Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

沈黙

2015年06月29日 | 音楽
 松村禎三のオペラ「沈黙」。2012年初演のプロダクションの再演だ。ただし、今度は大劇場。2012年のときは中劇場だった。セットはそのまま移行した。舞台のサイズが違うので、さて、どうかと思ったが、不自然さは感じなかった。

 音が見違えるようによくなった。この劇場はこんなに音がよかったっけ‥というのが正直なところだ。キチジロー(ポルトガルの宣教師ロドリゴを官憲に売った男。イエスの受難の物語のユダに匹敵する)のモチーフ「タタタター」が克明に辿られている。目からうろこの鮮明さだ。

 また、海鳴りのようなコントラバスの低音。これにも驚いた。こんなに深い音がしていたとは今まで気付かなかった。もう一つ付け加えると、オハルが許嫁のモキチの名前を呼びながら、錯乱のうちに息絶えるそのときの、合唱によるキリシタンの歌、その歌が止んで、次の動きが始まろうというとき、金管がその歌をエコーのように吹き鳴らした。今までこの金管には気が付かなかった。

 下野竜也指揮東京フィルの演奏には、透徹した美しさがあった。けっして大袈裟ではなく、スコアを完璧に掌握していた。焦らず、気負わず、落着いてスコアを鳴らしていた。このオペラの(演奏面では)完成形がついに現れたと思った。感無量だ。

 ロドリゴ役の小原啓楼は2012年以来2度目だ。あのときは役への没入に圧倒された。苦悩の大きさに息を呑んだ。今回は役との間に一線を画す冷静さがあった。それは下野竜也も同じだった。表現を磨き上げる長い道のりに入ったのかもしれない。

 第1幕の最後の場でロドリゴは一人アリアを歌う。歌謡性の際立った曲だ。終始緊張を孕んだこのオペラで、この曲だけが異質だ。でも、なぜか浮いていない。なぜだろう。ロドリゴはこのとき一人だ。なので、真情を吐露できたのではないだろうか。緊張感の弛緩が(このときだけは)許された。(自分に対する)甘えが許されたのだ。

 ロドリゴ、キチジローそしてフェレイラ(ロドリゴの前任者。今は転んで沢野忠庵と名乗っている)の3人のうちで、だれがもっとも興味深いだろう。私見ではキチジローだ。一番弱くて、裏切り者のキチジロー。でも、だれでも(多かれ少なかれ)キチジローの要素を持っている。

 ユダは銀貨30枚でイエスを売った。だがキチジローは、苦しんで、苦しんで、苦しみぬいている。その違いは、彼我の感性の違いだろうか。
(2015.6.28.新国立劇場)
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キリル・ペトレンコ雑感

2015年06月26日 | 音楽
 次期シェフにキリル・ペトレンコを選んだベルリン・フィル、意外に味のある選択だったかもしれない。スター指揮者(ドゥダメルとか‥)ではなく、渋いイメージの指揮者だが、実力がある――そういう指揮者と落ち着いて仕事をしたいということなら、これはずいぶん健全な話だ。

 キリル・ペトレンコは一度だけ聴いたことがある。ベルリン・コーミッシェ・オーパーの音楽監督時代に、大晦日だったか、元旦だったかのガラ・コンサートを聴いた。曲目が渋い曲ばかりで驚いた。名前さえ知らない曲が何曲もあった。でも、会場は満席。大いに盛り上がった。演奏は、よく覚えていない。情けないことに。

 ともかく、ベルリンっ子には馴染みの指揮者の一人だ。ベルリン・フィルの選択は、海のかなたのわたしたちには意外であっても、ベルリンっ子にはそうではないかもしれない。ベルリンに戻ってくる――そんな感覚かもしれない。

 でも、そんなことをいうなら、ティーレマンだってそうだ。ベルリン・ドイッチュ・オーパーの音楽監督だったので、馴染みといえばペトレンコと同じだ。ならば、やっぱり、ペトレンコはベルリンっ子にも意外だったのだろうか。

 ペトレンコはバイロイトのリング・チクルスで評判になった。演出はつまらないが、演奏、とくにオーケストラは凄い、という声が一般的だ。だが、今年限りで、来年は降りてしまった。なにがあったのか。芸術的な理由なんかではない気がするが。

