Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

今年の回顧

2012年12月30日 | 音楽
 今年は吉田秀和さんが亡くなった。先ごろその追悼誌「吉田秀和――音楽を心の友と」が出版された。(↑)

 白石美雪さんによるロングインタビューが収録されている。吉田さんの生い立ちから最近の出来事までを辿る内容だ。なかでも戦時中の話が興味深かった。戦時中は内閣情報局に勤務していた、ということは今までも語られていたが、どういう仕事をしたかは、語られていなかった気がする。内閣情報局というと穏やかではないので、内心気になっていた。

 内閣情報局ではピアノ製造のための鋼鉄や鉄筋、ヴァイオリン製造のための弦の材料などの配給、そして音楽家が招集を免れるための、一人ひとりの理由付けをしていた――とのことだ。またそこに勤務するにいたった経緯も語られた。これらのことが語られてよかった。いわれてみれば、なあんだという感じだ。もしできることなら、国立公文書館かどこかで、当時の吉田さんの書いた文書を読んでみたい気がする。

 吉田さんの遺稿も載っている。しかも写真印刷で。欄外に「吉田用箋」と印刷された200字詰め原稿用紙。そこに青インクで書かれている。パソコンで打った原稿とちがって、ゆったりした時間が流れている。これはわたしの宝物だ。

 さて、今年はジョン・ケージの生誕100年だった。いくつかの演奏会が開かれたが、強烈な印象を受けたのは、アーヴィン・アルディッティのヴァイオリン独奏による「フリーマン・エチュード」全曲演奏会と、宮田まゆみの笙独奏による「One9」の全曲演奏会だ。どちらも、音楽としては、わからなかったが、思想として――あるいは思想の破壊として――、ものすごくインパクトがあった。

 普通の音楽――というのもヘンだが――では新国立劇場のオペラ「沈黙」(松村禎三作曲)が感銘深かった。とりわけ小原啓楼のロドリゴには打ちのめされた。「沈黙」は1993年の初演以来すべてのプロダクションを観ているが、このロドリゴは――わたしにとっては――永遠のロドリゴだと思った。

 音楽以外ではタル・ベーラ監督の映画「ニーチェの馬」に圧倒された。映画芸術の極北――という言葉があるとしたら――その苛酷な地点にたつ映画だ。一生忘れられそうもない。(↓)

http://www.youtube.com/watch?v=tmhKEuxssgw
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音のいない世界で

2012年12月26日 | 演劇
 新国立劇場からのクリスマス・プレゼント、演劇「音のいない世界で」。公演は1月20日まで続くから――さらにその後、山形、仙台、北上に巡演する――、お年玉プレゼントでもある。

 作・演出は長塚圭史。ある日、大切なカバンを盗まれたセイ(松たか子)が、カバンを探しに出かける。帰ってきた旦那さん(首藤康之)は、セイがいないので、セイを追って出る。二人は巡り合うことができるのか。カバンとはなにか――という物語。

 カバンを盗んだ兄弟役は、近藤良平と長塚圭史(作・演出の長塚圭史その人)。これらの4人が一人で何役も演じる。たとえば松たか子は、清純なセイの他、酔っ払いの羊飼いと、凛々しい兵隊(バレエ「くるみ割り人形」の兵隊のようだ)を演じる。さすがに見事な演じ分けだ。

 他の3人も個性的だ。首藤康之はバレエ・ダンサー。ちょっとした回転などさすがに本職だ。最近は演劇にも進出しているそうだ。貧しく純情な旦那さんを好演した。近藤良平はダンスの振付師。羊の演技になんともいえない滑稽味があった。長塚圭史は劇作家・演出家。自らも舞台にたつことで、観客に親しみのある芝居にした。

 これらの4人が織りなす透明な世界がこの芝居だ。さまざまなエピソードが綴られていく。全体を把握することが目的ではない。個々のエピソードを楽しめばいい。それらに共通するシンボルがある。それをどう解釈するかは、観客に委ねられている。観客が自己のイマジネーションを、あるいはそのときの人生を、投影すればいい。

