Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

帰国報告

2016年10月31日 | 身辺雑記
本日無事に帰国しました。今回聴いたオペラと演奏会は次のとおりです。
10月27日(木)イヴァン・フィッシャー/ベルリン・フィル(フィルハーモニー)
10月28日(金)オペラ「フィデリオ」(ベルリン国立歌劇場)
10月29日(土)オペラ「エレクトラ」(ベルリン国立歌劇場)
個々の感想はまた後日報告します。

今の時期のドイツは黄葉がきれいですね。
どこに行っても溜息が出るようでした。
ほんとうは演奏会やオペラの感想よりも、そういう旅行記のほうがよいのかもしれませんね。
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旅行予定

2016年10月24日 | 身辺雑記
10月24日から旅に出ます。ミュンヘン、ボン、ベルリンと回って10月31日に帰国します。いつもは一人旅ですが、今回は友人と一緒です。帰国したらまた報告します。
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山下一史/千葉交響楽団

2016年10月24日 | 音楽
 ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(通称「ニューフィル千葉」)が本年10月1日付けで千葉交響楽団と改称し、第100回定期演奏会を開いた。よくここまで来たものだ。お祝いの気持ちで出かけた。

 指揮は本年4月から音楽監督に就任している山下一史。1曲目はモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。指揮者が懸命にオーケストラをひっぱり、オーケストラも頑張っているのだが、弦の音はざらつき気味で、管はミスが散見されたのが残念。

 休憩後、2曲目は山本純ノ介の新作「千の音と楽の葉~SEN NO NE TO GAKU NO HA~」。第100回定期を記念した委嘱作品。タイトルをよく見ると、‘千葉’が最初と最後に分けて置かれ、‘音楽’を挟む形になっている。作曲者のユーモアとサービス精神が感じられる。

 山本純ノ介(1958‐)は山本直純のご子息だ。山本直忠、山本直純と続く音楽家の家系。現在は千葉大学の教授でもあるので、白羽の矢が立ったのだろうか。すでにオーケストラ作品をいくつも書いているので、オーケストラの鳴らし方は手馴れたものだ。中ほどのクライマックスを経た後、マリンバ、ヴァイオリン、クラリネット、チェロのソロが入るところが目を引く。

 演奏は(1曲目のモーツァルトとは打って変わり)音に艶が出て、アンサンブルがまとまり、生彩を放っていた。十分に準備された演奏だ。

 3曲目はストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。とくにコメントはされていなかったが、存続すら危ぶまれる時期もあったと聞くこのオーケストラが、第100回の定期を開くまでに至った、その想いを‘不死鳥’のイメージに重ねているのではないだろうか。演奏も、2曲目と同様に、生彩があった。振り返ってみると、1曲目のモーツァルトは準備不足だったのかもしれない。

 2曲目も3曲目もここまで演奏できたのは、山下一史のリードの賜物だ。千葉交響楽団はまだオーケストラとしての体制整備の道半ばで、今回の定期も多くのエキストラに頼らざるを得ない現状のようだが、そういうオーケストラをまとめ上げ、妥協のない演奏を繰り広げたのは、山下一史の力量だ。

 山下一史が、働き盛りの年齢で、あえて困難が多いと思われる仕事を引き受けたことを多とするとともに、千葉交響楽団の前途が明るく拓けることを願いたい。
(2016.10.23.千葉県文化会館)
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ヴェデルニコフ/N響

2016年10月23日 | 音楽
 ヴェデルニコフ指揮N響のCプロ。ドヴォルザークのチェロ協奏曲とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というプログラムは、名曲コンサートのようだが、‘ロ短調’のプログラムという面も意識されているのかもしれない。

 まずドヴォルザークのチェロ協奏曲。チェロ独奏はアレクサンドル・クニャーゼフ。優秀なチェロ奏者だし、オーケストラもよかったが、その割に(わたしの場合)心は動かなかった。なぜだろう。その要因はヴェデルニコフの個性にあるのかもしれないが、これに関しては後述する。

 むしろアンコールが面白かった。パガニーニの「24の奇想曲」作品1から第13番をチェロ(!)で弾いた。さすがにチェロだと弾きにくそうだが、苦労して弾いている姿を見る楽しさ(多少意地の悪い‥)を味わった。

 チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、N響のアンサンブルのよさが表れたという意味で、名演だったと思う。管には瑕疵がなかったわけではないが、そんなことよりも、オーケストラ全体のアンサンブルのよさが際立った。

