Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2016年09月28日 | 音楽
 インキネン/日本フィルは2013年9月の定期でワーグナーの「ワルキューレ」第1幕を演奏した。大方の予想を上回る大成功だった。そのときジークムントを歌ったサイモン・オニールを再び招いて、今度は「ジークフリート」と「神々の黄昏」の各々抜粋を演奏するとあっては、インキネンの首席指揮者就任と相俟って期待がふくらむ。

 今回の歌手はサイモン・オニールとリーゼ・リンドストローム。「ジークフリート」と「神々の黄昏」の中からジークフリート(オニール)とブリュンヒルデ(リンドストローム)が歌う場面を中心に構成された。

 「ジークフリート」は第3幕の幕開きのオーケストラの部分から始まったが、音のまとまりを欠き、不安がよぎった。その後、ジークフリートが魔の炎を通ってブリュンヒルデを見出し、2人が愛を歌い上げる幕切れまで演奏されたが、前回演奏された「ジークフリート牧歌」と同じ音楽が、今回は少しも高揚しなかった。

 サイモン・オニールは、前回同様、輝かしいヘルデン・テノールの声を聴かせ、さすがに世界のトップクラスだと思わせた。一方、リンドストロームは、癖のあるその声に引っかかった。結局、最後までその違和感は拭えなかった。

 「神々の黄昏」は序幕のジークフリートとブリュンヒルデとの愛の2重唱から始まって「ジークフリートのラインへの旅」、そして第1幕の場面転換の音楽(間奏曲)、終幕のジークフリートの死~「ジークフリートの葬送行進曲」~ブリュンヒルデの自己犠牲(幕切れ)へと続いた。

 ジークフリートの死から幕切れまでは、本来は聴かせどころのはずだが、オーケストラに火が点かず、テンションが上がらないまま終わった。残念だ。どうしたのだろう。せっかくの首席指揮者就任披露なのに‥と思わざるをえなかった。

 インキネンはドラマ作りが、前回よりも進化しているかもしれない。スコアの把握は徹底し、表現はシャープになっている。だが、今回はオーケストラを乗せることができなかった。一方、日本フィルにも反省点が多かった。

 多くの人が歓迎したインキネン体制は、波乱含みのスタートを切った。でも、本当の意味でのスタートは、2017年1月定期のブルックナーの交響曲第8番だろう。今回の日本フィルは、自分の土俵で相撲をとれなかった感が強いが、1月定期ではその言い分は通用しない。
(2016.9.27.サントリーホール)
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ロジェストヴェンスキー/読響

2016年09月27日 | 音楽
 ロジェストヴェンスキーは今年85歳だそうだが、その演奏は衰えていない。指揮棒の先であたりを払うような動きに変化はなく、昔ながらの切れ味鋭い演奏だ。

 1曲目はショスタコーヴィチのバレエ組曲「黄金時代」。作曲者若き日の作品だ。バレエ音楽といっても、チャイコフスキーやグラズノフ、あるいはプロコフィエフなどとはまったく異なる音楽。シニカルで乾いた、薄い響きがする。バレエとして上演した場合、どんな振付になるのか、想像もできなかった。

 2曲目はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番。これも怖いもの知らずの若き日の作品。ピアノ独奏は(いうまでもなく)ポストニコワ。運動神経がまったく感じられない演奏だが、第2楽章のテーマが、甘く暖かく、ノスタルジックに弾かれたことが収穫だ。まるでショパンのようだった。

 今更こんなことをいっても始まらないが、ロジェストヴェンスキーとポストニコワとは抱合せ販売のようなものなので、ピアノがどうだ、こうだといっても仕方がない気がする。2人はリハーサルなどほとんどしないで演奏するのだろうなと思いながら聴いた。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第10番。ロジェストヴェンスキー特有のじっくり構えたテンポで曲のすべてを克明に描く演奏。テンポが(加齢によって)遅くなった感じはしなかったが、実際はどうだったのだろう。たとえ少し遅くなっていたとしても、テンポよりも、演奏の克明さのほうを感じた。

