Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

シャルダン展

2012年09月29日 | 美術
 東京にも秋の気配が漂うようになった。日が暮れるのも早い。つい先日までは明るかった夕刻も、もう暗くなった。仕事帰りの人々が行きかう丸の内のオフィス街を抜けて、三菱一号館美術館のシャルダン展に行った。

 シャルダン(1699~1779)という画家は知らなかった。今春開かれたベルリン国立美術館展に一点来ていたので、興味深く観たが、それはこの展覧会があるのを知っていたからだ。もしこの展覧会がなかったら、気に留めなかったろう。エルミタージュ美術館展にも一点来ていたそうだ。わたしは行けなかったが。

 シャルダンの画業を一望するこの展覧会で、シャルダンとはどういう画家か、よくわかった。画家としてのキャリアは静物画でスタートし、やがて風俗画に転じたが、晩年はまた静物画に戻った。チラシ(↑)に使われている「木いちごの籠」は、晩年の静物画の一つだ。詩情あふれる静謐な作品――であることは、チラシでもわかると思うが、実際にはそれ以上に、永遠性とでもいうべきものが感じられた。

 なんの変哲もない木いちごを描いた絵が、永遠性を感じさせるとは、すごいことだ。それはこの絵だけではなく、たとえば最晩年の「ティーポットとぶどう」という絵も、簡潔性の極みのその先に、永遠性が感じられた。

 こういったことは、たとえばルーブル美術館のような大きな美術館では(ルーブルは大きすぎて例示が適切ではないが)、気が付かないで通り過ぎてしまう類のものだ。本展のようにこの画家だけで構成された展覧会でないと、なかなかわからない。

 シャルダンの特徴の一つに、対作品がひじょうに多いこともわかった。2点で一対をなす作品だ。上記の「木いちごの籠」も、本展には来ていないが、「水の入ったコップとコーヒーポット」という作品と一対になっているそうだ。明と暗、暖色と寒色――そのようなコントラストをもつ一対の作品が、互いに補完し、バランスをとっている。このような平衡感覚もシャルダンらしい。

 以上のような、簡潔性、日常の何気ないものに潜む永遠性、バランス感覚――これらの要素は、わたしたち日本人の美意識と通じるものではないだろうか。18世紀フランスの画家だが、意外に日本人受けする画家かもしれない。

 午後6時に入館して、閉館までの2時間が、あっという間に過ぎた。いくら観ていても疲れない――それもまたシャルダンの特徴だった。
(2012.9.27.三菱一号館美術館)
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フリーマン・エチュード

2012年09月26日 | 音楽
 今年はジョン・ケージ(1912~1992)のメモリアル・イヤーだ。普段は聴けそうもないケージの作品がいくつも演奏されている。都合がつくかぎりこの機会を逃すまい、と思っている。昨日はアーヴィン・アルディッティのヴァイオリン独奏で「フリーマン・エチュード」の全曲演奏会があった。

 全32曲。時間にして約100分。途中休憩なし。1曲当たり平均3~4分の各曲にじっと耳を傾けた。この経験は去る9月5日の宮田まゆみの笙独奏による「One9」に似ていた。

 星図表や中国の易経を使って、音高、音価、強弱などを決めたというその曲は、聴くものにとっては、前後の脈絡のない音が、気まぐれに並べられているように聴こえる。それを客席でじっと聴いていることは、控えめにいっても、苦行だった。

 けれども、そう感じたのは、わたしだけだったかもしれない。会場の津田ホールは小さいホールだけれど、それなりに埋まった聴衆は、じっと息をひそめて聴き入った。もちろん居眠りをしている人もいた。わたしもその一人だ。だが静寂は保たれた。それも「One9」のときと同じだった。

 アルディッティの演奏は、曲を追うごとに熱を帯びていった。上記のようなアナログ的ともいえず、デジタル的ともいえない、一見アットランダムな音の配列だが、そこに人間の体温が吹き込まれた。ヴァイオリンの音が温かく感じられた。

 やがて演奏が終わった。会場からは熱狂的な拍手が起きた。それはアルディッティの演奏にたいする拍手だったかもしれないが、たとえそうであっても、ケージの音楽にたいする理解(あるいは愛情)があったうえでの拍手だろう。

 わたしは残念ながら理解できなかったが、これだけ多くの人たちがケージを理解し、または愛していることがわかって嬉しかった。

 アンコールがあった。「こんなにすばらしい聴衆のために、もう1曲演奏します。ケージの、もっと簡単な(笑い)、短い曲です」といって演奏してくれたその曲は、素朴な曲だった。これは気に入った。津田ホールのツィッターを見たら、曲名が紹介されていた。「Eight Whiskus」という曲だ。作曲は1985年。ということは、「フリーマン・エチュード」と同じ時期の作品だ。これには驚いた。あんなに難解な曲を書いているそのかたわらで、こんなに素朴な曲を書いているとは――。ケージの奥深さの一端にふれた思いだ。
(2012.9.25.津田ホール)
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スクロヴァチェフスキ/読響

