Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2024年09月07日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第8番の第1稿ホークショー版。ホークショー版は2022年に出版された。わたしは2010年にインバル指揮都響の演奏で第1稿を聴いたが、そのときはノヴァーク版だった。ホークショー版とノヴァーク版には「基本的な差異はない」が、ホークショー版は「ノヴァーク版に残る約400個所の錯誤を訂正したとのことである」(プログラム・ノート(注)に掲載された高関健のエッセイより)。

 インバル指揮都響で聴いた第1稿の衝撃は大きかった。そのときの記憶が残っている。それ以来久しぶりに第1稿を聴いた。インバル指揮都響のときの記憶とすり合わせ、また通常演奏される第2稿との違いを追った(音の違いが無数にある)。

 いうまでもないが、第1楽章の末尾は第2稿では静かに終わるのにたいして、第1稿ではトゥッティの激しいコーダがつく。インバルのときは(予備知識はあったが)そのコーダで腰の抜ける思いがした。今回は「ブルックナーならこう考えるかも」と思った。第9番の第1楽章のコーダがそれと同じだからだ。でも、だからこそ、静かな終わり方をブルックナーに進言した弟子たちの慧眼を思った。

 第2楽章のトリオの前半部分は、第1稿は第2稿とだいぶ違うのに、なぜかインバルのときの記憶は残っていない。たぶん分からなかったのだろう。今回も、もやもやと音がうつろい、どこに行くのか、つかめなかった。

 以上の第2楽章まではオーケストラの音がまとまりに欠け、(読書にたとえれば)字面を追うような演奏だった。読書の醍醐味は作品の中に没入して、ストーリーに流されるところにあると思うが、そのような音楽の流れは生まれなかった。

 だが第3楽章に入り、第2稿と変わらない冒頭部分が始まると、音に陶酔感が生まれ、ぐっと音楽の中に入っていけた。第3楽章の冒頭部分はブルックナーとしても特別な霊感がはたらいた箇所ではないだろうか。この部分だけ使われる3台のハープがその証だ。クライマックスでの第1稿の3回+3回のシンバルは、インバルのときは仰天したが、今回は素直に聴けた。第4楽章は第3楽章で生まれた音のまとまりが継続して、長大な第1稿だが、その長大さに説得力があった。

 高関健の上掲のエッセイによると、交響曲第8番の場合は第1稿といえども弟子たちの介入があったようだ。第1稿はブルックナーのオリジナル、第2稿は弟子たちの介入という図式は成り立たない。わたしは藪の中を手探りする思いで第1稿を聴いた。
(2024.9.6.東京オペラシティ)

(注)プログラムノート
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エメリャニチェフ/読響

2024年09月06日 | 音楽
 マクシム・エメリャニチェフが読響の定期演奏会に初登場した。エメリャニチェフはすでに東響と新日本フィルを振ったことがあるそうだ。先ほど東条先生の「コンサート日記」を検索して知った。わたしには未知の指揮者だったが、昨夜の聴衆の多くはエメリャニチェフを知っていたのかもしれない。

 プロフィールによると、エメリャニチェフは1988年ロシア生まれ。モスクワ音楽院でロジェストヴェンスキーに師事したとあるから、読響とは縁がある。指揮者としては古楽とモダンの両オーケストラを振っている。2025年にはスウェーデン放送響の首席客演指揮者に就任する予定。またチェンバロ奏者、ピアノ奏者としても活動している。

 ともかくユニークな指揮者だ。1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」だが、大きくテンポを動かし、起伏を付け、あざといくらいに溜めを作る。読響との呼吸はいまひとつ合っていなかったが、それはリハーサル時間の関係だろう。

 2曲目は現代チェコの作曲家ミロスラフ・スルンカ(1975‐)のチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」だったが、それは後回しにして、先に3曲目のシューベルトの交響曲第8番「グレイト」に触れると、「グレイト」はエメリャニチェフと読響の呼吸が合い、エメリャニチェフの個性的な音楽が完成度高く表現された。全体的にテンポが速いが、音楽が変化する局面では(たとえば第1楽章で第2主題に移るときとか、第2楽章で主要主題部から挿入部に移るときとかでは)テンポをぐっと落とす。音楽が止まりそうなくらいだ。エメリャニチェフはそのようなテンポの変化を全身で表しながら、音楽にものすごい熱量を注ぐ。沸騰する湯水のようだ。

 そのような演奏スタイルはどこから来るのだろう。わたしが連想したのはクルレンツィスだ。わたしがクルレンツィスを経験したのは一度だけ。2017年のザルツブルク音楽祭でムジカ・エテルナを率いたモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」の上演を観たときだ。それは衝撃的な演奏だった。その経験に似ている。

 2曲目のスルンカのチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」も衝撃的だった。チェンバロが速射砲のように細かい音型を繰り出す。それはオーケストラにも伝播する。目まぐるしく音が交錯する。音は濁らずに澄んでいる。それはチェンバロの極細の音のためだろうが、同時にオーケストラの中の2台のマリンバと1台のヴィヴラフォンの音のためでもある。傑作なのは3枚のアクリルシートだ。見事な“楽器”だ。チェンバロ独奏はマハン・エスファハニ。大変な名手だ。アンコールに弾いたパーセルとラモーは一転して胸にしみるような演奏だった。
(2024.9.5.サントリーホール)
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原田慶太楼/東響

