「歴年」の洋楽版。率直にいって、雅楽版よりも聴きやすかった。音のちがいだと思う。夾雑物を排した‘楽音’だからだ。蒸留水のような音。雅楽の楽器はそうではない。微かな滓のようなものがある。
でも、どちらがいいという話ではない。そんな話に収斂してはもったいない。せっかく雅楽版と洋楽版があるのだから、シュトックハウゼンがなにと格闘し、それぞれどんな可能性を提示したかという話にしたいものだ。
視覚的にいっても、今回のほうがわかりやすかった。4人の舞人が‘千年’は能楽師、‘百年’は舞踏家、‘十年’はダンサー、‘一年’はパフォーマーと、それぞれちがう様式だったからだ。エンタテイメント的な側面が加わった。
「歴年」を(雅楽版と洋楽版と)2度聴いて、この作品が、明るく、乾いた、醒めた作品であることがよくわかった。逆にいうなら、感動するとか、圧倒されるとか、揺さぶられるとか、そんな性格の作品ではない。そういった要素を排除した一種の‘遊び’なのだ。
年号を表示するカウンターが、初演年の1977年に向かって刻一刻と進む。それはそう作曲されているのだから、動かしようがない。でも、目指すは2014年だ。最後にカウンターが1977年で止まったら、その後どうするのか――。4人の舞人がゴールに到着したその瞬間、2014年に早変わりした。苦肉の策か(笑)。
後半は三輪眞弘の新作「59049年のカウンター」。舞台のカウンターは2011年を表示している。東日本大震災の年。原発事故の起きた年。この曲はそこから未来に向かって進む。「歴年」がゼロ年からスタートして2014年にゴールインするのとは正反対の発想だ。
器楽アンサンブルが一定のパルスのような音型を連続する。核廃棄物が放射性物質を放射し続ける様子のようだ。ビニールの雨合羽を着た人々が右往左往する。人々は次々に紙片をリーダーに手渡す。リーダーはそれらの紙片を読みあげる。百人一首のようだが、ここで繰り広げられる光景は、暗く、緊迫した、近未来的なものだ。
紙片には藤井貞和の詩「ひとのきえさり」の断片が書かれていたはずだ。プログラムに全文が載っている。すごい詩だ。衝撃的だ。でも、残念ながら、ほとんど聞きとれなかった。残響の多いこのホールで、しかもPAを使って、早口で歌われる言葉を聞きとることができるためには、どうすればいいのか。
(2014.8.30.サントリーホール)
でも、どちらがいいという話ではない。そんな話に収斂してはもったいない。せっかく雅楽版と洋楽版があるのだから、シュトックハウゼンがなにと格闘し、それぞれどんな可能性を提示したかという話にしたいものだ。
視覚的にいっても、今回のほうがわかりやすかった。4人の舞人が‘千年’は能楽師、‘百年’は舞踏家、‘十年’はダンサー、‘一年’はパフォーマーと、それぞれちがう様式だったからだ。エンタテイメント的な側面が加わった。
「歴年」を(雅楽版と洋楽版と)2度聴いて、この作品が、明るく、乾いた、醒めた作品であることがよくわかった。逆にいうなら、感動するとか、圧倒されるとか、揺さぶられるとか、そんな性格の作品ではない。そういった要素を排除した一種の‘遊び’なのだ。
年号を表示するカウンターが、初演年の1977年に向かって刻一刻と進む。それはそう作曲されているのだから、動かしようがない。でも、目指すは2014年だ。最後にカウンターが1977年で止まったら、その後どうするのか――。4人の舞人がゴールに到着したその瞬間、2014年に早変わりした。苦肉の策か(笑)。
後半は三輪眞弘の新作「59049年のカウンター」。舞台のカウンターは2011年を表示している。東日本大震災の年。原発事故の起きた年。この曲はそこから未来に向かって進む。「歴年」がゼロ年からスタートして2014年にゴールインするのとは正反対の発想だ。
器楽アンサンブルが一定のパルスのような音型を連続する。核廃棄物が放射性物質を放射し続ける様子のようだ。ビニールの雨合羽を着た人々が右往左往する。人々は次々に紙片をリーダーに手渡す。リーダーはそれらの紙片を読みあげる。百人一首のようだが、ここで繰り広げられる光景は、暗く、緊迫した、近未来的なものだ。
紙片には藤井貞和の詩「ひとのきえさり」の断片が書かれていたはずだ。プログラムに全文が載っている。すごい詩だ。衝撃的だ。でも、残念ながら、ほとんど聞きとれなかった。残響の多いこのホールで、しかもPAを使って、早口で歌われる言葉を聞きとることができるためには、どうすればいいのか。
(2014.8.30.サントリーホール)