2012年09月25日 | 音楽
 スクロヴァチェフスキ指揮の読響を聴いた。スクロヴァチェフスキは今回も元気だ。1923年生まれだから今年89歳になる。どこまで元気なのかと思う。プログラムも凝ったものだ。とても枯淡の境地とはいえない。むしろそんなものはどこ吹く風、やりたいことをやる尖がったお爺ちゃんだ(失礼!)。

 1曲目は「魔弾の射手」序曲。冒頭のアダージョは一般的なテンポよりも遅い。スクロヴァチェフスキの思い入れというか、こだわりが感じられる。主部に入っても、彫りの深い、大きな構えの演奏が展開された。

 びっくりしたのは最後の部分だ。結末の和音に飛び込む前の一瞬の総休止の箇所で、チェロとヴィオラが鳴っていたような気がする。あれは錯覚か。帰宅後、ペータースのスコアを見てみたら(今はインターネットで見られる)、たしかに総休止だった。だがたしかに鳴っていた。あのときハッとしたのだ。このオペラの暗い深層心理が顔をのぞかせたような気がした。今までこの音に気付いていなかったのかと思った。でもそれは錯覚だったのか。

 2曲目はスクロヴァチェフスキ自身の作品「クラリネット協奏曲」。スクロヴァチェフスキが読響の常任指揮者をつとめたお陰で、ずいぶんその作品を聴かせてもらった。どの作品も面白かった。これもそうだ。スクロヴァチェフスキの作品は、明快なメロディーがあるようなものではなく、現代音楽的なものだが(大雑把な言い方で申し訳ありません)、演奏家の生理に反したところがないのではないか、という気がする。それプラス音楽的思考の活発さがその作品を特徴づけていると思う。

 クラリネット独奏はリチャード・ストルツマン。懐かしい名前だ。さすがに年を取ったが、今でも格好いい。「タッシ」のころを知っている者としては嬉しい。

 3曲目は「トリスタンとイゾルデ」(ヘンク・デ・フリーヘルによる管弦楽用編曲版)。これは驚くべき名演だった。音は瑞々しく、色彩豊かで、人間の生(なま)の感情が、まるで傷口がむき出しになるように、流れ出てきた。スクロヴァチェフスキの忘れがたい名演がまた一つ生まれた。

 フリーヘルはオランダ放送フィルの打楽器奏者だ。以前「ニーベルンクの指輪」の編曲版を聴いたことがある(あれはどこのオーケストラだったか)。それにくらべてこの編曲はよくできている、と思った。トリスタンとイゾルデの心理に焦点が絞られていた。
(2012.9.24.サントリーホール)
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週末の二つの演奏会

2012年09月24日 | 音楽
 先週の土曜日は演奏会を二つかけもちした。3時からはN響の定期、6時からは日本フィルの横浜定期。さらに友人が上京したので、9時に品川で待ち合わせた。というわけで、珍しく忙しい週末だった。

 N響はレナード・スラットキンの指揮でリャードフの「8つのロシア民謡」とショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。リャードフの曲は知らなかったが、ナクソス・ミュージック・ライブラリーを検索したら、ちゃんと載っていた。素朴ないい曲だ。N響の演奏もよかった。これらの8つの小品を正しく紹介します、といっているような演奏だった。

 ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」も、曲の規模や性格はまるでちがうが、リャードフと共通性のある演奏だった。熱狂とは無縁の、スコアをあるがままに再現した演奏、といえばよいか。こういう演奏で聴くと、例の第1楽章展開部の「ボレロ」のパロディーといわれている部分が、なるほどパロディーだと思われ、他の部分にもパロディーが隠されているのではないかという気がした。

 スラットキンは、今まで切れ目なく欧米の主要なオーケストラの音楽監督・首席指揮者を務めている指揮者だけあって、オーケストラを破たんなくまとめていたが、それ以上の発見はなかった。

 終演後、横浜へ。渋谷からは東横線で一本なので便利だ。6時開演の日本フィル横浜定期に十分間に合った。

 横浜定期は三ツ橋敬子の指揮。最近よく見かける名前だが、わたしは初めてだ。プログラムはオール・ベートーヴェン・プロ。1曲目は「プロメテウスの創造物」序曲。さっそうとした指揮ぶりだ。出てくる音楽も歯切れがいい。しかも前のめりにならずに、しっかり聴かせてくれる。好調なスタートだ。