2024年09月01日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024が終わり、まだ余韻がさめないうちに、もう在京オーケストラの通常公演が始まった。昨日は原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。

 1曲目は上田素生の「儚い記憶は夢となって」。上田素生(うえだ・もとき)という人は1998年生まれという以外にプログラムには何の情報も載っていない。本人の書いたプログラム・ノートが載っているだけだ。とにかく曲を聴いてみよう。三拍子のノスタルジックな音楽が頻出する曲だ。昭和の時代の劇伴音楽のようだ。今の若い世代の中にはこういう音楽を好む人もいるのだろうか。

 2曲目はガーシュウィンのピアノ協奏曲。ピアノ独奏は角野隼斗(すみの・はやと)。その人気のためか、当公演は全席完売だった。客席には女性客が目立つ。目の子では7割くらいが女性ではないか。演奏は音が美しく、スリリングで、たしかに人気の所以が分かるというものだ。一方、オーケストラは、トランペット・ソロなど個々のプレイヤーの妙技はあったが、全体のアンサンブルはもっさりしていた。

 角野隼斗のアンコールがあった。「ムーンリバー」だ。即興的な要素もあったのではないかと思う。美しくて胸にしみる演奏だ。アンコールにポピュラー音楽の「ムーンリバー」を弾くところも(しかもその演奏が人を酔わせることも)人気の所以だろう。

 プログラム後半の3曲目はアルヴォ・ペルトの「主よ、平和を与えたまえ」。合唱は東響コーラス。人数はいつもより多い気がした。そのせいなのかどうなのか、ハーモニーの精度が(いつもより)不足した。それでも初めて聴くこの曲がおもしろかった。波が寄せるような細かいクレッシェンドが付く曲だ。

 3曲目からアタッカで4曲目のプーランクの「グローリア」に入った。ぱっと目の前が明るくなった。バルト海の曇り空から地中海の青空への転換のようだ。第2曲の「私たちはあなたを誉め」では合唱団がリズムに合わせて体を揺すり、聴衆の笑いを誘った。合唱の精度はみるみる高まり、第6曲「父の右に座しておられる方よ」の冒頭のアカペラでは見事なハーモニーを聴かせた。ソプラノ独唱は熊木夕茉(くまき・ゆま)。豊かな声の持ち主だ。柔らかいラインで音楽を縁取る。オーケストラはアンサンブルが引き締まり、プーランク特有の陰影を濃やかに付けた。オーケストラの演奏はこの曲が一番良かった。

 余談だが、プーランク(1899‐1963)とガーシュウィン(1898‐1937)は一歳違いの同世代だ。ガーシュウィンはパリに行ったことがある。ラヴェルやブーランジェには会ったようだが、プーランクには会ったのだろうか。
(2024.8.31.サントリーホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:オーケストラ・プログラム

2024年08月30日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024の最終日。アルディッティ弦楽四重奏団のオーケストラ・プログラム。オーケストラはブラッド・ラブマン指揮の都響。

 1曲目は細川俊夫の「フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~」。音の粒子がすさまじい勢いで飛び交う嵐のような曲だ。弦楽四重奏とオーケストラの境目は相互に侵食し合い、不分明な磁場のような音場を形成する。アルディッティ弦楽四重奏団の演奏と都響の演奏がシャープですばらしかったのはいうまでもないが、指揮のラブマンがこの曲を表面的にではなく、深く理解していることが感じられた。ラブマンは8月23日のマヌリのオーケストラ・ポートレートでも鮮烈な演奏を聴かせた(オーケストラは東響)。大変な実力の持ち主ではないだろうか。

 2曲目はクセナキスの「トゥオラケムス」。クセナキスが武満徹の60歳を祝うコンサートのために書いた曲。ファンファーレのような短い曲だ。弦楽器は16型、木管・金管は4管編成と大編成だ(総勢90人が指定されている)。濁りのない明るい音色が印象的だ。

 3曲目はクセナキスの「ドクス・オーク」。ヴァイオリン協奏曲だ。ヴァイオリン独奏はアーヴィン・アルディッティ。面白いことに、この曲は「トゥオラケムス」のハープを独奏ヴァイオリンに置き換えただけで、ほとんど同じ編成だ。だがオーケストラから出てくる音はだいぶ違う。不機嫌なダミ声のような音が鳴る。ギリシャ悲劇のコロスのように独奏ヴァイオリンを威嚇する。一方、独奏ヴァイオリンは微分音を交えたグリッサンドを連続する。弱々しくコロスに哀願するかのようだ。

 4曲目はマヌリの「メランコリア・フィグーレン」。1曲目の「フルス(河)」と同様に弦楽四重奏とオーケストラのための曲だ。元々はマヌリの「メランコリア:デューラーによせて」という弦楽四重奏曲があり、それを基に作られた曲だそうだ(須藤まりな氏のプログラム・ノートより)。全体は7つの小曲からなり、どの曲もスマートで洗練されている。ドビュッシー~ブーレーズ~マヌリと続く音楽の系譜を思う。

 余談だが、デューラーの銅版画「メランコリア」は国立西洋美術館も所蔵している。多くの形態(フィグーレン)が複雑に構成された作品だ。マヌリのこの曲はその細部の音によるイメージ化とも思える。

