Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

北村朋幹ピアノ演奏会

2017年03月29日 | 音楽
 東京・春・音楽祭のミュージアム・コンサート「東博でバッハ」の第34回、北村朋幹(きたむら・ともき)のピアノ演奏会に行った。

 1曲目はシューマンの「4つのフーガ」。珍しい曲だ。シューマンのバッハ研究の過程で生まれた曲。最初はバッハそのもののようだが、最後になるとシューマンの素顔が覗く。そのへんがシューマンらしいところだ。

 2曲目は細川俊夫の「エチュードⅠ」から「2つの線」。ガラス細工のような音が煌き、砕けて散る、といった感じの曲。わたしにはこの曲が、最後のバッハの「パルティータ第6番」とともに、当夜の白眉だった。

 演奏は、切れ目なく、3曲目のバッハの「2声のインヴェンション」に入った。2声の音楽というのは、考えてみると、もっともシンプルな音楽なのだ(単旋律の音楽もあるにはあるが)と思いながら聴いた。

 休憩後、4曲目はバルトークの「戸外にて」から第4曲「夜の音楽」。この曲も(細川俊夫の前記の曲と同じように)次のバッハの「パルティータ第6番」への導入的な位置づけかと思ったが、普通に演奏が終わり、拍手も起きた。

 5曲目はその「パルティータ第6番」。大変な集中力で演奏された。圧巻の演奏。1曲目のシューマンからその集中力は感じられたが、この「パルティータ第6番」で見事に実を結んだ感がある。北村朋幹は演奏後、「胃に穴が開くような大変な曲で、演奏するほうもそうですが、お聴きになる皆さんも大変だったと思います」(要旨)と語ったが、まさに「胃に穴が開く」想いでこの曲に取り組んだ演奏だった。

 アンコールにメンデルスゾーンの「デュエット」が演奏された。‘バッハ’つながりでメンデルスゾーンになり、‘2声’つながりで「デュエット」になったのだろう。このようにプログラムにストーリー性を持たせる資質の持ち主のようだ。

 以前、北村朋幹の演奏は、2011年のラ・フォル・ジュルネで聴いたことがある。東日本大震災の発生からわずか2ヵ月後、大幅に規模の縮小を余儀なくされたラ・フォル・ジュルネに登場して、ベルク、シェーンベルク、ブラームス等を弾いた。当時は東京藝大に在学中だった。今はベルリン芸術大学に在学中。わたしの記憶は頼りないが、6年前のその時と今回とでは、肩の力がだいぶ抜けて、聴衆に演奏を楽しませる余地が広がってきたと思う。若いっていいものだ。
(2017.3.28.東京国立博物館平成館ラウンジ)
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ミュシャ展

2017年03月26日 | 美術
 アルフォンス・ミュシャ(1860‐1939)は、19世紀から20世紀への転換期に繊細なアールヌーボーのポスターで一世を風靡したが、後半生は一転してスラヴ民族の歴史を描いた連作「スラヴ叙事詩」の制作に没頭した。

 チラシ(↑)に使われている作品はその第1作「原故郷のスラヴ民族」(部分)。異民族の侵入・略奪に遭い、スラヴ民族の男女が草むらに隠れている。その頭上を異民族が走り去る。左端にはスラヴ民族の村が焼き払われている。右上で宙に浮かんでいるのは、中央がスラヴ民族の祭司、右が‘平和’の擬人像、左が‘正義’の擬人像だ。

 この作品は縦610cm×横810cmの大作だ(先に言ってしまうと、「スラヴ叙事詩」全20点はいずれも同規模のものだ)(※)。その前に立つと、大きさを実感する。だが、不思議なことに、威圧感はない。それは油彩とは異なるテンペラの感触、豊かな物語性、平和主義的なテーマ等の故だろう。

 会場でこの作品を見たとき、わたしは「星がきれいだな」と思った。チラシでも確認できると思うが、大きく瞬いている星がいくつもある。実物を見ると、それ以外にも無数の星が小さい光を放っている。満天の星空だ。それらの星がスラヴ民族を見守っているように感じる。わたしは「なんて優しいんだろう」と思った。

