Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

忘年旅行

2008年11月30日 | 身辺雑記
 土日で一足早い忘年旅行に行ってきました。職場の有志11名が参加し、全員男性、場所は群馬県の水上温泉でした。
 皆さんは車に分乗して向かいましたが、私は読みかけの本を読みたかったので、列車にしました。夕方着けばいいので、のんびり鈍行列車の旅。読むぞ!と意気込んでいたのは発車前までで、いざ列車が動き始めると、とたんに眠くなり、あとは読んだり、居眠りしたり、車窓を眺めたりの呑気な旅になりました。
 でも、各駅停車の旅っていいですね。とくに高崎を出てから水上までは、午後の遅い陽を浴びて紅葉の山がきれいにみえました。この路線は新幹線で何度も通っていますが、こんなに風情を感じたことはありません。それに学生さんやお年寄りなどの乗客も生活臭があっていい感じでした。
 肝心の忘年会は、余興で一人が女装して、・・・。この先はちょっとここでは書けません。
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私の好きな作曲家

2008年11月27日 | 音楽
 前回のブログではロッシーニのオペラについて書き、前々回はベートーヴェンの交響曲について書いた。ロッシーニとベートーヴェンでは相当ちがう。では、結局だれが好きなのか。以下、私の好きな作曲家について。

 私の好きな作曲家はだれかと考えるとき、考察の基軸をどこにとるかで結果は変わってくるように思う。そこでまず、オペラを基軸に据えることにした。そうすると、次の3人が浮かんできた。ワーグナーとヤナーチェクとブリテン。
 ワーグナーについては、その有無をいわせない感動によって。作品でいえば「トリスタンとイゾルデ」が、ワーグナーとしても奇跡の作品だ。これをかいたことによって、ワーグナーはもう何でもかけるようになった。そして生まれた作品が「神々の黄昏」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルジファル」だ。それぞれ、悲劇、喜劇、宗教的神秘劇となっていて、まるでオペラの各ジャンルに狙いを定めたようだ。
 ヤナーチェクについては、先の展開の予想がつかない独自の音楽によって。作品でいえば「カーチャ・カバノヴァー」が、その語法を確立した作品だ。また、白鳥の歌となった「死者の家から」は、ドストエフスキーの「死の家の記録」を原作としているが、あの徹頭徹尾散文的な記録文学から、信じられないような純粋な詩をすくいとっている。
 ブリテンについては、そのずば抜けた聡明さによって。作品は室内オペラの数が多いが、フル編成のオーケストラを伴うものとして「ビリー・バッド」を。善は悪によって妬まれ滅ぼされるという恐ろしい真実をえがいている。原作のハーマン・メルヴィルの小説をE.M.フォースターなどが台本化したものだが、あの難解な哲学小説をよくオペラにしたと感心する。

 これらの3人のほかに、別格的な存在としてモーツァルトがいる。モーツァルトの音楽は比較ができない。作品をえらべば、私はまず「ドン・ジョヴァンニ」だろうか。モーツァルトのオペラは多かれ少なかれ男と女の葛藤のドラマだが、その生々しさは「ドン・ジョヴァンニ」において極まる。

 以上のほかにも、私の好きな作曲家は多い。一例をあげれば、ベルリーニをきくことはいつも私の喜びだ。また、プーランクの「カルメル会修道女の対話」は、私のもっとも大事なオペラの一つだ。

 こうして挙げてみると好きな作曲家はさまざまで、一見脈絡がないようにみえる。私は欲が深いのだろうか。あるいは、節操がないのだろうか。

 ここで、一つのエピソードを思い出す。何年か前に在京のあるオーケストラが、演奏会形式でワーグナーのオペラを上演したときに、演奏会終了後、楽員を囲んでお酒を飲んだことがある。その席には10人くらいいたが、その中の一人で名前が売れていなくもない著述家が、「ヴェルディはまだ許せるけれど、プッチーニは許せない」といった。私は驚いてしまった。でも、音楽好きは、よくこのような言い方をするものだ。
 私はプッチーニも面白い。コルンゴルトの「死の都」をみると、明らかにプッチーニの影響を感じる。

 私はすべての作曲家の面白さを理解したい。これはこの世のすべてを味わいたいと願ったファウストに似ているのだろうか。私は実生活ではファウスト的ではないが、音楽にかんしてはそうだとしたら嬉しい。
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マホメット2世

