Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

楽園からの旅人

2013年08月30日 | 映画
 岩波ホールで公開中の映画「楽園からの旅人」。これはぜひ観たいと思って、前々から日程を調整していた。直前に公式ホームページをのぞいたら、音楽はグバイドゥーリナとあった。えっ、思わず息をのんだ。グバイドゥーリナって、あのグバイドゥーリナ? 俄然音楽にたいする興味がわいてきた。

 考えてみれば当然だが、グバイドゥーリナがこの映画のために書き下ろしたわけではなかった。もう高齢なのだから、それは当然だ。実際には既存の曲から断片的にとられていた。それはそうなのだが、さすがはグバイドゥーリナというか、断片ではあっても、はっきり個性を主張していた。一般的な映画音楽とは一線を画していた。

 そのため、困ったこともあった。音楽が始まると、どうしても聴いてしまうのだ。注意が音楽に向いてしまった。感性の繊毛がふるえるような音楽だと思った。じっと聴いていると、映画がおろそかになる危険を感じた。

 久しぶりに聴くグバイドゥーリナだった。映画が終わった後も耳に残った。もう一度聴いてみたくて、翌日の夜、映画のなかで使われている「プロ・エト・コントラ」PRO ET CONTRAを聴いた(ヨハネス・カリツケ指揮ハノーファー北ドイツ放送フィル)。30分あまりのオーケストラ曲だ。実に美しい曲だと思った。グバイドゥーリナのなかでも特別な曲ではないだろうか。ほかのどの曲とも似ていなかった。

 思いがけず音楽にのめり込んでしまったが、肝心の映画もよかった。イタリアの片田舎の話。信者が来なくなって廃止された教会。そこにアフリカからの難民(=不法入国者)が逃れてくる。かれらをかくまう老司祭。そこで起きる出来事がこの映画だ。

 教会のなかは難民キャンプのようになる。旧約聖書の「出エジプト記」を連想させる。身重な女性が出産する。イエスの誕生のようだ。感動した老司祭は神に感謝する。また仲間を売る男がいる。ユダを連想させる。難民たちは立ち去る。新たなイエスの物語が生まれるのだろうか――。

 一言でいって、これは慎ましい映画だ。場面はすべて教会のなかか、司祭館のなかだ。なので、演劇のような感じがする。映画というよりも、演劇を観ているようだ。

 そう思った一因は、教会がヨーロッパの古い石造り、または木造ではなく、無機質で近代的なコンクリート造りだからだ。それが演劇の舞台のように見えた。たぶん意図してのことだろう。
(2013.8.28.岩波ホール)
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グルスキー展

2013年08月26日 | 美術
 ドイツの現代写真家アンドレアス・グルスキーAndreas Gursky(1955‐)の作品展。現代写真の素養はまったくないので、なにをどう観たらよいのか、見当もつかないのではないかと危惧しながら、ともかく経験だけはしておこうと思って出かけた。

 ところが、驚くほど面白かった。金曜日の夜間開館日に行ったのだが、あっという間に閉館時間の8時になった。

 なかでも面白かったのは、チラシ(↑)に使われている「カミオカンデ」だ。岐阜県の神岡鉱山の地下1000メートルにあるニュートリノ放出装置スーパーカミオカンデを題材とした作品。荘厳な美しさだ。縦228.2cm×横367.2cm×奥行6.2cmの大作。グルスキーの作品は、このくらいの大きさのものが多い。

 下のほうに水が張ってあり、右端には2人の男がゴム製のボートに乗ってこの光景を見上げている。この驚くべき光景に見入っているわたしたちの分身だが、実をいうと、わたしは黄泉の国に流れる忘却の川レーテーにたどり着いた男たちかと思った。そんな物語性を感じた。

 作品リストに記載されたコメントによれば、実物は直径39.3m、高さ41.4mの巨大な円筒形のタンクだそうだ。それを平面的に構成した作品。水はグルスキーが付加した。2人の男ももちろんそうだ。これはグルスキーが抱いたイメージを表現したもので、現実の記録ではない。

 もう一つ、駅の構内などで見かけるポスターに使われている「99セント」も面白かった。びっしり、かつ整然と並べられた各種のお菓子。大きなディスカウントショップの店内だ。これも「カミオカンデ」に優るとも劣らないインパクトがあった。