 第1楽章の複雑な構成は、道に迷わず、冴えわたった視野のもとで演奏され、第2楽章のスケルツォは、グロテスクというよりも、ストレートな表現で演奏された。第3楽章の(当時ショスタコーヴィチが想いを寄せていた)エリミーラのテーマは、印象深く演奏され(首席ホルンの松坂さんの好演)、第4楽章は、熱狂に身を任せずに、整然とした音楽の形を保っていた。

 正直にいうと、わたしはこれで溜飲を下げた。先日の某人気指揮者の第8番を聴いたときの不満が、これで解消した。というのも、今回はショスタコーヴィチの様式に触れたと感じられるからだ。先日はオーケストラの鳴らし方の面白さしかなかった。

 読響の演奏も鮮やかだった。パワーが炸裂したが、一本調子にはならずに、弱音への配慮も怠りなく、そのコントラストが効いていた。音色の変化も適切だった。読響の実力が発揮された演奏だ。
(2016.9.26.サントリーホール)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2016年09月26日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のAプロ定期。モーツァルトのピアノ協奏曲第27番(ピアノ独奏はラルス・フォークト)とブルックナーの交響曲第2番(1877年稿キャラガン版)というプログラム。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、弦の編成が14型だった。ただ、14型とはいっても、朗々と鳴らすわけではなく、むしろ羽毛で撫でるような軽い弾き方。14型にしたのは、そういう軽い弾き方でも音が痩せないための配慮だったように思う。

 第1楽章冒頭の弦による第1テーマが、羽が宙に舞うような曲線を描いて、レガートで演奏された。恰幅のよい演奏ではなく、また枯れた演奏でも、ピリオド奏法の尖った演奏でもない、パーヴォの一つの試みといった感じの演奏。

 オーケストラは終始そのペースで進めたが、フォークトのピアノは、あえて音楽の流れに従うのを拒むかのように、細かく止めながら、頻出する陰影を克明に描いていた。パーヴォもフォークトも、ニュアンスの異なるお互いのスタイルを承知しあって、その絡み合いを企図したような演奏。

 第2楽章の中間部をへてテーマが回帰する部分が、ピアノとフルート1本と第1ヴァイオリンのソロ(コンサートマスター)の3人で演奏された。ハッとした。ここはこうだったろうかと、帰宅後調べてみたら、国際モーツァルテウム財団の譜面には、第1ヴァイオリンのパートには、ソロの表示はないが、数小節後にトゥティの表示があるので、やはりソロだったようだ。

 ブルックナーの交響曲第2番はわたしの大好きな曲だ。今回もこの曲には後のブルックナーのすべてがあるという感慨に浸ることができた。

 それにしてもこれは名演だった。パーヴォがN響を完全に掌握し、パーヴォの意図が隅々まで浸透して、完璧に焦点の合った演奏だ。パーヴォが欧米の一流オーケストラを差置いてN響を選んだ理由が分かる気がした。

 とくに第2楽章が胸に沁みた。喩えていうなら、夕暮れの丘陵が目に浮かぶような演奏だ。そこに佇むブルックナーの孤独な心象風景が感じられた。首席ホルンの福川さんのソロがさすがの安定感だった。結尾の手前に出てくる第1フルートと第1ヴァイオリンのソロの部分は、上記のモーツァルトの第2楽章の3人のソロと呼応しているようだ。パーヴォのことなので、そこまで計算しているのではないだろうか。
(2016.9.25.NHKホール)
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館山への旅

2016年09月23日 | 身辺雑記
 飛び石連休の谷間の9月23日に休みが取れそうだったので、22日から一泊で房総半島の突端の館山に行ってきた。家を出るときは雨。行き当たりばったり電車を乗り継いで館山に向かったが、車窓風景もずっと雨。それでも、宿に着いたら曇りになったので、周辺を一時間ほど歩くことができた。

 宿は海に面していた。窓を開けると波の音がする。海は荒れ模様だったので、波の音も激しかった。露天風呂に入ると、目の前に海が見え、波の音が聞こえた。温泉につかってぼんやりしていたら、海の上をトンビが飛んで行った。優雅な飛び方だった。