2008年11月24日 | 音楽
 日本人にも人気の高いイタリアのペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(以下、ROF)が初来日した。演目は2007年新制作の「オテッロ」と2008年新制作の「マホメット2世」で、ROFの今を伝えるものだ。私は幸い昨年現地で「オテッロ」をみることができたので、今回は「マホメット2世」をみた。充実の公演で、昨年の高揚感がよみがえってきた。

 歌手では、ヴェネツィア総督パオロをうたったフランチェスコ・メーリが最初から飛ばして舞台をひっぱった。その娘アンアをうたったマリーナ・レべカは、出だしは抑え気味だったが、大詰めの独り舞台で全開した。指揮官カルボ役のアーダー・アレヴィは第2幕のアリアで豊かな素質を感じさせた。敵方のマホメット2世役のロレンツォ・レガッツォも不足はない。
 オーケストラはボルツァーノ・トレント・ハイドン・オーケストラという団体で、近年はROFの常連だ。現地では躍動感のある演奏で感心したが、今回はそれほどでもなかったのは、会場のオーチャードホールの音響特性のゆえだろう。
 指揮のアルベルト・ゼッダには心からの拍手を。この人が振るとどうしてこんなに音楽がチャーミングになるのだろう。板についたフレージング、粒だったリズム、目立たずにそっと打たれるアクセント、その他の技術的なことよりも、私はまずこの老マエストロに色気を感じると言えば、それで十分のような気がする。

 演出はミヒャエル・ハンぺで、新しい解釈を提示するものではなかったが、さすがにベテラン演出家だけあって、つぼを押さえたものだった。
 ただ、第2幕前半でのアンナとマホメット2世の二重唱では、はじめからアンナがマホメット2世への愛を動作で表現していて拍子抜けした。あの場面は、アンナが祖国にたいする義務のゆえにマホメット2世への愛を否定し、マホメット2世に愛を迫られた末に、思わず愛を口走ってしまうが、口走ったその瞬間に愛を断念する、というドラマトゥルギーではないか。私にはこの場面の演出はすこし安易に流れているように感じられた。
 このときの小さな違和感は、最終場面になって決定的になった。短剣を自らの胸に刺したアンナが、マホメット2世の胸にすがって息をひきとるのだ。これではちょっとメロドラマ的ではないか。私の解釈では、アンナはすべての人を拒んで死に、マホメット2世は衝撃をうけるが、近寄ることはできない、そして最後はザラッとした苦い味を残して終わるはずだった。

 このオペラは、音楽、台本とも、数あるオペラ・セリアの中でも力作で、既成のロッシーニのイメージを拡大するものがある。さらに、序曲を置かずに短い序奏だけでドラマに入り、愛国的な力強い独唱、合唱が続く第一幕は、ヴェルディの初期の作品群につながるし、最終場面でのヒロインの独り舞台は、ベルリーニやドニゼッティのオペラにつながる。しかも、急いで付け加えておくが、華麗で奔放なベルカントの飛翔は、ほかのだれともちがうロッシーニの美質だ。
(2008.11.23.オーチャードホール)
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ベートーヴェン

2008年11月22日 | 音楽
 昨日は読響の定期に行った。読響は去年からオスモ・ヴァンスカの指揮でベートーヴェンの交響曲の全曲演奏を続けているが、昨日は次のようなプログラムが組まれた。
(1)ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
(2)ベートーヴェン:交響曲第4番
(3)ベートーヴェン:序曲「命名祝日」
(4)ベートーヴェン:交響曲第8番
 4番と8番の組み合わせとは嬉しい。期待して出かけた。

 去年は仕事の関係でききそこなったので、ヴァンスカのベートーヴェンをきくのはこれが初めてだが、その演奏の特徴は4番によく表れていた。ひとことでいって、前へ前へとすすむ推進力が特徴だ。ダイナミックレンジを大きくとり、停滞せずに前進する。とくに第4楽章ではその特徴がよく出ていた。
 演奏の完成度の高さでは8番が上回っていた。音の明るさと輝きが増し、造形上の均衡がとれていた。これに比べると、4番はやや強引だったような気がする。その分、4番のほうがヴァンスカの演奏スタイルが分かりやすかったが、私は8番のほうをとる。

