Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2017年06月26日 | 音楽
 読響を振ったシモーネ・ヤングの印象が強く残るその翌日に、タイプがまったく異なるパーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響を聴くことは、贅沢といえば贅沢なことだ。

 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のプログラムはオール・フランス音楽。その中でも後半のラヴェルの2曲、「優雅で感傷的なワルツ」と「ダフニスとクロエ」組曲第2番が興味深かった。

 パーヴォのフランス音楽へのアプローチは、とくに「優雅で感傷的なワルツ」によく現れていたが、パーヴォがドイツ音楽で取っているものとは対照的だった。ドイツ音楽ではアクセントを強く付けるが、フランス音楽ではアクセントを極力弱めて、角が取れた音を出していた。テンポはドイツ音楽では比較的速く、きびきびと進めるが、フランス音楽では遅めで、音のソノリティをじっくり聴く傾向があった。全体としては、ドイツ音楽が引き締まった筋肉質の造形を聴かせるのに対して、フランス音楽では薄く透明な柔らかい音の世界を聴かせた。

 パーヴォはフランス音楽へのN響の適性を試していたのかもしれない。もしそうなら、手応えは十分あったのではないか。その手応えを基に、なにしろ引き出しの多いパーヴォのことだから、今後は別のアプローチを試みる可能性もある。

 プログラム前半には、デュティユーの「メタボール」とサン・サーンスのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏は河村尚子)が演奏された。「メタボール」は、先ほどのアプローチの違いの文脈でいうと、むしろ引き締まった筋肉質の造形を聴かせた。同曲はフランス音楽の伝統に根ざしてはいるが、ラヴェル流のフランス音楽とは一線を画しているからだろう。

 サン・サーンスのピアノ協奏曲第2番では、河村尚子のピアノ独奏が見事だった。音の粒立ちがよく、フレーズが明瞭で、かつ精神的な安定感があった。アンコールにプーランクの「バッハの名による即興ワルツ」が演奏された。

 さて、パーヴォとシモーネ・ヤングとの比較だが、上述のようなパーヴォと、読響の鳴りっぷりのよさを最大限に引き出したシモーネ・ヤングとは、真逆のように見える。オーケストラの多様な可能性を引き出そうとするパーヴォと、自分流を貫くヤング。そんな二人はわずか1歳違いの同世代だ。

 シモーネ・ヤングには性差を超えたような個性が見られるが、その個性が日本でも受け入れられ、パーヴォと同様、思う存分演奏活動を展開できるよう願う。
(2017.6.25.NHKホール)
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下野竜也/東京シティ・フィル&シモーネ・ヤング/読響

2017年06月25日 | 音楽
 土曜日は東京シティ・フィルの定期と読響の定期をハシゴした。どちらにも大変な名演があった。

 まず東京シティ・フィルの定期へ。下野竜也の指揮でフンパーディングのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」の前奏曲、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」(ヘンツェ編曲の室内オーケストラ版、メゾ・ソプラノ独唱は池田香織)、ドヴォルザークの交響曲第6番。

 なかでもドヴォルザークの交響曲第6番が名演だった。第1楽章の冒頭から、軽やかで艶のある弦の音が流れてきて、その流れにオーケストラ全体が合流した。リズムには快い弾みがあり、明るく伸びやかな叙情が漂った。テンポの変化もよくきまった。第1楽章のコーダでは息詰まるような高揚感があった。

 第2楽章以下もその流れに変わりはなかった。わたしはとくに第3楽章に目をみはった。チェコの民族舞曲フリアントの様式による楽章だが、そこにほとばしる魂の叫び、別の言い方をするなら、抑えようもない感情の爆発に、胸が熱くなった。

 下野竜也はほんとうによくこの曲を知っているようだ。持ち前のメリハリのある曲の把握と、歯切れのよいフレージングに加えて、緻密なアンサンブルと瑞々しい音色をオーケストラから引き出し、全体を通して快い緊張感が持続した。

 次に読響の定期へ。シモーネ・ヤングの指揮でプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏はアブドゥライモフというウズベキスタンの若手ピアニスト)とリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」。シモーネ・ヤングはすでにいくつかの在京オーケストラを振っているが、読響へは初登場。