 館山に来るのは2度目だった。前回は快晴だった。夕方、浜辺に出たら、夕日が沈むところだった。目の前に富士山がシルエットになって聳え立ち、オレンジ色の夕日がゆっくり沈んでいった。忘れられない光景だ。

 今回は天気が悪かったので、夕日は望むべくもなかった。富士山は見えないし、三浦半島や伊豆半島、大島も見えなかった。見えるのは暗い灰色の雲ばかり。でも、これはこれでよかった。これも自然の風景だった。

 夕食のときにビールを飲んで、次は地酒でも飲むかとメニューを見たら、落花生焼酎というものがあった。これは珍しいと、オンザロックで飲んでみた。ほんのりと甘い落花生の香りがした。地魚の刺身を肴に落花生焼酎を飲んでいると、いつの間にか酔いが回ってきて、部屋に戻ったらバタンキューだった。

 翌日は青木繁が「海の幸」を描いた家に行ってみようと思っていた。前回来たときも行ったが、そのときは外から見るだけだった。その後、地元の有志の方々や、全国の画家の方々の運動が実って、その家の保存が決まり、今年から『青木繁「海の幸」記念館(小谷家住居)』として公開されているという新聞記事を見かけたからだ。

 だが、残念なことに、同館は土・日のみの公開であることを、宿でもらったパンフレットで知った。いずれまた来ることもあるだろうと、今回は寄らずに帰ることにした。

 最近は東京~館山の行き帰りはバスが主体のようだ。宿の前のバス停で待っていたら、東京行きのバスが来た。それに乗って座っていれば東京駅まで連れて行ってくれるが、バスでは味気ない気がしたので、館山駅で降り、電車で帰ってきた。

 地酒のワンカップを飲みながら、車窓を流れる海の景色を眺めていたら、旅情に浸ることができた。よい旅になった。

(※)青木繁の「海の幸」(Wikipedia)
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インバル/都響

2016年09月21日 | 音楽
 インバル/都響は今やキャリアの絶頂にあるようだ。昨日の定期Bプロも、ツィッターの投稿を見ると、絶賛、絶賛、絶賛の嵐だ。わたしはじつは少々疲れたのだが、正直な感想を書くのはためらわれる雰囲気がある。

 1曲目はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番。ヴァイオリン独奏はオーギュスタン・デュメイ。デュメイを聴くのは何年ぶりだろう。相変わらず(というか、むしろ演奏が始まってから思い出したのだが)艶のある音で、その演奏は伸び伸びとして、陰影にも欠けていない。

 オーケストラは、第1楽章の出だしが、これまた艶のある明るい音で始まり、リズムには弾みがあり、好調さを感じさせた。独奏ヴァイオリンともよくかみ合い、暖かみのある演奏になった。

 今さらこんなことに気付くのもなんだが、この曲の第2楽章は、弱音器を付けた弦の繊細なテクスチュアと、その上に乗る独奏楽器の息の長いメロディーという点で、ピアノ協奏曲第21番の第2楽章の先行作品だ。作曲年代は、ヴァイオリン協奏曲第3番が1775年、ピアノ協奏曲第21番が1785年なので、両楽章は10年の隔たりがある姉妹のようだ。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第8番。第1楽章冒頭の暗くうごめく低弦の音からすでに、この演奏がどんなに気合の入ったものであるか、そしてどんな演奏になるかを予感させた。その後の演奏は(予感どおりの)壮絶極まりないものになった。

 音楽の局面、局面が、抉られ、渦を巻き、叩きつけられる。凄まじい演奏だ。目まぐるしく展開し、息つく暇もない。インバル/都響のコンビとしても渾身の演奏だったと思う。ステージの上には多数のマイクが下がっていたので、いずれ録音が出るのかもしれない。録音で聴いたら面白いだろうなと思った。

 でも、正直にいうと、いつまでたってもショスタコーヴィチには辿りつかないような、一種のもどかしさを感じた。オーケストラのドライヴ感は凄いが、これなら別にショスタコーヴィチでなくても(別の作曲家でも)よいのではないかと思った。

