Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

チャペック「母」

2020年12月31日 | 読書
 チェコの作家・劇作家のカレル・チャペック(1890‐1938)は、戯曲「白い病」(1937)を書いた後に、戯曲「母」(1938)を書いた。それが最後の作品になった。わたしは「白い病」を読んで、まるでいまの新型コロナウイルスのパンデミックを先取りしたようなプロットに驚愕したが、読んだ後でチャペックの次の戯曲「母」も気になった。そこでついでに読んでみた(田才益夫訳「チャペック戯曲全集」↑所収)。

 本作は主人公の「母」と死者たちの対話からなる。死者たちとは、母の夫の「父」と4人の息子たちだ。母はそれらの死者たちと、かれらが生きていたときと同じように、ごく自然に対話する。幻想的かもしれないが、読んでいるあいだは、幻想的というよりも、普通の対話のように感じる。

 いま「対話」といったが、むしろ「議論」といったほうがいいかもしれない。母と死者たちは、死者たちの死をめぐって、激しく議論する。死者たちはそれぞれ、任務とか、新記録とか、思想のために死んだと主張する。だが、母は受け付けない。そんなものが死に値するか、と。死者たちは5人束になって母を説得しようとするが、母も負けない。その対立は、男性原理と女性原理の対立のように見える。

 わたしは母の言い分のほうに共感する。だが、本作が書かれた1938年のチェコだったらどうだろう。当時のチェコはナチス・ドイツの侵攻の危機にあった。死者たちは母に、母に残された唯一の息子、トニを戦いに参加させるよう求める。トニも母に、戦いへの参加を許すよう懇願する。ラジオは連日国民に戦いへの参加を呼びかける。すべての圧力が母にかかるなかで、母はどう決断するか。

 わたしは「母」を読みながら、井上ひさし(1934‐2010)の「父と暮らせば」(1994)を思い出した。両者は生者と死者との対話という点で共通する。「父と暮らせば」では、若い娘の「美津江」が広島の原爆で死んだ父「竹造」と対話する。その対話は、ほのぼのとした、親子の情愛にみちた対話だ。

 両者とも生者(母と美津江)の、死にとらわれた世界から生の世界への再生の物語なのだが、その過程が「母」では激しい議論を通じて、「父と暮らせば」では穏やかな日常会話を通じて、という具合に対照的だ。

 わたしは劇作家の平田オリザが指摘する「対話」と「会話」のちがいを思い出した。平田オリザによれば、「対話」とは他者と意見を交わし、他者を理解し、自分と異なる意見の存在を認めること。「会話」とは親しい者同士のおしゃべり。日本人は「対話」が苦手で、「会話」を好む、と。そんなことも両作品に影響しているのかもしれない。
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チャペック「白い病」

2020年12月28日 | 読書
 チェコの作家・劇作家のカレル・チャペック(1890‐1938)の戯曲「白い病」(1937)が2020年9月に岩波文庫から出た。チャペックの戯曲はいくつか読んだことがあり、どれもおもしろかったが、「白い病」は読んでなかったので、この機会に読んでみた。

 どんな話かというと――ある国で得体のしれない「白い病」が流行する。その病にかかると皮膚に白い斑点ができ、その部分の感覚がなくなる。やがて悪臭を発して腐り始める。50歳くらいから上の人は例外なく死ぬ。なぜか若い人はかからない。白い病は中国が感染源だ。チェン氏病とも呼ばれる。白い病はパンデミックの様相を呈する。50歳前後の人々は恐怖におののく。一方、若い人たちは内心喜ぶ。

 ざっと、こんなプロットだ。白い病は不思議なくらい新型コロナウイルスに似ている。わたしはびっくりした。この作品が書かれたのは1937年だが、まるでいま書かれたように思える。どこかの劇団が大急ぎでこの作品を上演しようとしてもおかしくない気がする。

 さて、話を先に進めると――その国では独裁者の元帥のもとで軍国主義が進んでいる。元帥の取り巻きには軍需産業の総帥のクリューク男爵や、大学病院の院長の枢密顧問官などがいる。元帥とクリューク男爵は戦争の準備に余念がない。

