Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ラザレフ/日本フィル

2014年05月31日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィルのスクリャービン・チクルス最終回。「法悦の詩」ではなく「プロメテウス」をもってきたところが意味深だ。

 1曲目はリストの交響詩「プロメテウス」。いつもより何割増しかのパリッと張りのある音。おっと思った。その音が最後まで一貫した。

 2曲目がスクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」。曖昧模糊とした演奏とは真逆の、明確な意志をもった演奏。あらゆる音の方向性が整えられ、ある一つの頂点に向かって進んでいく。昔この曲をアシュケナージ/N響が演奏したときは、変な演出が施されたことも災いして、カオスのような状態を呈した。そのトラウマを払拭してくれる演奏だった。

 ピアノは若林顕。生で聴くと――そしてピアノの蓋を取っ払ったことも功を奏したのか――ピアノがなにをやっているのか、よくわかった。けっしてピアノ協奏曲ではないが、さりとて、たんなるオブリガートでもない、なんとも名状しがたい重要性だ。

 アンコールになにかやってくれないかと期待していた。できれば「プロメテウス」の前後か、それ以降のピアノ小品がいいな、と。はっきりいうと、最晩年の――といっても、40代前半で亡くなったわけだが――ピアノ曲「焔に向かって」をやってくれないかと思っていた。そうすれば「プロメテウス」で提示された世界が完結するような気がした。でも、アンコールはなかった。まあ、仕方がない。

 休憩をはさんで、3曲目はラヴェルの「ダフニスとクロエ」第1組曲と第2組曲。ラザレフくらいの指揮者になると、こういう曲もうまいのだが、それでもやはり個性というか、最後の「全員の踊り」は爆発するような演奏だった。

 オヤマダアツシ氏のプログラムノートによると、この「全員の踊り」はボロディンの「ダッタン人の踊り」に似ていて、「ラヴェルなりの隠れたオマージュ(賛美)なのではないかという説もある」とのことだ。でも、そうかな?と半信半疑で聴いていた。

 そうしたら、驚いたことには、アンコールに「ダッタン人の踊り」が演奏された(一部カットがあった)。なるほど、そういうわけか、とニンマリした。プログラムノートはこのアンコールのための伏線だったのか。

 ラザレフのアフタートークがあった。スクリャービンの「プロメテウス」のことを「とても強い作品だ」と語っていた。「この音楽を皆さんに紹介したかった」と。
(2014.5.30.サントリーホール)
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アラベッラ

2014年05月29日 | 音楽
 新国立劇場の「アラベッラ」。再演だが、演出は崩れていない。フィリップ・アルローが来日したそうなので、それが功を奏したのかもしれない。舞台の美しさも新鮮だ。再演といえども色褪せていない。

 初演のときの記憶が蘇ってきた。そうだ、そうだ、そうだったと――。ところが、第3幕の大詰め、ズデンカがカミングアウトしてからは、あっ、こんな細かいことをやっていたのかと、新発見の連続だった。初演のときにはよく理解していなかったのだろう。嬉しい発見だった。

 いうまでもないが、このオペラはホフマンスタール=シュトラウスの最後の作品だ。台本の初稿ができあがって、いつものとおり、第1幕から再検討が始まった。そして第1幕の決定稿ができあがった直後に、ホフマンスタールの息子が自殺した。その埋葬の日にホフマンスタールが心臓発作で急死した。残された第2幕と第3幕はシュトラウスが手を入れた。

 そのせいかどうか、第3幕のエンディングは、言葉足らずというか、各人各様の心理の移ろいが、あまりはっきり書き込まれていない。大掴みに投げ出されている感がなきにしもあらず、だ。オペラの台本は、多かれ少なかれ、そんなものだといえばそれまでだが、それにしても、もしホフマンスタールが存命だったらと――。

 その部分がこの演出では、じつに細かく、しかも的確に描かれていた。舞台での展開に息をのんだ。そして納得した。今回の大きな収穫だ。

 歌手も高水準だ。初演のとき以上ではないかと思った。まず挙げたいのは、マンドリカを歌ったヴォルフガング・コッホ。第1幕の登場の場面から圧倒された。アラベッラのアンナ・ガブラーもよかった。第1幕では力みを感じるときもあったが、段々こなれてきた。ズデンカのアニヤ=ニーナ・バーマンはものすごく気に入った。輪郭のはっきりした歌唱がこの役に相応しかった。マッテオのマルティン・ニーヴァルは、文句はないのだが、他の3人にくらべると華に欠けた。脇を固める常連の日本人歌手も頼もしかった(とくにヴァルトナー伯爵の妻屋秀和)。

