Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

鈴木秀美/東京シティ・フィル

2022年10月29日 | 音楽
 東京シティ・フィルの定期演奏会に鈴木秀美が客演した。4年ぶりだそうだ。曲目にはハイドンが2曲ふくまれている。ハイドンを聴くのは久しぶりだ。楽しみにしていた。

 1曲目はハイドンの交響曲第12番ホ長調。レアな曲だ。1763年、ハイドン31歳の年の作品だ。もちろんわたしは初めて聴く。全3楽章からなり、第2楽章がホ短調で書かれている。哀愁の漂う美しい音楽だ。演奏は弦楽器が4‐4‐1‐1‐1で、管楽器をふくめても16人の小編成だった。ハイドンは作曲当時、エステルハージ家の副楽長をつとめていた。そのころの同家のオーケストラは14名ほどだったという(柴田克彦氏のプログラムノーツより)。とするなら今回程度の編成だったか。

 ともかくわたしはこの曲が、そして演奏が、たいへん気に入った。清新で、しかもたしかな音楽がある。ハイドンの作品ではあるが、まだ前古典派の名残が感じられる。わたしは前古典派の音楽が好きだ。バロックからウィーン古典派へのあいだの時期の音楽だ。わたしはいままであまり集中的に聴くことはなかったが、残りの人生ではこの時期の音楽を聴くのも悪くないかと思った。

 2曲目はハイドンの交響曲第92番「オックスフォード」。1789年の作品だ。堂々とした威容を誇る作品だ。ハイドンの長足の進歩に驚く。ハイドンの交響曲の数々は交響曲の歴史そのものだとよくいわれるが、まさにそうだと思った。演奏には力感がこもっていた。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第7番。これもメリハリの効いた熱い演奏だった。ハイドンの2曲もそうだが、音の作り方にハッとする箇所があった。第4楽章の熱狂的な演奏はもちろんだが、それ以前の楽章でも、鈴木秀美の、音楽家としての充実が感じられた。演奏全体に、鈴木秀美が屹立しているような存在感があった。

 わたしにとって今年はベートーヴェンの交響曲第7番の当たり年だ。4月にエッシェンバッハ指揮のN響で聴き、6月にはヴァイグレ指揮の読響で聴き、そして10月にはインキネン指揮の日本フィルで聴いた。そのどれにも感銘を受けた。寸描を試みたい気持ちはやまやまだが、煩瑣になるので避けるが、それぞれ個性的だった。今回の鈴木秀美指揮の東京シティ・フィルもまたそうだ。

 チェロのゲスト首席に元N響のレジェンド、木越洋さんが入っていた。体と楽器を大きく揺らして情熱的に弾く姿は少しも変わっていない。もともと熱量の高い演奏をする東京シティ・フィルだが、そこに木越洋さんが入った影響はあるだろう。さらに鈴木秀美の音楽にたいする真摯さと情熱が加わり、今回の演奏に結実した。
(2022.10.28.東京オペラシティ)
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カンブルラン/読響

2022年10月26日 | 音楽
 カンブルランが読響に帰ってきた。3年半ぶりだそうだ。軽い身のこなしは変わっていない。1曲目はドビュッシーの「遊戯」。音の透明感、色彩感、陰影の変化、敏捷さ、洒脱さなど、3年半のブランクを感じさせない。カンブルランはもちろんだが、ブランクをものともしない読響もたいしたものだ。

 2曲目は去る10月7日に亡くなった一柳慧(享年89歳)の遺作「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」の初演。ヴァイオリン独奏は成田達輝、三味線独奏は本條秀慈郎。オーケストラは弦楽五部と多数の打楽器という編成。2楽章構成で演奏時間は約18分。

 故人に礼を失しないように気を付けなければならないが、これはなんとも挨拶のしようのない曲だ。三味線の凛とした音色が印象的だった、とだけいっておこう。わたしにとっての一柳慧は、ヴァイオリン協奏曲「循環する風景」(1983)、交響曲「ベルリン連詩」(1989)あたりで止まっている。それ以降の作品は戸惑うことが多かった。本作ではそれが行きつくところまで行った感がある。

 成田達輝と本條秀慈郎のアンコールがあった。シンプルで甘いメロディーだ。一柳慧の「Farewell to the Summer Light」という曲だそうだ。サントリーホールのホームページでその題名を知ったとき、Farewellという言葉に胸をうたれた。