 2曲目はピアノ協奏曲第5番「皇帝」。ピアノ独奏は中村紘子。大変な人気だが、失礼ながらもう第一線の演奏家とはいいかねるようだ。最後は交響曲第5番「運命」。これも1曲目と同様、しっかり聴かせてくれた。三ツ橋敬子は、たとえばシモーネ・ヤングのような男勝りのタイプでもなく、西本智美のような女性的なタイプでもなく、いわば自然体のように見えた。イタリア在住とのこと。彼の地でその才能を伸ばしてもらいたい。

 アンコールがあるようだったが、一路、品川へ。待ち合わせの時間に余裕で間に合って友人とビールで乾杯。
(2012.9.22.NHKホール/横浜みなとみらいホール)
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レーピン展

2012年09月20日 | 美術
 ムソルグスキーの例の肖像画が来ているレーピン展に、いつ行こうかと思っていた。やっと行くことができた。ムソルグスキー好きのはしくれとしては、実物を観る得がたいチャンスだ。

 思いのほか明るい絵だ。そう思ったのは、背景が明るい空色(クリーム色がかった空色に見えた)のせいだが、もう一つは、ムソルグスキーの表情が、アルコール依存症で廃人同然というよりも、若いころの面影を残していたから――精神性の残滓が感じられるから――だ。これは写真ではわからなかったことだ。

 この作品は1881年3月2~5日に描かれたそうだ。ムソルグスキーが亡くなったのは3月28日(本展の解説では「約10日後に亡くなった」とされている。起算日の取り方の関係だろうか)。ぼさぼさの髪や伸び放題の髭は克明に描かれているが、一方、衣服の描き方は平板だ。多分、ムソルグスキーが亡くなったので、衣服に手を入れる時間がなかったのだろう。ムソルグスキーの最期を描きとめたことで、もう満足したのかもしれない。

 本展で随一の傑作は「皇女ソフィア」ではないかと思うが、これもムソルグスキーに結び付く作品だ。ソフィアは1682年に摂政となったが、異母弟のピョートル1世に失脚させられ、修道院に入れられた。本作は修道院で憤怒に燃えるソフィアを描いたものだが、その凄まじい形相とともに、光沢のある衣服の描写がすばらしい。

 その時代はオペラ「ホヴァーンシチナ」で描かれた時代だ。ソフィア本人は出てこないが、ソフィアが愛人ゴリツィン公にあてた手紙が出てくる。今後「ホヴァーンシチナ」を観るときには、かならずやこの絵を思い出すだろう。

 本展には「作曲家セザール・キュイの肖像」という絵もあった。ムソルグスキーと同様ロシア五人組の一人キュイは、こういう顔をしていたのか。そういえばキュイがどういう顔なのか、今まで知らなかった。作曲家というよりも軍人だ。軍人らしい厳しさと合理性が感じられる。ラフマニノフの交響曲第1番の初演をこき下ろしたそのエピソードがわかる気がした。

 キュイといわれても、作品が思い浮かばなかった。曲名さえ出てこない。ちょっと愕然とした。帰宅してから、ナクソスでピアノ独奏曲「25の前奏曲」を聴いてみた。ハ長調から始まって24の長調・短調をすべて辿り、最後にハ長調に戻ってくる曲。素朴な抒情性のある曲だった。
(2012.9.19.Bunkamuraザ・ミュージアム)
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パルジファル

2012年09月14日 | 音楽
 東京二期会の「パルジファル」初日を観た。クラウス・グートの演出が見ものだ。回り舞台を使って、場面ごとに、ゆっくり、少しずつ変化する。そのテンポが音楽に合っている。合っているというよりも、音楽と完全に一体化している。

 滑らかな語り口だ。ゆっくりと、しかし淀みなく進む。むしろ冴え冴えとした印象だ。比喩的にいうなら、冴えわたった月夜のような感触だ。東京二期会としてもこれは一皮むけた公演だ。毎年のようにヨーロッパの最前線の演出家を迎えてオペラを制作してきた経験がものをいっているとしたら、これは嬉しい。

 クラウス・グートの演出ノートが「二期会通信」の6月1日号に掲載された。ひじょうに面白いエッセイだ。公演プログラムに掲載されていないのがもったいないくらいだ。この演出を読み解くヒントが書かれている。

 周知のように「パルジファル」は当初バイロイトが独占上演権をもっていたが、それが切れる1913年12月31日にバルセロナで上演され、以後ヨーロッパ各地で上演された。時あたかも第一次世界大戦が勃発する時期だった。

 そこで「物語の始まりを1914年に設定し、第2幕では第一次世界大戦後の復興期に、終幕でナチによるいわゆる『権力獲得』へとつなげる展開にした」そうだ。予めこのことを知っておくと、舞台がよくわかるので、参考までに。

