Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アルディッティ弦楽四重奏団:オーケストラ・プログラム

2024年08月30日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024の最終日。アルディッティ弦楽四重奏団のオーケストラ・プログラム。オーケストラはブラッド・ラブマン指揮の都響。

 1曲目は細川俊夫の「フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~」。音の粒子がすさまじい勢いで飛び交う嵐のような曲だ。弦楽四重奏とオーケストラの境目は相互に侵食し合い、不分明な磁場のような音場を形成する。アルディッティ弦楽四重奏団の演奏と都響の演奏がシャープですばらしかったのはいうまでもないが、指揮のラブマンがこの曲を表面的にではなく、深く理解していることが感じられた。ラブマンは8月23日のマヌリのオーケストラ・ポートレートでも鮮烈な演奏を聴かせた(オーケストラは東響)。大変な実力の持ち主ではないだろうか。

 2曲目はクセナキスの「トゥオラケムス」。クセナキスが武満徹の60歳を祝うコンサートのために書いた曲。ファンファーレのような短い曲だ。弦楽器は16型、木管・金管は4管編成と大編成だ(総勢90人が指定されている)。濁りのない明るい音色が印象的だ。

 3曲目はクセナキスの「ドクス・オーク」。ヴァイオリン協奏曲だ。ヴァイオリン独奏はアーヴィン・アルディッティ。面白いことに、この曲は「トゥオラケムス」のハープを独奏ヴァイオリンに置き換えただけで、ほとんど同じ編成だ。だがオーケストラから出てくる音はだいぶ違う。不機嫌なダミ声のような音が鳴る。ギリシャ悲劇のコロスのように独奏ヴァイオリンを威嚇する。一方、独奏ヴァイオリンは微分音を交えたグリッサンドを連続する。弱々しくコロスに哀願するかのようだ。

 4曲目はマヌリの「メランコリア・フィグーレン」。1曲目の「フルス(河)」と同様に弦楽四重奏とオーケストラのための曲だ。元々はマヌリの「メランコリア:デューラーによせて」という弦楽四重奏曲があり、それを基に作られた曲だそうだ(須藤まりな氏のプログラム・ノートより)。全体は7つの小曲からなり、どの曲もスマートで洗練されている。ドビュッシー~ブーレーズ~マヌリと続く音楽の系譜を思う。

 余談だが、デューラーの銅版画「メランコリア」は国立西洋美術館も所蔵している。多くの形態(フィグーレン)が複雑に構成された作品だ。マヌリのこの曲はその細部の音によるイメージ化とも思える。

 終演後、マヌリが舞台に上がり、アルディッティ弦楽四重奏団とハグを交わした。今年のサントリーホールサマーフェスティバルは例年にも増して充実していた。テーマ作曲家のマヌリとプロデューサーのアルディッティがうまく絡み合い、車の両輪のように機能した。
(2024.8.29.サントリーホール)
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マヌリ:室内楽ポートレート

2024年08月28日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家フィリップ・マヌリ(1952‐)の室内楽ポートレート。1曲目は弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」。全11楽章の各々短い音楽からなる曲だ。演奏はタレイア・クァルテット。若い女性たちの弦楽四重奏団だ。第1楽章の激しい出だしから気合が入っていた。

 藤田茂氏のプログラム・ノートによると、この曲は2016年にアルディッティ弦楽四重奏団によって初演された。そのアルディッティ弦楽四重奏団が来日している。演奏会にはメンバーの何人かが聴きに来ていた。もちろんマヌリ自身も聴いている。そんな中での演奏は緊張しただろう。タレイア・クァルテットには良い経験になったのではないか。

 2曲目は「六重奏の仮説」。以下に述べる6人の奏者の目の覚めるような演奏だ。こんなに難しい曲を指揮者なしでよく演奏できるものだと感嘆する。演奏者を列記すると、フルート:今井貴子、クラリネット:田中香織、ヴァイオリン:松岡麻衣子、チェロ:山澤慧、マリンバ&クロタル:西久保友広、ピアノ:永野英樹。ベテランの永野英樹が入ったことが大きいかもしれない。

