Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2022年の音楽回顧

2022年12月29日 | 音楽
 2022年はどんな年だったろう。激動する社会情勢はわたしが書くまでもないので、音楽に絞ってこの一年を回顧したい。日記もなにも見ずに、じっと目を閉じたときに、心に浮かぶもの。それがわたしの得たものだ。

 まず思い出すのは新国立劇場の新制作「ペレアスとメリザンド」と「ボリス・ゴドゥノフ」だ。いずれも同劇場の初めての舞台上演となった。同劇場は今年がオープン25周年。25年たってやっと「ペレアスとメリザンド」と「ボリス・ゴドゥノフ」が舞台上演されたことに、この劇場のたどった歴史が表れる。

 歴代の芸術監督はそれぞれ多くの制約のもとでやれるだけのことはやったと思うが、それでも何人かの芸術監督は自分の好みを優先させたきらいがある。結果的にこの劇場はレパートリーの拡充に戦略を欠いた。それを整備しているのが現芸術監督の大野和士だと思う。大野和士は上記2演目に加えて、同劇場では初めての本格的なバロック・オペラとなる「ジュリオ・チェーザレ」も上演し、同劇場を世界のスタンダードに近づけた。

 だが、それらの上演を世界の最先端の演出でおこなったことが、一部で物議をかもした。とくに「ペレアスとメリザンド」と「ボリス・ゴドゥノフ」の演出にたいしては、激しく非難する人がいた。だが、それらの2演目の演出は個性的ではあるが、各作品がもつ問題を鋭くえぐりだす演出だったと思う。

 「ペレアスとメリザンド」の演出は、結婚にたいする女性の恐れを視覚化して、ジェンダー問題を問いかけた。「ボリス・ゴドゥノフ」の演出は、先帝の皇子を暗殺して帝位を簒奪したボリス・ゴドゥノフの、我が子を溺愛する一面をとらえて、期待の息子を重度の障害児に設定することで(その演技は恐ろしいほどリアルだった)、複雑な心理劇を展開した。それら2演目の演出は日本の観客の一歩先を行っていたかもしれないが、大野和士が将来のためにまいた種だろう。その種が大きく育つことを願う。

 わたしの主なフィールドの在京オーケストラの定期演奏会では、ノットと東響、ヴァイグレと読響が、それぞれ関係を深めて、安定飛行を続けた。とくにノットと東響のウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」と、ヴァイグレと読響のブラームスの「ドイツ・レクイエム」とは、一朝一夕にはできない名演だった。

 恒例のサントリーホール・サマーフェスティバルでは、クラングフォルム・ウィーンが来日した。イサオ・ナカムラがリーダーを務めた6人の打楽器奏者によるクセナキスの「ペルセファッサ」の鮮烈な演奏はいまでも目に焼き付いている。また同じくクセナキスのバレエ音楽「クラーネルグ」の、異形の生き物を見るような衝撃はいまも残っている。
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

2022年12月26日 | 美術
 国立西洋美術館で「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開かれている。ベルクグリューン美術館はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の正面側の向かいの建物にある。現在改修工事中なので、所蔵作品の引越し展が実現した。

 展示作品の総数は108点。内訳は、ピカソ46点、クレー34点、マティス16点、ジャコメッティ5点、セザンヌ4点、ブラック3点で、ピカソとクレーが圧倒的な割合を占める。ピカソ好き、クレー好きの人には見逃せない展覧会だ。

 ピカソの作品は初期の青の時代から始まって、第二次世界大戦中までをカバーしている。その中で1点あげるとしたら、「大きな横たわる裸婦」(1942)をあげたい(画像は本展のHPに載っている)。ピカソがナチス・ドイツの占領下のパリで描いた作品だ。伝統的な横たわる裸婦像だが、その裸体はキュビスム的にデフォルメされている。しかも注目すべき点は、右手首がソファーに縛られているように見えること、腹が大きく切断されていること、そして両足首が交叉して、キリストの磔刑図の足首のように見えることだ。それらは何かの暗示だろうか。色調は暗い。当時のピカソの心象風景が反映された作品だろう。

 一方、クレーの作品は油彩転写素描といわれる技法の作品が多いことが特徴だ。油彩転写素描とは、作品となる紙と原画となる素描と、それに加えて、黒色の絵具を一面に塗布した紙とを用意して、作品となる紙と原画の素描を重ね、そのあいだに黒色の紙をはさみ、先のとがった道具で原画の素描をなぞる技法だ。黒色の紙がカーボン紙のような働きをして、素描が作品となる紙に転写される。線に独特のにじみが出るのが特徴だ。

