Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ミカド

2017年08月30日 | 音楽
 新国立劇場の地域招聘オペラ公演、びわ湖ホール制作の「ミカド」を観た。出演歌手たちの大部分はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー。専属歌手だけでオペラを作る意気込みがいい。皆さんしっかり歌っていた。演技もがんばった。指揮の園田隆一郎と演出・訳詩の中村敬一は、びわ湖ホールと縁が深いようだ。オーケストラは日本センチュリー交響楽団。

 演目の選定で「ミカド」に目をつけたことは慧眼だと思う。底抜けに楽しい抱腹絶倒のオペレッタ。日本では上演機会が少ない。わたしは2007年3月に「東京シアター」という団体が東京芸術劇場中劇場で上演したのを観たのが初めて。そのときは面白さに仰天した。今は「東京シアター」の名前を聞かないが、その後どうなったか。

 今思えば、そのときの公演は、ほのぼのとした、素朴なものだった。ヤムヤムを歌った羽山弘子の可愛らしさが記憶に残っている。それに比べると今回の公演は、演出・訳詩の中村敬一の視点が明確に打ち出されていた。

 中村敬一は「演出ノート」に次のように書いている。「今回『ミカド』を「外国人の見た日本~ジャポニズム」として、笑いと軽やかな展開で再現しようと思います。舞台(増田寿子)は、日本を訪れた外国人のためのツアーガイドのサイトのように次々と変わる日本の見所、観光地を背景にドラマを進め、(以下略)」。

 たしかに舞台はインターネットのサイトのようになっていた。そこに金閣寺や清水寺、あるいは浅草の雷門などの観光写真が次々に現れた。我々日本人にはちょっと居心地の悪い‘日本’のイメージ。

 もちろんこれはギルバート(台本)&サリヴァン(作曲)の日本理解(当時のジャポニズム)を異化し、それを笑う試みだ。だがその笑いには、反発とか皮肉とか、そんなものは含まれず、もっと単純な笑い。それはそれでよいが、全体的にもっと弾けた切れ味があったらなおよかった。

 「ミカド」の音楽は、マドリガルのパロディーやオペラの大仰なアリアのパロディーが出てくる点で、‘ひねり’の効いた面がある。また全曲中で一番甘く美しい歌が、正統派のカップルのナンキプーとヤムヤムにではなく、コミカルなカップルのココとカティーシャの、そのココに与えられている。胸が締め付けられるような愛の訴え。

 なお園田隆一郎の指揮にはもっと積極性がほしかった。
(2017.8.27.新国立劇場中劇場)
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ルイージ/読響

2017年08月29日 | 音楽
 パソコンが8月25日(金)夜からインターネットにつながらなくなった。こうなるともうお手上げ。電話でプロバイダーその他の指導を受けながらあれこれやってみたが、結局だめなので、買い換えることにした。

 週末には8月24日(木)のファビオ・ルイージ/読響の演奏会の記録を書くつもりだったが、それができず、また8月27日(日)にはびわ湖ホールが制作した「ミカド」を観たが、その記録を書くこともできなかった。新しいパソコンが届いたので、遅ればせながら、それぞれの記録を書き留めておく次第。

 ルイージは今回が読響初登場。巷間何やら噂が流れているようだが、その真偽はさて置き、この演奏会にはルイージと読響それぞれの尋常でない気合の入り方が感じられた。お互いに高度なプロ同士の‘対決’といっては語弊があるが、それぞれの能力の限りを尽くし、またお互いの能力を試しているような気配があった。

 1曲目はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」。勢い込んで始まった演奏は、テンポのメリハリがはっきり付けられ、とくにテンポを落した部分が、ぎりぎりまで歌い込まれた。だがわたしは、全般的に少し硬さを感じた。それは初顔合わせの故かと思った。

 2曲目はハイドンの交響曲第82番「熊」。弦の編成を12型に縮小して(「ドン・ファン」は16型)、軽く暖かい音色を出していた。その音色でルイージ持ち前の快い音楽の推進力が発揮された。第4楽章の低弦のドローン音型も、けっして強調されず、軽いアクセントを伴って、心地よく音楽を進めた。