 この作品にもポスターでは気が付かなかった点があった。商品の棚をのぞいている人々のなかに、一人仮面をつけている人がいた。ドキッとした。これは虚構だろう。整然とした光景のなかに、あえて破調というか、アクセントをつける手法は、他の作品にも見受けられた。なお、もう一つ、ビスケット(?)の山の上に、ドーナッツが一袋放置されていることに気が付いた。これも虚構だろうか、それとも現実だろうか。

 この作品も「現実を切り撮った各ショットを元にデジタル加工を施して作り上げられた」ものだそうだ(作品リストのコメント)。これもグルスキーが捉えた「イメージ」だ。
(2013.8.23.国立新美術館)

↓「カミオカンデ」と「99セント」を含む主な作品
http://gursky.jp/highlight.html
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広上淳一/読響

2013年08月22日 | 音楽
 読響サマーフェスティバル「三大交響曲」。毎年恒例のコンサートだ。今年の指揮者は広上淳一。毎年指揮者が変わるというのも面白い。とはいえ、実はこのコンサートを聴くのは初めてだ。

 三大交響曲というのは「未完成」、「運命」、「新世界」。昔はこの3曲を収めたLP2枚組が音楽好きの人気の的だった。もっとも、音楽を聴き始めた中学生のわたしには、高根の花だった。せっせと小遣いをためては、17センチ盤で「未完成」や「運命」を買った。「新世界」はこの盤では収まらないので、手が出なかった。

 そんな昔話をしても仕方がないが、なぜしたかというと、三大交響曲というコンセプトは今の時代も有効なのだろうかと、ふと思ったからだ。もちろん有効なのだが、それはLPで育った世代がいるうちで、もしかすると、次の世代はマーラー、ブルックナーかもしれない、と思った。そして、その世代を超えると、すべての曲が等価に存在する世代が来るのかもしれない、と想像をたくましくした。

 ともかく、幾分レトロな気分で席に座ったわけだ。1曲目は「未完成」。クラシック音楽で初めて感動した曲だ。音楽になにか途方もない世界を感じたのは、この曲が初めてだった。以来この曲は特別な曲であり続けている。

 演奏もよかった。のびやかな叙情と瑞々しい音色は――わたしの見るところ――広上淳一の生来の美質だが、それがシューベルトの音楽によく合っていた。面白かったのは、第2楽章の途中のトゥッティで出る劇的な緊張の部分が、怒りの音楽――死にたいする怒り――のように聴こえたことだ。天上の情景のようなこの楽章で、死にたいする怒りが差し挟まれることに、強い説得力を感じた。

 同じ部分がこの楽章の終盤にもう一度出てくるが、そのときは怒りを感じなかった。なぜだろう、音楽の方向がすでに平穏な終結にむかっているからだろうか、と思った。

 2曲目は「運命」。この曲では昔の――デビュー当時の――広上淳一の、やんちゃ坊主のような、よくしゃべる、情報量の多い演奏を――今は変わっているが――懐かしく思った。ちょっと省エネタイプの演奏ではなかったかと思う。

 3曲目の「新世界から」では、純度の高い、清新な演奏が楽しめた。この曲にかぎらず3曲とも、たんなる名曲コンサートではなく、真摯に音楽に向き合う演奏姿勢が――指揮者もオーケストラも――気持ちよかった。
(2013.8.21.東京芸術劇場)
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ルーヴル美術館展~地中海四千年のものがたり~

2013年08月19日 | 美術
 お盆休み中の金曜日(夜間開館日)に訪れた「ルーヴル美術館展~地中海四千年のものがたり~」。会場に着いたのは午後6時半。意外に混雑していた。日本人にはなじみの薄い地味な企画かと思っていたが、認識が甘かった。それでも午後8時頃になると潮が引くように空いてきた。午後9時まで開館なので、ゆっくり観ることができた。

 実に力の入った展覧会だ。地中海世界という言葉をキーワードに、地中海沿岸の諸民族・諸国家の四千年にわたる対立と交流をたどった展示だ。ルーヴル美術館の総力をあげた企画という触れ込みをどこかで聞いた記憶があるが、たしかにその実感があった。

