Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

スティーヴ・ライヒ

2011年01月31日 | 音楽
 日本フィルの1月定期でスティーヴ・ライヒの「管楽器、弦楽器とキーボードのためのヴァリエーション」が演奏された。指揮はシズオ・Z・クワハラさん。同氏は2008年6月の横浜定期に客演したおりには、ジョン・アダムズの「高速機械で早乗りShort Ride in a Fast Machine」を披露してくれた。

 演奏会にむけた取り組みがすばらしかった。まずホームページに前島秀国さんの解説を事前公開した。馴染みのない曲に関心をよぶには効果的だ。前島さんはサウンド&ヴィジュアル・ライター。この曲の解説者としては最適の人だ。

 次に「公演担当者と一緒に、オーケストラを聴こう 第3弾 ライヒの巻」を掲載した。事務所で何人かが公演担当者とアメリカ音楽をきく様子が書かれていた。あれこれCDをかけながら、ボソボソと交わされる感想が、意外に臨場感があった。

 こうして周到に準備された演奏会。土曜日の公演では前島秀国さんのプレトークがあった。いくつかのCDをかけながら、ライヒの音楽を語るもの。ライヒが自分の音楽に影響を与えたと語っているペロタン(12世紀末~13世紀初め、ノートルダム楽派の作曲家)の音楽は、モアレ現象(規則正しい繰返しを重ね合わせたときに生じるズレ)に似た効果が、ライヒをふくむミニマルミュージックのようだった。

 またライヒの「三つの物語Three Tales」も面白かった。金床(かなとこ)を叩く一定のリズムが繰り返されるうちに、少しずつ音が加わっていく。ワーグナーの「ラインの黄金」で、ヴォータンが地下のニーベルハイムに下りていく音楽みたいだなと思っていたら、ほんとうにそうだった。この部分は「ニーベルング・ツェッペリンNibelung Zeppelin」というそうだ。笑ってしまった。

 さて、いよいよ演奏。CDではきき馴れた曲だが、生できくのは初めて。こうしてコンサートホールできくと、たしかにこれはコンサートホールで通常演奏される音楽とは、全然ちがう原理でできていると感じられた。また指揮のしかたにも注目した。同じ音型が繰り返され、そこに微妙な変化が生じる約21分もの長い間、きちょうめんに拍をとっていた。たしかに、そうしないと、演奏者はどこをやっているのかわからなくなる可能性があるだろう。

 この曲の前にはウィリアム・シューマンの「アメリカ祝典序曲」が、後にはストラヴィンスキーの「春の祭典」が演奏された。ともに張りのある豪快な演奏。今のアメリカの価値観の一端にふれる思いだった。
(2011.1.29.サントリーホール)
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ゼッキンゲンのトランペット吹き

2011年01月27日 | 音楽
 「ゼッキンゲンのトランペット吹き」というオペラをみた。作曲はヴィクトル・ネッスラー(Victor Nessler 1841~1890)。2006年にバート・ゼッキンゲンの姉妹都市の山形県長井市で日本初演された。当時その記事をみて、記憶に残っていた。先日、埼玉県和光市で再演された。主催は特定非営利活動法人「オペラ彩」。

 時は17世紀、30年戦争の末期。兵隊でトランペット吹きのヴェルナーは貴族の令嬢マリアに恋をする。紆余曲折の末、2人はめでたく結ばれる。これは実話だそうだ。バート・ゼッキンゲンには「相思相愛の身分違いの愛」と刻まれた2人の墓標があり、「今もなお多くの人々が訪れている」(プログラム誌)。これをヨーゼフ・シェッフェルという詩人が叙事詩にして1854年に出版。ベストセラーになった。それをネッスラーがオペラにした。初演は1884年、ライプツィッヒ。大ヒットしたそうだ。

 上演時間は2時間20分くらい。序幕プラス3幕の構成。第2幕にはバレエも入る。要するに堂々たるオペラだ。牧歌的なコメディーで、印象としては「売られた花嫁」に通じる。もっとも「売られた花嫁」の才気煥発さは、こちらにはない。素朴さが身上のオペラだ。

 音楽的には第2幕が充実していた。幕開きのヴェルナーの愛の歌(やがてマリアとの二重唱になる)と、末尾のヴェルナーの別れの歌、ともにきき応えがあった。

 歌手はヴェルナー役が枡貴志さん、マリア役が羽山弘子さん。声も容姿もぴったりだ。マリアの父親のシェーナウ男爵役は志村文彦さん。ベテランだけあって、全体を引っ張っていった。ヴェルナーの友人のコンラディーン役の歌手は音程が甘かった。

