Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

下野竜也/東京シティ・フィル

2021年07月29日 | 音楽
 下野竜也が指揮する東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」と「交響曲第1番」そして伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」。バーバーと伊福部昭の組み合わせが意表を突くが、プログラム・ノートによると、二人は同世代で、バーバーの2曲は1936年の作曲、伊福部昭の曲は1941年の作曲なので、作曲時期も近接している。日米開戦前夜の日米双方の作品だ。もっとも、バーバーの2曲はイタリアで作曲された。当時のイタリアはムッソリーニ率いるファシスト党の全盛期だったが、どんな世相だったのだろう。

 「弦楽のためのアダージョ」は、しっとりした弦楽器の音が胸に沁みる演奏だった。前日に聴いた鈴木雅明指揮読響の、とくにボロディンの演奏での、弦楽器のギスギスした音にショックを受けたので、この弦楽器の音にホッとした。余談だが、当日は東京の新型コロナの新規感染者数が3,177人と急増し、不安が広がる中だったので、この曲が昨年来の新型コロナで亡くなった方々への追悼のように聴こえた。

 次の「交響曲第1番」は2005年にデプリースト指揮都響で聴いて以来だ。そのときはバーバーの曲で埋め尽くした演奏会だった。いまでも鮮明に覚えている。久しぶりに聴く今回は、冒頭の絢爛豪華なオーケストラの音や、続くスケルツォ的な部分でのスリリングな演奏もさることながら、最後のパッサカリアでの熱い演奏がとくに印象的だった。

 最後の伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」は、2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルで初めて聴いたが、そのときわたしは仰天した。伊福部昭の曲はそれなりに聴いてきたつもりだが、この曲の存在を知らなかったし、かつ実際に聴いてみると、これは紛れもない傑作だったからだ。リズムの執拗な繰り返しと日本的な音律という伊福部昭の特徴が、新鮮な形で詰まっていた。

 2017年のときも今回も、指揮は下野竜也、ピアノは小山実稚恵だ(2017年のときのオーケストラは東京フィルだった)。下野竜也と小山実稚恵は広島交響楽団でもこの曲を演奏したそうなので、今回が3度目だ。そのためか、2017年のときの印象と比べると、手慣れた感じがした。それを聴くわたしも2度目なので、落ち着いて聴けた。

 今回は意外に抒情的な部分が散見されることに気が付いた。また第2楽章はラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を連想させた。伊福部昭のこの曲では第2楽章にフルート・ソロが出てくるが、首席奏者の竹山愛が名演を聴かせた。第3楽章の迫力満点のコーダでは、ピアノとオーケストラが見事に合った演奏を聴かせた。
(2021.7.28.東京オペラシティ)
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フェスタサマーミューザ:鈴木雅明/読響

2021年07月28日 | 音楽
 フェスタサマーミューザの読響の演奏会は、指揮者がベルリン在住の山田和樹から鈴木雅明に代わった。それに伴い曲目もチャイコフスキーの交響曲第2番がボロディンの交響曲第2番に変更された。メイン・プロのラフマニノフの交響曲第2番は変わらず。

 鈴木雅明のロシア物は珍しいと思ったが、鈴木雅明はプレトークに登場して、子どもの頃の思い出や芸大在学中の思い出を語り、ラフマニノフもボロディンも身近にあったことを強調した。とりわけラフマニノフの交響曲第2番については熱い共感を語った。

 読響は首席奏者の面々が揃い、まずは万全の態勢のように見えた。前日の都響では首席奏者の何人かがゲスト奏者だったので(その割には無難にこなした。ホルンのゲストの首席奏者は、最初はアンサンブルに溶けこまず、突出していたが、徐々にアンサンブルにおさまっていった)、今回の読響は心配なさそうだった。

 1曲目のボロディンの交響曲第2番が始まった途端に、弦楽器の荒々しく硬い音に驚いた。なんだ、これは?と。ギコギコとこするような音だ。管楽器も荒い。バッハ・コレギウム・ジャパンではけっして聴かない音だ。肩に力が入った演奏。それが鈴木雅明の考えるボロディンの演奏なのだろうか。ボロディンの、どこか楽天的な面のある音楽(と、わたしは考えるが)とは別の地平に立つ音楽だった。

 その演奏が鈴木雅明の考えるボロディンなら、それはそれとして尊重し、わたしがボロディンに見ているものと、鈴木雅明が見ているものとの違いを考え、理解したいと思うのだが、残念ながら今回は、それ以前に、どれだけリハーサルを積んだのかと疑問が湧いた。リハーサル不足ではないかと。

