Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カプワ/日本フィル

2024年12月01日 | 音楽
 日本フィルの東京定期。当初は沖澤のどかが指揮する予定だったが、出産予定のため、パヴェウ・カプワに代わった。カプワの生年はプロフィールに記載がないが、まだ30代前半くらいの若い指揮者だ。出身はポーランド。クラクフ音楽院で指揮を学んだ。コンクールの優勝歴はとくに記載されていない。ワルシャワ・フィルをはじめ、ヨーロッパ内のオーケストラを振っている。日本ではまったく無名だ。

 で、どんな指揮者だったか。結論からいうと、意外に逸材かもしれない。インキネンを発掘したときと似たような感覚がある。日本フィルのカプワの起用は成功したと思う。

 プログラムは沖澤のどかのプログラムを引き継いだ。1曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はセドリック・ティベルギアン。しみじみした内向的な演奏だ。ばりばり弾くヴィルトゥオーゾ・タイプではない。晩秋のいま聴くにふさわしいブラームスといえる。ティベルギアンは背が高くスマートで、スーツ姿がよく似合う。一見すると、ビジネスマンだ。その外見としっとりしたブラームスの演奏とはイメージが異なる。

 カプワ指揮の日本フィルはそのようなティベルギアンの演奏スタイルによく付けていた。内向的なピアノ独奏をしっかり支えた。ただ、だからだろうか、少し几帳面な感じがしたのも事実だ。

 ティベルギアンはアンコールにバッハのオルガン協奏曲ニ短調BWV596を弾いた(原曲はヴィヴァルディらしい)。これも秋の夜にひとり想うといった趣の演奏だった。

 2曲目はシューマンの交響曲第2番。1曲目のブラームスのオーケストラ伴奏とはうって変わって、演奏は見違えるような積極性を帯びた。第1楽章の序奏はきわめて遅いテンポで緊張感のただよう演奏。ところが主部に入ると、テンポが速めで開放的な演奏になる。そのコントラストの強さがこの演奏の特徴だ。

 第2楽章のスピード感も見事だ。弦楽器が一糸乱れず疾走する。それを縁取る木管楽器もぴたりと決まる。第3楽章アダージョがどうなるか注目した。どちらかといえば寒色系の音色でクリアな音像が積み重なる。透明感のあるテクスチュアだ。第4楽章は音楽の段落がきわめて明快な演奏だ。もやもやしたところは皆無だ。

 演奏全体をまとめていうなら、クリアな音と明快な造形感が特徴だ。言い換えると、音が混濁したり、音楽の造形があいまいになったりしない。カプワは今後スター指揮者になるかどうかは分からないが、日本フィルは大事に育ててほしい。
(2024.11.30.サントリーホール)
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新国立劇場「ウィリアム・テル」

2024年11月29日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「ウィリアム・テル」。ロッシーニのオペラは好きなので、機会があれば観てきたが、「ウィリアム・テル」は初めてだ。事前にCDを聴き、流れをつかんだが、実際に観ると想像以上のオペラだった。

 まず例の序曲。中学生のころに初めて聴いたクラシック音楽のひとつだ。それが(若すぎる)最晩年のロッシーニの、簡潔で透明感のある名作だとは、中学生のわたしには思いもよらなかった。幕開けの合唱の後、テル(バリトン)とアルノルド(テノール)の二重唱になる。マッチョな男声二重唱だ。まるでヴェルディの音楽のようだ。第1幕フィナーレに展開する激しい合唱。それもヴェルディだ。パワーで押す音楽。ロッシーニの華麗でスポーツ的な快感のある音楽は影をひそめる。

 第2幕フィナーレと第3幕フィナーレも激しい合唱で終わる。だが最後の第4幕フィナーレは、この世のものとは思えない白光のさす静謐な音楽になる。その音楽に至ってロッシーニは、自らが先鞭をつけたヴェルディの音楽を通り越して、だれも踏み込んだことのない領域に入ったような感がある。

 補足すると、第1幕のバレエはブリテンが「マチネ・ミュジカル」で使った曲ではなく、今回は別の曲が演奏された。また男声主体のこのオペラにあって、第3幕のマティルド(ソプラノ)、ジェミ(ソプラノ)、エドヴィージュ(メゾ・ソプラノ)の女声三重唱が異彩を放った。

 ウィリアム・テルを歌ったのはゲジム・ミシュケタ。例のリンゴの実を射る場面に絶唱があるが(ミシュケタは渾身の歌唱だった)、それ以外は意外にアリアらしいアリアのない役だが、実際に観ると、舞台では圧倒的な存在感があった。開演前にミシュケタは体調不良とアナウンスがあったが、そんなことを感じさせなかった。アルノルドを歌ったのはルネ・バルベラ。すばらしくパワーのある歌唱だ。マティルドを歌ったのはオルガ・ペレチャッコ。上記の男声二人とくらべて、ペレチャッコはベルカント的な声だ。

 演出・美術・衣装はヤニス・コッコス。スイスを支配するハプスブルク家の暴力性はもちろんだが、それに対抗するスイスの民衆も、やはり暴力をもって立ち向かわざるを得ない現実を描き、今に至る人類の苦悩を表現した。幕切れでは、マティルドは「全てを失い、ひとり残され」るように描いた(コッコスのプロダクション・ノート)。納得できる描き方だ。