 インバルは昔から大編成のオーケストラを鳴らすのがうまかった。本人も十分に自覚して、レパートリーをそのような方向に特化してきた。でも、そういうアプローチで割り切ってしまう面があり、そこからこぼれ落ちるものには無頓着な(意外な)単純さもあったかもしれないと思った。
(2016.9.20.サントリーホール)
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ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち展

2016年09月17日 | 美術
 日伊国交樹立150周年でイタリア美術の展覧会が続いているが、これもその一つ。ヴェネツィアのアカデミア美術館の所蔵品による「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展。

 ルネサンスというと、フィレンツェの画家たちを中心に語られることが多いが、ヴェネツィアでも独自のルネサンス美術が開花した。そこに焦点を当てた展覧会。

 初期ヴェネツィア・ルネサンスで活躍した画家がジョヴァンニ・ベッリーニだ。わたしが大好きな画家の一人。甘美な聖母子像で知られる。本展に来ている作品も聖母子像で「聖母子(赤い智天使の聖母)」。板絵であることが嬉しい。

 聖母マリアの上品な美しさはいかにもベッリーニ的。一方、幼子イエスは金髪の縮れ毛で、当時のヴェネツィアにいくらでもいそうな子ども(現代でもいくらでもいる子ども)のように描かれている点が面白い。しかも白いシャツを着ている。一般的に幼子イエスは裸身で描かれることが多いのではないだろうか。ともかく、庶民的というと語弊があるが、どこにでもいそうな男の子だ。

 背景の山河が、丁寧に、美しく描かれている。地平線のあたりが白くなっていて、上空に行けば行くほど深い青色になるので、時間的には夜明けではないだろうか。夜明けの冷気が画面に流れているような感じがする。智天使(ケルビム)が赤く描かれていることは不自然ではなく、むしろ画面全体に調和している。

 盛期ヴェネツィア・ルネサンスはティツィアーノの時代。「聖母子(アルベルティーニの聖母)」は、聖母のヴェールとスカートが褪色しているのだろうか、茶褐色なのが目を引くが(おそらく元は青色だったのではないか)、それでも聖母の気品は上質だ。

 キャプションで知ったのだが、幼子イエスの右腕がだらりと垂れているのは‘死’を暗示するそうだ。聖母の表情が悲しげなのはそのためという。そんな緊張感をはらんだ作品だが、受難を予感する聖母子が交わす視線に胸を打たれた。

 同じくティツィアーノの「受胎告知」はヴェネツィアのサン・サルヴァドール聖堂から運んだもの。縦410×横240㎝の大画面だが、大画面とは感じさせないほどの力強い統一感がある。ティツィアーノの底知れぬ力量に圧倒される。

 他にベッリーニの世代ではクリヴェッリ、ティツィアーノの後の世代ではティントレット、ヴェロネーゼなどが来ている。
(2016.9.15.国立新美術館)

(※)上記の各作品の画像(本展のHP)
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浅田次郎の「帰郷」

2016年09月15日 | 身辺雑記
 浅田次郎の短編小説集「帰郷」(集英社刊)を読んだ。太平洋戦争の戦中、そして戦後の話が6篇。1日に2~3篇は読めそうだったが、1日1篇のペースを守って、大事に読んだ。

 6篇いずれも、太平洋戦争で死んでいった、あるいは生き残ったけれども、心に深い傷を負った、名もない庶民の話。それらの人々へのレクイエムのような作品だ。わたしは最後の作品を読んだ後、涙が出た。それは最後の作品に限らず、6篇すべてにたいする想いだった。

 6篇を俯瞰的に見ると、3つの世代が登場する。1つ目の世代は、太平洋戦争に突入した時、すでに大人だった人たち。この人たちは、戦争というものがどんなものか、分かっていた(が、口に出せなかった)。2つ目の世代は、開戦時にはまだ若くて、戦争を信じきっていた人たち。そして3つ目の世代は、戦後に生まれて、戦争というものを知らない人たち。

 各作品は、3つの世代の内、ある世代を描いたり、世代間の交流を描いたりするが、どの作品をとっても、作中の人物たちには温かい気持ちが通じあっている。どの作品にもほのぼのとした味がある。殺伐とした作品は1つもない。