 3曲目はドビュッシーの「イベリア」。ムードに流されずに克明に譜面を追う演奏だったといえばいえるが、それにしても、音楽の流れに乗りきれないところがある演奏だった。カンブルランと読響ならもっと鮮やかな演奏ができるだろう。1曲目の「遊戯」とくらべても重かった。

 4曲目はヴァレーズの「アルカナ」。巨大編成の衝撃的な音楽だ。その衝撃を言葉にしたいのだが、うまい言葉が見つからない。観念的な言い方になるが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」がもたらした衝撃が、その後の社会情勢もあって、急速に方向転換する中で、突然変異のようにその衝撃がもう一度噴出したような感がある。演奏は鮮烈で、音が少しも混濁しない点が驚異的だった。わたしはヴァレーズの作品では、2008年7月にゲルト・アルブレヒト指揮の読響で「アメリカ」を聴いた記憶が鮮明に残っている。そのときの「アメリカ」と今回の「アルカナ」はわたしのヴァレーズ2大体験だ。

 終演後は拍手が鳴り止まずに、カンブルランのソロ・カーテンコールになった。最近はソロ・カーテンコールも珍しくないが、今回のソロ・カーテンコールは、演奏への賞讃はもちろんのこと、カンブルランとの再会を喜ぶ気持ちも込められていたのではないだろうか。
(2022.10.25.サントリーホール)
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ノット/東響

2022年10月24日 | 音楽
 ノット指揮東京交響楽団の定期演奏会。1曲目はシェーンベルクの「5つの管弦楽曲」。シェーンベルクが12音技法に達する前の無調の時代の作品だ。わたしは結局シェーンベルクではこの時代の作品が一番好きだ。なぜだろう。それを考えながら聴いた。そのとき思い出したのは画家のカンディンスキーだ。周知のように、カンディンスキーとシェーンベルクは親交があった。そして興味深いことに、シェーンベルクが「5つの管弦楽曲」を書いたころに、カンディンスキーは具象画が揺らぎ、抽象画に進もうとした。二人とも芸術上の危機にあった。その歩みが似ている。

 シェーンベルクは無調の音楽が飽和状態に陥り、一方、カンディンスキーは具象画が揺らぎ始め、それを押しとどめられない状態に陥る、二人のその時期の作品に表れる緊張感が、わたしは好きなのだろうと思う。

 演奏は見事だった。第1曲「予感」では(音楽の衝動的な動きに)オーケストラが一体となって動き、また第3曲「色彩」では各パートの音色のつながりが緊密だった。そしてどの曲でも、細かい音型が埋もれずに、よく聴きとれた。その感覚は、たとえば藪を覗きこむと、そこにはもつれ合った枝葉や小さな虫が見えるのに似ていた。

 2曲目はウェーベルンの「パッサカリア」。ウェーベルンの作品番号1の曲だ。これも好きな曲なのだが、なぜかシンプルで物足りなく感じた。「5つの管弦楽曲」の後で聴いたからか。演奏は良かったと思うが。

 3曲目はブルックナーの交響曲第2番。ブルックナーの中でも「稿」と「版」の問題が複雑な曲だ。プログラムに差し込まれた告知によれば、ノーヴァク版第2稿(1877年稿)による演奏だが、ノットの意向で随所に第1稿(1872年稿)を取り入れるという。細かい点は多々あるが、もっとも端的な例としては、第2楽章と第3楽章の演奏順が、スケルツォ→緩除楽章になっていた(周知のようにこの曲は、マーラーの交響曲第6番と同様、第2楽章と第3楽章の演奏順に異稿がある)。

 演奏はとても良かった。ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」やショスタコーヴィチの交響曲第4番といった20世紀音楽であれほど鮮烈な演奏を聴かせたノットが、ブルックナーでは息の長い時間の流れを感じさせる演奏を聴かせる。その芸の多彩さに脱帽だ。

 第3楽章(緩除楽章)のコーダでは、第2稿にあるクラリネットではなく、第1稿のホルンが吹いた。たしかに筋が通る。当楽章ではホルンが主役だからだ。そのホルンを聴いていると、人っ子ひとりいない夕暮れの山野にたたずむ人の姿が思い浮かんだ。
(2022.10.23.サントリーホール)
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ブロムシュテット/N響