 ヴェデルニコフの指揮もN響のアンサンブルの実力を十分に承知して、それを妨げないよう配慮したものだった。その点はドヴォルザークのチェロ協奏曲も同じだし、もっと端的にいえば、Aプロで演奏したストラヴィンスキーの「春の祭典」もそうだった。でも、それらの曲とは違って、「悲愴」ではヴェデルニコフの想いが込められていた。一歩踏み込んだ演奏だった。

 NHKホールの巨大な空間をN響の音が満たした。あの大空間いっぱいに「悲愴」が鳴り響く様は壮観だった。すごいオーケストラだし、すごい曲だと思った。それを感じさせた指揮者もすごいのかもしれない。

 わたしが聴きに行けるわけではないが、ベルリン・フィルの今シーズンの定期に次期首席指揮者のキリル・ペトレンコが登場し、「悲愴」を振る。きっとテンポを揺らし、細やかな表情を施した、表現主義的な演奏になるのではないかと想像する。

 それに比べるとヴェデルニコフは、自分を抑え気味で、むしろオーケストラのアンサンブルを優先させる傾向があるようだ。「春の祭典」は、正直にいって、整理整頓の行き届いた演奏だったが、スリルに欠けた。写真を見るとアクが強そうに見えるが、演奏はそのイメージとは必ずしも一致しない。
(2016.10.22.NHKホール)
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カンブルラン/読響

2016年10月20日 | 音楽
 カンブルランが振った今月の読響の定期は、じつにカンブルランらしいプログラムだった。

 1曲目はシューベルトの「6つのドイツ舞曲D820」(ウェーベルン編曲)。今年4月にはロト指揮都響もこれを演奏した。カンブルランとかロトとか、先鋭的な感覚を持つ指揮者の興味を惹く曲のようだ。カンブルランの演奏は、ロトよりもアクセントが強く、カラフルだった。

 2曲目はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は五嶋みどり。極端に抑えた音でゆっくりと、フレーズを噛みしめるように始まった導入部分。今までこういう演奏は聴いたことがないと思った。主部に入ってからもそのペースは変わらなかった。どこかに人生の苦さを湛えたような演奏。

 今まで聴いた演奏は、なんと安易な演奏だったことかと思った。コルンゴルト自身の映画音楽を素材にした曲ということで、甘く開放的に演奏されてきた。でも、この曲は一種のペシミズムに裏打ちされた曲だったようだ。大戦中のハリウッドでの生活を振り返って、一抹の苦さとともに、自分の人生を受け入れるコルンゴルトの想いが込められた曲だった。

 休憩をはさんで3曲目はヨハネス・マリア・シュタウト(1974‐)のヴァイオリン協奏曲「オスカー」(2014)。シュタウトはオーストリア生まれの作曲家。本作は五嶋みどりが初演し、五嶋みどりに献呈された。まさに同時代の音楽。

 オーケストラは弦5部と多数の打楽器という編成。演奏時間は約18分。全体は切れ目なく続くが、プログラムノーツによると5部からなる。テンポも音圧も中間の第3部に向かって高まり、そのピークでは音が飛び散るような錯覚を覚えた。そこを超えると、急速に減衰し、宇宙の彼方に消えるような神秘的な部分となり、冒頭の音型に戻って終結した。

 独奏ヴァイオリンもオーケストラも、極度の集中力を持った演奏。カンブルランの指揮は、水を得た魚のように、冴えきっていた。読響も見事に応えた。

 4曲目はデュティユーの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」。デュティユーは今年生誕100年なので、カンブルラン/読響はその作品を継続的に演奏している。今回はそのメインのような位置付けになる。演奏はひじょうに説得力があった。

 わたしにはプログラミングも演奏も(今のところ)今年一番の演奏会になった。
(2016.10.19.サントリーホール)
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フリック

2016年10月19日 | 演劇
 新国立劇場が上演している欧米の同時代演劇シリーズ第4弾のアニー・ベイカー作「フリック」を観た。2014年のピュリッツァー賞受賞作品だけあって、面白かった。

 20歳のエイヴリーは大学を休学中。地元の映画館にアルバイトの職を見つける。そこで出会う同僚は35歳のサムと24歳のローズ。仕事は切符のもぎりから、ポップコーンの販売、掃除まで、とにかくなんでもやる。