 浅田次郎は1951年生まれ。わたしと同い年だ。先ほどの3つの世代でいうと、3つ目の世代に属する。戦争は知らない。けれども、戦後の風景はかろうじて知っている。そんな世代だ。だからだろうか、傷痍軍人とか夜の遊園地とかの描写が懐かしかった。

 わたしの場合は、東京の多摩川の河口の、町工場がひしめく地域に生まれた。繁華街というと蒲田だった。親に連れられて蒲田に行くとウキウキした。今でもあるが、東口と西口をつなぐ地下通路があった。小便の臭いがしたかもしれない。そこに傷痍軍人がいた。わたしは下を向いて通り過ぎたような気がする。

 そのときはもう高度成長の時代に入っていた。やがて傷痍軍人も姿を消した。わたしは戦争(あるいは戦後)を意識することなく育った。

 戦争(戦後)を意識するようになったのは、比較的最近のことだ。自分はどこから来たのか。どんな時代を生きてきたのか。そんな自分探しをするようになったとき、戦争の影が重なってきた。

 浅田次郎のこの短編小説集には、わたしが生きてきた時代と、わたしが生まれる前の時代とが描かれていた。わたしが今一番知りたいことだった。
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「ファウストの劫罰」と「エリア」

2016年09月11日 | 音楽
 「ファウストの劫罰」と「エリア」を梯子した。声楽付きの大曲2曲。疲れそうだなと思ったが、意外にそうでもなかった。

 まず初台の東京オペラシティで、高関健/東京シティ・フィルのベルリオーズの「ファウストの劫罰」。同フィルの第300回記念定期。今月のスダーン/東響も同じプログラムを組んでいる。高関健のプレトークによると「競演のようになってしまいましたが、偶然です」とのこと。

 オーケストラがよく準備された演奏をしていた。高関健の指導力の賜物だと思う。第2部のアウエルバッハの酒場の場面ではもっと弾けてほしかったし、その後の精霊たちの場面では音楽がもたれてしまったと思うが、そういったことよりも、各場面の性格を明確にし、それに相応しいオーケストラの音を整えた高関健の努力を多としたい。

 独唱陣ではファウストの西村悟の伸びのある滑らかな声がよかった。フランス語の発音もきれい。ヴェローナ在住とのこと。新国立劇場の「夜叉ケ池」に出演したそうだが、わたしが観た日とは別の日だったようだ。メフィストフェレスの福島明也は手馴れたもの。マルグリットの林美智子にはもう少し感情移入がほしかった。

 合唱の東京シティ・フィル・コーアも頑張っていた。各パートの人数のバランスがよいのは、事前に選抜しているからだろうか。アマチュアだからという甘えが感じられなかったことは嬉しい。

 個人的な発見だが、第4部でファウストがメフィストフェレスとの契約書にサインする場面では、オーケストラが沈黙する中、タムタムとバスドラムが最弱音で「ドン」と叩くことに気付いた。その音の衝撃に震えた。嬉しい発見だった。

 終演後、横浜みなとみらいホールへ。大井剛史/日本フィルでメンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」。日本フィル創立60周年記念プロ。

 エリアの甲斐栄次郎とオバディヤの望月哲也のコンビは、日本勢としては(現時点で)最強のコンビだと思う。期待どおりの出来だった。ソプラノは半田美和子。いつもながら、芯の強い、意思のはっきりした歌を聴かせてくれた(わたしは以前から注目している)。アルトは手嶋眞佐子。出だしは不安定に感じたが、途中から持ち直した。

 大井剛史は真面目な音楽づくり。大人数の日本フィルハーモニー協会合唱団を率いてこの大曲をまとめ上げた功績は大きいと思う。
(2016.9.10.東京オペラシティ&横浜みなとみらい)
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「一千人の交響曲」をめぐって

2016年09月10日 | 音楽
 マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」のパーヴォ・ヤルヴィ/N響の見事な演奏を聴いて、あれこれ考えたので、以下、とりとめもなく。