 指揮はベルトラン・ド・ビリー。予想どおりというべきか、細やかな呼吸感のある演奏だった。それが一貫して保持された。それはこのオペラの音楽に相応しかった。なるほど、このオペラはこういう繊細な音楽なのかと、よくわかった。「ばらの騎士」の路線をいくオペラだが、似ているようで似ていない音楽だ。
(2014.5.28.新国立劇場)
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マルク・アルブレヒト/都響

2014年05月28日 | 音楽
 3月から続いているコルンゴルトのミニ・フェスティヴァル――と、わたしは思って聴いてきた――の最終回、マルク・アルブレヒト指揮都響の定期。

 1曲目はメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番。コルンゴルトとメンデルスゾーンの組み合わせはたしかに相性がいい。ともに早熟のユダヤ人作曲家。どこか楽天的な音楽性も共通している。

 この曲は1831年の作曲。メンデルスゾーン(1809‐47)22歳の年だ。木幡一誠氏のプログラム・ノートによれば、当時メンデルスゾーンにはデルフィーネ・フォン・シャウロート(1813‐87)というミューズがいたそうだ。なるほど、第2楽章の、いつになく濃密な感情の高まりは、そのせいかと思った。

 サリーム・アブード・アシュカール(1976年イスラエル生まれ)のピアノ独奏もオーケストラも、最新式のデジタル的な音ではなく、ちょっと懐かしいアナログ的な音に聴こえた。曲のせいというよりも、演奏にその要因があると思った。アンコールのシューマン「トロイメライ」を聴いたときも、同じ音が聴こえたので、そう確信した。

 2曲目はいよいよコルンゴルトの「交響曲」。1曲目と同じく、歯切れのいい、かつ彫りの深い演奏で、しかもこの曲に本来備わっているスケール感を十全に表現した演奏だ。オーケストラを率いる力量には非凡なものがある。2011/12のシーズンからネーデルランド・オペラの首席指揮者を務めているそうだが、そのクラスの指揮者はさすがに凄い。

 プログラム・ノートにも書いてあるが、第1楽章はオペラのオーケストラ・パートのような音楽だ。ドラマが渦巻く音楽。それがよくわかる演奏だった。一転して第2楽章は高度に器楽的な音楽。演奏至難なその音楽をものともせず、オーケストラが一丸となって突進し、指揮者がそれをしっかり受け止める。スリリングな演奏だった。

 第3楽章は挽歌のように聴こえた。亡きフランクリン・ルーズベルト大統領の追悼のための音楽だが、そういう公人のための音楽というより、もっと個人的な哀惜の音楽のように聴こえた。では、なんの哀惜か。

 振り返って考えると、第1楽章は第2次世界大戦の残像なのかもしれない。コルンゴルトの人生を台無しにしたナチズムの残像。第3楽章はそんな人生にたいする挽歌なのかもしれない。それを第4楽章で明るく締めくくるのが、またコルンゴルトらしい。
(2014.5.27.サントリーホール)
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ペーテル・エトヴェシュの音楽

2014年05月23日 | 音楽
 エトヴェシュがN響を振るというだけで、おっと思うが、曲目がリゲティと自作品となると、さらに期待が膨らむ。こんな機会はめったにない。

 1曲目はリゲティの「メロディーエン」。CDや放送では聴いたことがあるが、生では初めてだ。どういう音がするのかと身構えたが、小規模なスケッチ風の曲のように感じてしまった。意外だった。少し物足りなかった。

 2曲目はエトヴェシュの「スピーキング・ドラム」。パーカッション・ソロを伴う曲だ。マルティン・グルービンガーが、奇声をあげながら、各種の打楽器を叩きまくる。これは傑作だ。傑作という言葉は‘お笑い’という意味で、だ。まさに呆気にとられ、笑ってしまった。エンタテイメント性に富んだ曲。YouTubeでアップされていたが、期間限定だったので、見そこなった。でも、それでよかった。なにも知らないでこの曲を聴いてよかった。生でないとこの面白さはわからないと思う。

 休憩をはさんで、3曲目はリゲティの「サンフランシスコ・ポリフォニー」。これは名演だった。劇的なインパクトのある演奏だった。CDでは聴いたことがあるが、こんなにスケールが大きくて、雄弁な曲だとは思っていなかった。エトヴェシュの指揮者としての力量をまざまざと感じた。今後も定期的にN響を振ってくれないものかと思った。