 近年、ベートーヴェンの演奏は多様化してきた。そうなった理由は、私の考えるところでは、ふたつある。ひとつは20世紀後半のピリオド楽器の隆盛だ。作曲当時の楽器を復元して、当時の演奏法を試みる動きが予想をこえて拡大し、あっという間にベートーヴェンにおよんだ。そのことが、かつての「偉大な」演奏を相対化した。
 もうひとつは、同じく20世紀後半のマーラー・ブームだ。闘争の末のみじめな敗北、人類愛よりも個人的な愛、論理的帰結としての和声の解決ではなく、終結を求めてあがいた末の天からの啓示としての解決、そのような構成原理はベートーヴェンとは根本的に異なり、時代の空気はマーラーに共振した。

 その結果、今はさまざまなベートーヴェン像が乱立している。ヴァンスカのベートーヴェンは古楽奏法をとりいれたものではないし、もちろん一時代前の重厚長大なものでもない。いわば第三の道だが、第三の道はたくさんあって、その一つにすぎない。私は昨日の演奏が気に入ったが、これが唯一無二の道だとも思わない。今はまだ多様化を受け入れて積極的に楽しむべき時期のような気がする。

 思えばかつてのベートーヴェン像は、3番、5番、7番、9番という奇数番号の交響曲をもとに形成されてきた。それが今、やや制度疲労をきたしているように感じられるから、偶数番号が面白いのかもしれない。2番、4番、8番の偶数番号には(6番は私にはちょっと分からないところがある)、音楽の枠の拡大にいどんだ奇数番号とは別のものがある。ベートーヴェンが生まれて青年期までをすごしたライン河畔の明るさ、伸びやかな感性、充足感、それが今の私には好ましい。
(2008.11.21.サントリーホール)
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企画展 吉田秀和

2008年11月17日 | 音楽
 今、鎌倉文学館で「企画展 吉田秀和 音楽を言葉に」がひらかれている。音楽評論家の吉田秀和さんが鎌倉市の名誉市民となったことを記念したものだ。この企画展のことを知ったとき、早く行きたいと思ったが、なかなか行けずにいた。昨日の日曜日にやっと行くことができて、今でも満ち足りた思いが残っている。この思いは吉田さんの文章を読んだときの幸福な読後感に似ている。

 私が吉田さんの文章に出会ったのは大学生のときだった。当時、多くの同世代の人たちと同じように、私は小林秀雄に心酔していたが(ほんとうは、かぶれていたというべきだろう)、あるとき偶然に吉田さんの文章に出会った。小林秀雄の文章とはちがって、平易で率直な文章だった。そのとき私は、小林秀雄からの出口を見つけたのだと思う。出口を探しているわけではなかったが、不意に出口を見つけて、私は少し自由になった。
 その後、吉田さんの文章を追い求めて読んだ。そのとき以来ずっと、吉田さんは音楽の師であり、文章の憧れであった。私にとっての吉田さんは良心そのものだった。

 昨日初めて訪れた鎌倉文学館は、江ノ島電鉄の由比ヶ浜駅をおりて5分ほどのところにあった。旧前田公爵家の別邸を改装したものだそうで、雅趣のある洋館だった。靴を脱いで中に入ると、小さな展示室がいくつかあって、そのうちの2室が企画展にあてられていた。1室はイントロダクションで、もう1室が主体だった。
 構成は、吉田さんの生い立ちから現在までの軌跡を簡潔にパネルで紹介しながら、関連する写真や書簡、初出の雑誌や単行本を展示したもので、その多くは馴染みのものだったが、新しい発見もあった。煩瑣になるといけないので詳細は控えるが、展示を見終わってその部屋を出ようとしたとき、思いがけず感情がこみあげてきた。私はその部屋にいる間中、たしかに吉田さんとともにいた。

 出口のところに売店があって、吉田さんの本がいくつか並んでいた。その中に2003年に亡くなったドイツ人の奥様バルバラさんの著書「日本文学の光と影」があった。この本のことを知らなかった私は、さっそく買い求めた。日本文学の研究者であり翻訳者でもあったバルバラさんの論文集だが、よく見ると全体の4分の1はバルバラさんを偲ぶ友人知人の追悼文集だった。追悼文を集めてこの本を編んだ吉田さんの気持ちが伝わってきた。
 巻末につけられている年譜で知ったが、吉田さんは1913年生まれ、バルバラさんは1927年生まれで、年齢は14歳離れていた。そのバルバラさんがまさか先に逝ってしまうとは、吉田さんは夢にも思っていなかったろう。

