Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ノリントン/N響&ラザレフ/日本フィル

2013年10月28日 | 音楽
 土曜日は台風27号の影響が危惧された。演奏会を2つ掛け持ちする予定だったので、さて、どうなるかと思っていた。幸いにも首都圏への影響はほとんどなかったので、無事に両方とも聴けた。

 まずN響の定期。指揮はロジャー・ノリントンでオール・ベートーヴェン・プロ。1曲目は序曲「レオノーレ」第3番。途中でホルンが派手に音をはずした。それは仕方ないのだが、演奏終了後ホルン奏者同士でニコニコ語り合っている光景は、申し訳ないが、緊張感が足りないようで――そうではないのかもしれないが――どうかと思った。

 2曲目はピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏はラルス・フォークト)。まず楽器配置に驚いた。ピアノが中央にあり鍵盤を客席に向けている。ピアノ奏者は客席に背を向けて演奏する。ピアノの弾き振りならいいが、ノリントンがいる。では、ノリントンはどこで指揮をするのか。ピアノの先端で椅子に腰かけて指揮をした。客席に向いて指揮をしたわけだ。木管奏者とホルン奏者には背を向けて!

 弦楽器の配置にも驚いた。ピアノを挟んで左側の手前に第1ヴァイオリン、奥にチェロ、右側の手前に第2ヴァイオリン、奥にヴィオラ。全員ノリントンのほうを向いて(客席に背を向けて)演奏した。トランペットとティンパニはヴィオラの後方、ノリントンを斜め後ろから見る位置で演奏した。

 こういう楽器配置だと、木管奏者とホルン奏者はどのように合わせるのか、また客席で聴こえる音はどう変わるのか、それらをつかもうとして、うまくつかめないうちに演奏が終わった観がある。我ながら情けないというか、面白かったというか。

 アンコールにショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調が演奏された。完璧にコントロールされた弱音による繊細極まりない演奏。息をつめて聴き入った。

 3曲目は交響曲第5番「運命」。ノリントン・ワールド全開の演奏。もしもベートーヴェンがこれを聴いたら、もじゃもじゃの髪を振り乱して、ライオンのように大笑いするだろうと想像した。

 終演後、横浜へ。日本フィルの横浜定期。ラザレフの指揮でチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(チェロ独奏は横坂源)とマーラーの交響曲第9番。マーラーが聴きものだった。まだ発展途上というか、とくに第3楽章まではラザレフの求める音と実際の音とのあいだにギャップがあるのか、強引さが目立った。
(2013.10.26.NHKホール&横浜みなとみらいホール)
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カルメル派修道女の対話

2013年10月26日 | 音楽
 矢崎彦太郎指揮東京シテイ・フィルの「カルメル派修道女の対話」。フランス音楽の彩(あや)と翳(かげ)シリーズの第20回だ。偶然だろうが、第20回という節目でこのような大曲が演奏されたことは、永く記憶されると思う。(注)

 ブランシュは浜田理恵。舞台に出てきたときから影を帯びた表情で、もうブランシュそのものだった。愁いのある歌唱にブランシュとしてのリアリティがあった。またフランス語の発音も自然だった。繊細な――繊細すぎるほど繊細な――ブランシュは日本人の歌手に合うのではないかと思った。今まで聴いたどのブランシュよりもしっくりきた。

 ブランシュだけではなく、他の役もよかった。まずマリー修道女長の秦茂子。声がよく、またフランス語も自然だった。フランスで活動している人だそうだ(浜田理恵もフランス在住だ)。しゃにむに殉教に導こうとするマリーではなく、落着いた姉のような存在のマリーだった。

 クロワシー修道院長の小林真理もフランス語が自然だった。プロフィールによると、この人もフランスを中心に活動しているようだ(以上の3人の歌手はフランス在住の矢崎彦太郎の人脈なのかもしれない)。クロワシー修道院長は第1幕の最後で亡くなるが、そのときの取り乱し方が大袈裟ではなく、自然だったのもよかった。

 後任のリドワーヌ修道院長は半田美和子。美しい舞台姿だ。その実力は周知のことだと思う。この人のフランス語は初めて聴いた気がする。美しいフランス語でとくに不満はないが、上記の3人のなかに入ると、発音がほんの少し強く感じられた。

