Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2023年04月29日 | 音楽
 インキネンの日本フィル首席指揮者としての最後の東京定期。曲目はシベリウスの「クレルヴォ交響曲」。記念碑的な作品によるこれ以上ない舞台設定だ。

 「クレルヴォ交響曲」は何度か聴いたことがある。ハンヌ・リントゥ指揮の都響、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響が記憶に新しいが、若いころには渡邉暁雄指揮の都響も聴いた記憶がある。それぞれ感銘を受けたが、それらのどれとくらべても、今回のインキネン指揮の日本フィルは感銘深い演奏だった。

 羽毛のような柔らかい音からエッジのきいた音まで、音の多彩さもさることながら、なにより印象的なことは、インキネンの「クレルヴォ交響曲」という巨大な世界を真正面から受け止める胆力だ。豪胆といってもいい。明るく爽やかなイメージのあるインキネンだが、腹の座り具合は並大抵ではない。「クレルヴォ交響曲」の圧力を一身に受け止め、一歩もひるまない精神力を持っている。

 それはインキネンがワーグナー指揮者であるからかもしれない。だてにバイロイトで「ニーベルンクの指輪」を振っているわけではないのだ。インキネンはかつて日本フィルのインタビューで「ワーグナーを振ると血沸き肉躍る。そうでない指揮者はワーグナーを振るべきではないと思う」という趣旨の発言をした。そのような資質が「クレルヴォ交響曲」にも感応するのだろう。

 独唱者はソプラノがヨハンナ・ルサネン、バリトンがヴィッレ・ルサネンだった。とくにヨハンナがすごかった。声に深みがあり、劇的であると同時に滑らかな歌い方だ。聴く者を包みこみ、絡めとっていく力がある。プロフィールによると、フィンランド歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデや「ニーベルンクの指輪」のブリュンヒルデを歌っている。いいだろうなと思う。一方、ヴィッレのほうは、出だしは不安定だったが、すぐに安定して劇的な歌唱を聴かせた。プロフィールによると、フィンランド歌劇場でブリテンの「ビリー・バッド」のタイトルロールを歌っている。これもいいだろうなと思う。

 SNSでは合唱が大評判だ。皆さんおっしゃるように、すごい「音圧」だ。ヘルシンキ大学男声合唱団に東京音楽大学のメンバーを加えた編成。インキネンがギアを入れると、元々の野太い声がさらに一段と音量を増し、信じられないような「音圧」が生まれる。それが聴衆を圧倒した。

 インキネンは有終の美を飾った。2008年4月の日本フィル初登場を覚えている。才能豊かで日本フィルとの相性も良かった。それから15年。すっかり成長した。スケールの大きな自信あふれる指揮ぶりに感嘆する。
(2023.4.28.サントリーホール)
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パナソニック汐留美術館「ルオー展」

2023年04月27日 | 美術
 ルオー展が開かれている。パナソニック汐留美術館の所蔵品を主体に、パリのポンピドゥー・センターや国内の美術館の作品を加えた構成だ。美術学校を出たころの娼婦や道化師を描いた作品から、2度の大戦をへて、晩年の輝くばかりの色彩の作品まで、ルオー(1871‐1958)の歩みを辿っている。

 本展のHP↓に「かわいい魔術使いの女」(1947年)の画像が載っている。赤い衣装をつけたサーカスの魔術使いが、アーチの前に立つ。アーチの向こうにはリンゴのような果物、建物の中に立つ人物(わたしには聖像のように見える)、太陽(または月)などが描かれている。ルオー晩年の作品だ。

 会場に掲示された解説によると、第二次世界大戦をはさんで紆余曲折があった末に(細かい経緯は省く)、現在はパリのポンピドゥー・センターが所蔵する作品だ。本作品の1939年ころの写真が残っている。当時、女は裸婦だった。また建物は塔のある建物だった。しかし1948年にチューリヒで開かれた回顧展では、裸婦はサーカスの魔術使いに変わり、建物は丸屋根の建物に変わった。またリンゴのような果物や太陽(月)が加わった。ルオーはその後も手を入れ、最後にアーチを描いて1949年に制作を終えた。