 指揮は佐藤正浩さん。序曲から快調。オーケストラはOrchestre “Les Champs-Lyrics”。これは佐藤さんが主宰する団体だそうだ。コアとなる固定的なメンバーがいるのだろう。小気味よい演奏だった。合唱はオペラ彩合唱団。冒頭の合唱から精彩があった。トランペット独奏は東京交響楽団の大隅雅人さん。

 バート・ゼッキンゲンはシュヴァルツヴァルトの南端に位置し、ライン川に面した小さな町だ。対岸はスイス。会場には写真が展示されていた。石畳の小路が残るメルヘン的な町。こういう町でのんびり過ごす旅をしたいものだ。

 会場では長井市の方々もみえて、ミニ物産展が開かれていた。わたしも、お菓子、漬物、お餅などを買い込んだ。
(2011.1.23.和光市民文化センター サンアゼリア)
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日本管弦楽の名曲とその源流(12)

2011年01月25日 | 音楽
 都響の1月定期のAシリーズは「日本管弦楽の名曲とその源流」の12回目。今回は西村朗さんとアンドレ・ジョリヴェを組み合わせたプログラム。指揮は先日のBシリーズと同様アメリカの若い指揮者ヨナタン・シュトックハンマーさん。

 1曲目は西村さんのサクソフォン協奏曲「魂の内なる存在」。サクソフォン独奏は須川展也さん。西村さんはプレトークで、「ジャズっぽくきこえるかもしれませんが、音は全部書いてあります」といっていた。たしかにジャズ、それも即興的なフリージャズのようにきこえる。言い換えるなら、不定形なものを、合理主義で割り切らずに、あえて不定形なまま引き受けようとする潔さ。演奏終了後、指揮者は指揮棒を下ろさず、ホールは長い静寂に包まれた。

 2曲目はジョリヴェの「ハープと室内管弦楽のための協奏曲」。ハープ独奏は吉野直子さん。ジョリヴェは若いころにオリヴィエ・メシアンらとともに「若いフランス」を結成して、当時の新古典主義に反旗を翻した――といわれるが、この曲は新古典主義的な明るさと軽さにみちている。作曲年代は1952年。急進的な前衛音楽が盛んだったころ。それと対比すると、なにか不思議な感じがする曲だ。

 3曲目は西村さんの「幻影とマントラ」。3楽章構成の曲。第1楽章ではオーケストラが凄まじい音で咆哮する。前出の「魂の内なる存在」に比べると、書法の簡潔化が目立つ。第2楽章は一転して弦楽四重奏を弦とハープが包みこむ静寂と瞑想の音楽。あえていうなら、アルヴォ・ペルト風。アタッカで入る第3楽章は、前半、第1楽章では見出せなかった魂の叫びが感じられる。後半のクロマティックゴングを基調とする美しい音楽は、なにかを突き抜けて、無限の世界が広がるようだ。この曲でも、演奏終了後、ホールは長い静寂に包まれた。

 4曲目はジョリヴェの「ピアノ協奏曲」。ピアノ独奏は永野英樹さん。1951年の初演のときには「春の祭典」以来の大騒動になったと伝えられる曲だ。今きくと、西洋音楽の枠内におさまっていて、西村さんの曲と並べると、こういっては語弊があるが、ある種の呑気さが感じられた。前出のハープ協奏曲もそうだが、ジョリヴェという人は、師のエドガー・ヴァレーズのようには時代を超えた存在ではなく、むしろ西洋音楽の伝統にどっぷり浸った人かもしれない。

 どの曲もきわめてクオリティの高い演奏。3人の独奏者はいうまでもなく、都響のアンサンブルと表出力もハイレベルだ。指揮のシュトックハンマーさんも音楽的能力がひじょうに高い。
(2011.1.24.東京文化会館)
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読売日響第500回定期演奏会

2011年01月24日 | 音楽
 読売日響の第500回定期。指揮は正指揮者の下野竜也さん。1曲目は委嘱新作、池辺晋一郎さんの「多年生のプレリュード」。節目の演奏会にふさわしく、いかにも祝典序曲的な曲だ。よく鳴る。これまでに夥しい数の作品を書いてきたこの作曲家が、すでにベテランの域にたっし、このスタイルならもうなんでも書けるという筆致の曲。求心的ではなく遠心的。さまざまなアイディアが盛り込まれている。部分、部分ではデジャヴュ(既視感)をおぼえることもあった。