 ペトレンコは現在バイエルン国立歌劇場の音楽監督だ。林田直樹氏の6月21日付メルマガには、「ある人から聞いた話」として、「バイエルン国立歌劇場での彼の指揮するオペラは、「始まったとたんにウワッと驚いて思わず腰が浮くほど」凄いものらしい。」という話が紹介されている。ここまで言われると、本当だろうか‥という気もするが。

 誤解のないように言い添えると、林田氏の論旨は、新たなスター誕生を喧伝するものではなく、レコード業界の地盤低下を論じるものなので、念のため。

 日本に住むわたしたちには、ベルリン・フィルのシェフにだれがなろうが、あまり関係がなく、むしろ日本の(いつも聴いている)オーケストラのシェフにだれがなるかが重要問題だ――とは思うが、そうはいっても‥、というのが正直なところだ。

 実はわたしは、某氏がN響とベルリン・フィルのシェフを兼ねる時代の到来を夢見ていたが、そんな時代はもう少し先のようだ。
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MUSIC TOMORROW 2015

2015年06月24日 | 音楽
 今年のMUSIC TOMORROWは藤倉大が2曲とジョン・アダムズが1曲。今注目の藤倉大の作品やいかに――と興味を惹かれる演奏会だ。オーケストラはN響。指揮はフランスの指揮者、パスカル・ロフェ。ロフェは以前にもMUSIC TOMORROWに出演している。現在はフランス国立ロワーヌ管弦楽団の音楽監督を務めている。

 1曲目はジョン・アダムズのサクソフォン協奏曲(2013)。ジョン・アダムズの今を窺い知ることができるのではないかと期待した。サクソフォン独奏は須川展也。約29分間の演奏時間の間、ほとんど休みなく吹き続ける。名手、須川なので、気持ちよく吹けたことだろう。

 でも、わたしはこの曲の面白さがよく分からなかった。白石美雪氏のプログラムノーツによれば、「あちこちでチャーリー・パーカーのメロディやスタン・ゲッツ、エリック・ドルフィーらの演奏スタイルが姿をみせる」そうだが、ジャズの素養がないので、そういわれてもピンとこなかった。

 たしかに「これぞアメリカ」という「音調」(同氏のプログラムノーツより)に満ちているのだが、だからどうなの、という思いも残った。

 ジョン・アダムズは、オペラ「中国のニクソン」や9.11同時多発テロの犠牲者を悼む「魂の転生」など、代表作はもちろん、初期の頃からそれなりに聴いてきたつもりだが、こんな経験は初めてだ。

 2曲目は藤倉大の「インフィニット・ストリングス」(2014)。N響、ニューヨーク・フィルなどの委嘱作。弦楽合奏で演奏される。激しい勢いのトレモロから始まって、約15分の演奏時間の間、弦が唸りをあげながら動き回る。途中、ヴィオラにメロディのようなものが現れ、チェロに受け継がれ、合奏全体に広がった――ように聴こえたが。

 曲にも、演奏にも、1曲目よりも遥かに‘やる気’が感じられた。約15分という演奏時間があっという間に過ぎた。

 3曲目は「Rare Gravity」(2013)。スイス・ロマンド管の委嘱作で、指揮者の山田和樹に献呈されている。約16分のフル編成(基本的に3管編成)の管弦楽曲。色彩の移ろいが感じられる。最後は意外にも激しさを加え、熱狂のうちに終わる。2曲目も同様だが、やりたいことをやってのける‘骨っぽさ’を感じさせる曲。パスカル・ロフェ指揮のN響の演奏も‘全身没入’の気迫みなぎるものだった。
(2015.6.23.東京オペラシティ)
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ユトリロとヴァラドン展

2015年06月19日 | 美術
 シュザンヌ・ヴァラドン(1865‐1938)はモーリス・ユトリロ(1883‐1955)の母親だ。18歳でユトリロを生んだ。父親がだれかは分かっていない。シャヴァンヌ(1824‐1898)とかルノワール(1841‐1919)とかの名前が取りざたされている。

 ヴァラドンは、画家のモデルを務めるうちに、見よう見まねで絵を描くようになった。前記のシャヴァンヌ、ルノワールの他に、ロートレック(ロートレックとは同棲もしていた)、ドガなどの画家たちの仕事ぶりを(モデルをしながら)見ていた。まったくの独学だ。

