Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

メルニコフ

2015年03月30日 | 音楽
 東京春祭の演奏会の一つ、アレクサンドル・メルニコフのピアノ・リサイタルを聴いた。曲目はショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」全曲。

 メルニコフはこの曲をすでに日本でも何度か弾いているそうだ。なるほど、そういわれてみると、手馴れた感じがする。24曲ある前奏曲の、それぞれの性格付けが計算され尽くしているし、大半は3声で書かれている各フーガ(もちろん例外はある)も各々の声部が明瞭に浮き出る。

 もう一つ興味深いことは、休憩の入れ方だった。第12曲が終わったところで休憩を入れるのは、ちょうど中間地点なので、当たり前といえば当たり前だが、第16曲が終わったところで、もう一度休憩を入れた。これが効果抜群だった。

 いうまでもないが、第1曲ハ長調で始まったこの作品が、短調の平行調をはさみながら、シャープを1個ずつ増やしていき、第13曲嬰へ長調でシャープ6個までいく。第14曲嬰ニ短調(平行調)になるべきところを、変ホ短調(フラット6個)に読み替え、以下順にフラットを減らしていく。途中、第16曲変ロ短調(フラット5個)で休憩が入ったわけだが、こうなると、否が応でも第16曲が印象に残る。

 第16曲の前奏曲はパッサカリアで書かれている。短いながらも見事な前奏曲だ。その曲が鮮明に印象付けられる。帰宅後、確認したが、この曲は全曲完成後に差し替えられたものだ。第1曲から順番に書かれたこの作品の、これだけが例外だ。ショスタコーヴィチの思い入れがあったのだろう。

 2度目の休憩後は、第17曲以下、個性的な曲が続くが、聴き手としては、スタミナ配分もよく、クリアーな状態で聴くことができた。

 最後の第24曲ニ短調(フラット1個)の劇的なフーガは、ピアノ曲というよりも、交響曲のフィナーレのようだ。輝かしいフィナーレ。ショスタコーヴィチがピアノで交響曲を作曲しているときの、仕事場に鳴り響くピアノの音のようだ。

 それにしても、この作品は一筋縄ではいかない。驚くほど平明な曲もあれば(まるで無名性を意図しているかのようだ)、ショスタコーヴィチらしい語法が全面的に展開される曲もある。甘美なロマンティシズムが溢れる曲もあり、ショスタコーヴィチにはこんな一面があったのかと驚かされる。ジダーノフ批判(1948年)の後に隠忍自重を強いられたショスタコーヴィチの、日記のようなものだろう。
(2015.3.29.東京文化会館小ホール)
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グエルチーノ展そして……

2015年03月28日 | 美術
 仕事を終えて国立西洋美術館の夜間開館へ行った。上野駅を出ると、いつにない人混みだ。そうか、お花見か――と。

 グエルチーノ展。グエルチーノと聞いても、ピンとこなかったが、常設展にある「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(※1)の画家だと分かって、そうか!と思った。

 「ゴリアテ……」を初めて見たのはいつだったろう。そんなに前ではない。常設展を見ていたら、目にとまった。はて、こんな作品があったろうかと思った。天を仰ぐダヴィデの恍惚とした表情に惹かれた。これを描いたのはどういう画家だろうと思った。でも、とくに調べもせずに、それっきりになっていた。昨年、本展のチラシを見て、グエルチーノという画家だったことを知った。

 グエルチーノ(1591‐1666)。バロックの画家。カラヴァッジョ(1571‐1610)やグイド・レーニ(1575‐1642)に続く世代だ。主に宗教画を描いた。いかにもバロックの画家らしい作品だ。本展では大作がいくつも並んでいる。壮観だ。

 本展を見て、グエルチーノの生涯や画風の変遷がつかめた。「ゴリアテの首を持つダヴィデ」も、そういったパースペクティヴの中で、収まるべきところに収まった。理解を深めることができて有難い。

 本展の中で1点だけ挙げると、「キリストから鍵を受け取る聖ペテロ」(※2)に感銘を受けた。12使徒の一人、ペテロは、キリストから天国の鍵を預かった。本作はまさに鍵を預かる瞬間を描いたものだ。ペテロの感動と畏れ。堂々とした、安定した構図だ。縦378㎝、横222㎝。大きい。見上げるほどの大きさだ。