 4曲目はエトヴェシュの「鷲は音もなく大空を舞い」。カホンという特殊な打楽器を2台使い、それだけでも興味を引いたが、それだけではなく、曲のあちこちに顔を出す意外に親しみやすいフレーズに惹かれた。エトヴェシュの知られざる一面を見る思いがした。

 5曲目はエトヴェシュの「ゼロ・ポインツ」。ロンドン交響楽団とブーレーズの委嘱作品とのこと。音の洗練された感覚や音響の変化は、ブーレーズを意識しているのかと思ったが、そこだけでは収まらない活発さがあって、それが面白かった。やんちゃ坊主のような元気のよさが、年を取ってからも出てくる人がいるが、そんな感じだった。

 会場は(2曲目から)沸いていた。2曲目と5曲目は、拍手が鳴りやまないので、最後の部分がアンコール演奏された。これでまた沸いた。温かい拍手だった。

 リゲティと対比すると、エトヴェシュの音楽には肉体性というか、頭で考えただけではなく、体の奥底からにじみ出てくるものがあった。それを感じたことが(自分にとっての)一番の収穫だった。
(2014.5.22.東京オペラシティ)
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カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師

2014年05月22日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」。まず「カヴァレリア・ルスティカーナ」から。舞台が美しい。シチリア島の古代ローマの遺跡を模した装置が左右にあり、その間から緑豊かな野原が見える。大きなオリーブの木が茂っている。照明も美しい。品のある照明だ。

 前奏曲が始まって、トゥリッドゥの歌声が聴こえてくる。舞台裏ではなく、舞台上で(ただし、舞台の奥で)歌われる。ローラとの逢引きから帰るところのように見える。

 こうして始まるのだが、その後はさっぱり盛り上がらない。これは指揮者のせいだと思った。慎重すぎて、イタリア・オペラ的な――切れば血が噴き出るような――血の気の多さが感じられない。入念な表現を心掛けているのだが、その反面、抑えたところがある。そこから抜け切れないもどかしさがあると思った。

 なので、イタリア・オペラ的な感興は、トゥリッドゥを歌ったヴァルテル・フラッカーロが一人で担っていた。サントゥッツァのルクレシア・ガルシアもよかったが、それ以上のもの――なにか抜きんでたもの――はなかった。

 ところが、次の「道化師」になると、様相は一変した。トニオの前口上からして、演出に意表を突くというか――それほどではないかもしれないが――、一工夫あった。続く旅芸人の登場でさらに盛り上がった。「カヴァレリア・ルスティカーナ」で抑えられていたエネルギーが一気に解放されるように感じた。指揮も同様だった。入念な表現はそのままに、弾けるようなドライヴ感が出た。

 そうか、作戦だったのか、と思った。演出のジルベール・デフロと指揮のレナート・パルンボの作戦だったのだ。それにまんまと乗せられたのだ。それが楽しかった。これもオペラの愉しさだ。

 歌手も高水準だった。カニオのグスターヴォ・ポルタは第一級のカニオだ。絶叫する英雄的な、あるいは超越的なカニオではなく、身の回りにいそうな、疲れた中年男の、等身大のカニオだ。トニオのヴィットリオ・ヴィテッリもよかった。カニオと拮抗していた。最後の台詞の「喜劇は終わりました」はトニオが語っていた。このほうが好きだ。前口上と合わせてドラマの額縁を成すからだ。ネッダのラケーレ・スターニシは「鳥の歌」をじっくり聴かせた。

 日本人歌手の健闘も心強かった。シルヴィオの与那城敬は十分な存在感があった。ペッペの吉田浩之もいい味を出していた。
(2014.5.21.新国立劇場)
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ロペス・コボス/N響

2014年05月19日 | 音楽
 ヘスス・ロペス・コボス指揮のN響。コボスの指揮は今まで何度か聴いたことがあるが、昨年11月に都響を振ったショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービイ・ヤール」でその実力を知った。

 今回はスペイン・プロ。お国ものであり、名刺代わりの曲かもしれないが、ほんとうにやりたい曲かどうか、と考えるのは、考えすぎだろうか。

 といっても、1曲目のクリストバル・アルフテル(1930‐)の「第1旋法によるティエントと皇帝の戦い」は、コボスが日本人の聴衆に紹介したい曲だったろう。伊藤制子氏のプログラム・ノーツによれば、この曲はカベソン(1510‐1566)のオルガン曲「第1旋法によるティエント」とカバニーリェス(1644‐1712)のオルガン曲「皇帝の戦い」を近代オーケストラ用に編曲した作品。前半のカベソンは古雅な曲、後半のカバニーリェスは賑やかな曲だった。