 そんな状況のなかで、一介の開業医にすぎないガレーン博士が、白い病の治療薬を発見する。ガレーン博士は元帥とクリューク男爵に、治療薬の提供と引き換えに、平和を求める。元帥とクリューク男爵は一笑に付す。だが、ガレーン博士は引かない。ガレーン博士は気弱な性格だが、人の命をあずかる医師として、愚直に平和を願う。「無力」なガレーン博士は、元帥およびクリューク男爵の「権力」と対峙する。妥協を知らないガレーン博士は、ギリシャ悲劇のアンティゴネを彷彿とさせる。

 一方、ファシズムが刻々と進行する。元帥が煽ったファシズムではあるが、もはや元帥の手を離れて、制御不能に陥っている。そこに作者チャペックの問いがある。ファシズムはどこにあるのか、元帥か、それとも普通の人々か、と。皮肉なことに、ファシズムに熱狂する人々は、ガレーン博士が戦争から守ろうとした人々であり、また同時に、元帥が戦争で勝利をもたらそうとした人々でもある。それらの人々が、ガレーン博士はもとより、元帥も飲みこんでいく。その苦さにわたしは言葉を失う。

 訳者の阿部賢一は、新型コロナウイルスの緊急事態宣言下の2020年4月から5月にかけて翻訳を進めた。そのとき訳者は作品と現実とがオーバーラップする感覚を味わったのではないか。そんな臨場感が訳文から伝わる。
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2020年の音楽回顧

2020年12月24日 | 音楽
 新型コロナウイルスの感染拡大第3波のなかで2020年の年末を迎えた。巷には多くの困難を抱えた人々がいる。支援をする方々には頭が下がる。だが、支援にも限界があるだろう。また支援につながらない人々も多いだろう。そんな先の見えない状況だが、とりあえずこの一年を振り返っておきたい。

 わたしの場合は2月22日の東京シティ・フィルの定期(飯守泰次郎指揮)から7月10日の日本フィルの定期(広上淳一指揮)まで4か月半ほど生音を聴く機会がなかった。そんな経験をするとは夢にも思わなかった。その空白期間をへて初めて接した生音の豊かさは生涯忘れないだろう。豊かな倍音と質量に身も心もふるえた。そのありがたさに気づかずに、いままで当たり前のように生音を享受してきた我が身を省みた。

 今年のハイライトは藤倉大の新作オペラ「アルマゲドンの夢」の初演だった。演出のリディア・シュタイアー率いる制作チームも、外国人の主要歌手3人も、そして指揮の大野和士も作曲者の藤倉大も、みんな2週間の自己隔離を受け入れて来日した。作品そのものも右派ポピュリズムが台頭する現代社会を映すもので、日本にかぎらず、世界とつながるものだった。

 同公演の成功がコロナ禍にあえぐ音楽界をどれほど元気づけたことだろう。これ以降(有力な外国人指揮者の来日と相まって)音楽界に生気が戻ったような気がする。

 もう一つ、時系列をすこし遡るが、夏の「サントリーホール サマーフェスティバル2020」で一柳慧がプロデュースした4つの演奏会が、一柳自身の危惧にもかかわらず、開催にこぎつけたことも忘れられない。わたしは杉山洋一指揮読響の演奏会と、鈴木優人指揮(一曲のみ川島素晴指揮)東京フィルの演奏会を聴いた。どちらも現代作品の鮮烈な演奏で、「アルマゲドンの夢」に劣らず刺激的だった。

 鈴木優人は今年の音楽界を牽引した指揮者のひとりだ。上記の演奏会のほかにも、読響のサントリー音楽賞受賞記念コンサートで、カンブルランの代役としてメシアンの大曲「峡谷から星たちへ」を振り、鮮烈な印象を残した。バロックから現代音楽まで自由に行き来するスター指揮者の誕生だ。

 各オーケストラはいま来シーズンの定期会員の更新手続きに入るところだ。コロナ禍で外出を控える人が多いなかで、演奏会の入場者は減っている。定期会員の継続率も低下するのではないか。その状況をどうやって持ちこたえるのか。わたしは演奏力の向上しか道はないように思える。演奏力を向上して、踏ん張るしかない。演奏力の向上はまた各オーケストラが今年聴衆から受けた金銭的な支援にこたえる道でもあるだろう。
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飯森範親/日本フィル「第九」