 指揮は大野和士。長大なオペラを十分に掌握し、弛緩なく上演しきった。大野和士の実力発揮だ。わたしが聴いた大野和士の指揮の中でもっとも感銘を受けたひとつだ。
(2024.11.28.新国立劇場)
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インキネン/日本フィル(横浜定期)

2024年11月24日 | 音楽
 インキネンが久しぶりに日本フィルに戻って、横浜定期を振った。2023年4月の東京定期以来だ。わずか1年半ぶりにすぎないが、もっと間があいた気がするのはなぜだろう。日本フィルがカーチュン・ウォン時代に入ったからか。

 1曲目はグラズノフのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。けっこう聴く機会の多い曲だが、神尾真由子の演奏は、濃厚な表情付けで、しかもその表情付けがロシア的な節回しを感じさせる点で個性的だった。ロシアの曲なので、ロシア的な節回しは当然といえば当然だが、意外にこの曲の演奏ではロシアを感じたことはない。もっとあっさりした演奏が多い気がする。

 神尾真由子はアンコールにパガニーニの「24のカプリース」から第24番を弾いた。これも太い音で荒々しい演奏だった。音色も暗めだ。イタリア的な明るく軽い演奏ではない。ちょっと珍しいパガニーニだった。

 2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」。100人を超えるオーケストラが舞台を埋めつくす。これほど多くの人間が集まって一つの曲を演奏する光景を見ると、最近は(「アルプス交響曲」にかぎらず)、過去の遺物というと語弊があるが、過去のある時期に生まれた一つの現象を見る思いがする。けっしてその現象を揶揄するわけではなく、むしろわたしは「アルプス交響曲」が好きなのだが。

 冒頭の「夜」の部分では、低弦のうごめきにワーグナーの「ラインの黄金」の序奏に似た動きを感じた。何度も聴いた曲なのに、なぜいまさら……と我ながら怪訝に思う。インキネンがワーグナー指揮者だからだろうか。続く前半部は(山麓から歩き始めて山頂に着くまでは)小さなエピソードの連続だ。それらのエピソードを、余裕をもって丁寧に描く。オペラ指揮者としての経験がものをいっているのだろう。

 山頂に着いた場面では、雄大で充実した音が鳴った。インキネンの音楽はずいぶん大きくなったと感慨もひとしおだ。わたしはインキネンを2008年4月の横浜定期への初登場以来聴いているが、それから16年たち、すっかり成長した姿を目の当たりにする思いがした。

 下山にかかり、嵐の激しさも迫力十分だったが、嵐が過ぎた後のスケールの大きな音楽の、とくに弦楽器のたっぷりした歌い方が感動的だった。澄んだ音で、しかも熱がこもっていた。上記の2008年当時のインキネンはクールな音だったが、今はドイツ音楽の熱い音が出るようになった。その音で旋律線を隅々まで歌いつくす。何も変わったことはしていないのに、充実した音楽が現れた。
(2024.11.23.みなとみらいホール)
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オロスコ・エストラーダ/N響

2024年11月17日 | 音楽
 アンドレス・オロスコ・エストラーダがN響に初登場した。オロスコ・エストラーダはすでにウィーン・フィルの日本公演を振ったりしている。聴いた方も多いだろう。わたしは初めて。どんな指揮者かと興味津々だ。

 1曲目はワーグナーの「タンホイザー」序曲。オロスコ・エストラーダは2025年のシーズンからケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とケルン歌劇場の音楽監督に就任する。ワーグナーを振る機会も多くなるだろう。さて、どんなワーグナーかと、わたしはこの曲に一番注目した。結果は案外つまらなかった。最後の金管の鳴り方は雄大だったが、そこに至るまでのドラマに欠けた。

 2曲目はワインベルクのトランペット協奏曲。トランペット独奏はラインホルト・フリードリヒ。初めて聴くが、大変な名手だ。ルツェルン祝祭管弦楽団の創設時に、アバドに乞われて首席奏者に就任したそうだ。斯界の名だたる存在だろう。

 細かいパッセージはもちろん、糸のように細い音から豊かな太い音まで、どの音も安定感が群を抜く。名手とはこのような人をいうのだろう。オロスコ・エストラーダの指揮するN響のバックも、引き締まった音で、敏捷に動き、かつ集中力があった。トランペットとオーケストラが相まって、比較的珍しいこの曲を見事に披露した。フリードリヒはアンコールに「さくら、さくら」を吹いた。日本的に平板で横に流れる演奏ではなく、大きな抑揚で縦に歌う演奏だった。