 カベソンもカバニーリェスも知らなかったが、手元の音楽辞典によると、ともにスペイン音楽史で重要な作曲家のようだ。この時代の作曲家ではビクトリア(1548‐1611)がビッグネームだが、その前後に位置する人たちだ。つまりこの曲はスペイン音楽の伝統に対するオマージュだろう。

 2曲目はラロのチェロ協奏曲。独奏はヨハネス・モーザー。チェロもオーケストラも穏やかな演奏だった。穏やかすぎて物足りなくもあったが、では、ほかにどういう演奏があり得るか、見当がつかなかった。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第1番からサラバンド。小声でつぶやくような演奏だった。

 3曲目はファリャの「三角帽子」。アルフテル、ラロと聴いてくると、ファリャの音の活きのよさが際立っていた。大袈裟かもしれないが、スコアのどのページにも天才の刻印がある、という感じがした。演奏も冴えていた。ファリャに相応しい明晰さがあった。

 でも、この演奏は――とくにフィナーレの部分で――静かな熱狂というか、熱狂の底に覚めた意識があるように感じられた。N響らしいといえばそれまでだが、もう少し根深い問題があるかもしれない――日本人の感性とかプロ意識とか――。

 ファリャはこの曲の後、もう大作は書かなかった――「ペドロ親方の人形芝居」があるくらいだ――。詩人のロルカがファシスト党に殺されてからは、アルゼンチンに渡り、そこで生涯を終えた。そういうファリャの人生に想いをはせた。
(2014.5.17.NHKホール)
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テンペスト

2014年05月17日 | 演劇
 新国立劇場の「テンペスト」。がらんとして、なにもない舞台。電灯が一つ点いている。古谷一行が出てくる。プロスペローだ。具体的に書くことは控えるが、何気ない所作から芝居は始まる。滑らかな語り口の導入部だ。

 大量の段ボール箱が出てくる。段ボール箱を蹴散らして、人々が右往左往する。嵐に揺れるナポリ王の船だ。今は――今にかぎっては――過積載の遭難船のように見える。また、ずっと新国立劇場でオペラを観てきた者としては、ホモキ演出の「フィガロの結婚」も思い出す。でも、この「テンペスト」は「フィガロの結婚」より徹底している。今回の段ボール箱は壮麗でさえある。

 プログラムに掲載されている白井晃(演出)と松岡和子(翻訳)の対談によれば、段ボール箱は「プロスペローの記憶のガラクタ」(白井晃)を象徴しているとのこと。なるほど、そうだったのかと思う。でも、そこまで深読みしなくても、十分に楽しめた。あるときは――前述のとおり――遭難船の積み荷のように見え、またあるときは王子ファーディナントの試練として課せられた薪を暗示した。

 段ボール箱の山のなかで展開するこの「テンペスト」は、視覚的にも忘れ難いが、ドラマの本筋としてもシャープで、ずっしりした質量のある、忘れ難いものだった。本作はシェイクスピアが単独で書いた最後の作品と考えられ、その含意はシェイクスピアの舞台への別れと見なされているが、まさにその寂しさが、苦い味で伝わってきた。

 これを観客の側からいうと、プロスペローのその姿に、自らの老い、そしてやがて来る死を重ね合わせて、他人ごとではいられない感覚になる。それが苦い味となって残る。これは古谷一行の好演のためでもあるだろう。含蓄のある演技だった。

 あえていうなら、キャリバンにもう一工夫できなかったか、と思う。‘怪物’ キャリバンだが、今の眼で見れば、先住民だ。キャリバンには「怖れてはいけない。この島は、物音、音そして甘いアリアに満ちている。それらは喜びを与えてくれる。けっして傷つけない」(大意)と語るデリカシーがある。

 考えてみると、現代イギリスの作曲家トマス・アデスのオペラ「テンペスト」では、この台詞の部分にきわめて美しい音楽が付けられていた――この部分と、幕切れの和解の部分とが、とりわけ美しかった――。

 なにか、そういった工夫が、演出上にあれば、と思った。
(2014.5.15.新国立劇場中劇場)
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カロ展(余談)

2014年05月15日 | 美術
<カロとラ・トゥール>
 先日カロ展を見て、その感想を記したが、その後もカロのことを考えるともなく考えている。まずはカロとラ・トゥールのことについて。

 カロ(1592‐1635)は、フィレンツェの宮廷で活動した後、1621年に生まれ故郷のロレーヌ地方のナンシーに戻った。時あたかも30年戦争の真っただ中。そのとき目にした傭兵の実態を描いた連作版画集が「戦争の悲惨」だ。その感想が前回の中心だった。

