するとき、ダンサーは舞台の前面に出て、ルルに語りかけるように踊る。ルルと一体化する。やがてダンサーは舞台を去る。そのとき「アダージョ・ソステヌート」の「ルル!私の天使!」の歌声がPAから流れる。本来なら第3幕(未完)で瀕死のゲシュヴィッツ伯爵令嬢がルルの遺体に歌いかける歌だが、ルルの分身がルルに歌いかける。ルルの引き裂かれた内面が克服されたのだろう。

 「ルル!私の天使!」のようなコンテクストの転換は、ほかの場面にもあった。第1幕第1場で画家がルルの衣装の裾を持ち上げる場面では、ルルの衣装を着た(女装をした)画家が自分の裾を持ち上げる。また第2幕第1場で瀕死のシェーン博士がゲシュヴィッツ伯爵令嬢を見て「悪魔が!」という場面は、ルルにむかってその言葉をいう。どちらも演出コンセプトの帰結としての転換だろう。

 2幕版での上演なので、結末は開かれている。どう想像しようと観客の自由だ。わたしは思った。ルルは未完の第3幕では街娼に身を落とし、切り裂きジャックに殺されるかもしれないが、ともかく自分を肯定し、自分の意思で生きることを覚えたのだ、と。

 マキシム・パスカル指揮の東京フィルは、全編にわたって、しなやかでニュアンス豊かな演奏を繰り広げた。わたしは国内・国外で何度かこのオペラを観ているが、細かいニュアンスの点では屈指の演奏だった。

 ルルを歌った森谷真理は、7月に新国立劇場で「カルメン」のフラスキータを聴いたばかりだが、そのときには想像もできなかったすばらしさだ。高音が頻出する難役をよく歌った。またシェーン博士を歌った加耒徹(かく・とおる)は、代役とは思えない出来だった。
(2021.8.31.新宿文化センター)
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