 ワインベルクはショスタコーヴィチと同時代人だ。2人は友人だった。ワインベルクがショスタコーヴィチから受けた影響も大きいが、逆にワインベルクがショスタコーヴィチに与えた影響も大きかった。私事だが、2015年3月にフランクフルト歌劇場でワインベルクのオペラ「旅行者」を観た。「旅行者」はアウシュヴィッツで何が起きたかを描くオペラだ。わたしが観たのはドイツ初演から数日後の公演だった。衝撃的なこのオペラをドイツ人たちは神妙に観ていた。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。第1楽章冒頭のテーマが激しく提示されるとき、コントラバスがずっしりと豊かに響いた。音楽が静まり、第1ヴァイオリンが副次的なテーマを奏するとき、音は一転してほとんど聴き取れないくらいに弱くなった。そのコントラストの強さがこの演奏の特徴だ。第3楽章の集中力と緊張感はオロスコ・エストラーダの優秀さの表れだ。第4楽章冒頭のテーマは、昔のような勝利の凱旋ではなく、また「ショスタコーヴィチの証言」直後の“強いられた歓喜”でもなく、フラットに(ただし輝かしい音で)演奏された。
(2024.11.16.NHKホール)
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山田和樹/N響

2024年11月11日 | 音楽
 山田和樹が指揮するN響定期Aプロ。1曲目はルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第1組曲。第2組曲は時々演奏会で取り上げられるが、第1組曲は珍しい。華やかで躍動的な音楽から始まる。演奏会のオープニングにふさわしい。その後も舞台上で生起するバレエの動きを彷彿とさせる音楽が続く。最後は静かに終わる。それは次の曲につなげる効果がある。その意味でも、演奏会の1曲目にふさわしい。

 山田和樹の明るくポジティブなキャラクターが全開した演奏だ。だがオーケストラがトゥッティで咆哮するときに、音が濁ることが気になった。それを澄んだ音で鳴らしてくれると、演奏が一段とレベルアップするのだが。

 2曲目はバルトークのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はフランチェスコ・ピエモンテージ。冒頭のピアノの音がクリアーに聴こえた。自分の音をもつピアニストだ。その後も一貫して音のイメージは変わらない。また同時に他のピアニストにくらべて音が1割か2割か大きめなことに気が付いた。ヴァイオリニストにもそういうタイプの人がいる。ピアニストにもいるのかと思った。

 オーケストラは、第2楽章の静謐な音楽で、神経の行き届いた演奏を聴かせた。だが1曲目のルーセルと同様に、両端楽章のトゥッティで鳴らす部分に濁りが混じる。それが気になった。なおピエモンテージはアンコールにシューベルトの即興曲作品90‐3を弾いた。リストのように甘い演奏だった。

 プログラム後半はまずラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」から。繊細な音にハッとする。羽毛のように優しい音だ。その音で音楽がしっかり構築される。1曲目と2曲目で感じた音の濁りは皆無だ。じっくり耳を傾けると、「マ・メール・ロワ」や「ラ・ヴァルス」の音楽が聴こえる。この曲はそういう曲だったのかと。

 最後はドビュッシーの「イベリア」。「優雅で感傷的なワルツ」から一転して、くっきりと輪郭をもった音だ。その対照が鮮やかだ。比喩的にいえば、ソフトフォーカスの「優雅で感傷的なワルツ」からピントが鮮明に合った「イベリア」への転換。いうまでもなく「イベリア」でも音の濁りはなかった。部分的には、第2部「夜のかおり」から第3部「祭りの朝」への移行部分で鮮やかなイメージが目に浮かんだ。

 N響恒例だが、カーテンコールのときに楽員から山田和樹に花束が贈られた。最近気づくのだが、以前は女性楽員が花束を贈っていたが、今は男性楽員が贈る。山田和樹はそんなことはないだろうが、有名指揮者の中には不心得者がいるので、わたしは大賛成だ。
(2024.11.10.NHKホール)
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ノット/東響

2024年11月10日 | 音楽
 ジョナサン・ノットの音楽監督の任期があと1年となり、一つひとつの演奏会が貴重なものになってきた。昨日は定期演奏会。1曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。もちろん良い演奏だったが、匂い立つような香気はなかった。

 2曲目はミカエル・ジャレル(1958‐)のクラリネット協奏曲「Passages」。東響など4団体の共同委嘱作品だ。クラリネットの名手マルティン・フロストを想定して作曲された。今回はフロストが急病のため、直前にマグヌス・ホルマンデルに代わった。ホルマンデルはフロストの推薦らしい。

 世界初演は2023年10月にフロストの独奏、ノット指揮スイス・ロマンド管が行っている。ともかく生まれたてほやほやの曲だ。しかも超絶技巧の曲。それを短時間でものにしたホルマンデルの力量はすごい。現代音楽に強い人なのだろう。

 だがそれを賞賛したうえでいうのだが、いかにもジャレルらしいこの曲を、なるほどそうかと把握できたことはまちがいないが、それ以上の感銘を受けなかったのは、やはり急な代役という制約があったからかもしれない。

 というのは、わたしはジャレルの曲に感銘を受けた経験があるからだ。2019年のサントリーホール・サマーフェスティバルでジャレルがテーマ作曲家になり、ルノー・カプソンのヴァイオリン独奏、パスカル・ロフェ指揮東響の演奏で「4つの印象」(サントリーホール委嘱、世界初演)を聴いた。透明感のある音響、緊張と弛緩が交互にあらわれる構成、独奏ヴァイオリンの超絶技巧と、今回の「Passages」と共通性のある曲だった。わたしはそれを聴いて感銘を受けた。今回はなぜか感銘に至らないことをもどかしく感じた。