 3曲目は「イッルド・エティエム」。ソプラノ独唱とリアルタイム・エレクトロニクスのための曲だ。ソプラノ独唱は溝渕加奈枝。中世の異端審問官と魔女(とされる女)の二役を歌う。異端審問官の威圧的な歌唱パートが恐ろしい。溝渕加奈枝の渾身の歌唱だ。リアルタイム・エレクトロニクスは今井慎太郎。そこにサウンド・ミキシングでマヌリ自身が加わる豪華版だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、女声合唱になったり、ソプラノ独唱の声を増幅したりする。それらのサウンドが聴衆を取り巻く。

 余談だが、中世の魔女とは、男たちの女性にたいする怖れと、それが故の女性への抑圧衝動が生み出したものではないかと想像した。新国立劇場が2012年に上演したアーサー・ミラーの演劇「るつぼ」にも魔女騒動が出てくる。魔女は20世紀のアメリカの一部でも信じられていた。「イッルド・エティエム」は昔の話ではない。

 3曲目の後に休憩が入った。休憩中はずっとエレクトロニクスの教会の鐘の音が鳴っていた。その音が高まると、照明が落ち、ステージに永野英樹が登場して、4曲目の「ウェルプリペアド・ピアノ(第3ソナタ…)」が始まった。永野英樹のピアノ、今井慎太郎のエレクトロニクス、マヌリのサウンド・ミキシングによる演奏だ。エレクトロニクスは教会の鐘の音になったり、リズム楽器になったり、またピアノの音を変形し、さらには装飾を加えたりする。ピアノとエレクトロニクスの対等なデュオのようだ。この曲は2021年にバレンボイムがベルリンで初演した。
(2024.8.27.サントリーホール小ホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(2)&(3)

2024年08月26日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024。昨日は昼公演がアルディッティ弦楽四重奏団の室内楽コンサート(2)、夜公演が同(3)だった。

 室内楽コンサート(2)は、1曲目がエリオット・カーター(1908‐2012)の弦楽四重奏曲第5番。単一楽章の曲だが、内容は細かく分かれる。結果、頻繁にテンポが変わる。それを一気に聴かせる。聴かせ上手だ。ヴィオラが目立つ場面が何度もある。弦楽四重奏のヒエラルキーを破り、4人の奏者が対等に書かれている。

 2曲目は坂田直樹(1981‐)の新作「無限の河」。尺八の音の組成と演奏法を参照した曲だそうだが、わたしは単調に感じた。演奏のせいだろうか。3曲目は西村朗(1953‐2023)の弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」。坂田直樹の前曲とは対照的に変化に富み、ドラマがある。西村朗の資質はオペラ向きだったかもしれない。「紫苑物語」の台本が優れていたら、どんなオペラになったか。

 4曲目はハリソン・バートウイッスル(1934‐2022)の弦楽四重奏曲「弦の木」。各楽器がよく鳴る。そしてリズムが分かりやすい。最後に仕掛けがある。各奏者の後ろに椅子が用意されていて、一人また一人と後ろの椅子に移る。弦楽四重奏の解体のようだ。その後、一人ずつ演奏を終えてステージを去る。物語の終わりか。

 次に室内楽コンサート(3)。1曲目はブライアン・ファーニホウ(1943‐)の弦楽四重奏曲第3番。2曲目はジェームズ・クラーク(1957‐)の弦楽四重奏曲第5番。二人は「新しい複雑性」と呼ばれる作曲家だが、当日の作品は対照的だった。ファーニホウの曲は複雑なパッセージが猛スピードで疾走する。一方、クラークの曲は、アルディッティが書いたプログラムノーツによれば「凍りついた時間」だ。わたしはクラークの曲が面白かった。

 3曲目はロジャー・レイノルズ(1934‐)の「アリアドネの糸」。弦楽四重奏に加えて、コンピュータ生成の音響が入る。その音響がだんだん高まり、ついには弦楽四重奏を威嚇するまでになる。緊張の頂点で、テセウスが迷宮から出たかのように、音響は消える。