 この作品の第2部はゲーテの「ファウスト」の終幕の場をテクストにしているが、ゲーテの「ファウスト」に心酔していたマーラーが、それを音楽化しようと思ったとき、終幕の場をテクストに選んだことは、考えてみれば、一つの決断だったと思う。

 終幕の場はたしかに「ファウスト」の最終結論かもしれないが、「ファウスト」の中では、ファウストもメフィストフェレスも登場しない特異な場でもある。ファウストの死後、ファウストの魂が天上に昇っていく場。難解だといわれているが、その哲学的・宗教的な解釈はともかく、芝居として考えると(戯曲としてでもよいが)、取ってつけたような感じもする。

 それをテクストに使うということは、当然ながら(演奏者も聴衆も)「ファウスト」の物語が頭に入っていることを前提としているが、それでもやはり、結論部分だけを取り出すことには、創作上のリスクがあったのではないだろうか。

 マーラーがあえてそれやったからには、それなりの勝算があったはずだ。それは女声の表現力にたいする信頼だったのではないかと感じた。聖母マリアとグレートヒェン、その前に登場するマグダラのマリア、サマリアの女とエジプトのマリア、これらの女性キャラクターを女声で歌うことによって、「永遠に女性的なるもの」が表現できると‥。

 芝居でも(女優が演じるので)表現できるとは思うが、「ファウスト」第2部では終幕の場はあまりにも短いし、そもそも(第1部とちがって)第2部は上演可能な戯曲なのかどうか疑問だ(第2部が上演される機会は稀だろう)。

 マーラーは作曲に当たり、第1部のテクストに賛歌「来たれ、創造主である聖霊よ」を使い、それに応えるものとして、第2部のテクストにゲーテの「ファウスト」の終幕の場を使ったと説明される。それは事実だろうが、わたしの想像では、マーラーの心の中にはいつも「ファウスト」があり、「来たれ、創造主である聖霊よ」を作曲したことにより、ついに「ファウスト」に付曲する契機をつかんだのではないかと思う。

 ワーグナーも「ファウスト」に基づく交響曲を書こうとしたが、完成しなかった。でも、「ファウスト」(とくに第2部)からの影響は「ニーベルンクの指輪」の台本の細部に痕跡をとどめていると思う。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2016年09月09日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」。これは前から楽しみにしていた演奏会だ。マーラーの交響曲の中では、よく分からないところがあるこの曲の、何かがつかめるかもしれないという期待があった。

 今まで聴いた演奏の中には、考えてみると、第1部「賛歌『来たれ、創造主である聖霊よ』」では感動的な演奏もあった気がする。問題は第2部「『ファウスト』終幕の場」だ。そこに来て急に方向感を見失う演奏があった。ウロウロと迷走して、最後に盛り上がって終わるという演奏。ゲーテの原作の表面をなでるだけの演奏。

 今回はさすがにパーヴォ/N響だと思ったが、第2部でのドラマの道筋がつねに明瞭に辿られていた。テンポや強弱、音色の変化、どれをとってもドラマの進行が意識されていた。

 とくに感心した箇所は、終盤になって聖母マリアが顕現した直後の、オーケストラの柔らかい音色だった。聖母マリアの恵みが遍在しているような幸福感が漂った。ミサ曲におけるベネディクトゥス~アニュス・デイの音楽や、イエスの生誕の音楽などに通じるものが、この箇所にはあると思った。

 それが分かると、その直前のグレートヒェンの出現も(ファウストの魂の救済という)ドラマの中にしっくり収まり、さらにまた最後の神秘の合唱の「永遠に女性的なるものが/私たちを引き上げる!」につながる一貫した流れが実感できた。

 同時に、マーラーがこの曲を書いたときの気持ちも分かる気がした。マーラーにとっての「永遠に女性的なるもの」は妻アルマに他ならないが、その溢れる想いを(ゲーテの原作に寄せて)忍び込ませた。そして本作をアルマに捧げた。今になってみると、なんたる誤解という気もするが、マーラーにはミューズが必要だった‥と。