 以下の19点は、いずれもスラヴ民族の歴史上のエピソードを語っている。興味深い点は、第1作がそうであるように、主人公は英雄や偉人であるよりも、名もない庶民であることが多い点だ。例外的に英雄が中央に描かれている作品があるが、前景に疲れきった女性が大きく描かれ、その存在感が英雄を圧倒している。

 もう一つ興味深い点は、第1作の男女のように、画中で起きている出来事と、それを見るわたしたちとをつなぐ‘仲介者’のような人物が、多くの作品に存在することだ。それは母親と子どもであったり、老人と青年であったりする。それらの場合は、次代に未来を託すメッセージが感じられる。

 第1作は夜の情景だったが、その他オレンジ色の夕映え、明るい日盛り、嵐をはらんだ曇り空など、様々なヴァリエーションの空の描写が美しい。また野外だけではなく、教会や宮殿の内部の場合もあり、そこに差し込む光の描写が繊細だ。

 連作全体を通して、ミュシャの圧倒的な力量と、それを人々のために使おうとする善意とが感じられた。
(2017.3.23.国立新美術館)

(※)「スラヴ叙事詩」全20点の画像(本展のHP)
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B→C 中村恵理ソプラノリサイタル

2017年03月23日 | 音楽
 若手演奏家の登竜門的な演奏会シリーズのB→C(バッハからコンテンポラリーへ)に、すでに国際的なキャリアを築いているソプラノ歌手の中村恵理が出るという予告を見たときには、えっと思った。でも、実際に聴いてみると、中村恵理にはやりたいことがあったのだと思った。

 B(バッハ)にはカンタータ第57番から2曲のアリア、C(コンテンポラリー)にはリチャード・ワイルズ(1966‐)への委嘱作「最終歌」の中の1曲が選ばれた。

 リチャード・ワイルズってだれだろう?と思ったら、当日のピアノ伴奏者だった。プロフィールによると、バイエルン国立歌劇場で「主に20世紀以降の作品において指揮者のアシスタント及びコレペティトゥアとして、歴代指揮者及び歌手達から信頼を得ている」そうだ。中村恵理のかつての同僚だ。すでにオペラを3つ書いているとのこと。当日はその中のアリアも1曲歌われた。多少ミュージカル的な味わいを持つ美しい曲だった。

 プログラムにはこの他に20世紀音楽のショスタコーヴィチ、メシアン、ルトスワフスキ、グバイドゥーリナの曲が並んだ。

 プログラムにはもう一つ、女性作曲家という軸が設定された。シューマンの妻であったクララ・シューマン、メンデルスゾーンの姉であったファニー・メンデルスゾーン、そして高名な音楽教師ナディア・ブーランジェの妹であったリリー・ブーランジェの曲が組まれた。

 最後にオペラ歌手としての側面から、ヴェルディの「椿姫」から「そはかの人か…花から花へ」が組まれた。以上、盛り沢山だが、しっかり筋の通ったプログラムだ。演奏家がほんとうに自分のやりたいことをやるとこうなる、という好例のようなプログラムだと思った。

 演奏には並外れた集中力があり、曲によっては深く抉り、パワーが炸裂した。ショスタコーヴィチ以下の20世紀音楽が、わたしには当夜の白眉だったが、クララ・シューマンやファニー・メンデルスゾーンの曲も、女性作曲家の作品への先入見を打ち破るような気迫があった。

 しかも、さすがにオペラで鍛えられているだけあって、眼の表情が豊かだった。一例をあげるなら、三島由紀夫の「豊饒の海」の最終巻「天人五衰」の最後の文章をテキストにしたワイルズの「エピソード」(上記の委嘱作)では、無音の中で虚空をさまよう眼がドラマを雄弁に語っていた。
(2017.3.21.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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忘れられた音楽――禁じられた作曲家たち