 4曲目はイルダ・パレデス(1957‐)のピアノ五重奏曲「ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス」。新作だ。ピアノ独奏は北村朋幹。断片的な音が跳躍する。ピアノは内部奏法を多用する。この曲はひょっとするとユーモラスな曲ではないかと。もっとも演奏にはあまりユーモアを感じなかったが。5曲目はクセナキス(1922‐2001)の「テトラス」。超絶技巧の曲だが、ファーニホウの曲は各奏者の超絶技巧であるのに対して、クセナキスの曲は弦楽四重奏の超絶技巧だ。演奏は見事の一語に尽きる。
(2024.8.25.サントリーホール小ホール)
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マヌリ:オーケストラ・ポートレート

2024年08月24日 | 音楽
 サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家はフィリップ・マヌリ(1952‐)だ。恒例のオーケストラポートレートは、マヌリが影響を受けた作品としてドビュッシーとブーレーズの作品が、またマヌリが将来を嘱望する作曲家としてヴェルネッリの作品が、そして(これも恒例だが)マヌリの新作が演奏された。演奏はブラッド・ラブマン指揮の東響。

 1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。リハーサルに十分な時間を割けなかったのか、演奏には余裕がなかった。ラブマンの指揮は明快だが、それはリハーサル不足を補うようだ。オーケストラはその指揮に慎重についていった。

 ところが2曲目のブーレーズの「ノタシオン」になると、水を得た魚のように、演奏に生気が生まれた。ブーレーズ特有の明るく上品な音色と眩いばかりのリズムの炸裂が現れた。東響の実力発揮だが、同時に指揮のラブマンの力量を感じた。

 3曲目はイタリア生まれの女性作曲家・フランチェスカ・ヴェルネッリ(1979‐)の「チューン・アンド・リチューンⅡ」。何かが蠢くような執拗なリズムの反復と、それにくさびを打ち込むような衝撃音が繰り返される。強迫観念か悪夢のようだ。オーケストラの鳴り方は鮮烈だ。

 4曲目はドビュッシーのピアノ4手連弾版「夢」をマヌリがオーケストレーションしたもの。東京オペラシティのコンポ―ジアム2019でも演奏された。そのときも感銘を受けたが、今回はヴェルネッリの前曲を聴いた後だったので、余計にその美しさが胸にしみた。

 5曲目はマヌリの新作「プレザンス」。クリアな輪郭の音像が立ち上がる。その展開の仕方は不定形で、予想のつかないところがある。未知の領域に踏み込むようだ。マヌリの電子音楽での経験の蓄積が反映しているのかもしれない。ラブマン指揮東響の演奏は、濁りのない透明な音を鳴らして見事だった。

 「プレザンス」ではオーケストラは扇状になって指揮者を囲む。最後には各々4人の2グループがオーケストラから去り、客席で演奏したのち、客席を出る。「プレザンス」は三部作の3曲目だ。1曲目の「予想」では各々5人の2グループが客席から演奏しながら近づき、オーケストラに加わるそうだ。三部作を通して聴くと、「プレザンス」の最後は「予想」に対応するのかもしれない。マヌリは細川俊夫との対談で「(引用者注:2世紀以上にわたるオーケストラのあり方とは)異なる方法でオーケストラを扱うことは充分に可能だと示したい」と語る。「プレザンス」はマヌリが立てたオーケストラ音楽への問いかもしれない。
(2024.08.23.サントリーホール)
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アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(1)

2024年08月23日 | 音楽
 恒例のサントリーホールサマーフェスティバルが始まった。今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティ(1953‐)だ。アルディッティ弦楽四重奏団は1974年に結成された。今年は創立50周年。アルディッティは昨年自伝を出版した。そこには彼らの50年間にわたる出来事が記されているそうだ。

 アルディッティは今回3つの室内楽コンサートと1つのオーケストラ・プログラムを組んだ。3つの室内楽コンサートは、武満徹の「ア・ウェィ・ア・ローン」を除いて、すべてアルディッティ弦楽四重奏団に献呈された曲で組まれている。しかも(新作を除いて)プログラム・ノートもすべてアルディッティ自身が書くという力の入れようだ。