 本展はヴァラドンとユトリロの作品を集めたもの。ユトリロの作品は見る機会も多いが、ヴァラドンは稀だ。楽しみにしていた。

 ヴァラドンが圧倒的に面白かった。作品のほとんどは肖像画だ。とくに惹かれたのは息子ユトリロを描いた「モーリス・ユトリロの肖像」(1921)だ。ユトリロ38歳の年。上着を着てネクタイを締め、髪は黒々とし、八の字ひげを生やしている。そんな伊達男がパレットと絵筆を持って、こちらを見ている。‘息子’というよりも‘男’を描いた作品だ。

 本展を見るかぎりでは、男性を描いた作品より、女性を描いた作品のほうが多い。どれも面白かった。3点だけ挙げると、老母を描いた「画家の母」(1912)。息子ユトリロの3歳年下の友人で、ヴァラドンが夫を捨てて同棲し、1914年に結婚したユッテル(1886‐1948)の家族を描いた「ユッテルの家族の肖像」(1921)。ユトリロが1935年に結婚した女性「リュシー・ユトリロ・ヴァロールの肖像」(1937)。

 どれもヴァラドンとユトリロの型破りな人生が投影されていて、興味深い。

 ヴァラドンに比べると、ユトリロは影が薄い――と思ってしまった。絵を始めた頃から「白の時代」までは(1920年頃までは)いいが、その後は緊張感が薄れ、最後は気の抜けた絵になってしまった。そんなことを言うと、ユトリロ好きには申し訳ないが。

 余談だが、ヴァラドンは1893年に(半年ほどだが)作曲家サティ(1866‐1925)と恋愛関係にあった。その頃の作品もあった。なるほど、才能のありそうな絵だ。サティもすでに「3つのジムノペディ」や「3つのグノシエンヌ」を書いていた。貧乏作曲家サティがヴァラドンを射止めることなど、できるわけもなかったが。
(2015.6.18.損保ジャパン美術館)

本展の紹介記事
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東海道四谷怪談

2015年06月17日 | 演劇
 新国立劇場の「東海道四谷怪談」。歌舞伎としての公演ではなく、演劇としての公演だ。演出は森新太郎。過去2回の公演(2011年のベケットの「ゴドーを待ちながら」と2013年のマーロウの「エドワード二世」)が、ともにパワーあふれる公演だったので、今回も期待が高まった。

 結論からいうと、歌舞伎の骨格を残しながら、現代的な感覚で再構築した公演だ。言い替えるなら、歌舞伎の娯楽性を活かしながら、シャープな感覚を投入した公演。

 民谷伊右衛門とお岩とのドラマがクリアーに浮き上がった。とくに伊右衛門のキャラクターが現代的だ。何事につけ――明るく――その場その場を取り繕うキャラクター。欲望の赴くままだ。今の社会のどこにでもいそうなキャラクター。はた迷惑だが、意外に一部の人には人気があったりする。

 一方、今回のお岩は、耐え忍ぶキャラクター。幽霊になってからは、復讐を遂げるが、そのときも、「うらめしや~」というドロドロした湿っぽいキャラクターではなく、繊細さを残していた。

 キャストは、お岩が秋山菜津子、伊右衛門が内野聖陽(うちの・せいよう)。ともに好演だ。この2人でなければ、上記のキャラクターは、これほど鮮明にならなかったか、あるいは少し変質したのではないか。

 今回、お岩以外のすべての女性役は、男性が演じていた。「エドワード二世」もすべて男性だった。唯一の女性役である王妃イザベラを演じていた中村中(なかむら・あたる)も男性だ――もっとも、わたしは上演中はずっと女性だと思っていたが――。男たちのぶつかり合いから生まれるパワーが、両者に共通している。

 一番ショックだったのは音楽だ。パーカッションのビートが効いた無機的な音楽(とくに前半はそうだった)はいいのだが、前半と後半の転回点に当たるお岩の化粧の場面で、突如ある有名なピアノ曲が流れた。ものすごい違和感があった(その曲名は、これからご覧になる方のために、伏せることにするが、ご覧になる予定のない方のためには、下記のコメント欄に書いておくので、お手数をかけて申し訳ないが、興味のある方はご参照ください)。

 ところが、最終場面で、その曲が再現したとき、わたしは納得した。無数の追っ手を、切って、切って、切りまくる伊右衛門の際限のないシーン。そのとき流れるこの曲が、美しい舞台美術ともども、伊右衛門の人生の虚しさを感じさせた。
(2015.6.16.新国立劇場中劇場)
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ポーガ/N響