 第2幕で女声合唱が入る場面では、合唱の一部が1階席の一番後ろで歌った。これはすばらしく効果的だった。ホール全体が大聖堂のなかのように鳴った。

 最後に修道女たちが処刑される場面では、修道女たちはオーケストラの後方のパイプオルガンの前に並んだ。ギロチンの音が鳴るたびに、まずリドワーヌ修道院長の半田美和子がこうべを垂れて腰を下ろし、そして次々に腰を下ろした。わずかこれだけの演出で処刑の悲劇が感じられ、胸に迫るものがあった。

 オーケストラもすばらしかった。プーランクの明るく弾けるような音、ハッとするような暗い影のある音、また――このオペラで顕著な――深く沈潜するような音など、このオペラを隅々まで描き出した。個別的には第1幕のクラリネット・ソロが印象的だった。
(2013.10.25.東京オペラシティ)

(注)このブログは演奏会の翌日に書きました。そのときはプログラムを読んでいませんでした。数日たって読んだら、矢崎さんのメッセージが載っていました。フランス音楽の彩と翳シリーズは「諸般の事情により」これで終了するそうです。残念。
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エドワード二世

2013年10月25日 | 演劇
 クリストファー・マーロウ(1564‐1593)の「エドワード二世」。シェイクスピア=マーロウ説(シェイクスピアの作品は実はマーロウが書いたとする説)でその名を記憶しているが、実際に作品を観るのは初めてだ。

 エドワード二世は実在の人物(在位1307‐1327)。英国史上最低の烙印をおされているそうだ(プログラムに掲載された石井美樹子氏のエッセイによる)。そのエドワード二世と王妃イザベラ、イザベラの愛人で野心家のモーティマー、その他の貴族たち、司教たちが繰り広げる血なまぐさい権力闘争が本作だ。

 シェイクスピアの「ヘンリー六世」三部作(およびその続編の「リチャード三世」)と似ているともいえるが、肌合いはそうとうちがう。シェイクスピアの場合はヒューマニズムが最後のところで支えているが、マーロウの場合はヒューマニズムなど糞くらえ、というところがある。この世のすべてを嘲笑い、己の欲望のためにはどんな手段も辞さない、そんな人生観がある。

 モーティマーが最後に権力をつかむ場面では、モンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠」を思い出した。両者には似たところがある。もっとも、ポッペアの場合は頂点に上りつめたところで終わるが、本作の場合はモーティマーが権力をつかんだその瞬間に転落して終わる。では、勧善懲悪か。そうとは感じられなかった。そんなものは寄せ付けない、なにかあからさまな――身も蓋もない――現実感覚があった。

 パワー全開の舞台だ。おそろしくテンションの高い舞台だ。そのテンションの高さが最初から最後までずっと続く。省エネタイプとは真逆だ。演劇とはこうでなければいけないと思った。

 演出は森新太郎。30代の若手だ。この公演は宮田慶子芸術監督が30代の若手演出家の3人にそれぞれ好きな作品を演出させる「Try・Angle」シリーズの第2弾だ。これは好企画だと思う。それに応えた森新太郎も見事だ。

 エドワード二世は柄本佑(えもと・たすく)。この世離れした「史上最低」(前述)の王をここまで演じられるのかと感心した。王の寵臣ギャヴィストンを演じた下総源太朗(しもふさ・げんたろう)の怪演にもまた圧倒された。王妃イザベラの中村中(なかむら・あたる)は、大勢(16人)の男たちにまじって紅一点、引けを取らなかった。(注)

 控えめながらフリージャズのような音楽も気に入った。
(2013.10.24.新国立劇場小劇場)

(注)中村中さんは戸籍上は男性だとのこと。コメント(↓)をいただいて初めて知りました。無知で申し訳ありません。
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ノリントン/N響

2013年10月21日 | 音楽
 ノリントン指揮のN響。1曲目はベートーヴェンの「エグモント」序曲。いつものノリントン節のベートーヴェンだが、それほど強烈ではなく、比較的おとなしかった。にもかかわらず、ブーイングが出た。かなり執拗だった。ノリントンのベートーヴェンがどういうものかを知っている人の、確信的なブーイングではないかと思った。もちろんブーイングを飛ばすのは自由だが。

 2曲目はブリテンの「夜想曲」。ブリテンは大好きで、この曲もCDでは聴いているが、生で聴くのは初めてだ。なので、ひじょうに期待していた。だが、意外なことに、舞台から伝わってくるものが希薄だった。内心慌てた。どうしてなのかと思った。