 3曲目はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。冒頭のテーマが深々と厚みのある音で鳴り響いた。ハイドンの音とは180度違う音。ルイージと読響とがいろいろな音を試しているようだった。

 この曲では「ドン・ファン」のときに感じた硬さがなく、雄弁な演奏が展開された。この曲の標題的な側面には拘泥せず、オーケストラ書法の見事さを見据え、そこにルイージも読響も共感しているような演奏。そこからお互いへの信頼感が芽生えていることも感じられた。

 「英雄の戦い」の後半から「英雄の業績」にかけてのシュトラウス作品のテーマの引用が克明に描かれた。また要所要所でのハープ2台の効果も明瞭に出た。なお曲の最後は静かに終わる初演版での演奏だった。
(2017.8.24.東京芸術劇場)
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ザルツブルクの美術館と博物館

2017年08月25日 | 美術
 8月14日、ザルツブルクに着いたその夜は、ベルクのオペラ「ヴォツェック」を観に行き、ウィリアム・ケントリッジの演出に魅せられた。今思うと、わたしはほんとうに無知だったが、ケントリッジは著名な現代美術家だった。そのことはプログラムのプロフィール欄で知ったのだが、同時にケントリッジの個展「Thick Time」がザルツブルク現代美術館で開かれていることを知り、翌日見に行った。

 同美術館はメンヒスベルク館とルペルティヌム館との2館からなるのだが、前者ではケントリッジのインスタレーションが、後者ではケントリッジのオペラ演出が展示されていた。

 オペラ演出も興味深かったが、インスタレーションが衝撃だった。いくつもの作品が展示されていたが、わたしが見たのは「The Refusal of Time」(5チャンネルのヴィデオ・インスタレーション、2012年、約30分)と「More Sweetly Play the Dance」(8チャンネルのヴィデオ・インスタレーション、2016年、約15分)(写真参照↑)。

 わたしはとくに後者が面白かった。8面のスクリーンが横1列に並び、陽気な音楽に合わせて、左から右に、年齢も階層も様ざまな人々が行進していく。老若男女、アジ演説をする人、怪我をした人、病人、その他諸々。そこに何を感じるかは見る人の自由。わたしは「人類は明るく陽気に破滅への道を行進している」と感じた。

 8月16日はノイエ・レジデンツのザルツブルク博物館で「ART ROYAL」という企画展を見た。これはルーヴル美術館所蔵の素描約80点を展示したもの。ミケランジェロ2点、ラファエロ2点、デューラー1点、その他溜息の出るような作品ばかり。それらを静かな環境で心ゆくまで見ることができた。

 同博物館の常設展にはモーツァルトの遺髪が展示されている。わたしにとっては聖遺物のようなもの。それを見ていると、そこにモーツァルトがいるような、不思議な実体を感じる。

 8月17日はレジデンツ・ギャラリーで「アレゴリー」という企画展を見るつもりだったが、朝食後、ホテルの部屋で本を読み始めたら、外に出るのが億劫になって、そのまま部屋で過ごした。当日は午後3時からモーツァルトのオペラ「皇帝ティトの慈悲」を観るので、結局「アレゴリー」は諦めた。

 「アレゴリー」ではルーベンス、レンブラント、ムンクなどが展示されているようだった。
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ザルツブルク:皇帝ティトの慈悲

2017年08月24日 | 音楽
 ザルツブルク最終日はモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」を観た。これはピーター・セラーズの演出、テオドール・クルレンツィスの指揮、そしてセストを歌ったマリアンヌ・クレバッサの歌唱の3点で傑出した上演だった。

 まずセラーズの演出から。これは読み替え演出の範疇を超えて、このオペラにモーツァルトの他の楽曲を挿入するという、一歩踏み込んだものだった。挿入された曲は「大ミサ曲 ハ短調」から数曲、「アダージョとフーガ ハ短調」そして「フリーメイソンのための葬送音楽」。いずれも登場人物の感情表現を補強するため。