 いうまでもないことだろうが、吉田さんにとってバルバラさんの存在は大きかった。
 ちょと遠回りになるが、吉田さんの歩みをたどってみると、今の吉田さんを準備したのは、若き日の中原中也や小林秀雄、あるいは、私は不勉強でその著書にふれたことはないが、ドイツ文学者の阿部六郎などとの交友だった。そして、吉田さんの出発点となったのが、1953年から54年にかけてのアメリカとヨーロッパの音楽の旅だった。これにくわえて、1964年のバルバラさんとの結婚が吉田さんの厚みを増した。結婚によって、ヨーロッパの音楽、美術、さらには文化を見る眼が、なんというか、直接的になった。
 バルバラさんの著書を読むことによって、吉田さんをもっと幅広く知ることができるのではないかと思うと、私は嬉しかった。
(2008.11.16.鎌倉文学館)
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帝国オーケストラ

2008年11月10日 | 映画
 昨日の東京は、小雨のふる寒い日曜日だった。私は、傘をさしながら、渋谷の映画館に向かった。今上映中のドキュメンタリー映画「帝国オーケストラ」をみるためだ。この映画は、ヒトラーが政権をとった1933年から敗戦の1945年までのベルリン・フィルを、当時の団員であった生存者二人の証言を中心にして描いている。淡々としたトーンの映画だったが、一夜明けた今もその余韻が残っている。

 証言をした二人は、現在96歳の元ヴァイオリン奏者と、同じく86歳の元コントラバス奏者だ。二人の語ることは、一切のディテールを省くなら、当時の自分たちは政治的には未熟だった、自分たちは積極的にナチスに加担したことはない、自分たちの演奏する音楽は、それをきく人びとに、当時のひどい混乱を一時忘れさせることができたはずだ、ということだ。
 私は二人の良心を疑わないが、だんだん暗澹たる思いになった。これは今でも繰り返されている私たちの一般的な態度なのではないかと思ったからだ。ある一つの集団の中にいて、自らは無名の存在になることによって身を守り、外部で進行している不正、暴力に目を覆う。そのことが不正、暴力を助長する。

 また、この映画では当時の記録映像がふんだんに盛り込まれていて、それらも興味深かった。とくに私が驚いたことは、当時は毎年ヒトラーの誕生日に式典が催され、ベルリン・フィルが祝賀演奏をしていたことだ。フルトヴェングラーがベートーヴェンの「第九」を指揮し、演奏終了後万雷の拍手をうけながら、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスと固い握手を交わしている映像は、やはりショックだった。フルトヴェングラーのナチス体制下の行動は、今では擁護される傾向にあるが、このような映像をみると複雑な思いがする。

 ほんとうは、この問いは控えておきたいのだが、あえていうと、音楽とはなんだろうかと考えてしまった。私は音楽が好きで、音楽は人生そのものだから、音楽に罪はないと考えたい。もっとセンチメンタルにいうなら、音楽は利用されただけだと考えたい。けれども、ほんとうにそうなのだろうか。
 上述の老ヴァイオリン奏者が、負傷兵の収容施設で慰問演奏したことを回想するシーンがある。娘か看護師かわからないが、大柄の女性に支えられながら、今でも残っている荒廃したその施設を訪れて当時を語る姿は、苦渋に満ちていた。
 そのときの演奏は、負傷兵を慰めただろう。それも音楽だ。だが、ファシズム礼賛に一役買った事実も消しがたい。

 この映画は2007年のベルリン・フィル創立125周年の記念式典で上映されたという。ドイツ人の過去の意味を問い続ける姿勢に救いを感じる。
 昨日、私がみたときの映画館の観客の入りもわるくなかった。私の整理番号は62番だったので、おそらく80人くらいは入っていたのではないか。こんなに地味で暗い映画に多くの人が集まってくることに希望を感じる。
(2008.11.09.ユーロスペース)
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ハンマースホイ展

2008年11月08日 | 美術
 国立西洋美術館でハンマースホイ展が開かれている。早く行きたいと思いながらも、なかなか行けずにいたが、夜間開館日の昨日、やっと行くことができた。