 ホルマンデルはアンコールにホーカン・ヘルストレームの「Valborg」を吹いた。舞台袖で吹き始め、それに気付いた聴衆が拍手をやめ、ホルマンデルは吹きながら舞台中央に歩む。その演奏スタイルもさることながら、素朴な味のある曲がおもしろかった。

 3曲目はデュルュフレ(1902‐1986)の「レクイエム」。結論からいうと、わたしは予想外に感銘を受けた。フォーレの「レクイエム」に範にとり、グレゴリオ聖歌を引用し、さらにフランス近代の和声をつけたこの曲は、一種抽象的な性格を帯びた作品だと思うが、だからこそどの戦争とは特定しない戦争全般の犠牲者への「レクイエム」に聴こえた。

 メゾ・ソプラノの中島郁子がうたう「ピエ・イエス」が胸にしみた。バリトンの青山貴は「リベラ・メ」でドラマティックな歌唱を聴かせた。合唱の東響コーラスも健闘した。
(2024.11.9.サントリーホール)
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コンヴィチュニー演出「影のない女」

2024年11月08日 | 音楽
 東京二期会が上演したオペラ「影のない女」が炎上している。炎上の原因はペーター・コンヴィチュニーの演出だ。わたしは観ていないので伝聞情報だが、リヒャルト・シュトラウスの音楽を一部カットしたり、入れ替えたりしたようだ。またホフマンスタールの台本をマフィアの抗争のストーリーに読み替えたらしい。それらの点について反対派と擁護派のあいだで論争が起きている。

 上記のように、わたしは観ていないので、何もいう資格がないと思っていたが、11月6日の朝日新聞デジタルに吉田純子氏の「演出に「冒涜」と批判も 「影のない女」が問う日本のオペラの現在地」という記事が載った。俯瞰的な視点から今回の上演を論じている。やっとわたしも意見をいう土俵ができた思いがする。

 吉田純子氏の記事は次のセンテンスで始まる。「オペラが重視すべきは生身の演劇性か、それとも音楽への忠誠か。」。このセンテンスが記事の問題提起を要約する。オペラを制作し、またそれを鑑賞する意味は、生々しい演劇性にあるのか、それとも作曲家の書いた音楽を聴くことにあるのか、と。

 記事は岡田暁生氏、長木誠司氏、片山杜秀氏に取材している。今回の上演について聞くべき三人だろう。三人の語ることには含蓄がある。一読をお勧めしたい。

 その上でわたしの意見をいうと、オペラとはまず台本があり、その台本に音楽を付けたものだが、その場合の音楽とは、ドラマをどのようなテンポで進め、ドラマの流れにどのような抑揚をつけ、またどの言葉を強調し、言葉にどのような陰影をつけ、さらに言葉を発したときに周囲の人々はどのように反応するか等々を表現したものだ。そのような台本の読解と表現は、演出に似ている。オペラとはすでに作曲家の「演出」が加わったものだ。だから演奏会形式上演という形態も成り立つ。一方、舞台上演の場合は、一世紀も二世紀も前に作られたものなので、台本も音楽も現代の感覚とは異なるため、現代の感覚で提示する試み(=演出)の余地がある。

 だが、舞台上演の場合、演出家の仕事は二次的な演出という側面が出る。そこに難しさとおもしろさがある。台本プラス音楽というひとつのパッケージで提示するか、そこに現代的な感覚を加えて提示するか。後者の場合は、作品とのあいだに一種の軋みが生じる。その軋みが観客への問いとなる。

 コンヴィチュニーはオペラの読解の鋭さが天才的だ。名作といわれるオペラでも、現代の観客が潜在的に違和感をもつ点がある。コンヴィチュニーはその点をないがしろにせず、あえて抉り出して提示する。わたしはそのたびに感銘を受けた。
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ルルー/日本フィル

2024年11月03日 | 音楽
 フランソワ・ルルーが日本フィルを振るのは2度目だ。初めて振ったのは2022年。ラザレフの代役だった。ルルーはいうまでもなく世界的なオーボエ奏者だが、当時、指揮者としてはどうなのかと、期待と不安が入り混じった。だがすばらしい出来だった。メインの曲はビゼーの交響曲第1番だった。ルルーのオーボエ演奏さながらに、ニュアンスに富み、音楽的な大きさのある演奏だった。

 今回は1曲目がラフ(1822‐1882)の「シンフォニエッタ」。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各2人の管楽アンサンブルのための曲だ。ラフという作曲家は知らなかった。ロマン派の真っただ中の作曲家だ。「シンフォニエッタ」もまさにそう。全4楽章からなる。わたしは第2楽章のスケルツォがおもしろかった。

 演奏は気合の入った濃密なアンサンブルだった。もちろんルルーが主導したが、日本フィルのメンバーも積極的に演奏して、ルルーひとりが目立つことはなかった。想像だが、リハーサルはかなり綿密にやったのではなかろうか。そうでなければ、あれほど自発的なアンサンブルは形成されないと思う。