 本展は、時間の許すかぎり、いくらでも見ていたかった。でも、もう一つ目的があったので、名残惜しかったが、常設展に移動した。この3月に展示が始まったばかりのフェルメールに帰属する「聖プラクセディス」(※3)を見るためだ。

 フェルメール!!!真作かどうかは研究者の間で意見が分かれているそうだ。もし真作だとしたら、フェルメールの最初期に属する作品。フィケレッリという画家の作品の模写だそうだ。

 早く見てみたいと、はやる心を抑えて、作品を探した。あれだ!あれがそうだ、と。室内画に転じる前の時期の物語画に通じるものがある。フェルメールかもしれない――。ファンとしてはそう思いたい。そう思って見ているうちに、胸がドキドキしてきた。
(2015.3.27.国立西洋美術館)

(※1)「ゴリアテの首を持つダヴィデ」
http://collection.nmwa.go.jp/P.1998-0001.html

(※2)「キリストから鍵を受け取る聖ペテロ」
http://www.tbs.co.jp/guercino2015/art/index02.html

(※3)「聖プラクセディス」
http://www.nmwa.go.jp/jp/information/whats-new.html#news20150313
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小泉和裕//都響

2015年03月24日 | 音楽
 小泉和裕が振った都響の3月定期Bシリーズ。曲目はベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」。曲が曲だし、小泉和裕は最近、円熟味を増しているので、期待して出かけた。

 第1曲「キリエ」。Pブロックを埋め尽くした合唱団から圧倒的な音量が出た。まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかるようだ。少々たじろぐ。巨大な音圧を受け止めきれなかった。合唱は栗友会合唱団と武蔵野音楽大学室内合唱団。

 第2曲「グローリア」。勢い込んで始まった冒頭部分、めくるめくような音の奔流だった。凄い。けれども、その一方で、近づけないような、音に弾かれそうな感覚になった。

 第3曲「クレド」になって、やっと落ち着いた。起伏にとんだ演奏だ。入念な設計が施されている。その入念さに舌を巻いた。そうか、第1曲も第2曲も、全体の設計の中の一部分だったのかと気付いた。

 そう分かってみると、第4曲「サンクトゥス」も第5曲「アニュス・デイ」も、全体設計の中での位置付けがよく分かった。明快な設計だ。なお「サンクトゥス」のヴァイオリン・ソロは矢部達哉が担当した。艶のある甘美な音色だった。

 「アニュス・デイ」が穏やかに終わって、盛大な拍手が起きたが、わたしは内心、空疎な気分に陥った。なにも残っていなかった。怪物的なこの曲から、なにも伝わってこなかった。演奏上の設計の、その見取り図だけが残った。

 昨年聴いたメッツマッハー/新日本フィルの演奏では、ベートーヴェンの精神の強靭な張りを感じた。人並み外れた強靭さだった。ベートーヴェンの精神は、常人には及びもつかない強靭なものだったと思い知らされた。でも、今回はなにもなかった。

 独唱陣は、アルトの山下牧子に感銘を受けた。強い声の持ち主だ。その強い声はベートーヴェンの音楽の深いところに触れていた。新国立劇場で何度も聴いている歌手だが、(オペラもいいが)こんな適性があるとは知らなかった。テノールの小原啓楼は、新国立劇場の「沈黙」以来の大ファンだ。今回も熱い歌唱だった。バスの河野克典はもうヴェテランだ。文句なし。

 ソプラノは、当初発表の安井陽子が(出産準備のため)シュレイモバー金城由起子に代わり、さらに公演直前になって(体調不良とのことで)吉原圭子に代わった。そういうハンディがあったので、一概にはいえないが、アンサンブルの中で影が薄かった。
(2015.3.23.サントリーホール)
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宮本文昭/シティ・フィル

2015年03月22日 | 音楽
 東京シティ・フィルの3月定期。宮本文昭が3年の任期を終えて退任する最後の定期だ。プログラムは、ビゼー、ドビュッシー、ラヴェルのオール・フランス・プログラム。

 最後の「ダフニスとクロエ」第2組曲が終わって、カーテンコールが続く中、弦の奏者たちが譜面を用意し始めた。アンコールがあるな――と。宮本文昭が拍手を制して語り始めた。「このオーケストラは大変優秀なオーケストラで、指揮者がいなくても演奏できます。では、僕のこの3年間は一体なんだったのか(笑い)。」

