Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マスクの品切れ騒動

2020年02月28日 | 身辺雑記
 遅まきながら、わたしもマスクの品切れ騒動を経験した。昨日のことだが、マスクの手持ちがなくなったので、4~5件のドラッグストアをまわったが、どこも品切れで「入荷未定」とのこと。道行く人の多くはマスクをつけているので、皆さんは早手回しにマスクを確保したのだろうが、わたしはいつものとおり要領が悪かった。

 マスクの品切れ騒動を2月27日の東京新聞のコラム「筆洗」が書いている(※)。おもしろおかしく、実感を込めて。その中に「非常時に付け込んで、大量購入し、法外な値段で売っている人間もいるそうだが、(以下略)」というくだりがある。それを読んで、最近読んだ津村記久子の短編小説「小規模なパンデミック」が頭に浮かんだ。

 同作はまさにマスクの品切れ騒動の話。語り手が勤める会社でインフルエンザが流行する。最初は少しずつ広がっていくが、やがて全社的に流行し、ついに臨時休業に追い込まれる。その過程でマスク不足に陥る。ドラッグストアに行っても売り切れだ。社員の中には手作りのマスクをみんなに分ける人もいるが、中には「おれの友達でマスクを調達できる奴がいるから安く売ろうか?」とだれかれ構わず持ち掛ける人もいる。まさに「筆洗」が書いている状況だ。

 同作は短編小説集「職場の作法」に収められている4篇の中の一つ。「職場の作法」は文庫本の「とにかくうちに帰ります」に併録されている。今は文庫本で出ているが、初出は2012年2月の単行本だった。「職場の作法」の4篇はどれもおもしろいが、その中の「小規模なパンデミック」は今の状況を先取りしているので驚く。作家の想像力の凄さだろうか、それとも人間はいつも同じようなことをしている、ということだろうか。

 「小規模なパンデミック」に描かれているように、今のマスク不足も早晩収束するだろうが、問題は今だ。今の世の中では、マスクをつけないで咳をすると、殺気立った視線にさらされる。先日(2月22日)あるオーケストラの演奏会に行ったが、開演前に聴衆の一人が咳きこんだ。そのとき、わたしの席から少し離れた席の人が、キッとした目つきで咳のした方向を睨んだ。それが今の状況だ。

 その演奏会では聴衆の大半がマスクをしていた。わたしの席は2階だったので、それがよく見えた。なんだか病院で聴いているみたいだった。ブラックジョークのような光景だと思った。演奏者から見た客席を想像するとゾッとする。

 昨日は在京オーケストラの公演中止の発表が相次いだ。どこも苦渋の決断だったろう。そうかと思えば、来日を取りやめた外人指揮者もいる。東日本大震災の直後の状況と(事情は異なるが)似てきた。

(※)2月27日の東京新聞の「筆洗」https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2020022702000159.html
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METライブビューイング「アクナーテン」

2020年02月25日 | 音楽
 METライブビューイングでフィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」を観た。「アクナーテン」は念願のオペラだった。数年前にドイツのボンで上演されたときには、本気で観に行くことを考えたが、仕事の関係で行けなかった。それが今回こんなに優れた舞台で観ることができて大満足だった。

 アクナーテンとは古代エジプトの王の名前だ。わたしは知らなかったが、人類史上初めて一神教を唱えた人物で、その奉ずる神は太陽神だった。妻のネフェルティティはベルリンにある胸像で、息子のツタンカーメンは黄金のマスクで、それぞれよく知られている。本作はそのアクナーテンの生涯を描いたもの。フィリップ・グラスの伝記オペラ三部作の第3作にあたる(第1作はアインシュタインを描いた「浜辺のアインシュタイン」、第2作はガンジーを描いた「サティアグラハ」)。

 全3幕で上映時間140分ほどの大作だが、グラスの音楽はそれを少しも飽きさせない。単調な短い音型の繰り返しだが、それが聴衆を陶酔させる。音楽の波に身を任せているうちに、時間の感覚が変わる、あるいは時間を忘れる。それは(極端な言い方かもしれないが)ロッシーニの音楽の陶酔感と似ているような気がする。ロッシーニの音楽もグラスの音楽も、ともに壮麗な音楽だ。