 これはひじょうに効果的だった。舞台の雰囲気が瞬時に変わった。あるときは喜びに溢れ、また悲痛な感情が高まり、あるいは沈鬱なムードに包まれた。

 いうまでもないが、このオペラが書かれた1791年(モーツァルト最後の年)には、モーツァルトは多忙を極めた。詳細は省くが、モーツァルトはこのオペラに推敲を加える余裕がなかった。わたしは今回の上演を観た後、もしモーツァルトにこのオペラを再演する機会があったとしたら、同じことをしたかもしれないと想像した。パスティッチョ・オペラの例を考えれば、挿入曲の選択は異なるにしても、これは十分あり得る手だと思った。

 演出についてもう一言。今回の演出では、セストは(人違いをせずに)皇帝ティトを襲い、重傷を負わせる筋書きになっていた。台本では、皇帝ティトだと思って襲った相手は、じつは別人だったという馬鹿馬鹿しい筋書きだが、それを避けた。わたしはこれも歓迎すべきことだった。

 次にクルレンツィスの指揮について。クルレンツィスが指揮するピリオド楽器オーケストラ‘ムジカエテルナ’の演奏は、生気に溢れ、尋常ならざるドラマトゥルギーを持っていた。1小節たりとも機械的に拍を刻むことがなく、また休符の一つひとつも、それが4分休符か8分休符かという観点ではなく、ドラマの進行として、あるいは登場人物の心理として、どの程度の長さが必要かという観点で捉えられていた。

 その結果、モーツァルトのスコアから、今までだれも想像したことがないような音楽を引き出していた。わたしは圧倒された。

 最後にセストを歌ったクレバッサについて。ズボン役の不自然さがなく、また歌唱技術が驚くほど高い。シャープな歌唱でセストの苦悩を歌いきった。今回の上演ではセストが主役だった。
(2017.8.17.フェルゼンライトシューレ)
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ザルツブルク:音響空間

2017年08月23日 | 音楽
 ジェラール・グリゼー(1946‐1998)の連作「音響空間」(1974‐1985)をコレギエン教会の大空間で演奏する演奏会。「音響空間」は2008年のサントリー芸術財団サマーフェスティヴァルで聴いて感銘を受けた。機会があったら、もう一度聴いてみたいと思っていた。それが教会の大空間で演奏される。いったいどんな音になるのか。今年はそれを聴きたいためにザルツブルクに行った。

 ヴィオラ・ソロによる第1曲「プロローグ」。ヴィオラ1本で大空間を揺さぶることが驚きだ。新鮮な感覚でもある。わたしは以前にもここでブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」を聴いたときに同じ経験をしたので、今回は2度目だが、新鮮な驚きは変わらなかった。

 続けて7人の奏者のための第2曲「ペリオド」、18人の奏者のための第3曲「パルティエル」と進むにつれ、音の層が生まれ、それがオーロラのような帯になって流れ、コントラバスなどの低音が轟き、また細かな音の粒子が明滅する。

 「パルティエル」の最後では、奏者が各々譜面を片付け始めたり、紙をクシャクシャにして破いてみたり、また指揮者が足元のペットボトルを拾って水を飲んだりするパフォーマンスが繰り広げられる。それらの雑音もまた音楽の一部。思わず笑ってしまう。これらのユーモアも「音響空間」の大事な要素だ。

 休憩後、33人の奏者のための第4曲「モデュラシオン」、大編成のオーケストラのための第5曲「トランジトワール」と続く中では、音が飛び散り、渦を巻き、音響が膨張して、やがて爆発する。まるでビッグバンのようだ。しかもこれらの推移は、音が混濁することなく、常にクリアーな状態で進む。

 そして最後の4本のホルンと大編成のオーケストラのための第6曲「エピローグ」では、ホルンが凄まじい音で鳴った。あれは怪獣かなにかの勝利の雄叫びか、それとも断末魔の呻き声か。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、わたしは宇宙の神秘を聴くような想いがした。控え目にいっても、音が構成する空間(音響空間)の神秘を聴くような想い。そんな究極の音を聴いたと思った。

 演奏はオーストリア放送交響楽団(ヴィオラ独奏は同団の首席奏者)。指揮はマキシム・パスカル。年齢は30歳前後か。この曲に心酔し、自分のすべてをぶつけた指揮。わたしは目を見張った。
(2017.8.16.コレギエン教会)
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ザルツブルク:ムツェンスク郡のマクベス夫人