 演奏された曲は、予想どおり、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調K.136」の第1楽章だ。宮本文昭は最初のキューだけ出して、指揮台を下りた。指揮者なしの演奏。弦の音が美しい。微妙なニュアンスも付いていた。

 再び宮本文昭の登場。拍手。オーケストラと合唱団(東京シティ・フィルコーア)から(だろうと思う)花束の贈呈。ステージ上の合唱団は大きな横断幕を掲げた。宮本文昭への感謝と今後の活動への応援が書かれていた。

 3月は別れの季節だが、これもその一つ。やっぱりジーンときた。指揮者・宮本文昭への思いはいろいろあったが、きれいに任期が終わってよかった。ボロボロになるのはこの人には似合わない。そのことは本人が一番よく分かっているだろう。

 この3年間の任期の中で確実に言えることは、木管に優秀な若手を入れたことだ。前述の「ダフニスとクロエ」第2組曲の中の「無言劇」でフルート・ソロを吹いた神田勇哉は、その象徴のように感じられた。音楽の表面をなでるのではなく、内奥に踏み込んだソロだった。宮本文昭の薫陶の賜物だ。

 もう一つは、宮本文昭の人脈で呼んだ指揮者たちを、今後どう継続するかだ。マネジメント側の手腕が問われる。

 4月からは新体制になる。高関健はプロ中のプロだ。衒学的で、かつ職人的。宮本文昭とは180度異なるキャラクターだ。東京シティ・フィルとの付き合いは、宮本文昭の登場よりも前に遡る。新年度のプログラムも意欲的で期待できる。

 一つ心配なことは、高関健が、このところ、譜面にこだわるあまり、出来上った演奏が妙に整理されすぎている観があることだ。高関健はこの地点に止まるべきではない。4月からの新シーズンが、高関健にとっても、シティ・フィルにとっても、実り多い日々になることを願ってやまない。
(2015.3.21.東京オペラシティ)
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ラザレフ/日本フィル

2015年03月21日 | 音楽
 ショスタコーヴィチ2曲というプログラム。普通ならお客さんの入りが悪そうなプログラムだが、その割には入っていた。ラザレフへの評価の高まりのゆえだろう。

 1曲目はピアノ協奏曲第2番。ショスタコーヴィチが息子のマキシムのために書いた曲だ。親ばかぶりが窺える曲。人間ショスタコーヴィチの素顔が出た曲だ。微笑ましいと言えば微笑ましいが、さて、曲としては――と思っていた。

 でも、面白かった。演奏がよかった。ピアノ独奏のイワン・ルージンは1982年生まれの若手だ。テクニックはもちろん、音楽性も豊かだ。音もクリアー。第2楽章がショパンのように聴こえた。演奏がそうだったから、ということもあるが、若いころにショパン・コンクールに出場したことがあるショスタコーヴィチなので(優勝はオボーリン)、ショパンのように書いたという面もあるかもしれない(若いころのスクリャービンのように)。

 アンコールが演奏された。プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番の第3楽章。速射砲のように間断なく音が撃ちこまれる曲だ。さては、ルージン、あのピアノ協奏曲では物足りなかったかと、内心笑ってしまった。

 2曲目は交響曲第11番「1905年」。日本フィルを聴いている者には想い出深い曲だ。ラザレフの日本フィル初登場のときの曲。当時の日本フィルから緊張の極みの音を引き出した。忘れられない。人生の中で何度出会えるかという演奏だった。

 あれは2003年3月だった。今から12年前だ。12年!もうそんなに――と、信じられない思いだ。つい昨日のように鮮明に覚えている。壮絶な演奏だった。1905年の第一次ロシア革命のときの凄惨な弾圧を追体験するような思いだった。

 さすがに今回の演奏には12年前のような緊張は薄れていた。その代わりに音の厚みと弾力性のあるアンサンブルがあった。聴こえるか聴こえないかの張りつめた弱音から、ホールを揺るがす大音量まで、驚くべきダイナミック・レンジの幅があった。豪快さと繊細さが共存する演奏だった。個別の奏者では、トランペット、ホルン、イングリッシュホルンの妙技があった。