 2曲目のラフマニノフの交響曲第2番では、一転して柔らかく、明るい弦楽器の音が戻ってきた。こういってはなんだが、それは予想通りだった。アンサンブルがきめ細かくなり、オーケストラ全体がふくよかに鳴った。

 だが、この作品が長大なためか、聴き進むうちに、わたしは疲れてきた。克明な演奏ではあるのだが、気が休まる瞬間がない。終始緊張を強いられ、ホッと息を抜くことができないのだ。わたしは、当初予定の山田和樹のほうが、聴かせ上手なのではないか、いや、この長大な作品では、聴かせ上手という芸が必要ではないか、と(失礼ながら)考えるようになった。

 今回といい、先日の定期演奏会といい、読響の荒れ方には一抹の不安を覚えた。どちらも指揮者が交代したが、それが影響しているのだろうか。
(2021.7.27.ミューザ川崎)
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フェスタサマーミューザ:カーチュン・ウォン/都響

2021年07月27日 | 音楽
 毎年恒例のフェスタサマーミューザが始まった。昨日はカーチュン・ウォン指揮都響の演奏会があった。カーチュン・ウォンを聴くのは、今年3月の日本フィル、4月の読響以来3度目だ。どちらもすばらしい演奏会だった。さて、都響ではどうか。

 1曲目はリストの交響詩「前奏曲」。過去2度の経験でもそうだったが、各パートが鮮明に聴こえる。カーチュン・ウォンの耳の良さは相当なものではないだろうか。個別の奏者ではオーボエの首席の鷹栖さんが表情豊かな演奏を披露した。

 2曲目はチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」。チェロ独奏は岡本侑也。岡本侑也の演奏を聴くのは2度目だ。初めて聴いたときも、優秀な奏者だと思ったが、数年ぶりに聴く今回は、ずいぶん成長したなと思った。艶やかな美音に磨きがかかり、音楽には一本筋が通ったように思える。才能ある若手演奏家の成長ぶりは恐ろしいほどだ。

 アンコールに「鳥の歌」が演奏された。それももちろんよかったのだが、前回わたしが聴いたときには、ジョヴァンニ・ソッリマの「ラメンタチオ」という曲が演奏された。その曲は途中からチェロ奏者のハミングが加わる曲だった(チェロを弾きながら、ある旋律を口ずさむ曲)。そんな曲があるのかと、わたしは衝撃を受けた。そのハミングにはどこか中東的な、あるいはユダヤ音楽的な音律があった。

 なお「ロココ風……」でのオーケストラ伴奏も、独奏チェロにピタッとつけて、なかなか見事だった。オーケストラの出番がある曲ではないので、見事という表現は過大かもしれないが、そのオーケストラ伴奏にはセンスを感じた。

 3曲目はドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。クリアな音像、ニュアンス豊かな表現、フレッシュな感覚と、わたしが過去2度聴いたカーチュン・ウォンの特質が、この演奏でもよく出ていた。曲のどこで、どのパートを浮き上がらせるか、その明確なイメージをもつ演奏だった。

 多くの方と同様に、わたしもカーチュン・ウォンの才能に確信をもった。カーチュン・ウォンは日本中のオーケストラを席巻する勢いだが、いずれどこかのオーケストラがカーチュン・ウォンを獲得するのだろうか。そうだとしたら、そのオーケストラはラッキーだ。

 アンコールにドヴォルザークのスラヴ舞曲が演奏された(よく聴く曲で、明るく活気のある曲だが、何番だろう)。そのポジティブで開放的な音楽性は、カーチュン・ウォンの人柄を反映しているように思えた。終演後はカーチュン・ウォンのソロ・カーテンコールになった。
(2021.7.26.ミューザ川崎)
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飯守泰次郎/読響

2021年07月22日 | 音楽
 飯守泰次郎が来日中止になった外国人指揮者の代役で読響の定期演奏会を振った。プログラムはモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」とブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。飯守泰次郎と読響がこれらの曲でどのような化学反応を起こすか‥。

 わたしは東京シティ・フィルの定期会員なので(読響の定期会員でもあるのだが)、飯守泰次郎の演奏はずいぶん聴いてきたが、今回の「ハフナー」はいままであまり聴いたことがない演奏様式だった。細身の音ですっきりした造形の、あえていえばスタイリッシュな感じのする演奏だった。わたしは事前に暖かみのある古風な音と堂々とした造形を予想していたので、その演奏は意外だった。予想と実際とのギャップはなぜ起きたのだろう。