2020年12月20日 | 音楽
 日本フィルの横浜定期では毎年12月に「第九」が演奏されるが、今年の「第九」はコロナ禍の「第九」として、一生忘れられないものになりそうだ。

 合唱は(例年通り)東京音楽大学の合唱団が起用されたが、例年と異なるのは、今年は総
勢48人だったことだ。例年は舞台をびっしり埋め尽くす大合唱団だが、今年は様変わり。しかも48人全員がマスクをしている。そのマスクは、口の前に布をたらす型ではなく、見た目には普通のマスクと変わらない白いマスクだ。そのマスクでどんな声が聴こえるのかと固唾をのんだが、澄んだハーモニーがよく通り、くぐもった感じがしなかった。しかも音量的には不足がなかった。

 合唱団は舞台後方のPブロックに配置された。1席ずつ空けたディスタンス配置。さらに飛沫防止の観点からだろう、舞台両サイドのRAブロックとLAブロックの客席も空けてあった(事務局は事前の再配席で大変だったろう)。さらに合唱団の入場は第3楽章が終わった後。舞台の密を避けるためにあらゆる措置が取られているようだ。

 ソリストは、ソプラノが中村恵理、アルトが富岡明子、テノールが城宏憲、バリトンが大西宇宙という豪華メンバー。かれらは第4楽章が始まって「歓喜の歌」が全オーケストラで確立する直前に入場した。それも舞台の密を避けるためだろう。ソリストの位置は指揮者の両サイドに2名ずつ。ソリストの前の1階正面の客席は前方5列が空けてあった。

 オーケストラの弦は10型。これも音量的にまったく不足がなかった。弦がよく鳴り、木管金管がクリアーだ。指揮は飯森範親。滑らかに流れる音楽と、要所々々に添えられるアクセントが心地よい。ときにホルンが強調される。全体的に癖のない音楽づくりだ。そこから聴きやすい「第九」が立ち上がってくる。

 第1楽章から第3楽章までは音楽の流れに乗り、第4楽章に入って合唱のすばらしさに感銘を受け、そしてソリストが加わって、わたしは中村恵理の、聴衆に語りかけるような歌に感動した。いったん合唱が静まり、テノール独唱が始まる前の休止のとき、わたしはいま聴いた中村理恵の歌に涙がこみ上げてきた。

 その後の終結部までの展開では、コロナ禍ですごしたこの一年が脳裏に浮かんだ。わたしもそうだが、演奏者も、聴衆も、みんな大変な思いをしながら、なんとか生きてきたのだなと思った。そんな他者への共感をはぐくむ場が「第九」なのだろう。

 なお、1曲目にはハイドンの交響曲第9番が演奏された。珍しい曲でおもしろかった。
(2020.12.19.横浜みなとみらいホール)
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ロシア・アヴァンギャルドのCD

2020年12月19日 | 音楽
 先日(12月15日)保屋野美和のピアノ・リサイタルを聴いて、ロシア・アヴァンギャルドの音楽に注目したので、CDをいくつか聴いてみた。

 ロシア・アヴァンギャルドとは1917年のロシア革命の前後(具体的には革命前夜の1900年代からスターリン体制が強まる1930年頃まで)の前衛的な芸術運動をいうが、美術のマレーヴィチ、文学のマヤコフスキー、映画のエイゼンシテインなどのようなビッグネームを、音楽は輩出しなかったため、音楽は影が薄いといわざるをえない。

 亀山郁夫の著書「ロシア・アヴァンギャルド」(1996年、岩波新書)によれば、「ところで、どのような革命もおおむね二つの段階を経ることで、一つの大きな環を閉じる。ロシアの近代音楽史において第一次革命は、早くも1910年代前半に一つのクライマックスを形づくった。」として、「第一次革命のにない手」にスクリャービンをあげている。

 スクリャービンは1915年に亡くなったが、その後を継いだ作曲家(ロシア・アヴァンギャルドの作曲家)としては、ロスラヴェッツ(1881‐1944)、ルリエ(1892‐1966)、モソロフ(1900‐1973)などが、同書をはじめ、一般的にあげられる。だが、それらの作曲家がどんな音楽を書いたかは、あまり知られていないのが実情ではないかと思う。

