Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

お隣さんはヒトラー?

2024年07月29日 | 映画
 映画「お隣さんはヒトラー?」。時は1960年、所は南米・コロンビア。荒れ果てた野原に廃屋のような家が2軒ある。その1軒に住むのはポーランド系のユダヤ人ポルスキー。ナチス・ドイツのホロコーストにより家族全員が殺された。ポルスキーだけが生き延びて、コロンビアで暮らす。孤独だが、平穏な日々だ。

 ある日、空き家だった隣の家にドイツ人のヘルツォークが引っ越してくる。えらく威張り腐った男だ。ポルスキーとのあいだにトラブルが絶えない。いつもサングラスをかけているが、トラブルのはずみにサングラスを外す。青い目だ。ポルスキーは過去に一度だけヒトラーを見たことがある。ヘルツォークの目はヒトラーにそっくりだ。

 ポルスキーはヒトラーにかんする本を調べ始める。ヘルツォークは多くの点でヒトラーに似ている。時あたかもナチスの高官のアイヒマンがアルゼンチンで捕らえられたことが大きなニュースになった。ヒトラーも、じつは自殺したのではなく、コロンビアに潜伏していて、隣の男こそヒトラーではないか‥と。

 周知のように、ヒトラー生存説は大戦直後からあり、その中には南米逃亡説もあった。「お隣さんはヒトラー?」は南米逃亡説にもとづくフィクションだ。

 ヒトラーを扱ったフィクションでは、数年前の「帰ってきたヒトラー」が秀逸だ。ヒトラーが現代に蘇るという荒唐無稽なコメディだ。蘇ったヒトラーが難民問題への不満の高まりを見て、「これならいける」と考え、再び親衛隊を組織するラストシーンにはゾッとする。「お隣さんはヒトラー?」もコメディだが、そのようなシリアスな面はない。最後はペーソスあふれる結末を迎える。そこで描かれるのは、ポルスキーをはじめとして、ヒトラーに人生を破壊された人々の傷と、それでも生きていく姿だ。

 上掲のスチール写真(↑)の左の男がポルスキー、右の男がヘルツォークだ。ポルスキーが着るパジャマのような服は、強制収容所に収容されたユダヤ人たちの囚人服に似ていないだろうか。ヘルツォークはガウンのような服を着ていて対照的だ。哀れなポルスキーだが、もしもヘルツォークがヒトラーなら、殺された家族の恨みを晴らしたいと考える。そんなポルスキーを演じるのはデビッド・ヘイマン。揺れ動く心理を表現して名演だ。一方、ヘルツォークを演じるのはウド・キア。存在感がある。

 映画の後半で繰り返し流れる曲がある。ユダヤ的な哀感のある曲だ。エンドロールで曲名が流れたが、覚えられなかった。1931年とか1932年とかの記載があったような気がする。その頃の曲だろうか。レトロな味がある。
(2024.7.26.新宿ピカデリー)
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関心領域

2024年06月22日 | 映画
 映画「関心領域」は5月下旬の公開後、約1か月たつ。関心のある人はあらかた観てしまったのかもしれない。わたしが行った日は雨の降る寒い日だったこともあり、観客は10人足らずだった。上映終了も間近いのか‥。ともかく間に合って良かった。

 いうまでもないが、本作品はアウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスとその家族を描く映画だ。ヘスの住居は強制収容所に隣接する。塀を隔てたむこうは強制収容所だ。ヘスとその家族はそんなきわどい住居で贅沢な暮らしをしている。ヘスはともかく、妻と子どもたちは強制収容所で何が行われているか、まるで知らない様子だ。関心領域の外なのだ。

 関心領域(The Zone of Interest)とは恐ろしい言葉だ。だれにでも関心領域がある。自分の生活を支える領域だ。恐ろしいのは、その外側に広大な無関心領域がひろがることだ。たとえばいま起きているガザの戦争やウクライナの戦争は、無関心領域にある。そんな大問題でなくても、もっと身近な、たとえば隣人の貧困の問題も、あるいは児童虐待の問題も、無関心領域にある。ルドルフ・ヘスとその家族を批判してはいられない。

 一方、大多数の人々には無関心領域にあっても、その問題に関心をもち、手を差し伸べようとする少数の人たちがいる。本作品で描かれる地元の少女はその典型だ。少女はアウシュヴィッツ強制収容所の近隣に住んでいる。夜になると自転車で、ユダヤ人たちが日中強制労働に駆り出される場所にそっとリンゴを置きに行く。ユダヤ人たちが見つけて食べることができるようにと。家族が少女の行動を支える。

 もうひとつの例は、ヘスの妻の母親だ。母親は遠路はるばる娘を訪ねてくる。娘のぜいたくな暮らしに驚く。娘は幸せだと思う。だが、だんだんと周囲の奇妙さに気付く。塀のむこうでは何が起きているのだろうか。ある夜、目が覚める。塀のむこうでは、煌々と明かりがつき、何かをやっている。母親は異常な状況を悟る。黙って家を立ち去る。翌朝、母親がいないので、家中大騒ぎになる。娘(ヘスの妻)は置手紙を見つける。無言で捨てて、今までの生活を続ける。

