Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

作曲家の個展2015:原田敬子

2015年10月29日 | 音楽
 毎年恒例のサントリー芸術財団「作曲家の個展」。今年の作曲家は原田敬子だ。

 原田敬子というと、2014年1月の都響の定期を想い出さずにはいられない。新作の「ピアノ協奏曲」が初演される予定だったが、旧作の「エコー・モンタージュ」(2008)に差し替えられた。そのとき十分な説明がなかったため、ネット上ではさまざまな‘情報’やら‘憶測’やらが飛び交った。

 もっとも、わたし自身は第57回尾高賞受賞作品である「エコー・モンタージュ」を聴いてみたかったので、それはそれでよかった。秋山和慶が指揮する都響の異様なまでに緊張をはらんだ演奏と相俟って、その大胆かつ新鮮な作品に驚愕した。

 そのとき演奏されなかった「ピアノ協奏曲」が、今回初演されるとあって、否が応でも興味をそそられた。プログラムには‘2013‐15’の作曲と表記されている。あの都響の定期以降も書き続けていたのだろう。

 音の鮮度のよさと透明感が並外れている。演奏時間25分30秒の曲だが(作品リストの表示による)、常になにかが生起し、変化し、また思わぬところで微かな音がうごめいている。ものすごい集中力の持続だ。最後の不思議な終わり方に意表を突かれた。脱力感をともなって虚空のどこかへ消えていくようだった。

 プレトークでピアノ独奏の廻由美子が「21世紀のピアノ協奏曲の傑作だと思う」と言っていたが、まさにそうだ。その傑作の誕生に立ち会えたことが嬉しい。

 余談だが、プレトークで原田敬子がしきりに‘演奏拒否’にこだわっていた。「学生の頃から演奏拒否にあっていた」とか、「譜面を見ただけで、あっ、これ無理、とか言われるんです」等々。そんな話を聞いていると、どうしても都響との一件に想像を逞しくしてしまう。でも、それは本人の望むところではないようだ。

 指揮は中川賢一、オーケストラは桐朋学園オーケストラにドイツの現代音楽の演奏グループ、アンサンブル・モデルンのメンバーが入ったもの。これはもう感動的なほど献身的な演奏だった。なおオーケストラにはギター、ハープ、アコーディオンが入るが、アコーディオンは世界的な奏者、シュテファン・フッソングだった。

 その他にサントリー芸術財団と関連の深い「響きあう隔たりⅢ」(2000‐01)、「第3の聴こえない耳Ⅲ」(2003)そして今回の委嘱作「変風」(2015)が演奏された。
(2015.10.27.サントリーホール)
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血の婚礼

2015年10月27日 | 演劇
 新国立劇場の演劇研修所の公演には、演目に惹かれて、時々出かけている。今回の演目はロルカの「血の婚礼」。これはぜひ観てみたいと思った。

 「血の婚礼」はロルカの‘三大悲劇’といわれているものの一つだ。戯曲は読んだことがあるが、舞台は初めて。戯曲の枝葉を切り落として、約100分の上演台本にまとめていた。ストレートに話が進む。スピーディな展開。手際のよいまとめ方だったのではないかと思う。

 舞台美術も簡素だ。客席の最前列と同じ平面で(つまり客席よりも一段高い舞台ではなく)芝居が進む。床面には大きな円が描かれている。円の中が舞台だ。円の周囲に8本の高低差のある四角柱が立っている。これらの四角柱は動かすことができる。あるときは家の壁に、またあるときは森の木々になる。

 こういったシンプルな舞台美術は、わたしは大好きだ。数年前にチューリヒ歌劇場で「リゴレット」を観たときは、会議室用の机と椅子だけでやっていた。それだけで立派なオペラになっていた。

 演劇研修所のみなさんは(いつものことながら)熱演だった。十分にこの悲劇の世界を形作っていた。

 ストーリーは、スペインのアンダルシア地方の小村を舞台に、元カレが忘れられない娘と、(今は結婚しているが)その娘を忘れることができない元カレとが、娘の結婚式の当日に駆け落ちすることによって起きる悲劇。スペインの地方色が濃厚な芝居だが、同時に現代の日本でも起きそうなことだ。ロルカの世界と現代の日常性とが、透明な二重写しとなって見えてくる。そんな感覚に襲われる芝居だ。