 今回わたしはCDでそれらの作曲家を聴いたわけだが、なかでもおもしろかったのは、シュライエルマッハーというピアニストが弾いた「ソヴィエト・アヴァンギャルド1」(↑画像)と「同2」の2枚のCDだ。上記の3人をふくめて、数人の作品を弾いているので、相互の比較がしやすい。そのCDで聴くかぎりでは、ロスラヴェッツには同時代の西欧の無調音楽に通じるものを、ルリエには鋭い感性を、モソロフには激しい気性を感じた。

 上記の保屋野美和のピアノ・リサイタルで鮮烈な印象を受けたオブホフ(1892‐1954)の「祈り」には、ウッドワード(武満徹の招きで来日したことのあるウッドワードだろうか)のCDがあったが、その演奏はキレ味に乏しく、ぼやけたような感じがした。

 亀山郁夫の前掲書では、「第二次革命」の代表的な作品として、モソロフの管弦楽曲「鉄工場」をあげている(この曲はいまでも演奏される)。だが、同曲の初演が1927年12月だったことが暗示的なように、ロシア・アヴァンギャルドの音楽は(音楽にかぎらず、美術も文学も同じだが)、その頃から政治的な弾圧を受け始め、まもなく終焉する。

 そのときルリエはすでに国外へ亡命していたが(ドイツからフランスへ、後にアメリカへ)、ロスラヴェッツとモソロフは国内にいて、不遇な後半生を送った。二人のその時期の作品を聴くと、社会主義リアリズムに則ったのか、平明で抒情的な作風になっている。
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B→C 保屋野美和ピアノ・リサイタル

2020年12月16日 | 音楽
 東京オペラシティのB→Cシリーズに保屋野美和(ほやの・みわ)というピアニストが登場し、じつに興味深いプログラムを組んだ。まず前半はバッハの「パルティータ第6番」と、それに触発された高橋悠治の「アフロアジア的バッハ」を数曲ずつ交互に弾くというもの(バッハの曲は7曲からなり、高橋悠治の曲は10曲からなる)。

 「アフロアジア的バッハ」は一度聴いたことがあるが(2014年2月、高橋悠治自身の演奏で)、そのときはあまりおもしろいとは思わなかった。今回はおもしろかったのはなぜか。数曲ずつ交互に弾いたので(2014年2月には「アフロアジア的バッハ」を弾いてからバッハの「パルティータ第6番」を弾いたのではなかったかしら)、バッハの曲を解体してその残骸を曲にした、そのバッハからの残響が、鮮明に聴こえたからだろうか。

 「パルティータ第6番」の演奏は、一音一音はっきり発音するような演奏だった。けっして流麗ではないが、自分の発音を確認するような、真面目な演奏だった。

 プログラム後半はガラッと変わって、スクリャービンの初期、中期、後期の各作品と、スクリャービンに触発されたロシア・アヴァンギャルドの曲と現代曲とを交互に演奏するもの。スクリャービンはともかく、ロシア・アヴァンギャルドにスポットライトが当たる機会はあまりないので、これも楽しみだった。

 ロシア・アヴァンギャルドの曲は、オブホフ(1892‐1954)の「祈り」(1916)とロスラヴェッツ(1881‐1944)の「5つの前奏曲」(1919‐22)。ロスラヴェッツはロシア・アヴァンギャルドの代表的な作曲家の一人だが、オブホフはマイナーかもしれない。そのオブホフの演奏は、硬質な音で、研ぎ澄まされた、目の覚めるような快演だった。オブホフを取り上げる理由がよくわかる演奏だった。一方、ロスラヴェッツの演奏は、この作曲家がじつはロマンチックな心情の持ち主だったのではないか、と思わせる演奏だった。

 スクリャービンの3曲のなかでは、やはり後期の「焔に向かって」がおもしろかった。スクリャービンの代表作の一つだが、スクリャービン以外のだれも書こうとしなかった特異な音楽で、演奏もピアノがよく鳴り、独特の厚みがあって、そのなかで高音が雄叫びをあげる音響がよく再現されていた。

 最後の現代曲は足立智美の「スクリャービン・シンセサイザー第2番」(今回の委嘱作)。電子音とピアノとの競演の曲だ。作曲者自身によるプログラム・ノートが難解だが(ウェブ上にはさらに難解で長大な解説が掲載されている)、わたしは単純に楽しんだ。曲の後半で照明による演出があったが、あれはスクリャービンの色光ピアノのパロディか。
(2020.12.15.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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ダレル・アン/日本フィル