 だが、ヘスの家族の幸せな生活は、無意識のうちに蝕まれていく。いくつかのエピソードが重なり、ヘスも子どもたちも、精神的にすさんでいることが分かる。

 本作品は最後に、現代のアウシュヴィッツ博物館の光景になる。わたしたちはそこに今まで観てきたヘスとその家族の生活、そしてユダヤ人たちの悲惨な運命(絶え間ない音と煙突から流れる煙で暗示されている)の記憶を重ねる。
(2024.6.18.109シネマズ二子玉川)
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戦雲

2024年04月03日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「戦雲」(いくさふむ)。タイトルの「戦雲」は石垣島に伝わる歌の言葉だ。「また戦雲(いくさふむ)が湧き出してくるよ。恐ろしくて眠れない」という内容だ。

 本作品は三上智恵監督が2015年から8年間にわたり撮り続けた映像を編集したもの。なんのストーリーも想定せずに、宮古島、石垣島そして与那国島に暮らす人々の日常を撮り続けた。急速に軍事化が進むそれらの島々で、人々は不安をかかえ、憤りをおぼえ、それでも慎ましい日々の生活を送る。そんな人々を撮り続けた。スクリーンからは三上監督の共感のこもった眼差しが感じられる。

 人々はマイクをもって自衛隊に訴える。「私たち住民は、戦争になったら、もしかすると避難することができるかもしれない。でもあなたたちは逃げられないんですよ」と。命が軽んじられるのは住民も自衛隊員も同じだ。ある人は基地のフェンス越しに自衛隊員に声をかける。「戦争になったら逃げてくださいよ」と。自衛隊員はそっと微笑む。ささやかな心の交流がある。

 たくさんの動物が登場する。与那国島は馬の産地だ。急ピッチに基地が整備されるいまでも、放牧された馬がいる。自衛隊の車両の前を馬がゆうゆうと横切る。大型航空機の目の前で馬が草をはむ。また、あれは宮古島だったか、ある家に子ヤギが入って走りまわる。母ヤギが心配そうに外で見守る。家の人が子ヤギを外に出す。母ヤギは子ヤギを連れていく。ある牧場では、母を亡くした子牛が、牧場主からミルクをもらう。子牛は牧場主についてまわる。母だと思っているのかもしれない。

 主要な登場人物が数人いる。たとえばカジキ漁の漁師。老人だが元気だ。カジキに足を突かれて大けがをする。それでも漁に出る。真っ青な海。白い雲。カジキは釣れるだろうか。また冒頭に掲げた「戦雲」の歌をうたう老女。その節回しは独特だ。だれにも真似ができない。老女が基地の前で座り込みをする。マイクをもって歌をうたう。声の伸びがすごい。失礼だが、老齢とは思えない。また前記の牧場主。「自衛隊が来れば経済が良くなるといわれたけど、かえってさびれてるんじゃない」という。

 エイサー(旧盆の踊り)やハーリー(漁船のレース)に興じる人々。島の軍事化に苦悩する人々にも楽しみがある。自衛隊の増強、弾薬庫の建設、ミサイル配備などで賛成派・反対派の分断が進む。その分断をもたらした者はだれか。島の有力者か。本作品からは「もっと他にいる」という示唆が伝わる。島の有力者も現場の自衛隊員も、振りまわされ、踊らされているのかもしれない。
(2024.3.18.ポレポレ東中野)
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かづゑ的

2024年03月29日 | 映画
 瀬戸内海の島にたつ国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。宮崎かづゑさんは10歳のときに入所した。90歳を超えたいまもそこで暮らす。映画「かづゑ的」は宮崎かづゑさんの日常を追ったドキュメンタリー映画だ。

 冒頭、かづゑさんが電動カートに乗ってスーパーにむかう。顔見知りの店員さんに声をかける。陳列棚から果物や野菜を取り、かごに入れる。だがその動作が大変だ。かづゑさんには両手の指がない。指のない手で商品を取るのは難しい。両腕でかかえるようにして取る。レジに行く。店員さんが財布を開けてお金を出す。指がないと財布を開けることも、お金を出すこともできない。

 わたしは冒頭のその場面で「可哀想だな」と思ってしまった。そう思ったわたしのなんと浅はかだったことか。かづゑさんの明るく前向きな生き方が、以後、わたしの同情心を打ち砕く。同情したわたしは甘かった。

 かづゑさんの言葉の一つひとつがわたしを撃つ。たとえばチラシ(↑)に掲載された「できるんよ、やろうと思えば」もその一つだ。それだけではない。映画にはハッとするような言葉がちりばめられている。常人には想像もつかない(常人には耐えられそうもない)過酷な体験から生まれた言葉だ。その体験をくぐったかづゑさんが到達した言葉のなんと逞しいことか。

 かづゑさんは愛が強い。たとえばかづゑさんが亡母の墓を訪れる場面がある。かづゑさんは墓石を抱きかかえて、しきりに話しかける。秋のその日、風が冷たい。かづゑさんの体調を心配する夫の(やはりハンセン病回復者の)孝行さんが声をかける。でもかづゑさんは墓石をかかえて去ろうとしない。数年後、孝行さんも亡くなる。納骨堂を訪れたかづゑさんは孝行さんの骨壺をかかえて、いつまでも泣く。