 ルオーの数年越しに描かれた作品は「枚挙にいとまがない」そうだ。「ルオーは、同時進行的にいくつものタブローに取りかかり、一度描いた作品をしばらくそのままにして、後日、あるいは数年後に再び手を加えることもしばしばだった」と解説にある。

 そのような制作方法がルオーの作品の魅力かもしれない。ルオーの作品には長い時間と試行錯誤が堆積しているのだ。その端的な表れは厚塗りの絵の具だろう。何度も何度も塗り重ねられ、ついには絵の具が盛り上がった作品は、油彩画というよりも、ステンドグラスのような感触を持つ。そこにはルオーの労力の跡がある。

 よく知られている逸話だろうが、ルオーは1939年に画商のヴォラールが亡くなった後、相続人を相手に、未完の作品の返還を求める訴訟を起こした。訴訟は1947年にルオーの勝訴に終わった。翌年に未完の作品807点中688点がルオーに返還された。ルオーは同年、高齢のために完成が難しいと判断した315点を焼却した。そのエピソードも、上記のルオーの制作方法を知ると納得できる。

 「かわいい魔術使いの女」は穏やかに微笑む。慈愛に満ちた微笑みだ。慈愛はルオー晩年の作品に共通する。若いころの娼婦や道化師を描いた暗い作品からそこまで、よく来たものだ。晩年の作品にはルオーの長い人生が堆積している。
(2023.4.20.パナソニック汐留美術館)

(※)本展のHP
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原田慶太楼/日本フィル&ソッリマ

2023年04月23日 | 音楽
 原田慶太楼指揮日本フィルの横浜定期はトラブル発生で、ライブならではの面白さだった。1曲目はドヴォルジャークのチェロ協奏曲だが、冒頭でファゴットの1番奏者の楽器にトラブルが起きた。奏者がしきりに楽器をいじっているが、直らない様子。奏者も慌てているが、それを見ているわたしも気が気でない。第1楽章が終わった時点で奏者が舞台裏に引っ込んだ。

 チェロ独奏はジョヴァンニ・ソッリマだ。ソッリマは客席を向き、オーケストラには背を向けているので、何が起きたかはわからない。原田慶太楼がそっと事情を伝えると、ソッリマは頷き、演奏の中断を埋めるかのように、抒情的な曲を弾き始めた。弾きながらオーケストラの弦楽パートにサインを送る。それに気づいた弦楽パートがハーモニーをつける。しみじみとした美しい曲だった。

 客席からは拍手が起きる。でも、まだファゴット奏者は戻らない。するとソッリマは、今度はリズミカルな曲を弾き始めた。ノリノリの演奏だ。客席は大いに沸いた。ファゴット奏者が戻る。原田慶太楼が客席に「まだドヴォルジャークです」と告げて(笑いが起きる)、第2楽章の演奏が始まった。

 演奏終了後は大拍手。ソッリマはさらにアンコールを演奏した。ドヴォルジャークの中断中に演奏した2曲目にも増してノリノリの演奏だ。どこかエスニックな調べの曲(帰宅後、日本フィルのツイッターを見ると、アルバニア伝承曲「美しきモレアよ」とのこと)。客席は湧きに沸いた。

 休憩に入り、ロビーに出ると、トイレが故障中とのこと。2階と3階のトイレが使えず、1階のトイレしか使えない。もちろん大混雑だ。それでも不思議と、とげとげしい雰囲気にはならなかった。たぶん皆さんソッリマの機転の利いた対応を楽しんだからだ。その余韻があったので、トイレの故障を面白がる余裕があったのだろう。ソッリマに救われたのは日本フィルだけではなく、ホールの運営側も、だ。

 2曲目は吉松隆の交響曲第6番「鳥と天使たち」。吉松隆、原田慶太楼、音楽評論家の齋藤弘美の3人のプレトークがあった後、演奏に入った。元々は室内オーケストラのための曲だが、当夜は14型の弦楽器で演奏された。子どものころの想い出のようなノスタルジックで美しく、かつ楽しい曲だ。吉松隆の書いたプログラムノートには、『「Pastoral(田園)」的な「Toy(おもちゃ)」のシンフォニー』とある。そのうちの「おもちゃの交響曲」的な側面が表れた演奏だった。賑やかでポジティブな演奏だ。原田慶太楼の日本人離れした感性のためだろう。
(2023.4.22.横浜みなとみらいホール)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2023年04月17日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のリヒャルト・シュトラウス・プロ。バレエ音楽「ヨセフの伝説」から交響的断章と「アルプス交響曲」。2曲はほとんど同時期に書かれた。「ヨセフの伝説」は1912~1914年、「アルプス交響曲」は1911年~1915年。オペラでいうと、「ナクソス島のアリアドネ」と「影のない女」のあいだの時期だ。シュトラウスはその頃もう何でも書けるようになった。