2022年10月23日 | 音楽
 ブロムシュテット指揮N響のCプロ。曲目はシューベルトの交響曲第1番と第6番だ。N響のCプロはショート・プログラムになったので、わたしはCプロの定期会員をやめたが、今回は1回券を買って出かけた。

 先日のAプロのマーラーの交響曲第9番が異常な緊張に包まれていたので、今回はどうなるかと思ったが、N響もブロムシュテットも、大きな山を乗り越えた安堵感からか、平常心を取り戻したようだ。そうなるとN響の押しても引いてもびくともしない鉄壁のアンサンブルが戻った。ブロムシュテットの指揮も、楷書体というのか、清潔で格調高く、しかも窮屈なところは微塵もない、ブロムシュテット本来のものに戻った。

 ブロムシュテットは今回N響に客演に来る前にベルリン・フィルの定期演奏会を振ったが、そのときはシューベルトの交響曲第3番を演奏していた。いまはシューベルトに共感を持っているのだろうか。今回の第1番と第6番も共感が溢れる演奏だった。

 わたしはシューベルトの「初期交響曲」(堀朋平氏のプログラムノートによる。第1番から第6番までを指す)が好きなのだが(とくに第2番が好きだが)、今回第1番を聴いて、自分でも意外だったが、単調さを感じた。

 一方、第6番はそれほど好きだとは思っていなかったが、今回は大変おもしろく聴けた。だれか指摘をしているのかどうか、よくわからないが、とくに第3楽章と、第4楽章の一部に、ハ長調の大交響曲「ザ・グレート」を彷彿とさせる部分があった。第6番もハ長調なので同じ調性だが、それ以外にもリズムが似ている部分がある。第6番は「ザ・グレート」の先駆なのだろうか。

 余談になるが、わたしが初めて第6番を実演で聴いたのは、1983年のザルツブルク音楽祭のときだ。当時の若武者ムーティがウィーン・フィルを振った。そのときは「第6番はずいぶん堂々とした曲だな」と思った。演奏がそうだったからかもしれない。なお、さらに脇道にそれるが、当日のメインのプロフラムはロッシーニの「スターバト・マーテル」だった。独唱者はジェシー・ノーマン、アグネス・バルツァ、フランシスコ・アライザ、サイモン・エステスといういまでは夢のような顔ぶれだった。

 話をブロムシュテットとN響に戻すと、演奏終了後、盛大な拍手が起こったことはいうまでもないが、それに応えるブロムシュテットもN響も、マーラーのときのような精魂が尽きた様子はなく、わたしは日常が戻ったと感じた。95歳のブロムシュテットだが、日常は続く。それが尊いのだろう。
(2022.10.22.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2022年10月22日 | 音楽
 日本フィル首席指揮者としてのインキネンの最終シーズンが始まった。今回はベートーヴェンの交響曲第8番と第7番。あとは来年4月の東京定期でのシベリウスの「クレルヴォ交響曲」と5月の横浜定期でのシベリウスの交響詩「タピオラ」とベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を残すのみだ。わたしはシベリウスの2曲が楽しみだ。

 今回のベートーヴェンの交響曲第8番と第7番を聴いて、インキネンはたしかに日本フィルにそれまでの日本フィルにはない音をもたらしたと思った。ラザレフの着任前にはどん底状態にあった日本フィルだが、それをラザレフが立て直した。着任早々のプロコフィエフの交響曲チクルスでは、目の覚めるような色彩豊かな演奏を繰り広げた。その後の、とくにショスタコーヴィチの交響曲の数々では、レニングラード音楽院でショスタコーヴィチの姿を見ながら学んだラザレフならではの、ある種の絶対的な演奏を聴かせた。

 その後を継いだインキネンは、弦楽器奏者に、弓を弦に押し付けずに、軽く、ふくらみのある音を出すよう求めた。リズムも重く粘らずに、シャープなものを求めた(これは弦楽器奏者だけではなく、すべての奏者に、だ)。その結果、リフレッシュされ、清新で、しかも華やぎのある音が生まれた。