 で、その後、ロレーヌ地方‥30年戦争‥と、ぼんやり考えているうちに、ふっとジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593‐1652)のことに思い当たった。二人は同時代人だ。しかも、調べてみると、ラ・トゥールが住んだ地はリュネヴィルで、そこはナンシーの南東約30キロ。ひじょうに接近している。二人は面識があったのだろうか――。少なくともお互いの存在はよく知っていたのではないか、と想像した。

 それにしても、ラ・トゥールはわたしのもっとも大切な画家の一人なのに、なぜもっと早く思い当たらなかったのか。それは二人の作風が180度ちがうからだ、と思った。鋭利なリアリストのカロと、深い瞑想のラ・トゥール。この二人を結びつける発想はなかった。

 ラ・トゥールには戦争を描いた作品がないので、カロとの直接の比較はできないが、聖セバスティアヌスの殉教を題材とした作品が共通している。なんの感情もない(むしろ大衆の無関心を描いたと思われる)カロの作品と、瀕死の聖セバスティアヌスを介抱する聖イレーヌを描いたラ・トゥールの作品に、二人の感性のちがいが表れていると思う。

 ↓カロ「聖セバスティアヌスの殉教」
 http://collection.nmwa.go.jp/G.1987-0264.html

 ↓ラ・トゥール「聖イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス」
 http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=8708&langue=en

<マーラーの交響曲第1番「巨人」>
 カロの名前を知ったのは、高校生か大学生のころだ。マーラーの交響曲第1番「巨人」のレコードを買ったとき、第3楽章の解説に「カロ風の葬送行進曲」という言葉があった。それ以来、カロという名前は頭の片隅にあった。

 でも、今回のカロ展のどこにも、それに該当すると思われる作品がなかった。気になって調べてみたら、Wikipediaの英語版にその作品があった。猟師の死体を獣たちが担いでいる作品。なるほど、これがそうかと思った。ただ、作者はカロではない。モーリッツ・フォン・シュヴィントだ。

 これはどういうことか。カロ風の「風」に意味があるのか。それにしても、この幻想的な(あるいは寓意的な)作品が、カロ風だろうかと思いをめぐらした。

 ↓シュヴィント「猟師の葬送」
 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Schwind_Begraebnis.jpg
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山田和樹/日本フィル

2014年05月12日 | 音楽
 山田和樹指揮の日本フィル横浜定期。さすがに意欲的なプログラムだ。1曲目はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。当初発表ではチャイコフスキーだったと記憶するが、コルンゴルトに変わった。そのことでプログラム全体が一変した。

 第1楽章が始まると、オーケストラの透明で艶のある音に惹きつけられた。山田和樹が望むそのとおりの音が出ているのではないかと、そう思うほど、音に山田和樹の意思が感じられた。

 ヴァイオリン独奏は小林美樹。大柄の美人だ。どこか日本人離れしている。演奏も逞しい。男性的というと語弊があるが、線の細さを感じさせず、ぐいぐい弾いていく。まだ多少粗削りかもしれない。でも、それは文句をいっているのではなく、これからの急速な進歩を予感させるからだ。

 おそらく山田和樹の発案だろうが、ハープが指揮者の斜め前(第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの間)に、チェレスタが指揮者の真ん前に置かれていた。これが大成功だった。ハープは独奏ヴァイオリンと密接に絡み、ほとんどパートナーのような役割を果たしていることがよくわかった。またチェレスタは、とくに第3楽章でオーケストラに重要な装飾を付けていることがわかった。

 コルンゴルトの中ではこの曲が一番好きだ。映画音楽の再利用という方法は、現代でも有効ではないかと想像する――もっとも、本物の才能をもった人の場合は、ということだろうが――。例としては、あまり適切ではないかもしれないが、武満徹の「3つの映画音楽」が思い浮かぶ。あの曲も好きだ。

 2曲目はラフマニノフの交響曲第2番。これは‘大演奏’というべき演奏だった。どっしりと構えて、深掘りした演奏。とくに第3楽章は、遅めのテンポで隅々まで歌い尽くす演奏だった。

 端的にいって、山田和樹の一面を見た思いがした。ラフマニノフのこの曲は、ラザレフの指揮で聴いたばかりだし――その記憶がまだ耳に残っている――、また、広上純一の十八番でもあるので何度か聴いた。山田和樹の指揮はそのどれともちがっていた。ざっくりいって、一番‘保守的’だった。それは批判ではなくて、感性のありようとして、だ。一つの志向として、それもあり得る。