 「アルプス交響曲」が名演だった。久しぶりに読響がよく鳴る演奏だった。読響はカンブルラン体制になってから、一気に語彙を豊富にしていると思うが(わたしはカンブルランを全面的に支持する一人だが)、読響にはもともと豪放磊落に鳴る側面があり、そこにシモーネ・ヤングが触れたようだ。

 よく鳴るとはいっても、けっして粗くはならない。いわゆる‘爆演’ではない。オーケストラは常にシモーネ・ヤングのコントロールの下にある。その上で、チェロとコントラバスの激しい動きを強調するなど、演奏上のダイナミズムを生む仕掛けが施されていた。

 最後の、消え入るように終わる暗い音色には、‘死’を想わせるものがあった。
(2017.6.24.東京オペラシティ&東京芸術劇場)
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君が人生の時

2017年06月22日 | 演劇
 ウィリアム・サローヤン(1908‐1981)の芝居「君が人生の時」を観た。最近は夜遅くなるのが‘しんどくなった’ので、半休を取ってマチネー公演に行った。そうしたら、驚いたことには、観客の大半(割合としては95パーセントくらいか)は女性客だった。しかも場内はほとんど満席。そのため4箇所ある1階のトイレの内、3箇所は女性用に開放されていたが、それでも長蛇の列。一方、男性用はガラガラ。

 なぜそんなに女性客が入るのか。わたしには見当もつかない。人気俳優が出ているのかもしれない。ともかく興行的には(少なくともこの公演を見る限りでは)大成功だろうと推測した。

 時は1939年。この芝居が初演された「今」の話だ。場所はサンフランシスコの場末のバー。そこに多くの人々がたむろする。みんなそれぞれの人生を抱えている。それらの人々がこのバーでひと時を過ごす。これは一種の群像劇だ。

 1939年といえば、ヨーロッパ大陸では第二次世界大戦が勃発していた。劇中でも「タイム」だったかの雑誌を読んで、ナチス・ドイツのチェコスロヴァキアへの侵攻が話題に上る場面がある。もっとも、世界情勢への直接的な言及はそれくらい。あとはサンフランシスコの場末で生きる人々の喜怒哀楽が綴られる。

 だが、初演当時この芝居を観た人々には、劇場の外の緊迫した情勢はひしひしと感じられていただろう。それを感じつつ、やがて自分たちが巻き込まれるだろう事態の予感で緊張しながら、一時の小春日和のような気持ちでこの芝居を観ていたのではないか。それは明日にも失われるだろう平和への愛惜であったかもしれない。

 だが現代の、それも日本で上演するとき、この芝居はどういう意味を持つだろう。日本だって、明日はどうなるか、分かったものではない。でも、まだ、少なくとも表面的には‘平和’といえる状態だろう。そのためなのか(演出もその一因か)、芝居の世界と外の世界との緊張関係は生まれなかった。

 のんびりした雰囲気が漂う場内にいて、これは一種のエンタテイメントと考えればよいのかもしれないと、わたしは思った。登場人物が類型的に感じられたが、それは原作のせいなのか、あるいは演出のせいかは、よく分からなかった。

 なお、かみむら周平のピアノとRON×Ⅱ(ろんろん)のタップダンスが楽しかった。
(2017.6.20.新国立劇場中劇場)
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ラザレフ/日本フィル

2017年06月19日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィルの東京定期のプログラムは、グラズノフとプロコフィエフの作品で組まれたが、その選曲は一捻りされていた。

 1曲目はグラズノフのバレエ音楽「お嬢様女中」。そんな曲があったの?という感じ。グラズノフは名作バレエ「ライモンダ」を書いた後に、「四季」と本作とを書いた。「ライモンダ」は今でも各劇場の基本的なレパートリーとなっているし、また「四季」もオーケストラの演奏会で取り上げられる機会があるが、「お嬢様女中」はというと‥。

 でも、聴いてみると、楽しい曲だ。フランスのロココ時代の画家アントワーヌ・ヴァトー(1684‐1721)の雅な画風をイメージした曲で、とくに盛り上がる場面はなく、他愛のない音楽が続くが、それを飽きさせずに聴かせるところは、ラザレフの力量だろうと思った。ともかく、グラズノフは凡百のバレエの作曲家とは格が違う、と感じられたことが収穫だ。

 「お嬢様女中」という題名だが、原題はフランス語でLes ruses d’amourとなっているので、直訳すると‘恋の計略’といったところだろう。それを「お嬢様女中」としたのはストーリーから来る意訳か。それとも何か根拠があるのだろうか。