2017年08月22日 | 音楽
 ザルツブルク2日目はショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観た。前日の「ヴォツェック」も今回も同じウィーン・フィルだが、オーケストラの音が全然違う。今回は音に潤いがある。やわらかい絨毯のような弦のテクスチュア。これこそウィーン・フィルだと思った。

 メンバーの一部交代はあるだろうが、やはり指揮者の違いが大きいと思う。今回はマリス・ヤンソンス。今や現代を代表する指揮者の一人だけあって、作品とオーケストラとの双方をしっかり掌握していることが感じられる。ウィーン・フィルはウィーン・フィルで、ヤンソンスに全幅の信頼を置いているようだ。

 前述したような弦のテクスチュアに、スケールの大きさと切れ味のよさが加わり、第一級のショスタコーヴィチの演奏が生まれた。

 歌手ではカテリーナを歌う予定だったニーナ・シュテンメが、体調不良ということで降り、本来は女中アクシーニャを歌う予定だったエフゲニア・ムラヴェヴァという歌手が代役に立った。

 観客としては、さて、大丈夫かと固唾を呑んで見守るわけだが、どうして、どうして、堂々たる歌と演技で、少しも不安がなかった。プロフィールを見ると、マリインスキー劇場で最近同役を歌ったか、または近々歌う予定とのこと(どちらかは判然としない)。しっかり準備ができていたのだろう。

 カテリーナを誘惑するセルゲイを歌ったブランドン・ジョヴァノヴィチは、歌はよいのだが、男の色気に欠けていた。カテリーナの舅ボリスを歌ったドミトリ・ウリャノフは、声に力があり適役だった。その他の歌手もよくやっていた。

 演出はアンドレアス・クリーゲンブルク。演劇畑の人だけあって、緊密で、焦点のよく合ったドラマを構築した。読み替えというほどのものはなく、変わったこともしていないが、あえて一言触れると、イズマイロフ家の使用人の集団の中に、一人の少年がいて、少し目立つ動きをしていた。

 あれはなんだろうと考えているうちに、ふと、ショスタコーヴィチが(共同執筆者とともに)レスコフの原作からオペラ台本を作るとき、カテリーナとセルゲイに殺害される少年をカットしたことを思い出した。カテリーナの‘マクベス夫人’的な性格を決定づけるくだりだが、今回の演出でのあの少年は、カットされた原作の少年のささやかな墓標ではないかと思った。わたしの勝手な解釈だろうが。
(2017.8.15.祝祭大劇場)
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ザルツブルク:ヴォツェック

2017年08月21日 | 音楽
 ザルツブルク滞在初日はアルバン・ベルクの「ヴォツェック」。これはなんといってもウィリアム・ケントリッジの演出がすごかった。わたしはこの人を知らなかった。なんの予備知識もなく上演を観て驚き、プログラムを読んで、初めてどういう人か知った次第。

 舞台はガラクタの山。木製の椅子やベンチ、木の切れ端、その他の雑多な物が山積みになっている。その間を縫うように通路が付いている。歌手たちはそこを行き来する。ガラクタの山の一角には壊れかかった小部屋のようなものがあり、ヴォツェックはそこで大尉のひげを剃る。小部屋がもう一つあり、医者はそこでヴォツェックを診察する。

 ヴォツェックがアンドレと藪を刈る広野はどうするのかと思っていると、プロジェクターで禿山のドローイング(ケントリッジ制作)が投影され、舞台はあっという間に広野になった。そこには人間の首が転がっている。ヴォツェックが妄想する首だ。

 オペラの進行とともに分かってくるのだが、ガラクタの山は空襲で破壊された家のイメージ。破壊された家のドローイングがプロジェクターで投影され、それがガラクタの山の輪郭と一致する。撃ち落とされた戦闘機のドローングも現れる。禿山に転がる首の数が増えていく。戦場で倒れた兵士たちの首だ。

 演出のケントリッジは、時代設定を原作者ビュヒナー(1813‐1837)の生きた時代から、作曲者ベルク(1885‐1935)の生きた第一次世界大戦の時代に移したわけだ。兵士たちが(そしてヴォツェックとマリーとの間の子供までが)防毒マスクを付ける場面があり、その時代を強調した。