 「ヨセフの伝説」を聴くのは初めてだ。出だしの絢爛豪華な音楽は、シュトラウス節そのものだ。その後も甘くセンチメンタルな音楽が続く。手慣れた感じがしなくもない。実験精神は後退している。だが、手短にシュトラウスの音楽に浸りたいときには格好の曲だ。交響的断章はシュトラウス自身が最晩年に編曲したもの。初演は1947年。

 パーヴォ指揮のN響はシュトラウスの音楽をたっぷり歌い、また細かいリズムの動きとのメリハリをつけて、彫りの深い演奏を聴かせた。演奏時間は約25分だが、まったく飽きさせなかった。語り口がさすがにうまい。

 「アルプス交響曲」も一流指揮者と一流オーケストラの演奏だ。ふもとから登り始めて頂上に至るまでの細かい出来事が、ゴタゴタせずにスムースに描かれ、頂上に立ったときの雄大な眺めが圧倒的で、下山の途中で遭遇する雷雨が激しくとどろき、夕映えがすべてを包みこみ、夜のとばりが静かに下りる。その一連のドラマが間然するところなく進む。音の輝かしさ、パワー、そして細かい音型の正確さ。加えて、ためをきかせた表現と、強調したい音へ付けたテヌート。それらのすべてが耳に流れ込み、演奏に身を任せることができた。

 パーヴォがN響と達成した優れた演奏がいくつもあったが、「アルプス交響曲」はそのひとつに間違いなく入る。近代現代の音楽ばかりでなく、ロマン派の、それも爛熟の極みにある音楽で、最高の成果のひとつをあげるところが、レパートリーの広さという意味で、パーヴォらしい。

 個別の奏者では、頂上の手前で足を滑らせそうになる危険な瞬間でのオーボエ・ソロが(首席奏者の吉村結実さん)、集中力がありニュアンス豊かで、ほんとうに聴衆に固唾をのませた。吉村さんはまた雷雨の場面でも、水滴がポツポツ落ちてくるところを、ハッとするほど味わい深く聴かせた。

 コンサートマスターに篠崎史紀さんが入り、サイドには郷古廉さん。懐かしい布陣だ。パーヴォとN響との絆は切れていない(=アンサンブルは崩れていない)と感じられる演奏だった。パーヴォ・N響コンビの夕映えのような演奏といえるかもしれない。
(2023.4.16.NHKホール)
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ウルバンスキ/東響

2023年04月16日 | 音楽
 ウルバンスキ指揮東京交響楽団の定期。ウルバンスキを聴くのは初めてだ。1曲目はプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」から12曲が演奏された。ウルバンスキ自身が「ぶらあぼ」のインタビューで語っているが、ストリーを追って組み立てられている。演奏もバレエ音楽というよりは、シンフォニックな性格のものだった。全12曲の中で「タイボルトの死」を頂点に、そのダイナミックな演奏と、その他の曲での音を抑えた演奏との対比をつけていた。

 2曲目は1970年生まれのフランスの作曲家、ギョーム・コネッソンの「Heiterkeit」(晴れやかさ《静穏》)。オーケストラと合唱のための曲だ。ベートーヴェンの「第九」の前プロとして作曲された由。オーケストラは「第九」と同じ編成で書かれている。演奏時間は約11分。ウルバンスキに献呈されている。

 全体は3部に分かれているが、切れ目はない。表題の通り、明るく爽やかな空気の漂う曲だ。「第九」の前に演奏したら、「第九」の冒頭の不穏な和音が際立つだろう。歌詞はヘルダーリンが精神を病んでから、スカルダネッリという名で書き続けた詩の4篇がとられている。スカルダネッリというと、ハインツ・ホリガーの「スカルダネッリ・チクルス」が思い出される。あれはヘルダーリン(=スカルダネッリ)の精神の不安定さと、そこに窺われる異常な明敏さを音にしたような、他に比べようのない音楽だ。一方、コネッソンの音楽は晴朗で安定している。ホリガーの音楽とは対照的だ。