 ハンセン病はらい菌による感染症だ。だれでも感染する可能性がある。たまたまかづゑさんが感染した。以来ハンセン病患者としての人生が始まる。かづゑさんの意識では、ハンセン病患者としての人生を引き受けた。その人生はかづゑさんにも地獄だった。自殺も考えた。でも地獄から抜け出した。どうして抜け出せたのかは「わからない」という。

 わたしは以前、北条民雄の「いのちの初夜」などの諸作品を読んだことがある。感銘を受けたが、一方で、それらの作品には、ハンセン病患者を悲劇的に描き過ぎて、社会の偏見を煽ったという批判があることも知った。わたしは当時その批判がわからなかった。でも「かづゑ的」を観たいま、その批判が少しわかる気がする。
(2024.3.14.ポレポレ東中野)
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PERFECT DAYS

2024年02月20日 | 映画
 映画「PERFECT DAYS」を観た。映画を観るのは久しぶりだ。昨年は映画を観なかった。観たい映画はいくつかあったが、結局行かなかった。「PERFECT DAYS」は昨年12月に封切になったので、もう1か月以上続いている。今でもかなりの入りだ。

 話題作なのでプロットを紹介するまでもないだろう。一言でいえば、ドロップアウトした人の話だ。名前は平山という。恵まれた家に生まれたようだが、父親と対立して家を出た(詳しくは描かれない)。その後どういう経緯をたどったかはわからない。ともかく今は下町の老朽化したアパートに住み、公衆トイレの清掃員をしている。貧しいが、自由だ。自由の代償は貧しさと孤独だ。平山は自由を選んだ。

 親ガチャとは正反対の生き方だ。そんな生き方を描く映画を多くの人が観る。なぜだろう。みんな心の底ではそんな生き方に憧れているのだろうか。

 平山の生活は毎日、判で押したように同じことの繰り返しだ。朝まだ暗いうちに起きる。布団をたたむ。外に出て自販機で缶コーヒーを買う。ワゴン車に乗る。古いカセットテープを聞きながら、仕事に向かう。公衆トイレをピカピカに磨く。仕事から帰ると、銭湯に行く。夕飯を定食屋で食べる。アパートに帰る。寝床に入って、古本屋で買った文庫本を読む(上掲のスチール写真↑)。そのうち眠る。わたしは観ているうちに、それらの日常が愛おしくなった。

 そんな生活の中にもいろいろ小さな出来事が起きる。たとえば平山が公衆トイレの清掃をしていると、個室で声がする。平山はドアを開ける。すると子どもがしゃがんでいる。どうやら迷子になったらしい。平山はその子の手を引き、親を探す。すぐに母親が飛んでくる。「どこに行っていたの!」と。母親は平山に礼もいわずに、子どもの手をウエットティッシュで拭き、そそくさと立ち去る。平山を怪しい男だと思ったのかもしれない。だが子どもはそっと振り返り、平山に手を振る。

 また、こんなこともある。平山が公衆トイレを清掃していると、棚に小さな紙がはさまっている。井桁に〇(あるいは×だったか)が書いてある。〇×ゲームだ。平山は×(あるいは〇だったか)を書いて元に戻す。翌日、そこに〇(あるいは×)が書いてある。2~3日それが続く。そしてゲーム終了。余白にThank youと書いてある。孤独な人が(大人だろうか、子どもだろうか)だれかとつながっていたかったのだろうか。
 
 ストーリーの展開上、重要な出来事は他にあるのだが、上記のような比較的小さなエピソードが意外にいつまでも記憶に残る。
(2024.2.12.TOHOシネマズシャンテ)
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土を喰らう十二ヶ月

2022年12月02日 | 映画
 「土を喰らう十二ヵ月」をみた。とてもよかった。あちこちで紹介されている映画なので、あらすじを書くまでもないだろうが、一応書いておくと、信州の古民家に初老の作家の「ツトム」が住んでいる。妻は13年前に亡くなった。ツトムの家には時々担当編集者の「真知子」が訪ねてくる。ツトムは畑や山でとれた食材で食事を用意して、真知子と食べる。自然の恵みがおいしい。ツトムは真知子に淡い恋心を抱く。

 山奥の古民家でのほとんど自給自足の生活。自然の中にいて、四季の移ろいを感じ、だれにも邪魔されずに、孤独を楽しむ。わたしをふくめて、多くの人が憧れる生活だろう。もちろん実行は難しい。手が届きそうでいて、届かない。だから憧れる。そんな生活だ。

 究極のスローライフといってもいい。その象徴かもしれないが、時折カメが登場する。畑の隅を歩いていたり、泥水の中から顔を出したりする。カメだけではない。ニホンカモシカが樹間に見えたり、シカが現れたりする。本作品は自然映画でもある。

 それと同時に、本作品は台所映画でもある。畑や山でとれた野菜・山菜を水で洗い、包丁で切り、鍋でゆでる。それらの一つひとつの動作が全編にわたって映し出される。やがて食卓が整う。一汁一菜の食卓は自然の恵みと、それを用意した人の手間暇の結晶だ。けっして粗食には見えない。