2015年06月14日 | 音楽
 ラトビア生まれの若い指揮者アンドリス・ポーガ(1980年生まれ)が振ったN響Cプログラムは、思ったよりも味のあるプログラムだった。聴いているうちに、やっとそれが分かった。

 1曲目はモーツァルトの交響曲第1番。モーツァルトが8歳のときの作品だ。記念すべき第1番。昨年7月には東京シティ・フィルが演奏した。ポーガの指揮するN響はフワッと柔らかい音で大らかな演奏。弦は10-8-6-5-3の編成。オーボエとホルンが各2本。

 2曲目のモーツァルトのホルン協奏曲第1番は、じつは1791年、モーツァルトが亡くなる年の作品だった! 衝撃の事実だ。1980年代に入って自筆スコアが発見され、用紙や筆跡の研究の結果、1791年と推定されたそうだ。

 死の年のモーツァルトといえば、ピアノ協奏曲第27番、クラリネット協奏曲、「魔笛」そして未完のレクイエムと、‘白鳥の歌’のような作品が並んでいる。わたしは学生の頃から特別な想いを抱いていた。ところが、近年になって、ピアノ協奏曲第27番は3年ほど前にすでに書き始められていたことが判明。わたしの‘神話’にヒビが入った。そして今度はホルン協奏曲第1番が死の年の作品に仲間入りした。

 白鳥の歌のイメージからは遠いが、でも、やっぱりいい曲だ。そう思ったのは、ホルン独奏のバボラークのお陰でもあるかもしれない。

 オーケストラの方は、弦が10-8-6-5-3の編成。1曲目の交響曲第1番と同じだ。でも、音楽はまったく違う。音色に色彩感がある。陰影の移ろいが感じられる。興味津々、聴き入った。モーツァルトの成長というと、大天才にたいして失礼だが、ともかく見違えるような変貌ぶりだ。念のために付言すると、管はオーボエとファゴットが各2本。交響曲第1番と似たような編成だ。

 3曲目はリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番。シュトラウスがまだ10代の作品だ。モーツァルトに比べると、ホルンの音色が華やかだ。時代が変わった。

 4曲目はラフマニノフの交響的舞曲。ラフマニノフ最後の作品だ。第1楽章の末尾に交響曲第1番が引用されている。その箇所を聴きながら、「そうか、このプログラムは、作曲者の起点と終点を交互に織り込んだプログラムなのか」と気が付いた。面白い。演奏がプログラムほど面白かったらもっとよかったが――。よくいえば大らか。でも、緩褌(ゆるふん)だった
(2015.6.13.NHKホール)
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ラザレフ/日本フィル

2015年06月13日 | 音楽
 ラザレフの日本フィル首席指揮者としての任期も残すところあと1年。退任後は桂冠指揮者兼芸術顧問として年2回は来日するそうだから、日本フィルとのつながりが切れることはないが、今のように日本フィルを鍛えることができるかどうか。むしろその役割はインキネンに引き継がれるのだろうか。

 ともかくラザレフは日本フィルの救世主だった。アンサンブルが崩れ、客足が遠のいた日本フィルを救った。昨日の定期はショスタコーヴィチがメイン・プロだった。集客の難しいショスタコーヴィチにもかかわらず、客席はよく埋まっていた。ラザレフにたいする評価の高まりの表れだろう。

 わたしは読響の定期会員でもあるので、ラザレフはよく聴いていた。グラズノフの交響曲第5番などは名演だった。そのラザレフが日本フィルの‘顔’になるとは夢にも思わなかった。ラザレフは指揮者としての力量だけではなく、聴衆とのコミュニケーション能力にも長けている。現に昨日の定期の後で行われたラザレフのアフタートークでは、暖かい空気が流れ、ラザレフが聴衆から愛されていることが伝わってきた。

 さて昨日の定期だが、1曲目はブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は堀米ゆず子。使用楽器はグァルネリだそうだ。本当によく鳴る。オーケストラを向こうに回して鳴り渡っている。演奏もすでに巨匠の域だ。曲の隅々まで歌いこみ雄弁なことこの上ない。オーケストラもぴったり付いている。ラザレフはバックがうまい。

 アンコールが演奏された。なんだろう。バッハではないような気がしたが、バッハだった。無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番からラルゴ。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第8番。大音量の咆哮から薄いひびきの弱音まで、ダイナミックレンジの広さは驚異的だが、大事な点はそれらが完璧にコントロールされていることだ。その統率力に感嘆する。