 もちろん軽いだけではなく、エッジの効いた、鋭角的に切りこむ音もあり、また重低音の唸りもある。それらの要素を加えた、全体的な音のイメージがインキネンにはあり、それを日本フィルに求めた。そしてついに日本フィルを掌握し、一応の完成をみた。それが今回のベートーヴェンの2曲だったのではないだろうか。

 第8番と第7番は、基本的には同じコンセプトの演奏だったが、音のイメージが微妙に違った。それをどういったらいいのか。うまく表現できないのだが、端的にいって、弦楽器の編成が、第8番では12‐12‐10‐8‐6だったのにたいして、第7番では14‐12‐10‐8‐7だったように思う。ともかく第1ヴァイオリンとコントラバスの数が微妙に違っていた。その意図するところから、インキネンの音のイメージが想像される。

 全体的には速めのテンポだったが、そんなに極端ではない。むしろそのテンポ設定の中で、たとえば車窓を流れる風景のように、細かいフレーズが飛び去っていくのが心地よかった。若くて優秀な指揮者の(若いというよりは、もう中堅の域に入っているが)明晰な音感覚を目で見るようだった。

 第7番の第4楽章は圧倒的に盛り上がった。インキネンは一見クールに見えるが、内には熱いものを秘めている。それがマグマのように噴き出した瞬間だった。
(2022.10.21.サントリーホール)
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ブロムシュテット/N響

2022年10月17日 | 音楽
 95歳のブロムシュテットが予定通りN響を指揮した。それだけでも驚異的だが、おまけに曲目がマーラーの交響曲第9番だ。やはり平常心では聴けなかった。第1楽章の冒頭、弦楽器の音色がやわらかい。まるで羽毛で撫でるようだ。それが一気に緊張をはらみ、衝撃的な音にのぼりつめる。わたしはその時点で95歳という年齢を忘れた。

 だが、正直にいうと、第1楽章の後半から音楽に重さを感じ始めた。第2楽章では音楽の重さについていけなかった。だが第3楽章になると、テンポが通常の速さに戻り、重さが消えた。第4楽章では弦楽器の渾身の演奏に目をみはった。指揮者への献身は一流オーケストラの証明だ。それは音楽への献身でもある。そんな感動が湧いた。稀有な演奏を聴いたと思う。

 ブロムシュテットは椅子に座って指揮をした。ときに上半身を大きく揺らすが、基本的にはまっすぐ座ったまま、指先のわずかな動きで指揮をする。たぶんその動きが鋭いのだろう。音楽が衰えていない。むろん、先ほど述べたように、N響が渾身の力でブロムシュテットをカバーしていたからでもあるだろうが。

 それにしてもブロムシュテットには衰えへの甘えが感じられない。それがN響のやる気を引き出し、また聴衆を感動させるのだろう。わかりやすい例だが、ブロムシュテットはステージへの登場の際、車椅子を使わずに、コンサートマスターの篠崎史紀(マロさん)の腕につかまりながら、歩いて出てきた。気丈なのだろう。

 報道によれば、ブロムシュテットは6月下旬にシュターツカペレ・ベルリンとのリハーサルの最中に転倒して入院した。その後、ザルツブルク音楽祭への出演をふくむグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとのツアーをキャンセルした。その時点でわたしはブロムシュテットの今回のN響登場を危うんだ。だが9月からは演奏に復帰した。ベルリン・フィルとの定期演奏会も無事に終えた。とはいえ、ベルリン・フィルとのプログラムは、シューベルトの交響曲第3番とベートーヴェンの交響曲第7番だ。マーラーの交響曲第9番とはわけがちがう。わたしは最後まで危惧した。

 そんな経緯を経ての今回のN響定期だ。平常心で聴けるわけはなかった。そして感動したが、その感動はブロムシュテットへの感動と同じくらい、N響への感動でもあった。

 わたしはそのマーラーを聴きながら、人生には別れがつきものだと思った。愛する人との別れとか、人生そのものとの別れとか。何事にも別れがある。それは避けられない。どんなに辛かろうとも。そんな感慨に浸った。
(2022.10.16.NHKホール)
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ノット/東響

2022年10月16日 | 音楽
 ジョナサン・ノット指揮東響の定期演奏会。じつはこの演奏会を聴きたくて今シーズンから定期会員になった。お目当てはショスタコーヴィチの交響曲第4番だ。プログラムはまずラヴェルの「道化師の朝の歌」から。もちろん良い演奏だったが、ノット東響ならこれくらいはできるだろうと。そんな不遜な感想に我ながら呆れるが。