 ツトムは亡妻の遺骨を墓におさめずに、家に置いている。近所に住む義母からは、早く納骨するようにと急かせられる。でも、その気にならない。そのうちに義母も急逝する。ツトムの家には亡妻と義母との二人の遺骨が並ぶ。ツトムはある日、小さな湖に行き、二人の遺骨を散骨する。二人は自然に帰った。

 ツトムは死を想う。死は怖い。死神とは仲良くなれそうもない。だが、避けることはできない。では、どうすればいいのか。ツトムはある日、もう明日、明後日のことは考えない、今日一日が良ければそれでいい、という心境になる。平凡な心境かもしれないが、気張らずに自然体だ。

 ツトムを演じるのは沢田研二。初老の男を好演している。本作品は沢田研二の存在感あってこその映画だ。若いころのオーラが、年月の堆積のうちに、独特の味をかもし出している。ツトムが60年前に漬けた梅干をもらって食べるシーンがある。最初は顔をしかめるほどしょっぱい。だが、口にふくんでいるうちに、まろやかな味になる。本作品における沢田研二はそんな味だ。真知子を演じるのは松たか子。ツトムとは親子ほども年が違うが、ツトムを理解している――そんな女性を感性豊かに演じている。
(2022.11.20.シネスイッチ銀座)
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岩波ホール「ユダヤ人の私」

2021年12月20日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「ユダヤ人の私」を見た。アウシュヴィッツ強制収容所など4か所の収容所を転々とし、ブーヘンヴァルト強制収容所(ヴァイマール郊外)に収容されていたとき、ドイツが敗北し、解放されたマルコ・ファインゴルト(1913‐2019)の証言だ。

 真っ暗な空間の中にファインゴルトがただ一人いて自らの体験を語る。ナチスに捕らえられるまでのこと、強制収容所で見たこと、さらには戦後、ユダヤ人難民をパレスチナへ送り出したことなどを、淡々と、ときにはユーモアを交えて。撮影時には105~106歳だった。驚くほど元気だ。そして撮影終了後、亡くなった。

 ファインゴルトが語る主要なことは、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合のときのウィーンの光景だ。大勢の市民が歓呼してナチスを迎えた。ファインゴルトもそこにいた。当時の映像が挿入される――。広場を埋め尽くす市民たち。みんな右腕を掲げるナチス式の敬礼でナチスの行進を迎える。老若男女を問わず熱烈な歓迎だ。

 ファインゴルトは戦後、その光景を語り続けた。だが、それは「ナチス・ドイツに併合された被害者」としてのオーストリアの主張からは不都合な証言だった。ファインゴルトは歴史修正主義者や反ユダヤ主義者たちから誹謗中傷や脅迫を受け続けた。いまの日本にあふれかえるヘイトスピーチと似ている。

 それにしてもファインゴルトにむかって、「ホロコーストはなかった」とか「お前たちは戦争中、強制収容所で安全に過ごした」とかいう人たちがいる――。そのことに言葉を失う。オーストリアだけではなく、日本をふくめて、世界中の国々は、第二次世界大戦を経ても、根本的には何も変わらなかったのだろうか。

 本作を制作した4人の共同監督は、本作の前に「ゲッベルスと私」を制作した。ナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書だった女性の証言だ。ファインゴルトと同様に撮影時には100歳を超える高齢だったその女性は、意気軒高に「私は秘書としての仕事をしただけだ。ホロコーストのことは何も知らなかった」と語る。ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」と喝破したアドルフ・アイヒマンと同じ言い分だ。「ゲッベルスと私」は「ユダヤ人の私」の上映期間中は毎週日曜日の午後3時半から上映されている。「ユダヤ人の私」をご覧になった方で「ゲッベルスと私」を未見の方は、ぜひご覧になることをお薦めする。

 ファインゴルトは戦後、ザルツブルクに住んだ。地元では高名だったのだろう。市内に流れるザルツッハ川にかかる橋のひとつが「マルコ・ファインゴルト橋」と命名されている。以前は「マカルト橋」と呼ばれていた橋だ。最近名前が変わったらしい。
(2021.12.18.岩波ホール)

(※)「ユダヤ人の私」の公式HP
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「スパイの妻」

2020年11月01日 | 映画
 「スパイの妻」は、昭和15年(1940年)、戦火の迫る神戸が舞台だ。福原聡子は貿易商を営む福原優作と幸せな毎日を送っている。優作は満州に出張する。そこで関東軍の機密にふれる。優作はその機密が人道上許せず、(国内は軍国主義一色なので)アメリカで公表しようとする。聡子は幸せな生活を守るために、夫の企てを止めるが、その機密を具体的に知ると、夫への愛を貫くために、夫とともに行動する。

 聡子の印象的な台詞がある。「私は狂ってなんかいません。でも、狂ってないことは、狂ってることなんでしょうね、この国では。」。みんなが狂っているときに、自分も狂っていれば楽だが、自分だけ狂っていないと、孤独に耐えなければならない。非難され、白眼視される。それでも自分の道を歩む人は、その結果起きるすべてのこと(迫害、あるいはそれ以上のこと)を受け入れなければならない。本作はそのような人の物語だ。