 じつはわたしは、楽章を追うごとに、単調さを感じるようになった。指揮者がなにもしていないというと語弊があるが、読響のアンサンブルに任せて、もう一歩踏み込む積極性に欠けるように感じた。結果、飯守泰次郎らしくない珍しいモーツァルトになったような気がする。

 一転してブルックナーの「ロマンティック」は豪快な演奏になった。とくに金管が荒々しいまでによく鳴った。弦も「ハフナー」の12型から14型に増えたが、その数の増え方以上に鳴り方が変わった。ブルックナーにかぎらず、飯守泰次郎の演奏は一般的に、悠然と構えた演奏というよりも、アグレッシヴな面のある演奏だが、そのアグレッシヴな面に読響が反応した演奏だったような気がする。

 わたしは荒々しい音に戸惑ったが、楽章を追うごとに音にまとまりが出たので、だんだん落ち着いて聴けるようになった。とくに第4楽章のコーダは音の大伽藍というにふさわしい壮大な音が鳴った。飯守泰次郎が読響のそのような音を最大限に引き出そうとしたことはまちがいなく、飯守泰次郎自身その音を楽しんでいたのかもしれない。わたしはこの演奏を異色な体験として忘れないような気がした。

 だが、それにしても、その演奏には飯守泰次郎がシティ・フィルと演奏するときの、しっとりした意思疎通の感覚がないことを思った。それゆえのおもしろさがあったことは、すでに書いた通りだが、それはそれとして、むしろ飯守泰次郎がシティ・フィルのような手勢を得たことを祝すべきだろうと、いまは思う。

 指揮台には椅子が置かれていたが、飯守泰次郎はブルックナーの「ロマンティック」の第3楽章のトリオを除いて、立って指揮をした。音楽には老いが見られなかった。それがいまの聴衆の絶大な支持につながっているのだろう。
(2021.7.21.サントリーホール)
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野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ「松村禎三交響作品展」

2021年07月19日 | 音楽
 「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が松村禎三(1929‐2007)の作品を特集した演奏会を開いた。指揮はミュージック・アドバイザーの野平一郎。わたしは久しぶりに松村禎三の代表作の数々を聴き、大きな感銘を受けた。

 1曲目はピアノ協奏曲第1番(1973)。ピアノ独奏は渡邉康雄。ピアノもオーケストラも、じつに真摯な演奏だった。脇目もふらずにこの曲の本質に迫る演奏。わたしはこの曲のCDを持っているし、実演を聴いたこともあるが、それらの経験とくらべても、この演奏の真剣さは特筆ものだった。

 この曲の途方もないエネルギーは、なんと表現したらいいのだろう。金管の絶叫。打楽器の炸裂。それらを縫って持続するピアノの抑揚。まさに破格の音楽だ。いままでにこんな音楽が生まれたことがあったろうか。控えめに言っても、いまの時代にこのような音楽が生まれる余地はあるのだろうかと思った。

 渡邉康雄のアンコールがあった。ピアノ協奏曲第1番での熱狂を鎮めるような、心優しい静かな曲だった。フランス印象派のような曲だが、松村禎三だろうなと思った。紀尾井ホールのツイッターによると、「ギリシャによせる二つの子守歌」から第2番(1969)だった。

 休憩をはさんで2曲目は「ゲッセマネの夜に」(2002/05)。松村禎三の最晩年の曲だ。わたしは実演で聴くのは初めてだ。いままでCDでは聴いていたが、よくわからない曲だったので、実演で聴くとどうなのか、楽しみにしていた。結果、平明な中にも、動揺や、静かな緊張感があり、なにかをつかめた気がした。CDでは理解できなかったシンバルの連打は、イエスの血の汗の滴りなのだと合点がいった。

 ゲッセマネの夜とは、最後の晩餐を終えたイエスが、ゲッセマネの園で神に祈りを捧げる逸話だ。翌日には死を迎えるイエスの恐怖と苦悩が現れる。松村禎三は作曲に当たって、イタリアの画家ジョット(1267頃‐1337)の「ユダの接吻」(1305頃)を参照したと、自身で述べているが、わたしにはオペラ「沈黙」で、牢獄にとらわれたロドリゴ神父が、翌日の踏み絵を前に、ゲッセマネの夜のイエスを思う場面が思い出された。松村禎三はあの場面をもう一度、今度は少し角度を変えて作品化したように思えた。