 スペインの地方色は、主に音楽によって生まれてくる。ギターやアコーディオンによって静かに流れる音楽。また、ロルカの戯曲にふんだんに含まれる歌の数々。あれらの歌はだれが作曲したのだろう。語りのイントネーションに近い簡潔な歌たち。それらを歌う研修生のみなさんは、よく訓練されていた。

 ロルカの芝居というと、昨年、日生劇場が制作したゴリホフのオペラ「アイナダマール」のプレイベントとして、日生劇場のロビーで上演された「マリアーナ・ピネーダ」を想い出す。まったくなにもないロビーで、役者が動き回るだけの上演だったが、空間の立体的な使い方によって、ロルカの劇世界が立派に現出していた。やる気があれば、お金がなくても芝居はできるという一例かもしれない。
(2015.10.26.新国立劇場小劇場)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2015年10月25日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のCプロ。1曲目はエストニアの作曲家(つまりパーヴォと同国人の)エルッキ・スヴェン・トゥール(1959‐)の「アディトゥス」(2000/2002)。パーヴォは2005年6月のN響初登場のときにもこの曲を取り上げた。だが、どんな曲だったか、まったく覚えていない。情けない。

 高橋智子氏のプログラム・ノートによると、「トゥールの考案した「ベクトル書法」が曲全体を司る」そうだ。ベクトル書法とは「和音の声部誘導・連結方法。変異と増殖を繰り返しながら曲全体のテクスチュアを生成する和音は、遺伝子のような螺旋状の構造を想起させる」。う~ん、難しい。

 実際に聴いてみると、ある一定の方向性(ベクトル)をもった音が並び、そのベクトルが角度を変えながら動き、さらに別の方向性(ベクトル)をもつ音の一群が割って入るといった印象だ。

 だが、そういったアイデアの先になにがあったか、聴き終わった後では心許ない想いが残ったことも事実だ。

 2曲目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は五嶋みどり。4楽章構成のこの曲のパッサカリアで書かれた第3楽章で、五嶋みどりのヴァイオリンは胸も張り裂けんばかりの悲しみの旋律を紡いだ。何度も聴いたこの曲だが、こんなに痛切な演奏を聴くのは初めてだ。ショスタコーヴィチがこの曲に込めた心情が探り当てられたような想いがした。

 パッサカリアから長大なカデンツァに入り、切れ目なく第4楽章になだれ込んでいく演奏には、まさに五嶋みどりの独壇場といった観があった。わたしは身も心も揺さぶられた。身体を大きく揺さぶりながら演奏する五嶋みどりの、その演奏への並外れた没入は、まるで巫女のようだった。

 3曲目はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。何度も聴いて(正直なところ)食傷気味のこの曲が、まるで違った曲に聴こえた。あるフレーズの入りの音、終わりの音、それらの硬軟、強弱といったあらゆるニュアンスが考え抜かれた演奏だ。演奏におけるドラマトゥルギーとはこういうものかと教えられる想いがした。

 パーヴォの指揮は、バルトークのこの曲と、Aプロのマーラー「復活」と、2月の「巨人」と(ショスタコーヴィチの5番は印象が薄いが)、どれもみんなアプローチが違う。今はN響に対していろいろなアプローチを試しているのかもしれない。
(2015.10.24.NHKホール)
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ラザレフ/日本フィル

2015年10月24日 | 音楽
 ラザレフが指揮する日本フィルの東京定期。1曲目はストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」。1920年代に作曲されたストラヴィンスキーの新古典主義時代のバレエ音楽だ。

 冒頭でいかにもチャイコフスキー的なロシア情緒たっぷりの音が鳴った。この曲を聴くのは初めてではないが、はて、こんなロシア的な音だったかと思った。今までのイメージではもっと洗練された‘新古典主義’的な音だと思っていた。

 その後の展開では、柔らかく、繊細な音のテクスチュアが織られる。チャイコフスキー的なメルヘンとストラヴィンスキー的な明るさとの適度な融合。最後のディヴェルティスマンは張りのある輝かしい音が鳴った。

 演奏終了後に長い静寂。皆さんこの演奏に満足したのだろう。やがて起きた心のこもった拍手。聴衆、指揮者そしてオーケストラに心地よい一体感が漂った。

 休憩後、2曲目はチャイコフスキー作曲(タネーエフ編曲)ソプラノとテノールのための二重唱曲「ロメオとジュリエット」。へえぇ、こんな曲があったのか、というのが正直なところだ。森田稔氏のプログラム・ノートによると、チャイコフスキーが亡くなった1893年(「悲愴」が初演されたその数日後に急死した年だ)にスケッチが書かれ、それをタネーエフがオーケストレーションしたそうだ。