 たぶん期待が大きすぎたのだろう。事前にイメージが膨らみすぎて、実際の演奏に合わせることができなかったのだろう。自分の責任だ。でも、それを承知でいわせてもらうなら、テノール独唱のジェームズ・ギルクリストの歌唱は静的すぎたのではないか。この曲はもっと振幅の大きい音楽ではないだろうか。ブリテンの室内オペラのエッセンスのような音楽ではないかと思うのだが。

 3曲目は「ピーター・グライムズ」から「4つの海の間奏曲」。これは名演だった。こんなに美しい演奏は聴いたことがないと思った。ノリントンのイギリス音楽は、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番の澄んだ音に感動して以来、つとめて聴くようにしている。「4つの海の間奏曲」も忘れられない演奏になりそうだ。

 最後はベートーヴェンの交響曲第8番。これは驚くべき演奏だった。とくに第4楽章は、たとえていうと、ものすごく速いテンポのアニメで、いくつものキャラクターが、入れ代わり立ち代わり出ては消えていくような――そんなイメージが浮かんでくるような――演奏だった。

 ものすごく楽しい演奏だった。と同時に、N響の優秀さにも舌を巻いた。技術的にもすごいが、ノリントン一流の流儀を今やすっかり身につけたことがわかった。N響は伝統を墨守するようなオーケストラではなく、――納得さえすれば――柔軟性を発揮するオーケストラなのだと思った。

 終演後は大きな拍手とブラヴォーが起きた。でも、よく聞くと、ブーイングをしている人がいた。最初の「エグモント」序曲と同じ人かもしれない。そうだとすると、ノリントンに抗議するために来ているのかもしれない。それもまたよし。そういう人がいてもいい。
(2013.10.19.NHKホール)
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ラザレフ/日本フィル

2013年10月19日 | 音楽
 ラザレフ/日本フィル。プロコフィエフ、ラフマニノフと続けてきたチクルス演奏は、今回からスクリャービンが始まった。スクリャービンの全貌をつかむ、あるいは真正面から向かい合ういい機会になると思う。

 1曲目はチャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」。冒頭の「序奏」がものすごい勢いで始まったときには、正直いってびっくりした。咆哮するオーケストラ。ラザレフが感じるこの曲はこうなのかと驚いた。全5曲のすべてがそうだったわけではなく、オーソドックスに流す曲もあったが、最初の一撃のショックは大きかった。

 2曲目は武満徹の「ウォーター・ドリーミング」。フルート・ソロをともなうこの曲、首席フルート奏者の真鍋恵子がエレガントなドレスを着て出てきたときには、別人のように見えた。音のよさはいつものとおり。

 オーケストラは水彩画のように薄い音だった。この曲を生で聴くのは初めてなので、自信をもってはいえないが、武満徹の同時期の作品から類推するに、もう少しこってりした音であってもおかしくない気がした。もしかすると、ラザレフが感じる武満徹(=日本)の音はこうなのかと思った。

 3曲目はスクリャービンの交響曲第3番「神聖なる詩」。じつにきちんと、折り目正しく演奏されたスクリャービン。素直にその音楽に浸ることのできる演奏だった。スクリャービンの正統的な演奏というか、――おどろおどろしさで塗り固められた演奏ではなく――格調高く作品の真の姿を再現した演奏だった。

 大村新氏のプログラムノートによれば、第2楽章のヴァイオリン・ソロは「ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の第2幕を思わせる」とあるが、第2楽章全体が、鳥の鳴き声の模倣もあって、レスピーギの「ローマの松」の第3部「ジャニコロの松」のように感じられた。もっとも、「ジャニコロの松」は南国の甘い香りが充満する夜だが、スクリャービンのほうは北国の冷たく冴えわたった月夜のような感触だ。

 この曲あたりから顕著になるスクリャービンのトランペットの偏愛、そのトランペットはオッタビアーノ・クリストーフォリが吹いた。さすがに名手だ。安心して聴いていられた。1曲目と2曲目は別の人が吹いていて、やや不安定だった。スクリャービンでクリストーフォリが出てきたときにはホッとした。定期なのだから1曲目からベストメンバーで臨んでほしいと思うのだが――。
(2013.10.18.サントリーホール)
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リゴレット