 休憩後はリストの「ファウスト交響曲」。怪物的なこの大作を驚くべき――といっても大袈裟ではないほどの――把握力と表現力で演奏した快演だった。下野さんの明晰な構成力と読売日響の演奏力が結実した演奏。

 第1楽章冒頭の「1オクターヴの12の半音をすべて用いた不安定な主題」(プログラムノート)が――もともと遅いテンポの部分だが――さらに遅めのテンポで演奏された。この主題はなんども顔を出すが、その都度テンポは同じ。第2楽章も遅めのテンポがとられていた。ここまで来て、上岡敏之さんを思い出した。ただ、上岡さんにはある種の表現主義的な性向が感じられるが、下野さんの場合はなかった。

 第3楽章(最終楽章)の末尾のテノール独唱(吉田浩之さん)と男声合唱(新国立劇場合唱団)も美しかった。大曲の決着を声楽でつける発想はマーラーの嚆矢となるもの。

 終演後、アフタートークがあった。西村朗さん、片山杜秀さん、江川紹子さん、下野竜也さんがパネリスト。司会は理事長の横田弘幸さん。さすがに報道機関のオーケストラだけあって人選がうまい。それぞれの立場でご自分の意見をいくらでも持っている方々だ。

 テーマは「今、オーケストラには何を求めるか?」。ちょっと大上段にふりかざしたテーマ。それを承知のうえで、自由に語ってもらおうという趣旨だろう。

 これが面白かった。内容は速報がホームページに載っているし、詳細は3月号の「月刊オーケストラ」(プログラム誌)に載るそうだ。が、参加できなかったかたには申し訳ないが、ライヴのニュアンスは紙面では難しいかもしれない。今のオーケストラを法隆寺にたとえた西村さんのブラックジョーク、音楽好き=マイノリティーの生きる権利を主張した片山さんの自虐的ユーモア、ドヴォルジャークの交響曲第4番をめぐる「名曲コンサート」か「有名曲コンサート」かの下野さんの問い・・・。会場の笑いや拍手には共感がこもっていた。
(2011.1.22.サントリーホール)
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日本管弦楽の名曲とその源流(11)

2011年01月19日 | 音楽
 都響の1月定期は恒例の「日本管弦楽の名曲とその源流」シリーズ。今年は指揮者にアメリカのヨナタン・シュトックハンマーを招いた。わたしは2007年5月にリヨン歌劇場できいたことがある。演目はシャリーノの「私を裏切った光」とツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」のダブルビル。なかでもシャリーノは、ゲンダイオンガクそのものだが、それを難なく、楽しみながら、振っていたのに強い印象をうけた。

 開演前にプレトークがあった。作曲家の権代敦彦さんと田中カレンさん、司会は音楽評論家の片山杜秀さん。これが面白かった。並みの作品紹介ではなく、お互いの曲をどう思うかに踏み込んでいた。田中カレンさんは権代さんの作品について、一応の社交辞令の後、「心を撃つか」と突っ込まれて、「……」。会場からは苦笑がもれた。権代さんは田中さんの作品について、これまた社交辞令の後、「冷たいかな……」と。すぐに「それはお洒落ということですよ」と言い直したが。

 プログラム後半のお二人の作品。権代敦彦さんの「ゼロ―ピアノとオーケストラのための」は、演奏時間25分ほどの単一楽章のピアノ協奏曲(ピアノ:向井山朋子さん)。普通の意味での「流れ」はない。「流れ」を拒否したところから生まれる音楽。なぜそうしたのかと考えて、演奏者の肉体の解放のためではないかと思った。あえて安易な「流れ」に身をまかせることを阻み、抵抗物に立ち向かわせることで、根源的な肉体性を引き出そうとしたのではないか。

 田中カレンさんの「アーバン・プレイヤー―チェロとオーケストラのための」は、演奏時間20分ほどの3楽章からなるチェロ協奏曲(チェロ:古川展生さん)。これはこのままでも、たとえばネイチャー映像のBGMに使えそうな音楽。第3楽章の「悲しみや悲哀の淵から次第に希望へと向けて変化していく」(作曲者自身のプログラムノート)の部分では鐘が鳴る。これはいかにも予定された鐘の音に感じられた。