 終演後、マヌリが舞台に上がり、アルディッティ弦楽四重奏団とハグを交わした。今年のサントリーホールサマーフェスティバルは例年にも増して充実していた。テーマ作曲家のマヌリとプロデューサーのアルディッティがうまく絡み合い、車の両輪のように機能した。
(2024.8.29.サントリーホール)
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マヌリ:室内楽ポートレート

2024年08月28日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家フィリップ・マヌリ(1952‐)の室内楽ポートレート。1曲目は弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」。全11楽章の各々短い音楽からなる曲だ。演奏はタレイア・クァルテット。若い女性たちの弦楽四重奏団だ。第1楽章の激しい出だしから気合が入っていた。

 藤田茂氏のプログラム・ノートによると、この曲は2016年にアルディッティ弦楽四重奏団によって初演された。そのアルディッティ弦楽四重奏団が来日している。演奏会にはメンバーの何人かが聴きに来ていた。もちろんマヌリ自身も聴いている。そんな中での演奏は緊張しただろう。タレイア・クァルテットには良い経験になったのではないか。

 2曲目は「六重奏の仮説」。以下に述べる6人の奏者の目の覚めるような演奏だ。こんなに難しい曲を指揮者なしでよく演奏できるものだと感嘆する。演奏者を列記すると、フルート:今井貴子、クラリネット:田中香織、ヴァイオリン:松岡麻衣子、チェロ:山澤慧、マリンバ&クロタル:西久保友広、ピアノ:永野英樹。ベテランの永野英樹が入ったことが大きいかもしれない。

 3曲目は「イッルド・エティエム」。ソプラノ独唱とリアルタイム・エレクトロニクスのための曲だ。ソプラノ独唱は溝渕加奈枝。中世の異端審問官と魔女(とされる女)の二役を歌う。異端審問官の威圧的な歌唱パートが恐ろしい。溝渕加奈枝の渾身の歌唱だ。リアルタイム・エレクトロニクスは今井慎太郎。そこにサウンド・ミキシングでマヌリ自身が加わる豪華版だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、女声合唱になったり、ソプラノ独唱の声を増幅したりする。それらのサウンドが聴衆を取り巻く。

 余談だが、中世の魔女とは、男たちの女性にたいする怖れと、それが故の女性への抑圧衝動が生み出したものではないかと想像した。新国立劇場が2012年に上演したアーサー・ミラーの演劇「るつぼ」にも魔女騒動が出てくる。魔女は20世紀のアメリカの一部でも信じられていた。「イッルド・エティエム」は昔の話ではない。

 3曲目の後に休憩が入った。休憩中はずっとエレクトロニクスの教会の鐘の音が鳴っていた。その音が高まると、照明が落ち、ステージに永野英樹が登場して、4曲目の「ウェルプリペアド・ピアノ(第3ソナタ…)」が始まった。永野英樹のピアノ、今井慎太郎のエレクトロニクス、マヌリのサウンド・ミキシングによる演奏だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、リズム楽器になったり、またピアノの音を変形し、さらには装飾を加えたりする。ピアノとエレクトロニクスの対等なデュオのようだ。この曲は2021年にバレンボイムがベルリンで初演した。
(2024.8.27.サントリーホール小ホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(2)&(3)

2024年08月26日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024。昨日は昼公演がアルディッティ弦楽四重奏団の室内楽コンサート(2)、夜公演が同(3)だった。

 室内楽コンサート(2)は、1曲目がエリオット・カーター(1908‐2012)の弦楽四重奏曲第5番。単一楽章の曲だが、内容は細かく分かれる。結果、頻繁にテンポが変わる。それを一気に聴かせる。聴かせ上手だ。ヴィオラが目立つ場面が何度もある。弦楽四重奏のヒエラルキーを破り、4人の奏者が対等に書かれている。

 2曲目は坂田直樹(1981‐)の新作「無限の河」。尺八の音の組成と演奏法を参照した曲だそうだが、わたしは単調に感じた。演奏のせいだろうか。3曲目は西村朗(1953‐2023)の弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」。坂田直樹の前曲とは対照的に変化に富み、ドラマがある。西村朗の資質はオペラ向きだったかもしれない。「紫苑物語」の台本が優れていたら、どんなオペラになったか。

 4曲目はハリソン・バートウイッスル(1934‐2022)の弦楽四重奏曲「弦の木」。各楽器がよく鳴る。そしてリズムが分かりやすい。最後に仕掛けがある。各奏者の後ろに椅子が用意されていて、一人また一人と後ろの椅子に移る。弦楽四重奏の解体のようだ。その後、一人ずつ演奏を終えてステージを去る。物語の終わりか。

 次に室内楽コンサート(3)。1曲目はブライアン・ファーニホウ(1943‐)の弦楽四重奏曲第3番。2曲目はジェームズ・クラーク(1957‐)の弦楽四重奏曲第5番。二人は「新しい複雑性」と呼ばれる作曲家だが、当日の作品は対照的だった。ファーニホウの曲は複雑なパッセージが猛スピードで疾走する。一方、クラークの曲は、アルディッティが書いたプログラムノーツによれば「凍りついた時間」だ。わたしはクラークの曲が面白かった。