2013年10月17日 | 音楽
 新国立劇場の「リゴレット」。10月3日のプレミエ以来5回目の公演なので、ほぼその完成型を観ることができたのではないかと思う。

 「リゴレット」は本年7月にチューリヒでも観ることができた。舞台にあるのは会議室用の机と椅子だけ。衣裳もスーツまたは普段着。究極の低予算だった。低予算だったけれども、頭を使っていて、面白く観ることができた。会議室で演じられるかのようなこの公演が、十分に「リゴレット」になっていた。

 それにくらべると、新国立劇場の「リゴレット」のなんと贅沢なことか。衣裳と装置にたっぷりお金をかけ、また歌手にもお金をかけていた。美しい舞台と壮麗な音。お金をかけただけのことはあると思った。

 リゴレットを歌ったマルコ・ヴラトーニの存在感がすごい。ほぼ出ずっぱりなのではないか――必ずしもそうではないのに――と思うほどの存在感だ。やや暗めの声質なので、イタリアオペラ的ではないが、リゴレットとしての説得力は並外れている。

 ジルダのエレナ・ゴルシュノヴァは細めの、クールな声質の持ち主で、旋律線がきれいに出る。そのくっきりした旋律線が、リゴレットの暗く、太めの声質と絡み合うとき、ヴェルディがこのオペラで目指したであろう光と影の絡み合いが実現したと感じられた。

 マントヴァ公爵のウーキュン・キムは「椿姫」以来だが、今回のほうがその実力がわかった。たんに甘い声だけではなく、ドラマティックな力強さを持ち合わせている人だ。

 指揮はピエトロ・リッツォ。イタリアオペラ的な解放感よりも、ドラマを掘り下げ、引き締め、メリハリを付けるタイプだ。暗くこもった音から薄い透明な音まで、多彩なパレットをもっている。この公演を成功に導いた立役者の一人だ。

 演出はアンドレアス・クリーゲンブルク。前回の「ヴォツェック」はこの劇場のオープン以来、トップクラスの公演だったと思うが、今回の「リゴレット」も真摯にドラマを追求した公演だ。ディテールは省略するが、そのコンセプトも個々の場面の作り方も、なるほどと納得する点が多かった。

 余談になるが、この日は早朝、台風26号が接近し、風雨が強まった。交通機関の乱れが予想されたので、5時に家を出て職場に向かった。なので、寝不足気味だったが、オペラのあいだは眠らずに済んだ。それだけ優れた公演だったと満足して帰宅した。
(2013.10.16.新国立劇場)
コメント (6)
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権代敦彦のオペラ

2013年10月16日 | 音楽
 サントリー芸術財団の「作曲家の個展」、今年のテーマ作曲家は権代敦彦(1965‐)だった。

 権代敦彦にはかねてより注目していた。その作品を聴く機会は今まで2~3回しかなかったが、その都度惹きつけられた。他の作曲家の作品と並べて聴く機会があったときは、けっして口当たりがいい曲とはいえないのだが、自分なりの思考へのこだわりが感じられた。借り物ではすまさない意思があった。

 当日は4曲演奏された。そのどれもが初めて聴く曲だった。十分に消化できたとはいえないので、中途半端な感想を書くことは控えなければならない。それから数日たって、プログラムに掲載されていた作品リストを見て、アッと思ったことがあるので、そのことをご紹介したい。

 当日初演の最新作「デッド・エンド」が作品番号139、その前の作品番号138が池辺晋一郎の古稀を祝って書かれた「秋(とき)」(本年9月に初演された)、そして作品番号137がオペラ「桜の記憶」とあった。オペラ?これはなんだろう?と思った。

 インターネットで検索してみると、5月26日の産経ニュースに行き当った。「日本のシンドラー」とか「命のビザ」とかといわれる第二次世界大戦中の外交官、杉原千畝をテーマにした作品だった。当ニュースではオラトリオとなっているが、最終的にはオペラになったようだ。

 ご存知のかたも多いだろうが、杉原千畝のエピソードについては、すでに一柳慧がオペラ「愛の白夜」を書いている。その初演も再演も観たが、初演のときの感銘にくらべて、再演のときの感銘は薄かった。なぜだろう、指揮者がちがうからか、ならば作品の真価はどうなのだろうと思った。

 同じテーマのオペラができたとしたら、これは喜ばしいことだ。そもそも杉原千畝は日本人が世界史にかかわった希少な例なので、オペラのテーマにするにはもってこいだ。

 オペラ「桜の記憶」は来年1月に初演される。場所はリトアニアのカウナス。杉原千畝がそこの日本領事館に赴任し、日本からの訓令に背いて、約6,000人といわれるナチスからの避難民(その多くはユダヤ人だった)にビザを発給した場所だ。