 このような演出だと、救済はだれに、どのように訪れるか――が気になった。それは思いもよらないものだった。うーんと唸った。さすが、というべき解釈だ。今の社会に照らしてみても、ひじょうに示唆に富んでいた。

 タイトルロールは福井敬。第2幕の後半でクンドリの接吻を受けて突然アンフォルタスの苦痛を知るときの、その絶唱が圧倒的だった。アンフォルタスは黒田清。声、ドイツ語のディクション、演技、すべてすばらしい。グルネマンツの小鉄和広とクンドリの橋爪ゆかも文句なし。クリングゾルの泉良平の舞台姿も存在感があった。

 意外に不満が残ったのはオーケストラだ。幕を追うごとによくはなったが、全体としては、よそ行きの演奏だった。指揮の飯守泰次郎は、2005年に東京シティ・フィルを振ったときには、もっと熱い演奏をしていた。読響も2002年にゲルト・アルブレヒトの指揮で演奏したときには、もっと瑞々しく、豊かな息づかいの演奏だった。公演はまだ3回あるので、今後どうなるか。
(2012.9.13.東京文化会館)
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石巻市立湊小学校避難所

2012年09月12日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」を観た。昨年4月21日から避難所が閉鎖される10月11日までの記録。そこに映し出される人々がいとおしくなる映画だ。同じ日本にいながら、東京の生活とはまったくちがう生活を余儀なくされた人々。そのころわたしはなにをしていたのか――。

 温かい映画だ。視線が温かい。小学校の教室で寝起きする被災者にたいする視線が温かい。被災者一人ひとりが、子どもも、お年寄りも、みんな人間としての尊厳をもった存在であるという、その基本的なことが尊重されている。けっして上から目線ではない。

 こんな場面があった。救援物資が届いたのだろう、その分配の場面。体育館の真ん中に物資が山積みされ、そのまわりにロープが張られている。被災者たちはロープの外にいる。司会者がしつこく注意する。「ロープをはずすまでは、絶対になかに入らないでくださいよ。だれか一人でも入ったら、即刻中止します。」

 やがて合図とともにロープが外される。物資に群がる被災者たち。こんな分配の仕方がされていたのかと驚いた。被災者にたいして失礼ではないのか。もっと人間として尊重したやり方はなかったのか。司会者は一段高い壇上にいた。カメラはその位置から見下ろす視線がどういうものかを記録した。

 被災者はこのような視線に晒されていた。たとえば慰問にきた人たちが歌う「ふるさと」もしかり。そこにひそむ、いわば善意の陥穽に、傷ついた人がいる。傷ついても、口に出さずに、穏やかに受け入れた人は、もっといるだろう。そのような人たちと、善意を信じて疑わない人たちとのギャップは、いつまでたっても埋まらない。

 被災者はそれがわかっている。ぐっと呑み込んで、明るく前向きに生きている。笑顔でいる。なかにはポキンと気持ちが折れてしまう人もいるだろう。それがときどき報じられる。だが大半の人は元気でいる。このドキュメンタリーに登場する人たちもそうだ。その一人ひとりをここで紹介する余裕はない。できれば画面でその笑顔を見てほしい。

 100席足らずの(正確には84席だそうだ)ミニシアターでの上映。ほぼ満員だった。学生さんから中高年まで。こんなに入るものかと驚いた。残念ながら東京での上映は9月14日で終了する。だが大阪では21日まで上映されている。10月に入ったら名古屋と大分で、11月には仙台で上映される予定だ。
(2012.9.11.新宿K’s cinema)
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森は生きている

2012年09月10日 | 音楽
 こんにゃく座のオペラ「森は生きている」を観た。もう何百回も上演されているだろうこの作品を(1954年に劇音楽としてスタートし、オペラになったのは1992年。)観るのは初めてだった。正直にいって、子ども向きの作品と思っていた。それを観る気になったのは、林光が亡くなったからだ。意外なことに、林光が亡くなって、その存在が、小さな、しかしはっきりした輪郭をもった点として、心のどこかに残った。林光なら「(心のどこかで)わだかまっている」と書きそうだ。

 マルシャークの原作は読んだことがあった。幻想性のあるすばらしい児童劇だ。大晦日の夜に1年の12の月の精たちが森に集まって焚き火をする――なんていい話だろうと思った。雪に埋もれたロシアの森が目に浮かぶようだった。

 その児童劇が2幕の(だと思う。途中に休憩が入ったので。)オペラになっていた。第1幕は登場人物の紹介的な面があったが(これは仕方がない)、第2幕に入ったら動きが出てきた。フィナーレで(継母とその娘にいじめられている)まま娘が、12の月の精たちに救われて、純白の衣装に身を包むときには、グッとくるものがあった。

 通路をはさんだ向こうの席の男の子は、席から立ち上がり、前の席の背もたれにつかまりながら、食い入るように舞台を観ていた。これはおそらくこの作品の上演のたびに繰り返されてきた光景だろう。