 歌詞を読んで驚いた。これは「トリスタンとイゾルデ」の第2幕の愛の二重唱とそっくりだ。ロメオとジュリエットが愛の一夜を過ごした後の明け方の会話。ヒバリの声(昼の世界)を認めようとせず、あれは鶯の声(夜の世界)だと信じ込もうとする2人。そこに乳母の警告が聴こえる。乳母はブランゲーネそのものだ。

 途中、幻想序曲「ロメオとジュリエット」によく似た部分が出てきた。興味深い曲だ。独唱はソプラノ黒澤麻美、テノール大槻孝志、乳母役のソプラノに原彩子。初めて聴くこの曲をしっかり楽しませてくれた。

 3曲目はショスタコーヴィチの交響曲第9番。冒頭の弦による第1主題が快速テンポの精緻なアンサンブルで始まり、この演奏の水準の高さを予感した。トロンボーンの張りのある音。その音は一夜明けた今でも耳に残っている。第2楽章の冷たく暗い弦の音色。第4楽章のファゴットの長大なソロ。第5楽章コーダでの音色の変化。どれも忘れられない。

 全体として、趣味のよいプログラムと、それに相応しい演奏だった。
(2015.10.23.サントリーホール)
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ラザレフ/日本フィル

2015年10月20日 | 音楽
 日本フィル首席指揮者としての任期があと1年となったラザレフ。その最後のシーズンが始まった。まずは横浜定期から。プログラムにはブラームス、リストそしてボロディンが並んだ。

 一見脈絡のないプログラミングに見えるが、じつはブラームスとリストはラザレフが横浜定期でよく取り上げていた作曲家だ。ブラームスもリストも、それぞれ違う意味合いではあるが、ラザレフの一面によく合う作曲家だと思う。ブラームスはそのメロディーで、リストはその構築力で、それぞれラザレフの音楽性に触れるのではないだろうか。

 1曲目はブラームスの「大学祝典序曲」。今までのブラームスの交響曲の演奏を思い起こさせるようなバランスの取れたアンサンブルだ。時々ラザレフの演奏を‘爆演’と評する人がいるが、どうしてそう感じるのだろうと思うほど。この「大学祝典序曲」などは、虚心に聴けば、流麗な感じさえする演奏だった。

 今までラザレフのブラームスを聴きながら、往年のヴァイオリンの大家オイストラフのブラームスを想い出すことがあった。今回もまたそうだった。

 2曲目はリストのピアノ協奏曲第1番。ピアノ独奏は小川典子。小川典子のピアノはいつもクールで切れ味がいいが、今回はリストだったからだろうか、轟々とピアノを鳴らしていた。ヨーロッパの第一線で活躍するだけあって、パワーにも欠けていないことがよく分かった。もっともリスト特有のこってりした甘さはなかった。それでいいと思った。それでこそ小川典子だ。

 3曲目はボロディンの交響曲第2番。1曲目のブラームスからそうだったが、ボロディンになると、オーケストラはさらによく鳴った。ラザレフの豪快さも増した。しかもアンサンブルは崩れない。ロシア情緒が漂う。でも、そこに耽溺しない。全体に漂う空気感のような情緒だ。

 ラザレフには「決定的な名演をするのだ」という意気込みが感じられた。演奏にはそれが大事なのだとつくづく思った。日常的なレベルを超えた「決定的な名演」。指揮者のその本気さが聴衆に伝わるのだ。

 アンコールにハチャトゥリアンの「ガイーヌ」から「レズギンカ」が演奏された。会場は大いに沸いた。結構なことだが、正直にいうと、小太鼓のリズムで途中に猛烈な連符(あれは何連符だろうか)が打ち込まれる箇所が、少しぎこちなく感じられた。
(2015.10.17.横浜みなとみらいホール)
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ダイクストラ/都響

2015年10月17日 | 音楽
 スウェーデン放送合唱団を主役に迎えた都響の定期。指揮は同合唱団の首席指揮者ペーター・ダイクストラ。こういうメンバーでないと組めないプログラムが組まれた。