 昨夜はその第1回。アルディッティは演奏に入る前に短いスピーチをした。「昨年から今年にかけて私たちの親しい友人だった西村朗、リーム、湯浅譲二が亡くなった。この演奏会を彼らに捧げます」という内容だった。

 1曲目は武満徹(1930‐96)の「ア・ウェイ・ア・ローン」。アルディッティはプログラム・ノートに「弦楽四重奏はしばしばリズム的にユニゾンで動き、対位法を提示することはほとんどない」と書いている(向井大策訳)。なるほど、それがこの曲の(西洋人から見た)特徴かと納得する。演奏はその曲の細かい部分にドラマを見出すものだった。

 2曲目はジョナサン・ハーヴェイ(1939‐2012)の弦楽四重奏曲第1番。針のように細く鋭い音が飛び交う曲だ。静から動へ、そして最後には静に戻るという大きなドラマの流れがある。武満徹の平面的な(もしくは水平方向の)曲の流れとは異なる。

 3曲目は細川俊夫(1955‐)のピアノ五重奏曲「オレクシス」。ピアノは北村朋幹。今年3月にベルリンで今回と同じメンバーで世界初演された曲だ。今回は日本初演。ピアノが短長のリズム(タタン)を繰り返す。水の滴りのようだ。リズムにヴァリエーションが加わる。弦楽器が衝動的な音を絡ませる。音楽が緊迫して爆発する。それが何度も繰り返される。最後の爆発は地獄の底を見るようだ。一種の分かりやすさのある構成だ。北村朋幹のピアノのみずみずしさと、そこからは想像もできないピアノを破壊するような激しさと、その振れ幅の大きさに息をのむ。

 4曲目はヘルムート・ラッヘンマン(1935‐)の弦楽四重奏曲第3番「グリド」。1曲目の武満徹とは対照的に、緊密かつ繊細な対位法が張り巡らされた曲だ。ラッヘンマンらしくノイズも出てくるが、それは音楽の展開上必然性があり、そのノイズさえも美しいと感じさせる演奏だ。水際立った演奏だった。
(2024.8.22.サントリーホール小ホール)
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濱田芳通/アントネッロ「リナルド」

2024年08月18日 | 音楽
 濱田芳通が率いる古楽演奏団体アントネッロはいつか聴いてみたいと思っていた。やっとその機会が訪れた。濱田芳通の第53回(2021年度)サントリー音楽賞の受賞記念コンサートだ。曲目はヘンデルのオペラ「リナルド」。

 評判通り、ビート感のある表情豊かな演奏だ。弦楽器の澄んだ音色、木管楽器の個性的な演奏、ティンパニだけではなくタンバリンなどを加えた打楽器の多彩さ、そして通奏低音の精彩ある演奏など、聴きどころが満載だ。日本にはいつのまにかアントネッロとバッハ・コレギウム・ジャパンという互いに個性を競い合う古楽アンサンブルが2つできていた(各々の個性は鈴木雅明・優人と濱田芳通の個性からくるわけだ)。

 第1幕の鳥のさえずりは濱田芳通のリコーダー演奏で表現された。目の覚めるような妙技だ。即興的な演奏だったのだろう。第2幕の冒頭には日本語のギャグが置かれた。わたしは冗長に感じたが、けっこう受けていた。第2幕の最後のアルミーダのアリアは激烈なチェンバロ・ソロを伴うが(初演の際はヘンデル自身が弾いたという)、そのチェンバロ・ソロがいつ果てるとも知れずに延々と続き、笑いを誘った。

 当演奏の特徴はレチタティーヴォの扱いにあった。濱田芳通の「演奏ノート」によれば、濱田芳通は「レチタティーヴォについて、昨今の演奏では「喋る」要素が強すぎると感じており、オールドファッション的に「歌う」感じを大切にしました」という。オールドファッションとは「バロック初期のレチタールカンタンド様式、そして、戦前の巨匠時代の演奏という二つの意味合いがあります」と。

 それはそれで一つの行き方だろうが、上記の日本語のギャグが典型的に示すような演出上の「緩さ」が随所に加わり、全体的には(アントネッロの演奏の生きのよさにもかかわらず)オペラ進行の冗長さを生じた。