 これはいってもいいと思うが、セイと旦那さんは巡り合う。カバンも戻る。そこに流れる歌がある。意外な歌だ。歌詞はプログラムに載っている。けれどもメロディーは思い浮かばなかった。あっと思った。ジンとしみた。

 わたしの場合は、そこに最近の出来事を投影した。投影せざるを得なかった。元の職場の知人が自らの命を絶った。その知らせが前日に届いたばかりだった。命を絶つ前に、なにかのメロディーが浮かばなかったろうか。なにか大事なものを思い出さなかったろうか。もし思い出していたら、思い止まったのではないか、と。

 なんだかやりきれない年末だ。そんなわたしも、この芝居に慰められた。幸せな人は、この芝居を観て、もっと幸せになるだろう。そういう人が沢山いますように。大人も、そして――この芝居の場合はとくに――子どもも。
(2012.12.25.新国立劇場小劇場)
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年末の演奏会あれこれ

2012年12月21日 | 音楽
 カンブルラン/読響の「第九」を聴いた。驚いた。今までこういう演奏を経験したことがあるだろうか。ピタッと合ったピッチ、音程そしてリズム。それらが生みだす――尖った鉛筆のような――極細の音。テンポは速い。正確に測ったわけではないが、大体65分くらいではなかったろうか。一般的には70分前後だから、かなり速い。もちろん思い入れたっぷりのテンポ・ルバートなど一切ない。ウィキペディアを見ると、「研究家が考証を行った古楽器による演奏では大概63分程度であり(以下略)」という記述があるので、このテンポは根拠あってのことだろう。

 これは「ゆく年くる年」の第九ではなかった。今年一年を振り返って、感慨に浸り、演奏会が終わったら「さあ、忘年会だ」と飲みに行くような演奏ではなかった。そういう情緒的な演奏ではなく、――いってみれば――もっと冷厳な演奏だった。

 こういう演奏が可能になったのは、カンブルランの恐るべき耳のよさと、読響の演奏力のゆえだが、もう一つは、優秀な独唱陣(木下美穂子、林美智子、小原啓楼、与那城敬)と新国立劇場合唱団の力量あってのことだ。実力をもったプロが参集して、カンブルランという類まれな統率者のもとで成し遂げた演奏だ。

 だからこの演奏は、プロの方が面白く感じるだろう。これはすごいと感じるのは、むしろプロの方だったろう。
(2012.12.19.サントリーホール)

 その前後にはヤクブ・フルシャ/都響の定期があった。定期Bはコダーイの「ガランタ舞曲」とバルトークの「中国の不思議な役人」組曲が聴きものだった。ともにフルシャの才能が全開。アグレッシヴにオーケストラを駆り立てた。もっともわたしは――正直にいうと――、大声でまくしたてる人の話を聞いているときのような疲れを感じた。
(2012.12.15.サントリーホール)

 定期Aはマルティヌーの交響曲第6番「交響的幻想曲」が聴きもののはずだったが、若干期待外れだった。入念な音づくりが施されているのだが、慎重になりすぎて、感興に乏しかった。演奏とは難しいものだ。フルシャとしては思い入れのある曲だろうが、本番でその成果が出なかった。

 むしろベルリオーズの「幻想交響曲」の方が面白かった。だが、これはわたしの方の事情だが、都響でこの種の曲を聴くと、どうしてもフルネの音を想い出してしまって、もう一つ身が入らなかった。
(2012.12.20.東京文化会館)
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エリック・エワゼンの音楽

2012年12月19日 | 音楽
 先月下旬にあるピアノ教室の発表会に行った。就学前の子供から初老のリタイア組まで、皆さんの発表があった後、ピアノの先生とそのご主人(在京オーケストラの元フルート奏者。昨年定年で退団した。)および友人たちの演奏があった。プロ、アマの垣根のない和やかな会だった。