 3曲目はロジャー・レイノルズ(1934‐)の「アリアドネの糸」。弦楽四重奏に加えて、コンピュータ生成の音響が入る。その音響がだんだん高まり、ついには弦楽四重奏を威嚇するまでになる。緊張の頂点で、テセウスが迷宮から出たかのように、音響は消える。

 4曲目はイルダ・パレデス(1957‐)のピアノ五重奏曲「ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス」。新作だ。ピアノ独奏は北村朋幹。断片的な音が跳躍する。ピアノは内部奏法を多用する。この曲はひょっとするとユーモラスな曲ではないかと。もっとも演奏にはあまりユーモアを感じなかったが。5曲目はクセナキス(1922‐2001)の「テトラス」。超絶技巧の曲だが、ファーニホウの曲は各奏者の超絶技巧であるのに対して、クセナキスの曲は弦楽四重奏の超絶技巧だ。演奏は見事の一語に尽きる。
(2024.8.25.サントリーホール小ホール)
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マヌリ:オーケストラ・ポートレート

2024年08月24日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家はフィリップ・マヌリ(1952‐)だ。恒例のオーケストラポートレートは、マヌリが影響を受けた作品としてドビュッシーとブーレーズの作品が、またマヌリが将来を嘱望する作曲家としてヴェルネッリの作品が、そして(これも恒例だが)マヌリの新作が演奏された。演奏はブラッド・ラブマン指揮の東響。

 1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。リハーサルに十分な時間を割けなかったのか、演奏には余裕がなかった。ラブマンの指揮は明快だが、それはリハーサル不足を補うようだ。オーケストラはその指揮に慎重についていった。

 ところが2曲目のブーレーズの「ノタシオン」になると、水を得た魚のように、演奏に生気が生まれた。ブーレーズ特有の明るく上品な音色と眩いばかりのリズムの炸裂が現れた。東響の実力発揮だが、同時に指揮のラブマンの力量を感じた。

 3曲目はイタリア生まれの女性作曲家・フランチェスカ・ヴェルネッリ(1979‐)の「チューン・アンド・リチューンⅡ」。何かが蠢くような執拗なリズムの反復と、それにくさびを打ち込むような衝撃音が繰り返される。強迫観念か悪夢のようだ。オーケストラの鳴り方は鮮烈だ。

 4曲目はドビュッシーのピアノ4手連弾版「夢」をマヌリがオーケストレーションしたもの。東京オペラシティのコンポ―ジアム2019でも演奏された。そのときも感銘を受けたが、今回はヴェルネッリの前曲を聴いた後だったので、余計にその美しさが胸にしみた。

 5曲目はマヌリの新作「プレザンス」。クリアな輪郭の音像が立ち上がる。その展開の仕方は不定形で、予想のつかないところがある。未知の領域に踏み込むようだ。マヌリの電子音楽での経験の蓄積が反映しているのかもしれない。ラブマン指揮東響の演奏は、濁りのない透明な音を鳴らして見事だった。

 「プレザンス」ではオーケストラは扇状になって指揮者を囲む。最後には各々4人の2グループがオーケストラから去り、客席で演奏したのち、客席を出る。「プレザンス」は三部作の3曲目だ。1曲目の「予想」では各々5人の2グループが客席から演奏しながら近づき、オーケストラに加わるそうだ。三部作を通して聴くと、「プレザンス」の最後は「予想」に対応するのかもしれない。マヌリは細川俊夫との対談で「(引用者注:2世紀以上にわたるオーケストラのあり方とは)異なる方法でオーケストラを扱うことは充分に可能だと示したい」と語る。「プレザンス」はマヌリが立てたオーケストラ音楽への問いかもしれない。
(2024.08.23.サントリーホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(1)

2024年08月23日 | 音楽
 恒例のサントリーホールサマーフェスティバルが始まった。今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティ(1953‐)だ。アルディッティ弦楽四重奏団は1974年に結成された。今年は創立50周年。アルディッティは昨年自伝を出版した。そこには彼らの50年間にわたる出来事が記されているそうだ。

 アルディッティは今回3つの室内楽コンサートと1つのオーケストラ・プログラムを組んだ。3つの室内楽コンサートは、武満徹の「ア・ウェィ・ア・ローン」を除いて、すべてアルディッティ弦楽四重奏団に献呈された曲で組まれている。しかも(新作を除いて)プログラム・ノートもすべてアルディッティ自身が書くという力の入れようだ。

 昨夜はその第1回。アルディッティは演奏に入る前に短いスピーチをした。「昨年から今年にかけて私たちの親しい友人だった西村朗、リーム、湯浅譲二が亡くなった。この演奏会を彼らに捧げます」という内容だった。

 1曲目は武満徹(1930‐96)の「ア・ウェイ・ア・ローン」。アルディッティはプログラム・ノートに「弦楽四重奏はしばしばリズム的にユニゾンで動き、対位法を提示することはほとんどない」と書いている(向井大策訳)。なるほど、それがこの曲の(西洋人から見た)特徴かと納得する。演奏はその曲の細かい部分にドラマを見出すものだった。

 2曲目はジョナサン・ハーヴェイ(1939‐2012)の弦楽四重奏曲第1番。針のように細く鋭い音が飛び交う曲だ。静から動へ、そして最後には静に戻るという大きなドラマの流れがある。武満徹の平面的な(もしくは水平方向の)曲の流れとは異なる。