2017年03月21日 | 音楽
 東京・春・音楽祭のコンサート「忘れられた音楽――禁じられた作曲家たち」が開かれた。ウィーン国立音楽大学エクシール・アルテ・センターのゲロルド・グルーバー所長によるレクチュアー・コンサート。ナチス・ドイツの侵攻に遭って人生に甚大な影響を蒙った作曲家たちを振り返るもの。

 当コンサートで取り上げられた作曲家は5人。演奏順に、マリウス・フロトホイスMarius Flothuis(1914‐2001)、ヘルベルト・ツィッパーHerbert Zipper(1904‐97)、ベーラ・バルトーク(1881‐1945)、ミェチスワフ・ヴァインベルクMieczyslaw Weinberg(1919‐96)、ハンス・ガルHans Gal(1890‐1987)。

 バルトークは別格として、わたしが名前を知っている作曲家はヴァインベルクだけだった。ヴァインベルクは、ショスタコーヴィチの評伝を読むと、必ずといってよいほど名前が出てくる人だ。ヴァインベルクとショスタコーヴィチとの影響関係は深く、しかもそれはショスタコーヴィチからヴァインベルクへという一方通行ではなく、双方向のものだったようだ。

 ついでながら、ヴァインベルクのオペラ「旅行者」は、2010年のブレゲンツ音楽祭で上演されて以来、ヨーロッパ各地で上演されるようになっている。わたしもフランクフルト歌劇場で観て、鳥肌の立つような衝撃を受けた。アウシュヴィッツの記憶をテーマにした作品だ。

 当コンサートに話を戻すと、バルトークを除いて、他の4人は長命だった。テレージエンシュタット(現テレジン)などの強制収容所で絶命した作曲家たちとはちがって、幸いにも天寿をまっとうできた人たちだ。

 ヴァインベルクは、ユダヤ系であったため、スターリン政権下で生命の危機に直面したが、ショスタコーヴィチの奔走もあり、危機を脱して作曲家人生をまっとうした。他の3人も、音楽学者などとして、それぞれ立派な業績を残したようだ。

 当コンサートは、各人各様の音楽やその生涯を掘り下げるには時間が足りなかった。残念ながら名前の紹介で終わったきらいがある。

 演奏は、フルートのウルリケ・アントンがパワー溢れる演奏を聴かせた。わたしは日本人との体力のちがいを感じた。他に弦楽四重奏のプレシャス・カルテットとピアノの川﨑翔子が参加。いずれも好演だった。
(2017.3.20.石橋メモリアルホール)
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卒業式の想い出

2017年03月19日 | 身辺雑記
 卒業式の季節になった。この季節になると想い出すことがある、という人も多いのではないだろうか。わたしもその一人。この季節になると、中学校の卒業式を想い出す。

 わたしの中学校は荒れていた。先生方の中には「今の3年生がいなくなればこの学校もよくなる」という先生もいた。そんな声が生徒たちにも聞こえていた。暴力事件は日常茶飯事。便所には吸殻が落ちていた。シンナーを吸って倒れる生徒もいた。要するにさじを投げられた学年だった。

 卒業式は、例年は体育館でおこなわれていたが、わたしのときは各教室でおこなわれるという噂が流れていた。でも、卒業式が近づくと、例年通り体育館でおこなわれることになった。当日は私服が入っているという噂も流れたが、卒業式が始まると、何事もなく平穏に進んだ。

 わたしは答辞を読む役割だった。壇上で校長先生を前に答辞を読み、読み終わった答辞を校長先生に差し出して一礼したとき、校長先生が小さな声で「君にはお世話になったね」といってくれた。わたしは嬉しかった。

 わたしは3年生のとき、先生から殴られた。その先生の授業中にある出来事があり、わたしは先生の対応に抗議した。先生は顔色が変わり、教室を出て行った。しばらくすると戻ってきて、「○○(わたしの名前)ちょっと来い」といって、わたしを職員室に連れて行った。職員室に入ると、振り向きざまに殴った。わたしは床に倒れた。

 先生方が集まってきて、わたしを別室に連れて行った。それからどのくらいの時間がたったろうか。少し暗くなってきたその部屋に、校長先生が現れた。事情をいろいろ説明してくれたと思う。そして最後に、「君のご両親には私から説明しようか」といってくれた。わたしは「いいです」といって退出した。わたしは家に帰っても、親には何もいわなかった。

