宮本三郎(1905‐1974)は、第二次世界大戦中、盛んに戦争画を描いた画家の一人。「山下、パーシバル司令官会見図」(1943)はその代表作だ。ところがその宮本三郎に「飢渇」(1943)という作品がある。これも戦争画の一つだが、戦意高揚というには程遠く、戦争の凄惨な現実を描いている。宮本三郎記念美術館の収蔵品で、現在開催中の企画展に出ている。
画面中央で、左腕を負傷して布で吊った兵士が、右手で体を支えて、地面に腹ばいになっている。目の前に水溜りがある。兵士は水を飲もうとしている。水溜りに兵士の顔が写る。ギョッとするような狂気の眼。必死の形相。
兵士の後ろにはもう一人の兵士がいる。倒れた少年を抱きかかえて、水を飲ませようとしている。その優しさも現実かもしれない。でも、必死の形相で水溜りに這って行く兵士のほうが、圧倒的にリアルだ。
宮本三郎は戦争画で成功した画家だが、その宮本三郎が、「山下、パーシバル司令官会見図」と同時期にこの「飢渇」を描いていた。これはどういうことだろう。どんな心境だったのだろう。当然、発表はできなかったと思うが――。この作品はどんな経緯をたどって今に至ったのだろう。
向井潤吉(1901‐1995)も盛んに戦争画を描いた画家だが、戦後に「漂人」(1946)という絵を描いた。茶色のモノトーンの画面。当時は街中に溢れかえっていた復員兵が立っている。ボロボロの服。足元には包みが一つ。故郷を失い、肉親を失い、自分自身を失った男。それらをすべて失わせた戦争。
だが、戦後も時が経つうちに、宮本三郎は極彩色の裸体画で、また向井潤吉はノスタルジックな民家の風景画で、ともに名声を確立した。戦争を忘れたように見える二人の歩みは、戦後日本の歩みと軌を一にしているようにも感じられる。
一方、それとは真逆の歩みをした画家もいた。久永強(ひさなが・つよし、1917‐2004)。終戦直後シベリアに抑留された体験を持つが、復員後はその記憶に封印をした。ところが1987年に下関市立美術館で香月泰男(1911‐1974)のシベリア・シリーズを見て、その封印を解いた。74歳になった久永強は、一気に作品を産み出した。
過酷なシベリア体験を描いたそれらの作品は、黒が主体の香月泰男のシベリア・シリーズとは違って、透明な色彩感のある、悲しい世界になった。
(2016.2.27.宮本三郎記念美術館)
※画家と写真家のみた戦争展
画面中央で、左腕を負傷して布で吊った兵士が、右手で体を支えて、地面に腹ばいになっている。目の前に水溜りがある。兵士は水を飲もうとしている。水溜りに兵士の顔が写る。ギョッとするような狂気の眼。必死の形相。
兵士の後ろにはもう一人の兵士がいる。倒れた少年を抱きかかえて、水を飲ませようとしている。その優しさも現実かもしれない。でも、必死の形相で水溜りに這って行く兵士のほうが、圧倒的にリアルだ。
宮本三郎は戦争画で成功した画家だが、その宮本三郎が、「山下、パーシバル司令官会見図」と同時期にこの「飢渇」を描いていた。これはどういうことだろう。どんな心境だったのだろう。当然、発表はできなかったと思うが――。この作品はどんな経緯をたどって今に至ったのだろう。
向井潤吉(1901‐1995)も盛んに戦争画を描いた画家だが、戦後に「漂人」(1946)という絵を描いた。茶色のモノトーンの画面。当時は街中に溢れかえっていた復員兵が立っている。ボロボロの服。足元には包みが一つ。故郷を失い、肉親を失い、自分自身を失った男。それらをすべて失わせた戦争。
だが、戦後も時が経つうちに、宮本三郎は極彩色の裸体画で、また向井潤吉はノスタルジックな民家の風景画で、ともに名声を確立した。戦争を忘れたように見える二人の歩みは、戦後日本の歩みと軌を一にしているようにも感じられる。
一方、それとは真逆の歩みをした画家もいた。久永強(ひさなが・つよし、1917‐2004)。終戦直後シベリアに抑留された体験を持つが、復員後はその記憶に封印をした。ところが1987年に下関市立美術館で香月泰男(1911‐1974)のシベリア・シリーズを見て、その封印を解いた。74歳になった久永強は、一気に作品を産み出した。
過酷なシベリア体験を描いたそれらの作品は、黒が主体の香月泰男のシベリア・シリーズとは違って、透明な色彩感のある、悲しい世界になった。
(2016.2.27.宮本三郎記念美術館)
※画家と写真家のみた戦争展