 3曲目は細川俊夫(1955‐)のピアノ五重奏曲「オレクシス」。ピアノは北村朋幹。今年3月にベルリンで今回と同じメンバーで世界初演された曲だ。今回は日本初演。ピアノが短長のリズム(タタン)を繰り返す。水の滴りのようだ。リズムにヴァリエーションが加わる。弦楽器が衝動的な音を絡ませる。音楽が緊迫して爆発する。それが何度も繰り返される。最後の爆発は地獄の底を見るようだ。一種の分かりやすさのある構成だ。北村朋幹のピアノのみずみずしさと、そこからは想像もできないピアノを破壊するような激しさと、その振れ幅の大きさに息をのむ。

 4曲目はヘルムート・ラッヘンマン(1935‐)の弦楽四重奏曲第3番「グリド」。1曲目の武満徹とは対照的に、緊密かつ繊細な対位法が張り巡らされた曲だ。ラッヘンマンらしくノイズも出てくるが、それは音楽の展開上必然性があり、そのノイズさえも美しいと感じさせる演奏だ。水際立った演奏だった。
(2024.8.22.サントリーホール小ホール)
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濱田芳通/アントネッロ「リナルド」

2024年08月18日 | 音楽
 濱田芳通が率いる古楽演奏団体アントネッロはいつか聴いてみたいと思っていた。やっとその機会が訪れた。濱田芳通の第53回(2021年度)サントリー音楽賞の受賞記念コンサートだ。曲目はヘンデルのオペラ「リナルド」。

 評判通り、ビート感のある表情豊かな演奏だ。弦楽器の澄んだ音色、木管楽器の個性的な演奏、ティンパニだけではなくタンバリンなどを加えた打楽器の多彩さ、そして通奏低音の精彩ある演奏など、聴きどころが満載だ。日本にはいつのまにかアントネッロとバッハ・コレギウム・ジャパンという互いに個性を競い合う古楽アンサンブルが2つできていた(各々の個性は鈴木雅明・優人と濱田芳通の個性からくるわけだ)。

 第1幕の鳥のさえずりは濱田芳通のリコーダー演奏で表現された。目の覚めるような妙技だ。即興的な演奏だったのだろう。第2幕の冒頭には日本語のギャグが置かれた。わたしは冗長に感じたが、けっこう受けていた。第2幕の最後のアルミーダのアリアは激烈なチェンバロ・ソロを伴うが(初演の際はヘンデル自身が弾いたという)、そのチェンバロ・ソロがいつ果てるとも知れずに延々と続き、笑いを誘った。

 当演奏の特徴はレチタティーヴォの扱いにあった。濱田芳通の「演奏ノート」によれば、濱田芳通は「レチタティーヴォについて、昨今の演奏では「喋る」要素が強すぎると感じており、オールドファッション的に「歌う」感じを大切にしました」という。オールドファッションとは「バロック初期のレチタールカンタンド様式、そして、戦前の巨匠時代の演奏という二つの意味合いがあります」と。

 それはそれで一つの行き方だろうが、上記の日本語のギャグが典型的に示すような演出上の「緩さ」が随所に加わり、全体的には(アントネッロの演奏の生きのよさにもかかわらず)オペラ進行の冗長さを生じた。

 歌手ではリナルドを歌ったカウンターテナーの彌勒忠史が健在だった。また、わたしには未知の歌手だったが、アルミーダを歌ったソプラノの中山美紀の切れ味のよさに度肝を抜かれた。その他、エウスタツィオを歌ったカウンターテナーの新田壮人に注目した。アルミレーナを歌った中川詩歩はアリア「私を泣かせてください」のダカーポ後の部分で華麗な装飾を聴かせた。

 あとは余談だが、十字軍の「英雄」リナルドを主人公とし、最後には異教徒がキリスト教に改宗するというこのオペラを、現代においてどう演出するか‥。今回の中村敬一の演出はリナルドを幼児的に描いたが、それだけでは問題の核心には届かない。
(2024.8.17.サントリーホール)
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湯浅譲二の逝去

2024年08月06日 | 音楽
 作曲家の湯浅譲二(1929‐2024)が7月21日に亡くなった(写真↑はWikipediaより)。がっくりして元気が出ない。

 湯浅譲二の姿を最後に見たのは、5月28日に東京オペラシティで開かれたN響のMUSIC TOMORROW 2024のときだった。湯浅譲二の「哀歌(エレジィ)― for my wife, Reiko ―」が尾高賞を受賞し、その表彰式と演奏が行われた。湯浅譲二は体調不良が伝えられていたので、表彰式に出席できるかどうか危ぶんだが、車椅子に乗って現れた。ファンとしては姿を見せてくれただけでもありがたいが、だいぶ弱っていた。「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏された。湯浅譲二は客席で聴いたようだ。湯浅譲二が演奏会場で自作を聴く、あれが最後の機会になったろうか。

 「哀歌(エレジィ)」は、2008年に玲子夫人が亡くなり、しばらく作曲ができなかった湯浅譲二が、メトロポリタン・マンドリン・オーケストラからの委嘱を受けて、玲子夫人の追悼のために書いた曲だ。そのため原曲はマンドリン・オーケストラのための曲だが、2023年に弦楽合奏とハープ、ピアノ、ヴィブラフォン、ティンパニのために編曲した。湯浅譲二の慟哭の想いが込められた曲だ。その感情の濃さに息をのむ。2023年の初演は杉山洋一指揮都響の演奏だった。それも良かったが、今度のペーター・ルンデル指揮N響の演奏も良かった。