 2曲目はメンデルスゾーンの「無言歌集」から5曲。「無言歌集」はピアノ曲だが、それをタルクマン(1956‐)という人がオーボエと弦楽合奏用に編曲した。ルルーのオーボエはもちろんだが、弦楽合奏もきれいだった。とくに「無言歌集」第1巻第6曲の「ヴェニスの舟歌」の暗く(弱音器を付けていたのかもしれない)繊細な弦楽器の音が印象的だった。

 ルルーはアンコールに「無言歌集」第6巻第6曲の「子守歌」を吹いた。これも弦楽合奏を伴うものでタルクマン編曲。タルクマン編曲は他にもあるのだろうか。

 以上がプログラム前半だ。1曲目は日本フィルの管楽器奏者たちがルルーと共演し、2曲目は弦楽器奏者たちがルルーと共演したわけだ。それぞれ得るものがあったろう。歌い方の大きさ、音の熱量など、ルルーは超一流のオーボエ奏者(=音楽家)だ。その破格の実力は、わたしのような素人よりも、プロ同士のほうがよくわかるだろう。

 プログラム後半はメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。前述したビゼーの交響曲第1番がすばらしかったので、今回も期待したが、わたしは十分には満足できなかった。緩急の差を大きくとり、緩の部分はゆったりと広がるように、急の部分は激しく燃え上がるように演奏された。ルルーのやりたいことはよくわかり、それはいかにもルルーらしいのだが、オーケストラのアンサンブルがいまひとつ練れていなかった。とくに第1楽章では弦楽器の音の薄さが気になった。
(2024.11.2.サントリーホール)
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指揮者の引退

2024年11月01日 | 音楽
 97歳のブロムシュテットがN響のA、B、Cのすべてのプログラムを振って帰国した。わたしはAプロ(オネゲルの交響曲第3番「典礼風」とブラームスの交響曲第4番)とCプロ(シューベルトの「未完成」と「ザ・グレート」)を聴いた。Aプロのときはオーケストラのコントロールが衰えたかなと思ったが、Cプロのときは見事なコントロールに脱帽した。ブロムシュテットは来年10月にもA、B、Cの全部のプログラムを振る予定だ。ブロムシュテットには引退の言葉はないらしい。

 昔はストコフスキー(1882‐1977)が長老指揮者の代名詞だった。ストコフスキーは90歳を超えても指揮を続け、引退宣言をしないまま、95歳で亡くなった。その後、朝比奈隆(1908‐2001)が90歳を超えても指揮を続け、巷では「ストコフスキーを超えるのではないか」と噂されたが、93歳で亡くなった。ブロムシュテットは97歳だ。ストコフスキーを軽く超えてしまった。

 高齢になっても指揮を続ける人はいる。だが中には目を覆うばかりに衰える人がいる。最晩年のカール・ベームがウィーン・フィルを率いて来日した際は、椅子に座って指揮をしたが、「指揮台で居眠りをしていた」といわれる。真偽のほどは定かではないが、そんな陰口をいわれる余地はあった。またN響を振った指揮者の中では、サヴァリッシュやプレヴィンが、最後の演奏会では悲しくなるくらい衰えた。

 一方、指揮者の中には引退宣言をする人もいる。たとえばハイティンク(1929‐2021)は2019年に引退宣言をした。そして2年後に92歳で亡くなった。わたしがハイティンクを最後に聴いたのは2015年のザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを振ったときだ。曲目はブルックナーの交響曲第8番だった。そのときはウィーン・フィルがほんとうに安心して演奏している様子に感動した。

 アシュケナージ(1937‐)は2020年に引退宣言をした。当時82歳だった。指揮者としてはまだやれる年齢だ。わたしは驚いた。その後どうしているか、消息は伝わらない。アイスランドのレイキャビクに自宅があるそうなので、自宅で悠々自適の生活をしていると良いのだが。アシュケナージのような身の引き方は、指揮者にかぎらず一般人にも、理想的に思える。やるべきことをやったら潔く身を引く。そして世間から消息を絶つ。それはできそうでできないことだ。

 今わが国では特異なケースが進行中だ。井上道義(1946‐)が今年の年末で指揮から引退すると宣言して、そこにむけて指揮を続けている。世間の注目を一身に集めてゴールに駆け込む。その引退の仕方は、井上道義らしい生き方かもしれない。
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ブロムシュテット/N響

2024年10月27日 | 音楽
 ブロムシュテットが指揮するN響の定期演奏会Cプロ。先週のAプロ(オネゲルとブラームス)はSNSで多くの方に絶賛されたが、わたしはブロムシュテットのオーケストラのコントロールに危惧をおぼえた。今回は気が重かった。だが杞憂だった。今回は気力があふれてオーケストラとがっぷり四つに組んだ。

 1曲目はシューベルトの交響曲第7番「未完成」。冒頭の低弦楽器の序奏が、暗い音色でそっと呟くように演奏された。思わず身を乗り出した(もちろん比喩的な意味だが)。続く弦楽器の細かい刻みが快適なテンポで進む。その刻みに乗ってオーボエが第1主題を吹く。抑えた音量の中に豊かな抑揚がある。音楽が停滞せずに進む。彫りが深い。緊張した静かなドラマが続いた。