 もしどちらか、もう一度きかせてもらえるなら、わたしは権代さんのほうを選ぶ。

 前半の1曲目はプ―ランクの組曲「牝鹿」。この演奏には余裕のなさを感じた。アンサンブルを磨き上げる時間が足りなかったのか。

 次はダルバヴィの「ヤナーチェクの作品によるオーケストラ変奏曲」。ヤナーチェクのピアノ曲集「霧の中で」の第4曲にもとづく大編成のオーケストラ曲。絶えず流動し続ける音色と音型が美しい。「変奏曲」の内実が、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスのころとは大きく変わっている。
(2011.1.18.サントリーホール)
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わが町

2011年01月14日 | 演劇
 新国立劇場の新制作、ソーントン・ワイルダーの「わが町」。アメリカの架空の町を舞台にした芝居。そこに暮らす人々の平凡な日常を描いている。が、意外なほどに宇宙的な広がりや、気の遠くなるような、長い、長い時間的なスパンをもっている。死者と生者との交錯もある。人生とはなにかを考えさせる作品。

 演出は宮田慶子さん。緻密できめの細かい演出だ。正味2時間50分ほどの上演時間があっという間に過ぎた。考えてみると、「ヘッダ・ガーブレル」もそうだった。作品の性格はまったくちがうが、どちらも丁寧に仕上げられた舞台。

 「人生はこんなにすばらしいのに、だれもそれに気付かない。みんな忙しそうに過ごしていて、お互いの顔さえじっくりみていない。」大意ではこのようなメッセージが発せられる。私たちは、舞台をみているあいだは、ほんとうにそうだと思う。けれども劇場を出ると、また元に戻ってしまう・・・。作者にはそのペシミズムもあるようだが、今回の舞台はほのぼのとした気分で終わった。だれもが感動し、少し反省して劇場を出たはず。

 中劇場の9列目までをつぶして作った広い舞台。ありふれた椅子やテーブルや脚立などを除いて、大道具も小道具もない。コーヒーを飲んだり、芝を刈ったりする場面は、身振りで演じられる。それがまったく不自然ではない。大通りなどは照明で示される。大道具や小道具がない分、照明が雄弁だ。

 16人の老若男女からなる「町のひとびと」が、馬の足音や犬の遠吠えなどの擬音を出していた。これも手作り感があって面白い。

 稲本響さんのピアノ独奏も雄弁だった。クラシックでもなく、ポップスでもなく、明るく透明な音楽。プログラム上で「芝居の空気感と音楽が常に一体化したい」と語っている。まさにそれが実現されていた。とくに第3幕の美しさは特筆ものだ。

 進行役の「舞台監督」を演じた小堺一機さんが温かい味を出し、それを基調にそれぞれの役者さんが緊密なアンサンブルを形成していた。

 同劇場のホームページには「わが町」の特設サイトができている。そこには「わが町案内板」という担当スタッフのブログがある。翻訳の水谷八也さんが昨年11月から毎週水曜日に「水曜ワイルダー約1000字劇場」という連載をしている。この作品の斬新さや、シェイクスピアや能との関連が書かれていて興味深い。このような皆さんの熱意が結実した舞台だ。
(2011.1.13.新国立劇場中劇場)
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トリスタンとイゾルデ

2011年01月08日 | 音楽
 新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」。1月4日と7日の2回の公演をみた。結果的には2回みてよかった。デイヴィッド・マクヴィカーの演出がよくわかった。

 第1幕への前奏曲が始まると、紗幕のむこうにオレンジ色の大きな円が上ってくる。海を照らす太陽だ。同色のギザギザの線が、舞台を囲むように横に走っている。太陽に照らされた水平線。だが位置がちょっと上すぎる。なにかの裂け目のようにもみえた。

 第2幕に入ると、ギザギザの線は青色に変わった。そこで気がついた。これは一種の象徴なのだ。第1幕ではトリスタンとイゾルデの「秘めた愛」と「現実」との裂け目。第2幕の冒頭では、早く会いたいのに、会えない「もどかしさ」。やっと会えた2人の「愛の二重唱」になると、ギザギザの線は消えた。2人を引き裂くものがなくなったわけだ。マルケ王の一行が登場すると、再び現れた。今度は白色。冷たい無機質な白色。