 もっとも、本作はヒーローを描いた映画ではない。人物像に人間味がある。また夫婦愛を描いた映画というのも憚られる。優作と聡子は(お互いを守るためだが)トリック合戦をする。そのどんでん返しが本作の骨格だからだ。本作の基本的な性格はサスペンス映画だろう。でも、それにしては時代状況の描き方に迫真性がある。

 聡子の台詞を通して、いくつかの問題提起がある。まず、幸せな生活をとるか、人道上の正義をとるかという問題。その二者択一、あるいは両立をめぐって、優作と聡子の対立があり、それが観客に、自分ならどうすると考えさせる。また、機密を公表することは、日本のファシズムを止めるために、アメリカに参戦を促すことにつながるが、そうなれば多くの日本人が命を失う。目的の正しさと犠牲の大きさとのバランスをどう考えるか、と。だが、考えている暇はない。決断し、行動しなければならない。結果がどうあれ、その責任を引き受けなければならない――本作はそんな状況を描いている。

 本作はベネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した。受賞の背景には(あるいは審査の背景には)、本作の描く状況が、日本はもとより諸外国でもリアリティをもって感じられるからではないか――いまは多くの国がそんな状況だ――と思う。

 監督は黒沢清。二転三転するストーリー(ある破局に突き当たったと思うと、その裏に別のたくらみが隠されている、という展開が連続する)が緊迫感をもって進行する。それは最後の最後まで(なんと映像が終わってからも!)続く。主人公の聡子を演じるのは蒼井優。夫への一途な愛に説得力がある。
(2020.10.27.109シネマズ二子玉川)
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「異端の鳥」

2020年10月28日 | 映画
 映画「異端の鳥」をみた。時は第二次世界大戦中、所は東欧のどこか(特定されていない)。ナチス・ドイツのユダヤ人狩りが迫るなか、ある少年が老婆のもとに預けられる。ところが老婆が急死する。少年は逃げ出す。戦争、暴力、性的虐待など、あらゆる辛酸をなめながら、少年は状況に適応して屈辱に耐え、悪を身につけて生きのびる。少年はどこに行きつくのか――というサバイバル物語。

 少年を迫害するのはナチス・ドイツやソ連軍ではなく、普通の人々だ。少年が紛れこむ村々で生活する住民だ。それがなんともやりきれない。むしろ軍人の中にはひそかに少年を助ける人もいる。だが、普通の人々は過酷だ。偏見に閉ざされ、ナチス・ドイツにおもねる。

 この作品はナチス映画ではない。また戦争映画でもなく、ホロコースト映画でもない。今の世の中に無数にあるマイノリティへの迫害の物語――その寓話だろう。わたしたちの身のまわりにもたくさん起きている事象。たとえばいまの日本には(世界中かもしれないが)ヘイト感情が蔓延している。その加害と被害の一つひとつは、どれも小さな(あるいは大きな)「異端の鳥」のバリエーションかもしれない。

 本作の原題はThe Painted Bird。直訳すると、色を塗られた鳥。その原題が意味するところを語るシーンがある。少年が一時身を寄せた野鳥狩りの男が、一羽の小鳥に塗料を塗って空に放つ。小鳥は鳴きながら舞い上がる。その声を聞いた鳥の群れが現れる。小鳥は群れに加わろうとする。だが群れは小鳥を攻撃する。すさまじい攻撃だ。傷ついてボロボロになった小鳥は地に落ちる。少年は呆然として小鳥の死骸を拾う。集団の異質なものへの残酷さを象徴するシーンだ。

 本作は白黒映画だ。その映像は詩的で美しい。東欧の荒野、森、小川などの自然風景だけではなく、世界から見捨てられ、忘れられたような寒村でさえ美しい。全編169分の長編だが、時間の長さを感じさせない。物語の過酷さと映像の美しさと、その両方があいまって、本作をひとつの寓話に結晶させる。

 白黒映像の美しさのためだろう、わたしはタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」と「サタン・タンゴ」を思い出した。両者は(わたしにとっては)いままでみた映画の中ではベスト作品なのだが、それらの作品が映画の極北に位置すると思われるのにたいして、本作はそこまで極限的なものではない。上記のようにナチス・ドイツにもソ連軍にも少年を助ける人がいるなど、小さな救いや幸運が組み込まれている。それが観客の希望をつなぎとめ、物語を前に進める。
(2020.10.20.TOHOシネマズ シャンテ)

(※)本作のHP
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『男はつらいよ』お帰り 寅さん

2020年01月09日 | 映画
 もうずいぶん前のことだが、テレビで渥美清の特集番組を見た。その中で渥美清はこう語っていた。「スーパーマンっていうテレビ番組があっただろう。あれをやっていた役者が、ある日子どもたちに囲まれて、『ねえ、空を飛んでよ』とねだられた。だけど飛べなかった。ね、役者は素顔を見せちゃいけないんだよ」と。わたしの家にはテレビがないので、その番組をどこで見たのか記憶にないが、ともかくその言葉が印象に残った。その言葉を語るときの渥美清の表情が、寂しそうに見えたからか。