 そのなかにエワゼンという人の「パストラール」があった。エワゼン?まったく聞いたことのない名前だ。編成はフルート、ホルンとピアノの三重奏。珍しい編成だ。ホルンを吹いた人(この人はアマチュアだ)の紹介した曲だそうだ。フルート奏者は「こういう編成は見たことがない」といっていた。

 美しい曲だった。グリーグやシンディングのような北欧の音楽のように感じられた。これはまちがいなく北欧の作曲家だ、と思った。帰宅して調べてみた。驚いたことに、アメリカ人だった。1954生まれ。エリック・エワゼンEric Ewazen。正しくは「イウェイゼン」と読むらしい(ウィキペディアによる)。

 アマゾンで検索したら、CDが出ていた。2週間くらいで届いた。やっぱりいい曲だ。「バラード、パストラールとダンス」という曲の第2楽章だった。前後の楽章もよかった。

 フルートとホルンの組み合わせは、木管と金管という意味では異質だが、それらの音色が溶け合うというか、むしろ、完全には溶け合わず、それぞれの動きは明瞭に辿れるのだが、それらが並置されても、お互いに干渉しない点がいい。そこにピアノが加わり、内部まで光が届くような、小さな音の宇宙が生まれている。

 YouTubeを調べてみたら、いくつかの動画が見つかった。そのうちの一つをご紹介したい。演奏者名や日時、場所はわからないが、雰囲気からいって、アメリカのどこかの大学の学内コンサートではないか。ホルンは多少苦しいが、それは仕方がない。ミスなく吹けたら、もうプロだ。

http://www.youtube.com/watch?v=FkdPTafspXs&feature=player_embedded

 ナクソス・ミュージック・ライブラリーを検索したら、何曲も登録されていた。1曲ご紹介すると、「死者と生者のための賛歌」という曲がある。2001年の9.11テロの犠牲者のために書かれた曲だ。もともとは吹奏楽だが(アメリカ空軍ヘリテージ・オブ・アメリカ・ウィンドアンサンブルの委嘱)、トロンボーンとピアノのための編曲版が気に入った。

http://ml.naxos.jp/work/204888
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下野竜也/東京シティ・フィル

2012年12月15日 | 音楽
 東京シティ・フィルは宮本文昭音楽監督になって、路線がガラッと変わった。宮本さん自身も振るが、それ以外の月は、日本の第一線の指揮者が入れ替わり立ち替わり振るようになった。常任指揮者が空席なので、適任者を探す意味もあるのかもしれない。

 今までに、尾高忠明さんがエルガーで、秋山和慶さんがラフマニノフで、広上淳一さんがハイドンとモーツァルトで登場した。皆さん得意のレパートリーだ。今月は下野竜也さんが登場。プログラムは一味ちがって、アグレッシヴなものだった。

 1曲目はハイドンの交響曲第28番。数あるハイドンの交響曲のなかでなぜこの曲が選ばれたか、知るよしもないが、ともかくハイドンらしい快活な曲だ。第3楽章にけたたましい音響がある。ハイドンらしいウイットが感じられた。こういう曲を聴いていると、ハイドンの100曲以上ある交響曲は、皆面白いのではないだろうかという気がする。

 演奏もよかった。しっかり組み立てられて、見通しがよく、快活な演奏だった。曲も快活だが、演奏も快活だった。

 2曲目はシェーンベルクのピアノ協奏曲。以前シェーンベルクがプログラムにのったことはあるだろうか。ちょっと思い出せない。それくらいこのオーケストラはシェーンベルクから遠のいていた気がする。それがいきなりピアノ協奏曲。ヴァイオリン協奏曲とならんで奥の院的な曲だ。実は少し不安だった。

 だが、その不安はものの見事に外れた。メリハリの利いた、雄弁な演奏だった。もちろん下野さんの的確な棒あってのことだが、一方ではこのオーケストラの、在京オーケストラでは随一の熱い音の故でもあった。こんなに血の通ったシェーンベルクは、他のオーケストラでは難しいかもしれない。