 千葉潤氏のプログラムノートを読んで初めて気が付いたが、ピアノ協奏曲第2番と交響曲第11番「1905年」は同年の作だ(1957年)。そういえば作品番号も前者が102番、後者が103番だ。まったく性格の異なる両作品だが――。
(2015.3.20.サントリーホール)
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エヴァ・メイ/コルステン/読響

2015年03月20日 | 音楽
 わたしは(あまり選り好みせずに)なんでも聴く方だが、モーツァルトは別格だ。モーツァルトは特別の位置を占めている。読響がオール・モーツァルト・プロを組んだので、聴きに出かけた。指揮はジェラール・コルステン。ソプラノ独唱はエヴァ・メイ。お二人はご夫婦だそうだ。

 1曲目は交響曲第38番「プラハ」。アダージョの序奏が、けっしてルーティンに流れず、独特なドラマトゥルギーをもって演奏された。おっと思った。アレグロの主部に入ると、よく流れる。だが、機械的ではない。精巧な職人仕事のような感触だった。

 ノン・ヴィブラート奏法なので、スリムな音だ。引き締まってシャープな造形。弦が美しい。アンサンブルが見事だ。読響は3月7~8日にユトレヒトとブリュッセルでメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」を演奏したはずだ。帰国後初めての演奏会だが、まったくスタイルの違う演奏によく付いていった。

 次にエヴァ・メイが登場してコンサート・アリアを2曲。「あわれ、ここはいずこ」K.369と「うるわしい恋人よ、さようなら」K.528。コンサート・アリアを聴く機会は、ありそうで、ないものだと思った。久しぶりに聴くコンサート・アリアが新鮮だった。

 休憩後は「皇帝ティートの慈悲」序曲。オーケストラの音色が明るい。「プラハ」のときは、くすんだ音色だった。急に色彩的になった。なぜだろう。しかもよく鳴る。どんな秘密があるのだろう。はっきり計算されているようだった。

 再びエヴァ・メイが登場して「皇帝ティートの慈悲」から「夢に見し花嫁姿」。バセットホルンのオブリガート付きのロンドだ。バセットホルンは首席奏者の藤井洋子。少々控えめだった。エヴァ・メイと張り合うくらいでもよかったのでは――。

 次に「イドメネオ」からエレットラの怒りのアリア。アンコールに「後宮よりの逃走」からブロンテの喜びのアリア。エヴァ・メイの独壇場だ。超絶的なテクニックとか、大ホールに響き渡る声とか、そんなものを売り物にする歌手ではなく、正統的な表現が本物の歌手だ。

 最後に交響曲第35番「ハフナー」。心地よい音。「プラハ」と同様に12型だが、よく鳴る。普段は大編成の飽和した音に慣れているので、こういう小編成の音が快い。ホールがよく鳴っていることに気付いた。そんなことに気が付くのも久しぶりだ。その響きに身を浸した。
(2015.3.19.サントリーホール)
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マノン・レスコー

2015年03月17日 | 音楽
 旅の記録を書いていたので、遅くなってしまったが、新国立劇場の「マノン・レスコー」を観たので、その記録を。

 まず、舞台がきれいだと思った。演出のジルベール・デフロのプロダクション・ノートにあるとおり、ひじょうにシンプルな舞台だ。具体的にあれこれ詰め込まず、シンプルな装置の中で、衣装と照明の色彩が上品な美しさを醸し出す。趣味のよさが感じられる舞台だ。

 演技は、マノン/デ・グリュー/レスコーのグループと、ジェロント/舞踏教師/音楽家のグループとに分けられる。マノンたちはリアルな演技。ジェロントたちはコミカルな演技。両グループは截然と分けられている。両者の対比がこの演出の肝だ。

 大金持ちのジェロントの好色さを笑い飛ばしているわけだが、実はこの点に少し違和感があった。好色なのはいいが、ここまで愚かに描く必要はあったろうか。かりにも大蔵大臣の職にある人間だ。もっと世間知とか、狡さがあるはずではないか。ジェロントのこの描き方が、物語を底の浅いものにした。

 歌手ではデ・グリューを歌ったグスターヴォ・ポルタがよかった。昨年「道化師」のカニオを聴いたが、そのときと同様、圧倒的な感情表現だ。甘く能天気なテノールではなく、激情のテノールだ。マノンを歌ったスヴェトラ・ヴァッシレヴァは、声域によって多少のムラを感じた。むしろ容姿による貢献が大だった。