 「寅さん」シリーズ第50作の「お帰り 寅さん」を見た。よく笑い、よく泣いた。スクリーンに映る寅さんは(過去の作品の抜粋なので当然だが)いつもの寅さんだった。明るく屈託のない寅さん。人は死んで星になる。そんなロマンチックな言い方が、今だけは許されるなら、寅さんは星になったと思った。

 寅さんの妹のさくらも、さくらの夫の博も、年を取ったが元気だ。おばちゃん(寅さんとさくらの叔母)とおいちゃん(おばちゃんの夫)は亡くなった。団子屋(今はカフェになっている)の奥の茶の間には、今はさくらと博が住んでいる。

 上掲のスチール写真(↑)がその茶の間。ちゃぶ台を囲んでいるのは、左から順に、満男、満男の初恋の人・泉ちゃん、さくら、博。どこか懐かしい茶の間の風景だ。今の日本からは失われた風景かもしれない。「寅さん」シリーズの魅力は多々あろうが、今となっては茶の間の風景もその一つだ。

 満男はサラリーマンを辞めて小説家になった。結婚したが、妻は6年前に亡くなった。今は中学3年生の娘と二人暮らし。ある日、満男の前に泉ちゃんが現れる。泉ちゃんはヨーロッパに渡り、家庭を持っているが、仕事で日本に帰ってきたところ。そこからドラマが動きだす。

 ドラマの中心は満男だが、考えてみれば、「寅さん」シリーズの最後の頃は、実質的には満男が中心になっていた。満男と泉ちゃんの不器用な恋。それを暖かく見守る寅さん。その頃の「寅さん」シリーズは、満男を演じる吉岡秀隆の繊細な演技に支えられていた。実感としては、寅さんのDNAが満男に受け継がれたようだった。

 本作には寅さんと一番馬が合った(と思われる)リリーさんも登場する。リリーさんは今ではジャズ喫茶を経営している。そのリリーさんや、さくらも、過去の名場面に登場する。リリーさんを演じる浅丘ルリ子や、さくらを演じる倍賞千恵子の、息をのむようなみずみずしさ!
(2020.1.6.ユーロスペース)
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この世界の(さらにいくつもの)片隅に

2019年12月26日 | 映画
 「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た。2016年に大ヒットした「この世界の片隅に」に“さらにいくつもの”カットを追加したもの。わたしは2016年のヴァージョンは観なかったが、その後、戦争中に呉海軍工廠で働いた亡父の記録がかなり判明したので、戦争中の呉を舞台にした本作を観る気になった。というよりも、正確にいうと、亡父の記録を調べる過程でさまざまなご指導をいただいた方(「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇跡」の著者。同書は自費出版・非売品だが、全国140か所の公立図書館に収蔵されているそうだ)の強い推薦を受けたから。

 ストーリーは多くの方がご存じだろうが、念のために簡単に触れると、1944年(昭和19年)、18歳になった「すず」は呉に住む「周作」のもとに嫁ぐ。「すず」にも「周作」にも結婚前に心を寄せる異性がいたが、そのことは二人とも胸に秘めたまま、若い二人のぎこちない新婚生活が始まる。

 「すず」は「周作」の過去に、「周作」は「すず」の過去に、それぞれ気付く。一方、戦争は激化し、呉にも空襲がある。やがて広島に原爆が投下され、そのキノコ雲が呉からも見える。敗戦。その翌月に枕崎台風が襲い、人々を打ちのめす。「すず」と「周作」は廃墟となった広島の街に佇む。そこに戦災孤児の少女が現れる。二人はその少女を連れて呉に帰る。二人は生活再建の一歩を踏み出す。

 以上、「すず」と「周作」の心の襞が濃やかに描かれるので、呉という文脈を離れても鑑賞できる作品だが、そこに戦時中の呉というリアルな場所が加わり、そこに亡父がいたという事情から、わたしは本作のディテールに目をみはった。

 たとえば扱く葉(こくば=松の落葉)でお湯を沸かすシーン。亡父は1998年に亡くなったが、その前に残した俳句に、扱く葉で風呂をたいた想い出を詠んだものがある。また「すず」が呉の市街を歩くシーンに出てくる映画館。亡父の俳句にも映画館が出てくる。また、これは俳句ではないが、亡父は生前、戦艦大和を見たとか、原爆のキノコ雲を見たとか言っていたが、それらも本作に出てくる。

 亡父は末端の工員だった。労働の厳しさ、生活環境の劣悪さ、あるいは1945年(昭和20年)3月以降の空襲の激しさなど、過酷な体験をしただろうが、前述の俳句100句あまりには、のどかな日常しか出てこない。生前の話の中にも、過酷な想い出は出てこなかった。そんなものだろうか。そんな亡父の記憶と、本作の、戦争中ではあるが、その“片隅”の健気な日常とがシンクロするように感じた。アニメの淡い色調が穏やかな情感を醸し出し、また時々現れるドローイングの太い線が印象的だった。
(2019.12.25.丸の内TOEI)
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タル・ベーラ監督「サタンタンゴ」

2019年09月26日 | 映画
 タル・ベーラ監督の映画「サタンタンゴ」は上映時間7時間18分なので(実際の上映では途中に休憩が2度入る)、観るには相当の覚悟がいる。でも、実際に観ると、その長さは苦にならない。一定のリズムというか、ゆったりしたペースがあるので、そのペースに乗れば、スクリーンに展開するドラマに身を委ねることができる。