 地中海世界、同展では紀元前2000年紀から19世紀の終わり(1850年)までをたどっているが、なかでもその出発点の紀元前2000年紀からローマ帝国の支配(紀元後3世紀頃)までの地中海世界の混沌とした歴史が面白かった。

 なぜ面白かったかというと、こういう混沌とした状況から今のヨーロッパは生まれてきたのだ、ということがよくわかったからだ。いいかえるなら、地中海を真ん中に据えた鳥瞰図的な視点にたつことによって、ヨーロッパがどう生まれてきたかを理解することができる、ということがわかったからだ。

 そこがつかめると、たとえば、時代はくだるが、オスマン帝国のウィーン包囲(1529年および1683年)も、ナポレオンのエジプト遠征(1798年)も、地中海世界の出来事という側面をもっていることが、感覚的にわかってきた。

 そしてまた、現代社会の緊張の構図――キリスト教世界とイスラム教世界の緊張関係――も、それがどこから生まれてきたのか、わかる気がした。そのもっともシンプルな原形が見える気がした。

 総論的なことは以上にして、あとは展示品について。以上のような視点で本展を観たせいか、一番心を惹かれたのは、ローマ皇帝アウグストゥス(在位前27‐後14年)、同ハドリアヌス(在位117‐138年)、同セウェルス(在位193‐211年)の各胸像だ。そこに漲る力の充溢は、ローマ時代の最盛期という時代の力を感じさせた。しかもまた、そこには三者三様の個性のちがいが感じられ、一面的ではない深みもあった。

 チラシ↑に使われているアルテミス像(ギャビーのディアナ)は意外に小さく、最初は少女のように感じられた。本作では衣裳の襞の彫りの深い表現に惹かれた。
(2013.8.16.東京都美術館)
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ワルター・ピアノで聴くベートーヴェンの室内楽

2013年08月13日 | 音楽
 「ワルター・ピアノで聴くベートーヴェンの室内楽」というコンサート。ヤマハ銀座で開催中の「むかしむかしの素敵なピアノ」展の一環だ。

 モーツァルトの生家やベートーヴェンの生家に行くと――いや、もっと身近な、どこかの博物館や展示場でもいいが――、当時のチェンバロやフォルテピアノが置いてある。「どんな音がするのだろう」と思うのはだれしも同じだろう。ときには簡単な解説付きで試奏してくれることもある。でも、それらの楽器を使った――現役の楽器として――本格的なコンサートを聴く機会は、ありそうでない気がする。

 上記のコンサートはそんな得難いコンサートだった。

 ワルター・ピアノとはアントン・ワルター(1752‐1826)が製造したピアノ(ピアノフォルテ)。ワルターはモーツァルトやベートーヴェンと同時代人で、ウィーンで活動したピアノ製作者だ。当時随一の評価を得ていたそうだ。モーツァルトはワルターのピアノを所有していた。ベートーヴェンがどうだったかはわからないが、当然その名前は知っていただろう。狭いウィーンのことだから、面識があってもおかしくない。

 そのワルターの作ったピアノフォルテ(1808~1810年製)を使ってベートーヴェンの室内楽が演奏された。繰り返すが、ワルターのピアノフォルテだ。レプリカではない。ここがグッとくるところだ。プログラムも本格的だ。クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ第9番「クロイツェル」、クラヴィーアとチェロのためのソナタ第3番そして交響曲第2番(ピアノ三重奏版)。

 もちろんCDでピリオド楽器の音はいくらでも聴ける。でも、生で聴きたかった。その甲斐があった。たとえばクロイツェル・ソナタの第2楽章の第3変奏で短調に転じたときの、ピアノフォルテの暗い、くぐもった音色は、ベートーヴェンが求めたもの――世界が一瞬にして暗転する底なしの暗さのようなもの――を伝えて説得力があった。

 演奏はピアノフォルテが小倉貴久子(継続的にピリオド楽器の演奏・録音をしている人だ)、ヴァイオリンが桐山建志、チェロが花崎薫。皆さん大変な力量だ。なお、弦の二人はガット弦を使用。

 アンコールにピアノ三重奏曲「街の歌」から第3楽章が演奏された。交響曲第2番のピアノ三重奏版も面白かったが、オリジナルのピアノ三重奏曲は各パートの自由さが一段と大きいと感じられた。
(2013.8.12.ヤマハ銀座コンサートサロン)
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25年目の弦楽四重奏