 次にラヴェルの歌曲集「シェエラザード」。ソプラノ独唱は安井みく。初耳の名前だ。国立音楽大学を卒業後、東京芸大大学院修士課程を修了。いまはイギリスのギルドホール音楽院に在籍中。バッハ・コレギウム・ジャパンのメンバーだそうだ。素直で美しい声だが、ときにオーケストラに埋もれがちだ。それはオーケストラが雄弁だからでもあるだろう。正直、わたしにはオーケストラのほうがおもしろかった。

 最後にショスタコーヴィチの交響曲第4番。すでにツイッターなどで多くの方が発信しているが、第1楽章の後半で第二ヴァイオリンの奏者が椅子から倒れた。本人は意識を失っているようだ。周囲の楽員が駆け寄り、またバックステージに人を呼びに行った。数人の事務局員が現れ、その奏者を運び出した。その間、ノットは演奏を止めなかった。第二ヴァイオリンをはじめとして、演奏から脱落する楽員もいた。わたしも胸がざわざわした。だが楽員が全員演奏に復帰すると、アクシデントを挽回するかのように、気合の入った演奏が回復した。わたしも集中することができた。

 ノット指揮のこの曲は、どういう演奏だったろう。基本的には、いかにも気力と体力が充実した壮年期の指揮者らしく、緩みなく構築され、また緩急の対照がはっきりした、文句の付けようのない立派な演奏だった。それを前提として、この演奏はどういう性格のものかと考えた。

 この曲の第1楽章はほんとうに複雑怪奇な音楽だ。思えばわたしは、その音楽の脈絡を追えたことがない。ノットの指揮で聴いても、それはそうだった。ひとつの器になにもかも投げ込んだ“ごった煮”のような音楽だ。ノットはそれを手加減せずに聴かせた。

 中田朱美氏のプログラムノートに「第3楽章の構成はもっとも複雑」と書かれている。たしかに第3楽章の「構成」はそうだろう。だが、次から次へと出てくる楽想が、絶えず前の楽想を裏切りながら現れる点では、わかりやすいともいえる。たとえばシリアスな楽想が展開すると、それを打ち消すように、急におどけた楽想が現れるという。それはショスタコーヴィチの精神の本質的なところを反映しているように思うが、結果としての音楽は、第1楽章の“ごった煮”の音楽と合わせて、いまの言葉でいえばポストモダンになるのではないか。ノットの指揮はそのような側面からとらえたものだったように思う。
(2022.10.15.サントリーホール)
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新国立劇場「ジュリオ・チェーザレ」

2022年10月11日 | 音楽
 新国立劇場の「ジュリオ・チェーザレ」の最終日を観た。同劇場の記念すべきバロック・オペラ第一弾(昨シーズンの「オルフェオとエウリディーチェ」をバロック・オペラにふくめるなら、むしろヘンデル・オペラ第一弾といったほうがいいか)だと思った。

 まず演出だが、ロラン・ペリーのこの演出は、舞台を博物館の倉庫にとっている。ローマ時代の彫刻その他が保管されている。それらの古代の遺物からジュリオ・チェーザレ(=ジュリアス・シーザー)、クレオパトラ、その他の人々の魂が動きだす。そのドラマがこのオペラだ。一方、舞台は博物館の倉庫なので、多数の労働者が出入りする。労働者たちは古代の人々の魂が見えない。その結果、舞台には古代の人々の魂と労働者たちが(お互い無関係に)共存する。その設定がバロック・オペラの世界を現代につなぐ。

 オーケストラにも感心した。リナルド・アレッサンドリーニ指揮の東京フィルが演奏したが(通奏低音にチェンバロ、チェロ、テオルボ2本が加わった)、その演奏がじつに生き生きしていた。それは嬉しい驚きだった。アレッサンドリーニの指揮のたまものだろう。「オルフェオとエウリディーチェ」のときのオーケストラとは格段の差だ。

 歌手でもっとも光っていたのはクレオパトラ役の森谷真理だ。すばらしい存在感があった。後述するが、標題役の歌手が弱かったので、このオペラは「ジュリオ・チェーザレ」ではなく「クレオパトラ」だという感があった。森谷真理は東京二期会の「ルル」の標題役で感心した記憶があるが、その歌手がバロック・オペラもこんなふうにうたえるとは、時代が変わったと思う。