 もっとも、短い音型の繰り返しなので、通常のオペラの「AとBが愛し合った」とか、「CがDを殺した」とか、そんなドラマは生まれにくい。むしろ一つの場面を執拗に描く方向に進みがちだ。そんなとき、演出家はそれをどう舞台化するかに工夫を要するのかもしれない。

 今回の演出家のフェリム・マクダーモットは大道芸のジャグリングで処理した。ジャグリングとはボールなどの物体をいくつか空中に投げたり、取ったりすることを繰り返して、つねに物体が空中で動いている状態を保つ芸。たとえば上掲↑のスチール写真は新都の建設の場面だが、このようなジャグリングが全編にわたって登場し、音の動きを視覚化した。

 アクナーテン役はカウンターテナーのアンソニー・ロス・コスタンゾ。中性的な魅力のある役作りだった。ネフェルティティ役はメゾソプラノのジャナイ・ブリッジス。その声域はアクナーテンよりも低かった。

 オーケストラ編成はヴァイオリンを欠く。ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」はヴァイオリンとヴィオラを欠くが、本作ではヴィオラは使われる。そのヴィオラがオーケストラに穏やかで落ち着いた広がりをもたらした。指揮は女性のカレン・カメンセックだった。
(2020.2.24.109シネマズ二子玉川)
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鷹野晃「夕暮れ東京」と「東京屋上散歩」

2020年02月23日 | 読書
 昨年の暮れに鷹野晃氏の写真展「ベートーヴェンへの旅」(※)を見に行った。ベートーヴェンゆかりの地のボンとウィーンのベートーヴェン記念館や街並みを写した写真が展示されていた。自然体といったらいいか、構えたところのない、旅行者が現地で目にする風景そのままの写真を楽しんだ。

 会場は銀座のソニーイメージングギャラリーだった。鷹野晃氏も会場にいて声をかけていただいた。一言二言言葉を交わしただけだが、それだけでも、鷹野氏の温厚で偉ぶらない人柄が伝わった。その人柄は作品から受ける印象と似ていた。

 それからずっと、鷹野氏の他の作品はどうなのか、気になっていたので、写真集「夕暮れ東京」(淡交社刊、2007年)を読んでみた。東京の夕暮れ風景を写したもので、オレンジ色の夕映えを見てたたずむ人々、買い物客でにぎわう夕方の商店街、だれもいなくなった公園、その他の郷愁を誘う作品が詰まっていた。それらの写真をじっと見ていると、甘酸っぱい感傷が湧いてきた。

 自分の記憶をさぐってみた。さまざまな想い出が浮かんだ。子どもの頃の想い出もあるが、むしろ仕事からの帰り道に駿河台から水道橋へ下る坂で見た夕焼けが浮かんだ。仕事がうまくいかない焦燥感や、デマや中傷を流されて口惜しい思いをしたことが蘇った。

 もう一冊読んでみようと思い、「東京屋上散歩」(淡交社刊、2012年)を読んだ。いろいろな屋上があるものだと思った。遊園地になっているものもあれば、緑豊かな公園になっているものもある。驚いたことには、水田になっているものもある。赤い鳥居を構えた社が据えられたものもある。

 わたしはまた自分の記憶をさぐった。子どもの頃に母親に(父親ではなかった。父親は仕事に行っていたのだろう)連れて行ってもらった蒲田や川崎の(銀座や渋谷ではなかった)デパートの屋上の遊園地が、まず目に浮かんだ。展望台に上ったら足がすくんだ。高校の屋上も目に浮かんだ。わたしは屋上に出られることを知らなかった。ある日それを知って、昼休みに行ってみたら、大勢の生徒がいた。