 2曲目はプロコフィエフのピアノ協奏曲第1番。ピアノ独奏は若林顕。プロコフィエフがまだペテルブルク音楽院の学生だった頃の作品。プロコフィエフはピアノ科の卒業試験で自作のこの曲を弾いたというから、驚くやら、呆れるやら。しかもその2年前には演奏会でピアニストとしてこの曲を弾いたそうだ。

 そういう代物だが、たしかにこの曲は野心的で、しかもその後のプロコフィエフらしさが現れている。興味深いが演奏機会はまれなこの曲を、若林顕は流暢に演奏し、わたしはその実力に敬服した。

 3曲目はプロコフィエフのスキタイ組曲「アラとロリー」。名前だけは知っているが、少なくとも演奏会では聴いた記憶がないこの曲は、プロコフィエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」に刺激されて書いたそうだ。たしかにプロコフィエフの「俺ならもっと凄いのが書ける」という対抗心がむき出しだ。

 正直なところ、ストラヴィンスキーの精緻なリズム処理には及ぶべくもないが、でも最後の、大編成のオーケストラが高音に向かって収斂していく音響と、そのときラザレフが日本フィルから引き出した音圧とは、眩いばかりだった。
(2017.6.16.東京文化会館)
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ランス美術館展

2017年06月17日 | 美術
 ランスはパリ東駅からTGVで45分ほどの所にある。わたしにとって、この街はジャンヌ・ダルクがシャルル7世を戴冠させるために訪れた街だ。またロッシーニのオペラ「ランスへの旅」の街でもある(もっとも、ロッシーニのそのオペラは、登場人物のだれもがランスに到着しないというシュールな面のあるオペラだが)。

 ランスはまたレオナール・フジタ(藤田嗣治)(1886‐1968)ゆかりの街でもある。フジタは生涯の最後の時期をランスに新設する礼拝堂のために捧げた。フジタは戦後、日本を去って、1955年にフランスに帰化した。そして1959年にランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。

 パトロンの援助のもと、ランスに礼拝堂を建てることになり、その内部装飾のフレスコ画とステンドグラスに取り組んだ。1965年4月~7月に原寸大の下絵素描(カルトン)を制作し、7月には人物頭部の習作(テンペラおよび油彩)を制作した。翌1966年6月~8月にフレスコ画を描き、10月に礼拝堂「平和の聖母礼拝堂」(フジタ礼拝堂)が完成。その後フジタは体調を崩し、1968年1月に亡くなった。

 現在開催中の「ランス美術館展」は、同地のランス美術館のコレクションを紹介するもの。フランスの地方都市にふさわしく、地味だがしっとりと落ち着いた秀作が多い。それらを見ながら展覧会の後半に至ると、フジタが「平和の聖母礼拝堂」のために制作した下絵素描が何点も並び、まるで大きな渦の中に巻き込まれたような感覚になった。

 すごい迫力がある。よく「デッサンのほうが完成作より面白い」という人がいるが、たしかに一理あると思った。

 たとえばステンドグラスの「聖ベアトリクス」の制作過程を追うことができるのだが、まず1965年4月21日に下絵素描(木炭および擦筆)が制作される。128×67.2㎝という大きなもの。その大胆な筆致に圧倒される。同年11月には彩色した下絵(インク、水彩およびフェルトペン)が制作される。そして完成作のステンドグラスが写真パネルで展示されている。

 もちろん完成作は美しいのだが、下絵素描の迫力はどこかに静かに収まっているのだろう。表面からは窺えない。

 思いがけないことだったが、本展はこのようにレオナール・フジタの人生最後の息吹が感じられる展覧会だった。わたしは大いに驚いた。
(2017.6.15.損保ジャパン日本興亜美術館)

(※)本展のHP
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「バベルの塔」展

2017年06月15日 | 美術
 ブリューゲル(1526/30頃‐1569)の「バベルの塔」は3作あるそうだ。第1作はブリューゲルが若い頃のもので、現在は失われている。第2作はウィーンの美術史美術館に所蔵されている「バベルの塔」(1563頃)。第3作はロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニゲン美術館に所蔵されている「バベルの塔」(1568頃)。その第3作が来日中だ。