 プロフィールによると、ケントリッジは1955年に南アフリカで生まれ、現代美術家として高く評価されている。2010年には京都賞を受賞。近年はオペラ演出も手掛け、「鼻」、「ルル」、「ウリッセの帰郷」などを演出している。

 ザルツブルク現代美術館でケントリッジの個展をやっていたので、翌日見に行った。とても面白かった。これについては後日改めて書きたい。

 歌手はヴォツェック役がマティアス・ゲルネ。深々とした声と歌唱で申し分ない。以下、歌手の名前は省くが、マリー、大尉、医者、鼓手長、それぞれ適役だった。問題はウラジミール・ユロフスキー指揮ウィーン・フィルの演奏にあった。ベルクの音楽の透明さ、甘美さ、艶のある音色などが出ず、音楽が痩せていた。
(2017.8.14.モーツァルの家)
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帰国報告

2017年08月19日 | 身辺雑記
本日、ザルツブルクから帰ってきました。今回観たオペラと聴いた演奏会は、次のとおりです。
8月14日(月) ベルク「ヴォツェック」(モーツァルトの家)
8月15日(火) ショスタコーヴィチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(祝祭大劇場)
8月16日(水) グリゼー「音響空間」(コレギエン教会)
8月17日(木) モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」(フェルゼンライトシューレ)
後日また感想を書かせていただきます。
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旅行予定

2017年08月13日 | 身辺雑記
8月13日から旅行に出ます。行き先はザルツブルク。帰国は8月19日の予定です。帰国したらまた報告します。
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ジャコメッティ展

2017年08月12日 | 美術
 ジャコメッティ展は、2006年に神奈川県立近代美術館葉山で開かれたものを見て、感動したことがあるが、国立新美術館で開かれている本展は、それと比べても画期的だと思う。

 なぜかというと、ジャコメッティ(1901‐1966)がチェース・マンハッタン銀行の依頼を受けて制作した3点の巨大な作品が来ているから。「大きな女性立像Ⅱ」、「大きな頭部」そして「歩く男Ⅰ」。いずれも1960年の作品。結局それらの作品を同銀行に設置する構想は実現しなかったが、ジャコメッティは熱心に制作した。現在これら3点を所蔵しているフランスのマーグ財団美術館は1964年の開館だが、ジャコメッティはその開館に当たってこれらの作品を寄贈した。

 先ほど‘巨大’と書いたが、その大きさは「大きな女性立像Ⅱ」が276×31×58㎝。見上げるような高さ。どこか秘教の神像のようにも見える。「大きな頭部」は95×30×30㎝。ずっしりした量感はイースター島のモアイ像を連想させる。「歩く男Ⅰ」は183×26×95.5㎝。成人とほぼ等身大の(しかし極端に痩せ細った)その像は、人間存在に関する哲学的な思索が感じられる。

 ジャコメッティというと、細長く引き伸ばされた人体像を思い浮かべるが、これらの3点は、その大きさの物理的なインパクトもさることながら、ジャコメッティがくだんの人体像の制作の過程で、思いもかけないスケールで実体を把握していたことを感じさせる。

 ともかくジャコメッティの作品が、巨大なスケールでも、違和感なく成立することが新鮮だ。これらの3点を見る前と見た後とでは、ジャコメッティにたいする認識が変わると思う。

 本展には他に「ヴェネツィアの女」の連作9点が来ている。いずれも1956年の作品。高さ1m余りのほぼ同じサイズの作品が、単体ではなく、群像として並ぶと、モニュメンタルな荘厳さが漂う。

 それらの9点の女性立像は正面を向いている。前述の「大きな女性立像Ⅱ」も同じ。油彩の肖像画も、対象が女性であろうと男性であろうと、正面観だ。正面性はジャコメッティの特徴の一つだが、そこにはなにか意味がありそうに感じた。

 ジャコメッティは対象との間合いを測っていたのだと、わたしは思った。ジャコメッティには(物理的ではなく)精神的な‘距離’の感覚があり、わたしはそこに惹かれているのかもしれない。
(2017.8.7.国立新美術館)

(※)本展のHP
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アルチンボルド展

2017年08月10日 | 美術
 アルチンボルド展が開催されることを知ったのは、昨年の秋か冬頃だった。ずいぶん渋い画家を取り上げるものだなと思った。アルチンボルドの名前は知っていたが、チラシ↑で使われているような奇妙な人物画のイメージがあるだけで、他にどんな絵を描いているのか、またどんな生涯を送ったのかは、まったく知らなかった。