 歌手ではリナルドを歌ったカウンターテナーの彌勒忠史が健在だった。また、わたしには未知の歌手だったが、アルミーダを歌ったソプラノの中山美紀の切れ味のよさに度肝を抜かれた。その他、エウスタツィオを歌ったカウンターテナーの新田壮人に注目した。アルミレーナを歌った中川詩歩はアリア「私を泣かせてください」のダカーポ後の部分で華麗な装飾を聴かせた。

 あとは余談だが、十字軍の「英雄」リナルドを主人公とし、最後には異教徒がキリスト教に改宗するというこのオペラを、現代においてどう演出するか‥。今回の中村敬一の演出はリナルドを幼児的に描いたが、それだけでは問題の核心には届かない。
(2024.8.17.サントリーホール)
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浅田次郎「帰郷」

2024年08月14日 | 読書
 浅田次郎の「帰郷」には6篇の短編小説が収められている。どれも太平洋戦争にまつわる話だ。一種の戦争文学だが、戦闘場面は「鉄の沈黙」にしか出てこない。しかも「鉄の沈黙」でさえ戦闘場面は最後の一瞬に過ぎない。大半はその前夜の話だ。

 6篇中、戦争中の話は「鉄の沈黙」と「無言歌」の2篇だけだ。「無言歌」は戦争中の話ではあるが、戦闘場面は出てこない。太平洋の底に沈んだ潜水艦の話だ。潜水艦は故障して航行不能になる。乗員は2人。だんだん酸素が乏しくなる。2人は銃後に残した女性の話をする。不思議なくらい穏やかな会話だ。最後の言葉が胸をうつ。

 残りの4篇は戦後の話だ。「夜の遊園地」を例にとって内容に触れると――時は戦後復興が始まったころ。所は東京の後楽園遊園地。主人公はアルバイトの大学生だ。父親は戦死した。母親は主人公を実家に預けて再婚した。主人公は伯父に育てられた。

 夜の後楽園遊園地に親子連れが訪れる。父親と息子だ。息子がジェットコースターに乗りたいとせがむ。だが、父親は乗ろうとしない。頑固に反対する。息子は泣きべそをかく。なぜ父親は反対するのか。どうやら戦争中に飛行機で墜落しかかったことがあるらしい。その記憶がトラウマになっているのだ。

 2つ目の遊戯施設はミラーハウスというもの。鏡とガラスでできた迷宮だ。主人公が中に入る。先に進もうとすると行き止まりになったり、戻ろうとすると向こうから自分が歩いてきたりする。そのとき母親と子どもの姿を見る。2人は互いに求めあっているが、すれちがう。2人は出会えない。主人公は別れた母親を想う。

 3つ目はお化け屋敷だ。親子連れが中に入る。だが、出てこない。心配した主人公が中に入る。すると息子が一人でたたずんでいる。父親は地面にうずくまり、震えながら両手を合わせている。目の前にはちぎれた人間の足にかぶりつく老婆の人形がある。父親は南方戦線の体験がよみがえったのだ。

 閉園の時間になる。主人公は掃除をしながら、明日は久しぶりに母親に電話をしようと思う。自分を捨てた母親へのわだかまりが消える。生きるためには仕方がなかったと、母親を受け入れる気持ちが芽生える――という話だ。-

 浅田次郎はわたしと同い年だ。「夜の遊園地」にはわたしが子供のころに見た風景が描かれている。まるで古いアルバムの写真を見るようだ。わたしはそこに自分を探す。わたしたちの世代は、「自分は何者か。どこから来たのか」と自分探しをするとき、親の戦争体験にぶつかる。「夜の遊園地」をふくむ「帰郷」の6篇は、親の世代の戦争体験をさぐる作品だ。
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東京ステーションギャラリー

2024年08月10日 | 美術
 東京ステーションギャラリーで「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展が開かれている。チラシ(↑)に惹かれて行ってみた。

 チラシに使われた作品は「月世界旅行」(1981 水彩)だ。カバンが三日月なのがユーモラスだ。帽子をかぶった男はリトル・ハット・マン。フォロンの作品になくてはならないキャラクターだ。多くの作品に登場する。フォロンの分身だ。本展の表題にある「空想旅行案内人」とはフォロンの名刺にあった言葉だそうだ。フォロンの自己イメージであるとともに、リトル・ハット・マンのことでもあるだろう。