 台本はリトアニアの詩人リミダス・スタンケヴィシウスという人。リトアニア語のオペラなのだろう。指揮が西本智美というのも興味を惹かれる。さて、どんな作品になるのか。
(2013.10.11.サントリーホール)

↓産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130526/ent13052609110006-n1.htm
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スクロヴァチェフスキ/読響

2013年10月15日 | 音楽
 スクロヴァチェフスキ指揮の読響。来日中に90歳の誕生日を迎えた。当日は演奏会があり、アンコール(?)にオーケストラが「ハッピー・バースデイ」を演奏したそうだ。微笑ましい話だ。

 1曲目はスクロヴァチェフスキの自作「パッサカリア・イマジナリア」。演奏時間26分(プログラム誌による)の大作だ。大作だけれども、ちっとも飽きさせない。活発な音の動きを追っているうちに、あっという間に終わった観がある。スクロヴァチェフスキの自作曲は今までいろいろ聴かせてもらったが、そのどれもが面白く、これもまたそうだった。

 スクロヴァチェフスキの作品は、ルトスワフスキを代表とするポーランド楽派から派生したものだと思うが、そこに指揮者としての経験が加わり、またスクロヴァチェフスキ自身の個性である活発な音楽的思考が加わって、オーケストラを面白く聴かせる巧みさが特徴になっていると思う。

 ただ、この曲の場合、途中で不確定性の部分が出てくるが、今はそういう部分でちょっと古めかしさを感じるようになった――これはわたしだけかもしれないが――。スクロヴァチェフスキのことではなく、一つの時代の様式としてだが。

 2曲目はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。第1楽章はなぜか響きがまとまらない感じがした。第2楽章は――以前とくらべて――メロディーの角がとれ、音に湿り気が感じられた。ひょっとするとこれが今のスクロヴァチェフスキのスタイルかと思った。

 だが、そう思うのは早計だった。第3楽章になって、演奏は精彩を帯びてきた。音とリズムが引き締まり、いつものスクロヴァチェフスキが戻ってきた。トリオをはさんで主部が戻ってきたとき、演奏はさらによくなった。そして第4楽章は神々しいまでの演奏になった。どこがどうというよりも、全体として神々しい光を放っていた。今までスクロヴァチェフスキのブルックナー演奏の特徴だと思っていた精緻なリズムの絡み合い、そして精妙な各声部の絡み合いが、さらに一段上の次元に達したように感じた。

 演奏終了後、大きな拍手が起きた。スクロヴァチェフスキがコンサートマスターの手を引いてオーケストラを退場させたのちも拍手は続いた。再度登場するスクロヴァチェフスキ。それはいつもの光景かもしれないが、心のこもった暖かい交流が感じられた。わたしは拍手をしながら、スクロヴァチェフスキの、わたしにとっての意味を考えた。
(2013.10.12.サントリーホール)
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沼尻竜典/東京フィル

2013年10月11日 | 音楽
 東京フィルのヘンツェ特集。去年はリゲティを取り上げた。リゲティは初期の作品を中心に、いかにもリゲティという曲を選んでいたが、今年のヘンツェは渋い感じがしないでもない。そもそもヘンツェという作曲家がそうだ――リゲティのようにその名を聞いただけである種のイメージが浮かぶタイプではない――ということかもしれない。今回の指揮は沼尻竜典。その本領が発揮されるプログラムでもあった。

 1曲目はピアノ協奏曲第1番。ヘンツェ初期の作品。第1楽章「アントレ」、第2楽章「パ・ド・ドゥ」、第3楽章「コーダ」という具合にバレエ用語が付けられている。たしかに作品の発想にバレエがあるような気がする。ただし、バレエの甘さはない。バレエはもっぱらリズムや楽器法に影響していると思った。

 ピアノ独奏は小菅優。このくらいの曲なら難なく弾いてしまうという風情だ。いつの日かこの人でシェーンベルクのピアノ協奏曲を聴いてみたいと思った。なぜそう思ったのだろう。確かな技術の故か、それとも曲想が似ているのか。

 2曲目は交響曲第9番。交響曲とはいいながらも合唱が主役だ。全7楽章、そのすべてで合唱が出ずっぱりだ。合唱がアンナ・ゼーガースの長編小説「第七の十字架」からとられた7つの場面を歌う。なので、実感としては、たとえば「『第七の十字架』からの7つの場面」と銘打った合唱作品のような感じがした。