2020年12月12日 | 音楽
 ダレル・アンはシンガポール生まれの指揮者。2007年の第50回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した。ちなみに2009年の第51回コンクールでは山田和樹が優勝している。ダレル・アンの日本フィルデビューは2019年3月の横浜定期で、そのときはラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲をメインにすえたフランス音楽プログラムだった。わたしはそれを聴いて、良い指揮者だと思った。

 今回は東京定期で、プログラムはイベールの「ディヴェルティメント」、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番、ブラームスの交響曲第2番というもの。

 結論から先にいうようだが、イベールの「ディヴェルティメント」が一番よかった。明るい音色と歯切れのいいリズムが特徴の快演だった。この曲のユーモアやパロディの諧謔性もよく出ていた。全体に若々しさが感じられ、現在のこの指揮者のよさが表れた演奏だったと思う。

 この曲は小オーケストラのための曲だ。当初はデュティユーの「メタボール」が予定されていたが、編成が大きいので、イベールのこの曲に変更された。わたしはこれを聴くのは初めてなので、変更は歓迎だったが(コロナ禍の状況でなければ、この曲を聴く機会はなかなか訪れないと思う)、その演奏を聴いて、ダレル・アンは「メタボール」もよさそうだと思った。「メタボール」にかぎらず、デュティユーの精緻な音と運動性に適性を発揮する指揮者かもしれない。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第17番は、当初はフランスのベテラン・ピアニストのミシェル・ダルベルトが予定されていたが、吉見友貴(よしみ・ゆき)に変更された。吉見友貴は2000年生まれ。現在、ニューイングランド音楽院に在籍中で、桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコースにも在籍中とのこと。

 クリアーな音色をもつ優秀なピアニストだ。第2楽章の短調の部分も、じっくり、しみじみと聴かせた。アンコールにシャルル・トレネ(「ラ・メール」で有名なシャンソン歌手・作詞作曲家)の「パリの四月に」(ワイセンベルク編曲)を演奏した。これも高音の美しい甘美な演奏だった。長身、ハンサムで、スター性をそなえたピアニストのようだ。

 ブラームスの交響曲第2番は、粘らないリズムで、見通しのいい音響だった。そこから清新な抒情が漂い、第4楽章をのぞく各楽章の、消えるようなコーダが、日没のような余韻を残して印象的だった。分厚い音は生まれなかったが、それが指揮者の個性なのか、12型の弦の編成のためなのかは、まだわからなかった。
(2020.12.11.サントリーホール)
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ヴァイグレ/読響

2020年12月10日 | 音楽
 読響のホームページによると、セバスティアン・ヴァイグレは11月中旬に来日し、2週間の自己隔離をへて、今回の定期に臨んだそうだ。今後は年末年始を日本ですごして、1月の各種コンサートを振る予定。通算すると約2か月間の日本滞在となる。いくつかの条件が重なって実現したことかもしれないが、ともかく自分のオーケストラとともにいる心意気は、聴衆の心をつかんだにちがいない。

 今回の定期は、ソリストは外国人から日本人に変更になったが、曲目は当初発表通りで、1曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第25番、2曲目はブルックナーの交響曲第6番。ともに、モーツァルトのピアノ協奏曲、そしてブルックナーの交響曲のなかでは比較的演奏機会の少ない曲だ。わたしは楽しみにしていた。

 ピアノを弾いたのは岡田奏(おかだ・かな)。プロフィールによると、15歳で渡仏し、パリ国立高等音楽院を卒業したそうだ。読響をはじめ在京のオーケストラとすでに共演しているが、わたしが聴くのは今回が初めて。

 その演奏には特徴があり、あえて強い言葉でいえば、ニュアンス過剰なところがある。音楽のあらゆる箇所にニュアンスを見出し、それを表現した演奏。平たくいえば、音楽を機械的に流さずに、リズムの微妙な緩急により、音楽の陰影、明暗、ためらい、喜び、その他のニュアンスを彫琢した演奏だ。なので、部分、部分はとてもおもしろい。全体像は(少なくともわたしには)確かなものが残らなかったが、それはいまのところ二の次かもしれない。比喩的にいえば、鍵盤上でモーツァルトが踊っているような演奏だった。