 第3幕の冒頭では再び太陽が浮かんでいる。今度は真っ赤な夕陽だ。トリスタンの傷口から流れる血のようだ。ギザギザの線は水平線。これも真っ赤だ。やがて息を吹き返したトリスタンが苦渋のモノローグを始めると、色が消え、モノクロームの世界になる。イゾルデが到着すると再び真っ赤になる。愛の死に至って、ギザギザの線が消えた。愛の二重唱のときと同じ。夕陽は海に沈む。第1幕の幕開きの逆回し。

 この演出は愛する2人の伝説をひたすら語ったもの。そこにいるのがトリスタンその人であり、イゾルデその人であると、信じられる気分になった。個々の場面では、愛の二重唱が美しかった。今までみた演出のなかで、これが一番美しかった。

 大野和士さんの指揮は、パワフルで、しかもシャープだった。オーケストラの海に浮き沈みする諸々のモチーフを、すべてきかせてもらった気がする。個別の部分では、第3幕のトリスタンの苦渋のモノローグの末尾の、イゾルデの幻影をみる音楽が、いかに甘美であるかを教えてもらった。

 その指揮は4日と7日では、そうとうちがっていた。4日はテンションが高く、オーケストラも歌手も煽っていた。7日はしっとり落ち着いたアンサンブルを形成し、息の長い歌い方をしていた。私の好みは7日のほう。

 トリスタン、イゾルデ、クルヴェナール、ブランゲーネを歌った歌手たちは、たいへんな高水準。イゾルデのイレーネ・テオリンは、4日は絶叫しがちだったが、7日は抑えていたので安心してきけた。マルケ王を歌った歌手は、声はあるが、陰影に乏しかった。
(2011.1.4&7.新国立劇場)
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アンリ・ルソー展

2011年01月05日 | 身辺雑記
 年末年始はいかがおすごしでしたか。私は年末には箱根の山に登り、温泉で一泊するのが、この数年の恒例になっています。今回は金時山へ。童謡の「金太郎」で有名な山です。

 まさかりかついで きんたろう
 くまにまたがり おうまのけいこ
 ハイシィドウドウ ハイドウドウ
 ハイシィドウドウ ハイドウドウ

 山頂には金時娘の山小屋があります。居合わせた登山客の話によると、もう77歳だそうです。まだまだお元気。当日は厨房に入っていました。私は味噌汁をいただきました。その美味しかったこと! 大きなお椀に具が山盛りでした。

 下山後、いつもの宿で一泊。温泉に入って、夕食にはワインを一本。部屋に戻ってビールを飲んでいたら、すぐに眠くなってしまいました。翌朝目が覚めたら、ビールはほとんど手つかずでした。

 朝食後、ポーラ美術館の「アンリ・ルソー展」へ。同館所蔵の作品を中心に16点が集められていました。個々の作品は小粒のものが多く、目玉がない感じ。そのなかでは「夕暮れの眺め、ポワン・デュ・ジュール」が注目されました。88.7×116.0という比較的大きな画面にパリの外れの風景が描かれています。家、橋、人物などが点在していて、とりとめのない印象。それらの形象の大小がちぐはぐなのがルソー的です。1886年の作なので最初期のもの。独特のアンバランス感は最初からあったようです。

 ルソーが作曲した楽譜が展示されていました。作曲もしていたとは! そして出版も! ヴァイオリン独奏のワルツ「クレマンス」。クレマンスとは1888年に亡くなった妻の名前です。故人を追悼する曲。演奏時間は5分あまり。ヘッドフォンで聴けるようになっていました。甘いワルツで、ちょっとサティ風。本展用に録音された素直な演奏でした。ルソーはもっと崩して演奏していたのでは……。

 解説パネルによると、ルソーは若いころに「わずかの」お金を盗んだことがあったそうです。そういえば晩年にはある詐欺事件に関連して逮捕されたことがあります。やはり一風変わった人だったのでしょう。

 帰宅後、夜はマゼール指揮のベートーヴェンの交響曲全曲演奏のインターネット中継。ちょうど8番が始まるところでした。演奏もさることながら、刻々と入ってくるツイッターのコメントが面白くて、そのまま7番、9番も聴いてしまいました。終わったらもう12時近く。最近はまっている黒糖焼酎を飲んで年を越しました。
(2010.12.31.ポーラ美術館)
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