 ジェロントを歌った妻屋秀和は、いつものとおり、外人勢に交じっても少しも引けを取らない。声も体躯も立派に伍している。それだけではなく、この人の場合はドイツ生活が長いだけに、メンタリティでも伍している。その点が他の日本勢と違うところだ。

 指揮のピエール・ジョルジョ・モランディにも感心した。淡々と流すことなく、ドラマの高まりに向けてオーケストラを追いあげていく。急流のような音の渦が生まれる。このくらい熱い演奏でないと、プッチーニのよさは味わえない。

 今さら言うまでもないが、この公演は元々2011年3月に予定されていた。ドレスリハーサルまで終わっていたそうだが、ゲネプロ直前に東日本大震災が起きた。公演は中止された。順調な仕上がりが伝えられていたが、幻の公演になった。今回、指揮者は変わったが、上記の歌手をふくむ声楽陣はほぼそのまま揃って、復活公演となった。それは喜ぶべきだが、当時伝えられていた好調さは、今回完全に復活したのだろうか。
(2015.3.12.新国立劇場)
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Die Passagierin(旅行者)

2015年03月16日 | 音楽
 最終日はフランクフルトに移動した。ヴァインベルクWeinberg(1919‐1996)の「旅行者」(ドイツ語ではDie Passagierin。英語ではThe Passenger)を観るためだ。

 ヴァインベルクはワルシャワに生まれたユダヤ人。1939年にナチスの侵攻を避けてソ連(当時)に逃れた。1943年にショスタコーヴィチの知遇を得た。以後、ショスタコーヴィチが亡くなるまで親交が続いた。ショスタコーヴィチの評伝を読むと、必ず名前が出てくる人だ。

 このオペラは1968年の作品。時は1960年代の初め、所は客船の中。西ドイツ(当時)の外交官ヴァルターは妻リーザとともにブラジルに赴任する船上にある。希望にあふれる二人。そのときリーザは船客の中の一人の女性を見てハッとする。あれはマルタだ。でも、マルタは死んだはずだ――と。

 不安におびえるリーザ。ヴァルターはリーザに問いただす。リーザは語り始める。リーザは、戦争中、ナチスのSS(親衛隊員)だった。アウシュヴィッツで監督官をしていた。マルタはそこに収監されていた。

 リーザの回想場面になると、舞台にはアウシュヴィッツが再現する。本作はアウシュヴィッツ・オペラだ。アウシュヴィッツにはどんな人がいて、どんな状況だったのか。そこで何が起きたのか。それが目の前で展開する。

 原作者はZofia Posmysz(1923‐)。今も健在なポーランド女性だ。アウシュヴィッツに収監されていたが生還した。本作には自らの経験が反映されているだろう。

 作曲以降、上演の機会がなかったが、2006年にモスクワで初演され(演奏会形式)、2010年のブレゲンツ音楽祭で初めて舞台上演された(演出デイヴィッド・パウントニー。ブルーレイが出ている)。長い忘却の末に蘇った。今回はドイツ初演(3月1日プレミエ)。ドイツ人の反応に興味があったが、皆さん神妙に観ていた。

 指揮はレオ・フセイン。驚くほど多彩なパレットを持ったこの曲を(バッハやシューベルトの引用から、ショスタコーヴィチばりの狂騒、張りつめた弦の弱音、さらにはロシア民謡や軽音楽の挿入までシュニトケを先取りするような多様式だ)、的確に描き分けていた。演出はアンセルム・ヴェーバー。船上のダンス・パーティがアウシュヴィッツでのコンサートに変わる場面では、背筋が凍る思いだった。
(2015.3.8.フランクフルト歌劇場)
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ルル

2015年03月15日 | 音楽
 「ルル」の開演時間は19:30だった。えっ、そんなに遅いの? 2回の休憩を入れたら終演は23:00を過ぎるのは間違いない。ホテルに戻るのは24:00か――と。

 劇場に入ってプログラムを見たら、休憩は第1幕の後に1回だけ、公演時間は約3時間と書いてあった。休憩1回はともかく、約3時間というのは――。

 公演が始まって分かったのだが、プロローグはカットされていた。いきなり第1幕から始まった。舞台は、どう見ても、中古自動車の解体工場だ。そこですべてのストーリーが進行する。先走って言ってしまうと、第2幕以降もこのセットは変わらなかった。舞台装置はエーリッヒ・ヴォンダー。鮮烈な舞台だ。