 卒業式のときに校長先生がおっしゃった言葉は、そのときのことを指していたのか、それとも他のことか‥。ともかくその言葉は、ずっとわたしの中に残り、人生の中で気持ちが折れそうになったとき、わたしを支えてくれた。

 卒業式が終わってから、わたしは仲間の何人かと、近くの多摩川の土手に行った。明るく暖かい陽光が射していた。貸しボート屋でボートを借りて、河口に向かって漕ぎだした。勢いづいて、羽田空港を一周することになった。思いがけず大冒険になった。帰ってきた頃には真っ暗になっていた。貸しボート屋の人が心配していた。
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ルチア

2017年03月15日 | 音楽
 新国立劇場の「ルチア」新制作。新国立劇場のベルカント・オペラという点がなんとも新鮮だ。「ルチア」は2002年に上演して以来の上演だそうだ。その後、「愛の妙薬」は上演しているが、それ以外のドニゼッティのオペラはあったかどうか。そういえば、ベッリーニのオペラは今まで何か上演したことがあったろうか。

 今回の「ルチア」だが、タイトルロールのオルガ・ペレチャッコ=マリオッティは滑らかなベルカントを聴かせ、舞台姿も美しく、また「狂乱の場」での演技も水際立っていた。わたしはこの歌手が2007年のペーザロでロッシーニの「オテロ」に出てデズデモーナを歌ったときに聴いているので、今では堂々としたプリマドンナになったその成長ぶりが嬉しかった。

 (余談になるが、ぺーザロのその公演では、ロドリーゴ役をファン・ディエゴ・フローレスが歌って喝さいを浴びていた。ヴェルディの同名作とは違って、ロッシーニの「オテロ」ではロドリーゴ役の比重が重い。)

 エドガルド役のイスマエル・ジョルディは軽めの声がよくきまり、抑揚のある歌唱を聴かせた。エンリーコ役のアルトゥール・ルチンスキーはたっぷり響く声を持ち、幕開き早々のアリアで聴衆を圧倒した。以上の3名はいずれも若く、今が旬の有望株を聴く楽しみを味わった。

 指揮のジャンパオロ・ビザンティは神経の通った音をオーケストラ(東京フィル)から引き出し、思わぬ発見だった。プロフィールによると、2016年11月からイタリア・バーリのペトルッツェリ劇場の音楽監督を務めているそうだ。わたしは名前も知らない劇場なので、イタリア・オペラ界の層の厚さを感じた。

 演出はジャン=ルイ・グリンダ。基本的には保守的な演出だが、2016年に新制作されたマスネの「ウェルテル」のような何もしない演出ではなく、独自の解釈を織り込んだものだった。とくに「狂乱の場」では、第1幕のルチアのアリアでの泉を再び出現させ、第1幕でルチアが歌った悲恋の伝説と、狂気に陥ったルチアの今の姿とを重ね合わせて、ドラマの対応関係を感じさせた。

 その「狂乱の場」では、通常はフルートで演奏されるオブリガートのパートをグラスハーモニカが演奏した。わたしは(実演はもとよりCDでも)そこをグラスハーモニカで聴くのは初めてだった。繊細な音色は「狂乱の場」の前後の場面とは隔絶した異次元の世界を作り出した。
(2017.3.14.新国立劇場)
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井上光晴展

2017年03月13日 | 読書
 わたしは高校生から大学生の頃は文学青年だった。最初は夏目漱石から入り、やがて川端康成に移り、高校を卒業する頃には大江健三郎、井上光晴、ドストエフスキーを読むようになった。だが、大学を出て就職してからは、文学を読む余裕がなくなった。わたしの文学遍歴は就職と同時に途絶えた。

 先日、神奈川近代文学館で開催中の「井上光晴展」のチラシを見かけたときには、なんだか懐かしかった。井上光晴(1926‐1992)は大学卒業後40年余り、まったく読んでいなかったが(井上光晴にかぎらず、他の作家もそうだが)、かつての文学青年の残り火がポッと燃えたような気がした。