 鷹野晃氏の写真集の夕暮れと屋上と、その二つのテーマは、なにか共通点がありそうだった。それはなんだろう。一種の「異界」かもしれないと思った。夕暮れは昼と夜のどちらにも属さず、そこだけ瞬間的に出現した時間。また屋上は地上と空のどちらにも属さず、そこだけポッカリ広がった空間。鷹野晃氏の感性はそれらの「異界」を捉えて作品にした。わたしはその作品に誘われて自分の記憶をさぐった。

(※)「ベートーヴェンへの旅」https://www.youtube.com/watch?v=Fean-mjPp-Q
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B→C 山澤慧チェロ・リサイタル

2020年02月19日 | 音楽
 東京オペラシティの「B→C」シリーズは、やる気満々の若手演奏家が意欲的なプログラムを組むので、いつも注目しているが、今回の山澤慧が組んだプログラムは、その中でも破格なものだった。

 そのプログラムはバッハの無伴奏チェロ組曲(全6曲)に若手作曲家への委嘱作品6曲を組み合わせたもの。具体的には6人の作曲家に第1番から第6番までのどれかの組曲の第1曲「プレリュード」を割り振り、それを念頭に置いた作品を作曲してもらい、演奏会ではその新作を演奏してから「プレリュード」に入るという趣向。委嘱新作は「プレ・プレリュード」の性格を持つ。そういう発想は、たとえばベートーヴェンの交響曲(全9曲)の前に演奏する曲を9人の作曲家に委嘱し、それを演奏してから交響曲に入るという例があったので、新奇なものではないだろうが、今回のように若手演奏家が実行するのは、やはり瞠目すべきことだと思う。

 6人の作曲家を紹介すると(長くなるので曲名は省くが)、演奏順に第1番の「プレリュード」の前に久保哲朗の新作、以下同様に、第3番の前に向井航、第5番の前に高橋宏治、ここで休憩が入り後半は、第2番の前に茂木宏文、第4番の前に平川加恵、第6番の前に坂東祐大。わたしにはどこかで名前を見かけたことのある作曲家もいるが、初めて名前を目にする作曲家もいた。

 で、どうだったか。一言でいうなら、おもしろかった。6人の作曲家のバッハへのアプローチが、いくつかのパターンに大別できそうだった。第一のパターンは、異音の音楽といったらいいか、チェロの胴を弓でこする、弦に異物(木製の洗濯バサミ?)をはさんで音を変形する(プリペアード・チェロ?)、特殊な弓で弾く――そんな異音の音楽で聴衆を仰天させた後に、バッハの音楽に入るという手法。久保哲朗、向井航、茂木宏文の3氏がこのパターンに入る。

 第二のパターンは、バッハの組曲が各種の舞曲からなるので、それに着目して「踊り」をテーマとする手法。高橋宏治、平川加恵がこのパターンに入る。そして第三のパターンは――というよりも、わたしには謎の音楽だったのは、坂東祐大の曲。説明はできないが、その不思議な音楽が今でも耳に残っている。

 バッハのほうは(演奏会の枠内に収めるために、当然抜粋だったが)、この若手演奏家の素直な音楽性と、なんといっても自然な呼吸感に印象づけられた。楽器もよく鳴っていた。なぜか第6番のジグは弾きにくそうにしているようだったが、あとは不安がなかった。わたしはたっぷり楽しめた。
(2020.2.18.東京オペラシティ リサイタルホール)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2020年02月17日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響の注目すべきプログラム。1曲目はデンマークの作曲家ハンス・アブラハムセン(1952‐)の新作「ホルン協奏曲」。1月29、30、31日にベルリン・フィルの定期で初演された曲だ。ベルリン・フィルと同様にパーヴォ・ヤルヴィ指揮、シュテファン・ドールのホルン独奏。我が国でも新作がベルリン・フィルとリアルタイムで演奏される時代になった。