 プロローグのカットに加えて、もう一つ、驚くべきカットがあった。第3幕第1場(パリの場)がそっくりカットされていた。第2幕の最後にシェーン博士が射殺され、そのまま、いきなり第3幕第2場(ロンドンの場)に移行した。

 これら2つの大胆なカットに度肝を抜かれた。でも、それが不満ではなかった。演劇的な面白さに惹きこまれた。第3幕第1場の大アンサンブルを聴けなかったわけだが、自分でも不思議なくらい、残念な感じがしなかった。

 これは徹底して演劇的な演出だ。演劇では原作の戯曲を大胆に再構成することが当たり前のようにおこなわれているが、オペラの場合は、作曲されているので、それは難しいと思っていた。アンドレア・ブレート(前日の「ヴォツェック」と同じ演出家)は、その制約の中で、最大限に演劇的な演出を追求したと思う。

 思えば「ルル」では、今までも衝撃的な経験をしている。ハンブルクで観たペーター・コンヴィチュニーの演出とドレスデンで観たシュテファン・ヘアハイムの演出がその双璧だ。そこに今回の演出が加わった。

 音楽的には、コンヴィチュニー演出はベルクが書いた音楽だけを使い(一部再構成)、ヘアハイム演出は(ツェルハ補筆版ではなく)クロケ補筆版を使っていた。そして今回は新たにデイヴィッド・ロバート・コールマンが補筆した版を使っていた。例のヴェーデキントが作った小唄(ベルクも引用している)を拡大して、水溜りのように淀んだ感じが出ていた。

 バレンボイムの指揮は、説明的なところがあったが、歌手の旋律線をオーケストラのどのパートが支えているかを克明に辿ることができた。その点で興味が尽きなかった。
(2015.3.7.シラー劇場)
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ヴォツェック

2015年03月14日 | 音楽
 ベルリン国立歌劇場はバレンボイムの指揮のもとで3月6日~15日まで‘ベルク・フェスト’を開催中だ。これは「ヴォツェック」と「ルル」を2回ずつ、オーケストラ・コンサートを2回(別プログラムで)公演するもの。さらに同コンビは3月27日~4月6日まで恒例の‘フェストターゲ’を開催する。今年は「パルジファル」の新制作(チェルニアコフの演出)のほか、ブーレーズの作品を集中して取り上げる。

 ベルク・フェスト初日の「ヴォツェック」を観た。アンドレア・ブレートの演出。2011年4月の初演だ。この演出家の舞台は初めてだが、ひじょうに凝縮した舞台だ。息詰まるようなドラマ。ヴォツェックの悲劇が重苦しくのしかかる。

 新国立劇場のクリーゲンブルクの演出と通じるものがあるが、クリーゲンブルクのほうは、失業者の群れのような、社会の底辺でうごめく男たちがいて、社会的な背景を感じさせた。一方、ブレートの演出は、もっと閉鎖された世界だ。

 一番ショックだったのは、最後の場だ。ヴォツェックとマリーの子供が木馬で遊んでいる。そこに(沼で死んだはずの)ヴォツェックが倒れている。子供の友だちが「おい、お前のお母さんが死んだよ」と呼びかけるその声が、友だちではなく、ヴォツェックから発せられた。思わず耳を疑った。だが、間違いない。たしかにヴォツェックだった。低くこもったような声だった。

 この演出では頻繁に(ほとんど各場ごとに)幕が下りた。それが煩わしかった。でも、ビュヒナーの原作がそもそもそうだといえなくもない。未完の草稿の、それぞれの断片は、異常なほどに鮮明だが、順番さえ確定していない草稿だ。頻繁に幕が下りることも、原作のリズムに合っているといえなくもない。

 一言ふれておきたいのが、マルティン・ツェートグルーバーの舞台装置だ。抽象的な装置だが、各場のイメージを鮮烈に喚起していた。

 バレンボイムの指揮は力で押す演奏。オーケストラを鳴らしに鳴らす。一方、新国立劇場の(新制作のときの)ハルトムート・ヘンヒェンの指揮は、繊細かつ透明なテクスチュアをもつ演奏だった(オーケストラは東京フィル)。指揮者の違いというだけでなく、彼我のオーケストラの体質の違いを感じた。