 エイヴリーとサムは、うだつのあがらない男たちだが、マニアックな映画好きだ。ローズは弾けた女。映画への興味はあまりない。これらの3人が毎日、終演後の映画館で床掃除をしながら交わす会話が本作だ。

 最後にちょっとした事件が起きる。傍から見ればたいした事件ではないが、当人たちには大事件だ。その事件を通してエイヴリーは少し成長する。だが、なにかを失う。大人になるということは、なにかを失うことでもあるという芝居かと思ったが‥。

 帰りの電車の中でプログラムを読んで、アッと驚いた。サムとローズは白人だが、エイヴリーは黒人だった(観劇中は気付かなかった!)。エイヴリーの父親は大学教授なので、裕福なエリート階層に属し、一方、サムは貧しい白人。最後にエイヴリーは復学する。幕切れでエイヴリーはサムに言う、「10年後、君はまだ映画館で床に散らかったポップコーンを掃除しているだろうな。僕は、そうだなあ、パリにでもいるかな」と。

 文字にすると嫌らしい感じもするが、芝居を観ていると、むしろあっさりした感じがする。お互いに現実を認め合っているような雰囲気だった。わたしなどは、報道で、白人警官が黒人を射殺した事件に接するたびに胸を痛めるが、その一方では、今のアメリカ社会にはこんな現実も生まれているのかもしれない。

 エイヴリーの木村了、サムの菅原永二、ともに好演だった。それぞれの役どころを繊細に演じ、しかも、年は離れているが(境遇も違うが)、うだつのあがらない者同士の心の交流をしんみり伝えた。一方、ローザのソニンは怪演だった。その迫力、猥雑さ、官能性が舞台のテンションを高めた。わたしは、ポスト大竹しのぶと思った。なお、ちょい役だが、エイヴリーの後釜として雇われた男を演じた村岡哲至が、上記の3人とはまったく違う空気感を醸し出して可笑しかった。

 題名の「フリック」という言葉は、映画や映画館を指す俗語だそうだ。
(2016.10.18.新国立劇場小劇場)
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カンブルラン/読響

2016年10月15日 | 音楽
 ベルリオーズのオーケストラ伴奏付き歌曲集「夏の夜」がプログラムに組まれたので、カンブルラン/読響の演奏会へ。

 プログラム構成が興味深い。前半と後半のそれぞれ冒頭にシューベルトの「ロザムンデ」の音楽を配し、前半のメインがベルリオーズの「夏の夜」、後半のメインがベートーヴェンの交響曲第8番。いかにもカンブルランらしい知的な遊びのあるプログラムだ。

 前半は「ロザムンデ」の序曲から。木管が色彩豊かに鳴り、弦も澄んでいる。オーケストラ全体が明るく暖かみのある音色で鳴っている。リズムに締まりがある。ゆるいシューベルトではなく、快いリズムで進むシューベルト。

 次にベルリオーズの「夏の夜」。メゾ・ソプラノ独唱はカレン・カーギル。イギリス・スコットランド生まれの歌手だそうだ。1曲目の「ヴィラネル」が始まる。声の豊かさと安定感、そしてフランス語の美しさに惹き込まれる。オーケストラも繊細だ。しかも歌にぴったり付けている。カンブルランのうまさに感心する。

 2曲目の「ばらの精」は、歌、オーケストラともに繊細そのもの。3曲目の「入江のほとり」ではカーギルの暗い低音に注目し、4曲目の「君なくて」の冒頭のフレーズ「帰っておいで、帰っておいで」では一転して明るく、空気の中に溶け込むような高音に魅了された。

 5曲目の「墓地で」は、一見とりとめのない曲想だが、じつはニュアンスに変化があり、また(わたしが今まで気付いていなかった)微妙な音が鳴っていることを知った。6曲目の「未知の島」では、この歌曲集を締めくくるに相応しく、波が打ち寄せるような起伏のある演奏に、心地よく身を任せた。

 事前の期待値を上回る演奏だった。オーケストラ伴奏付き歌曲の見事な演奏例だと思った。8月から9月にかけて、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」を2度聴いて、オーケストラ伴奏付き歌曲とは難しいものだと思ったが、その模範的な演奏例に出会った気がした。

 プログラムの後半では、まず「ロザムンデ」の間奏曲第3番とバレエ音楽第2番が演奏されて、「夏の夜」で火照ったわたしの心をクールダウンしてくれた。

 最後はベートーヴェンの交響曲第8番。明るい音色できびきび進む演奏。カンブルランらしい演奏だ。サプライズはとくになかった。なお細かいところで微かな綻びがあった。
(2016.10.14.サントリーホール)
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武満徹オーケストラ・コンサート