 さて、展覧会が始まって、足を運んでみると、大勢の子どもたちで賑わっているので驚いた。夏休みということもあるだろうが、アルチンボルドが子どもたちに受け入れられていることが予想外だった。でも、たしかに、変な絵、不思議な絵、楽しい絵といった切り口があるので、それに子どもたちが反応するのだろうと気が付いた。本展を夏休み期間中に開催した主催者側の慧眼だ。

 チラシ↑の絵は「春」という題名。無数の花(本展のHPによると80種類もあるそうだ)で構成した春の擬人像。これを美しいと思うか、気味が悪いと思うかは微妙だが、ともかく変わった絵であることは間違いない。

 わたしは花よりもむしろ、衣服を構成している葉に惹かれた。陰影が濃やかで、みずみずしく、迫真性のある描き方だ。話が先走るようで恐縮だが、アルチンボルド(1526‐1593)は晩年、故郷のミラノに帰ったが、その頃若きカラヴァッジョ(1571‐1610)がアルチンボルドの絵を見たことは確実視されているようだ。本作での葉の描き方には、若き日のカラヴァッジョにつながるものが感じられた。

 本作は「夏」、「秋」、「冬」とともに連作‘四季’を成す。「夏」は果物と野菜で、「秋」も果物(とくに葡萄)と野菜で、「冬」は枯れ木で構成されている。

 一方、衣服は、「夏」は麦、「秋」はワイン樽、「冬」は蓑で構成されている。それらの描き方は「春」での葉と同様に迫真的だ。

 アルチンボルドはミラノ生まれ。1562年にハプスブルク家の宮廷画家に登用され、その翌年に‘四季’の連作を描いた。アルチンボルドとしては宮廷内での地歩を固めるための渾身の力作だったようだ。たしかに一風変わった絵ではあるが、宮廷人にはそれを博物学的な興味を持って見る教養があり、またそのユーモアを楽しむ余裕があったのだろう。

 本展には他にも、たとえば書物の山で構成した「司書」のような‘職業絵’とか、絵をひっくり返すと別の絵が出てくる‘上下絵’とかが来ており、楽しい展覧会になっている。
(2017.8.4.国立西洋美術館)

(※)本展のHP
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近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か

2017年08月08日 | 身辺雑記
 安倍内閣の改造前の時期だったが、わたしは安倍首相の政権運営に見られる傲岸不遜な性質に不安を覚えたので、歴史をひもとくために山崎雅弘の「「天皇機関説」事件」(集英社新書)を読み、次に今を読み解く観点から、同じく山崎雅弘の「日本会議 戦前回帰への情念」(同)を読んだ。

 以上の2冊を読むうちに、わたしは天皇制についてどう考えるかを、自分なりにはっきりさせなければならないと思うようになった。ざっくりいうと、山崎氏の前記2冊は、昭和天皇および今上天皇について、好意的な書き方をしており、わたしもそれに共感した。でも、それでいいのかと、もう一度自分に問うてみる必要を感じた。

 では、何を読むか。選んだ本は、片山杜秀と島薗進の対談「近代天皇論――「神聖」か、「象徴」か」(集英社新書、2017年1月発行)。いうまでもないが、片山杜秀は音楽評論家のスター的な存在。その著作や発言には馴染みがある。だが、それだけではなく、同氏は政治思想の研究者でもある。その側面にも触れてみたいと思った。一方の島薗進は宗教学の泰斗だ。

 正直いって、お二人の対談には、わたしの手に余るものがあった。一般の読者を想定した対談なので、論旨は平明で、それを追うことは困難ではなかったが、おそらくお二人の間で了解されている内容は、わたしの理解よりも深いだろうという自覚があった。

 それはさておき、結論的には、わたしは天皇制の歴史について前よりも認識を深め、今上天皇への共感は間違っていないと思うことができた。

 今上天皇のお考え、そしてその行動については、わたしなどが軽々に発言するものではないだろうが、本書から読み取った事柄をあえて要約すれば、今上天皇は日本国憲法が定める「象徴天皇」制を突き詰めてお考えになり、それを実践されてきたということだ。