 場所はハンガリーの寒村、時は社会主義時代の末期。だが、そんな場所も時も超えた神話性が本作にはある。それはどんな神話か。行き詰まった世界の神話。今の時代の暗喩のようでもある。本作は1994年の完成だが(今回は日本初公開)、わたしは25年前の作品とは感じなかった。今の日本の危うさの寓話のように感じた。

 全体は2部に分かれる。第1部では寒村に住む人々が描かれる。疲れ切って、貧しく、酒や性など一時的な享楽にふける。第1部は(そして第2部もそうだが)6章に分かれている。おもしろいのは、第1部では各章の視点が異なる点。たとえば人々が酒場で酔い、ダンスに興じる場面がある。外は雨。少女が雨に濡れながら、酒場の中を覗いている。そこにアル中の老医師が通りかかる。少女は「先生!」と声をかけて飛び出す。老医師は転び、悪態をつく。少女は逃げる。

 この場面が3度出る。最初は老医師の生活を描く中で(第3章)、次に少女の生活を描く中で(第5章)、3度目はダンスに興じる人々を描く中で(第6章)。それぞれのコンテクストで同じ場面が登場する。寒村を多層的に描く手法だろう。

 第2部では、1年ほど前に姿を消して、「死んだ」といわれている男イリミアーシュが戻ってくる。弁舌巧みに人々に、貧困から抜け出すために、荘園経営を持ちかける。人々はイリミアーシュを信用して、ありったけの金を拠出し、荘園(=約束の地)に向かうが‥。

 本作のメッセージは「救済者(=扇動者)には気をつけろ」だろう。そのメッセージが今の日本にも当てはまる。だれが扇動者か。なにが狙いか。

 本作は「長回し」のカットが特徴だ。一つのカットが延々と続く。冒頭では、廃墟と化した農場から、牛が何頭も出てくる。交尾する牛もいる。そんな牛の群れが、あてどなく右往左往する場面が延々と続く。その情景が目に焼き付く。また、全編にわたって、雨と泥道が映し出される。本作の主役は雨と泥道だ。冷たい雨が人々の顔を打つ。泥道が人々の足をすくう。雨と泥道の質感が圧倒的だ。

 本作は多くの謎を残したまま終わる。だが、物語は終わっていない。ずっと続く。
(2019.9.19.イメージフォーラム)

(※)本作のHP
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新聞記者

2019年07月17日 | 映画
 映画「新聞記者」がヒットしているそうだ。わたしが観にいった平日午後の上映でも客席はほとんど埋まっていた。

 本作は東京新聞の望月衣塑子記者の手記「新聞記者」を原案とするフィクション映画。ストーリーに安倍政権のもとで起きたさまざまな出来事が織り込まれている。プログラムに掲載された「現代社会にリンクする社会派エンタテインメント」というキャッチフレーズが本作の性格を的確に言い表している。

 エンタテインメントなので、本作は事実に基づく映画ではなく、観るほうも、それは百も承知なのだが、そこに散りばめられた「現代社会にリンクする」ディテールがリアルでおもしろい。わたしたちは、安倍政権のもとで何が起きたか、ほぼ正確にわかっている。それを打ち消そうと躍起になっている安倍政権をまざまざと見てきた。そんな過去の数年間の一部が本作に投影されている。

 ストーリーをざっと紹介すると、「東都新聞」社会部記者の吉岡エリカが、ある日匿名で送られてきた「医療系大学の新設」(獣医学部とはしていない点がミソだ)に関する極秘文書のファックスについて取材を始める。その過程で内閣情報調査室(内閣官房の実在の組織)の杉原拓海と出会う。二人は対立する立場だが、それぞれの人生の重荷を背負いながら、接点を持つに至る。

 吉岡エリカを演じるのは「韓国の若手トップ女優」のシム・ウンギョン(スチール写真↑左)。「父は日本人、母は韓国人、育ちはアメリカ」という設定で、どこにでもいそうな、むしろ地味なキャラクター。そんな若手記者がひたむきに真実を追う。

 杉原拓海を演じるのは松坂桃李(同↑右)。エリート官僚ではあるが、情報操作(世論誘導といってもいい)に明け暮れる仕事に疑問を持つ。そんな「仕事の顔」と、出産を間近に控えた妻のいる「家庭の顔」と、その相克が痛々しい。

 松岡桃李は劇場公開直後の6月29日の舞台挨拶で「『新聞記者』のホームページがきのうパンクしたらしくて、みなさんの感想が多くて。それくらい熱量のある作品なんだなと」(7月6日付の日刊ゲンダイ)と明るく語ったそうだが、実際にはそんな生易しい話ではなかったようだ。配給関係者が言うには、「サーバー業者の説明によると、特定のIPアドレスから集中的なアクセスを受けた可能性が高いと。トップ画面の動画データに対し、同一のIPアドレスから人力ではあり得ない数のアクセスを受けているというんです」(同)。映画を地で行く事象が起きているわけだ。
(2019.7.16.新宿ピカデリー)
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主戦場