 ピアノ独奏は野田清隆さん。シェーンベルクのピアニズムに浸らせてくれる演奏、といったらいいだろうか。シェーンベルクのピアノの音を堪能した。

 3曲目はモーツァルトの交響曲第28番。第25番や第29番ならともかく、第28番は珍しい。1曲目と符合させたユーモアだろう。これも快活な、しかも安定感のある演奏だった。

 最後はベルクの「ルル」組曲。第1曲ではもう少し甘美な音色がほしいと思ったが、それ以降はドラマティックな演奏に引き込まれた。ソプラノ独唱は半田美和子さん。歌も容姿もルルに相応しい。いつかこの人の「ルル」を観てみたいと思った。
(2012.12.14.東京オペラシティ)
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テンペスト

2012年12月13日 | 音楽
 METライブビューイングでトーマス・アデス(1971‐)のオペラ「テンペスト」を観た。

 このオペラには縁があって、2004年初演時のライヴ録音のCDを持っているし(作曲者自身の指揮、ロンドンのロイヤル・オペラで初演)、2010年のフランクフルト歌劇場での公演を観に行くことができた。フランクフルトではヨハネス・デビュスの指揮(東京で細川俊夫のオペラ「班女」を指揮した人だ)、キース・ウォーナーの演出だった。

 そして今度のメトロポリタン歌劇場での公演。演奏面ではこれが一番ではないかと思った。歌手も、オーケストラも、きわめて高水準だ。2004年の初演以来、世界各地で上演されている人気作なので、演奏が磨かれたこともあるだろうが、やはりメトロポリタン歌劇場の底力だと思った。

 追放されたミラノ大公プロスペローはサイモン・キーンリーサイド。初演時も同役だった。今やこの役を手中に収めているようだ。幕間のインタビューに答えて、最初に譜面を見たときには「パニックだった」といって笑わせた。たしかにそうだろう。小節ごとに拍子が変わるし、リズムも音程も取りにくい。譜面を見たら面食らうだろう。

 妖精アリエルはオードリー・ルーナという若い歌手。初演時とフランクフルト歌劇場ではシンディア・ジーデンだった。高音域を跳び回るこの役をいつまでも歌い続けることは困難だろう。驚いたことには、ルーナはジーデンのさらに先を行っていた。歌唱は進歩するものだと実感した。

 他の歌手のことにも触れたいが、ライブビューイングを観ていないかたには煩瑣なだけで、あまり意味がないだろう。ともかく、どの歌手もよかった。

 指揮はトーマス・アデスその人。指揮の技術は折り紙つきだ。オーケストラもさすがに優秀だった。なお、アデスも幕間のインタビューに応じていた。ちょっとはにかんだような表情が印象的だった。自己主張が強い欧米人にあっては珍しいタイプだ。

 演出はロベール・ルパージュ。プロスペローが魔法を駆使する絶海の孤島をミラノのスカラ座に見立てた演出。幕切れにすべての人々が去って、一人取り残された怪物(というよりも、わたしには先住民のように見えるのだが)カリバンが、呆然と、空になった舞台を見つめる。その姿がわたし自身に重なって見えた。今までオペラを観ていたわたしは、カリバンだったのか。
(2012.12.12.東劇)
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「馬込時代の川瀬巴水」展

2012年12月11日 | 美術
 日曜日は各地で雪が降ったが、東京は快晴だった。気持ちのいい青空のもと、久しぶりにバスに乗って、大田区立郷土博物館に出かけた。「馬込時代の川瀬巴水」展を観るためだ。

 川瀬巴水は1883年(明治16年)生まれ。浮世絵の流れをくむ新版画の絵師だ。抒情的な風景版画で知られ、今でもファンが多い。わたしもその一人だ。巴水は1926年(大正15年)に現・東京都大田区に引っ越した。以降、戦中に栃木県塩原に疎開した以外は、大田区内に住み続けた。1957年(昭和32年)没。