 3曲目はシマノフスキの「スターバト・マーテル」。ペルゴレージ、ドヴォルジャーク、プーランクその他枚挙にいとまのない「スターバト・マーテル」の中で、シマノフスキの本作品は、歌詞がラテン語ではなく、ポーランド語に訳されている点が特徴だ。ポーランド語がどんな音か、まったくわからないが、時々スラヴ語的な音が聴こえた。

 全6曲からなるが、どの曲も美しく、また全体を通して一貫した緊張感がある。シマノフスキがオペラ「ロジェ王」を書きあげた後に書いた曲だが、「ロジェ王」の異教的かつ耽美的な音楽とは異なり、シンプルで明快な音楽だ。約20分の演奏時間があっという間に終わった。

 ソプラノ独唱のシモーナ・シャトゥロヴァの伸びのある声、メゾ・ソプラノ独唱のゲルヒルト・ロンベルガーの深みのある声、バリトン独唱の与那城敬の張りのある声、いずれもすばらしかったが、特筆すべきは東響コーラスだ(合唱指揮は冨平恭平)。透明なハーモニーに加えて、ポーランド語のディクションも統一されているように聴こえた。「Heiterkeit」も本作品も暗譜で歌ったことにも驚嘆した。
(2023.4.15.サントリーホール)
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坂本龍一、大江健三郎の逝去に思う

2023年04月11日 | 身辺雑記
 坂本龍一が3月28日に亡くなった。多くの方が追悼の声をあげている。わたしも意外なほどダメージを受けた。なぜだろう。たぶん同学年だからだ。坂本龍一はわたしよりも1歳年下だが、早生まれなので、学年は同じだ。坂本龍一は都立新宿高校、わたしは都立小山台高校。わたしたちの学年は都立高校に学校群制度が導入された第1期生だ。もし学区が同じなら、同じ高校に学んだ可能性もある。当時は大学紛争が高校にも飛び火して、多くの高校紛争が起きた。坂本龍一も参加したようだ。わたしの高校でも生徒総会でストライキが提起されたが、不発に終わった。

 わたしはいままで坂本龍一の音楽とは縁がなかったが、2010年4月に佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏で「箏とオーケストラのための協奏曲」を聴いたことがある(箏独奏は沢井一惠)。そのときは、なんだか軽い音楽だと、肩透かしを食った気になった。その演奏会では、同じ編成のグバイドゥーリナの「樹影にて」が演奏され、激烈なその音楽に圧倒されたせいもあったかもしれない。

 坂本龍一の存在は、むしろ社会運動の面で意識していた。世界的に成功した音楽家が反原発をふくめて声をあげる姿は、社会のある部分を支えた。それが失われた。

 また3月3日には大江健三郎が亡くなった。わたしの文学的な青春のアイドルだった。「死者の奢り」、「飼育」から「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」までほとんどすべての小説を読んだ。だが、「万延元年のフットボール」には感動したのに、その後の作品で躓いた。文体が変わったと思ったからだ。それ以降、わたしの文学的な関心は別の作家に移った。20歳のころだったと思う。

 なので、もう50年くらい大江作品は読んでいない。何度か挑戦したのだが、読めなかった。とはいえ9条の会その他で、大江健三郎の動向はいつも視界に入っていた。大江健三郎の存在が多くの社会運動を支えたことは、もういまさらいうまでもない。

 さらに付け加えると、岩波ホールが2022年7月に閉館されたことと、雑誌「レコード芸術」が2023年7月号をもって休刊されることとが合わさり、最近では、わたしの生きてきた時代が終わろうとしていると、感慨に浸りたくなるのを抑えられない。

 その一方で、先日、村田紗耶香の「コンビニ人間」を読み、はたしてこれは喜劇か悲劇かと、あれこれ考えたことが新鮮な経験だ。村田紗耶香はわたしの子どもの世代だ。「今」という時をともに生きながら、わたしとはまるで違う時代を生きている。かりに時の流れを「今」という断面で切るなら、そこにはわたしの時代、村田紗耶香の時代、その他無数の時代が流れているのだろう。
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山下一史/千葉響「ありがとうコンサート」