 何点もある油彩転写素描の作品の中で、あえていくつかあげれば、「雄山羊」(1921)と「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」(1921)をあげたい(本展のHPに画像が掲載されていないのが残念だ)。「雄山羊」は山羊の横顔だ。鼻の上に女性が足を組んで乗っている。山羊はトロンとした目で女性を見つめる。口からはよだれが垂れる。なんともだらしのない山羊だ。クレーの煩悩のユーモラスな表現だろうか。

 「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」は、なまめかしいヌード・ダンサーを描いている。哲学的な題名だが、それはヌード・ダンサーを見つめるクレー自身の自戒をこめた言葉か。これもユーモラスな作品だ。

 一方、「子どもの遊び」(1939)はクレー最晩年の作品だ。第二次世界大戦が勃発し(あるいはその直前で)、クレー自身もナチスから弾圧を受け、また体調も悪化する。そんな暗澹たる日々の中で描いた作品だ。無邪気な子どもを描いているが、どこか暗い。
(2022.12.23.国立西洋美術館)
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B→C 上野通明チェロ・リサイタル

2022年12月21日 | 音楽
 2021年ジュネーヴ国際音楽コンクールのチェロ部門で優勝した上野通明(うえの・みちあき)がB→Cコンサートに出演した。曲目はすべて無伴奏チェロ曲だ。

 1曲目はジョン・タヴナー(1944‐2013)の「トリノス」。わたしには未知の作曲家だが、石川亮子氏のプログラムノーツによると、「エストニアのアルヴォ・ペルトとともに、現代における宗教音楽の作曲家として独自の存在感を放つ」人だそうだ。チェロの深々とした音が印象的だった。それは曲のためか、演奏のためか。

 2曲目はクセナキス(1922‐2001)の「コットス」。初めて聴く曲だ。第1回ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールの課題曲として作曲されたそうだ(同プログラムノーツによる)。「クセナキスの音楽に特徴的なグリッサンドや、広い音域を執拗に行き来するパッセージ」(同)にはクセナキスらしさを感じたが、全般的には散漫な印象を受けた。

 3曲目はバッハの「無伴奏チェロ組曲第6番」。この曲に至って、上野通明がどんな演奏家か、よくわかった。線が太くて逞しい演奏をする人だ。小ぢんまりとした枠には収まらない。従来の日本人演奏家のイメージからはみ出すスケール感がある。この曲の演奏にはホールを満たす存在感があった。

 休憩をはさんで4曲目は森円花(もり・まどか)の「不死鳥」(2022)。上野通明の委嘱作品で世界初演だ。音楽と映像のコラボ作品(おそらく映像も森円花の制作だろう)(←下記の追記参照)。森円花自身のプログラムノートによれば、「故一柳慧氏のお導きもあり、聴覚芸術の音楽を視覚芸術の美術と融合することで空間芸術として再構成したいと考えた。」とある。映像そのものは比較的シンプルだが、「通奏全5楽章」(同)の切れ目が映像でよくわかり、理解の助けになった。

 肺腑をえぐるような凄みのある音楽=演奏だ。足を踏み鳴らす打撃音が何度も入り、さらに凄みを加える。後半にはピチカートによる静寂の音楽と、フラジオレットによる静寂の音楽が入る。それらの音楽にはハッとするような優しさがある。わたしは当夜の演奏の中ではこの曲に一番インパクトを感じた。

 5曲目はビーバーの「ロザリオのソナタ」から「パッサカリア」(原曲はヴァイオリン独奏曲だが、チェロ独奏用に編曲)。ドスの効いた低音は上野通明特有のものだ。6曲目はブリテンの「無伴奏チェロ組曲第3番」。いまさらながら、バッハやビーバーとは全く異なる原理による曲だと痛感。中音域から高音域が主体のこの曲の、その音域の音色は、ピーター・ピアーズの声を思わせることに気が付いた。
(2022.12.20.東京オペラシティ・リサイタルホール)

(追記)
映像はSao Ohtakeさんの制作だったようだ。下記のコメント欄を参照。
コメント (2)
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新国立劇場「夜明けの寄り鯨」

2022年12月18日 | 演劇
 演劇「夜明けの寄り鯨」を観た。作は横山拓也、演出は大澤遊。ともに40代の方のようだ。新国立劇場の演劇部門が今シーズン立ち上げた【未来につなぐもの】というタイトル=コンセプトの企画の第二作に当たる。第一作は去る11月に上演した「私の一ヶ月」(作は須貝英、演出は稲葉賀恵)。わたしはそれを観たので、第二作の「夜明けの寄り鯨」も観てみようと思った。