 アブラハムセンという作曲家は知らなかったので、事前にいくつかCDを聴いてみた。ある種の作風というか、この作曲家が好む音の世界がありそうだ。それをぼんやりつかんだうえで、わたしがN響を聴くのは二日目なので、一日目のFM放送を聴いた。そこまで用意周到に準備をするのは初めてだったが、ベルリン・フィルとリアルタイムという事象に敬意を表して臨んだ。

 実演で聴くと、FM放送で聴くよりも、無音の「間」が生きているように感じた。FM放送で聴くと無音の部分に戸惑い、集中力が途切れがちだったが、実演で聴くと、無音の「間」が音楽に空間性を与え、流れが切れなかった。

 安川智子氏のプログラム・ノートによれば、全体は3楽章からなるそうだが、各楽章には曲想の変化があるようで、全体を通して聴くと、3楽章構成というよりも、むしろ幻想曲風の曲に聴こえた。冒頭部分は郷愁を誘うような曲想だが、それに浸るのではなく、鋭角的な無機質の動きもあり、現代に生きる曲という根拠を保っていた。

 2曲目はブルックナーの交響曲第7番。第1楽章冒頭の第1主題が、遅めのテンポで、入念なアーティキュレーションをつけて提示された。それは旋律線を受け持つパートだけではなく、ハーモニーをつけるパート(ヴィオラやチェロ)の入りのところに軽いアクセントをつける徹底ぶりだった。そのペースは第1楽章を通して変わらず、楽章全体としては克明に音楽のラインを追う演奏になった。

 第2楽章も遅めのテンポで第1楽章のペースを維持したが、第2楽章で特筆すべき点はワーグナーチューバ(4本)とチューバ(1本)のアンサンブルだった。ワーグナーチューバは、普通はホルン・セクションの中に置かれることが多いが、今回はホルン・セクションとは分離して、チューバの前に配置された。その効果は抜群で、第2楽章ではワーグナーチューバがチューバと一体となって動くが、それが視覚的にも強調された。

 第3楽章と第4楽章は、オーケストラ全体がよく鳴ったが、とくにどうということはなかった。第3楽章のトリオで大きなクシャミが聞こえたのは花粉のせいか。
(2020.2.16.NHKホール)
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ブダペスト展

2020年02月14日 | 美術
 昨日は午後、用事があって外出したのだが、用事が終わって夜までの時間が空いてしまったので(夜には友人たちとの集まりがあった)、さて、どうやって時間をつぶそうかと思案し、国立新美術館の「ブダペスト」展に行ってみた。会場に着くと、幸いあまり混んでいなくて、落ち着いて見ることができた。

 第一印象は、作品数が多いということだった。全部で130点。普通の展覧会の倍くらいある。行けども、行けども、まだあるというのが実感だった。それらの作品が年代順・国別に並んでいる。ちょうどヨーロッパのどこかの美術館に行って、そこの作品を見るときに似た感じがした。本展の作品はブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーから来ている。日本とハンガリーの外交関係開設150周年を記念した展覧会だが、たしかにそういう機会でないと、これほどの規模は難しいだろう。

 印象に残った作品を語りだすときりがないが、クラーナハ(父)、ティツィアーノ、エル・グレコなどの巨匠たちの作品はさておき、ハンガリーの美術館から来ている作品群なので、どうしてもハンガリーの画家たちに関心が向く。

 チラシ(↑)に使われている作品は、シニェイ・メルシェ・パール(1845‐1920)の「紫のドレスの婦人」(1874年)。画家の名前も作品も初めて目にするが、本展のメインイメージに使われているように、だれにでも好感を持たれる作品だろう。実際に見ると、ドレスの紫色と同じくらいに、草原のタンポポの黄色が印象的だ。「ハンガリーのモナリザ」といわれるそうだが、それも頷ける。

 パールの作品は他にも来ているが、アッと驚いたのは「ヒバリ」(1882年)だ。草原に裸婦が横たわっている。空には白い雲が浮かんでいる。そこに一羽のヒバリが舞っている。裸婦はそのヒバリを見上げている。でも、なぜ裸で? シュールな現代美術のようにも見える作品で、パールという画家は一筋縄ではいかないと思った。