 3曲目は交響曲第1番(1965)。ピアノ協奏曲第1番と同様に、これも真摯で焦点の合った演奏だった。それにしても、この曲のフィナーレのなんというエネルギーだろう。松村禎三は一時期、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に心酔していたというが、たしかにこの曲のフィナーレに比肩するのは「春の祭典」くらいしかないだろうと思った。
(2021.7.18.紀尾井ホール)
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赤坂真理「東京プリズン」

2021年07月15日 | 読書
 友人と続けている読書会の7月のテーマは赤坂真理(1964‐)の「東京プリズン」(2012)だった。わたしは作者も作品も、名前と題名は聞いたことがあるが、それ以上は知らなかった。読むにつれて、「なるほど、こういう小説なのか」と謎解きをする気分だった。そのような未知の作家/作品との出会いが、読書会の楽しみのひとつだ。

 驚いたことには、本作のテーマは東京裁判だ。太平洋戦争の敗戦後、連合国によって戦犯が裁かれた東京裁判。あの東京裁判とはなんだったのか。なにが裁かれ、なにが裁かれなかったのか。とりわけ、その裁かれなかったことが、日本の戦後社会にどのような影を落としたのか。それが本作の骨格となるテーマだ。

 そのテーマは井上ひさしの戯曲、東京裁判三部作の第三部「夢の痂(かさぶた)」を思い出させた。太平洋戦争の最終責任者(=天皇)の責任を問わないことが(あるいは天皇が責任を取らないことが)、戦後社会にどのようなひずみをもたらしたのか。人々の心の中のなにを封印したのか。そのテーマに思いを巡らした作品が井上ひさしの「夢の痂」であり、赤坂真理の「東京プリズン」だ。

 とはいっても、両作品とも理屈っぽい作品ではなく、エンタテインメント性が豊かな作品だ。ストーリーの紹介は省くが、「夢の痂」では思いもよらない展開に驚愕し、浄化された気分になる。一方、「東京プリズン」では(ボロボロになりながらも)なにかを言いきった気分になる。どちらも現実には実現しなかったことだ。実現しなかったことが文学作品の中で実現し、人々のわだかまりが解かれる。

 両作品で異なる点は、「東京プリズン」では男性性と女性性というジェンダーの視点が加わることだ。一言でいうと、天皇は戦前~戦中の男性性から、戦後は女性性に移行したという議論が提出される。それは後述する15歳の「私」が、留学先のアメリカの学校で参加するディベートで、相手側から出される議論だ。「私」の意見ではないが、妙に刺激的だ。昨今のジェンダー意識の高まりにかんがみ、この議論はどう捉えるべきか。

 本作では2つの時間が並行して進む。前述のように「私」が15歳のときにアメリカの学校に単身留学する1980年10月から翌年4月までの時間と、それから約30年後の「私」が東京で過ごす2009年12月から2011年3月までの時間。それらの2つの時間は、並行して進むだけではなく、互いに浸透し合う。たとえばアメリカにいる15歳の「私」が東京の母にかけた電話を今の「私」が受けたりする。そして今の「私」が、15歳の「私」はなにを求めていたのかと自問する。

 そんな「私」の自分探しの物語が、戦後日本の自分探しと重なる点がユニークだ。
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沖澤のどか/日本フィル

2021年07月10日 | 音楽
 沖澤のどかの評判を聞くにつけ、早く聴いてみたいと思っていた。ついにその日が来た。なるほど、これは逸材だと思った。

 1曲目はモーツァルトの「魔笛」序曲。最初の和音を聴いた途端に、そのクリアーな音に感心した。アレグロの主部に入ると、繊細な音が躍動する。音が団子状態にならずに、すべての音が見通しよく聴こえる。中間部の金管楽器による「タターンターン」というファンファーレは、最後の「ターン」が若干弱く演奏された。そのニュアンス付けに惹きこまれた。フォルテの部分は開放感がある。その開放感は指揮者としての確かな資質を感じさせる。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」。ヴァイオリン独奏は三浦文彰。オーケストラは引き続きクリアーな音を保っている。第2部冒頭の衝撃的な音もけっしてカオスにはならない。あの部分がこんなに見通しよく鳴ったのは、今まで聴いたことがないと思った。全体を通して、肩の力を抜いてリラックスした演奏のように聴こえた。晦渋さは微塵もない。第1部の最後でのホルンのソロや、第2部のコラールでのトロンボーンのソロは美しく、かつ意味深く聴こえた。