 しかもダイナミックレンジの広さは、スコアが要求しているものであって、けっして演出上の効果を狙ったものではない――と、そう信じられることが、ラザレフのいいところだ。過剰も過少もない。スコアをあるべき姿で鳴らした演奏。でも、スコアから読み取る音楽が桁外れなのだ。

 最後の音が消えてからも、ラザレフは指揮を止めなかった。いつまでも小刻みに手を震わせていた。無音さえも指揮していた。空前絶後の瞬間だった。
(2015.6.12.サントリーホール)
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ドゥネーヴ/N響

2015年06月08日 | 音楽
 ステファヌ・ドゥネーヴがN響に初登場した。プログラムはフランス近代物。演奏機会が稀なルーセルの交響曲第3番が入っていることが興味を引いた。

 1曲目はラヴェルの「道化師の朝の歌」。冒頭の弦のリズムが、聴こえるか聴こえないかの弱音で始まった。徹底的な音のコントロール。働き盛りの指揮者の仕事だ。長老指揮者だとこうはいかない。オーケストラに快い緊張感が漂っていた。

 ドゥネーヴは1971年フランス生まれ。現在はシュトゥットガルト放送響の首席指揮者とフィラデルフィア管の首席客演指揮者を務めている。2008年12月に都響へ客演した。ベルリオーズの「幻想交響曲」が演奏されたことは覚えているが、今回ほどの鮮烈な印象は受けなかった。

 2曲目はラロの「スペイン交響曲」。ヴァイオリン独奏はルノー・カプソン。さすがに名手だ。第5楽章(最終楽章)のフィナーレなど、流麗かつスリリングな演奏だった。

 わたしがまだ中学生の頃(今から40年も前だ)、初めてこの曲のレコード(中古レコード)を買ったときは、第3楽章が省かれた4楽章構成だった。そういう曲だと思っていた。あるとき、本当は5楽章構成だということを知った。第3楽章を初めて聴いたときには、(生意気にも)平凡だと思った。

 最近は5楽章構成で演奏されることが多いのではないだろうか。今回もそうだった。面白かったことには、5楽章構成が自然に体に入ってきた。第3楽章がブリッジのように前半と後半をつなぐ。まるでマーラーのようだと思った。後でプログラムノートを見ると、作曲年代は1874年。当時としてはずいぶん斬新だったのではないか――と思うのは、今日の目から見ているからだろうか。

 3曲目はルーセルの交響曲第3番。基本は3管編成で弦は16型(もっとも、コントラバスが8本ではなく7本だったのは、音色への配慮からだろう)。極彩色の躍動的な音楽。全篇にわたって舞台音楽の要素が感じられた。フランス近代の生んだユニークな交響曲だと実感した。

 4曲目はラヴェルの「ボレロ」。最後に向かって高まる熱狂が凄まじかった。その熱狂を司るドゥネーヴは、バッカスの祭りの神官のようだった。

 首席トランペット奏者の関山氏が定年を迎え、この演奏会が最後だった。花束を贈られ、聴衆に別れを告げる関山氏の手を引いて、ドゥネーヴが指揮台まで連れてきた。
(2015.6.7.NHKホール)
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ラザレフ/日本フィル

2015年06月07日 | 音楽
 ラザレフが指揮した日本フィルの横浜定期。ラザレフはやっぱり凄い――と、その実力を思い知らされる演奏会になった。

 1曲目はショスタコーヴィチの組曲「馬あぶ」。そんな曲があるのか、というのが正直なところだ。山野雄大氏のプログラム・ノートによると、1955年に公開された同名の映画のためにショスタコーヴィチが書いた音楽から、ショスタコーヴィチの友人のアトヴミャーンが演奏会用組曲に編纂したそうだ。

 全12曲からなる演奏時間約43分の大曲だ。大河ドラマのテーマ音楽のような雄大な曲から始まり、ロマンティックな曲あり、軽快な曲あり、また素朴な曲ありという具合。どの曲も大衆的だ。大衆の好みを裏切らない音楽。大いに楽しませてもらった。

 ショスタコーヴィチはこういう音楽を書けたのだな――と。けれども、その一方で、苦痛に満ちた、アイロニカルな音楽も書いた。大衆を喜ばせる音楽を書いていれば、快適な人生を送れたかもしれない。でも、そこに安住はできなかった。それが人の営みの尊さというものだろうかと思った。