 「第七の十字架」は1942年に発表された反ナチスの作品だ。日本語訳も出ている。できれば読んでから聴きたかったが、その時間はなかった。でも、この曲を聴き、プログラムを読むと、どんな作品かよくわかった。ナチスの恐怖が(発表当時)リアルタイムで伝わってくる作品だったはずだ。

 ヘンツェの曲のほうは、正直にいうと、わたし自身その切実さを捉えきれないもどかしさを感じた。おそらくドイツで演奏すれば、ものすごく切実に捉えられる曲だろうに――。これは言葉の壁かもしれない。あるいはドイツと日本のそれぞれが背負う歴史のちがいかもしれない。

 部分的には第5楽章「墜落」のオーケストラによる後奏が、一番聴き応えがあった。その部分の音楽がもっとも濃密で、表現主義的で、また演奏もよかった。

 合唱は東京混声合唱団。超難曲であるこの曲をよくまとめたと思う。PAを使っていたが、これはオーケストラとのバランスをとるためだったろう。
(2013.10.10.東京オペラシティ)
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ミケランジェロ展

2013年10月06日 | 美術
 ミケランジェロ展。日本でミケランジェロ展が開催されること自体、――控えめにいっても――稀有なことだ。フィレンツェのカーサ・ブオナローティ(かつてのミケランジェロの住居。現在は美術館)の全面的な協力があって実現したもの。

 これは衆目の一致するところだと思うが、目玉は3点。一つは、いうまでもなく、ミケランジェロ15歳のころのレリーフ「階段の聖母」(チラシ↑に使われている作品)。美術全集に必ずといっていいほど掲載されている作品だ。でも、実物を観た感銘は大きかった。これは美しい。美しいと思った点を具体的に述べることがまだるっこいほど、パッと観て美しかった。

 あえていうなら、その繊細さ、立体感、大理石の色合い、といったことになるかもしれないが、ともかく写真で観るのとは大違いだ。これは実物を観るしかないと思った。

 実は、階段にいる子どもたちは、手すりで遊んでいると思っていたが、そうではなかった。階段は聖母の背後まで続いている横長のものだった。子どもが抱えている棒のようなものは、手すりではなかった。では、なにか。布を広げているところという説があるらしいが、はっきりしないそうだ。

 目玉のもう一つは「レダの頭部習作」。赤石墨で描かれたデッサンだ。その筆致の生々しさ、陰影の的確さ、今まさにミケランジェロの手が動いてこれを描いたような新鮮さがあった。

 展示作品の最後まで観て、もう一度この作品に戻った。夜7時半を過ぎていた。その部屋はガランとしていた。一人、この作品をじっと観ている人がいた。作品との距離は30センチくらいの近さ。なんとなく研究者のような気がした。敬意を表して、遠巻きに観るだけで、そっと立ち去った。

 もう一つはデッサン「クレオパトラ」。これもどの美術全集にも載っている。かねてから、なぜクレオパトラを描いたのだろうと思っていた。その直接の答えは得られなかったが、これはトンマーゾ・デイ・カヴァリエーリに捧げるための作品であったことを知った。カヴァリエーリは、当時57歳のミケランジェロが熱烈に愛した、若くて美しい青年だ。

 驚いたことには、この作品の裏面には別のデッサンが描かれていた。それは目をむき、口を開けた、破滅的な表情のクレオパトラだ。思わず顔をそむけてしまった。その脇には醜い老人の顔が描かれていた。カヴァリエーリにたいする愛憎の表れだろうか。
(2013.10.4.国立西洋美術館)

↓以上の3点は本展のホームページの「作品紹介」でご覧になれます。
http://www.tbs.co.jp/michelangelo2013/
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尾高忠明/東京フィル

2013年10月02日 | 音楽
 尾高忠明/東京フィルの「ベルシャザールの饗宴」をメインにした演奏会。主催は文化庁芸術祭執行委員会となっているが、制作は新国立劇場。実質的には新国立劇場の公演といってもいいのだろう。

 新国立劇場でオーケストラの演奏会が開かれたことは、今まであったろうか。たぶんあったのだろう。わたしは聴いたことがないので、今回が初めて。なので、新国立劇場の演奏会場としての適性が一番の興味の的だった。