 ヴォツェックはミヒャエル・フォレ。バレンボイムと同様、パワーで押す歌唱だ。白痴役に大ベテランのハインツ・ツェドニクが出ていたので驚いた。
(2015.3.6.シラー劇場)
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ハイティンク/ベルリン・フィル

2015年03月13日 | 音楽
 翌日はベルリンに移動して、ベルリン・フィルの定期を聴いた。指揮はハイティンク。プログラムはオール・ベートーヴェン・プロだった。

 1曲目はヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏のイザベル・ファウストは、CDはいくつか聴いたことがあるが、生では初めてだ。意外に小柄だ。化粧気もあまりない。気さくな感じで、スター然としていない。

 演奏が始まると、さすがに名手だ。音楽が大きい。楽器がよく鳴る。感心して聴いているうちに、第1楽章カデンツァになった。いつものカデンツァとは違う。そのうちティンパニが入ってきた。そうか、あれかと思った。この曲のピアノ協奏曲への編曲版のピアノ・パートをヴァイオリン用に書き換えたものだ。面白かった。第3楽章にも聴きなれない音型が出てきた。

 アンコールが演奏された。弱音器付きの、なにか囁くような曲だった。だれの、なんという曲だろう。演奏会終了後、どこかに貼り紙があるかと探してみたが、見つからなかった。そんな習慣はないようだ。

 なお、第1楽章が終わったときに、お客さん同士でトラブルがあった。なにがあったかは分からないが、1階正面の前方席だったので、かなり目立った。イザベル・ファウストは心配そうに見守り、ハイティンクも振り返っていた。こういうとき、ドイツ人とは面白いもので、周囲の何人かから声が出た。日本人なら黙っているような気がする。

 2曲目は交響曲第6番「田園」。明るい音だ。ゴージャスな音。たとえていえば、高級乗用車の乗り心地のようなものだ。どんな道でも揺れずに安定走行する。見事なものだ。でも、正直にいうと、そんな自動車に乗っているときの、少し眠くなるような感じがあった。

 その反面、強拍がはっきり出る拍節感があった。真綿のようにゴージャスな音に包まれてはいるが、強拍によって前へ前へと進む推進力があった。持って生まれたDNAのような感じがした。カラヤン時代はおろか、さらに遡る時代から脈々と続いている伝統ではないかと思った。

 こういってはなんだが、ハイティンクの指揮は、なにもしていないように見えた。でも、そんなDNA/伝統は、今まで他の指揮者で聴いたときには感じなかった。ハイティンクがベルリン・フィルから引き出したのではないか。ハイティンクは、長いキャリアの末、オーケストラに潜む潜在的なDNA/伝統を引き出すタイプの名匠になったと思う。
(2015.3.5.フィルハーモニー)
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ル・グラン・マカーブル

2015年03月12日 | 音楽
 まずエッセン歌劇場でリゲティの「ル・グラン・マカーブル」を観た。2月14日プレミエの新制作だ。客席はガラガラだった。意欲的な公演が多いこの歌劇場でも、現代オペラでは集客は難しいのだろうか。

 演奏には気合が入っていた。とくに感心したのはオーケストラだ。指揮はディマ・スロボデニゥクDima Slobodenioukという若い人。どういう人かは、プロフィールが載っていなかったので、分からないが。ともかく、オーケストラからは、ガラス細工のように繊細で透明な音が出ていた。

 現代音楽に慣れている指揮者のような感じがした。もっとも、このオペラは1975~77年にかけて作曲されたので(その後1996年に大幅に改訂されたが)、作曲からもう40年近く経っている。若手指揮者には現代音楽の‘古典’のようなものかもしれない。

 このオペラの日本初演は2009年だった。今でも記憶に新しい。東京室内歌劇場が日本初演した。あのときの指揮はウリ・セガルだった。がっちりと構築された骨太の演奏だった。ごつい感じがした。エサ=ペッカ・サロネンのCDで馴染んでいたので、まったく違うタイプの演奏だと思った。

 今回の演奏はサロネンのCDよりもさらに繊細・透明で、かつ滑らかだった。それと比べると、サロネンはもっと尖っていた。世代の違いだろう。

 歌手も同様だった。あの跳躍の多い音楽を難なく歌っているように聴こえた。リズムもピタッときまっていた。もちろん今でもこれは至難の音楽なのだろうが、それを感じさせなかった。ネクロツァールを歌った歌手はHeiko Trinsinger。普段はなにを歌っている人だろう。ゲポポ/ヴェーヌスはSusanne Elmark。この人の名前は聞いたことがある。