 おそらく多くの人たちと同じだろうが、私がハンマースホイの名前を知ったのは、2007年の「オルセー美術館展」(東京都美術館で開催)のときだった。あのときは、並みいる印象派の画家たちにまじって、ハンマースホイという未知の画家の絵が一枚ぽつんと展示されていた。題名は「室内、ストランゲーゼ30番地」となっていた。開いたドアから誰もいない室内をのぞいた絵で、印象派の明るい色彩とは異なり、沈んだ灰色の絵だった。
 ハンマースホイって誰、ストランゲーゼって何処、というのが私の正直な感想だった。調べてみると、デンマークの画家で、コペンハーゲンの一角にあった。私はこの画家をもっと知りたいと思った。
 幸運なことに、その年の夏、コペンハーゲンのデンマーク国立美術館を訪れることができた。行ってみると、ハンマースホイのための一室があった。デンマークでは高く評価されている画家であることが分かった。

 そのハンマースホイの展覧会が今年日本で開催されると知ったときには驚いた。まさに望外の喜びだった。そして昨日、実際に行ってみると、ハンマースホイの全貌が分かる大規模なものだった。
 私がもっとも感心したのは、この画家の主要分野である室内画の展示が、「人のいる室内」と「誰もいない室内」に分かれていたことだ。同じ室内画でも、両者には微妙なちがいがあることが分かった。
 人のいる室内では、人物は背を向けて、本を読むなり、ピアノに向かうなりしていて、こちらには無関心だ。背中をみつめている画家、そして私たちは、意思の疎通ができないため、孤独感を味わう。
 一方、誰もいない、がらんとした室内は、孤独にはちがいないが、不思議な安らぎが感じられる。人物に代わって、窓から射しこむ陽光が主役になり、何かを解放する。

 ハンマースホイの室内画はフェルメールと比較されるが、その印象はかなりちがう。フェルメールの場合は、日常生活の中の一瞬のドラマが定着されているが、ハンマースホイの場合は、ドラマの不在がその本質だ。
 また背中を向けた人物が、ドイツ・ロマン派の画家フリードリッヒと比較されるが、両者の本質もかなりちがう。フリードリッヒの場合は、信仰、愛、死、再生、その他の何かが世界を満たしているが、ハンマースホイの場合は、空しい現実をそのまま受容している。
 ハンマースホイの絵は、象徴主義的な作品といわれることがあるが、たしかにうなずけるところがある。そして私は、その中で表現されているものは、生の孤独であり、孤独の受容ではないかと感じるが、どうだろうか。

 今回の展覧会は、国立西洋美術館が「ピアノを弾くイーダのいる室内」を購入したことがきっかけだという。実に嬉しい。同作品も展示されているが、大変完成度が高い。今後この作品がいつでもみられることになるとは、何という喜びだろう。
 同じようなケースとして、同美術館が「聖トマス」を購入したことがきっかけとなって、2005年にジョルジュ・ド・ラ・トゥール展が開催されたことを思い出す。あの展覧会も感動的だった。今、同作品は常設展示されている。
(2008.11.07.国立西洋美術館)
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追悼ジャン・フルネ

2008年11月05日 | 音楽
 指揮者のジャン・フルネが亡くなった。95歳だというから、長寿のほうだ。生前の名演奏に感謝をこめて、ご冥福を祈る。
 今思い返してみると、フルネは私にとっては、なによりもまず、ショーソンの交響曲を教えてくれた人だった。この曲は1880年代から90年代にかけてフランスで花開いたオーケストラ音楽の芳醇な成果の一つだが、私はフルネの指揮できくまでは、その存在すら知らなかった。きいてみると、移ろい行く淡い色彩の上品さがなんともいえない名曲だった。異なるオーケストラで2度きいたが、いずれもフルネの音になっていて、その音は今でも記憶の底に残っている。