 プログラムには林光がこんにゃく座と作ったオペラの一覧が載っていた。全24作。原作は、民話、ブレヒト、宮澤賢治、シェイクスピア、カフカ、夏目漱石、チャペック、チェーホフ、井上ひさし、セルバンテス、芥川龍之介など多彩だ。これらの作品群は日本の音楽史でユニークな位置を占めていると思う。

 あらためていうまでもないが、林光はシリアスな音楽も書いている。尾高賞受賞作品のヴィオラ協奏曲「悲歌」はその代表例だ。週末に久しぶりに聴いてみた。20世紀の音楽の流れのなかに組み込まれるべき内容をもった作品だ。今井信子とユーリ・バシュメットの両方のCDを聴いたが、どちらも名演だ。

 林光はこの分野で作曲活動を続ける選択肢もあったろう。だが注力したのはこんにゃく座を拠点にした日本語オペラの創作の道だった。その遺産が24の作品群だ。

 公演について一言だけ。12の月の精たちの衣装は色使いが多すぎた。様式感に欠け、かえって幻想性をそいだ気がする。
(2012.9.6.俳優座)
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ザルツブルク:エジプトのジュリアス・シーザー

2012年09月08日 | 音楽
 ザルツブルクの2日目(最終日)はヘンデルの「エジプトのジュリアス・シーザー」だった。クレオパトラ役にチェチーリア・バルトリ。バルトリを聴きたいがためにチケットをとった。やはりすごい歌手だ。すごい、という言葉が月並みに感じられるほど特別な歌手だ。声を完璧にコントロールしている。現役の歌手でバルトリに並ぶ存在は、タイプはまったくちがうけれど、グルベローヴァしかいないのではないか。

 けれどもこの公演はバルトリだけでもっている公演ではなかった。4人のカウンターテナーをずらっと揃えたそのすごさ。セスト役のフィリップ・ジャルスキPhilippe Jarousskyはバルトリと同じくらい拍手喝さいを受けていた。まっすぐ伸びる張りのある声と、正確無比な音程。1978年生まれの若いフランス人だ。

 敵役のトロメーオを歌ったクリストフ・ドゥモーChristophe Dumauxもよかった。声量的にはジャルスキに一歩譲るものの、テクニックはひけをとらない。この人も1979年生まれの若いフランス人だ。この世代のカウンターテナーが台頭しているのだろう。

 ジュリアス・シーザー役は今やヴェテランのアンドレアス・ショル。この日は調子が悪かったのか、声がフラフラしていた。

 クレオパトラの侍女ニレーノ役に大ヴェテランのヨッヘン・コワルスキ。もうこわいものなしの大ヴェテランだ。脇役ながらユーモラスな演技で公演を支えていた。

 カウンターテナーが4人も揃う時代になったのだ、と感慨深かった。しかも未亡人コルネリア役にアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。さすがに味のある歌唱と気品ある舞台姿だ。そのオッターが目立たずに、脇を固める存在に感じられることが、この公演のすごさを物語っていた。

 オーケストラはジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコ。音が瑞々しく、流麗で、情感たっぷりの演奏だ。ピリオド系の優秀な団体が続出する時代になったが、これもその一つだ。

 演出(※)はジュリアス・シーザー率いるローマ軍をEU連合軍に置き換え、石油の利権をめぐる侵略戦争として描いていた。クレオパトラは親EU派だ。フィナーレでシーザーやクレオパトラが祝杯をあげるその背後を、謎の軍団が包囲する。街かどの映像が投影される。Toscaninihofと書いてある。つまりこの劇場の外は――というわけだ。
(2012.8.29.モーツァルト劇場)

(※)Moshe LeiserとPatrice Caurierの共同演出。
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ザルツブルク:軍人たち

2012年09月07日 | 音楽
 旅の記録の続きを。バイロイトの後、ザルツブルクに移動した。ザルツブルクは久しぶりだ(調べてみたら7年ぶりだった。)。駅がすっかりきれいになっていた。近代的で明るい駅だ。構内にはスーパーマーケットもあった。水と果物を買ってホテルへ。

 夜はツィンマーマンのオペラ「軍人たち」を観た。ぜひこれを観たかった。新国立劇場の「軍人たち」を観て以来、このオペラはもっとも大事なオペラの一つになった。だからこそ、新国立劇場のイメージで固定したくなかった。他の演出も観ておきたかった。

 今回の演出はアルヴィス・ヘルマニスAlvis Hermanis。まったく知らない演出家だが、面白かった。新国立劇場はウィリー・デッカーの演出で、マリーを誘惑するデポルト男爵や、マリーに息子と手を切らせる伯爵夫人は、それなりに貴族らしく描かれていた。今回の演出では、デポルト男爵も一介の兵士として、伯爵夫人も質素な身なりの老婦人として描かれていた。