 わたしは湯浅譲二の作品が好きだが、どれか1曲挙げることは難しい。あえていくつか挙げれば、「オーケストラの時の時」(1976)、「クロノプラスティクⅡ」(1999)、「クロノプラスティクⅢ」(2001)などになる。「クロノプラスティクⅡ」には「E.ヴァレーズ讃」、「クロノプラスティクⅢ」には「ヤニス・クセナキスの追悼に」という副題がつく。ヴァレーズとクセナキスは20世紀音楽で流派を作らなかった単独者だ。湯浅譲二もそれに連なるように思う。3人は誇り高き単独者たちだ。

 湯浅譲二の姿は演奏会でよく見かけた。80歳代になってからもよく見かけた。わたしは心の中でそっと敬意を表した。

 忘れられないエピソードがある。2014年に世田谷美術館で「実験工房」展が開かれた。関連プログラムで、中川賢一のピアノ・リサイタルが開かれた。曲目は武満徹のピアノ作品集とメシアンの「アーメンの幻影」(共演は稲垣聡)だった。会場には湯浅譲二も来ていた。予定外だったようだが、湯浅譲二が話をした。「アーメンの幻影」は実験工房が初演したそうだ。事前に秋山邦晴がある音楽評論家に来場を依頼したら、「ほう、メシアンか、有名になったら聴きに行くよ」といわれたそうだ。その音楽評論家は武満徹の「2つのレント」を「音楽以前である」と書いた人だ。
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ヴォルフガング・リームの逝去

2024年08月02日 | 音楽
 ドイツの作曲家のヴォルフガング・リーム(1952‐2024)が7月27日に亡くなった。昨年はフィンランドの作曲家のカイヤ・サーリアホ(1952‐2023)が亡くなった。わたしと同世代の作曲家が一人また一人と亡くなる。

 リームの名前は「新ロマン主義」という言葉とともに、素人の音楽好きにすぎないわたしにも比較的早い時期から(1970年代だったと思う)伝わった。だが、就職したばかりで仕事に追われていたわたしは、リームの音楽を探して聴く余裕がなかった。

 初めてリームの音楽に向き合ったのは、2003年10月の読響の定期演奏会でゲルト・アルブレヒト(当時の常任指揮者)が「大河交響曲に向かってⅢ」を演奏したときだ。ダイナミックな音のうねりに目をみはった。上掲のCD(↑)は別の指揮者とオーケストラの演奏だが、それを聴くと、アルブレヒトと読響の演奏を思い出す。

 そのころからリームの音楽を聴く機会が増えた。そして決定的な経験になったのは、2015年のザルツブルク音楽祭で「メキシコの征服」を観たことだ。スペインによるメキシコ征服を扱った音楽劇だ。台本は断片的かつ抽象的な言葉が並ぶだけ。それをどう舞台化するかは演出家に委ねられる。

 ザルツブルク音楽祭では、ペーター・コンヴィチュニーが演出を担当した。瀟洒な家にメキシコのアステカ王朝のモンテスマ(リームの音楽では女声が当てられる)が住む。そこにスペインの征服者のコルテスが現れる。親しく語らう二人。だがコルテスがモンテスマの体を求めると、いさかいが起きる。あっという間に激しい戦いになる。その戦いは会場のフェルゼン・ライトシューレの大空間いっぱいに飛び交うコンピュータ・ゲームの映像で表現される。モンテスマの家は無残に破壊される。指揮はインゴ・メッツマッハー。巨大な音響を見事にコントロールした演奏だった。

 「メキシコの征服」が驚くほどおもしろかったので、「ハムレット・マシーン」も観てみたくなった。その機会はすぐに訪れた。2016年1月にチューリヒ歌劇場で上演予定があったので、それを観に行った。「ハムレット・マシーン」はハイナー・ミュラーの戯曲だ。日本語訳が出ているので、事前に読んだ。断片的で錯乱した言葉が並ぶ。それをどのように上演するかは演出家に委ねられる。チューリヒ歌劇場ではセバスティアン・バウムガルテンの演出だった。詳細は省くが、ファシズムに抵抗するハイナー・ミュラーが敗北する‥という演出だった。指揮はガブリエル・フュルツ。引き締まった演奏だった。

 チューリヒ歌劇場にはリームが来ていた。大男だ。元気そうだった。カーテンコールではステージに上がり、出演者に盛んに拍手を送っていた。
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アラン・ギルバート/都響

2024年07月24日 | 音楽
 アラン・ギルバート指揮都響の都響スペシャル。現代作品2曲と「シェエラザード」というプログラムだが、そのすべてにハープが使われ、ハープは吉野直子が客演するという豪華版だ。