 そのチラシで井上光晴には原発をテーマにした「西海原子力発電所」という小説があることを知った。1986年(昭和61年)刊行で、わたしはすでに就職していたので、その小説の存在を知らなかった。ほんとうに久しぶりに(40年余りの年月を隔てて)井上作品=その小説を読んでみた。

 玄海原発をモデルにした‘西海原発’をめぐる人々の軋轢、葛藤、憎み合いその他の(殺人を含む)物語だ。興味深い点は、本作の執筆中にチェルノブイリ原発事故が起こり、当初は原子炉爆発によって飛散した放射能が空を被う「青白い恐怖の情景を幾重にも重ねていた」構想が、現実が虚構を追い抜いてしまったので、筋書きを変えざるを得なかったという点だ。

 結果としては奇妙に捻じ曲がった作品になったが、原発文学の可能性をはらんでいる点で興味深く、また虚構と現実との関係でも興味深いと思った。

 井上光晴はその3年後の1989年(平成元年)に、使用済み核燃料を輸送中のトレーラーが事故を起こすという小説「輸送」を書いた。わたしは未読だが、「西海原子力発電所」を考える上でも、いずれ読んでみたいと思った。

 そんなことを考えながら出かけた「井上光晴展」には、わたしが持っていた単行本や作品集、また(井上光晴が編集した)文芸誌「辺境」などが展示されていた。それらの書籍はわたしが就職後、結婚し、何度となく引っ越している間に、いつの間にか失くしてしまったものだ。それらの書籍を見ていると、文学青年だった頃の記憶が蘇ってきた。

 当日は東日本大震災から6年目の日だった。午後2時46分に同文学館がある「港の見える丘公園」で黙とうをした。
(2017.3.11.県立神奈川近代文学館)
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白蟻の巣

2017年03月10日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門が新たに立ち上げた「かさなる視点―日本戯曲の力―」シリーズ。昭和30年代の戯曲3本に3人の30代の演出家が挑む企画。その第1弾として三島由紀夫の「白蟻の巣」(昭和30年、1955年初演)が谷賢一(1982年生まれ)の演出で上演されている。

 敗戦から10年たち、高度経済成長の上昇気流に乗り始めた時期に、日本社会はどんな問題を抱えていたのか。それは解決されたのか。あるいは解決されずに、今もなお引きずっているのか。そういった観点から当時の芝居を見てみる企画だ。

 「白蟻の巣」は三島由紀夫が「潮騒」で一躍ベストセラー作家となったその翌年に書いた戯曲だ。それ以前にも「近代能楽集」に収められている短い戯曲をいくつも書いているので、戯曲の経験は十分積んでいたといってもよい。ともかくいかにも三島由紀夫らしい芝居だ。

 場所はブラジルなので、三島由紀夫としては特殊な設定だが、そこで展開される人々の葛藤はいかにも三島由紀夫の世界だ。元華族と思われる虚無的な刈屋義郎(コーヒー農園の経営者)。不倫に溺れるその妻、妙子。1年前に妙子と心中未遂事件を起こした百島建次(刈屋義郎の使用人)。その妻でまだ20歳の啓子。その他の登場人物が2人。

 刈屋義郎の虚無性が作る強い磁場に、妙子と百島建次が絡めとられ、逃れることができない。啓子はその磁場を突き崩そうとして、奇妙な計画を実行に移すが、それは思いがけない展開を生み、結末は二転三転する。

 本作の基調をなす虚無性、観念性、官能性といった要素は、いかにも三島由紀夫の世界だと思うのだが、この公演にはそれらの要素があまり感じられず、むしろ今の社会の等身大の感覚で演じられてしまったように感じる。三島由紀夫の毒のようなものは希薄だった。