 個人的にはフェレンツィ・カーロイ(1862‐1917)という画家の「小川Ⅱ」(1907年)が気に入った。草原の木立の生い茂る一角に小川が流れている。澄んだ水と河原の小石に明るい陽光が降り注ぐ。手前の草の上には白い帽子と白い上着が脱ぎ捨てられている。たぶん画家のものだろう。画家はそれらの帽子と上着を脱いで、この風景を描いている。陽光の強さがフェリックス・ヴァロットン(1865‐1925)を想わせる。

 カーロイの作品もいくつか来ている。その中の「オルフェウス」(1894年)は憂鬱な雰囲気の象徴主義的な作品だ。カーロイも一面的には捉えられない画家のようだ。
(2020.2.13.国立新美術館)
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プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」

2020年02月11日 | 読書
 イタリアの化学者・作家のプリーモ・レーヴィ(1919‐1987)の「溺れるものと救われるもの」を再読した。初めて読んだのは12年前だ。そのときはアウシュヴィッツ強制収容所の生き残りである作者の、その綿密な思考とアウシュヴィッツの実態に圧倒された。わたしは衝撃からさめないまま、当時手に入るレーヴィの著作をすべて読んだ。それ以来レーヴィはわたしのもっとも大事な作家の一人になった。

 レーヴィの生涯をざっと振り返ると、レーヴィは1919年7月にイタリアのトリノで生まれた。ユダヤ人の家系だった。トリノ大学では化学を専攻した。1943年9月にドイツ軍がイタリアを占領したため、レーヴィは同年10月にレジスタンス活動に加わった。同年12月に捕らえられ、翌年2月にアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。

 1945年1月にアウシュヴィッツ強制収容所がソ連によって解放され、レーヴィは同年10月にイタリアに帰国した。帰国後は化学者として働きながら、アウシュヴィッツ強制収容所での体験を書き始め、1947年10月に「これが人間か」(日本語版の副題は「アウシュヴィッツは終わらない」)を出版した。その後は化学者の仕事をしながら執筆活動を続け、1986年4月に最後の著書「溺れるものと救われるもの」を出版した。翌年4月に自宅のあるアパートの4階から飛び降りて亡くなった。

 「溺れるものと救われるもの」は、戦後ずっとアウシュヴィッツ強制収容所での体験を考え続けた著者の、その思考のエッセンスといったらいいか、煮詰められ、蒸留された結晶のようなものだ。前述のように、わたしは12年ぶりに読み返したが、言葉の一つひとつが新鮮だった。実感的にいえば、初めて読んだときのように感動した。

 では、何に感動したのか。強制収容所という極限状態であらわれる人間の本質、あさましく、エゴイズムの塊である人間の本質(それに感動したというのも変な話だが、むき出しの裸形を見たという意味でその言葉を使いたい)、そしてもう一つは、そういった人間の本質を観察し、「単純化」(本書の第2章「灰色の領域」での言葉)せずに、その複雑さを複雑さのまま受け止め、「だれも彼らを裁く権利はない」(同)とする著者の姿勢に、だ。その姿勢をわたしは生涯をかけて学びたいと思う。

 本書の白眉は第2章「灰色の領域」にあると思うが、第3章「恥辱」と第5章「無益な暴力」でも驚くべき思考が展開される。そこでの「恥辱」とか「無益な暴力」とかの言葉で考察される意味内容の深さと微妙さはわたしを震撼させる。

 また、本書は全8章からなるが、前回はあまり印象に残らなかった第6章「アウシュヴィッツの知識人」以下の各章も、今回はレーヴィの自死との関連で興味深かった。
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「ハマスホイとデンマーク絵画」展

2020年02月07日 | 美術
 最近は人混みが苦手になったので、メジャーな展覧会からは遠ざかっているが、ハマスホイ(1864‐1933)はわたしの好きな画家の一人なので、これはのがすわけにはいかないと、「ハマスホイとデンマーク絵画」展に行った。平日の午前中で、しかも冷たい雨の降る日だったが、それなりの人出があった。