2016年10月14日 | 音楽
 武満徹(1930‐1996)の没後20年記念演奏会。オリヴァー・ナッセン指揮の東京フィルの演奏で5曲。その選曲が面白い。1960年代の作品が4曲と最晩年の作品が1曲。1970年代後半から1980年代にかけての‘武満トーン’の作品は素通りだ。ナッセンの選曲かと思うが、今の日本の武満受容に一石を投じた格好だ。

 1曲目は「地平線のドーリア」(1966)。終始弱音でそっと囁くように演奏された。ソットヴォーチェの演奏。何年か前に聴いた演奏もそうだった。でも、この曲はそういう曲だろうか。弱音はよいのだが、その弱音はもっと緊張してはいなかったろうか。

 2曲目は「環礁」(1962)。ソプラノ独唱はクレア・ブース。声も技術もよいが、国籍不明の日本語にはまいった。大岡信のシュールな詩句が台無しだ。唐突に他の歌手の名前を出して恐縮だが、たとえば半田美和子のような歌手だったら、もっと効果的に歌えたのではないだろうか。

 もっともオーケストラは美しかった。全5部の中の第3部(この曲の中心部)は図形楽譜で書かれているが、当日は「イギリスの作曲家ジュリアン・アンダーソン(1967‐)による解釈」で演奏された。図形楽譜の演奏は、今後、○○版、△△版という形態も出てくるのだろうか。

 3曲目は「テクスチュアズ」(1964)。ピアノ独奏は高橋悠治。演奏は気合が入っていたが、正直なところ、曲がいかにも短い(もっと展開してほしい)と思った。この曲は大曲「弧(アーク)」の一部となったので、今後なにかの機会にその全体を聴いてみたいものだ。

 4曲目は「グリーン」(1967)。色彩豊かで生気に満ちた演奏。多少大袈裟になるが、この曲の再評価を迫る演奏のように感じた。ナッセンは10代の頃、この曲に惹かれたそうだ。わたしはナッセンとは一つ違いの同世代。わたしは「地平線のドーリア」に惹かれた。ともに青春時代の思い出だ。

 5曲目は最晩年の「夢の引用―Say sea, take me!―」(1991)。2台のピアノはジュリア・スーと高橋悠治。ピアノの音が美しかった。水滴が滴り落ちるような音。オーケストラも的確にこの曲を捉えていた。大胆な引用の音楽。ショスタコーヴィチの交響曲第15番やB.A.ツィンマーマンの「ユビュ王の晩餐の音楽」を思い出す。引用の仕方は三者三様だ。
(2016.10.13.東京オペラシティ)
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ダリ展

2016年10月09日 | 美術
 ダリ展へ行った。平日の夕方なのに、意外に混んでいた。お洒落な若者も多かった。ダリを見ることはお洒落なのかもしれない。

 本展ではダリ(1904‐1989)の作品の変遷が要領よく辿られている。煩瑣になるかもしれないが、本展の構成を記すと、1920年前後の「初期作品」、1920年代の「モダニズムの探求」、1930年代の「シュルレアリスム時代」、1940年代の「アメリカへの亡命」、1950年代の「ダリ的世界の拡張」と「原始力時代の芸術」、1960年代以降の「ポルトリガトへの帰還‐晩年の作品」、そして生涯を通しての「ミューズとしてのガラ」。

 わたしには「シュルレアリスム時代」が面白かった。ダリの才能が一気に開花した観がある。

 たとえば本展の主要作品の一つ「謎めいた要素のある風景」(1934)は、わたしを惹きつけて放さなかった。砂漠のように茫漠とした場所で絵を描いている画家は、ダリが敬愛するフェルメール。画家の視線の先にある数本の糸杉は、象徴主義の画家アルノルト・ベックリンの「死の島」からの引用。そして、なにもない茫漠とした地表は、シュルレアリスムの仲間イヴ・タンギーから影響を受けたもの。

 もっとも、こういった個々の要素よりも、作品全体を満たす黄色い不思議な光に強い印象を受けた。この世のものとは思えない光。黄昏時かもしれないが、それにしても、自然界にはないような、なにかのフィルターを通したような光。その光が、まったく筆触の跡を残さずに、透明に描かれている。