 その原因がどこにあったのか。演出か、役者か、それは今のわたしには分からないが、一応感想だけを記すと、妙子を演じた安蘭けいは、時に物々しさが出る口調が興をそいだ。刈屋義郎を演じた平田満は、寛大さによる支配という重圧感に欠けた。百島建次を演じた石田佳央は、存在感が弱かった。以上の3人の世界と観客との仲介者的な存在の啓子を演じた村川絵梨は、一番自然体で演じられる役回りだったようだ。

 わたしは昭和30年代の観客になったつもりで観てみようと試みたが、それは難しかった。
(2017.3.7.新国立劇場小劇場)
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ラインの黄金

2017年03月07日 | 音楽
 びわ湖ホールが始めたリング・チクルス。今年から毎年一作ずつ制作していく。新国立劇場がレンタルで済ませているのに対して、こちらは正真正銘の自主制作なので、観るほうとしても力が入る。期待を込めて出かけた。

 演出はミヒャエル・ハンペ。舞台美術と衣装はヘニング・フォン・ギールケ。プログラムに掲載されたミヒャエル・ハンペの「『ラインの黄金』の演出について」という文章の書き出しを引用すると――、

 「どうしたらオペラ歌手たちが水中で泳ぎながら歌えるのか? どうしたら人間よりはるかに大きな巨人たちを創れるのだろう? 観客の目の前で、誰かを巨大なドラゴンや小さなカエルに変身させるにはどうしたらいい? (中略)それに、どうしたら神々がラインの谷にかかった虹の上を歩けるのか?」

 正直にいうと、わたしはこの言葉に違和感を持った。そういうアプローチなのか、本当にそれだけなのか、と思った。

 だが、ミヒャエル・ハンペの言葉に嘘偽りはなかった。徹頭徹尾その視点で演出されていた。ラインの乙女たちは水中を泳ぎ回る。巨人たちは神々の倍近くも大きい。巨大なドラゴンがとぐろを巻き、小さなカエルがピョンピョン飛び跳ねる。神々は虹の上を歩いてヴァルハル城に入城する。

 巷間にはオペラのストーリーを分かりやすく描いた絵本や漫画があるが、わたしはそれを見ているような感じがした。それを是とすべきなのだろうか。何人もの方々が感想を述べておられるが、プロの音楽評論家をふくめて、概ね好評のようだ。びわ湖ホールおよび制作スタッフにはご同慶の至りだが。

 でも、わたしはつまらなかった。なぜかというと、現代との接点が見つからなかったからだ。この演出は、わたしには何の意味も持たなかった。ミヒャエル・ハンペの言葉を読んだときの違和感は、大きな失望感となり、わたしは興味を失った。唯一の独自の解釈として、幕切れで(地中に戻ったエルダが残していったものとして)ノートゥングが出現したが、唐突で、とってつけたような感じがした。今後の展開でエルダの存在感を増す演出のための伏線かもしれないが‥。

 沼尻竜典指揮の京都市響の演奏は、第2幕まではもったりした感じがあったが、第3幕からは積極性が出た。歌手ではローゲを歌った西村悟の滑らかな美声に注目したが、第2幕のローゲ語りではもう一歩の陰影がほしかった。
(2017.3.4.びわ湖ホール)
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5年目の贈り物

2017年03月04日 | 身辺雑記
 先週、元の職場の先輩のご自宅に招かれた。お会いするのは10年ぶりくらいだろうか。毎年、年賀状の交換はさせていただいていたが、お会いすることはなかった。わたしのことを気にかけてくれていたようで、今年の年賀状でお誘いをいただき、追いかけて電話までいただいた。そこで、ほんとうに久しぶりに再会することができた。

 マンションを引っ越されたことは承知していた。今のマンションに伺うのはもちろん初めてだった。12階の部屋からは目の前にスカイツリーが見え、また遠くには新宿の高層ビルの一群も見えた。当日は雨模様の天気だったが、それも午前中には上がり、正午頃には霞がたなびき、それも午後になると晴れてきて薄日が射し始めた。そんな空の移り変わりが大きな窓からよく見えた。