 第2楽章も第1楽章のペースを引き継いで演奏された。第1ヴァイオリンが奏でる第1主題は過度に甘美ではなく、むしろ厳しさがある。中間部の激しさは第1楽章の展開部を彷彿とさせる。第1楽章と第2楽章がまとまって一つの世界を提示する。

 終わった後はため息が出た。オーケストラのピッチが厳格に合い、硬い鉛筆の先で細い線を描くような演奏だ。迷いはまったくない。厳しい線描だ。その線の中に濃やかなニュアンスがある。めったに聴けない「未完成」の演奏だ。わたしが今まで聴いた数多くの「未完成」の中で忘れられない演奏になるのはまちがいないだろう。

 2曲目はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。冒頭のホルンの序奏が、朗々と吹くのではなく、鼻歌のように吹いたのがおもしろい。もちろんブロムシュテットの指示だろう。主部に入ると、骨格のしっかりした堂々たる演奏が続く。弦楽器は16型だ。「未完成」は14型だった。わたしは14型くらいのほうがシューベルトには良いと思うが、そこはブロムシュテットの好みだろう。

 第2楽章は一貫してオーボエの吉村結実さんが名演を聴かせた。ほとんどオーボエ協奏曲のようだったというと語弊があるが、そのくらいの存在感があった。

 第3楽章、第4楽章と気力が横溢したスケールの大きい演奏が続いた。ブロムシュテットのスタミナを気遣ったが、その心配は無用だった。第4楽章の最後に出てくるトゥッティの、ドー、ドー、ドー、ドーの4連発の充実した音に身震いがした。あの音が当日のクライマックスだった。一夜明けた今もわたしの頭の中で鳴っている。ブロムシュテットとN響がしっかり嚙み合ったから生まれた音だろう。ブロムシュテットは97歳というが、そんな年齢を超越した音だった。
(2024.10.26.NHKホール)
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ブロムシュテット/N響

2024年10月21日 | 音楽
 97歳になったブロムシュテットが振るN響の定期演奏会Aプロ。1曲目はオネゲルの交響曲第3番「典礼風」。第1楽章「怒りの日」が始まる。激しい音楽だが、その音に濁りがある。どうしたのだろう。N響らしくない。また(激しさとは別の)力任せなところがある。音に緊張感がなく、緩さがある。ブロムシュテットらしくない。

 ブロムシュテットらしさが現れたのは、最後の第3楽章「われらに安らぎを与えたまえ」の後半になってからだ。前半の闘争的な音楽が終わり、ふっと平穏な音楽に転じると、やっと音に艶が出て、演奏に集中力が感じられた。

 会場は拍手喝采だった(言い遅れたが、ブロムシュテットがコンサートマスターの川崎洋介の腕につかまって登場したときから拍手喝采だった)。だが、演奏としては、どうだったのだろう。もちろんそういうわたしだって、97歳の指揮者がオーケストラの前で指揮する姿に感動しないわけではなかったが。

 2曲目はブラームスの交響曲第4番。第1楽章が始まる。意外にテンポが速い。その後もメリハリのある造形だ。ブロムシュテットの型ができあがっていて、その型が微動だにしないことが感じられる。それは立派なことだが、それを踏まえていえば、型にしたがって流れていくところがある。

 第2楽章も同様だ。メリハリはあるのだが、音楽が深まらない。意外に良かったのは第3楽章だ。明るい音色に爽快感があり、快適なテンポで進む。第4楽章はそれまでの疑問を帳消しにするような見事な演奏になった。彫りが深く、ゆったり呼吸して、味わい深い演奏が続いた。もちろん会場は大喝采だった。

 だが全般的にいえば、さすがに97歳ともなり、オーケストラのコントロールは弱まったようだ。それは仕方のないことかもしれない。考えてみれば、最晩年のカール・ベームがウィーン・フィルの来日公演で聴かせ、また最晩年のアンドレ・プレヴィンがN響を振って聴かせたような、テンポが極端に遅くなり、自分の中にこもったような演奏ではなかったことが、それ自体驚嘆すべきことかもしれない。

 コンサートマスターは川崎洋介が務めた。大きな身振りで、ときには立ち上がらんばかりに演奏した。必要最小限の動きしかしないブロムシュテットに代わってN響を牽引しているように見えた。むしろN響を煽るように見えたこともある。でもそれはほんとうにブロムシュテットの意を汲んだものだったのだろうか。わたしには一種の過剰さが感じられた。結果、ブロムシュテットの心象風景に触れられないもどかしさが残った。
(2024.10.20.NHKホール)
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森岡実穂「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」

2024年10月19日 | 音楽
 新国立劇場の「夢遊病の女」の公演プログラムに森岡実穂氏の「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」というエッセイが載った。森岡氏が「夢遊病の女」の諸映像を参照しつつ、演出上のポイントを紹介したものだ。

 わたしが注目したのは、ヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトの演出(2011年、シュトゥットガルト歌劇場)とヨハネス・エラートの演出(2023年、ライン・ドイツ・オペラ)だ。ともにロドルフォ伯爵の前史を設定する。久しく故郷を離れていたロドルフォ伯爵が、父伯爵が亡くなったために、新領主として故郷に戻ってくるわけだが、そのロドルフォ伯爵が故郷を離れていたわけは、村の娘を妊娠させたからだという設定だ。