2023年04月09日 | 音楽
 先日、千葉交響楽団(以下「千葉響」)の「ありがとうコンサート」に行った。「ありがとう」の意味は3通りあるそうだ。一つ目は5弦のコントラバスの購入のためのクラウドファンディング成功への「ありがとう」。二つ目は4月から2年余りの大規模改修工事に入る千葉県文化会館への「ありがとう」。三つ目は聴衆の皆さんへの「ありがとう」。

 クラウドファンディングでは目標額を大きく上回る募金が集まったそうだ。当コンサートでは募金で購入した5弦のコントラバスのお披露目があった。ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を例にとり、通常の4弦のコントラバスでは出ない音が、5弦のコントラバスでは出ることが実演で示された。またサン=サーンスの「動物の謝肉祭」の中の「象」が5弦のコントラバスと4弦のコントラバスの二重奏で演奏された。

 千葉県文化会館は千葉響のホームグラウンドだ。また千葉響の事務局が入居している施設でもある。それが4月から2年余り使えず、事務局も引越しを余儀なくされた。加えて、千葉響が千葉県文化会館とともにホームグラウンドにしていた習志野文化ホールも取り壊される。そのお別れコンサートも過日開かれた。せっかく上り調子にある千葉響としてはダブルパンチだ。ともかく頑張るしかないと。

 「ありがとうコンサート」ではチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」から「ポロネーズ」、マーラーの交響曲第5番から「アダージェット」、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」そしてスメタナの「モルダウ」が演奏された。指揮は音楽監督の山下一史。山下一史が音楽監督に就任して以来、そのリーダーシップのもとで、千葉響は急速にレベルを上げている。

 余興といってはなんだが、クラウドファンディングへの返礼品に「千葉響との共演」があり、それに応募した4人が登場した。いずれもアマチュアだが、会社を早期退職して桐朋学園芸術短期大学に入学した人や、国立音楽大学の卒業生もいる。曲目はグリンカのオペラ「ルスランとリュドミラ」序曲(指揮)、ハイドンのチェロ協奏曲第1番から第1楽章(チェロ独奏)、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の音楽(アルトサクソフォン独奏)、シャンソン「老いぼれ役者」(歌)。この4人が楽しかった。それぞれの人生がにじみ出て、音楽とはプロだけのものではないと思った。

 アンコールにドヴォルジャークのスラヴ舞曲第1番が演奏された。冒頭のトゥッティが明るくポジティブな音で鳴り、目が覚めるようだった。その後も快演が続いた。千葉響のいまのモラルの高さが表れた演奏だった。千葉県のマスコットキャラクター「チーバくん」も登場して、客席を盛り上げた。
(2023.3.30.千葉県文化会館)
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マナコルダ/読響

2023年04月06日 | 音楽
 アントネッロ・マナコルダAntonello Manacordaが読響を振った。マナコルダはイタリアのトリノ生まれ。クラウディオ・アバドが設立したマーラー室内管でコンサートマスターを務めた。指揮はヨルマ・パヌラに学んだ。詳細は省くが、本人のホームページによると、今後は4月にベルリン国立歌劇場、5月にバイエルン放送響、6月にウィーン国立歌劇場、7月にドレスデン国立歌劇場の予定が入っている。

 1曲目はハイドンの交響曲第49番「受難」。シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)様式の短調の交響曲だ。楽章構成は、緩‐急‐緩‐急の4楽章。どの楽章も悲壮美にあふれた音楽だ。ハイドンの既成概念をこえるところがある。黙って聴かせられたら、ハイドンとは思わないかもしれない。モーツァルトの第25番と第40番のト短調交響曲は、このあたりから来たのかと思った。

 マナコルダの指揮は衝撃的だった。10型の読響を振って、激しく音楽に没入する演奏を聴かせた。詳細は省くが、各楽章の音楽のちがいが鮮やかに対比された。結果として、全体を通した手ごたえは大きかった。ノンヴィブラートのピリオド様式の演奏だが、たんなるモダン/ピリオドの区分けをこえて、今を生きる人間の血がほとばしる演奏だった。