 昼間からビールをいただき、また奥様のご出身の秋田の料理の数々をご馳走になった。お会いするのは久しぶりだが、時間の隔たりを感じることなく話がはずんだ。

 しばらくすると、「これ、エノちゃんに」と手渡された品物があった(先輩はわたしのことをエノちゃんと呼んでいる)。なんだろうと思って包装紙を開いてみると、‘お祝い’という熨斗のついた小箱が出てきた。わたしの退職祝いだという。わたしは驚いてしまって、満足な返事をすることができなかった。

 わたしは定年3年前に退職して関連会社に移った(今はその会社も退職している)。それから8年たった。先輩はわたしが定年になるはずの5年前にその退職祝いを用意して、わたしに渡そうと思ってずっと持っていたそうだ。5年間も……。その想いに頭が下がった。

 わたしは先輩が定年退職したときに、なにもしなかったことを悔やんだ。身の置き所がなかった。定年退職の重みが分かっていなかったのだろう。定年退職にかぎらず、人生の機微が分かっていなかったと反省するばかりだ。

 先輩にはどうお礼をしたらよいのだろう。考えるまでもなく、先輩の体調がよいときに、できればわたしの家にもお出でいただき、もしそれが難しければ、わたしのほうからまたお伺いして、お会いする機会を増やすことが一番だろうと思う。

 もう一つは、先輩からいただいた想いを、今度は後輩に返すことが大事だろうと思う。それを先輩から教えてもらったような気がする。そうすることが先輩へのお礼になるかもしれない。

 ……と、そのようなことを、この一週間ばかり考え続けている。
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ティツィアーノとヴェネツィア派展

2017年03月01日 | 美術
 ティツィアーノは西洋美術史上屈指の巨匠だが、そのティツィアーノの作品が去年も今年も日本に来ている。去年は「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展で、今年は「ティツィアーノとヴェネツィア派」展で。

 両者とも構成は似ている。イタリア・ルネサンスではレオナルド(1452‐1519)、ミケランジェロ(1475‐1564)、ラファエロ(1483‐1520)らが活躍したフィレンツェ派の一方で、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1438/40頃‐1516)やティツィアーノ(1488/90‐1576)らが活躍したヴェネツィア派があった。その流れを辿るもの。

 会場に入ると、まずラッザロ・バスティアーニという(わたしには未知の)画家の「統領フランチェスコ・フォスカリの肖像」が目に入る。これが面白かった。ヴェネツィアの統領(元首)フランチェスコ・フォスカリの肖像画で、ルネサンス期特有の真横から描いたもの。癖のありそうな風貌が面白い。ヴェルディの初期のオペラ「二人のフォスカリ」の主人公であるこの人物は、なるほど、こういう風貌だったのか、と。

 ベッリーニの作品では「聖母子(フリッツォーニの聖母)」が来ていた。でも、表情に硬さがあり、わたしは感情移入が難しかった。とくに表記はなかったが、工房の手が入っているのではなかろうか。

 ティツィアーノの作品は、工房作品を含めて7点来ていた。その中では「フローラ」、「ダナエ」そして「教皇パウルス3世の肖像」がとくに傑出していると思った。

 「フローラ」はきめの細かい肌の描写に惹かれた。左胸が今にも露わになりそうでドキドキする。「ダナエ」は、天から降り注ぐ黄金の雨(大神ユピテルが変身したもの)を迎え入れるダナエの姿勢に息を呑んだ。「教皇パウルス3世の肖像」は、緋色、白、黒の3色という抑えた色調から、教皇の複雑な性格がリアルに感じ取れる。

 ティツィアーノの次の世代に当たるティントレット(1519‐1594)とヴェロネーゼ(1528‐1588)の作品も来ていた。

 その中ではヴェロネーゼの「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」がよかった。表題にある5人の登場人物が絡み合う複雑な構図だが、緊密で堅牢な構成だ。それは、手前に描かれた聖バルバラが、全体を支える重石のようになっているからだ。圧倒的な存在感。金色の光沢がある衣装と金髪は眩しいほどだ。
(2017.2.24.東京都美術館)

(※)上記の各作品の画像(本展のHP)
   (ただし「統領フランチェスコ・フォスカリの肖像」は掲載されていない。)
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