 演奏はスケールの大きさと繊細な神経とを併せ持った名演。この曲にこのような名演で出会ったことを嬉しく思った。

 2曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノは伊藤恵。なんとなくロマンティックに演奏するのではなく、ピアノが忙しく動き回り、オーケストラはそれにピタッと付けていく。なるほど、これはピアニストの大変なヴィルトオジティを要求する曲なのだなと思った。

 3曲目はストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」。1945年版というところが味噌だ。いうまでもないが、ストラヴィンスキーがすっかり新古典主義の作風をきわめた時期。ラザレフもそのことを十分に意識しているのだろう。音の向こうが透けて見えるような薄い響きを作っていた。

 山野雄大氏がプレトークで話していたが、フィナーレの「最後の聖歌」では、一音一音を引き伸ばすのではなく、ガツッ、ガツッと短く切っていた。譜面の指定だそうだ。これがストラヴィンスキーのイメージだったと――。なるほど、イワンと王女の結婚を祝う鐘の音のように聴こえなくもなかった。ラザレフの演奏はそこを強調していた。

 なお、ソロ・チェロに辻本玲氏が就任した。この日が初登場。太い音を持った有望な若手のようだ。今後が楽しみ。
(2015.6.6.横浜みなとみらいホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2015年06月06日 | 音楽
 高関健が常任指揮者に就任してから2度目の定期。前回4月のスメタナの「わが祖国」が名演だったので、今回も期待が高まった。

 高関健のプレトークがあった。プレトークのやり方はさまざまだが、今回は開演直前の18:55にステージに登場して、短いトークを行うやり方。

 話題は2点に絞られていた。第1点は、プログラムの1曲目、オネゲルの交響曲第2番の第3楽章(最終楽章)のコラールについて。このコラールの出典は?というテーマ。この交響曲は弦楽合奏で演奏されるが、第3楽章の最後に出てくるコラールは、第1ヴァイオリンにトランペットを(任意に)重ねることができる。なにか意味がありそうなコラールだ。でも、出典は分かっていないという。

 高関健の調べたところによると、そのものずばりの作品はなかったが、バッハのコラールに冒頭と末尾の和声進行がそっくりな作品があったとのこと。その題名も言ってくれたが、残念ながら聞きとれなかった。パリがナチス・ドイツに占領された時期に書かれたこの曲。なにかのメッセージが込められているのかもしれない。

 第2点は、当日のメイン・プログラム、ベートーヴェンの交響曲第5番のある箇所について。ベートーヴェン自身が振った初演譜とライプツィッヒで出版された出版譜とのあいだに微細な違いがある可能性があり、出版譜のミスかもしれないとのこと。当日は「初演譜を推定して演奏します」。

 以上、簡にして要を得たトークだった。さて、いよいよ1曲目、オネゲルの交響曲第2番。張りのある音。いかにも20世紀の音だ。細かく組み込まれたディテールがよく把握されている。演奏に確信がある。歯切れがいい。

 2曲目はニールセンのフルート協奏曲。フルート独奏は竹山愛。東京シティ・フィルは昨年11月にはクラリネット協奏曲を演奏した。橋本杏奈のクラリネット独奏、阪哲朗の指揮だった。若い2人の女性がニールセンに取り組んでいることが頼もしい。ともに好演。なおフルート協奏曲では、オーケストラのクラリネットなどの細かい動きも光っていた。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第5番。冒頭のタタタターン、タタタターンの2番目のターンがディミヌエンドを付けて演奏された。なにか根拠があるのだろう。全体的に1曲目と同様、張りのある音でよく鳴っていた。ただ、第4楽章ではさらなる高みに上ってほしかった。
(2015.6.5.東京オペラ・シティ)
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マグリット展

2015年06月05日 | 美術
 マグリット展に行ってきた。本当はもっと早く行きたかったのだが、宮崎県立美術館所蔵の「現実の感覚」(1963年)の展示が5月13日以降だったので、じっと我慢していた。

 「現実の感覚」は名作「ピレネーの城」(1959年)の別ヴァージョンだ。「ピレネーの城」では、海の上に巨大な岩石が浮いている。その岩石の上部には城がある。一方、「現実の感覚」では、広大な山河の上に岩石が浮いている。その上に城はない。その代わり――なのかどうか――空には細い三日月がかかっている。