 その意味では、今上天皇は戦後民主主義の体現者であり、そこにわたしの共感があることに自信を持った。現在の社会は保守化が進み、戦後民主主義を軽んじる風潮がある。今上天皇にその価値観が体現されていることにホッとした。

 今上天皇は2016年8月に退位のご意向を滲ませるお言葉を述べられた。わたしはそのとき、ごもっともだと思い、今までのご苦労に感謝申し上げたが、本書を読むと、日本会議の論客などの右派は反発したそうだ。右派が天皇のお言葉に反発するという‘ねじれ現象’が多くを語っているようだ。
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日本会議 戦前回帰への情念

2017年08月06日 | 身辺雑記
 山崎雅弘の「「天皇機関説」事件」を読んで、戦前の日本がわずか半年あまりで一変する歴史を学んだわたしは、今度は日本の‘今’を知りたくなった。そのためには、日本会議について、一度きちんと知ることが肝要だと思った。

 日本会議については、菅野完の「日本会議の研究」(扶桑社新書)、青木理の「日本会議の正体」(平凡社新書)、藤生明の「ドキュメント日本会議」(ちくま新書)など数種類の本が出ているが、わたしは「「天皇機関説」事件」と同じ著者が書いた「日本会議 戦前回帰への情念」(集英社新書)を選んだ。

 本書は2016年7月発行なので、1年前に書かれたものだが、基本的な事柄は変わっていないようだ。日本会議のルーツはなにか(それは、端的にいうと、生長の家が根幹にあり、そこに神社本庁が流れ込んでいるようだ)、また日本会議の思想はどうか(それは、端的にいうと、戦前の「国体」思想への回帰のようだ)、そして具体的にどのような行動をしているかが、よく分かった。

 わたしは少々恐ろしくなった。日本会議の政界への浸透は予想を超えていた。今頃なにをいっているのかと笑われそうだが、安倍晋三、麻生太郎、菅義偉、岸田文雄、石破茂、野田聖子などは‘日本会議国会議員懇談会’のメンバーだ。手法の違いはあるにせよ、最終目標は共通しているかもしれない。

 その最終目標は憲法改正だろう。自民党は2012年4月に憲法改正案を発表している。安倍首相は今年に入って、第9条について自民党の改憲案とは異なる‘加憲’案を言い出したので(それは日本会議の発想だ)、多少混乱気味だが。

 本書では、その自民党の改憲案について、逐条的に狙いが分析されている。紙数が限られているので、簡潔にポイントを押さえただけかもしれないが、わたしはそれを読むうちに背筋が寒くなった。改憲案は全体として戦前の「国体」思想への回帰が図られているようだ。第9条はその一環に過ぎない。

 わたしはあらためて自民党の改憲案を通読してみた。表面的にはあまり問題はないように思えてしまうことが、かえって怖かった。

 本書で紹介されているのだが、安倍首相は2012年12月14日のYouTube「政治家と話そう」で、日本国憲法について「いじましいんですけどもね。みっともない憲法ですよ。はっきり言って」と述べている(今でも視聴できる)。まるでネトウヨのような言説だ。
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「天皇機関説」事件

2017年08月04日 | 身辺雑記
 安倍首相は去る8月3日に内閣改造を行ったが、少なくとも改造前の安倍内閣は混乱の極みだった。しかもその混乱は、安倍首相自身の資質に由来すると思われる点が深刻だった。わたしはその混乱を見ながら、進行しつつある事態を時事的にではなく、距離を置いて考えてみたいと思い、3冊の本を読んだ。

 その3冊は初めから考えたものではなく、まず1冊読んだ後に、次はこの本、次はこの本と‘芋づる式’に読んでいったもの。最初の1冊は山崎雅弘の「「天皇機関説」事件」(集英社新書。2017年4月発行)。なぜその本を選んだかは、それほど深い意味があったわけではなく、どこかで見かけたその書名に惹かれたからだ。

 読んでみたら、戦前の日本が、天皇機関説事件を契機として、わずか半年あまりでガラッと変わる推移に息をのんだ。わたしは暗澹たる気持ちになった。社会は半年あまりで変わる得ることがショックだった。