 こういう指揮者がどこかのオーケストラに腰を据えて、定期の半分くらいを振るようになれば、そのオーケストラの定期会員は幸せだ。
(2014.5.10.横浜みなとみらいホール)
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ジャック・カロ展

2014年05月11日 | 美術
 ジャック・カロ展。カロ(1592‐1635)はロレーヌ公国(現フランス)のナンシーで生まれた。ローマに出て版画を修業し、フィレンツェの宮廷版画家となった。1621年にナンシーに戻ったが、版画の制作を続けた。その作品はヨーロッパ中に広まった。

 カロの個性は、たとえばチラシ↑に使われている「アルノ川の祝祭(扇)」(1619)あたりにもっともよく表れているのかもしれない。でも、今回はそういった正面からの感想ではなく、ほんとうに自分に興味のあったことを記したい。

 カロがナンシーに戻ったのは1621年。これは微妙な時期だった。三十年戦争(1618‐1648)が始まったからだ。ロレーヌ公国も戦場と化した。カロは戦争の目撃者となった。そのとき制作された連作版画が「戦争の悲惨(大)」(1633)(※1)だ。なお、同名の作品には(大)と(小)があり、今回展示されているのは(大)のほうだ。

 本作はゴヤ(1746‐1828)の連作版画「戦争の惨禍」(※2)を連想させる。今は調べる余裕がないが、ゴヤがカロの作品を知っていたことは、ほとんど確実というか、当然だろうと思う。ゴヤはスペイン独立戦争(1808‐1814)を描いた。ゴヤもカロも、ともに戦争の悲惨さの証言者となった。

 でも、ゴヤとカロでは、だいぶ作風がちがう。それを感じたことが、本展で一番強く印象に残った点だ。ゴヤの「戦争の惨禍」は昔から知っている。その記憶と、本展でカロの「戦争の悲惨(大)」を見て感じたこととに、大きな開きがあったのだ。

 ゴヤの「戦争の惨禍」では、戦争の残虐行為が、これでもか、これでもかと描かれ、その堆積の中から、戦争にたいするゴヤの告発が聞こえてくる。そこにはヒューマニズムの裏付けがある。一方、カロには、そういった一切のメッセージ性がない。なんの感情もなく、現実の一片を切り取っただけだ。

 カロの場合は、傭兵の、ならず者としての側面に目を向けた、カロの突き放した姿勢があるからだが、一方、それはカロの資質でもあるようだ。そう思うのは、「聖セバスティアヌスの殉教」(※3)を見たからだ。面白半分に矢を射る兵士たち。広場に集まった無数の人々はまったく無関心だ。聖セバスティアヌスの表情はよく見えない。神の救いが訪れた気配は窺えない。

 カロのこういった乾いた感性が、意外に現代生活に近く感じられた。
(2014.5.9.国立西洋美術館)

(※1)「戦争の悲惨(大)」より「絞首刑」
http://collection.nmwa.go.jp/G.1987-0338.html

(※2)「戦争の惨禍」より「立派なお手柄!死人を相手に!」
http://collection.nmwa.go.jp/G.1993-0041.html

(※3)「聖セバスティアヌスの殉教」
http://collection.nmwa.go.jp/G.1987-0264.html
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ラ・フォル・ジュルネ(3)

2014年05月07日 | 音楽
 今年のラ・フォル・ジュルネは2公演しか聴かなかったが、ヴォックス・クラマンティスを聴いた後で、沼野雄司氏の講演会に行った。よみうり大手町ホールから東京国際フォーラムまでの移動は無料シャトルバスを使ってみた。5分くらい待ったらすぐに来た。

 講演会のテーマは「アメリカ音楽8つの秘密~ガーシュウィンからライヒまで~」。1時間ちょうどの充実の講演だった。内容はアメリカ音楽の誕生から今に至るまでの8つの‘秘話’。その項目を記すと――

(1)ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」は‘アメリカ音楽’の見本だった。
(2)20世紀アメリカ音楽はリリー・ブーランジェ(ナディア・ブーランジェの妹)の早逝によってもたらされた。
(3)ジョン・ケージの「4分33秒」の初演時のタイトルは「4つの小品」だった。
(4)ガーシュウィンはアルバン・ベルクに憧れ、ひそかに影響を受けていた。
(5)アメリカ音楽はメキシコ音楽でもある。逆もまた然り。
(6)ヴァレーズはディズニーとのコラボレーションを望んでいた。
(7)コープランドは共産主義に強いシンパシーを感じていた。
(8)ライヒは自分の名字の読み方をわかっていない?