 このような縁あってか、同館では巴水の版画を多く所蔵しているようだ。全94点の充実した展示。しかも、ありがたいことに無料だ。

 巴水の作品は同展のホームページでも見られるし、江戸東京博物館のホームページには膨大なデータベースがあるので、自宅でいくらでも見ることができる。だが、現物には及ばない、というのが実感だ。色、とくに藍色は、画像では想像もできない深みがあった。

 チラシ(↑)に使われている作品は「馬込の月」。昭和5年作。えっ、当時の馬込はこんな風景だったのか、と驚く。昭和5年というと1930年、今から80年ほど前だ。80年たてば風景が変わるのは当たり前かもしれないが、その変貌ぶりには驚きを禁じえない。

 今、馬込は閑静な住宅街だ。馬込には、わたしは多少縁がある――昔、父が通っていた町工場があった。今から50年ほど前の話だ。父は羽田の家から自転車で通っていた。雨の日は雨合羽を着て自転車をこいだ。子ども心に、なぜ電車で通わないのかと思った。父にきいた記憶がある。多分あいまいな返事だったろう。今考えると、お金がなかったからだ。通勤手当が出るような工場ではなかった。

 その町工場に、わたしは年に一度、母に連れられて挨拶に行った。JR(当時は国電といった)の大森駅からバスに乗り、万福寺前というバス停で降りた。そのバス停こそ、今、大田区立郷土博物館のあるところだ。懐かしさのあまり、町工場があった場所を探してみた。だが、見つからなかった。バス停からの下り坂が記憶にあるくらいだ。深い谷のような記憶だったが、今見ると、坂ともいえないゆるい坂だ。町工場に着くと、座敷に通された。神妙に挨拶した。お茶とお菓子をご馳走になった。

 遠い記憶のなかにある場所がこんなに近くだったとは――と、不思議な気分だった。
(2012.12.9.大田区立郷土博物館)
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マイケル・フランシス/日本フィル

2012年12月10日 | 音楽
 イギリスの若い指揮者マイケル・フランシスが客演した日本フィルの定期は、どの程度話題になったのだろう。左欄のブックマークに登録している各ブログでは話題になっていない。わたしは面白かったので、その感想を。

 1曲目はジョン・アダムスの「主席は踊る」The Chairman Dances。主席とは毛沢東主席のこと。「オペラ《中国のニクソン》より」と記載されている。《中国のニクソン》は好きなオペラだ。CDを2種類持っているし、METライブビューイングも観た。ところが演奏が始まると、ピンとこなかった。記憶力の悪さというか、日頃いかにいい加減に聴いているかを思い知らされた気がして、愕然とした。

 広瀬大介氏のプログラム・ノートを読むと、「第3幕で用いるつもりで作曲されたが、結局採用されなかった音楽をそのまま独立した作品として転用したもの」と書かれていた。これで納得。演奏はよかった。なにか独特な透明感があった。曲がそうだからかもしれないが、だとすれば、それを正確に表現していた。

 2曲目はブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」。冒頭のティンパニと大太鼓の音がこれまで聴いたことがないほど強く打たれた。息を呑んだ。この曲にかける意気込みが感じられた。それは並々ならぬものだ。その後の演奏にもどす黒いものが渦巻いていた。

 少しずつ静まって第3楽章。この楽章を、平和への賛歌として感動的に歌い上げる例もあるが、この演奏は一味ちがった。思いがけない空白のような、まるで真空地帯のような感覚だった。ショスタコーヴィチの交響曲第8番の最終楽章が思い浮かんだ。あの楽章と同じ感覚だ。どちらも感動的に歌い上げるのは楽天的過ぎるようだ。

 3曲目はチャイコフスキーの交響曲第4番。これも面白かった。フレージングや音の強弱に独特のこだわりがあった。けっしてルーティンに流すことはなかった。オーケストラの好きなようには演奏させなかった。オーケストラには多少抵抗感があったかもしれない。だが時にはそれも必要だ。