 ロマーニの台本にはそこまで書いてはいない。だがロドルフォ伯爵の登場の場面で、ロドルフォ伯爵は過去の過ちを悔悟し、不幸な村娘がいたと歌う。さらに村人たちに祝福されるアミーナを見て、その村娘に似ていると驚く。ならば当然ヴィーラー&モラビトやエラートが設定したような前史が想像される。両演出は前史をその後のストーリー展開に反映させた(もちろん展開の仕方は各々異なる)。「夢遊病の女」は牧歌的といわれるが、両演出では男性側(ロドルフォ伯爵とエルヴィーノ)の加害性が浮き彫りになる。

 森岡氏のエッセイでは他にも多くの演出が紹介される。その中で一つだけわたしの観た演出があった。メアリー・ジマーマンの演出(2009年、メトロポリタン歌劇場)だ。観たといっても実際の舞台ではなく、METライブビューイングで観たのだが、そのときの衝撃は大きかった。

 ジマーマンの演出では、アミーナ役の女性歌手とエルヴィーノ役の男性歌手が実際に恋人同士という設定だ。幕が開くと、舞台は稽古場になっている。そこでは「夢遊病の女」の稽古が進行中だ。やがてアミーナ役の歌手がロドルフォ伯爵のベッドで寝ているのが見つかる。エルヴィーノ役の歌手は嫉妬に狂う。オペラと実生活が重なる。言い換えれば、虚実の境目が混乱する。「作者をさがす6人の登場人物」などで知られるイタリアの劇作家・作家のピランデッロの作劇術にならった演出だ。

 以上の演出にくらべると、新国立劇場のバルバラ・リュックの演出は、むしろ大人しいほうだろう。だからその分、新国立劇場向けだったかもしれない。

 そのバルバラ・リュック演出は、アミーナの不安を繊細に表現し、最後の不安からの脱却(バルバラ・リュックはそのように演出した)を説得力のあるものにした。ベッリーニのオペラの中では(最初期の作品を除いて)台本が弱い「夢遊病の女」を救い、現代に生きるオペラにした。ベッリーニ好きなわたしはとても嬉しい。
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新国立劇場「夢遊病の女」

2024年10月15日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「夢遊病の女」。マドリッドのテアトロ・レアル、バルセロナのリセウ大劇場、パレルモのパレルモ・マッシモ劇場との共同制作だ。幕が開く。舞台中央に高い木が一本立つ。そこに一対の若い男女の人形が吊り下がっている。結婚を控えたアミーナとエルヴィーノだろう。幸せなはずの二人だが、その人形はあまり幸せそうには見えない。周囲は切り株だらけ。荒涼とした森の中だ。背景はオレンジ色の空。夕日だろうか。幻想的な弱々しい光だ。

 霧が立ち込める。霧にまかれてアミーナが立つ。ふらふらしている。夢遊病の中にいるアミーナだ。何人もの不気味なダンサーが登場する。アミーナを威嚇するように、また時にはアミーナを支えるように踊る。アミーナが見る夢だ。アミーナは結婚を控えて何か不安があるのだろうか。エルヴィーノにたいする疑問だろうか。

 以上の黙劇が終わると音楽が始まる。アミーナとエルヴィーノの結婚を祝う村人たちの合唱だ。だが黙劇を見た後なので、村人たちの祝福を受けるアミーナの胸の内にひそむ(本人も気が付かない)不安を想像する。その不安が、オペラ全体を通して、要所にダンサーが登場して表現される。それがこのオペラを牧歌的なオペラから救う。最後にアミーナは不安を克服する。アミーナはエルヴィーノと結婚するのか。それとも村を去るのか。それは幕が降りた後のアミーナに任せられる。

 演出はスペインのバルバラ・リュックという女性演出家。一本筋が通り、その筋に沿ってアミーナの内面を繊細に表現した。結末の処理も納得できる。台本通りにやると学芸会的になりかねないこのオペラを、現代に生きるオペラへと変貌させた。

 アミーナ役はクラウディア・ムスキオ。すばらしいベルカントだ。7月にシュトゥットガルト歌劇場でこの役を歌ったそうだ。それに加えて、マウリツィオ・ベニーニの指揮で歌った今回の公演の、その最終日だったこともあり、ベニーニの薫陶の成果が表れたのではないだろうか。旋律線の細かい部分のニュアンスに惚れ惚れした。

 エルヴィーノ役はアントニーノ・シラグーザ。言わずと知れた名歌手だ。今回も高度な歌唱を披露した。だが、さすがに年齢を重ねたためか、声の伸びと軽さにかげりが出始めたかもしれない。ロドルフォ伯爵役は妻屋秀和。堂々とした声と押し出しは健在だ。

 ベニーニの指揮はすばらしい。オーケストラの細い音で歌手の声を支え、しかもその細い音がけっして貧弱にはならずに生気がこもる。ドラマティックな面にも事欠かない。ベルカント・オペラのすべてが表現された感がある。
(2024.10.14.新国立劇場)
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ウルバンスキ/東響