 ジュリオ・チェーザレ役だが、マリアンネ・べアーテ・キーランドという歌手がうたった。背が高くて、ヴィジュアル的には惚れ惚れするほどのズボン役だが、声にパワーがない。技巧的にはしっかりしているので、残念だ。声域的には、高音はそれなりに出るが、低音があまり出ない。キーランドはバッハ・コレギウム・ジャパンによく出演しているそうだ。そのときの評判はどうなのだろう。

 敵役のトロメーオは藤木大地がうたった。率直にいって、以前ほど声の艶と伸びが感じられなかった。どうしたのだろう。今回だけのことか。日本の貴重なカウンターテナーなので、聴衆としても大切にしたいのだが。

 その他の歌手は、アキッラ役の外人歌手を除いて、すべて日本人歌手がうたった。カヴァー歌手をふくめて、日本人歌手の層の厚みが増しているのだろう。なかでもニレーノ役の村松稔之(カウンターテナー)には、怪異な演技に笑いのセンスがあり、拍手を集めた。
(2022.10.10.新国立劇場)
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「浜辺のアインシュタイン」補足

2022年10月10日 | 音楽
 昨日「浜辺のアインシュタイン」の感想を書いたが、舌足らずな点があったので、補足したい。

 まず“レジーテアター”との関連のことだが、そもそも“レジーテアター”は日本語でどう訳されているのだろう。インターネットで検索したが、いまひとつはっきりしない。わたしなりに日本語で表現してみると、「演出主導の音楽劇」といったところか。

 昨日も書いたが、わたしが経験したレジーテアター作品は、ヴォルフガング・リームの「ハムレット・マシーン」(チューリッヒ歌劇場の上演)と「メキシコの征服」(ザルツブルク音楽祭の上演)だ。その2作品の経験から、レジーテアターとは断片的な言葉と、作品の基調となる音楽からなり、上演に当たっては、演出家が独自のヴィジョンで作品を構築して観客に提供するものと考える。

 そう考えてよいなら、「浜辺のアインシュタイン」はレジーテアターの先駆的な作品ともいえるのだが、他方、そうとはいえない面もある。というのは、「浜辺のアインシュタイン」が本質的に“解体”を目指しているからだ。わたしは今回の上演から、解体のエネルギーを感じた。既存の芸術形態の解体だ。だから「浜辺のアインシュタイン」は衝撃的だったのではないか。一方、リームの2作品は解体後の瓦礫から出発して、その再構築を目指しているように思う(ただし、再構築の方法は指示せず、演出家の自由に任せる)。

 舌足らずだったもうひとつの点は、チラシ(↑)に描かれた少年(舞台上にも登場する)にわたし自身を重ねたことだ。今回の上演では、少年は最後に愛を獲得する。それはよいのだが、そこにいたる過程で、少年は社会の理不尽にさらされる。最後に愛を獲得したのは演出・振付の平原慎太郎の優しさからであり、わたしの脳内では別のストーリーが(社会の理不尽に抗うが、敗北し、無力感に浸るストーリーが)進行した。

 そんな敗北の人生はわたし自身の人生だが、それを見つめる姿が、少年の姿で現れたことに、なんともいえない真実味を感じた。自分の人生を振り返るのは、老年になった自分ではなく、少年時代の自分なのだと。少年時代の自分がその後の長い人生を見つめる。そう感じたのは、フィリップ・グラスのノスタルジックな音楽のためでもあるだろう。

 最後にもう一点、先日も書いたように、わたしはロバート・ウィルソン演出のDVDを観ていないが、プログラムに掲載された三浦雅士氏のエッセイによると、「初演を見た寺山修司が「役者がまったく動かないんだよ」と苦笑しながら話してくれた」とある。激しいダンスが縦横に展開する今回の上演とは真逆の上演だったようだ。DVDを観たら、どんな印象を受けるのだろう。
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浜辺のアインシュタイン