 本展の特徴はハマスホイを19世紀のデンマーク絵画の流れの中で捉えた点だ。それをごく大雑把にいうと、19世紀の前半にデンマーク絵画は「黄金期」を迎え、多くの画家が輩出した。後半に入ると、画家の中には首都コペンハーゲンを離れて、ユトランド半島の北端の寒村スケーインに集う人々が現れた(「スケーイン派」と呼ばれる)。そして世紀末になるとハマスホイの世代が台頭する。音楽でいえば、デンマークの民族性と近代性とを併せもつニールセン(1865‐1931)の世代だ。

 本展ではデンマーク絵画の特徴として「デンマーク人が大切にしている価値観「ヒュゲ」(hygge:くつろいだ心地よい雰囲気)」をあげている。たしかにそうかもしれないと、本展を見て思うが、ハマスホイには「ヒュゲ」に収まらない要素がある。それがハマスホイを同世代の画家から峻別する。

 「ヒュゲ」に収まらない要素とは何か。上掲のチラシ(↑)に使われている作品はハマスホイの「背を向けた若い女性のいる室内」(1903‐04年)(部分)で、キャプションでは「彼の代表作の一つに数えられる」とされている。灰色がかった寒色系のトーン、室内風景、後姿の女性、静謐さなど、ハマスホイの特徴がよく表れた作品だ。

 だが、本作に「ヒュゲ」(くつろいだ心地よい雰囲気)を感じるだろうか。そこに描かれているのは妻のイーダだが、妻と画家との関係には、距離感とか、他者性とかを感じないだろうか。たしかに本作は美しいが、そこには日常的な親密さとは微妙に異なる雰囲気が漂っている。そんな脱・日常性がハマスホイの世界ではないだろうか。

 驚いたことには、本作に描かれたロイヤルコペンハーゲンのパンチボールと錫製のトレイが本展に来ている。パンチボールは直径30㎝ほどだ。それにしては本作では大きく浮き出して見える。画面左上の額縁も、壁の白い縁飾りと相似形をなすためだろうが、奇妙に大きく見える。

 結果的に本作は、壁と額縁とパンチボールを描いた画面に女性の後姿を重ねたコラージュ作品のように見える。2枚の遠近感の異なるシートの重なり合いのような要素が、わたしを落ち着かなくさせる。
(2020.1.28.東京都美術館)
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ロト/都響

2020年02月03日 | 音楽
 フランソワ=グザヴィエ・ロト(1971‐)が都響の指揮台に戻ってきた。フランス・バロックのラモーとルベル、そしてフランス近代のラヴェルという優雅なプログラムを携えて。ロトのプログラムはいつも狙いがはっきりしているが、今回もその好例だ。

 1曲目はラモーの「優雅なインドの国々」組曲。全5曲で構成されたその個々の曲については記述を省くが、第1曲は序幕の「へーベーとその一行の登場」、第4曲に「未開人たちの踊り」が来て第5曲はフィナーレの「シャコンヌ」だった。

 モダン・オーケストラでラモーをやるとどうなるか、という不安は事前にはあったが、いざ始まると何の問題もなく音楽に入って行けた。弦は10型で(コントラバスは+1)、チェンバロとテオルボ(ギター持ち替え)の通奏低音が入る。ファゴット4本が目を引いた。その編成で演奏されるラモーは照度が高く、明快なラインを描いてホールを満たした。各種の打楽器の賑やかなアクセントが気分を盛り上げた。

 思えば、オーケストラの演奏会にバロック音楽が登場しなくなってから久しい。それはピリオド楽器の隆盛と軌を一にしているだろうが、ともかくそういう時代が続いているので、かえってバロック音楽が新鮮に感じられるようだ。しかもフランス・バロックなら(演奏機会が比較的少ないので)その新鮮さは倍加する。

