インキネン/日本フィルのマーラー撰集第4回。毎回シベリウスとの組み合わせになっている。今回は交響詩「夜の騎行と日の出」。めったに聴けない曲だ。所どころでいかにもシベリウスらしい音型が出てくる。演奏はインキネンらしくきめの細かい弦の音が特徴的だ。全体のすっきりした造形もインキネン的。
だが、シベリウスの交響曲全曲演奏を聴いた今となってみると、インキネンの本領はもっと後期の作品に発揮されるように思う。「夜の騎行と日の出」は完成こそ1908年だが(交響曲第3番のころ)、着手は1901年のイタリア旅行のときだ(松本學氏のプログラム・ノートによる)。そのイタリア旅行は交響曲第2番を生んだ(1902年)。たしかに「夜の騎行と日の出」に散見されるシベリウスらしい音型は、交響曲第2番のころのものだ。インキネンがほんとうにやりたいことは、もっと後期の作品のほうにあるのではないかという気がする。
誤解を避けるためにいうと、これはこれでよかった。いかにもシベリウスらしい曲という手応えがあった。でも、シベリウスらしいというそのイメージを超える新感覚が、インキネンにはあると思う。この曲はそういう曲ではなかった。
2曲目はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」。インキネンのきめ細かい弦の音はここでも生きていた。たとえば第1楽章の第2主題(いわゆる‘アルマの主題’)など、澄んだ美しい音で演奏された。とくに第3楽章が気に入った。甘美さとは一線を画した清澄な音の世界だった。
第4楽章もインキネンらしかった。身もだえするような、激情に駆られた演奏ではなくて、最後のところでバランス感覚を失わない演奏。オペラのようにドラマを語る演奏ではなくて、あくまでもソナタ形式の枠内に踏みとどまる演奏。金管など強烈な音を出しているにもかかわらず、だ。
だが、ワーグナーの「ワルキューレ」第1幕を聴いた今では、これはほんとうにインキネンのやりたいことだろうかという思いが残った。あのワーグナーはほんとうにすごかった。歌手もよかったが、インキネンもよかった。インキネンがあれほどワーグナーの深奥に触れる演奏をするとは思っていなかった。
それに比べるとこのマーラーは、インキネンの資質を表してはいるのだが、その資質とは別の資質というか、別の可能性も、インキネンには潜んでいるのではないかということも考えさせられた。
(2014.6.27.サントリーホール)
だが、シベリウスの交響曲全曲演奏を聴いた今となってみると、インキネンの本領はもっと後期の作品に発揮されるように思う。「夜の騎行と日の出」は完成こそ1908年だが(交響曲第3番のころ)、着手は1901年のイタリア旅行のときだ(松本學氏のプログラム・ノートによる)。そのイタリア旅行は交響曲第2番を生んだ(1902年)。たしかに「夜の騎行と日の出」に散見されるシベリウスらしい音型は、交響曲第2番のころのものだ。インキネンがほんとうにやりたいことは、もっと後期の作品のほうにあるのではないかという気がする。
誤解を避けるためにいうと、これはこれでよかった。いかにもシベリウスらしい曲という手応えがあった。でも、シベリウスらしいというそのイメージを超える新感覚が、インキネンにはあると思う。この曲はそういう曲ではなかった。
2曲目はマーラーの交響曲第6番「悲劇的」。インキネンのきめ細かい弦の音はここでも生きていた。たとえば第1楽章の第2主題(いわゆる‘アルマの主題’)など、澄んだ美しい音で演奏された。とくに第3楽章が気に入った。甘美さとは一線を画した清澄な音の世界だった。
第4楽章もインキネンらしかった。身もだえするような、激情に駆られた演奏ではなくて、最後のところでバランス感覚を失わない演奏。オペラのようにドラマを語る演奏ではなくて、あくまでもソナタ形式の枠内に踏みとどまる演奏。金管など強烈な音を出しているにもかかわらず、だ。
だが、ワーグナーの「ワルキューレ」第1幕を聴いた今では、これはほんとうにインキネンのやりたいことだろうかという思いが残った。あのワーグナーはほんとうにすごかった。歌手もよかったが、インキネンもよかった。インキネンがあれほどワーグナーの深奥に触れる演奏をするとは思っていなかった。
それに比べるとこのマーラーは、インキネンの資質を表してはいるのだが、その資質とは別の資質というか、別の可能性も、インキネンには潜んでいるのではないかということも考えさせられた。
(2014.6.27.サントリーホール)