2013年08月12日 | 映画
 ロングラン上映中の映画「25年目の弦楽四重奏」。前から気になっていたが、グズグズしていたら友人から推薦された。背中を押されるようにして観に行った。

 ある弦楽四重奏団の話。25年間演奏活動を続けてきたが、最年長のチェロ奏者が初期のパーキンソン病と診断され、引退を決意する。それを機に揺れる他の3人。今まで封印してきた個人的な感情も噴き出し、崩壊の危機にさらされる。

 濃密な映画だ。4人それぞれの個性が明確に描かれ、さらにそれらの絡み合い(=葛藤)も克明だ。弦楽四重奏の4本の線の絡み合いに似ている、といえなくもない。そういえば、4人の個性も弦楽四重奏の各パートの性格に似ている。第1ヴァイオリンは冷徹に演奏を引っ張る。第2ヴァイオリンは陰影や揺れを添える。ヴィオラは両者に寄り添う。チェロは全体を支える。もちろん実際には各パートの性格、あるいは力学はさまざまだろうが、その最大公約数が捉えられている。

 彼らが演奏しようとする曲はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131。この映画にはこの曲しかないという感じだ。他の曲だったら――それがモーツァルトであれハイドンであれ――この映画は成立しなかったろう、とさえ思う。ベートーヴェン最晩年の曲。「深遠な」とか「哲学的な」とかいう言葉さえ一面的な気がする曲。シューベルトやストラヴィンスキーの心を捉えた曲だ。

 映画のなかではブレンターノ弦楽四重奏団が演奏している。

 個人的な思い出になるが、少しだけ脇道に入らせてもらうと、まだ大学生だったころ――今から40年も前のことだ――クラスの友人がこの曲のレコードを貸してくれた。ブッシュ弦楽四重奏団の演奏、SPレコードの復刻版だった。それを聴いたときの衝撃が忘れられない。今まで経験したことのない深さだった。それ以来どの演奏を聴いても、ブッシュ弦楽四重奏団には及ばないと思った。

 正直な話、もう他の演奏は諦めていた。でも、ブレンターノ弦楽四重奏団はいいかもしれない。現代的な若々しさがあったような気がする。

 ラストシーンにブレンターノ弦楽四重奏団のチェロ奏者が登場する。その演奏はものすごい迫力だ。もう一人、チェロ奏者の亡くなった妻の役でアンネ=ゾフィー・フォン・オッターが登場している。じつは俳優が演じて、だれかが吹き替えをやっているのだろうと思っていた。さすがに絵になる。
(2013.8.9.角川シネマ有楽町)
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碌山美術館と常念岳

2013年08月08日 | 身辺雑記
 碌山美術館はJR大糸線の穂高駅の近くにあります。穂高駅は北アルプスの登山の際に何度か乗り降りしたことがあります。でも、いつも素通りで、碌山美術館に立ち寄ることはありませんでした。そんなわけで、いつかは訪れてみたいと思いながら、その機会を得られないままでした。

 知人の一人が、何年も前から、常念岳に登りたいといっていました。その知人はわたしよりも年上で、今年古希を迎えます。失礼ながら、早めのほうがいいかと思い、今年実行することにしました。常念岳というと、穂高駅からタクシーで登山口まで入るのが一般的です。穂高駅……、この機会に碌山美術館に行ってみようか……と思い、知人に話すと、快く了解してくれました。

 8月3日(土)の夕方に駅前ホテルで落ち合うことにして、午後の時間を使って碌山美術館に行きました。その感想は昨日書いたとおりですが、他にもいろいろ収穫がありました。興味深かったのは、荻原守衛(碌山)と青木繁が画塾「不同舎」で同時期に学んでいたことです。二人が写っている集合写真がありました。

 碌山と青木繁は、わたしのなかでは、まったく結びついていませんでした。才能も野心もあふれるほど持ち合わせた二人のあいだに、どのような交流があったのか、または、なかったのか、興味をひかれました。

 夕方、知人ともう一人の同行者とわたしとで落ち合い、信州名物のそばと馬肉の刺身そしてビールで楽しい食事をしました。

 翌日から登山。このコースは以前下山で使ったことがあります。疲れていたためか、あまりいい印象はありませんでした。今回は登り。登りやすい道だと思いました。天候が曇りだったことも幸いでした。