 演出はMariame Clement。この人のプロフィールは載っていたが、フランスの女性だ。このオペラのエロ、グロ、ナンセンスを几帳面にやっていた。でも、どこか優等生的で、野卑なヴァイタリティは感じられなかった。旧約聖書のヨハネ黙示録を茶化したこのオペラのとんでもなさは、あまり感じられなかった。

 細かい点では、アマンドとアマンダは「ばらの騎士」のオクタヴィアンとゾフィーのパロディ、2大政党に牛耳られるゴーゴー侯の執務室はアメリカ大統領の執務室という具合に、アイディアはふんだんに盛り込まれていた。
(2015.3.4.エッセン歌劇場)
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帰国報告

2015年03月10日 | 身辺雑記
本日無事に帰国しました。今回観たオペラと聴いたコンサートは次のとおりです。
3月4日リゲティ「ル・グラン・マカーブル」(エッセン歌劇場)
3月5日ハイティンク指揮ベルリン・フィル(フィルハーモニー)
3月6日ベルク「ヴォツェック」(ベルリン国立歌劇場)
3月7日ベルク「ルル」(ベルリン国立歌劇場)
3月8日ヴァインベルク「旅行者」(フランクフルト歌劇場)
感想は後日報告させていただきます。
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旅行予定

2015年03月03日 | 身辺雑記
今日から旅行に出ます。エッセン、ベルリン、フランクフルトを回って3月10日に帰国します。帰ったらまた報告します。
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メッセニアの神託

2015年03月02日 | 音楽
 ヴィヴァルディのオペラ「メッセニアの神託」。前回の「バヤゼット」の興奮が再現するかどうか、注目の公演だった。結果あの興奮が再現した。会場は沸きに沸いた。

 前回の「バヤゼット」は2006年だった。9年前だ。もうそんなになるのかと、びっくりする。あのときの記憶は今でも鮮明だ。那須田務氏のエッセイによれば、「今日でも人々の間で語り草になっている」。そうだろうと思う。

 「バヤゼット」も「メッセニアの神託」もパスティッチョ・オペラだ。「バヤゼット」のときは、その言葉さえ知らなかったが。パスティッチョ・オペラには、興行主(インプレサーリオ)が複数の作曲家の音楽を付けるものと、一人の作曲家が自作・他作とりまぜて付けるものと、2通りのタイプがあるそうだ(ファビオ・ビオンディのインタビュー記事より)。

 「バヤゼット」と同様、「メッセニアの神託」も後者のタイプだ。もっとも、1737年(異説あり)のヴェネチア初演のときの台本と楽譜は失われている。また、ヴィヴァルディ没後の1742年におこなわれたウィーン再演のときの楽譜も失われている。ただ、近年台本が発見されたので、ビオンディが曲を推定して上演用の版を作成した。

 推定の確度はどの程度なのだろう。上述のインタビュー記事によると、ヴィヴァルディは、同一のテクスト、あるいはよく似たテクストの場合、いつも同じ曲を付けていたので、「とても高い可能性で想像できた」そうだ。

 厳密にいえばビオンディ版だが、「バヤゼット」と同様、面白くて、面白くて、呆気にとられた。結果的にはバロック・オペラ名曲選だ。パスティッチョ・オペラとは面白いものだと、今回も思った。

 歌手ではメゾ・ソプラノのユリア・レージネヴァJulia Lezhnevaが、第2幕と第3幕の超絶技巧のアリアで満場の聴衆を唸らせた。ロシア出身。バロック・オペラ以外にはロッシーニなどを歌っているそうだ。この人のロッシーニも聴いてみたい。「バヤゼット」で強い印象を受けたヴィヴィカ・ジュノーVivica Genauxは、第3幕のアリアで切々たる感情表現を聴かせた。

 ビオンディ率いるエウローパ・ガランテは水際立った演奏だった。ピリオド系の団体としては(わたしが聴いた中では)とび抜けて高性能だ。なお、彌勒忠史の演出は、扇や日本刀を使った日本テイスト(?)の演出で、無くもがなだった。
(2015.3.1.神奈川県立音楽堂)
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