 一方、ヴァイグレ指揮の読響は、やっぱりドイツの指揮者というか、拍を生真面目に刻む面があり、そのオーケストラのなかでピアノが自由に(多少は自己陶酔の匂いをまきながら、でもオーケストラに愛されながら)演奏するという趣だった。

 ブルックナーの交響曲第6番は、楽章を追うごとに、オーケストラの音がまとまった。第1楽章は平板だったが、第2楽章アダージョは(とくにその後半では)弦がよく鳴り、第3楽章スケルツォでは金管がパンチのきいた音で鳴った。そして第4楽章フィナーレではオーケストラが一体となり、充実した響きの名演となった。

 ヴァイグレのブルックナーは、ずっしりしたドイツ風のブルックナーではあるが、けっして重厚長大なブルックナーではなく(ときにテンポを落とすことはあっても)、すっきりした造形感を失わないブルックナーだ。その演奏と、そしてなによりもこの時期に来日したことへの感謝と称賛から、聴衆は熱い拍手を送った。
(2020.12.9.サントリーホール)
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アダム・フィッシャーのCD

2020年12月05日 | 音楽
 わたしが愛読しているブログに「クラシックおっかけ日記」(※)がある。数カ月前にそのブログでアダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管のベートーヴェンの交響曲全集のCDが紹介された。そのCDはドイツの音楽賞「オープス・クラシック(OPUS KLASSIK)2020」の交響曲部門(19世紀音楽の部)を受賞したそうだ。ティーレマン指揮ドレスデン・シュターツカペレのシューマンの交響曲全集などのCDと競り勝ったので、どんな演奏かと、ナクソス・ミュージックライブラリー(NML)で聴いてみた。

 全体を通してノンヴィブラート奏法で演奏されている。音を短く切り、アクセントが強い。強弱やテンポの変化が急激だ。隠れた声部の強調もみられる。一言でいえばピリオド・スタイルの演奏なのだが、それ以上にアダム・フィッシャーのやりたいことが徹底された演奏と感じる。指揮者の意図がオーケストラに徹底されると、これほどまでに筋の通った演奏になるのかと、啓示を受けたような気がした。

 全9曲の中でどれか1曲選ぶとすれば第8番だ。どの部分をとっても、音のベクトルが揃っている。第2楽章ではベートーヴェンが仕掛けたユーモアが全開だ。もっとも、演奏とは関係ないことだが、ひとつ問題がある。CDの編集上のミスで、第3楽章のトラックの終わりに第4楽章の頭が少し入っている。最初聴いたときには、ぎょっとした。

 その他の曲では、第6番「田園」の第3楽章が、複合三部形式の中間部で、弦の主題が独特のアーティキュレーションで演奏されている。武骨な農民たちの踊りを彷彿とさせる。また第9番「合唱付き」の第1楽章第1主題が、音を短く切って、明確な方向性をもって演奏されるので、神秘的な雰囲気が消え、むしろ決然たる音楽になっている。ベートーヴェンが想定した音楽はこうだったかもしれないと、ふと思う。

 アダム・フィッシャーは、デンマーク室内管の首席指揮者を務めるとともに、デユッセルドルフ響の首席指揮者も務めている。そのデユッセルドルフ響と録音したマーラーの交響曲第3番が、前年の「オープス・クラシック2019」の同部門を受賞している。アダム・フィッシャーは(異なるオーケストラで)2年連続で同賞を受賞したわけだ。そのマーラーのCDも聴いてみた。

 正直にいうと、最初は戸惑った。デンマーク室内管とのベートーヴェンが、ピリオド様式の尖った演奏なのにたいして、デユッセルドルフ響とのマーラーは、オーソドックスで安定した演奏だ。もう一度聴いてみて、やっとよさがわかった。この演奏はオーケストラをバランスよく鳴らした点に最大の特徴がある。くわえてアーティキュレーションに曖昧さがなく、自然な呼吸感を失わない。実演でこの演奏を聴いたら、オーケストラの充実ぶりに驚くだろう。それにしても対照的な演奏スタイルを使い分けるアダム・フィッシャーに驚嘆する。

(※)「クラシックおっかけ日記」
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