 1曲目はリゲティの「ルクス・エテルナ」。16声の混声合唱曲。合唱団の人数は32人。オーケストラは入らない。極度の緊張を(合唱団にも聴衆にも)しいる曲だ。電子音楽でやればもっと気楽にこの透明なハーモニーが楽しめるのに、と思わないでもなかった。

 でも、一夜明けた今、やっぱり思い直した。人間の声でやるから、あの緊張感があったのだ。電子音楽でやればそれがなくなってしまうだろう。それでは意味がない、と。

 2曲目はシェーンベルクの「地には平和を」(管弦楽付きの版)。合唱の響きがなんと人間的に聴こえたことか。アナログ的な響き。ぬくもりがある。それにたいして「ルクス・エテルナ」はデジタル的だったと振り返った。

 3曲目はモーツァルトの「レクイエム」。いつの間にかこの曲にはいくつもの版が作られたが、当夜は昔懐かしいジュスマイヤー版。

 この曲を聴くのは久しぶりだ。ステージに並んだオーケストラを見て、あぁ、そうだったかと思ったが、木管はバセットホルン2本とファゴット2本だけ。フルートもオーボエもない。木管の編成にはいつも細かい配慮をするモーツァルトだが、この編成はその中でももっとも大胆なものだ。金管はトランペット2本とトロンボーン3本。ホルンはない。これも面白い。なお弦は10‐8‐6‐4‐3だった。

 第1曲「イントロイトゥス(入祭唱)」が始まる。黄泉の国から響いてくるような茫漠とした響き。モーツァルトの魂の半分は、もうこの世にはないような感じがした。モーツァルトがオーケストレーションを含めて完成した(「レクイエム」の中では)唯一の曲。絶筆の一つかもしれない。呆然と耳を傾けた。

 全体的にきびきびした演奏。「ディエス・イレ(怒りの日)」は目が覚めるような快速テンポだった。弦はノン・ヴィブラート奏法。独唱陣はヴィブラートをかけていた。それでも違和感はない。バスのヨアン・シンクラーの押し出しのいい声が印象的だった。

 アンコールに「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が演奏された。モーツァルトが書いた音楽の中でも、これはもっとも心やさしい音楽ではないだろうか。合唱の柔和なハーモニーが胸にしみた。
(2015.10.16.サントリーホール)
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ラインの黄金

2015年10月15日 | 音楽
 新国立劇場の今シーズンの予定が発表されたとき、「ラインの黄金」がレンタルのプロダクションンであることを知って、激しい脱力感におそわれた。予算が乏しいのかもしれないが、だからといって、新たなリングのチクルスをレンタルで済ませる劇場側の姿勢に、どうしようもない虚脱感をおぼえた。

 そんな気持ちを引きずって迎えた「ラインの黄金」だが、劇場の椅子にすわれば気持ちはリセットされる。さて、どんな舞台だろうと、虚心にその舞台を見つめた。

 序奏が始まる。世界の始原を描いたとされる音楽が、空回りしている感じだ。なにも語らない。この音楽のこんな演奏は初めてだ。意味のない演奏が目の前を通り過ぎる。ラインの娘たちの三重唱に移行した後も、さっぱりテンションが上がらない。そんな演奏が第1場から第2場にかけて続いた。正直いって、今後「ワルキューレ」以下を聴く気が萎えた。

 演奏に動きが出たのは第3場に入ってからだ。テンポが若干早くなったのが功を奏したのかもしれないが、なんといっても、ヴォータンのユッカ・ラジライネン、ローゲのステファン・グールド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、ミーメのアンドレアス・コンラッドの4人の歌手たちが密度の濃いドラマを展開した。

 やっとオペラらしくなったと思った。さて、第4場はと期待したが、元に戻った。意気消沈して舞台を見ているうちに、幕切れの神々のヴァルハル城への入場になった。舞台奥に抽象的な光の塔が現れた。淡い色の光が乱反射する。美しい光の演出。この舞台で唯一感心した場面だった。

 要約になるが、飯守泰次郎の指揮には精彩がなかった。どうしたのだろう。「ワルキューレ」では持ち直すのだろうか。

 歌手は悪くなかった。とくに前述の4人は実力十分。世界のどこに行っても通用するレベルだ。他の歌手ではエルダのクリスタ・マイヤーに感心した。第4場でちょっと出てくるだけの役だが、実力ある歌手でないと、説得力がない。マイヤーはその点で十分な実力があった。