 この演出から浮かび上がるメッセージは、集団としての軍人たちの、粗野で、ぎらぎらと欲望をむき出しにした実相と、その周辺にいる人々の苦しみ(マリーの場合は堕落)だった。全体はこれらの人々の織りなす群像劇になっていた。

 会場はフェルゼンライトシューレ。もともと横長の舞台だが、さらに舞台前面と奥の岩壁とのあいだに透明な板を立て、板とピットのあいだの細長いスペースでドラマを進行させた。舞台転換なし。一つのセットで終始した。きわめて演劇的な発想を感じさせる演出だった。

 メッツマッハー指揮のウィーン・フィル(コンサートマスターはキュッヒルさん)は、気迫のこもった、渾身の演奏だった。ウィーン・フィルといえども現代に生きるオーケストラであることを示した。多数の打楽器とジャズ・コンボは、ピットに入りきらず、舞台の両袖に配置していた。またピットの左隅には補助指揮者がいて、必要に応じて歌手にキューを出していた。

 歌手ではマリー役のラウラ・アイキンが、渾身の歌唱と、体当たりの演技だった。マリーの父ヴェーゼナー役はアルフレド・ムフだった。さすがの声の深さと貫録だ。こういうヴェテラン歌手が一人入ると舞台が引き締まると思った。

 終演後、外に出たら、雨が降っていた。それもかなり強い雨だった。しばらく軒先で雨宿りをしていたが、やみそうもないので、濡れて帰った。
(2012.8.28.フェルゼンライトシューレ)
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One9

2012年09月06日 | 音楽
 旅の記録を再開したばかりだが、昨日聴いた演奏会について、その記録を。いつもは演奏会を聴いても、記録を書いたり書かなかったりだが、今週はたまたま興味深い演奏会が続いているので――。そのあおりを受けて、旅の記録が途切れ途切れになってしまい、申し訳ありません。

 昨日はジョン・ケージの「One9」全曲演奏会。標題の9は正しくはOneの右肩=乗数の位置にあるが、うまく変換できないので、とりあえず便宜的な表記で。

 ケージのことが詳しい人には今さら説明するまでもないが、ケージの晩年にはこのような標題(OneとかTwoとかの数字に1とか2とかの小さな数字が右肩に付いている標題)が沢山ある。OneやTwoはパートの数を表し、1や2はそのパート数で書かれた作品の何番目かを表しているわけだ。

 なので、One9は一人の奏者のための曲(独奏曲)で、これはその9番目の作品というわけだ。具体的には和楽器の笙のための作品。宮田まゆみさんのために書かれた。昨日の独奏者も宮田さんだった。作曲は1991年。最晩年だ。

 ケージの作品は、たとえば初期の「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」などは好きだが、ある時期から先はわからない、というのが正直なところだ。だから昨日もおっかなびっくり行った。

 夜7時に始まって9時までのえんえん2時間(途中休憩なし)、この曲に耳を傾けた。ほとんど、というか、まったく起伏のない、音が出ては、長い沈黙があり、また音が出るという、単調な、長い時間を過ごした。

 といっても、文句をいっているわけではない。それがわかって行っているわけだ。そこで自分がなにを感じるか、もっというと、2時間耐えられるか、に興味があった。で、どうだったか。最初は居眠りをした。途中でなぜか頭が冴えて、笙の音に耳を傾けた。そのうち仕事のことが気になって、あれこれ余計なことを考えた。また「4分33秒」を思い出して会場のノイズを聞いたりした。そのうちに演奏が終わった。

 この曲を「音楽」と感じるには、ケージと同じくらい多くのことが聴こえる耳と、ケージと同じくらい自由な「音楽」観が必要かもしれない。悲しいことに凡人の我が身にはハードルが高かった。それでもこの長い時間をホールの片隅で過ごした経験は、記憶のどこかに残るだろうと思った。
(2012.9.5.ケージ100回目の誕生日に。サントリーホール小ホール)
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バイロイト:タンホイザー

2012年09月05日 | 音楽
 旅の記録の続きを。バイロイト2日目は「トリスタンとイゾルデ」だった。このプロダクションは去年も観た。演出はクリストフ・マルターラー。去年も好きになれなかった。今年はなにか発見があるかと思ったが、それもなかった。指揮も同じペーター・シュナイダー。今年は小さな疑問を感じた。