 マイケル・フランシスは、外見上はいかにもイギリス紳士だが、音楽は熱い。2010年4月に東京シティ・フィルを(急な代演で)振ったときも熱かった。あの熱さを日本フィルでも確認した思いだ。

 あえていうが、演奏後の日本フィルの反応はイマイチだった。意外にクールだった。気のせいだろうか。
(2012.12.7.サントリーホール)
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セビリアの理髪師

2012年12月07日 | 音楽
 新国立劇場の「セビリアの理髪師」は好きなプロダクションだ。2005年10月に初演された。すぐに再演されて、今回が3度目。わたしはすべて観ている。

 なにが好きかというと、演劇的にひじょうに細かく作り込まれている点だ。舞台では終始なにかが起きている。そこが面白いのだ。それらのディテールは脇役たちの個性や境遇を浮き彫りにする。普段は影の薄いそれらの人たちに生命を吹き込むのだ。また台本にはない労働者や娼婦を登場させている。それによって、ドラマが進行する室内の、その外の世界はどうだったかを描いている。社会的な層の厚さが舞台にあるのだ。

 だから、何度観ても面白い。3度目になる今回も発見があった。あっ、こんなことをやっていたのか、という具合だ。

 このプロダクションはトーマス・ノヴォラツスキー監督時代のもの。同監督のもとではいくつかの優れたプロダクションが生まれた。これもその一つ。ただし、大詰めのアルマヴィーヴァ伯爵の大アリアはカットされている。これは残念だ。どんな歌手が来ても使えるプロダクションを意図したからだろうか。

 家政婦ベルタの与田朝子と下男アンブロージオの古川和彦は初演時からのキャストだ。もう堂に入ったもの。この二人を観ているだけでも面白い。隊長の木幡雅志も初演時から。ドン・バジリオの妻屋秀和は2回目から。これらの人たちが脇を固めているので、公演全体が安定している。

 フィガロはダリボール・イェニス。声も歌も、そして早口も、すばらしい。しかも男の色気がある。今回はこの人が主役だ。タイトルロールだから当然といわれるかもしれないが、アルマヴィーヴァ伯爵にすぐれた歌手が来ると、主役は伯爵になる。だが今回は断然フィガロだった。

 アルマヴィーヴァ伯爵はルシアノ・ボテリョ。いい歌手だが、ベルカントの華がほしい。ロジーナはロクサーナ・コンスタンティネスク。歌はロッシーニの様式としてどうかと思うこともあったが、キュートな容姿がロジーナに相応しい。ドン・バルトロはブルーノ・プラディコ。歌も演技もすばらしい。フィガロのイェニスと双璧だった。

 指揮はカルロ・モンタナーロ。オーケストラ(東京フィル)から、まろやかな音とおっとりした演奏を引き出していた。歌を支える役割としては心地よいのだが、一面では安全運転で、ロッシーニ・クレッシェンドの輝かしさ(=スリル)には不足していた。
(2012.12.6.新国立劇場)
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スティーヴ・ライヒ

2012年12月06日 | 音楽
 スティーヴ・ライヒが来日。1936年生まれだから、今年76歳だ。トレードマークの帽子(なんというのだろう、野球帽のような形だ)をかぶって登場。端的にいって格好いい。9月の読響定期に登場したリチャード・ストルツマン(1942年生まれ、ライヒよりも少し若い)も恰好よかった。この世代のアメリカ人の男たちはみんな格好いいのか。

 イギリスのパーカッション・アンサンブル、コリン・カリー・グループの公演。ヴォーカルに同じくイギリスのシナジー・ヴォーカルズが共演。曲目はすべてスティーヴ・ライヒの作品だ。

 1曲目は「クラッピング・ミュージック」。2人の手拍子による音楽。第1奏者が一定のテンポでリズム・パターンを繰り返し、第2奏者がそこに加わり、少しずつ拍をずらしていく。その第1奏者にスティーヴ・ライヒが登場した。聴衆は大喝采。第2奏者はコリン・カリー。