 ダリは意識して奇人を演じていた節がある(ダリのセルフ・プロモーションは抜群だ)。そんな演技がいつの間にかダリ自身に取って代わった。‘ダリ’は大衆の心をつかんだ。その余韻は今でも残っている。だが、いつかは消えるだろう。そのとき、ダリの超絶技巧だけは残るような気がする。

 「シュルレアリスム時代」から先は、わたしにはあまり面白くなかった。最後の「晩年の作品」の数点の薄い色は気になったが、その真の意味はなんなのか、むしろ真の意味があるのかどうかは、今回は分からなかった。

 「シュルレアリスム時代」の前の「モダニズムの探求」に含まれる1923年制作の4点が面白かった。4点は並べて展示されている。キュビスムあり、点描主義ありと、作風が全部違う。4人のポスト印象派の画家の展示室のようだった。
(2016.10.5.国立新美術館)

(※)「謎めいた要素のある風景」を含む主な作品の画像(本展のHP)
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齊藤一郎/セントラル愛知交響楽団

2016年10月06日 | 音楽
 アジア・オーケストラ・ウィークが始まった。今年の招待オーケストラは、タイ、韓国、日本から各1団体。その中から、プログラムに惹かれて日本のセントラル愛知交響楽団の演奏会を聴いた。指揮は齊藤一郎。

 同団は1983年の発足なので、すでに30年以上の活動歴を持つ。音楽監督はレオシュ・スワロフスキー(2014年就任)。首席客演指揮者は齊藤一郎。齊藤一郎は2009年~2013年は常任指揮者を務めていた。わたしは齊藤一郎が同団を振るのを聴くのは初めてだと思う。

 1曲目はユン・イサン(1917‐1995)の「弦楽のためのタピ」(1987)。タピとは「織模様のある厚手の重い生地」だそうだ(荻谷由喜子氏のプログラム・ノーツ)。弦楽合奏によるエネルギーに満ちた曲。音が唸り、軋み、また厳しく沈潜する。合理的に割り切れない感情が迸る。演奏は渾身のものだった。

 ユン・イサンは(今の政治状況では)逆風が吹いているかもしれない。でも、わたしはその人格の高潔さや、音楽の真摯さを信頼したいと思う。この曲でも音の逞しい表出力に惹かれるものがあった。

 2曲目は芥川也寸志(1925‐1989)の「交響三章《トリニタ・シンフォニカ》」(1948)。NHKの懸賞募集で特賞をとった「交響管弦楽のための音楽」(1950)の2年前の作品だ。芥川の伸び伸びとした若い才能が息づいている。「交響管弦楽のための音楽」と同種の日本の戦後復興の明るさが感じられる曲だ。

 演奏もその明るさを的確に捉えていた。今の時代からは失われたヴァイタリティが溢れる演奏。同一音型が反復する直線的な進行にスリルが感じられ、とくに第3楽章フィナーレの畳み掛けるような追い上げには迫力があった。

 3曲目はリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。引き締まった力演。コンサートマスターの島田真千子のヴァイオリン・ソロが見事だった。優秀な奏者だと思う。チェロの客演首席奏者の山本裕康の存在も大きかった。管楽器ではオーボエの安原太武郎に注目した。

 アンコールに芥川也寸志の「交響三章《トリニタ・シンフォニカ》」の第3楽章がもう一度演奏された。本プロよりも鮮やかな演奏だった。齊藤一郎の事前のトークによると、アンコールにはブラームスのハンガリー舞曲第1番を準備していたが、急遽変更したとのこと。大成功だった。
(2016.10.5.東京オペラシティ)
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樋口裕一氏の「特別な存在でなくなること」

2016年10月04日 | 身辺雑記
 東京新聞の10月3日夕刊に多摩大学教授の樋口裕一氏のエッセイ「特別な存在でなくなること」が載った。さすがにベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」の著者だけあって、簡潔な名文だ。

 樋口氏は大分県出身で、現在は東京都にお住まい。昨年2月に大分県のご両親を東京都のご自宅近くの高齢者住宅に移した。お母様はそれ以前から軽い認知症に陥っていた。お父様は高齢者住宅に移った後、昨年10月に亡くなった。それらの日々に考えたことをお書きになっている。