 1曲目はフィンランドのリンドベルイ(1958‐)の「EXPO」(2009)。10分程度の短い曲だが、リンドベルイ自身の書いたプログラムノートによると、「10を超えるテンポ設定の指示」があるそうだ。なるほど、めまぐるしくテンポが変わる。おもしろいのは、その変化がデジタル式に変わるのではなく、あるテンポに別のテンポが滲み込むように変わることだ。それが約10分間絶え間なく起こる。リンドベルイらしい明るい音色が移ろいゆくポジティブな曲だ。アラン・ギルバートのニューヨーク・フィル音楽監督就任に当たって書かれた曲。アランの持ち歌のようなものだろう。手の内に入った演奏だ。

 2曲目はエストニア出身だが、エストニアがソ連に併合されて以来、スウェーデンに住んだトゥビン(1905‐1970)のコントラバス協奏曲(1948)。コントラバス独奏は都響の首席奏者・池松宏。いろいろな点でおもしろかった。まずコントラバス独奏にPAが使われたこと。そのPAの音響が良く、すこしも不自然さを感じなかった。また独奏者の椅子が、オーケストラ内でコントラバス奏者が使う高い椅子ではなく、チェロ奏者が使う椅子だったこと。その椅子に腰かけて演奏すると、コントラバスが普通のチェロより一回りも二回りも大きいお化けのように見えた。

 曲はリズムが明快で、動きがあり、コントラバスのイメージを一新するものがあった。池松宏の独奏も良かったのだろう。アンコールに吉野直子のハープを伴ってスタンリー・マイヤーズの「カヴァティーナ」が演奏された。映画「ディア・ハンター」のテーマ曲らしい。胸にしみるような曲だ。この曲ではPAを使わなかった。生音とPAを使った音との対比もおもしろかった。

 3曲目はリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」。冒頭のトゥッティの音が、アランはとくに力まずに、さりげなく振り始めたように見えるのに、ずっしりと重い音が出たのに瞠目した。先日聴いたノット指揮東響の緊張の極みにあった音とは対照的だ。直後に入る矢部達哉のヴァイオリン独奏は繊細なニュアンスにあふれている。吉野直子のハープもセンス抜群だ。

 以降、アランと都響との息の合った演奏が続いた。それは両者の会話のようだった。チェロ首席の伊東裕をはじめ、木管・金管の各奏者の名演も、アランとの息の合った、その余裕から生まれたもののように思えた。
(2024.7.23.サントリーホール)
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ノット/東響

2024年07月21日 | 音楽
 ノット指揮東響の定期演奏会。曲目はラヴェルの「クープランの墓」とブルックナーの交響曲第7番(ノヴァーク版)。追悼音楽プロだ。

 「クープランの墓」は木管楽器、とくにオーボエが活躍する曲だが、今回の演奏は生真面目過ぎた。きっちり演奏しているが、もっと洒落っ気がないと、この曲の味が出ない。もどかしく感じるうちに演奏が終わった。難しいものだ。他の木管楽器では、クラリネットが時々アレッと思うほどの表情を付けた。

 ブルックナーの交響曲第7番は、力感あふれる大演奏だった。第1楽章はレガートのかかった、たっぷりとうたう歌が、連綿と続く。その流れに乗ってゆけば良いのだが、そのうちに、間がないことに気付いた。総休止の途切れがなく、レガートでうたい継がれていく。それはそれで魅力的だが、総休止はどこにいったのかと‥。それが気になっているうちにコーダに入った。ティンパニのロール打ちが始まる。それがだんだん大きくなり、他の楽器を圧するほどに大きくなった。いくらなんでもやり過ぎではないだろうか。もちろんティンパニ奏者の独断ではなく、ノットの指示だろう。どんな意図か。

 第2楽章も連綿と続く歌に変わりはない。一つひとつの歌が、たっぷりと、かつしっかりと、うたわれていく。クライマックスの音の爆発は目が覚めるようだ。その後のワーグナー・チューバとホルンの暗い音色も申し分ない。それにしても、わたしは第1楽章と第2楽章の音を追ううちに少し疲れた。

 第3楽章はその疲れを追い払うような演奏だった。ダイナミックでホールを揺るがすように鳴る演奏だ。ノットの本領はやはりこの辺にあるのかと‥。第4楽章も同様だ。リズムの切れは第3楽章に顕著だが、一方、第4楽章には彫りの深さがある。そしてともに快適なテンポで進み、オーケストラ全体がよく鳴る。音色は明るく、混濁しない。スタミナも十分だ。一流指揮者と一流オーケストラの演奏だ。

 終演後は大喝采だった。だがわたしは昔のような深々としたブルックナーはもう聴けなくなったなと、一抹の疎外感に浸った。ノットと東響の演奏はすばらしい。マイクが何本も立っていたので、録音していたのかもしれない。CDで聴いたら、感動するだろう。でも、実演で聴いたわたしは、その演奏のすべての音が、あまりにも明確な意志で統御されていることに違和感をもった。ブルックナーの音楽はこうだったっけ‥と。

 なお個別の奏者では、フルート首席の竹山愛の、輪郭のはっきりした演奏が目立った。とくに長大なソロのある曲ではないが、時々ハッとするようなフレーズを聴かせた。
(2024.7.20.サントリーホール)
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広上淳一/日本フィル

2024年07月14日 | 音楽
 広上淳一指揮日本フィルの定期演奏会。1曲目はリゲティのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は米元響子。最近、コパチンスカヤの独奏、大野和士指揮都響の演奏と、荒井英治の独奏、高関健指揮東京シティ・フィルの演奏で聴いたばかりだ。さて、今回はどうか。