 天皇機関説事件は1935年(昭和10年)2月に起きた。東京帝国大学名誉教授で貴族院議員の美濃部達吉が唱える「天皇機関説」とは、大日本帝国憲法と天皇という存在との整合性を図る学説だったといわれるが、それに対して「天皇主権説」を唱える一派があり、陸軍中将で貴族院議員の菊池武夫が、貴族院本会議で美濃部達吉を激しく攻撃したことに端を発した。

 その後、嵐のような攻撃が続き、美濃部は同年9月に議員辞職に追い込まれた。その過程では美濃部に対して自決を迫る脅迫さえあった。また議員辞職後も、右翼が美濃部を襲って重傷を負わせる事件が起きた。

 天皇機関説事件が一段落すると、日本の社会からは、立憲主義、自由主義そして個人主義が失われていた。社会は「国体」思想、国家主義の一色に染まった。「国体」思想は限りなく膨張し、日本の暴走が始まった。

 翌年の1936年(昭和11年)2月には二・二六事件が起きた。翌々年の1937年(昭和12年)7月には盧溝橋事件が起きて、日中戦争に突入した。

 なぜ天皇機関説事件は、わずか半年あまりで、日本を変えたのか。それは「天皇機関説」と「天皇主権説」との両陣営の対立だけではなく、政治的に第二、第三の対立があり、それらの対立軸が連動したからだということが、本書を読むと分かる。その力学は、複数の活断層が連動して巨大地震が起きるメカニズムに似ている。恐ろしいことだが、今の社会にも起こり得るかもしれない。
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月山登山

2017年08月01日 | 身辺雑記
 わたしは山好きなので、毎年夏には大きな山行をしている。さて、今年はどこに行くかと‥。北アルプスや南アルプスの混雑ぶりは(山小屋によっては布団1枚に2人とか、ひどいときには3人とかもある)、年のせいか、もう勘弁という気持ちになっている。八ヶ岳という選択肢もあったが、久しぶりに東北の山に行きたいという思いが強くなり、月山にした。

 月山に登るのは初めて。山麓に国民休暇村があるので、7月29日(土)と30日(日)に連泊し、30日(日)に登ることにした。下山後はその日のうちに東京に戻ることもできるのだが、夜遅くなるし、またお風呂で汗を流したいので、下山後も泊ることにした次第。

 国民休暇村の前にバス停があり、月山8合目行のバスに乗れる。8合目まで行けば、あとはコースタイムで3時間の歩行距離。楽勝気分だった。

 8合目に着いて驚いた。広い駐車場に車がぎっしり停まっている。大型バスも何台か見える。こんなに大勢の人が来るのかと‥。大型バスの周辺では老若男女が白装束を整えている。修験者の方々。おそらく羽黒山の宿坊から来たのだろう。修験道が今も残っていることを実感した。

 歩き始めると、すぐに弥陀ヶ原(みだがはら)という高層湿原に出た。ニッコウキスゲやハクサンフウロなどの高山植物が咲き乱れ、また池糖(ちとう。高層湿原にできる沼のこと)が点在している。

 弥陀ヶ原を抜けるとダラダラした登りになり(急登の箇所はなかった)、9合目の小屋に着いた。一息ついてからまた登り始めると、ガス(霧のこと)がかかってきた。眺望はなくなったが、涼しくて、まるで天然クーラーの中にいるようだ。やがて山頂。そこには月山神社の本宮があり、多くの方がお祓いを受けていた。

 上掲の写真↑は下山中に写したもの。雪渓の美しさや夏雲の湧きたつ様子を感じてもらえれば幸いだ。まさに夏山。わたしは迂闊にも日焼け止めクリームを忘れたので、両腕と首筋にひどい日焼けをした。

 月山は松尾芭蕉が登った山。何年か前に、一度はきちんと「奥の細道」を読んでおこうと思い立ち、注釈を頼りに読んでみた。そのとき、月山登山のくだりは、他の部分とは情景が異なるので、強く印象に残った。芭蕉の句「雲の峯幾つ崩て月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)。大意は「昼間は空高く屹立していた雲が、夜になると崩れ、今はたおやかな山容が月明かりに浮かんでいる」というもの。
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