オペラ「鹿鳴館」の最終日をみた。若手主体のこの日は、与那城敬、腰越満美、宮本益光という華のある歌手たちが頑張り、実力派の安井陽子もさすがの出来だった。小原啓楼は日本語がこもるように感じられる部分があった。
鵜山仁作成の上演台本は、三島由紀夫の膨大な台詞を、筋が追える程度にまで刈り込んだもの。その手腕はさすがというべきだが、影山伯爵邸で進行する第1幕と第2幕は、原作の推理ドラマ的な緊迫感が薄れて、単調さが否めなかった。
池辺晋一郎による音楽は、台詞(歌詞)の途中の間合いや、ある言葉を発したときの空気の変化など、実に的確にとらえていて、台本にたいする読みの深さともども、たいしたものだと感心するばかり。
しかし第1幕と第2幕は抑制されたトーンに終始し、発散できる部分がないのが辛かった。鹿鳴館を舞台にした第3幕と第4幕ではワルツが頻出するが、そのワルツは意図されたステレオタイプのもので、作曲者の本音はどこかに隠れていた。
私は正直にいって、これが傑作だとは即断できなかった。なぜだろうと考えているうちに、松村禎三のオペラ「沈黙」が浮かんできた。私は1993年の初演をみて(思えば指揮者は若杉弘だった)、震えるように感動した。以後、再演のたびに出かけている。
作曲者の関心も方法もまるで異なる「沈黙」と対比するのは、無意味で愚かなことにはちがいないが、それを承知であえていうなら、自己を賭けた切迫感が今回は感じられなかった。と、今になってそう思う。創作にたずさわった方々には申し訳ないが。
カーテンコールでは、舞台奥に若杉弘の写真が投影された。このオペラの生みの親だった若杉弘――。私もぐっときた。思わず、若すぎ(!)る死だったと思ってしまったのは、不謹慎だった。だじゃれの大家は、もちろん神妙な顔をしていた。
私としては、原作の結末がどうオペラ化され、かつ演出されるかが興味の的だった。結果的には原作どおり、宙に放り投げたような、どうとでもとれるものだった。あの結末をどう解釈するかは、相変わらずの宿題として残った。
朝子は夫の影山と踊り続ける――。台詞のうえでは大徳寺公爵夫人の家に身を寄せることになっているが、ほんとうにそうするのかはわからない。朝子は影山の「政治」をうけいれたのか。あるいは欺瞞を承知で踊り続ける大人の世界の住人になったのか。
(2010.6.27.新国立劇場)
鵜山仁作成の上演台本は、三島由紀夫の膨大な台詞を、筋が追える程度にまで刈り込んだもの。その手腕はさすがというべきだが、影山伯爵邸で進行する第1幕と第2幕は、原作の推理ドラマ的な緊迫感が薄れて、単調さが否めなかった。
池辺晋一郎による音楽は、台詞(歌詞)の途中の間合いや、ある言葉を発したときの空気の変化など、実に的確にとらえていて、台本にたいする読みの深さともども、たいしたものだと感心するばかり。
しかし第1幕と第2幕は抑制されたトーンに終始し、発散できる部分がないのが辛かった。鹿鳴館を舞台にした第3幕と第4幕ではワルツが頻出するが、そのワルツは意図されたステレオタイプのもので、作曲者の本音はどこかに隠れていた。
私は正直にいって、これが傑作だとは即断できなかった。なぜだろうと考えているうちに、松村禎三のオペラ「沈黙」が浮かんできた。私は1993年の初演をみて(思えば指揮者は若杉弘だった)、震えるように感動した。以後、再演のたびに出かけている。
作曲者の関心も方法もまるで異なる「沈黙」と対比するのは、無意味で愚かなことにはちがいないが、それを承知であえていうなら、自己を賭けた切迫感が今回は感じられなかった。と、今になってそう思う。創作にたずさわった方々には申し訳ないが。
カーテンコールでは、舞台奥に若杉弘の写真が投影された。このオペラの生みの親だった若杉弘――。私もぐっときた。思わず、若すぎ(!)る死だったと思ってしまったのは、不謹慎だった。だじゃれの大家は、もちろん神妙な顔をしていた。
私としては、原作の結末がどうオペラ化され、かつ演出されるかが興味の的だった。結果的には原作どおり、宙に放り投げたような、どうとでもとれるものだった。あの結末をどう解釈するかは、相変わらずの宿題として残った。
朝子は夫の影山と踊り続ける――。台詞のうえでは大徳寺公爵夫人の家に身を寄せることになっているが、ほんとうにそうするのかはわからない。朝子は影山の「政治」をうけいれたのか。あるいは欺瞞を承知で踊り続ける大人の世界の住人になったのか。
(2010.6.27.新国立劇場)