 ゲッツ・フリードリヒの演出については、今さらなにをいうことがあるだろうか。歴史に残る名演出家であることはいうまでもないが、なにしろ20年ほど前のこの演出に、現代との接点を見出すことは困難だ。しかも妙に薄味の今回の舞台は、フリードリヒ演出の原形をどれだけ留めているのか、頼りない感じが否めなかった。
(2015.10.14.新国立劇場)
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下野竜也/読響

2015年10月14日 | 音楽
 下野竜也指揮読響のたいへん興味深いプログラム。1曲目はベートーヴェンの序曲「コリオラン」。大編成のオーケストラから引き締まった音が出る。ストレートな表現。このコンビの充実ぶりが窺える。

 2曲目はヒンデミットのヴィオラ協奏曲「白鳥を焼く男」。ヴィオラ独奏は読響ソロ・ヴィオラ奏者の鈴木康浩。冒頭のソロからヴィオラがよく鳴る。豊かで柔らかい音だ。ぐっと惹きこまれた。

 ヴィオラとオーケストラとがしっくり合っている。お互いに出過ぎない。今まで聴いてきたこの曲の演奏は、ヴィオラ主導型だったかもしれないと、そう思うほど両者がかみ合っている。この曲のトータルな音像がよくつかめた。

 柴辻純子氏のプログラム・ノーツを読んで、あァ、そうだったかと思ったが、この曲の作曲時期は1935年、フルトヴェングラーをはじめ当時のドイツ音楽界を揺るがした‘ヒンデミット事件’の直後だ。ヒンデミットとナチスとの緊張関係がピークに達した時期。その影を探そうとしたが、見つからなかった。のどかな民謡が支配的だ。もしかすると歌詞にはなにか示唆的なものがあるかもしれない。でも、わたしは歌詞を知らないまま今に至ってしまった。反省。

 3曲目はジョン・アダムズ(1947‐)の「ハルモニーレーレ(和声学)」(1985)。ジョン・アダムズの代表作の一つだ。全3楽章からなるこの曲の第1楽章では、細かいリズム音型が延々と続き、それが途絶えたと思うと、息の長い旋律が出てくる。そのとき1曲目の「コリオラン」序曲を想い出した。あの曲も、考えてみると、第1主題は(ベートーヴェンにしては)デジタル的なリズムが続き、第2主題は息の長い旋律が歌われる。両曲の対比も計算の内だったろうか。

 それにしても、一晩のコンサートで最後の曲がジョン・アダムズだと、コンサート全体のイメージがガラッと変わる。斬新な、今まで経験したことがないような新感覚のコンサートになる。ちょっと興奮した。

 演奏は、こういってはなんだが、‘体育会系’の演奏だった。わたしはこの曲には光の粒子が飛び散るような明るい音のイメージがあったが、光の代わりに汗が飛び散るような大熱演だった。アメリカ西海岸のスマートさはなかったかもしれない。でも、それでいいじゃないか、というのが正直な気持ちだ。聴衆とオーケストラと指揮者との一体感があったから。終演後の拍手も熱かった。
(2015.10.13.サントリーホール)
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大友直人/東響

2015年10月11日 | 音楽
 早坂文雄(1914‐1955)の没後60年コンサート。故人が生前ゆかりの深かった東京交響楽団の演奏、指揮は大友直人。

 1曲目は映画「羅生門」から真砂の証言の場面のボレロ。ラヴェルの「ボレロ」とそっくりだ。パロディーとかオマージュとか、そんなものではなく、焼き直しとか換骨奪胎とかというほうが相応しい。

 これは黒澤明監督の要求らしい(プログラムに掲載された西村雄一郎氏のエッセイ「早坂文雄の“白鳥の歌”」)。早坂文雄はその要求に見事に応えた。わたしはこの映画を見ていないが、もし見たら、そしていきなり「ボレロ」が始まったら、きっと驚いたろう。効果抜群だったかもしれない。

 演奏はよかった。フルート、アルト・サックスなど木管の各奏者の安定した音が心地よかった。木管に限らずどのパートも技術的には難しい曲ではないだろうが、丁寧に演奏していた。なお、小太鼓は響線をはずして演奏する点が、ラヴェルと異なっていた。

 2曲目は交響的童話「ムクの木の話し」。1946年に製作されたアニメーション映画「ムクの木の話し」のための音楽。戦後の闇市の時代にアニメーション映画が作られ、それを見に行った人々がいることに、わたしなどは驚いてしまう。今の時代の視点からではなく、当時の人々の状況を想像して見るべき(聴くべき)作品だ。