 主人公は40代の女性の三桑真知子。三桑はある海辺の町を訪れる。その町は三桑がまだ大学生のころに(25年前だ)友人たちと訪れた町だ。楽しいはずの旅行だったが、ある出来事が起こり、友人たちのひとりのヤマモトヒロシが姿を消す。その後ヤマモトは行方不明になった。生きているのか、死んでいるのか。三桑はヤマモトが姿を消したのは自分が発した言葉のためではないかと思い悩んでいる。それが気になるので、40代になったいま、再びその町を訪れたのだ。

 三桑が発した言葉とはLGBTQにかんする言葉だ。三桑が大学生のころはLGBTQにたいする一般の理解は低かった。LGBTQという言葉すらなかった。そのような時代的制約のもとではあったが、三桑がヤマモトにある言葉を発し、その言葉が原因でヤマモトが姿を消したのかもしれない。三桑はヤマモトに会って、もしそうなら謝りたいと思うのだが。

 本作品の場合はLGBTQにかんする言葉が契機だが、もっと広げて考えれば、だれしもだれかを何かで傷付けた記憶があるのではないか。取り返しのつかないことをした苦い記憶は、だれでも胸の奥に秘めているのでは。そんな苦い記憶から目をそらさずに、向き合って生きる生き方の象徴として、本作品は観ることができる。

 一方、三桑が訪れる海辺の町は、かつては捕鯨でにぎわった町だ。だが、捕鯨反対運動が盛んになって以来、町は寂れた。本作品では捕鯨の是非にかんする議論が起きる。だが、残念ながら、その場面の言葉は類型的だ。もっと独自の言葉がほしい。

 三桑を演じたのは小島聖だ。抑制された繊細な演技だった。また演技とは別のことだが、まっすぐな立ち姿が美しかった。さすがは役者だ。

 ストーリーは三桑が町を再訪する「現在」と、三桑が大学生のときに訪れた「過去」とのあいだを行き来する。その転換がスムーズだ。大澤遊の演出が成功しているのだろう。また場所が海辺の町なので、舞台には海が、そして(ストーリーの展開にしたがって)雨が描写される。海も雨も水だ。水の描き方が美しい。池田ともゆきの美術、鷲崎淳一郎の照明、鈴木大介の映像の総合力だろう。
(2022.12.11.新国立劇場小劇場)
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ヴァイグレ/読響

2022年12月13日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番(第1番ではない)とタネーエフの交響曲第4番という渋いプログラムだった。集客は難しいだろうと思ったら、チケットは早々に完売になった。ソリストの反田恭平人気らしい。

 反田恭平の演奏はすごかった。すさまじい熱量だ。ピアノ協奏曲第2番は第1番の陰に隠れて、演奏機会は多くはないが、実際に演奏してみると、意外に演奏効果の上がる曲だ。だが、それにしても、反田恭平の演奏は圧倒的だった。(本来はこういう言い方は避けたいのだが、とっさに適当な表現が見つからないので、止むを得ずいうが)従来の日本人演奏家のスケールを一回り超えている。反田人気が沸騰するゆえんだろう。

 読響も反田恭平と堂々と渡り合った。第2楽章のヴァイオリン独奏はコンサートマスターの長原幸太。艶のある美音を聴かせた。またチェロ独奏は遠藤真理で、彫りの深い演奏を聴かせた。

 次のタネーエフの交響曲第4番はめったに演奏されない曲だ。そもそもタネーエフってだれ?というのが正直なところ。澤谷夏樹氏のプログラムノーツによると、タネーエフはチャイコフスキーの弟子だ。それもたんなる弟子ではなく、「自慢の弟子」だったらしい。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番のモスクワ初演はタネーエフがピアノを弾いた(第1番のモスクワ初演もタネーエフがピアノを弾いた)。それだけではなく、チャイコフスキーがモスクワ音楽院の教授職を辞したとき、後任にタネーエフを指名した。そのタネーエフの代表作が交響曲第4番だ。

 演奏は豪快だった。オーケストラが大音量で鳴りひびき、ダイナミックに動いた。全4楽章で演奏時間は約42分(プログラム表記による)の大曲だが、演奏開始からテンションが高く、第4楽章にいたっては目をみはるばかりの力演だった。

 とりあえず演奏にはこれ以上望むべくもない気がするが、だからこそ(不遜を承知であえていえば)あまりおもしろい曲には思えなかった。演奏が終わったとき、演奏には惜しみない拍手を送ったが、曲からは心が離れた。