2019年07月09日 | 映画
 4月下旬から公開されているドキュメンタリー映画「主戦場」が、異例なロングランを続けている。従軍慰安婦をめぐる「慰安婦」否定論者(歴史修正主義者)の主張と擁護派の主張を対置させた作品。「慰安婦」否定論者が上映禁止を求めて提訴するなど、激しい抗議活動を展開しているので、余計に世間の注目を集め、わたしも重い腰を上げて観にいった。

 本作に登場する主な「慰安婦」否定論者は、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏(↑上掲スチール写真の一番左の人物。以下、順に右へ)、衆議院議員(自由民主党)の杉田水脈氏、アメリカ・カリフォルニア州の弁護士・日本のテレビタレントのケント・ギルバート氏、「テキサス親父」のマネージャーの藤木俊一氏、「テキサス親父」のトニー・マラーノ氏の面々。もっとも、わたしは「テキサス親父」を知らなかったが(当然そのマネージャーも知らなかった)、動画サイトでは有名な人らしい。

 それらの人々に、本作の監督・脚本・撮影・編集・ナレーションを務めるミキ・デザキ氏(1983年生まれの日系アメリカ人2世)がインタビューをする。皆さん自説を述べる。他方、ミキ・デザキ氏は、歴史学者の吉見義明氏、同じく歴史学者の林博史氏、弁護士の戸塚悦朗氏、政治学者の中野晃一氏などにもインタビューする。それらのインタビューを編集して、論点ごとに対置すると、「慰安婦」否定論者の主張がどれほど事実を歪曲したものであるか、明らかになる仕組みだ。

 たとえば杉田水脈氏が「当時の新聞記事を見ると悪徳業者を逆に取り締まっているんですね、日本政府や軍が。」という。すると林博史氏が「あの、朝鮮半島の新聞記事だと思うんですけど。これ、慰安婦とは全然関係ないです。」という具合だ。

 もう一つ例を挙げると、藤岡正勝氏は「国家は謝罪しちゃいけないんですよ。国家は謝罪しないって、基本命題ですから。是非覚えておいてください。」という。その化石的な国家観に愕然とする。たとえば2001年に小泉純一郎首相(当時)が、熊本地裁の判決を受けて、ハンセン病患者・元患者に謝罪した。それをどう考えるのだろう。

 驚くのは、「慰安婦」否定論者が、なんの警戒心もなく、嬉々として自説を述べている点だ。そのため、本作は「慰安婦」否定論者(歴史修正主義者)の素顔が見える貴重な映像になっている。底が浅く、思い込みが激しい。そして嫌中・嫌韓の言説をまき散らしている。
(2019.7.3.イメージフォーラム)
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こどもしょくどう

2019年04月06日 | 映画
 近頃ささやかなボランティアをしている。近所の公民館の一室でやっているのだが、先月のある日、隣の部屋で子ども食堂をやっていた。たいへんな賑わいだった。当日のメニューはカレーライスで、子どもは無料、大人は300円。廊下から覗いていたら、「いかがですか」と声を掛けられた。「いえ、結構です。恐縮です」と遠慮した。

 子ども食堂というと、親が夜遅くまで働いているので、一人で夕食をとる子とか、貧困のため満足な食事ができない子とか、そんなイメージがあるが、その子ども食堂は、親子連れの子が多く、楽しそうな声が飛び交っていた。貧困のイメージはなかった。

 でも、本当はどうなのだろう。廊下から覗いただけではわからない事情が、楽しそうな声の陰に隠れているのかもしれない。あるいは、貧困の只中にいる子は、そのような子ども食堂に来ることもできないかもしれない――などと考えた。

 そんな折に映画「こどもしょくどう」を知ったので、観に行った。ユウトは東京の下町に住む中学生。両親は小さな食堂を営んでいる。ミサという小学生の妹がいる。ユウトの友だちにタカシがいる。体は大きいが、いじめられている。タカシの家は母子家庭。母親からはネグレクトされている。

 ユウトとタカシは、ある日、河川敷で車中生活をするミチルとヒカルという姉妹に出会う。ミチルはユウトやタカシと同年齢くらい。ヒカルはミサよりも小さそうだ。父親がいるのだが、車に帰ってきたり、帰ってこなかったりで、育児放棄も同然だ。ミチルがヒカルの親代わりになって世話を焼いている。

 ミチルとヒカルは、両親揃って幸せな日々を送っていたこともあるが、何があったのか、事情はわからないが、母親は姿を消し、父親も二人を置いて逃げ出そうとしている中で、二人だけで車中生活をする羽目に陥っている。

 そんな5人の子どもたちの生活が、子どもたちの目線で描かれる。食堂を営むユウトの両親は、思いやりのある善意の人たちだが、そんな両親でさえ大人の目線が否めない。それが子どもたちの心に波紋を引き起こす。

 ミチルを演じる鈴木梨央(りお)の影のある繊細な演技に注目した。両親が揃っていた幸せな日々の回想シーンがあるのだが、そのときの明るい表情と、幼い妹と二人で車中生活を送る毎日の、その重みに必死に耐える暗い表情とは、別人のように見える。わたしは何度か胸をつかれた。2005年生まれだが、大人の演技だ。
(2019.4.1.岩波ホール)

(※)本作のHP
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