 本展ではその第3作について、東京藝術大学と提携して、最新鋭の解析を試みている。第3作のサイズは59.9×74.6㎝なので、それほど大きくはないが、その画面に約1,400人の人々が描かれている。想像を絶する人数だ。それらの人々の大半はバベルの塔の建設に従事する労働者だ。その様子がCG映像や拡大複製画によって示される。

 わたしは今まで、ブリューゲルというと「雪中の狩人」、「農民の婚宴」、「農民の踊り」などを通じて‘農民画家’のイメージが強く、超絶的な細密画家というイメージはなかったので、認識を新たにした。

 本展ではその他、バベルの塔の形態がどこから来たのか、その源泉を探っている。答えはローマのコロッセウムだった。今ではだれでも、バベルの塔というと、ブリューゲルのあの形態を思い浮かべるだろうが、そのルーツはローマのコロッセウムにあったわけだ。

 また第2作の後に第3作が描かれた意義についても、検討している。まとまった考えは示されていないが、ともかく、大きさが異なり(第2作のサイズは114×155㎝なので縦横とも第3作の倍の大きさだ)、目線が異なり、色合いが異なり、その他の細部も異なる第3作は、第2作の焼き直しの域を超えているようだ。

 これらのことを頭に入れた上で、もう一度「バベルの塔」に戻ると、細密な描写は単眼鏡がなければ分からないが、肉眼で見るだけでも、その存在感が圧倒的だった。今後ロッテルダムに行く機会があるかどうか分からないので、今回は貴重な機会だった。

 本展にはヒエロニムス・ボス(1450頃‐1516)の作品も2点来ている。「放浪者(行商人)」と「聖クリストフォリス」。ボス特有の怪奇的な作品ではなく、むしろ初期フランドル派の空気感や寓意が感じられる作品だ。

 初期フランドル派の作品は、ハンス・メムリンク(1433頃‐1494)など多数の画家の作品が来ている。もっとゆっくり見たかったが、混雑気味だったので諦めた。
(2017.6.13.東京都美術館)

(※)主な作品の画像(本展のHP)
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ラザレフ/日本フィル

2017年06月11日 | 音楽
 ラザレフが日本フィルに戻ってきた。インキネンに首席指揮者を譲って、桂冠指揮者(兼芸術顧問)に退いてから、年2回の登場になったので、久しぶりの感がある。登場すれば、いつものラザレフだ。演奏は全力投球。聴衆とのコミュニケーションも熱い。

 1曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は山根一仁。この人の演奏を聴くのは初めてだが、なかなか個性派だ。細く硬い音でメタリックな感覚の演奏をする。今回はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だが、全然ロマン的な演奏ではない。むしろシュニトケのように聴こえる箇所があった。

 山根一仁は1995年生まれ。今年22歳だ。桐朋女子高等学校音楽科(共学)を卒業して、今はドイツ国立ミュンヘン音楽演劇大学に在籍中。できることなら、この個性をそのまま伸ばして、自分だけの道を切り拓いてもらいたいものだが、さて、どうなるか。

 アンコールにイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番からマリンコニアが演奏された。終始弱音で演奏される静謐かつシンプルな曲。最後にグレゴリオ聖歌の「怒りの日」がそっと顔を覗かせる。この曲の方が山根一仁のアンチ・ヴィルトゥオーゾ的な個性に合致していた。

 日本フィルは、立ち上がりこそ不安定だったが、徐々に軌道に乗り、第2楽章の木管のオブリガートなど情緒たっぷりの演奏だった。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。これは堂々たる名演だった。オーケストラは豪快に鳴るが、しかしそれは‘爆演’などではない。音がけっして粗くならず、随所に細心のピアニッシモが張りめぐらされていた。

 第1楽章は過度に悲壮にならず、また第3楽章も過度に悲痛にならず、さらに第4楽章は勝利の喜びでも、また強いられた‘喜び’でもなく、全体を通してあくまでも音楽的な枠内に収まるストレートな演奏だった。今は「証言」の(その真贋を含めた)衝撃を通り過ぎた時代になったことを感じた。

 わたしは満足し、アンコールはなくてもよいと思ったが、アンコールがあった。それもアンコールの定番の何かではなく、ロシア的な活気のある曲だった。終演後、会場の掲示を見たら、ショスタコーヴィチの組曲「馬あぶ」から「祝日」だった。ラザレフは以前、横浜定期で同組曲の全曲をやったことがある。あのときも会場は大いに盛り上がったが、今回も同様だった。
(2017.6.10.横浜みなとみらいホール)
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MUSIC TOMORROW 2017