2022年10月09日 | 音楽
 フィリップ・グラス(1937‐)のオペラ(オペラといっていいのかどうか。ともかく型破りな作品だ)「浜辺のアインシュタイン」は、一生観る機会がないのではないかと思っていた。1992年に東京公演があったそうだが、そのころは仕事が忙しくて、公演があること自体知らなかった。その後、アメリカ公演やヨーロッパ公演の予定を知ったが、休暇を取れなかった。

 その「浜辺のアインシュタイン」が思いがけず神奈川県民ホールで上演された。初日に観に行ったが、その帰りに当公演開催の立役者と思われる一柳慧氏(作曲家、神奈川芸術文化財団芸術総監督)の訃報に接した。前日に亡くなったらしい。なんたること。そのショックをふくめて、「浜辺のアインシュタイン」に触れた経験は、わたしには忘れられない想い出になりそうだ。

 いうまでもないが、「浜辺のアインシュタイン」はフィリップ・グラスとロバート・ウィルソン(1941‐)のコラボ作品だ。ロバート・ウィルソン演出のDVDも出ている。幸か不幸か、わたしはそのDVDを観ずに当公演に接した。今後さまざまな演出で上演されるだろう(そう期待する)この作品の、多様化する上演史の一歩に触れた思いがする。

 「浜辺のアインシュタイン」は演劇と音楽とダンスのコラボレーションだ。三者の中では演劇がもっとも解体されている。それはともかくとして、演劇と音楽とダンスが一体となって“総合芸術”を目指すのではなく、三者がバラバラに存在する点がユニークだ。その意味ではレジーテアター(演出主導の上演)とは趣が異なる。わたしが触れたレジーテアターはヴォルフガング・リーム(1952‐)の「ハムレット・マシーン」と「メキシコの征服」だが、ともに演出家によって一本のストーリーが組み立てられていた。

 平原慎太郎演出・振付の当公演では、東日本大震災の津波を思わせる場面があったり、また(わたしの勝手な想像かもしれないが)全体主義国家を思わせる場面があったりした。それらのイメージが断片的に連なりながら、社会の現状への批判的な視点と、それでも生きていくわたしたちへの肯定的な視点を感じた。端的にいって、わたしはチラシ(↑)に描かれた半ズボン姿の少年(その少年は舞台にも出てくる)にわたし自身を重ねた。

 演奏の熱量がすごかった。指揮のキハラ良尚、ヴァイオリンの辻彩奈、電子オルガンの中野翔太と高橋ドレミ、そして(個々の名前は省略するが)フルート、バスクラリネット、サクソフォンの皆さんと東京混声合唱団。かれらの熱量は現代の省エネ志向とは真逆のものだった。多数のダンサーたちの熱量も。またダンスでは中村祥子の美しさに目をみはった。俳優の松雪泰子と田中要次は(この作品では)あまり見せ場がなかった。
(2022.10.8.神奈川県民ホール)
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国立西洋美術館の北欧絵画

2022年10月06日 | 美術
 先日、下野竜也指揮都響の演奏会を聴き、その感想を書いたが、当日は演奏会の前に友人と会っていた。友人と別れてから演奏会まで、しばらく時間があったので、国立西洋美術館で常設展を観た。いつもは企画展を見た後で慌ただしく観る常設展だが、今回は時間があるので、ゆっくり観ることができた。

 常設展の最後のセクションに、フィンランドの国民的画家といわれるアクセリ・ガッレン=カッレラAkseli Gallen-Kallela(1865‐1931)の「ケイテレ湖」という作品が展示されていた。フィンランドの湖沼地帯にあるケイテレ湖を描いた作品だ。画面の大半をケイテレ湖の湖面が占めている。鏡のように静かな湖面だ。そこに銀灰色の線がジグザグに走っている。フィンランドの民俗的叙事詩「カレワラ」に登場する英雄ワイナミョイネンが船を走らせた航跡だという。本作品は一見風景画のように見えるが(またそう見てもよいのだろうが)、神話画でもあるのだ。

 わたしは本年6月から9月にかけて同美術館で開かれた「自然と人のダイアローグ」展で本作品に初めてお目にかかった。「美しい作品だな」と思った。本作品が国立西洋美術館の2021年度新規購入作品だと知ったときには喜んだ。今後はいつでも観ることができると。