 2曲目はマーラーの交響曲第5番。第1楽章冒頭のトランペット・ソロの後、弦楽器が第1主題を提示するとき、チェロの対旋律が明瞭に浮き上がった。その後もチェロの動きが浮き上がるときがあり、それが演奏に陰影を与えた。第2楽章でも、激烈な音楽がいったん静まり、チェロだけが残されて、呟くような音楽を奏でる。そのときテンポがぐっと落とされて、深く沈潜した陰影が生まれた。一瞬、ヴィオラがヴェールのような薄いハーモニーをつけるが、そのハーモニーの美しかったこと。

 第3楽章ではホルン首席奏者の日橋辰朗さんの演奏が圧倒的だった。音に艶があり、朗々と鳴り、しかもシャープだった。数多くの名手でこの楽章を聴いたが、その中でも記憶に残りそうな演奏だ。

 第4楽章「アダージェット」は信じられないような名演だった。底光りのする音が鳴り響き、感動の頂点から鎮静化まで大きな幅でうねり、まるでひとつの生き物のように息づく演奏だった。マーラーのアルマにたいする愛の表現といわれる音楽だが、その愛のなんとスケールが大きく、激烈だったことか。アルマはその愛を受け止められたかもしれないが、常人は押しつぶされるだろう。第5楽章のテンションの高さもすさまじかった。ヨーロッパの最前線の演奏の仕様を持ち込んだ感がある。
(2023.4.5.サントリーホール)
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SOMPO美術館「ブルターニュの光と風」展

2023年04月02日 | 美術
 「ブルターニュの光と風」展が始まった。フランス北西部の大西洋に突き出したブルターニュの小都市カンペール。そこの美術館の引越し展だ。

 全体は3章で構成されている。第1章は「ブルターニュの風景―豊饒な海と大地」。サロン(官展)の画家の作品が中心だ。サロンに反抗した印象派の画家たちの視点からは、保守的な作品に見えるかもしれない。でも、穏やかで品がある。個性を競った近代絵画を追って疲れた目には、ホッとするものがある。

 チラシ(↑)に使われた作品は、アルフレッド・ギユ(1844‐1926)の「さらば!」だ。漁船が難破して、息子が波にのまれる。父親が最後の口づけをする。ブルターニュ地方ではこのような事故は日常的にあったそうだ。わたしはチラシを見たときには、上半身裸の人物は女性だと思った。どのような状況かと思った。キャプションを読んで納得した。もしカンペール美術館に行ってこの作品を見たら、どんな状況かわからなかったろう。引越し展のありがたい点だ。

 先を急ぎたいが、もう一点、テオフィル・デイロール(1844‐1920)の「鯖漁」もあげておきたい。画面の3分の2を海が占めている。男たちが小さな漁船に乗って鯖(さば)漁をしている。漁船は波にもまれている。男たちは漁に夢中だ。空は夕焼けに染まる。夕日が海に反映する。男たちを祝福するように。

 第2章は「ブルターニュに集う画家たち―印象派からナビ派へ」。モネ、ゴーギャンなどの作品もあるが、比較的まとまっているのは、ナビ派の画家たちの作品だ。その中でも強い印象を受けたのは、セリュジエ(1864‐1927)の「ル・ブールデュの老婦人」だ。海岸沿いの崖を背景に、老婦人の顔が大きく描かれる。その絵肌が(絵の具が退色したように)艶を失っている。キャプションによれば、下地を施さずに、古拙さを意図した技法だそうだ。どこかの倉庫から発見された由来不明の作品のような趣がある。

 第3章「新たな眼差し―多様な表現の探求」では、19世紀末から20世紀前半の作品が並ぶ。美術史的には「バンド・ノワール(黒い一団)」と呼ばれる画家たちの作品がいくつかある。たとえばシャルル・コッテ(1863‐1925)の「嵐から逃げる漁師たち」は、嵐をはらんだ暗雲の描写がリアルだ(本展のHP↓に画像がある)。

 「バンド・ノワール」以外の画家では、ド・ブレ(1890‐1947)の「ブルターニュの女性」に惹かれた(本展のHP↓)。点描法のようでもあるが、それともちがう「トレイスム(格子状技法)」と自称する技法で描かれている。明るくポジティブな作品だ。
(2023.3.31.SOMPO美術館)

(※)本展のHP
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