 合唱は新国立劇場合唱団と栗友会合唱団。第1部の冒頭では発声に硬さを感じたが、徐々にこなれてきて、第2部ではよく揃ったハーモニーを聴かせた。児童合唱はNHK東京児童合唱団。人数も多くて存在感があった。

 独唱者の中ではアルトのアンネリー・ペーボAnnely Peeboという未知の歌手に注目した(この人は第2部ではエジプトのマリアを歌った)。豊かな声の持ち主だ。テノールのミヒャエル・シャーデは名歌手だと思うが、当夜は調子が悪かったのかもしれない。声に伸びがなく、無理をしているようだった。
(2016.9.8.NHKホール)
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トマ・チャバのギターリサイタル

2016年09月05日 | 音楽
 近頃、わたしの住んでいる街に、いくつかのサロン・コンサート用の会場ができた。いつかは行ってみたいと思っていたが、そのうちの一つの会場でギターの演奏会があったので、この機会に行ってみた。会場は50人も入れば一杯になるようなサロンで、居心地がよかった。

 演奏者はトマ・チャバThomas Csaba。1992年生まれのフランス人。2014年の東京ギターコンクールで優勝した。プログラムが本格的だ。いかにも若者らしい意欲にあふれたプログラム。

 1曲目はカステルヌオーヴォ=テデスコ(1895‐1968)の「24のゴヤのカプリチョ」より「画家」と「類は友を呼ぶ」。カステルヌオーヴォ=テデスコはイタリア生まれだが、ギター曲を多数書いているのはなぜだろうと、(よい機会だから)調べてみたら、ギターの巨匠アンドレス・セゴビア(1893‐1987)と親交があったらしい。本作もその縁で書かれたものか‥。スペイン的な情緒が漂う曲。それにしても人間の愚かさを風刺したゴヤの銅版画に基づく曲があるとは驚きだ。

 2曲目はミゲル・リョベート(1878‐1938)のカタロニア民謡の編曲「盗賊の歌」、「アメリアの遺言」そして「聖母の御子」。リョベートという人は知らなかったが、セゴビアの師匠だそうだ。3曲ともスペイン情緒満点の曲。

 3曲目はカステルヌオーヴォ=テデスコのギター・ソナタ「ボッケリーニ賛歌」。堂々とした大作。チャバのトークによると、カステルヌオーヴォ=テデスコはギターが弾けなかったので、技術上の問題については、セゴビアに相談していた。本作も一般に流布している譜面にはセゴビアの手が入っているが、最近オリジナルの草稿が発見されたので、(部分的には演奏不能だが)できる限りオリジナルで演奏してみるとのこと。どこがどう違うかは、わたしには判別できないが、その意欲を買いたい。

 4曲目はベンジャミン・ブリテン(1913‐1976)の「ノクターナル」。ダウランドの「来たれ、深き眠りよ」に基づく自由な変奏。最後にダウランドのテーマが現れる。いかにもブリテンらしい渋い曲。なお、演奏に合わせて、チャバが制作した映像が映写された。

 5曲目はジャック・エトゥ(1938‐2010)の「組曲」。この人も知らなかったが、カナダのフランス語圏の人。ギターを鳴らすのがうまいと思った。

 終演後、歩いて家まで5分。
(2016.9.3.プリモ芸術工房)
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山田和樹/日本フィル

2016年09月03日 | 音楽
 山田和樹はプレトークの中で「今年没後20年の武満徹は、私がやらなくても、いろんな方がやるけれど、同じ没後20年(そして生誕100年)の柴田南雄は、今年やらないと、今後やられなくなるのではないか、という危惧がある」という趣旨のことを話していた。来る11月7日の「ゆく河の流れは絶えずして」の演奏会(日本フィルと東京混声合唱団)をメインに据えて、意識的に柴田南雄の演奏を続けているようだ。

 1曲目は柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」(1973)。以前、いつ、どこで聴いたか、記憶がはっきりしないし、実演だったか、放送だったかも、はっきりしないが、どこかで聴いたことがあることは確かな曲だ。