 以上、正確なメモを取ることができなかったので、一部記憶を頼りに書いているが、ともかく、大意そのような‘秘話’で興味深かった。

 本題以外で、沼野氏は「自分が死ぬときに聴く音楽は『4分33秒』がいいかな」と語っていた。半ば冗談だろうが、わたしは共感した。自分が生きてきたこの世の中の音、地球の音、たしかにそれが一番いいかもしれないと思った。

 その翌日は、ヴァネッサ・ワーグナーってどういうピアニストだったんだろうと気になった。ライブ・エレクトロニクスとの協演だったので、よくわからなかったのだ。ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたら、何枚かのCDが登録されていたので、少し聴いてみた。

 ベリオの「5つの変奏」が抜群に面白かった。水際立った演奏だ。ドビュッシーの「版画」とラヴェルの「夜のガスパール」も面白かった。昔の大家のような強烈なファンタジーで覆う演奏ではなく、音のすべてを(音の運動性を)白日の下にさらす演奏だ。

 もう一つ、ハイドンのピアノ・ソナタヘ短調HobⅩⅦ‐6がニュアンス豊かで敏感な演奏だった。そもそもこの曲は、ハイドンがもっともモーツァルトに近づいた例ではないだろうか。
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ラ・フォル・ジュルネ(2)

2014年05月06日 | 音楽
 今年のラ・フォル・ジュルネで聴いたもう一つの演奏会は、現代アメリカの作曲家デイヴィッド・ラングの合唱曲を中心にした演奏会だ。合唱はヴォックス・クラマンティス、指揮はヤーン=エイク・トゥルヴェ。

 デイヴィッド・ラングDavid Lang(1957‐)という名前は知らなかった。ラ・フォル・ジュルネのプログラムが発表になったとき、未知のこの名前を見て、興味をもった。調べてみると、「マッチ売りの少女の受難曲」という作品で2008年のピューリッツァー賞音楽部門を受賞している。CDが出ているので、買ってみた(ポール・ヒリヤー指揮シアター・オブ・ヴォイシズ)。

 これは傑作だと思った。アンデルセンの童話「マッチ売りの少女」に基づいているが、そこにイエスの受難の物語を重ねている。音楽はシンプルかつ静謐。アルヴォ・ペルトに似ている。その音楽がアンデルセンの童話と完全にシンクロしている。初めて聴いたそのときから涙がこみ上げた。

 たぶんヘルムート・ラッヘンマンの「マッチ売りの少女」に触発されているのだろうと想像したが、ラング自身のライナーノーツには、そのことは触れられていなかった。もちろんラッヘンマンよりもはるかに聴きやすい。ラッヘンマンのような脱線もない。

 ともかくこの曲を聴いて、一気にラングに注目した。で、この演奏会だが、ラングの合唱曲5曲を中心に(その中の3曲は「マッチ売りの少女の受難曲」のCDに収録されていた)、ジョン・ケージの2曲とグレゴリオ聖歌2曲がはさまれる構成だった。

 ケージの「18の春のすてきな未亡人」から始まった(風変わりな題名だが、これはジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」からケージが部分的に言葉を切り取って再構成したそうだ)。演奏にもよるのだろうが、この演奏ではグレゴリオ聖歌のように聴こえたのが面白かった。

 以下、ラングの合唱曲、グレゴリオ聖歌、そしてまたラングの合唱曲という具合に進んだ。ラングの「再び」では、男声が客席に分散して配置され、ステージ上の女声と織りなすテクスチュアーがわかりやすく演奏された。同じくラングの「愛は強いから」でも同様の配慮がなされていた。

 初めて経験する「よみうり大手町ホール」の音響もよかった。ひじょうに聴きやすい素直な音だ。ア・カペラの合唱でそれを確認できたことはラッキーだったかもしれない。
(2014.5.4.よみうり大手町ホール)
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ラ・フォル・ジュルネ(1)

2014年05月05日 | 音楽
 今年のラ・フォル・ジュルネは2公演のチケットをとった。まず1公演目はヴァネッサ・ワーグナーのピアノ演奏会。プログラムは現代アメリカのピアノ曲。こういう機会でないと聴けない曲ばかりだ。具体的には、ジョン・ケージ、ジョン・アダムス、フィリップ・グラス、モートン・フェルドマンの計7曲。

 この演奏会には一工夫あった。MURCOFというエレクトロニック・ミュージシャンとの協演だ。元々はピアノ曲だが、それをライブ・エレクトロニクスとのコラボレーションで演奏する試みだ。さて、どうなるか。