 いずれにしても、宙に浮いた巨大な岩石という、現実にはありえないイメージだ。ハッとする。これはなんだろうと思う。どんな意味があるのだろう――。そして同時に、美しさを感じる。でも、その美しさは説明できない。マグリット自身の言葉を借りれば‘詩’ということになるだろう。たしかにその言葉でしか言い表せない。

 題名にも躓く。「現実の感覚」とはなんだろう。今回の展示では、マグリット自身の解説が掲示されていた。でも、それを読んでもピンとこない。

 マグリットの楽しみ方は、イメージをそのまま受け取ること。分からなくても、分からない状態を受け入れること。そして題名は一つの解釈にすぎないと割り切って、自分の解釈を楽しむこと。――そんなことになるのではないだろうか。

 個々のパーツは具象的だ。広大な山河の眺め、巨大な岩そして細い三日月。でも、その岩が宙に浮いている。そのショックを受け入れたとき、現実を見るわたしたちの目が少し変わる。当たり前だと思っていたものが、当たり前に見えなくなる。

 前述したように「現実の感覚」は宮崎県立美術館の所蔵だ。本作に限らず、今回展示されている作品には、国内美術館所蔵の作品が多く含まれている。たとえば、昔わたしが初めてマグリットを好きになった「大家族」(1963年)は、宇都宮美術館所蔵だ。荒れた海。暗い雲。だが、水平線の彼方には、巨大な鳩のシルエットが浮かぶ。そのシルエットは青い空と白い雲でできている。平和のメッセージを感じた。

 その他の国内美術館の所蔵作品も、上質のものが多い。煩瑣になるので作品名は控えるが、美術館名だけ挙げると、横浜美術館、ポーラ美術館、新潟市美術館、メナード美術館、大阪新美術館建設準備室、姫路市立美術館……。

 日本は意外にマグリット大国なのかもしれない。
(2015.6.3.国立新美術館)

(※)本展のHP
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ダウスゴー/都響

2015年06月01日 | 音楽
 都響のB定期でサーリアホ(1952‐)のクラリネット協奏曲が演奏された。前日のオペラ「遥かなる愛」の演奏会形式上演とあわせて、ミニ・サーリアホ・フェスティヴァルの観を呈した。こういうことは、やはり仕掛け人がいるのだろう――。そうだとすれば、ありがたいことだ。またそれに応えた関係者の皆さんにも感謝だ。

 クラリネット協奏曲は2010年の初演。サーリアホの最新作の一つといってもいい。作曲のインスピレーションの源泉は、パリのクリュニー美術館にある6枚組のタペストリー「貴婦人と一角獣」だ。

 「貴婦人と一角獣」は中世美術の名品。嬉しいことに、2013年に来日した。わたしは東京の国立新美術館で見た。想像していたよりも大きかった。威風あたりを払う気品があった。会場は比較的すいていたので、心ゆくまで堪能した。

 サーリアホの本作は、6枚のタペストリーそれぞれに由来する6つの部分から成るが、ユニークな点はクラリネット奏者が会場を動き回ることだ。最初はオフステージから音を発し、次に客席に現れ、オーケストラの後方にまわり、指揮者の前に進み、最後は客席に下りて姿を消す――という具合だ。

 いうまでもないが、クラリネット独奏イコール‘一角獣’だろう。このようなパフォーマンスを伴う曲としては、下野竜也が何年か前の読響定期で取り上げたコリリアーノの「ハーメルンの笛吹き男」を想い出す。もっとも、音楽としては、「ハーメルン……」が――民話という出自を反映して――シンプルだったのに対して、本作はもっと技巧的だ。

 プレトークでサーリアホが語ったところによると、パリでこの連作タペストリーを見たとき、「一角獣ってどういう声を出すのだろう」と思ったそうだ。これには唸ってしまった。さすがは作曲家だと――。

 その言葉どおり、独奏クラリネットは、低くこもった――唸り声のような――音から、高音のきしるような音まで、楽音と雑音を織り交ぜて吹きまくる。暗い情熱から官能の悦びまで、まさに一角獣の声のように聴こえた。

 クラリネット独奏はカリ・クリーク。本作の初演者だ。オーケストラはトーマス・ダウスゴー指揮の都響。透明感のある音。反応も鋭敏。前日の「遥かなる愛」の欲求不満が解消した。

 プログラム後半はニールセンの交響曲第3番「広がりの交響曲」。堂々たる名演。デンマーク人の誇りが感じられた。
(2015.5.29.サントリーホール)
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