 ヴァイオリン独奏の三浦文彰は、オーケストラのテクスチュアの一部になったような演奏をした。オーケストラとヴァイオリン独奏とが、蔓が絡み合うように、繊細なテクスチュアを織りあげた。けっしてオーケストラを引っ張るとか、自己主張をするとか、そんな演奏ではない。その結果、全体として一編の抒情詩のような演奏になった。

 3曲目はメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。前2曲の演奏の特質を引き継ぎつつ、そこにアグレッシヴな攻めの演奏を加味して、見事なものになった。フォルテの音の切れ味は目が覚めるようだ。またどこをとっても細かい息づかいが脈打っていることも特筆ものだ。

 個別のパートでは、第1楽章の展開部でのコントラバスの動きが明瞭に、(実感としては)立体的に聴こえた。その後もコントラバスの動きが浮き上がることがあった。沖澤のどかの音の見通しのよさの一例かもしれない。またクラリネットの一番奏者が、第2楽章のテーマはもちろんのこと、アンサンブルを構成する部分でも、さりげなく、滑らかに動いた。それは木管楽器群のアンサンブルへの配慮の象徴のように見えた。

 沖澤のどかの音は、わたしにはカーチュン・ウォンの音を連想させた。クリアーで見通しがよく、肩の力を抜いて、しかも切れ味がよく、さらにそれらの音の構成にはスケール感がある。二人は同世代のように見える。新世代の登場だろうか。
(2021.7.9.サントリーホール)
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新国立劇場「カルメン」

2021年07月04日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「カルメン」の初日。ポイントはいくつかあるが、まずなんといっても、タイトルロールのステファニー・ドゥストラックの素晴らしさだ。声量が豊かで、どの声域も滑らか、また表現も濃やかで、今回の歌手の中では群を抜いている。語弊があるかもしれないが、当プロダクションはこの歌手のためにあるとさえ思った。

 ドゥストラックはフランス出身で、キャリアのスタートはウイリアム・クリスティに見出されたこと。なので、当初はバロック・オペラを歌っていた。わたしはそれを知らなかったが、休憩時間中にプログラムを読んで知り、驚いた。カルメンの歌唱とバロック・オペラとが結びつかなかったからだ。帰宅後、新国立劇場の情報誌「ジ・アトレ」のバックナンバーを読んでさらに驚いた。ドゥストラックはクリスティ指揮の「レ・パラダン」の日本公演で2006年に来日していた。その公演ならわたしも観た。日記をひっくり返すと、たしかにアルジ役でドゥストラックの名が載っていた。

 ともかくドゥストラックは大器だ。すでにベルリン・ドイツオペラなどでカルメンを歌っている。現代の最先端のカルメン歌いであることはまちがいなく、またカルメンにかぎらず、今後さらにレパートリーを広げる豊かな可能性を秘めた歌手だ。

 当プロダクションのもうひとつのポイントはアレックス・オリエの演出だ。2019年の「トゥーランドット」では核シェルターの内部のような地下世界を舞台にしたが、今回はロック・フェスティバルのようなイベント会場を舞台にした。無数の鉄パイプによる仮設のステージが組まれている。視覚的なインパクトは「トゥーランドット」に劣らない。

 カルメンはロック歌手のスターだ。現代感覚の物語が進行する。たいへんおもしろかったのだが、ひとつ疑問を感じた点は、エスカミーリョは「闘牛士」という設定を踏襲したことだ。第4幕の前半に多彩なロック歌手その他が登場する中で、エスカミーリョが闘牛士の衣装で登場したときは、どうしようもない陳腐さを感じた。もしかするとその陳腐さはオリエが意図した異化効果だったかもしれないが。

 大野和士の指揮はていねいにドラマを追っていた。カルメンの登場の歌「ハバネラ」では第3節のテンポをぐっと落としたが、ドラマが停滞することはなかった。エスカミーリョの「闘牛士の歌」では、オーケストラの出だしが熱狂的で、思わず惹きこまれたが、残念ながらエスカミーリョ役の歌手が低調だった。

 ドン・ホセ役の村上敏明が不調とのことで、演技と台詞のみをつとめ、歌は村上公太が舞台の袖で歌った。村上公太は大健闘だった。
(2021.7.3.新国立劇場)
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