2017年06月10日 | 音楽
 今年のMUSIC TOMORROWはローレンス・レネスの指揮。レネスは1970年生まれのオランダ人で現在スウェーデン王立歌劇場の音楽監督を努めている。同歌劇場では今シーズン、「中国のニクソン」、「サロメ」および「イェヌーファ」を振っている。

 1曲目は岸野末利加(きしの・まりか)(1971‐)の「シェイズ・オブ・オーカー」。N響委嘱作品。岸野末利加は現在ケルン在住。わたしは初めて聞く名前だ。作曲者自身のプログラムノーツによると、「オーカーは赤土や黄土とよばれ、酸化鉄を多く含む色彩豊かな土です」。シェイズは「陰影」。

 激しい口笛のひと吹きのような音型で始まり、緊張と弛緩を繰り返しながら、音の帯が流れていく。各楽器が細かいところで、渦を巻いたり、飛沫を上げたりするが、全体としては太い流れが持続している。音の生きがよい。

 結論めいたことを先にいうようだが、わたしにとっては、岸野末利加の発見は今年のMUSIC TOMORROWの最大の収穫だった。

 2曲目はマーク・アントニー・ターネイジ(1960‐)の「ピアノ協奏曲」(2013)。ターネイジを聴く楽しみが詰まった曲だ。3楽章構成。第1楽章はまるで音と格闘しているような曲だ。第2楽章は甘くロマンティックな曲。「ハンスのための最後の子守唄」という副題が付いている。ハンスとはドイツの作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926‐2012)のこと。ターネイジには弦楽合奏のための「ハンスのための子守唄」(2005)という曲があるが、同曲の武満徹の「弦楽のためのレクイエム」に似た響きに対して、こちらは優しく慰撫するような曲だ。第3楽章はノリのよい曲。

 ピアノ独奏は反田恭平(そりた・きょうへい)(1994‐)。頭がこんがらがってくるような複雑な曲を見事に弾いた。スリル満点。鮮烈なN響デビューだ。

 3曲目は一柳慧(1933‐)の「交響曲第10番―さまざまな想い出の中に―岩城宏之の追憶に」。4曲目は池辺晋一郎(1943‐)の「シンフォニーⅩ「次の時代のために」」。ともに今年の尾高賞受賞作品。

 聴いていると、両氏の個性の違いが楽しめたが、前半の2曲とは対照的に、オーケストラを未知への挑戦に誘う(もしくは駆り立てる)要素がないのが何とも‥。レネスはN響をよく掌握して説得力のある演奏を繰り広げた。注目に値する指揮者だと思う。
(2017.6.9.東京オペラシティ)
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アドルフ・ヴェルフリ展

2017年06月07日 | 美術
 アドルフ・ヴェルフリは1864年にスイスのベルン近郊で生まれた。子供の頃は貧しく悲惨な生活を送った。罪を犯して1890年から2年間服役し、1895年からは精神病院に収容された。以後1930年に亡くなるまで、その精神病院で過ごした。

 あるとき、紙と鉛筆を与えられると、絵を描き始めた。それはものすごい勢いだった。鉛筆は1週間ともたなかった。本展には当時の作品も来ているが(たとえば1904年の「リーゼリ〔リーゼちゃん〕・ビエリ!死」)、わたしは一目それを見るなり、美しいと思った。繊細なグラフィックな美しさがあった。洗練された技術さえ感じた。

 やがて色鉛筆を与えられると、その作品には色彩が氾濫した。たとえば1911年の「ネゲルハル〔黒人の響き〕」は、明るく喜びに満ちた色彩が溢れている。構成も複雑になっている。さらに注目すべき点として、楽譜が登場する。楽譜はグラフィックな意匠のようにも見える。だが、その後の作品を見ると、ヴェルフリは作曲をしていたことが分かる。

 楽譜は、五線譜ではなく、六線譜で書かれている。歴史的には、楽譜は、五線譜で統一される前は、六線譜も使われていたので、ヴェルフリはどこかで六線譜を見たのかもしれない。小節線がないが、それもヴェルフリが見た(おそらくは古い教会音楽か何かの)譜面がそうだったのではないだろうか。