 結果的には、期待値を上回る出来だった。ヴァイオリン独奏が繊細な音を紡ぐ。オーケストラも繊細だ。ヴァイオリン独奏とオーケストラが一体になり、ガラス繊維のような音響を形成する。時々打楽器が強い音を打ち込む。繊細な音響にアクセントを付けるようだ。特徴的なことは、各楽章がキャラクター・ピースのように性格付けられていることだ。目が覚める思いがする。

 前述のとおり、最近3回この曲を聴いたが、演奏は三者三様だ。コパチンスカヤの演奏は、おもしろくて仕方がなかった。個人芸といいたいくらいだ。だが、唖然としている間に終わった感がある。リゲティを聴いたのか、コパチンスカヤを聴いたのか‥。荒井英治の演奏も良かった。真正面からこの難曲に取り組む手ごたえがあった。そして今回の米元響子の演奏は、他の2者よりもこの曲の美しさを際立たせたように思う。わたしは初めてその美しさに開眼した。

 リゲティのこの曲は、姉妹作ともいえるピアノ協奏曲とともに、リゲティの奥の院的なイメージがあったが、これほど頻繁に演奏されると、奥の院どころか、人気作のイメージが生まれる。今回の演奏では、演奏の美しさのためだろうか、第2楽章はいうまでもなく、他の楽章でも東欧的な音調を感じるときがあった。人気作として一般化する過程で注目される要素かもしれない。

 米元響子のアンコールがあった。クライスラーの「レチタティーボとスケルツォ」だ。リゲティで東欧的な音調を感じたせいか、クライスラーのこの曲にも、何か東欧的な音調があるような、ないような、あやふやな感覚になった。

 2曲目はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。先日、鈴木秀美指揮東京シティ・フィルで聴いたばかりだが、それとは対照的な演奏だった。鈴木秀美は強いアクセントと速めのテンポで、引き締まった、アグレッシブな演奏をしたが、広上淳一は軽いアクセントと遅めのテンポで、ゆったりした、クッションのように柔らかい演奏をした。どちらが良いかは、好みの問題だろう。唯一デフォルメした箇所は、第1楽章の末尾だ。そこは大きくテンポを落とした。驚いた。以降、またどこかに仕掛けがあるかもしれないと思ったが、とくに何も起こらなかった。
(2024.7.13.サントリーホール)
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ヴィンツォー/読響

2024年07月10日 | 音楽
 読響の定期演奏会にカタリーナ・ヴィンツォーという若い指揮者が登場した。1995年、オーストリア生まれ。ウィーン音楽大学とチューリヒ芸大で学ぶ。2020年のマーラー国際指揮者コンクールで第3位。

 1曲目はコネソンの「ラヴクラフトの都市」から「セレファイス」。眩いばかりの色彩感にあふれた明るくポジティブな曲だ。ハリウッド映画の音楽のようだといったら語弊があるだろうが、最近の映画音楽は渋くて断片的なものも多いので、あえてハリウッド映画の音楽のようだと‥。そんな音楽をヴィンツォーは的確に振った。ヴィンツォーの読響デビューにふさわしい。

 話が脱線するが、コネソン(1970‐)は現代フランスの人気作曲家だ。記憶に新しいところでは、沖澤のどかが京都市交響楽団を率いた東京公演で、メインのプログラムにコネソンの「コスミック・トリロジー」を組んだ。「コスミック・トリロジー」も「ラヴクラフトの都市」も3曲で構成される。後でまた触れるが、ヴィンツォーもいっそのこと「ラヴクラフトの都市」全3曲でプログラムを組んだら(「セレファイス」は「ラヴクラフトの都市」の第1楽章だ)、ヴィンツォーの読響デビューは成功したかもしれない。

 2曲目は矢代秋雄のチェロ協奏曲。チェロ独奏はドイツのユリアン・シュテッケル。シュテッケルは2010年のミュンヘン国際コンクールの優勝者だ。読響のHPによると、矢代秋雄のチェロ協奏曲は読響からの提案だったらしい。深々とした見事な演奏だった。矢代秋雄のこの曲が世界に通用することを証明した。

 たぶん多くの方がそうだろうが、わたしもこの曲を堤剛のチェロ独奏、岩城宏之指揮N響のライブ録音で知った。枯淡ともいえる渋い音色で、集中力の極限まで行った演奏だ。その後、他のチェロ奏者の演奏でも聴いたが、初めに聴いた録音のイメージから離れられないでいた。だが今回のシュテッケルのチェロ独奏、ヴィンツォー指揮の演奏で、この曲が世界の演奏家の共有財として独り立ちする現場に居合わせたような気がした。なお、シュテッケルはアンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第1番からサラバンドを弾いた。意外なくらいに素っ気なく聴こえた。

 3曲目はブラームスの交響曲第2番。前2曲と共通するが、重心の高い、明るい音で前に前にと進む演奏だ。それはそれで良いのだが、あまりにも振りすぎる。正直に言うと、青少年オーケストラを振っているようだった。ブラームス特有の音のニュアンスは皆無だ。ブラームスのこの大曲は、ヴィンツォーには荷が重すぎた。前述したように、「ラヴクラフトの都市」全3曲のほうが良かったのでは‥と思った次第だ。
(2024.7.9.サントリーホール)
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