東京春祭の演奏会の一つ、アレクサンドル・メルニコフのピアノ・リサイタルを聴いた。曲目はショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」全曲。
メルニコフはこの曲をすでに日本でも何度か弾いているそうだ。なるほど、そういわれてみると、手馴れた感じがする。24曲ある前奏曲の、それぞれの性格付けが計算され尽くしているし、大半は3声で書かれている各フーガ(もちろん例外はある)も各々の声部が明瞭に浮き出る。
もう一つ興味深いことは、休憩の入れ方だった。第12曲が終わったところで休憩を入れるのは、ちょうど中間地点なので、当たり前といえば当たり前だが、第16曲が終わったところで、もう一度休憩を入れた。これが効果抜群だった。
いうまでもないが、第1曲ハ長調で始まったこの作品が、短調の平行調をはさみながら、シャープを1個ずつ増やしていき、第13曲嬰へ長調でシャープ6個までいく。第14曲嬰ニ短調(平行調)になるべきところを、変ホ短調(フラット6個)に読み替え、以下順にフラットを減らしていく。途中、第16曲変ロ短調(フラット5個)で休憩が入ったわけだが、こうなると、否が応でも第16曲が印象に残る。
第16曲の前奏曲はパッサカリアで書かれている。短いながらも見事な前奏曲だ。その曲が鮮明に印象付けられる。帰宅後、確認したが、この曲は全曲完成後に差し替えられたものだ。第1曲から順番に書かれたこの作品の、これだけが例外だ。ショスタコーヴィチの思い入れがあったのだろう。
2度目の休憩後は、第17曲以下、個性的な曲が続くが、聴き手としては、スタミナ配分もよく、クリアーな状態で聴くことができた。
最後の第24曲ニ短調(フラット1個)の劇的なフーガは、ピアノ曲というよりも、交響曲のフィナーレのようだ。輝かしいフィナーレ。ショスタコーヴィチがピアノで交響曲を作曲しているときの、仕事場に鳴り響くピアノの音のようだ。
それにしても、この作品は一筋縄ではいかない。驚くほど平明な曲もあれば(まるで無名性を意図しているかのようだ)、ショスタコーヴィチらしい語法が全面的に展開される曲もある。甘美なロマンティシズムが溢れる曲もあり、ショスタコーヴィチにはこんな一面があったのかと驚かされる。ジダーノフ批判(1948年)の後に隠忍自重を強いられたショスタコーヴィチの、日記のようなものだろう。
(2015.3.29.東京文化会館小ホール)
メルニコフはこの曲をすでに日本でも何度か弾いているそうだ。なるほど、そういわれてみると、手馴れた感じがする。24曲ある前奏曲の、それぞれの性格付けが計算され尽くしているし、大半は3声で書かれている各フーガ(もちろん例外はある)も各々の声部が明瞭に浮き出る。
もう一つ興味深いことは、休憩の入れ方だった。第12曲が終わったところで休憩を入れるのは、ちょうど中間地点なので、当たり前といえば当たり前だが、第16曲が終わったところで、もう一度休憩を入れた。これが効果抜群だった。
いうまでもないが、第1曲ハ長調で始まったこの作品が、短調の平行調をはさみながら、シャープを1個ずつ増やしていき、第13曲嬰へ長調でシャープ6個までいく。第14曲嬰ニ短調(平行調)になるべきところを、変ホ短調(フラット6個)に読み替え、以下順にフラットを減らしていく。途中、第16曲変ロ短調(フラット5個)で休憩が入ったわけだが、こうなると、否が応でも第16曲が印象に残る。
第16曲の前奏曲はパッサカリアで書かれている。短いながらも見事な前奏曲だ。その曲が鮮明に印象付けられる。帰宅後、確認したが、この曲は全曲完成後に差し替えられたものだ。第1曲から順番に書かれたこの作品の、これだけが例外だ。ショスタコーヴィチの思い入れがあったのだろう。
2度目の休憩後は、第17曲以下、個性的な曲が続くが、聴き手としては、スタミナ配分もよく、クリアーな状態で聴くことができた。
最後の第24曲ニ短調(フラット1個)の劇的なフーガは、ピアノ曲というよりも、交響曲のフィナーレのようだ。輝かしいフィナーレ。ショスタコーヴィチがピアノで交響曲を作曲しているときの、仕事場に鳴り響くピアノの音のようだ。
それにしても、この作品は一筋縄ではいかない。驚くほど平明な曲もあれば(まるで無名性を意図しているかのようだ)、ショスタコーヴィチらしい語法が全面的に展開される曲もある。甘美なロマンティシズムが溢れる曲もあり、ショスタコーヴィチにはこんな一面があったのかと驚かされる。ジダーノフ批判(1948年)の後に隠忍自重を強いられたショスタコーヴィチの、日記のようなものだろう。
(2015.3.29.東京文化会館小ホール)