 大劇場に入ると、舞台いっぱいにオーケストラ席が配置され、背後には合唱団の席が設けられている。舞台手前の両サイドには花が飾られている。照明も美しい。なかなか壮観だ。祝祭的な気分が盛り上がる。

 オーケストラが席に着く。しばしの間があって、皇太子ご夫妻がご臨席。会場から拍手が起きる。雅子さまもお元気そうで何よりだ。

 1曲目はディーリアスのオペラ「村のロメオとジュリエット」から間奏曲「楽園への道」。昔このオペラを一度観てみたいと思って、ドイツのある街に行ったことがある。公演自体はいい経験になったが、そのときの演奏にくらべて、この演奏のなんと繊細なことか。この曲に求められる繊細さの限りを尽くした観があった。

 2曲目はエルガーの連作歌曲集「海の絵」。この曲は初めてだったが、いい曲だ。交響曲などで馴染みの、ちょっとフォーマルなエルガーではなく、くつろいで、ロマン主義者の素顔を見せたエルガーだ。端的にいって、交響曲よりも聴きやすかった。メゾソプラノの加納悦子の独唱。本年2月の「グレの歌」の「山鳩」を想い出した。

 3曲目はウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」。何度か聴いたことのあるこの曲だが、その決定版というか、ついにその決定的な演奏を聴いたという感慨をもった。実にモチベーションの高い演奏、細部まで決まった演奏、さらにいえば祝祭性に富む演奏。この曲の金字塔となる演奏だと思った。

 合唱は新国立劇場合唱団。最近は皆さん絶賛なので、もうなにも付け加えることはないが、冒頭のアカペラの部分で一片の濁りを感じたのは、わたしの勘違いか。バリトン独唱は荻原潤。大編成のオーケストラと合唱に引けをとらないパワーがあった。

 この劇場が演奏会場として優れていることがわかったことも収穫だった(わたしの席は3階ライト)。ヨーロッパの古いオペラ劇場のデッドな音響とは一味ちがうことが功を奏しているのだろう。
(2013.10.1.新国立劇場)
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カエターニ/都響

2013年10月01日 | 音楽
 オレグ・カエターニ指揮の都響。今回はベートーヴェンとシューベルトというオーソドックスなプログラムだ。

 ベートーヴェンはピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はフランスのヴェテラン、アンリ・バルダ。なんというのか、特別なことはなにもやっていないのに、注意を逸らさせない演奏だ。楽々とした呼吸感があり、フレージングが明快で、その流れに乗っているうちに、音楽の襞に分け入っていく感覚になる演奏。

 オーケストラもそうだった。楽々とした呼吸感はピアノと同じ。これがあの――緊密に構築された――ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を振った人かと思うくらいだ。

 正直な話、音楽を聴いているときに、仕事のことや私生活のことを考えてしまうことが無きにしもあらずだが、この演奏には無心に耳を傾けた。無心になることができる演奏だった。

 シューベルトは交響曲第8番「ザ・グレート」。出だしこそベートーヴェンと同じ感覚の演奏だったが、楽章を追うごとに音が締まっていき、ずしんとした手ごたえが出た。第4楽章の終結部は「レニングラード」の鮮烈さを彷彿とさせた。

 それにしてもこの曲、ベートーヴェンの交響曲第7番と似ていると思った――そのような指摘があるのかどうか知らないが――。もう何回聴いたかわからない曲だが、ベートーヴェンの7番と似ていると思ったのは初めてだ。

 第1楽章の長大な序奏はベートーヴェンの第1楽章の長大な序奏を連想させる。また第2楽章の歩むような楽想はベートーヴェンと似ていると思った。第3楽章のダイナミックなスケルツォはまさにベートーヴェン的。第4楽章の畳み掛けるようなリズムの饗宴はベートーヴェンの第4楽章からヒントを得ているといってもおかしくない気がする。

 シューベルトはベートーヴェンの器を借りて自らの歌を歌っているのではないか、と思った。もしかするとその署名として、第4楽章にベートーヴェンの歓喜の歌を引用したのかもしれない――むしろそうだったらいいな――と思った。

 こんなことを考えたのは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を聴いた後だったからかもしれない。あの曲はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番との関連が指摘されているわけだが、そんなふうにベートーヴェンがモーツァルトと重なり、さらにシューベルトが重なっていく、そういう幸福な図式が見えた気がした。
(2013.9.30.東京文化会館)
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