 では、ヴェルフリが作曲した音楽とは、どんな音楽だったのか。紙のトランペットを持つヴェルフリの写真が2点展示されていた。そのときどんな音楽が演奏されたのだろう。録音や、採譜された譜面が残っていないのが残念だ。

 ヴェルフリはアール・ブリュット(日本語では「生の芸術」、英語では「アウトサイダー・アート」)の先駆的な画家だが、一方では現代音楽の作曲家たちを刺激し続ける存在でもある。

 ヴォルフガング・リーム(1952‐)は「ヴェルフリ歌曲集」を、ゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)は室内オペラ「アドルフ・ヴェルフリ」を、またテリー・ライリー(1935‐)は室内オペラ「聖アドルフ・リング」を書いた。

 NMLにデンマークの作曲家のペア・ノアゴー(1932‐)の(ヴェルフリにまつわる)室内オペラ「神々しいチボリ」(この訳語には再検討の余地があると思う)と交響曲第4番が入っている。わたしは交響曲第4番が美しいと思った。
(2017.6.6.東京ステーションギャラリー)

(※)本展のHP
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ビェロフラーヴェク追悼

2017年06月03日 | 音楽
 ビェロフラーヴェクの訃報に接し、驚くばかりだ。享年71歳と聞くと、それなりの年齢かとも思うが、その音楽の清新さや、指揮者としてはまだこれからの年齢であることを思うと、やはり突然という感を否めない。ご冥福を祈るばかりだ。

 ビェロフラーヴェクは日本フィルの1974年の春のシーズンに初登場した。当時は一人の指揮者が連続して2か月分の定期を振ることがあり、ビェロフラーヴェクも5月と6月だったか(当時の記録がないので、確かめられないが)、2度の定期を振った。メインのプロは、初回がブラームスの交響曲第1番、2度目がドヴォルザークの交響曲第8番だったと記憶する。その他、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」も入っていた。

 わたしはドヴォルザークの交響曲第8番に鮮やかな印象を受けた。まだ大学生だったわたしは、翌日大学に行っても、頭の中はその演奏が鳴りっぱなしだった。今でもその感覚が残っている。

 わたしはそのシーズンから日本フィルの定期会員になっていた。アルバイトで稼いだお金で一番安い席を買った。大学生の分際で贅沢だとは思ったが、音楽への情熱を抑えることができなかった。日本フィルを選んだ理由はいくつかあった。今それを詳述しても仕方ないので控えるが、ともかく分裂直後だった日本フィルを選んだ。

 ビェロフラーヴェクの名はまったく知らなかった。おそらく当時はほとんど無名だったろう。その少し前に、苦境に陥った日本フィルをチェコの名匠スメターチェクが振り、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で名演を残したことが報道された。そのスメターチェクがビェロフラーヴェクを推薦したという話があった。

 以後、ビェロフラーヴェクは日本フィルを定期的に振るようになった。わたしは中でもマルティヌーの交響曲第6番「交響的幻想曲」に感銘を受けた。そのときの演奏の様子は今でも目蓋に焼き付いている。

 ビェロフラーヴェクはチェコ国内でも重要ポストを歴任したが、むしろイギリスのBBC響の首席指揮者で成功した。チェコの音楽家のイギリスでの成功というパターンが、ドヴォルザークに重なって見えた。

 ビェロフラーヴェクは1974年の初登場のときから、清新な感性と伸びやかな音楽性で際立っていた。それらの特徴は晩年になっても変わらなかった。巨匠的な懐の深い演奏をする中でも、常にそれらの特徴が感じられた。いつまでも心に残る指揮者だと思う。
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ジークフリート

2017年06月02日 | 音楽
 新国立劇場がフィンランド国立歌劇場のプロダクションで上演している今回のリングは、「ラインの黄金」が低調な出来で興味をそがれたが、「ヴァルキューレ」で持ち直し、「ジークフリート」で調子が出てきた感じだ。

 まず歌手の力量が圧倒的だ。タイトルロールのステファン・グールドは、最後までパワーが衰えず、驚異的だった。さすらい人(ヴォータン)のグリア・グリムスレイは、朗々とした声を響かせ、同役が絶対的な存在であることを示した。ミーメのアンドレアス・コンラッドは、細かい音符の連続が小気味よく決まった。エルダのクリスタ・マイヤーは深々とした声に存在感があった。ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートも及第点だった。