 本当に久しぶりに聴いて、音楽が意外に古びていないと思った。確かに本人が語っているように(青澤唯夫氏のプログラム・ノートに引用)、点描、ト―ンクラスター、楽器を叩く、不確定性、その他の前衛手法の展示のような曲だが、そういった曲にありがちな「今聴くと古びた感じがする」ということが、この曲には不思議となかった。

 なぜだろう。柴田南雄がそれらの手法を扱う手つきが、客観的かつ職人的なので、そこに一定の距離感があるからだろうか。その距離感が、今になってみると、プラスに作用しているのかもしれない。

 もう一つは、山田和樹と日本フィルの演奏がよかったからでもあると思う。安定感があり、音が鮮明な演奏が、この曲を蘇らせたと思う。

 2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。独唱はメゾソプラノの清水華澄。第1曲の「春」と第2曲の「9月」には硬さがあった。第3曲の「床につくまえに」の出だしでは、やっとほぐれてきたかと思ったが、終盤で声を張り上げる箇所では、もう少し余裕がほしかった。第4曲「夕映えに包まれて」は淡々としていた。

 オーケストラはニュアンスに富んだ演奏を続けた。シュトラウスは山田和樹の資質に合っているのかもしれない。2014年9月の「ドン・キホーテ」も好演だった(蛇足ながら、その日のシェーンベルクの「浄められた夜」は名演だった)。

 3曲目はエルガーの交響曲第1番。山田和樹とエルガーの組み合わせは意外な感じがしたが、オーケストラをバランスよく鳴らす素材として、エルガーは好適なのかもしれないと思った。山田和樹のバランス感覚と安定した造形性が発揮された演奏だった。
(2016.9.2.サントリーホール)
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行く夏に‥

2016年09月02日 | 身辺雑記
 今年の夏も終わろうとしている。誰しも今年の夏はどうだったろうと、漠然と考える頃だと思う。わたしの場合はどうだったろう‥。

 直近の出来事としては、サントリーのサマーフェスティヴァル2016があった。わたしが嬉しかったことは、「ザ・プロデューサー・シリーズ」に佐藤紀雄/アンサンブル・ノマドと板倉康明/東京シンフォニエッタが取り上げられたことだ。両者とも長年にわたり地道に現代の音楽を演奏してきた団体。そこにスポットライトが当たったことは、本当によかったと思う。

 わたしは佐藤紀雄/アンサンブル・ノマドのほうを聴いたが、さすがに名手揃いだけあって、その演奏は見事だった。第2夜では演奏会終了後、鳴り止まない拍手に応えて、佐藤紀雄がソロ・カーテンコールに現れた。佐藤紀雄が長年続けてきた努力への心温まる拍手だった。

 私事になるが、わたしは佐藤紀雄と同い年だ。なので、なおさら、その人生の歩みが感じられるような気がして、嬉しかった。

 また7月の終わりには、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」や「ユリシーズ」の翻訳などで知られる柳瀬尚紀(以下「柳瀬先生」と呼ばせてもらう)が亡くなった。わたしは大学時代に柳瀬先生のゼミを取った。先生は学部の先輩だった。学生の間では「ものすごく優秀だったらしい」と噂されていた。ゼミではサミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を読んだ。学生に訳させて感想をいわせる講義だった。

 学年末にレポートの提出があった。わたしは(どんな事情があったのか)期日に間に合わなくなった。切羽詰って先生のご自宅に電話をした。「今晩書きますから、明日まで待ってもらえないでしょうか」とお尋ねしたら、「では、学部の事務室には出さずに、僕の家の郵便受けに入れておくように。僕は夜、仕事をしているので、朝は寝ているから、呼び鈴は押さないように」とのことだった。

 後日談になるが、そのレポートにはAの評価をいただいた。先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

 閑話休題。今夏、山は北八ヶ岳に登った。小雨が降る中、双子池ヒュッテの近くまで来ると、周囲の木という木に、白い糸のような植物が垂れ下がっているのを見た。濃霧の中に突如浮き上がった幻想的な森の光景。まるで童話の世界にいるようだった。ヒュッテの人に聞いたら、ナガサルオガセ(※)という植物だと教えてもらった。

(※)ナガサルオガセ
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