 だが、これは偶然だろうが、来年6月にはラザレフが日本フィルの定期演奏会でこの曲を振る予定だ。モスクワ在住のラザレフは、ロシアのウクライナ侵攻以来、来日が難しくなっているので、はたして来年6月に来日できるかどうかは不明だが、それは措くとして、もしラザレフが振ったらどうなるか、興味がわく。ラザレフが振るなら、それまでこの曲にたいする評価は保留にする。
(2022.12.12.サントリーホール)
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下野竜也/日本フィル

2022年12月10日 | 音楽
 巷ではティーレマン指揮シュターツカペレ・ベルリンの来日公演が評判になっているが、一方では下野竜也指揮日本フィルが、外国オーケストラの来日公演では組めないプログラムを組んだ。

 プログラム前半は、ジェラルド・フィンジ(1901‐1956)の「入祭唱」、マーク=アンソニー・タネジ(1960‐)の「3人の叫ぶ教皇」そしてフィンジの「武器よさらば」を(あいだを空けずに)続けて演奏するもの。

 フィンジの「入祭唱」は、元はヴァイオリン協奏曲の第2楽章であったものを独立させた曲のようだ(等松春夫氏のプログラムノーツ)。なるほど独奏ヴァイオリン(コンサートマスターの扇谷泰朋が美しい音色を聴かせた)が終始歌い、そこにオーケストラが(イングランドの田園風景を思わせるような)穏やかなバックを付ける。

 タネジの「3人の叫ぶ教皇」は一転して激しい曲だ。ジャズのイディオムも現れる。オーケストラの編成は巨大だ。そのような曲は下野竜也の得意中の得意だ。クリアーな音(音が少しも混濁しないことが特筆ものだ)とシャープなリズムで見事な演奏を展開した。日本フィルは、近現代物の場合は、下野竜也とやるときが一番良い演奏をするのではないかと思わせる演奏だ。日本フィルのイメージを更新するインパクトがあった。

 続くフィンジの「武器よさらば」はテノール独唱が入る美しい曲だ(糸賀修平が切々と訴える歌唱を聴かせた)。歌詞はラルフ・ネヴェット(1600‐1671)とジョージ・ピール(1556‐1596)の詩が使われている。詩の対訳が掲載されていた。ともに武器を捨てて平和に生きることを訴える詩だ。

 二人の詩人がどのような人なのか、わたしは知らないが、それらの詩を読むと、共通する詩句があった。ネヴェットの詩の「鉄兜は今や蜂たちの巣となり」(三ヶ尻正氏の訳。原文はThe helmet now hive for bees becomes)という詩句と、ピールの詩の(訳文では)同じ詩句(原文はHis helmet now shall make a hive for bees)だ。二つの詩句の共通性は偶然なのか。

 プログラム後半はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第6番。全4楽章からなり、第3楽章までは尖ったリズムの曲だが、第4楽章(エピローグと名付けられている)が一転して静かな曲になる。まるで時間が止まったような感覚だ。ショスタコーヴィチの交響曲第8番の第5楽章(最終楽章)を思い出したが、関連があるのかどうか。演奏は切れ味が良く、安定感にも事欠かない。これまた見事な演奏だった。
(2022.12.9.サントリーホール)
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ルイージ/N響

2022年12月05日 | 音楽
 ファビオ・ルイージ指揮N響の12月の定期Aプロは、さりげなく生まれた名演だ。曲目はワーグナーの「ヴェーゼンドンクの5つの詩」(メゾ・ソプラノ独唱は藤村実穂子)とブルックナーの交響曲第2番(初稿/1872年)。

 藤村実穂子の独唱で感銘を受けたのは、言葉と音楽が一体になっていることだ。ドイツ語のディクション、豊かな抑揚、そして囁くような小声からホールを満たす声まで、完璧にコントロールされている。その歌唱を聴いていると、歌というよりも、語りのようだ。マチルデ・ヴェーゼンドンクがそこにいて、一人語りをしているようだ。

 ルイージ指揮N響も繊細な演奏だった。細い音でけっして声を抑圧せず、歌にぴったりつけている。それはルイージがオペラ指揮者だからだろう。一朝一夕にできる技ではない。細かい点では、第3曲「温室で」(「トリスタンとイゾルデ」の第3幕との関連が指摘される曲だ)の最後の部分で木管楽器がアクセントをつける、その微妙さに息をのんだ。歌詞でいえば、「重いしずくが漂うのが見える/緑の葉の端に。」(プログラムに掲載された藤村実穂子の訳。ついでながらその訳は、自然な日本語とセンスの良さで、ひじょうに優れていると思う)のところだ。