 これについてはあまり生産的なことは書けそうもない。文句を書くのもいやなので、あっさり諦めることにしたい。

 3日目は「タンホイザー」(ドレスデン版)。指揮はヘンゲルブロックが降りて、ティーレマンが代役。序曲が始まると、さすがにティーレマンというか、オーケストラの鳴りっぷりがちがう。栄養のよい音で、ときにはうねるように、大胆にパウゼをつくり、大きなためをとる。ティンパニのロール打ちの最後の音を強く叩く。もうやりたい放題だ。もっとも幕が上がったら(この演出では最初から幕が上がっているが)、これほどのことはなかった。

 タンホイザーはトルステン・ケルル。声も、演技も、そして失礼ながら容姿も、元気いっぱいでやんちゃなタンホイザーにぴったりだ。エリーザベトはカミラ・ニールント。こちらは育ちのよいお嬢さんにぴったり。その他の歌手では、領主ヘルマンのギュンター・グロイスベックの太い声が他を圧していた。

 セバスティアン・バウムガルテンの演出も面白かった。場所は化学工場。もっとも同じ日にご覧になった樋口裕一さんのブログによれば、これは体内(あるいは胎内)に見立てられているそうだ。そこまではわからなかった。座席が後方の左端で、舞台奥に投影されている映像がまったく見えなかったことも一因かもしれない。

 歌合戦の場面が傑作だった。ヴェーヌスが現れ(招かれざる客としてだが)、タンホイザーといちゃつき、しまいには踊り出した。もう笑うしかない。

 こういう演出だと、幕切れの新芽がはえた杖や、エリーザベトの自己犠牲はどうなるのかと思っていたら、僧侶が緑の杖をもって現れ、エリーザベトがあとに続いた。「なーんだ」と思っていたら、僧侶もエリーザベトもタンホイザーを救うことができず、タンホイザーは息絶えた。だがヴェーヌスがタンホイザーの子を出産して、愛が訪れた。

 「キリスト教と宮廷社会に反抗したタンホイザーが、清純な乙女の自己犠牲によって救われる」という現代にあっては古めかしいプロットの、一つの解決法だと思った。
(2012.8.27.バイロイト祝祭劇場)
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高関健/都響

2012年09月04日 | 音楽
 旅の記録の途中ではあるが、昨日都響の演奏会に行ったので、とりあえずその記録を。昨日は高関健さんの指揮で「日本管弦楽の名曲とその源流」シリーズの第16回だった。

 今回の日本人作曲家は松平頼暁さん(1931-)。作曲界の長老だ。開演前に松平さんと片山杜秀さんのプレトークがあった。これがすこぶる面白かった。内容を詳細に再現することはできないが、たとえばこんなくだりがあった。

 昔から言いたいことを言ってきた、というか、オブラートでくるむことができないたちだったという文脈で――、

 松平さん「そんなことを言うなら外国で言えと言われるんですよ。でもねえ、100パーセント同質のものが集まってどうするんだと。生物だってあえて異分子が混じっている。異分子が混じっていない種は滅びるんですよ。」
 片山さん「なるほど、それで頑張っておられると。」
 松平さん「いや、頑張ってなんかいないですよ。それしかできないから。それに生物だって、あるときにほんの一つの異分子から種は生き延びるけれど、大部分の異分子はね……(笑い)。」

 飄々として、気骨があって、歯に衣を着せない長老の肉声が聞けて楽しかった

 松平さんの曲は「コンフィギュレーション」の1と2(いずれもローマ数字の大文字で表記)、そして「オーケストラのための螺旋」が演奏された。前者(とくに1)はいかにも戦後のトータル・セリエリズムの曲。後者は演奏によってはもっと面白く聴けるかもしれないと思った。真面目すぎる演奏だったような気がする。

 プログラム後半はベリオの協奏曲第2番「エコーイング・カーヴ」。これがこの日の白眉だった。これが聴けただけでも価値があった。これは実質的にはピアノ協奏曲。オーケストラが2群に分かれて配置される点がユニークだ。ピアノを囲んで通常は弦楽器がいる場所に管楽器主体のAグループ。通常は管楽器がいるひな壇に弦楽器主体のBグループ。視覚的にも驚くが、聴覚的にも驚くべき変貌だ。曲の前半はエネルギーが渦巻くスリリングな音楽が疾走し、後半は大きく息をつきながらエネルギーが次第に減衰する。

 ピアノ独奏は岡田博美さん。この曲は岡田さんでなければ弾けないのではないかと思うほどの超絶技巧だ。その岡田さんと掛け合う都響もすごい。そしてこれらの人々のなかにあって的確に交通整理をした高関さんもすごい。
(2012.9.3.東京文化会館)
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バイロイト:ローエングリン

2012年09月03日 | 音楽
 今年もバイロイト音楽祭に行くことができた。友人がワーグナー協会の会員になっていて、チケットが当たると分けてくれるからだ。もっとも「来年はリングのプレミエがあるから当たらないと思うよ」と言われているが。