 「月世界旅行」は色彩の淡さと透明感が印象的だ。それがフォロンの特徴だ。加えて、全体にただようユーモア。押しつけがましさは一切ない。飄々として軽妙だ。鑑賞者は身構えることなくスッと作品に入って行ける。

 だが、たんにそれだけのアーティストかというと、そうではない。たとえば「もっと、もっと」(1983 墨、カラーインク、水彩、色鉛筆、コラージュ)は、大きなガラス製の水槽を描く。中にいるのは魚ではなくて、ミサイルだ。水槽の左右から手が伸びる。左からはアメリカの手が、右からソ連の手が。それぞれの手は水槽の中に餌を入れる。もっと、もっとミサイルが増えるようにと。

 そのような問題意識があったからだろう、フォロンはアムネスティ・インターナショナルの依頼に応じて、「世界人権宣言」に挿絵を描いた(1988 水彩)。第二次世界大戦の反省に立ち、人権を高らかに謳い上げた「世界人権宣言」だが、フォロンの描いた挿絵は、理想の表現だけではなく、理想とは裏腹の現実を描いたものもあった。たとえば第3条「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。」につけた挿絵は、3本の絞首台が並び、3人の人間が首を吊られる光景だ。そこに一羽の白い鳥が飛ぶ。

 「世界人権宣言」は序文と30の条文からなる。フォロンが挿絵を描いたのは、序文と18の条文だけだ。残りの12の条文には挿絵をつけなかった。なぜだろう。もともと30の条文すべてに挿絵をつけるつもりはなかったのか。それとも理想と現実とのギャップに行き詰まったのか。

 フォロンは1934年にベルギーで生まれ、長らくパリの近郊に住み、2005年にモナコで亡くなった。挿絵、ポスターなどの多方面で活躍した。わたしは本展では1980年代以降の水彩画に惹かれた。たとえば「ひとり」(1987 水彩)という作品。蜃気楼のように浮かぶ山や高層ビルを前にリトル・ハット・マンが佇む。淡く透明な美しさに言葉を失う。
(2024.8.8.東京ステーションギャラリー)
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湯浅譲二の逝去

2024年08月06日 | 音楽
 作曲家の湯浅譲二(1929‐2024)が7月21日に亡くなった(写真↑はWikipediaより)。がっくりして元気が出ない。

 湯浅譲二の姿を最後に見たのは、5月28日に東京オペラシティで開かれたN響のMUSIC TOMORROW 2024のときだった。湯浅譲二の「哀歌(エレジィ)― for my wife, Reiko ―」が尾高賞を受賞し、その表彰式と演奏が行われた。湯浅譲二は体調不良が伝えられていたので、表彰式に出席できるかどうか危ぶんだが、車椅子に乗って現れた。ファンとしては姿を見せてくれただけでもありがたいが、だいぶ弱っていた。「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏された。湯浅譲二は客席で聴いたようだ。湯浅譲二が演奏会場で自作を聴く、あれが最後の機会になったろうか。

 「哀歌(エレジィ)」は、2008年に玲子夫人が亡くなり、しばらく作曲ができなかった湯浅譲二が、メトロポリタン・マンドリン・オーケストラからの委嘱を受けて、玲子夫人の追悼のために書いた曲だ。そのため原曲はマンドリン・オーケストラのための曲だが、2023年に弦楽合奏とハープ、ピアノ、ヴィブラフォン、ティンパニのために編曲した。湯浅譲二の慟哭の想いが込められた曲だ。その感情の濃さに息をのむ。2023年の初演は杉山洋一指揮都響の演奏だった。それも良かったが、今度のペーター・ルンデル指揮N響の演奏も良かった。

