東京にも秋の気配が漂うようになった。日が暮れるのも早い。つい先日までは明るかった夕刻も、もう暗くなった。仕事帰りの人々が行きかう丸の内のオフィス街を抜けて、三菱一号館美術館のシャルダン展に行った。
シャルダン(1699~1779)という画家は知らなかった。今春開かれたベルリン国立美術館展に一点来ていたので、興味深く観たが、それはこの展覧会があるのを知っていたからだ。もしこの展覧会がなかったら、気に留めなかったろう。エルミタージュ美術館展にも一点来ていたそうだ。わたしは行けなかったが。
シャルダンの画業を一望するこの展覧会で、シャルダンとはどういう画家か、よくわかった。画家としてのキャリアは静物画でスタートし、やがて風俗画に転じたが、晩年はまた静物画に戻った。チラシ(↑)に使われている「木いちごの籠」は、晩年の静物画の一つだ。詩情あふれる静謐な作品――であることは、チラシでもわかると思うが、実際にはそれ以上に、永遠性とでもいうべきものが感じられた。
なんの変哲もない木いちごを描いた絵が、永遠性を感じさせるとは、すごいことだ。それはこの絵だけではなく、たとえば最晩年の「ティーポットとぶどう」という絵も、簡潔性の極みのその先に、永遠性が感じられた。
こういったことは、たとえばルーブル美術館のような大きな美術館では(ルーブルは大きすぎて例示が適切ではないが)、気が付かないで通り過ぎてしまう類のものだ。本展のようにこの画家だけで構成された展覧会でないと、なかなかわからない。
シャルダンの特徴の一つに、対作品がひじょうに多いこともわかった。2点で一対をなす作品だ。上記の「木いちごの籠」も、本展には来ていないが、「水の入ったコップとコーヒーポット」という作品と一対になっているそうだ。明と暗、暖色と寒色――そのようなコントラストをもつ一対の作品が、互いに補完し、バランスをとっている。このような平衡感覚もシャルダンらしい。
以上のような、簡潔性、日常の何気ないものに潜む永遠性、バランス感覚――これらの要素は、わたしたち日本人の美意識と通じるものではないだろうか。18世紀フランスの画家だが、意外に日本人受けする画家かもしれない。
午後6時に入館して、閉館までの2時間が、あっという間に過ぎた。いくら観ていても疲れない――それもまたシャルダンの特徴だった。
(2012.9.27.三菱一号館美術館)
シャルダン(1699~1779)という画家は知らなかった。今春開かれたベルリン国立美術館展に一点来ていたので、興味深く観たが、それはこの展覧会があるのを知っていたからだ。もしこの展覧会がなかったら、気に留めなかったろう。エルミタージュ美術館展にも一点来ていたそうだ。わたしは行けなかったが。
シャルダンの画業を一望するこの展覧会で、シャルダンとはどういう画家か、よくわかった。画家としてのキャリアは静物画でスタートし、やがて風俗画に転じたが、晩年はまた静物画に戻った。チラシ(↑)に使われている「木いちごの籠」は、晩年の静物画の一つだ。詩情あふれる静謐な作品――であることは、チラシでもわかると思うが、実際にはそれ以上に、永遠性とでもいうべきものが感じられた。
なんの変哲もない木いちごを描いた絵が、永遠性を感じさせるとは、すごいことだ。それはこの絵だけではなく、たとえば最晩年の「ティーポットとぶどう」という絵も、簡潔性の極みのその先に、永遠性が感じられた。
こういったことは、たとえばルーブル美術館のような大きな美術館では(ルーブルは大きすぎて例示が適切ではないが)、気が付かないで通り過ぎてしまう類のものだ。本展のようにこの画家だけで構成された展覧会でないと、なかなかわからない。
シャルダンの特徴の一つに、対作品がひじょうに多いこともわかった。2点で一対をなす作品だ。上記の「木いちごの籠」も、本展には来ていないが、「水の入ったコップとコーヒーポット」という作品と一対になっているそうだ。明と暗、暖色と寒色――そのようなコントラストをもつ一対の作品が、互いに補完し、バランスをとっている。このような平衡感覚もシャルダンらしい。
以上のような、簡潔性、日常の何気ないものに潜む永遠性、バランス感覚――これらの要素は、わたしたち日本人の美意識と通じるものではないだろうか。18世紀フランスの画家だが、意外に日本人受けする画家かもしれない。
午後6時に入館して、閉館までの2時間が、あっという間に過ぎた。いくら観ていても疲れない――それもまたシャルダンの特徴だった。
(2012.9.27.三菱一号館美術館)