 第1奏者と第2奏者では、同じ手拍子とはいえ、音色がちがうことが面白かった。第1奏者は、手をお椀型にしているのだろうか、柔らかい音を出し、第2奏者は硬くはっきりした音を出していた。

 2曲目は「ナゴヤ・マリンバ」。2台のマリンバのための曲。「クラッピング・ミュージック」は初期の作品(1972年)だが、これはずっとキャリアを積んで――ということは、つまり、ミニマル・ミュージックを展開して――、1994年に名古屋の《しらかわホール》オープンに当たって作曲された。「クラッピング・ミュージック」はリズムの線的な連鎖で構成されているが、この曲では立体的なテクスチュアが感じられる。気のせいか、日本的な情緒がただよう部分もあった。

 3曲目は「マレット楽器、声とオルガンのための音楽」(1973年)。一気に色彩豊かになる。スキャットというのではないが、言葉のない、リズムだけのヴォーカルが、のりのいい推進力を生む。仕事の帰りにコンサートホールに寄って聴く音楽は、要するにこれでいいのだと思った。疲れがとれて、楽しくなる。

 4曲目は「ドラミング」(1970‐71)。演奏時間1時間程度の大曲だ。初期の代表作の一つだが、その後の作品のもつ壮麗さをすでに備えていることが感じられた。

 聴衆は圧倒的に若い人が多かった。歓声はブラヴォーではなく、イェーという感じ。こういう演奏会にはモチヴェーションの低い人がいないので気持ちいい。
(2012.12.5.東京オペラ・シティ)
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メトロポリタン美術館展

2012年12月04日 | 美術
 金曜日の夜間開館時間にメトロポリタン美術館展へ。午後6時に着いたらライブ・コンサートを待つ人たちの列があった。以前、別の美術館でひどい目に遭ったので(騒音に悩まされた)、音を心配したが、そのフロアー(ロビー階)は多少音が漏れてきたものの、1階と2階はまったく問題なかった。まずは一安心。

 本展はメトロポリタン美術館の膨大な収蔵品のなかから「自然」をテーマに選んで構成したもの。ホームページを見ると、大地や海や空といった要素を縦軸に、古代から近代までの時間の流れを横軸に組んだ表のなかに各作品が置かれている。これは本展の性格をよく表している。「自然」というピンポイントで再現されたミニ・メトロポリタン美術館というわけだ。

 だから、というべきか、これは思いっ切りわがままに観てみようと思った。まずざっと全体を観て、ピンとくる作品をチェックし、もう一度そこに戻って、なにがピンときたのかを考えた。そうしているうちに、最初はあまり気に留めなかった作品にも興味を抱く場合があり、結果的に本展をじっくり楽しんだ。

 マイベストというか、本展でもっとも感銘を受けた作品は、ミレーの「麦穂の山:秋」だった(↑copyright:The Metropolitan Museum of Art)。刈り入れが終わった畑、手前には羊の群れ、その向こうに麦穂の山が三つ、それらの麦穂の山は巨大だ。羊飼いの女の4~5倍の高さ。遠景には黒い雲が広がっている。

 ミレーというと「晩鐘」や「落穂拾い」が想い出される。神への感謝に満ちた、慎ましく、調和のとれた農民画。ところが本作にはそれらとは異なる不穏なものが感じられた。

 これはミレーの死の前年に描かれた(1874年)。だとすれば、黒い雲は「死」だろうか、と思いたくなった。ひそかに迫る「死」の予感。手前の羊が、こちらを向いて、なにも知らずに落穂を食んでいる。この羊はミレー自身だろうか。では、巨大な麦穂の山はなんだろうか。なにかモニュメンタルな象徴性が感じられる。これは、ミレーが信じていたもの、つまりは「死」に抗うものだろうか。具体的にはなんだろう。芸術の永遠性だろうか。いや、答えを性急に出すのは止めよう、答えが見つからない問いとして、しばらく抱えていようと思った。

 ミレーのことはよく知っているつもりだったが、実はなにも知らなかった。そのことがよくわかった。
(2012.11.30.東京都美術館)
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