 3曲目は交響的組曲「ユーカラ」。わたしはこの曲には縁があって、山岡重信/日本フィルと山田一雄/日本フィルの演奏を聴いたことがある。今回が3度目だ。中でも山田一雄のときは名演だった。当時のメモを見てみると、山田一雄は指揮台から落ちたり、譜面台をひっくり返したりして、大熱演だったようだ。

 大友直人の指揮は、丁寧かつ几帳面に仕上げていた。思い入れの深さでは山田一雄に及ばないかもしれないが、スタイリッシュにまとめていた。この曲がどんな曲か、よく分かった。‘点’と‘線’の作曲法とか‘汎東洋主義’とかよりも、実際にはむしろ生硬なモダニズムを感じた。メシアンやストラヴィンスキーの模倣はその一部に過ぎない。

 早坂文雄はこの曲を完成して翌月初演し、その4か月後に亡くなった。この曲は死期を悟った早坂文雄の性急な遺言だったのではないだろうか。これを超えよ――。そう言われた一人が武満徹だった。武満徹は2年後に早坂文雄を悼んで「弦楽のためのレクイエム」を書き、そして超えていった。
(2015.10.10.ミューザ川崎)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2015年10月05日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィのN響首席指揮者就任定期のAプロ。曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」。

 就任前の2月定期では「巨人」を振った。驚きと発見に満ちた演奏だった。沈着冷静なN響が我を忘れて演奏した。熱狂の演奏。平野昭氏は新聞評で「奇跡の名演」と書いた(その新聞評が今回のプログラムに掲載されている)。名言だと思う。

 では、今回の「復活」も「巨人」の延長上の演奏だったか。わたしにはかなりタイプが違う演奏だと思われた。極限まで鍛え上げられた演奏だったが――そのこと自体はすごいことだが――、「巨人」とは同列に語れない演奏だと思った。

 今回の「復活」は硬質のドラマだった。マーラーの通俗性や自己憐憫は微塵もない。きれいに掃き清められた庭のようなもの。塵一つ落ちていない。完璧な音の世界。とくに弱音のコントロールは徹底している。緊張感が緩むことは一瞬たりともない。指揮者もオーケストラも超一流の証明だ。

 でも、「巨人」のときの熱狂はない。N響はつねに自己を見失わない。それはいつものN響だが、N響のいる場所が、いつもの場所からは遠く隔たった場所まで行っている。おそらくN響のメンバーにも未知の領域だったのではないだろうか。

 パーヴォ/N響の新時代はこの路線上にあるのだろうか。言い換えるなら、「巨人」は一回きりの現象だったのだろうか。

 そうかもしれないとも思う。というのも、くだんの「巨人」は2月定期のAプロだったが、Cプロのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、かなり趣の異なる演奏だったからだ。素直でストレートな演奏。いつものN響のペースに戻った演奏。その違いはどこからくるのか。もしかすると「巨人」のときに客員コンサートマスターを務めたヴェスコ・エシュケナージの影響が大きかったのかもしれない。そうだとすると――。

 ともかくパーヴォ/N響の今後がどうなるかは、予断を許さない。その意味で今回Cプロのバルトーク「管弦楽のための協奏曲」の演奏がどうなるか、興味津々だ。

 なお、声楽陣だが、まず東京音楽大学の合唱に感銘を受けた。各声部を明瞭に聴き分けることができた。ソプラノ独唱のエリン・ウォールの若く伸びやかな声にも惹かれた。アルト独唱のリリ・パーシキヴィには特別のものを感じなかった。第4楽章「原光」での神への無垢な憧れが感じられなかったことは残念。
(2015.10.4.NHKホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2015年10月04日 | 音楽
 会場に着くと、ロビーコンサートが始まっていた。いつもと違って厚みのある音だ。見に行くと、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ各2、コントラバス1の弦楽合奏だ。いつもは弦楽四重奏にコントラバスが加わる編成が多いので、今回の音はずいぶん違う。指揮は平川範幸。曲は「ある晴れた日に」(松原幸弘編曲)。

 席に着いて開演を待つと、場内アナウンスがあり、開演5分前に高関健のプレトークがあるとのこと。こういうやり方は珍しい。高関健が登場して、本日の演奏曲目の聴きどころを解説した。簡潔かつ的確なトークだった。