 まずジョン・ケージの「ある風景の中で」。ケージの若い頃の作品だ。若い頃のケージには驚くほどロマンティックな曲があるが、これもその一つ。演奏が始まると、ピアノの音をマイクが拾い、さまざまな変調を加えていく。もともとロマンティックな曲だが、さらに音色的にもロマンティックに装飾され、たとえていうなら、夜空にきらめく無数の星のような感覚だった。

 これはまだ想定内のような気がした。続くジョン・アダムスの「中国の門」になると、装飾はさらに多彩になった。この曲も美しい曲だが、さらに華麗に装って、さながらクリスタルガラスの光の反射を見るようだった。なお、参考までに付け加えると、「中国の門」という題名から、オペラ「中国のニクソン」との関連を考えるが、作曲時期が離れているので、たぶん関連はないと思う。

 次のフィリップ・グラスの「メタモルフォーシス」Ⅱ、Ⅳは、今回のピアノとライブ・エレクトロニクスとのコラボがもっとも噛み合った成功例ではないかと思う。ピアノの低音を電気的に増幅して、表現力豊かな演奏になっていた。なお、この曲では演奏順がⅣ→Ⅱだったと記憶する。

 モートン・フェルドマンの「ピアノ小品1952」はもっとも驚きに満ちた演奏だった。フェルドマン特有の、単音がポツン、ポツンと鳴る‘静謐な’音楽が、ビートのきいた大音量のリズムに乗って、ライブハウスのダンス音楽のように変貌した。正直いって、腰が抜ける思いだった。

 もし作曲家ご本人がこのコラボを聴いたらどう思うだろうか。ケージは面白がるにちがいない。アダムスは微妙だ。グラスは大喜びだろう。でも、フェルドマンはどうか。怒り出すかもしれない――と想像した。

 最後はグラスの「デッド・シングス」と「ウィチタ・ヴォルテックス・スートラ」。どんどん盛り上がった。
(2014.5.3.ホールC)
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バルテュス展

2014年05月02日 | 美術
 バルテュス展。今年前半で一番楽しみにしていた展覧会だ。さっそく見に行った。楽しかった。突飛な言い方かもしれないが、モーツァルトの音楽を聴くような楽しさがあった。もちろん、バルテュスがモーツァルトを好きだったという予備知識があるから、そう感じたのだろう。でも、それだけではなく、モーツァルトのように輪郭のはっきりした感性と、モーツァルトのように生き生きした精神の活動を感じたからだ。

 といっても、バルテュス=モーツァルトではない。バルテュスの危険な少女たちは、モーツァルトとは異質の要素だ。行儀の悪い、挑発的な少女たちは、目のやり場に困るが、その危うさが面白いことも事実だ。

 バルテュス(1908‐2001)は、20世紀のさまざまなイズム――シュールレアリスムとか抽象画とか――とは無関係に生きた。好きなものを好きなように描いた。バルテュスが特異な存在である所以だ。そういう生き方ができたのは、バルテュスが貴族の血を引いているからだと思う。バルテュスはパリで生まれたが、ポーランド貴族の血統だ。そういう貴族の血を感じる。

 個々の作品では、バルテュスの代表作の一つ「夢見るテレーゼ」(1938)が圧倒的だ。画集では馴染みの作品だが、実際に見ると、バルテュスの力が漲っている。長椅子に立てた少女の左ひざが、こちらに向かって迫ってくるようだ。緊張感のある画面。若き日のバルテュスの力量が一気にピークに達した観がある。

 「美しい日々」(1944‐46)も圧倒的だ。向かって左上から右下への対角線の構図。伝統的なヴィーナス像だが、危険な少女のヴィーナスだ。そこには「夢見るテレーゼ」の緊張感よりも、むしろ熟れた官能性が感じられる。

 もう一つ、「白い部屋着の少女」(1955)にも惹かれた。少女だが、堂々とした貴婦人のような威厳がある。少女はミューズだった。その崇拝にも似た感情が表れている。一方、作品の絵肌は、前記の2作とはちがって、ちょっとザラザラしている。これは、これ以降目立ってくるカゼインとテンペラを使ったフレスコ画のような絵肌と、まっすぐつながっている。

 バルテュスは同時代のだれとも似ていない。でも、あえて同時代人を見てみると、画家ではフランシス・ベーコン(1909‐1992)、作曲家ではオリビエ・メシアン(1908‐1992)がいる。三者三様の独自の道を歩んだ人たちだ。
(2014.4.28.東京都美術館)

↓上記の各作品は、本展のHPでご覧になれます。
http://balthus2014.jp/works
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