 常念小屋で一泊。夜は雨になりました。翌朝は小雨。常念岳の頂上に着いたころから雨脚が強くなりました。蝶ケ岳までの稜線では穂高連峰や槍ヶ岳の展望が楽しめるはずですが、なにも見えませんでした。ずぶ濡れになって蝶ケ岳ヒュッテへ。

 翌日は上高地に下山しました。上高地に着いたら雨が上がり、青空が見えてきました。まあ、仕方がない、と一同笑って登山終了。河童橋の手前のキャンプ場でお風呂に入り、さっぱりしてから、バスターミナルの食堂で下山祝い。ビールがうまい!これが楽しみで山に登るようなものです。知人は念願の常念岳に登ることができて喜んでいます(言い遅れましたが、女性です)。わたしも、お連れしてよかったと思いました。
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碌山美術館

2013年08月07日 | 美術
 碌山美術館。いつかは行ってみたいと思っていた。念願かなってやっと行けた。レンガ造りの古い教会のような建物。それは写真で見ていたとおりだが、想像よりも小さかった。その小ささが好ましかった。

 中に入ると、荻原守衛(碌山)の彫刻が並んでいた。以前見たことのある作品もあり、また(実物としては)今回初めて見る作品もあった。時間を忘れて見ていた。そうするうちに、最後の作品「女」(碌山はこの作品を仕上げた翌月に亡くなった。享年30歳だった)が群を抜いた作品であると感じられた。白鳥の歌というと月並みな表現かもしれないが、その言葉が連想させるなにか孤高な気配が感じられた。

 「女」は相馬黒光の面影を宿している――あるいは(友人の妻である)相馬黒光への愛の苦悩を宿している――といわれている。その相馬黒光が晩年に語った「碌山のことなど」という小冊子が販売されていた。そこにはこう書かれていた。

 「絶作になった《女》は女性の悩みの絶頂をシンボルしてゐるものだと思ひます。足が地について立上れないあの姿をみて私はじっと正視してゐられませんでした。」(14頁)

 相馬黒光は当事者だったので、「足が地について立上れない」という感覚は――晩年になっても――生々しく蘇ってくるのだろう。

 でも、わたしは、それだけではなく、悩みから抜け出すというか、悩みが昇華される、まさにその一瞬を捉えた作品のようにも感じられた。それはわたしだけの感じ方かもしれないが、足が地について離れない点は黒光のいうとおりではあるにしても、全体の上昇感は、悩みから脱皮して今まさに昇華に向かうようにも感じられた。

 そう感じられたことが嬉しかった。碌山はこの作品をもって青春を終えた、あるいは、終えようとした。自分でも気づかないうちに、青春から抜け出ようとした。でも、それは人生を終えることを意味した。創作上のミューズであった黒光を失うことなく――永遠に胸に秘めて――人生を終えたのではないか。

 展示室はドアが開け放たれていた。外から涼しい風が入ってきた。クーラーの人工的な風ではなく、信州のさわやかな風だった。監視員はいなかった。だれにも監視されなかった。皆さんおとなだった。作品に触れたりはしなかった。いや、一人いた。中年の女性がしきりに触っていた。こういう人も稀にいるのだろう。それも覚悟しているのだろう。
(2013.8.3.碌山美術館)

「女」の画像↓
http://www.rokuzan.jp/jyo-ji.html
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少年口伝隊一九四五

2013年08月02日 | 演劇
 新国立劇場演劇研修所の公演「少年口伝隊一九四五」。毎年この時期にやっていて(去年はなかったそうだが)、いつも観たいと思うのだが、行けずじまいだった。今年はぜひ観たいと思って、日程を空けておいた。

 写真で舞台の様子は見ていた。舞台の前面に昔の学校の教室にあったような木の椅子が並べられている。出演者は12人。なので、椅子も12脚。白いシャツと黒いズボンの男子生徒6人と、白いシャツと黒いスカートの女子生徒6人が座る。これらの生徒たちが朗読する劇(朗読劇)が本作だ。

 原爆投下直前の平穏な広島市内から始まって、原爆投下とその後の阿鼻叫喚。生き残った少年3人は少年口伝隊(新聞の発行ができなくなった新聞社に雇われて口頭で情報を伝える仕事)として市内を回る。そこに襲ってくる大型台風(枕崎台風)。