2024年10月13日 | 音楽
 ウルバンスキが指揮する東響の定期演奏会。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はデヤン・ラツィック。わたしは初めて聴くピアニストだ。濃厚なロマンティックな表現も、また聴衆を熱狂させるダイナミックな表現もある。加えて、生き生きしたリズム感がある。そのリズム感はたとえば第1楽章の展開部に現れた。何でもない淡々とした流れがそのリズム感で生き生きした音楽になった。全般的にオーケストラのバックも雄弁だった。濃厚なロマンティシズムはラツィックに劣らなかった。

 ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思わなかった。曲が変わっているのか、それとも演奏が変わっているのか。

 ラツィックは大変な才能だ。クロアチアのザグレブ出身とのこと。プロフィールには年齢が書いてないが、指揮者のウルバンスキと同世代だとすれば(見た目にはそう見えた)40歳前後か。特徴のあるピアニストだ。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第6番。実演ではめったに聴く機会のない曲だが、そんなレアな曲の、これは名演だった。わたしの今までの経験では、ラザレフ指揮日本フィルの演奏が記憶に鮮明だが、それに次ぐ名演(性格は異なるが)に接した思いがする。

 いうまでもなく本作は3楽章からなり、緩―急―急の変則的な構成だが、その第1楽章の濃密な音の世界(音楽の進行につれて濃密さが増す)、一転して第2楽章、第3楽章と諧謔性を増し、最後は躁状態のバカふざけに至る流れが、じつにスマートに、しかも鮮烈に表現された。東響も個々の奏者の妙技が光った。とくに第1楽章後半のフルート・ソロが存在感のある演奏だった(竹山愛さんだったろうか)。

 久しぶりに聴くこの曲はおもしろかった。英雄的な交響曲第5番の次に来る曲だが、英雄的な要素は皆無で、悲劇的な要素(第1楽章)とおどけた要素(第2楽章・第3楽章)からなるこの曲は、大方の期待を裏切り、戸惑わせただろう。それをどう考えたらよいか。形式的には緩―急―急の構成は直前の弦楽四重奏曲第1番を踏襲する(弦楽四重奏曲第1番の場合は緩―緩―急―急)。また内容的には、おどけた要素は交響曲第9番に通じる。そんな微妙な位置にある曲だ。

 ウルバンスキはますます脂がのっている。2024/25年のシーズンからは母国ポーランドのワルシャワ・フィルとスイスのベルン響の音楽監督に就任したそうだ。
(2024.10.12.サントリーホール)
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ヴァイグレ/読響

2024年10月10日 | 音楽
 読響がヴァイグレの指揮で10月13日~24日までドイツとイギリスへ演奏旅行に行く。昨夜の定期演奏会ではそのプログラムのひとつが披露された。

 1曲目は伊福部昭の舞踊曲「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。中近東風のエキゾチックな音楽と伊福部昭流の土俗的なリズムが交互に現れる曲だ。ドイツやイギリスの聴衆には未知の日本人版の「7つのヴェールの踊り」として話題になるかもしれない。演奏はヴァイグレ/読響らしくがっしり構築したもの。最後の熱狂的な盛り上がりはさすがに迫力があった。

 2曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はクリスティアン・テツラフ。もう何百回も(?)弾いているだろうこの曲を、テツラフはまるで名優の語りのように雄弁に演奏した。音楽の中に入り込み、その音楽を生きるような演奏だ。リズムの正確さとか拍節感とか、そんなレベルを超えたテツラフ流の演奏だ。音は細いが、その細い音に異様なまでの熱がこもる。

 それに対するヴァイグレ/読響の演奏は、(悪い意味ではなく)ごつごつと角張った、最近では珍しいくらいにドイツ的な演奏だ。テツラフの自由なヴァイオリン独奏と、一言半句もゆるがせにしないヴァイグレ/読響の演奏と、そのコントラストが際立った。

 テツラフはアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番から「ラルゴ」を演奏した。澄みきった音のバッハだ。ブラームスのヴァイオリン協奏曲でヴァイオリン独奏に渦巻いた熱を冷ますような演奏だった。

 3曲目はラフマニノフの交響曲第2番。これも大変な熱量の演奏だった。甘美な音から重厚な音まで駆使して、歌うべきところはたっぷり歌い、盛り上げるところは劇的に盛り上げる。けっして流麗な演奏ではない。むしろ粗削りな部分を残す。言い換えれば、仕上げの良さよりも音楽の熱量の解放を重視した演奏だ。ヴァイグレが感じているこの曲は途方もなく大きいのではなかろうかと思う。

 正直にいうと、わたしはヴァイグレのことがいまひとつ掴めない。たとえば2021年1月に演奏したヒンデミットの「画家マティス」は、角を取った丸みのある音で滑らかに流れる演奏だった。わたしはそのとき、ヴァイグレはドイツの指揮者だが、かつてのドイツの指揮者とはタイプが違うのかと思った(当時ある音楽ライターは「オーガニック」と評した)。だが今回の演奏を聴くと、現代のドイツの指揮者のだれよりも、かつてのドイツ流の演奏スタイルを保持している。ヴァイグレはそこに落ち着くのだろうか。
(2024.10.9.サントリーホール)
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