 今回の常設展ではその近くにデンマークの代表的な画家のヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864‐1916)の「ピアノを弾くイーダのいる室内」が展示されている。イーダとはハンマースホイの妻だ。隣の部屋で妻がピアノを弾いている。その部屋と画家のいる部屋とのあいだにある扉は大きく開かれている。画家はピアノを弾く妻の後ろ姿を見つめる。窓からは明るい陽光が射しこんでいる。静かで穏やかな室内風景だ。

 ガッレン=カッレラとハンマースホイは同時代人だ。その生年からは、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウス(1865‐1957)とデンマークの作曲家カール・ニールセン(1865‐1931)が連想される。シベリウスとニールセンも二人の画家と同時代人だ。しかも興味深いことに、「カレワラ」に題材を求めた点でガッレン=カッレラとシベリウスは共通し、一方、そのような神話性を求めずに、現世的な題材を求めた点でハンマースホイとニールセンは共通する。“フィンランド組”と“デンマーク組”のその違いは偶然だろうか。

 国立西洋美術館の北欧絵画にはもう一点、エドワルト・ムンク(1863‐1944)の「雪の中の労働者たち」がある(今回の常設展には展示されていないが)。スコップやつるはしを持った何人もの労働者が描かれている。意外なことには、ムンクもガッレン=カッレラやハンマースホイと同時代人だ。だがムンクは、ガッレン=カッレラやハンマースホイと並べると、いかにも座りが悪い。
(2022.9.30.国立西洋美術館)

(※)各絵画の画像は国立西洋美術館のホームページの「作品検索」で見ることができます。
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下野竜也/都響

2022年10月01日 | 音楽
 今年は別宮貞雄(1922‐2012)の生誕100年、没後10年の記念年だ。そこで都響が定期演奏会でオール別宮貞雄プロを組んだ。曲目はヴァイオリン協奏曲(1969)、ヴィオラ協奏曲(1971)とチェロ協奏曲(1997/2001)。指揮は下野竜也。

 いまわたしは3曲を作曲順に並べたが、じつはプログラムはチェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順に並べられた。作曲順をさかのぼる形だ。それが意外だった。なぜ作曲順とは逆の順序で演奏するのだろう。その答えは演奏会を聴くとよくわかった。チェロ協奏曲は他の2曲にくらべて音楽の密度が薄いのだ。チェロ協奏曲では演奏会が締まらない。一方、ヴィオラ協奏曲とヴァイオリン協奏曲は、作曲年代が近いせいか、ともに密度が濃いので、どちらが最後であっても構わないようだ。

 で、1曲目に演奏されたチェロ協奏曲だが、チェロ独奏は才能ある若手演奏家の岡本侑也が務めた。だが、さすがの岡本侑也をもってしても、この曲のどこをどうしたらよいのか、つかみかねたような演奏に聴こえた。それはオーケストラも同様で、なんとも所在無げな様子だった。

 2曲目のヴィオラ協奏曲では音楽の密度が一挙に高まった。わたしは当夜初めて音楽を聴く手応えを感じた。濃密な音楽のテクスチュアに時折東欧風の音調が混じる。小室敬幸氏のプログラムノート(いつもながらたいへん優れた解説だ)に「旋律やリズムについてはバルトークからの影響が大きい」と書かれているが、その部分だろう。

 ヴィオラ独奏はティモシー・リダウトTimothy Ridoutが務めた。1995年ロンドン生まれだ。外国人が別宮貞雄の曲を?と思わないでもなかったが、プロフィールをよく読むと、今井信子に師事したとある。今井信子はこの曲の初演者(放送初演と舞台初演の両方の初演者)なので、その師弟関係からくるのかもしれない。ともかく演奏はこの曲の細部まで完璧に弾きこなす見事なものだった。

 3曲目のヴァイオリン協奏曲では、ヴァイオリン独奏を南紫音が務めた。アグレッシブに攻める演奏でこれまた見事だった。南紫音の演奏はいままで何度か聴いたことがあるが、今度の演奏で決定的な印象を受けた。この曲は2楽章構成だが、両楽章をつなぐブリッジのような形で長大なカデンツァが入る。その演奏の濃さに思わず惹きこまれた。

 下野竜也指揮都響は、どの曲も出番が少ないので、手持無沙汰のように見えた。それは曲のためなので仕方ないのだが、聴くほうの側からいっても、オーケストラの演奏会としては多少物足りなさが残った。
(2022.9.30.東京文化会館)
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