 バイロイトは秋の気配が漂い始めていた。この時期にバイロイトに行くようになって3年になるが、今年が一番涼しかった。前の週は35度にもなったそうだから、急に気温が下がったようだ。すでに黄葉が始まっていた。

 1日目は「ローエングリン」だった。第1幕への前奏曲が始まると、繊細で、たっぷり情感がこめられた音、しかも豊かな起伏がつけられた演奏が流れてきた。一気にオペラの世界に引き込まれた。こういう演奏が日本では聴けない、と思った。

 バイロイトがバイロイトでいられるのは、このオーケストラのお陰かもしれない。歌手は世界中を飛び回っている。指揮者もそうだ。演出だってバイロイトが世界をリードする時代は終わっている。けれどもこのオーケストラは特別だ。ワーグナーをよく知っていて、しかもその音楽に人一倍の愛情をもっている人たちであることがわかる。

 指揮はアンドリス・ネルソンズ。その呼吸感がすばらしい。一方的にオーケストラを引きずりまわすのではなく、相互にかみ合って、信頼関係を築いていることが感じられた。

 タイトルロールはクラウス・フローリアン・フォークト。すばらしい、の一語だ。新国立劇場でもローエングリンを歌ったが、そのときとくらべて、さらにアクセントをつけて、踏み込んだ表現だったように感じる。

 一つアクシデントがあった。テルラムントを歌ったジェイムズ・J・マイヤーが第1幕で降板した。第2幕以降はユッカ・ラジライネンが歌った。代役がラジライネンというところがすごい。衣装やメークはもちろん、演技もこなしていた。マイヤーの調子が悪いので、最初からスタンバイしていたのかもしれない。

 演出はノイエンフェルス。ネズミ軍団のローエングリンだ。手(=前足)で鼻をかく仕種がいかにもネズミ的だ。会場からは笑いがこぼれた。わたしも笑った。寓意性が高いので、その解釈をめぐる論議もあるだろうが、個々の場面が明確なイメージで作り込まれているので、難しいことを考えなくても楽しめる。いろいろ物議をかもす演出家だが(それは計算づくだろう)、ひじょうに才能のある演出家であることが感じられた。
(2012.8.25.バイロイト祝祭劇場)
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オレステイア

2012年09月01日 | 音楽
 ザルツブルクから戻ったその夜にクセナキスの「オレステイア」を観に行った。旅の記録の前に、まずはその記録から。

 ラ・フラ・デルス・バウスの演出が素晴らしかった。サントリーホールの空間を縦横に使って、驚きに満ちた、斬新な、そして美しい舞台を作っていた。実はフランクフルトからの乗り継ぎ便でラ・フラが演出した「ラインの黄金」(バレンシア歌劇場の公演、指揮はズービン・メータ)の映像を観た。「これが噂にきくラ・フラか」と感心した。それに勝るとも劣らない演出だった。

 その演出を逐一説明することは力に余るが、たとえば冒頭部分、合唱団(ギリシャ悲劇のコロスに相当)が、1階客席の壁際で、クリュタイメストラによるアガメムノン殺害の恐怖を歌っているときに、2階客席の通路ではエリニュス(復讐の女神たち)が跋扈している、といった具合だ。

 あるいはカッサンドラ(アガメムノンに捕えられたトロイの王女)が、目前に迫ったアガメムノン殺害と自らの死を予言するとき、舞台上では無数の意味不明な言葉(日本語)が投影された。言葉の投影は今の演出では常套手段とはいえ、この場合自らの言葉が人々に理解されないカッサンドラの状況を伝えて的確だった。

 全体的に、「ラインの黄金」では遊びの要素が感じられたが、こちらではギリシャ悲劇の精神に沿った真剣さが感じられた。

 クセナキスの音楽は、4分音(半音の2分の1)はもとより、3分音(全音の3分の1)も使われているそうだ(川島素晴氏のプログラム・ノート)。普通の音組織とは異なる音程が頻出するわけだが、それはこの音楽を通常の音楽から切り離し、一種特別なものにしている。さらに打楽器ソロの起用により、原初的な力を生んでいる。

 この作品はオペラと銘打たれているが、実感としては、アイスキュロスの原作の、現代における上演用再構成、しかもその成功例と感じられた。

 主役は合唱団(コロス)。これを東京混声合唱団が見事に歌った。また東京少年少女合唱隊も大健闘。カッサンドラとアテナ女神の2役を歌った(1人の歌手が複数の役を歌うのもギリシャ悲劇的だ。しかもカッサンドラの場面ではコロスの長とカッサンドラの同時2役!)松平敬さんには感服した。打楽器ソロは池上英樹さん。恰好よくて、しびれそうだ。演奏は東京シンフォニエッタ。さすがの実力。指揮は山田和樹さん!!!
(2012.8.31.サントリーホール)
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