 要するに世界的に見ても最高水準の歌手が揃っていた。これらの歌手が手を抜かずに、真摯に歌ったので、声楽面の水準はまれに見る高さに昇りつめた。

 なお、演出上のアイディアだろうが、‘森の小鳥’を4人の歌手が歌った。4人が同時に歌うのではなく、そのパートを4つに区切って、4人の歌手が順番に歌う趣向だ。4人はそれぞれ、黄、白、赤、緑の衣装をつけ、視覚的にもカラフルで楽しく、さらにダンサーが一人加わったので(青の衣装)、合計5羽の小鳥たちが舞台を彩った。

 ゲッツ・フリードリヒの演出は、「ラインの黄金」よりも「ヴァルキューレ」、「ヴァルキューレ」よりも「ジークフリート」という具合に、徐々にその関与が感じられるようになった。とくに印象に残ったのは、最後のジークフリートとブリュンヒルデとの2重唱だ。2人の(延々と続く)感情の揺れが、じっくり、綿密に辿られていた。

 当演出への不満ではないのだが、わたしはいつか、この場面で、最後に愛を歌い上げるジークフリートと、じつは神々の黄昏を歌い上げているブリュンヒルデとの、そのすれ違いを表現する演出を見てみたいと思う。2人が交互に歌い交わしている間は、微妙にすれ違っているのであり、最後の最後で「愛」と「死」が重なり合うのだから。

 当プロダクションで重要な意味を持つ舞台美術は、今回も好調だ。美術・衣装は今回もシンプルかつストレートでインパクトが強く、また照明は想像を超えて美しかった。

 飯守泰次郎指揮東響の演奏は、第1幕の最後でジークフリートがノートゥングを鍛造する場面では響きが平板になり、先を危惧したが、あとは問題を感じなかった。
(2017.6.1.新国立劇場)
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松本市美術館の田村一男記念展示室

2017年06月01日 | 美術
 先週末は山に登る計画だった。土曜日に上高地に入り、一泊した。翌日は徳本峠(とくごうとうげ)を越えて島々に下る予定だったが、上高地に着いた頃から、同行した妻の体調が悪くなった。夜になるとさらにひどくなった。翌朝、妻はそれでも登る気でいたが、大事をとって中止した。午前中に松本市内に戻った。

 その日は近隣の温泉に宿を取っていた。キャンセルするのももったいない‥ということで、早めに宿に行ってゆっくりすることにして、それまでどこかで静かに過ごすことにした。こういうときには美術館にいるのが一番安心なので、松本市美術館に行った。

 松本市美術館は、じつはかねてから行ってみたい美術館だった。同館には洋画家の田村一男(1904‐1997)のコレクションがあるので、それを見たかったからだ。妻とわたしは、いつのことだったか、都内で開かれた田村一男の個展を見に行ったことがある。そのとき以来、その作品が目に焼きついているのだ。

 松本市美術館には田村一男のための一室が設けられていた。わたしは初めてそこに入ったが、まず板張りの壁面に好感を持った。田村一男は山の絵を描いた画家だ。板張りはその作品にふさわしいと思った。

 展示室には15点の作品が並んでいた。没後20年の企画として「山、眠る②」というテーマで冬山の作品が展示されていた。どんよりと曇った灰色の空の下で、白く雪を被った山々が連なっている作品。あるいは褐色に冬枯れた高原の茫漠とした風景の作品。その他諸々だが、どの作品にも人の気配がない。見る人によっては、寂しいと感じるかもしれない。でも、わたしの心象風景にはぴったり合った。

 どのような心象風景かというと、広大な雪原に立って、暗い曇天を見ながら、この世界には自分一人しかいないと感じるような風景。寂しいというのではなく、ある絶対的な孤独という感覚だ。

 先ほど触れた個展は知人に誘われて行ったのだが、その知人も田村といった。妻とわたしはその知人から「親父が画家で、個展をやっているから、見に来ないか」と誘われた記憶がある。会場ではお姉様(?)に紹介されたことを覚えている。

 だが、今回、展示室で見た田村一男の年譜には、その知人の名は出てこなかった。なぜだろう。「親父」というのは聞き違えだったのか。その知人は何年か前に亡くなったので、もう確かめるすべはない。
(2017.5.28.松本市美術館)

(※)本展の主な作品の画像
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