 だが、これは余談だが、昨年、一昨年と某日本人指揮者が(あえて名前は出さないが)ヨハン・セバスチャン・バッハやヨハン・クリスチャン・バッハを演奏するのを聴いたが、その演奏はカラヤン時代に逆戻りしたようなアナクロニズムを感じさせた。だから(と言いたいのだが)だれがやってもいいというわけではないだろう。明確な目的意識をもった指揮者(できればロト・クラスの!)と準備の整ったオーケストラの双方が揃ったときでないと成功しないだろう。

 2曲目はルベルの「四大元素」。冒頭の強烈な不協和音が印象的な曲だが、あとはフランス・バロックのバレー曲が続く。弦は12型(コントラバスは+1)。第7曲で早いパッセージを演奏するパートが順次立ち上がって演奏する演出が楽しかった(しかもファゴット4人は同時ではなく、1拍?ごとに立ち上がる芸の細かさ)。

 3曲目はラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲。都響のフランス音楽を聴くのは、というよりもフランス音楽らしい演奏を聴くのは、久しぶりだと思った。フルネの時代とはメンバーも相当変わっているだろうが、それでも伝統は生きているのか、ともかく都響のフランス音楽への適性を楽しんだ。
(2020.2.1.サントリーホール)
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パヤーレ/N響

2020年02月02日 | 音楽
 ラファエル・パヤーレRafael Payare(1980‐)という指揮者がN響定期へ初登場した。パヤーレはベネズエラの「エル・システマ」出身。わたしは初めて聴くが、N響とはすでにN響「夏」や地方公演で共演歴がある。N響としてはいわばテスト済みだろう。プログラムはオール・ショスタコーヴィチ・プロ。後述するが、その選曲は一捻りしたもので、こういう選曲をする指揮者はどんな人だろうと興味を抱かせた。

 1曲目は「バレエ組曲第1番」(アトヴミャーン編)。全6曲からなるが、どれも「明るい小川」からとられたもの。「明るい小川」は例のプラウダ批判でやり玉に挙げられたバレエだ。だが、少なくとも音楽だけ聴いていると、この音楽のどこが当局の逆鱗に触れたのか、さっぱりわからない。音楽以外の要因が働いたわけだが、そんな当局の措置に対する抵抗がこの組曲を生んだのだろう。

 演奏は、いかにもバレエ、といった軽いリズムと躍動感をもったものだった。パヤーレという指揮者はバレエにも適性をもっているのかもしれないと思った。

 2曲目はチェロ協奏曲第2番。最後に打楽器アンサンブルのチャカチャカというリズムが出てくる曲だ。プラウダ批判に遭って初演を取りやめた交響曲第4番に出てくるリズム。それがこのチェロ協奏曲第2番で復活し、さらに交響曲第15番でもう一度出てくる。いわば「印」を押された3作品の一つだ。

 チェロ独奏はアリサ・ワイラースタイン。人気と実力を兼ね備えた演奏家だが、パヤーレとは夫婦でもあるそうだ。それはともかくとして、以前にN響とエルガーのチェロ協奏曲を演奏したときにも感じたが、滑らかで丸く(角のとれた)よく歌う演奏をする人だ。その印象は今回も変わらず、むしろ前回の印象を確認する思いがした。

 アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第4番から第4曲「サラバンド」が弾かれた。ショスタコーヴィチの余韻が演奏者にあったのか、それともそれを聴くわたしの方にあったのか、ともかくその「サラバンド」は苦悩を秘めた曲のように聴こえた。

 3曲目は交響曲第5番。プラウダ批判からの名誉回復を図って書かれた曲だ。演奏はシャープで、バランスがよく、どんな場合でも音が混濁しない、その意味では見事なもので、指揮者の確かな技術とオーケストラの優秀さとを実感させた。だが、ソ連という文脈は感じられなかった。たとえばラザレフが(日本フィルで)この曲を振ると、そこにはソ連という社会とショスタコーヴィチの生涯が色濃く反映されるが、パヤーレが振ると、そのような文脈からは切り離された音楽に聴こえた。
(2020.2.1.NHKホール)
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