 また、引退公演の記憶が鮮明だ。日記をみると2005年12月20日だった。場所はサントリーホール、オーケストラは都響、プログラムは以下のとおりだった。
(1)ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
(2)モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(ピアノ独奏:伊藤恵)
(3)ブラームス:交響曲第2番
 1曲目の「ローマの謝肉祭」では、コールアングレのソロをフルネの奥様が吹いた。奥様がオーボエ奏者であることを私はそのとき初めて知った。演奏は部分的にきわめて遅いテンポだった。
 2曲目のモーツァルトがはじまると、異常に遅いテンポで、音楽は生気を失っていた。私はこれが老いたフルネの心象風景なのかと驚いた。第1楽章が終わったときに、一人の中年男性が大きな靴音を立てて、これみよがしに退場した。客席は凍りついた。そのとき、ピアノの伊藤恵がそっとフルネに微笑みかけ、フルネは我に返ったように第2楽章をはじめた。
 3曲目のブラームスは、通常のテンポに戻り、いつものように正統的で格調の高い演奏だった。最終楽章のコーダで金管楽器が高らかに吹き鳴らすテーマは、都響がフルネに捧げるオマージュのようだった。
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鳥のカタログ

2008年11月03日 | 音楽
 児玉桃がメシアンの「鳥のカタログ」を演奏した。メシアンは20世紀フランスを代表する作曲家の一人で、今年は生誕100年に当たる。そこで、さまざまな作品が演奏されているが、この演奏会もその一つだ。

 「鳥のカタログ」は独奏ピアノ曲集で、第1巻から第7巻までの合計13曲から成る。それぞれの曲には鳥の名前がつけられている。ただ、標題の鳥だけではなく、さまざまな鳥が登場して鳴き交わす。さらに驚くべきことには、鳥たちが生息する岩山や海、さらには沼などの自然環境も音にされ、また、夜明け、真昼、日没、深夜といった時の推移も音で描かれる。つまり鳥の棲む世界が丸ごと音にされているのだ。こういう感性あるいは知性はいかにもヨーロッパ的で、日本人にはないものと思うが、どうだろうか。
 ともかく、こういう曲が13曲続く。演奏会は午後2時に始まり、終わったのは5時20分だった。途中15分の休憩が2回あったものの、長い演奏会だった。プロの演奏家のスタミナはたいしたものだ。一方、きいているこちらは、ぐったり疲れてしまった。すべての曲が瞬間の感覚の連鎖で、先の予測がつかず、常に神経を張り詰めていなければならなかったからだろう。

 各曲は一種の音画だ。メシアンはそれぞれ、ある特定の場所で、特定の日時にそれらの鳥をきいて、そのときの情景をイメージの核にして音楽をかいている。しかも、親切なことには、その情景を解説にかいて残してくれた。
 しかし、実際の演奏会では、解説が十分に頭に入っているわけではなく、結局は純粋音楽として、つまり、拍節にとらわれないリズムとか、調性からはなれた音程とか、不思議な色彩の和声とかのアプローチできいているのだ。そのギャップがこの曲のききかたの難しさの所以だと思った。
 各曲は、ちょうど真ん中に位置する第7曲(この曲がもっとも長大で約30分かかる)を中心にして、ほぼシンメトリックに配置されている。前後の第6曲と第8曲は短くて愛らしい曲だ。私としては最後の第13曲に惹かれた。茫漠とした情感がこの曲集としては異例だ。

 全体は自然賛歌であることはまちがいない。また、一方で、音楽的な語彙の拡大の試みであることも確かだ。だが私は、それにとどまらないのではないかと思い始めている。メシアンは敬虔なカトリック信者で、三位一体説はその重要なテーマだったが、父と子と聖霊のその聖霊に近い存在として鳥をとらえていたのではないか。聖霊は、絵画では一般的に鳩で表わされるが、これを各種の鳥として表現したのでは。

 児玉桃の演奏は13曲すべてが均質の出来だったかどうかは分からない。できれば今後も継続して取り上げて、さらに磨き上げてほしい。その道程を私も共に歩みたい。
(2008.11.02.フィリアホール)
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寺家ふるさと村

2008年11月01日 | 身辺雑記
 夕刊によると、今日は東京で木枯らし1号が吹いたそうですね。そういえば午前中は風が強かったようですが、私は家でレコード(古いですね!)をきいていました。
 午後になってからは、あんまり天気がよいので、近郊の「寺家ふるさと村」に行ってきました。ここは低い丘に両側をはさまれた細長い土地に水田が広がっていて、都心部では失われた農村風景を残しています。午後になって風がやんだので、ポカポカの日だまりをのんびり歩いていると、ちょっとだけ健康を取り戻すような気がしました。
 参考までに行き方をご紹介すると、東急田園都市線の青葉台駅で下車して、鴨志田団地行きのバスに乗って終点です。東京近辺の方にはお薦めです。
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