 ‘開演5分前’にこういうことができるのは、作品解釈が確固としていて、揺るぎがないからだろう。‘情念’で演奏するタイプは、自身のテンションを高めなければならないので、とてもこういう芸当はできない。

 1曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番。高関健はプレトークで「私見だが、モーツァルトのピアノ協奏曲の中では第24番と第25番が頂点なのではないでしょうか」と語っていた。2曲ともオーケストラ書法が綿密で、ピアノと拮抗している。なるほど、指揮者だとそう見えるのだなと思った。

 だが、残念ながら、演奏はテンポが遅く、締まりがなかった。ピアノ独奏の伊藤恵は、モーツァルトというよりも、ロマン派の音楽のようだった。ところが、終演後、ブラボーの声が出た。その人が羨ましかった。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第10番。オーケストラは一転して引き締まり、焦点の合った演奏になった。曲に深く食い込むような演奏。意志にあふれた演奏。テンポにも、このテンポしかないという確信があった。

 第2楽章冒頭、渾身の力を込めてガッ、ガッと音を打ち込む大編成の弦が、まるで大地を揺るがすように聴こえた。この音は高関健が常任指揮者に就任した4月定期の「わが祖国」の「ターボル」と「ブラニーク」でも聴くことができた音だ。

 荒れ狂うこの第2楽章。スターリンの肖像ともいわれるが、わたしにはショスタコーヴィチの怒りの奔流のように聴こえた。ニヒルでグロテスクな音楽というよりも、抑えようのない真正な感情、つまりショスタコーヴィチの怒りの噴出。そう思ったら、激しく感動した。

 第3楽章、第4楽章と登場頻度を増すショスタコーヴィチ音型。その息詰まるようなドラマに息をのんだ。
(2015.10.3.東京オペラシティ)
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ダナエの愛

2015年10月03日 | 音楽
 東京二期会の「ダナエの愛」。同会のホームページに広瀬大介氏の「『ダナエの愛』への誘い」というエッセイが載っている。そこに「戦争に突き進む時代を背景とした、シュトラウス自身の「白鳥の歌」」という言葉があった。深く同感した。

 現に公演を観ながら、シュトラウスの当時の心境が感じられることが何度かあった。今鳴っているこの音楽を書いているとき、シュトラウスは人生との別れを告げているのではないかと――。あるいは、シュトラウスの場合、人生との別れは音楽との別れと同義語かもしれないので、音楽への感謝、そして音楽への別れを書いているつもりだったかもしれないと――。

 シュトラウスがこの作品を書いたのは1937~1940年だ。上演のあてがあったわけではないようだ。1941年4月28日にウィーン・フィルの当時の楽団長オットー・シュトラッサーほかウィーン・フィルのメンバー数人が、シュトラウス邸を訪問した。ピアノの上には「ダナエの愛」の3巻本の総譜が置かれていた。パウリーネ夫人は「これは、主人の死のあとで、初めて上演されるでしょうよ。」といったそうだ(オットー・シュトラッサー著ユリア・セヴェラン訳「栄光のウィーン・フィル」より)。

 もっともシュトラウスは、この作品のあと、オペラをもう一本書いた。「カプリッチョ」。あの作品での月光の音楽はたいへん美しいし、作品自体もあり余るオペラへの愛と感謝に満ちている。「カプリッチョ」だって白鳥の歌だといえるかもしれない。

 でも、楽屋落ちの要素がある「カプリッチョ」よりも、人間の慎ましい静かな生活を称揚する「ダナエの愛」の方に、戦時下のシュトラウスの心境が感じられる。

 さて、そういう「ダナエの愛」だが、今回の公演は白鳥の歌という感じではなかった。歌、オーケストラ、演出がバラバラで、まとまったアンサンブルに結実しなかった。

 ダナエの林正子、ユピテルの小森輝彦、ミダスの福井敬の主要3人は頑張っていたが(もっとも福井敬のドイツ語にはひっかかったが)、それぞれが個人技に止まっていた。

 指揮の準・メルクルも頑張っていたが、その割にオーケストラ(東京フィル)が粗かった。演出の深作健太は、分かりやすい演出ではあるのだが、頑張っているうちに終わってしまったような印象だ。

 全体的にだれが中心になってやっているのか、はっきりしない公演だった。
(2015.10.2.東京文化会館)
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