 お父様は高齢者住宅に移ってから「あれこれと不満を言い出した。本来、愛情深い人なのに、周囲となじまず、意地を張り、妙な自慢をした。」が、お父様が亡くなった今、樋口氏は思う、「父は匿名の存在として扱われることに不満を抱いていたのだった。」と。

 一方、「軽い認知症ながら愛想のよい」お母様は、「多くの人に愛される存在」になっていたが、一人残された今は、「ヘルパーさんや周囲の人との関係を心配している。嫌われたのではないか、気を悪くされたのではないか。そんなことばかりを気にする。」。

 そして、結論として、樋口氏はこう言う、「高齢者問題で最も大事なのは、一言で言えば、一人一人の高齢者を特別扱いする状況を築くことだと思う。現在は公平性と効率性のために、多くの高齢者施設では特別扱いをしない。だが、それではいつまでたっても高齢者は不満を抱くだろう。」と。

 拙い要約なので、多くのニュアンスが落ちてしまっているが、このような趣旨のエッセイに、わたしは共感した。わたしは義母を自宅で看取った。ヘルパーさんに入ってもらった3年間の最後の時期に、わたしが心を痛めたことは、ヘルパーさんが義母の生活スタイルを理解せず、自分の尺度で一律に扱うことだった。

 わたしたち夫婦には子供がいない。いずれは一人になる。頭や体がしっかりしているうちはよいが、それが衰えたら、ヘルパーさんや高齢者施設のお世話にならざるをえない。そのときわたしは一律の扱いに耐えられないのではないか‥と思うと恐い。

 高齢者は‘個’として尊重してほしいのだと思う。でも、今の福祉の現場でそれができるのかどうか心細い。職員の方の忙しさとか、待遇とか、そういった問題はもちろんあるが、背景には‘個’の尊重という価値観が乏しい風土もありそうな気がする。

 結局は自宅で野垂れ死にが一番よいのだが、それも現実的には難しい。
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ワルキューレ

2016年10月03日 | 音楽
 新国立劇場の「ワルキューレ」初日を観た。昨年の「ラインの黄金」が低調だったので、危惧の念を抱きながらの鑑賞になった。

 第1幕冒頭の嵐の音楽が始まると、飯守泰次郎の指揮から気迫が伝わってきた。まずはホッとした。だが、ステファン・グールドのジークムントとジョゼフィーネ・ウェーバーのジークリンデの2重唱には生気が欠けた。指揮者の遅いテンポ設定にも一因がありそうだった。アルベルト・ペーゼンドルファーのフンディングはよかった。でも、それだけでは支えきれなかった。

 第2幕に入ると、グリア・グリムスレイのヴォータンの登場によって、舞台は俄然生気を帯びた。エレナ・ツィトコーワのフリッカもよかった(ツィトコーワは新国立劇場のアイドルだ)。イレーネ・テオリンのブリュンヒルデは、いつになく声を抑え気味だったが、弱音のコントロールが効いていた。ウェーバーのジークリンデが迫真性を増した。

 第3幕では、日本人歌手によるワルキューレたちには迫力が欠けたが、グリムスレイのヴォータン、テオリンのブリュンヒルデが密度の濃い舞台を繰り広げた。

 ゲッツ・フリードリヒの演出については、第3幕のヴォータンとブリュンヒルデの長い2重唱の中の、ヴォータンが真情を吐露する箇所で、2人が腰を下ろす演出にハッとした。ヴォータンが神としての上からの目線を捨てて、父としての目線を得る演出だ。父と娘が同じ目線で語り合う演出に胸を打たれた。

 「ワルキューレ」はブリュンヒルデの成長物語といわれることがあるが、それと同時にヴォータンの成長物語でもあることを、この演出で感じた。ブリュンヒルデとヴォータンの2つの成長の芽が交錯する。次の「ジークフリート」以下ではブリュンヒルデの芽が育つ。

 ゴットフリート・ビルツの美術と衣装、キンモ・ルスケラの照明は、美しくて、かつインパクトがあった。演出ともどもフィンランド国立歌劇場からのレンタルだ。同じ劇場からのレンタルだったコルンゴルトの「死の都」(2014年3月)の舞台を彷彿とさせた。

 第3幕の、飛行場の滑走路の先のような、トンネルの奥のような、あるいはヴォータンの眼の底のような、そんな空間に浮いていた透明な円筒形は何を象徴しているのだろう。光を乱反射して美しかった。そういえば「ラインの黄金」も幕切れの照明が美しかったことを思い出した。
(2016.10.2.新国立劇場)
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