ラザレフ/日本フィルのスクリャービン・チクルス最終回。「法悦の詩」ではなく「プロメテウス」をもってきたところが意味深だ。
1曲目はリストの交響詩「プロメテウス」。いつもより何割増しかのパリッと張りのある音。おっと思った。その音が最後まで一貫した。
2曲目がスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」。曖昧模糊とした演奏とは真逆の、明確な意志をもった演奏。あらゆる音の方向性が整えられ、ある一つの頂点に向かって進んでいく。昔この曲をアシュケナージ/N響が演奏したときは、変な演出が施されたことも災いして、カオスのような状態を呈した。そのトラウマを払拭してくれる演奏だった。
ピアノは若林顕。生で聴くと――そしてピアノの蓋を取っ払ったことも功を奏したのか――ピアノがなにをやっているのか、よくわかった。けっしてピアノ協奏曲ではないが、さりとて、たんなるオブリガートでもない、なんとも名状しがたい重要性だ。
アンコールになにかやってくれないかと期待していた。できれば「プロメテウス」の前後か、それ以降のピアノ小品がいいな、と。はっきりいうと、最晩年の――といっても、40代前半で亡くなったわけだが――ピアノ曲「焔に向かって」をやってくれないかと思っていた。そうすれば「プロメテウス」で提示された世界が完結するような気がした。でも、アンコールはなかった。まあ、仕方がない。
休憩をはさんで、3曲目はラヴェルの「ダフニスとクロエ」第1組曲と第2組曲。ラザレフくらいの指揮者になると、こういう曲もうまいのだが、それでもやはり個性というか、最後の「全員の踊り」は爆発するような演奏だった。
オヤマダアツシ氏のプログラムノートによると、この「全員の踊り」はボロディンの「ダッタン人の踊り」に似ていて、「ラヴェルなりの隠れたオマージュ(賛美)なのではないかという説もある」とのことだ。でも、そうかな?と半信半疑で聴いていた。
そうしたら、驚いたことには、アンコールに「ダッタン人の踊り」が演奏された(一部カットがあった)。なるほど、そういうわけか、とニンマリした。プログラムノートはこのアンコールのための伏線だったのか。
ラザレフのアフタートークがあった。スクリャービンの「プロメテウス」のことを「とても強い作品だ」と語っていた。「この音楽を皆さんに紹介したかった」と。
(2014.5.30.サントリーホール)
1曲目はリストの交響詩「プロメテウス」。いつもより何割増しかのパリッと張りのある音。おっと思った。その音が最後まで一貫した。
2曲目がスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」。曖昧模糊とした演奏とは真逆の、明確な意志をもった演奏。あらゆる音の方向性が整えられ、ある一つの頂点に向かって進んでいく。昔この曲をアシュケナージ/N響が演奏したときは、変な演出が施されたことも災いして、カオスのような状態を呈した。そのトラウマを払拭してくれる演奏だった。
ピアノは若林顕。生で聴くと――そしてピアノの蓋を取っ払ったことも功を奏したのか――ピアノがなにをやっているのか、よくわかった。けっしてピアノ協奏曲ではないが、さりとて、たんなるオブリガートでもない、なんとも名状しがたい重要性だ。
アンコールになにかやってくれないかと期待していた。できれば「プロメテウス」の前後か、それ以降のピアノ小品がいいな、と。はっきりいうと、最晩年の――といっても、40代前半で亡くなったわけだが――ピアノ曲「焔に向かって」をやってくれないかと思っていた。そうすれば「プロメテウス」で提示された世界が完結するような気がした。でも、アンコールはなかった。まあ、仕方がない。
休憩をはさんで、3曲目はラヴェルの「ダフニスとクロエ」第1組曲と第2組曲。ラザレフくらいの指揮者になると、こういう曲もうまいのだが、それでもやはり個性というか、最後の「全員の踊り」は爆発するような演奏だった。
オヤマダアツシ氏のプログラムノートによると、この「全員の踊り」はボロディンの「ダッタン人の踊り」に似ていて、「ラヴェルなりの隠れたオマージュ(賛美)なのではないかという説もある」とのことだ。でも、そうかな?と半信半疑で聴いていた。
そうしたら、驚いたことには、アンコールに「ダッタン人の踊り」が演奏された(一部カットがあった)。なるほど、そういうわけか、とニンマリした。プログラムノートはこのアンコールのための伏線だったのか。
ラザレフのアフタートークがあった。スクリャービンの「プロメテウス」のことを「とても強い作品だ」と語っていた。「この音楽を皆さんに紹介したかった」と。
(2014.5.30.サントリーホール)