 ブルックナーの交響曲第2番にも感銘を受けた。私はその演奏を聴きながら、2016年9月に聴いたパーヴォ・ヤルヴィ指揮N響の演奏(1877年稿/キャラガン版)をしきりに想い出した。一切のぜい肉をそぎ落とした引き締まった演奏だった。パーヴォが指揮したブルックナーの中でもとくに印象に残った演奏だ。その演奏とくらべると、ルイージ指揮のこの演奏は、もっと穏やかで、どっしりした、暖かい音色の演奏だった。中欧的な演奏といってもいいかもしれない。

 第1楽章の彫りの深い、細部までよく歌う演奏、そして第3楽章(当日の演奏は1872年稿だったので、第3楽章は緩除楽章だ)の最後の部分で、次第にテンポを落とし、ついには時間が止まってしまいそうになる演奏が、とくに印象的だった。第4楽章ではルイージらしい熱い演奏が繰り広げられた。

 去る10月に聴いたノット指揮東京交響楽団の演奏が、1877年稿/ノーヴァク版をベースにしながらも、適宜1872年稿を取り入れて、結果としてノット版を作っていたのにたいして、ルイージ指揮N響の演奏は1872年稿に忠実にしたがっていたようだ。そのためなのかどうなのか、第3楽章と第4楽章でのミサ曲第3番からの引用とか、第3楽章の最後のホルン・ソロとかが、きわめて自然な流れのように聴こえた。なお、そのホルン・ソロは見慣れない奏者が吹いていた。優秀な奏者のようだ。
(2022.12.4.NHKホール)
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土を喰らう十二ヶ月

2022年12月02日 | 映画
 「土を喰らう十二ヵ月」をみた。とてもよかった。あちこちで紹介されている映画なので、あらすじを書くまでもないだろうが、一応書いておくと、信州の古民家に初老の作家の「ツトム」が住んでいる。妻は13年前に亡くなった。ツトムの家には時々担当編集者の「真知子」が訪ねてくる。ツトムは畑や山でとれた食材で食事を用意して、真知子と食べる。自然の恵みがおいしい。ツトムは真知子に淡い恋心を抱く。

 山奥の古民家でのほとんど自給自足の生活。自然の中にいて、四季の移ろいを感じ、だれにも邪魔されずに、孤独を楽しむ。わたしをふくめて、多くの人が憧れる生活だろう。もちろん実行は難しい。手が届きそうでいて、届かない。だから憧れる。そんな生活だ。

 究極のスローライフといってもいい。その象徴かもしれないが、時折カメが登場する。畑の隅を歩いていたり、泥水の中から顔を出したりする。カメだけではない。ニホンカモシカが樹間に見えたり、シカが現れたりする。本作品は自然映画でもある。

 それと同時に、本作品は台所映画でもある。畑や山でとれた野菜・山菜を水で洗い、包丁で切り、鍋でゆでる。それらの一つひとつの動作が全編にわたって映し出される。やがて食卓が整う。一汁一菜の食卓は自然の恵みと、それを用意した人の手間暇の結晶だ。けっして粗食には見えない。

 ツトムは亡妻の遺骨を墓におさめずに、家に置いている。近所に住む義母からは、早く納骨するようにと急かせられる。でも、その気にならない。そのうちに義母も急逝する。ツトムの家には亡妻と義母との二人の遺骨が並ぶ。ツトムはある日、小さな湖に行き、二人の遺骨を散骨する。二人は自然に帰った。

 ツトムは死を想う。死は怖い。死神とは仲良くなれそうもない。だが、避けることはできない。では、どうすればいいのか。ツトムはある日、もう明日、明後日のことは考えない、今日一日が良ければそれでいい、という心境になる。平凡な心境かもしれないが、気張らずに自然体だ。

 ツトムを演じるのは沢田研二。初老の男を好演している。本作品は沢田研二の存在感あってこその映画だ。若いころのオーラが、年月の堆積のうちに、独特の味をかもし出している。ツトムが60年前に漬けた梅干をもらって食べるシーンがある。最初は顔をしかめるほどしょっぱい。だが、口にふくんでいるうちに、まろやかな味になる。本作品における沢田研二はそんな味だ。真知子を演じるのは松たか子。ツトムとは親子ほども年が違うが、ツトムを理解している――そんな女性を感性豊かに演じている。
(2022.11.20.シネスイッチ銀座)
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