 わたしは湯浅譲二の作品が好きだが、どれか1曲挙げることは難しい。あえていくつか挙げれば、「オーケストラの時の時」(1976)、「クロノプラスティクⅡ」(1999)、「クロノプラスティクⅢ」(2001)などになる。「クロノプラスティクⅡ」には「E.ヴァレーズ讃」、「クロノプラスティクⅢ」には「ヤニス・クセナキスの追悼に」という副題がつく。ヴァレーズとクセナキスは20世紀音楽で流派を作らなかった単独者だ。湯浅譲二もそれに連なるように思う。3人は誇り高き単独者たちだ。

 湯浅譲二の姿は演奏会でよく見かけた。80歳代になってからもよく見かけた。わたしは心の中でそっと敬意を表した。

 忘れられないエピソードがある。2014年に世田谷美術館で「実験工房」展が開かれた。関連プログラムで、中川賢一のピアノ・リサイタルが開かれた。曲目は武満徹のピアノ作品集とメシアンの「アーメンの幻影」(共演は稲垣聡)だった。会場には湯浅譲二も来ていた。予定外だったようだが、湯浅譲二が話をした。「アーメンの幻影」は実験工房が初演したそうだ。事前に秋山邦晴がある音楽評論家に来場を依頼したら、「ほう、メシアンか、有名になったら聴きに行くよ」といわれたそうだ。その音楽評論家は武満徹の「2つのレント」を「音楽以前である」と書いた人だ。
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ヴォルフガング・リームの逝去

2024年08月02日 | 音楽
 ドイツの作曲家のヴォルフガング・リーム(1952‐2024)が7月27日に亡くなった。昨年はフィンランドの作曲家のカイヤ・サーリアホ(1952‐2023)が亡くなった。わたしと同世代の作曲家が一人また一人と亡くなる。

 リームの名前は「新ロマン主義」という言葉とともに、素人の音楽好きにすぎないわたしにも比較的早い時期から(1970年代だったと思う)伝わった。だが、就職したばかりで仕事に追われていたわたしは、リームの音楽を探して聴く余裕がなかった。

 初めてリームの音楽に向き合ったのは、2003年10月の読響の定期演奏会でゲルト・アルブレヒト(当時の常任指揮者)が「大河交響曲に向かってⅢ」を演奏したときだ。ダイナミックな音のうねりに目をみはった。上掲のCD(↑)は別の指揮者とオーケストラの演奏だが、それを聴くと、アルブレヒトと読響の演奏を思い出す。

 そのころからリームの音楽を聴く機会が増えた。そして決定的な経験になったのは、2015年のザルツブルク音楽祭で「メキシコの征服」を観たことだ。スペインによるメキシコ征服を扱った音楽劇だ。台本は断片的かつ抽象的な言葉が並ぶだけ。それをどう舞台化するかは演出家に委ねられる。

 ザルツブルク音楽祭では、ペーター・コンヴィチュニーが演出を担当した。瀟洒な家にメキシコのアステカ王朝のモンテスマ(リームの音楽では女声が当てられる)が住む。そこにスペインの征服者のコルテスが現れる。親しく語らう二人。だがコルテスがモンテスマの体を求めると、いさかいが起きる。あっという間に激しい戦いになる。その戦いは会場のフェルゼン・ライトシューレの大空間いっぱいに飛び交うコンピュータ・ゲームの映像で表現される。モンテスマの家は無残に破壊される。指揮はインゴ・メッツマッハー。巨大な音響を見事にコントロールした演奏だった。

 「メキシコの征服」が驚くほどおもしろかったので、「ハムレット・マシーン」も観てみたくなった。その機会はすぐに訪れた。2016年1月にチューリヒ歌劇場で上演予定があったので、それを観に行った。「ハムレット・マシーン」はハイナー・ミュラーの戯曲だ。日本語訳が出ているので、事前に読んだ。断片的で錯乱した言葉が並ぶ。それをどのように上演するかは演出家に委ねられる。チューリヒ歌劇場ではセバスティアン・バウムガルテンの演出だった。詳細は省くが、ファシズムに抵抗するハイナー・ミュラーが敗北する‥という演出だった。指揮はガブリエル・フュルツ。引き締まった演奏だった。

 チューリヒ歌劇場にはリームが来ていた。大男だ。元気そうだった。カーテンコールではステージに上がり、出演者に盛んに拍手を送っていた。
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