 これらの話がテンポよく進む。朗読劇だが、一人が朗読するのではなく、12人が代わる代わる朗読する。そのテンポが心地よい。ときには一斉に言葉を発し、あるときは一瞬の沈黙がある。またあるときは台本を見ずに(朗読劇なので、台本を見ながら朗読するのが基本だが、台本を閉じて、演技をしながら)台詞を発する。

 演出は栗山民也。その指導のもとで十分に準備された舞台だと思う。12人それぞれの個性があり、――わたしにはわからないが――才能のちがいもあるだろう。ともかく今は研修所で研鑽をつんでいる若い人たちの真摯な舞台だ。

 舞台後方には一人のギター奏者がいる。この奏者が奏でるノスタルジックなメロディーと効果音的な単音が、この舞台にモノクロームな色彩を添えていた。ギター奏者は宮下祥子。繊細な演奏だった。2002年のアンドレアス・セゴビア国際コンクールで2位入賞。セゴビアの名を冠したコンクールなので、権威があるのだろう。

 本作は、井上ひさしが2008年に演劇研修所のために書き下ろした作品。今回、公演の直前に本になった。さっそく読んでみた。絵本のような感じだ。ヒラノトシユキ氏の絵が要所要所にある。どの絵も味がある。情景を端的に表している。久しぶりに絵本を読む気分を楽しんだ。

 読んで感動した。でも、舞台を観たら、もっと感動した。声の力とはすごいものだ。目の前で演じている役者の身体の力とはすごいものだ。そして言葉のニュアンス、間合い等々を読みとる演出家の力もすごいものだ。
(2013.8.1.新国立劇場小劇場)
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広上淳一/都響

2013年08月01日 | 音楽
 ダンス・ダンス・ダンスと名付けられたコンサート。広上淳一指揮の都響。東京文化会館の「響の森」シリーズの一環だ。

 1曲目はバルトークの「ルーマニア民俗舞曲」。まあ、どうってことのない演奏――そういったら失礼になるだろうが、都響なら本番前に1~2回合わせればできしまう演奏――だと思った。といっても、別に文句をいっているわけではない。そう思ったということ。

 2曲目はラロの「スペイン交響曲」。ヴァイオリン独奏は竹澤恭子。先日の東京シティ・フィル定期に続き、短期間のうちにまた聴けるとは嬉しい。東京シティ・フィルのときには――オーケストラの定期に相応しく――ベルクのヴァイオリン協奏曲だったが、今回はサマーコンサートに相応しく「スペイン交響曲」。

 演奏はすばらしく、最初から最後まで惹きつけられた。滑らかな語り口、豊かに鳴る音――ほんとうはそんな一般的な表現ではなく、肉体的な音とでもいいたいくらいだ――そして指揮者との丁々発止の掛け合い。とくに第3楽章の彫りの深さがユニークだった。昔はよく省略された第3楽章だが、こんなに面白かったのかと認識を新たにした。

 3曲目はブラームスのハンガリー舞曲集(全21曲)。原曲のピアノ4手、またはヴァイオリンとピアノ用の編曲ならともかく、管弦楽版で全曲通して聴く機会はめったにない。はたしてどう聴こえるか、ありていにいえば、どの程度まで退屈せずに聴き通せるか、それが興味の的だった。

 ところがどの曲も面白かった。はっきりいって、ブラームスとしても気乗りしていないような、あるいは、なかだるみしているような曲も、ないではないのだが、それらを含めて、どの曲もキャラクターピースのように面白く聴けた。

 これは演奏がよかったからだ。都響の演奏力はいうまでもないが、広上淳一の各曲の描き分けの巧みさもあった。各曲の性格を的確にとらえた演奏。しかもこの指揮者らしく、音楽の枠を超えることはない――特徴を強調することはあっても、けっして音楽の枠を逸脱しない――演奏。意外に実直な演奏。

 こうして全21曲を聴き通した。終演は21:15。ヘビーなプログラムだった。ほんとうはこれを野外コンサートで聴けたら――ベルリン・フィルのヴァルトビューネのコンサートのように――、もっとよかったかもしれない。そういう日は――この東京にも――訪れるのだろうか。
(2013.7.31.東京文化会館)
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